「最近、流行りの婚約破棄って憧れてしまうわ」
伯爵令嬢のレイナは、情熱的な舞台を見たあとで、俳優達の熱演に酔いしれながらうっとりと不謹慎なことを言ってしまった。
だから、その一月後に行われたレイナの誕生パーティーで、自分の婚約者と、その婚約者に恋人のように寄り添う見知らぬ美しい女性を見て、レイナは『罰が当たったのだわ』と思った。
*
一時間前。
レイナは、婚約者アルベルトの姿が見当たらず会場を見渡していた。
(やっぱりアルは、来れないのかしら?)
レイナには、いつも伯爵家まで迎えに来てくれて、エスコートをしてくれる優しい婚約者がいた。
その婚約者である、侯爵令息のアルベルトが、今日は時間になっても現れなかった。
『急用で来れなくなったのかも?』と思ったが、連絡もないので遅れているだけかもしれない。
代わりに弟ロニーのエスコートを受けてレイナは会場へと入り、アルベルトの姿を探していた。誰かに聞いてみようと思ったが、会場内に親しい友人が何故か見当たらない。
「まったく、アルベルト兄さんには困ったものです」
「いつもは、このようなことはないのよ」
「そうは言っても、最近、姉様に会いに来ていないようですし、今日は姉様の誕生パーティーなんですよ!? どんな用事があるにしろ、遅れるなんて絶対に許せない!」
語気を荒くする弟を宥《なだ》めるためにレイナは「私は大丈夫よ」と微笑んだ。
ただ少しだけ不安な気持ちもあった。
最近、貴族の間では『婚約破棄』というものが流行っている。それは、親同士が決めた婚約を『真実の愛に目覚めた』という理由で一方的に高位の男性側から破棄する行為だった。
元を辿れば、他国の王子が、公爵令嬢との婚約を破棄し、隣国の姫と結婚したことに始まるが、それが世間に衝撃を与えとても刺激的だったため、『婚約破棄』は多くの小説にえがかれ、舞台化までされている。
レイナも初めて小説を読んだ時は驚き、見事にハマってしまい舞台を何回も観に行った。舞台では、王子のお相手は平民の女性に脚色されていて、またそれが非現実的で楽しいのだ。
(王子と平民女性との切ないロマンスがとっても良いのよね!)
そして、王子を愛している美しい公爵令嬢が、嫉妬の余り闇へと落ちていくのもいい。悲しみと憎しみ、そして、王子への執念とも呼べるような深い愛。その激しい感情を、圧倒的な演技力で演じる女優がいて、レイナは彼女の大ファンだった。
ただ『婚約破棄』は、お話の中での出来事であって、礼節を重んじるこの国ではあり得ない。逆にあり得ないことだからこそ、これほどまでに人気が出たとも言える。
(それに、あの優しいアルに限って『婚約破棄』はないわね)
最近、会いに来てくれないのはきっと忙しいから。
今日、来られなかったのも、何か理由があるに違いない。
少しでも不安に思ってしまった自分にレイナはあきれて苦笑した。
その時、バンッと勢い良くパーティー会場の扉が開いた。一斉に人々は扉のほうを見た。そこには、レイナの婚約者、アルベルトが立っていた。
(アル?)
いつもの優しい笑顔ではなく、アルベルトの顔は見たこともないくらい真剣だ。いつのまにか会場の音楽が鳴り止んでいる。
静まり返った会場にアルベルトの靴音だけが響いた。アルベルトはレイナの真正面で立ち止まると、レイナに向かって勢い良く右手を突き出した。そして、会場中に響き渡る声でこう宣言した。
「レイナ、君との婚約を破棄する! そして、私はここにいるシャーロットに真実の愛を捧げよう」
アルベルトがまるで舞台役者のような仕草で、その場にいた一人の女性に右手を差し出す。シャーロットと呼ばれた女性は嬉しそうに頬を染めてアルベルトの側に駆け寄った。
「アルベルト様!」
「シャーロット!」
恋人同士のように寄り添う二人をレイナは呆然と見つめていた。そして、ふと我に返った。
(こ、これは……正《まさ》しく婚約破棄!!)
小説や舞台で幾度となく見たあの婚約破棄が、今、目の前で行われている。
(しかも、私が悪役令嬢!)
二人の真実の愛を邪魔しているのだ。
「アル……」
レイナが名を呼ぶとアルベルトはビクッと身体を震わせた。
「今のこと、本当なの?」
「え、あ」
はっきりしないアルベルトが、隣にいたシャーロットに笑顔のまま肘鉄をお見舞いされたように見えたのは気のせいか。
「も、もちろんだ! 君との婚約は破棄だ!」
「……そう」
アルベルトの意思は固いようだ。レイナはとても悲しくなった。舞台のように憎しみや嫉妬の気持ちは湧き起こらない。ただただ、悲しいだけだった。
(アルは他に好きな人がいたのね。それなのに、今まで私と婚約していたばかりに辛い日々を……)
優しいアルベルトのことだ。きっと一人で今までたくさん苦しんだのだろう。
(でも、私は楽しかった……)
アルベルトと何気ないことを話して笑い合ったり、将来のことを語ったり。あの笑顔や言葉が全て嘘だったとは思えない。
アルベルトを見つめると、サッと視線を逸らされた。彼の愛を得たシャーロットは、勝ち誇ったようにレイナを見ながらアルベルトの腕にそっと手を添えた。
心が切り裂かれたように痛い。
「ねぇ、アル……。私が婚約者だったから、今まで優しいふりをしてくれていたの……?」
アルベルトの顔が歪んだ。それは今まで見たことがないような苦しそうな表情だった。
(そうだわ。私は悪役令嬢なのだから、もう何を言っても彼の気持ちは戻ってこないのね)
レイナはスカートを少し持ち上げ軽く膝を曲げた。
「分かりました。……お幸せに」
「レイナ」
アルベルトに名を呼ばれるのもこれが最後だろう。そう思うと涙が滲んだ。このままここにいれば、無様にも泣いてしまう。貴族として伯爵家の令嬢として、それだけは許されない。
レイナはアルベルトに背を向けて静かに歩き出した。
「レイナ!」
なぜか追いかけてきたアルベルトに左手首をつかまれた。
「待ってくれ、レイナ!」
アルベルトがこれ以上、何を言うのか怖くて聞きたくなかった。ただ、これだけは伝えたかった。
「アル、貴方を……愛してしまって、ごめんなさい」
そのとたんにアルベルトは叫んだ。
「もう良いだろう!」
会場中に声を響かせたあとに、アルベルトはレイナの弟のロニーを睨みつけた。
「早く! 早くアレを出してくれ!」
ロニーは「なんのことですか?」を眉をひそめた。
「何って、アレだ! ほら、早くレイナに事情を!」
アルベルトの言葉を遮り、ロニーがレイナの元に駆け寄って来た。
「姉様、大丈夫ですか!?」
ロニーは、青い瞳に涙を浮かべて、レイナの手をぎゅっと握る。
「アルベルト兄さんは、なんて酷い男なんだ! 姉様、あんな男のことなんて、さっさと忘れてしまいましょう!」
ロニーがそっと抱きしめてくれた。気丈に振る舞っていたが、本当は足が震えて今にも倒れてしまいそうだったので弟の好意に甘えてレイナは身を任せた。
そのとたんに、アルベルトに強く腕を引かれロニーと引き離された。肩を抱き寄せるアルベルトをレイナは驚き見上げた。
「あ、アル?」
アルベルトは、ロニーを睨みつけている。
「ロニー! なんのつもりだ!?」
「兄さんこそなんのつもりですか? あ、もう婚約破棄したので、兄さんではなかったですね。どうか、そちらのシャーロットさんとお幸せに」
ロニーは両手を広げて「さぁ、姉様はこちらへ」と微笑んだ。
「ロニー……お前、騙したな!?」
「人聞きが悪いですね。貴方から一方的に婚約破棄を宣言しておきながら、何を今更」
「アレは、レイナが『婚約破棄に憧れているから、サプライズでプレゼントしよう』と、お前が言い出したんだろうが!」
ロニーは「なんのことだか?」と呆れている。
「お前の提案のせいで、俺は演劇の稽古まで受けることになったんだぞ!? そのせいでレイナに会う時間が取れなくて、どれほど辛かったか!」
「はぁ? なんのことだか? アルベルト様は妄想癖でもあるんですかねぇ?」
「こんの、腐れシスコン野郎! レイナの前でだけ良い子ぶりやがって!」
「何だと!? アンタみたいな裏表の激しい奴にだけは言われたくないね! 姉様の前でだけ紳士ぶりやがって!」
「俺はレイナに出会って変わったんだよ!? 優しくて聡明で美しいレイナに相応しい男になっただけだ!」
「それを騙してるって言うんだよ! 本当は素行が悪くて侯爵家で爪弾《つまはじ》きにされていたくせに!」
「そうだよ! お前がレイナに近寄る男を全て追い払いまくったから、俺みたいな男しか残らなかったんだろうが! 事情はどうあれ、レイナに出会わせてくれたから、今まで見逃してやっていたものを!」
「姉様は結婚なんてしなくていいんだよ!? ずっと僕の側にいるんだ!」
お互いの襟首をつかみながら感情的になっている元婚約者と弟を、レイナは呆然と見つめていた。
(いったい……何が?)
いつも穏やかで優しい二人が乱暴な言葉を使って罵り合っている。
レイナが状況把握に困っていると、アルベルトの真実の愛のお相手、シャーロットが近づいてきた。何を言われるのかと咄嗟に構えると、シャーロットはレイナに向かって深く頭を下げた。
「お嬢様、この度はお誕生日おめでとうございます。何やら、おかしなことになっておりますが、私共は決してお嬢様を苦しめようとしたわけではなく!」
そう言う彼女の顔は青ざめている。
(あら? このお顔……)
メイクも髪色も違うが、この意思の強そうな綺麗な瞳には見覚えがあった。
「もしかして、貴女、舞台女優の?」
シャーロットが食い気味に「そうです! お嬢様を驚かせてお祝いしたいと依頼を受けて今日は劇団員を引き連れて参りました!」と言うと、パーティ会場にいた多くの人が、その言葉を受けて恭しく頭を下げた。
「では、このパーティは?」
「はい、『サプライズパーティー』というものです! お嬢様の本当の誕生日パーティは後日開催されると聞いています。私達は、決してお嬢様に無礼を働こうとは思っておりません! ほどよい所で、ネタ晴らしをする予定だったのです」
シャーロットの横で男が『サプラーイズ!!』と書かれた看板を慌てて出した。
アルベルトが『アレを出してくれ』と言っていたアレは、この看板のことのようだ。
「なるほど、事情は分かりました。……とても傷つきましたし、悲しい思いをしましたが……」
「申し訳ありません!」
必死なシャーロットに、レイナは微笑みかけた。
「貴女達はお仕事をしただけですものね。罪はありません。ところで……」
レイナはそっとシャーロットの耳に囁きかけた。
「私、貴女の大ファンですの。サインいただけまして?」
シャーロットは目を見開いたあとに「はい!」と大きな返事をした。
レイナがシャーロットの直筆サインを貰い感動していると、弟のロニーが駆け寄ってきた。
「姉様、見ましたか!? これがこの男の本性です!」
アルベルトがロニーを押しのけた。
「それはこっちの台詞だ! レイナ、君の弟はとんでもないぞ!」
レイナがため息をつくと、二人はようやく静かになった。
「姉様?」
「レイナ?」
二人は不安そうにこちらを見つめている。レイナは小さく呟いた。
「二人とも、ひどいですわ」
「姉様! すみません!」
「レイナ! すまない!」
慌てる二人をレイナは右手を上げて制した。
「ただ、今回は、『婚約破棄に憧れる』と言った私が不謹慎でした」
ホッとした二人にレイナは「今日は疲れてしまったので、そっとしておいてくださいませ」と告げて、シャーロットの手を取り歩き出した。
「さてと」
レイナはシャーロットと劇団員達にニコリと微笑みかけた。
「本日は、素敵なサプライズをありがとうございました。このあとは、どうかお仕事は忘れてパーティを楽しんでください」
会場内から歓声が上がり、再び音楽が鳴り響いた。
嬉しそうに食事を始めたシャーロットに、レイナはそっと声をかけた。
「シャーロットさん、あの二人に仕返しをしたいのですが、何か良い案ありまして?」
シャーロットはニヤリと口端を上げた。
「お嬢様、実は隣国では『ざまぁ』というものが流行っていまして、婚約破棄された令嬢が他国の王子に見初められて、元婚約者も家族も捨てて、他国で幸せになるというお話があるのです」
「まぁ、それは……とっても素敵ですわね」
「はい、我が劇団には、王子のように見目麗しい団員も所属しております」
「それはそれは」
レイナとシャーロットは、美しく優雅に微笑み合った。
数週間後。
レイナと劇団員達による見事な『仕返しざまぁ劇』を見せられ、アルベルトとロニーがレイナに縋りつきながら号泣することになるのは……また別のお話。
おわり
伯爵令嬢のレイナは、情熱的な舞台を見たあとで、俳優達の熱演に酔いしれながらうっとりと不謹慎なことを言ってしまった。
だから、その一月後に行われたレイナの誕生パーティーで、自分の婚約者と、その婚約者に恋人のように寄り添う見知らぬ美しい女性を見て、レイナは『罰が当たったのだわ』と思った。
*
一時間前。
レイナは、婚約者アルベルトの姿が見当たらず会場を見渡していた。
(やっぱりアルは、来れないのかしら?)
レイナには、いつも伯爵家まで迎えに来てくれて、エスコートをしてくれる優しい婚約者がいた。
その婚約者である、侯爵令息のアルベルトが、今日は時間になっても現れなかった。
『急用で来れなくなったのかも?』と思ったが、連絡もないので遅れているだけかもしれない。
代わりに弟ロニーのエスコートを受けてレイナは会場へと入り、アルベルトの姿を探していた。誰かに聞いてみようと思ったが、会場内に親しい友人が何故か見当たらない。
「まったく、アルベルト兄さんには困ったものです」
「いつもは、このようなことはないのよ」
「そうは言っても、最近、姉様に会いに来ていないようですし、今日は姉様の誕生パーティーなんですよ!? どんな用事があるにしろ、遅れるなんて絶対に許せない!」
語気を荒くする弟を宥《なだ》めるためにレイナは「私は大丈夫よ」と微笑んだ。
ただ少しだけ不安な気持ちもあった。
最近、貴族の間では『婚約破棄』というものが流行っている。それは、親同士が決めた婚約を『真実の愛に目覚めた』という理由で一方的に高位の男性側から破棄する行為だった。
元を辿れば、他国の王子が、公爵令嬢との婚約を破棄し、隣国の姫と結婚したことに始まるが、それが世間に衝撃を与えとても刺激的だったため、『婚約破棄』は多くの小説にえがかれ、舞台化までされている。
レイナも初めて小説を読んだ時は驚き、見事にハマってしまい舞台を何回も観に行った。舞台では、王子のお相手は平民の女性に脚色されていて、またそれが非現実的で楽しいのだ。
(王子と平民女性との切ないロマンスがとっても良いのよね!)
そして、王子を愛している美しい公爵令嬢が、嫉妬の余り闇へと落ちていくのもいい。悲しみと憎しみ、そして、王子への執念とも呼べるような深い愛。その激しい感情を、圧倒的な演技力で演じる女優がいて、レイナは彼女の大ファンだった。
ただ『婚約破棄』は、お話の中での出来事であって、礼節を重んじるこの国ではあり得ない。逆にあり得ないことだからこそ、これほどまでに人気が出たとも言える。
(それに、あの優しいアルに限って『婚約破棄』はないわね)
最近、会いに来てくれないのはきっと忙しいから。
今日、来られなかったのも、何か理由があるに違いない。
少しでも不安に思ってしまった自分にレイナはあきれて苦笑した。
その時、バンッと勢い良くパーティー会場の扉が開いた。一斉に人々は扉のほうを見た。そこには、レイナの婚約者、アルベルトが立っていた。
(アル?)
いつもの優しい笑顔ではなく、アルベルトの顔は見たこともないくらい真剣だ。いつのまにか会場の音楽が鳴り止んでいる。
静まり返った会場にアルベルトの靴音だけが響いた。アルベルトはレイナの真正面で立ち止まると、レイナに向かって勢い良く右手を突き出した。そして、会場中に響き渡る声でこう宣言した。
「レイナ、君との婚約を破棄する! そして、私はここにいるシャーロットに真実の愛を捧げよう」
アルベルトがまるで舞台役者のような仕草で、その場にいた一人の女性に右手を差し出す。シャーロットと呼ばれた女性は嬉しそうに頬を染めてアルベルトの側に駆け寄った。
「アルベルト様!」
「シャーロット!」
恋人同士のように寄り添う二人をレイナは呆然と見つめていた。そして、ふと我に返った。
(こ、これは……正《まさ》しく婚約破棄!!)
小説や舞台で幾度となく見たあの婚約破棄が、今、目の前で行われている。
(しかも、私が悪役令嬢!)
二人の真実の愛を邪魔しているのだ。
「アル……」
レイナが名を呼ぶとアルベルトはビクッと身体を震わせた。
「今のこと、本当なの?」
「え、あ」
はっきりしないアルベルトが、隣にいたシャーロットに笑顔のまま肘鉄をお見舞いされたように見えたのは気のせいか。
「も、もちろんだ! 君との婚約は破棄だ!」
「……そう」
アルベルトの意思は固いようだ。レイナはとても悲しくなった。舞台のように憎しみや嫉妬の気持ちは湧き起こらない。ただただ、悲しいだけだった。
(アルは他に好きな人がいたのね。それなのに、今まで私と婚約していたばかりに辛い日々を……)
優しいアルベルトのことだ。きっと一人で今までたくさん苦しんだのだろう。
(でも、私は楽しかった……)
アルベルトと何気ないことを話して笑い合ったり、将来のことを語ったり。あの笑顔や言葉が全て嘘だったとは思えない。
アルベルトを見つめると、サッと視線を逸らされた。彼の愛を得たシャーロットは、勝ち誇ったようにレイナを見ながらアルベルトの腕にそっと手を添えた。
心が切り裂かれたように痛い。
「ねぇ、アル……。私が婚約者だったから、今まで優しいふりをしてくれていたの……?」
アルベルトの顔が歪んだ。それは今まで見たことがないような苦しそうな表情だった。
(そうだわ。私は悪役令嬢なのだから、もう何を言っても彼の気持ちは戻ってこないのね)
レイナはスカートを少し持ち上げ軽く膝を曲げた。
「分かりました。……お幸せに」
「レイナ」
アルベルトに名を呼ばれるのもこれが最後だろう。そう思うと涙が滲んだ。このままここにいれば、無様にも泣いてしまう。貴族として伯爵家の令嬢として、それだけは許されない。
レイナはアルベルトに背を向けて静かに歩き出した。
「レイナ!」
なぜか追いかけてきたアルベルトに左手首をつかまれた。
「待ってくれ、レイナ!」
アルベルトがこれ以上、何を言うのか怖くて聞きたくなかった。ただ、これだけは伝えたかった。
「アル、貴方を……愛してしまって、ごめんなさい」
そのとたんにアルベルトは叫んだ。
「もう良いだろう!」
会場中に声を響かせたあとに、アルベルトはレイナの弟のロニーを睨みつけた。
「早く! 早くアレを出してくれ!」
ロニーは「なんのことですか?」を眉をひそめた。
「何って、アレだ! ほら、早くレイナに事情を!」
アルベルトの言葉を遮り、ロニーがレイナの元に駆け寄って来た。
「姉様、大丈夫ですか!?」
ロニーは、青い瞳に涙を浮かべて、レイナの手をぎゅっと握る。
「アルベルト兄さんは、なんて酷い男なんだ! 姉様、あんな男のことなんて、さっさと忘れてしまいましょう!」
ロニーがそっと抱きしめてくれた。気丈に振る舞っていたが、本当は足が震えて今にも倒れてしまいそうだったので弟の好意に甘えてレイナは身を任せた。
そのとたんに、アルベルトに強く腕を引かれロニーと引き離された。肩を抱き寄せるアルベルトをレイナは驚き見上げた。
「あ、アル?」
アルベルトは、ロニーを睨みつけている。
「ロニー! なんのつもりだ!?」
「兄さんこそなんのつもりですか? あ、もう婚約破棄したので、兄さんではなかったですね。どうか、そちらのシャーロットさんとお幸せに」
ロニーは両手を広げて「さぁ、姉様はこちらへ」と微笑んだ。
「ロニー……お前、騙したな!?」
「人聞きが悪いですね。貴方から一方的に婚約破棄を宣言しておきながら、何を今更」
「アレは、レイナが『婚約破棄に憧れているから、サプライズでプレゼントしよう』と、お前が言い出したんだろうが!」
ロニーは「なんのことだか?」と呆れている。
「お前の提案のせいで、俺は演劇の稽古まで受けることになったんだぞ!? そのせいでレイナに会う時間が取れなくて、どれほど辛かったか!」
「はぁ? なんのことだか? アルベルト様は妄想癖でもあるんですかねぇ?」
「こんの、腐れシスコン野郎! レイナの前でだけ良い子ぶりやがって!」
「何だと!? アンタみたいな裏表の激しい奴にだけは言われたくないね! 姉様の前でだけ紳士ぶりやがって!」
「俺はレイナに出会って変わったんだよ!? 優しくて聡明で美しいレイナに相応しい男になっただけだ!」
「それを騙してるって言うんだよ! 本当は素行が悪くて侯爵家で爪弾《つまはじ》きにされていたくせに!」
「そうだよ! お前がレイナに近寄る男を全て追い払いまくったから、俺みたいな男しか残らなかったんだろうが! 事情はどうあれ、レイナに出会わせてくれたから、今まで見逃してやっていたものを!」
「姉様は結婚なんてしなくていいんだよ!? ずっと僕の側にいるんだ!」
お互いの襟首をつかみながら感情的になっている元婚約者と弟を、レイナは呆然と見つめていた。
(いったい……何が?)
いつも穏やかで優しい二人が乱暴な言葉を使って罵り合っている。
レイナが状況把握に困っていると、アルベルトの真実の愛のお相手、シャーロットが近づいてきた。何を言われるのかと咄嗟に構えると、シャーロットはレイナに向かって深く頭を下げた。
「お嬢様、この度はお誕生日おめでとうございます。何やら、おかしなことになっておりますが、私共は決してお嬢様を苦しめようとしたわけではなく!」
そう言う彼女の顔は青ざめている。
(あら? このお顔……)
メイクも髪色も違うが、この意思の強そうな綺麗な瞳には見覚えがあった。
「もしかして、貴女、舞台女優の?」
シャーロットが食い気味に「そうです! お嬢様を驚かせてお祝いしたいと依頼を受けて今日は劇団員を引き連れて参りました!」と言うと、パーティ会場にいた多くの人が、その言葉を受けて恭しく頭を下げた。
「では、このパーティは?」
「はい、『サプライズパーティー』というものです! お嬢様の本当の誕生日パーティは後日開催されると聞いています。私達は、決してお嬢様に無礼を働こうとは思っておりません! ほどよい所で、ネタ晴らしをする予定だったのです」
シャーロットの横で男が『サプラーイズ!!』と書かれた看板を慌てて出した。
アルベルトが『アレを出してくれ』と言っていたアレは、この看板のことのようだ。
「なるほど、事情は分かりました。……とても傷つきましたし、悲しい思いをしましたが……」
「申し訳ありません!」
必死なシャーロットに、レイナは微笑みかけた。
「貴女達はお仕事をしただけですものね。罪はありません。ところで……」
レイナはそっとシャーロットの耳に囁きかけた。
「私、貴女の大ファンですの。サインいただけまして?」
シャーロットは目を見開いたあとに「はい!」と大きな返事をした。
レイナがシャーロットの直筆サインを貰い感動していると、弟のロニーが駆け寄ってきた。
「姉様、見ましたか!? これがこの男の本性です!」
アルベルトがロニーを押しのけた。
「それはこっちの台詞だ! レイナ、君の弟はとんでもないぞ!」
レイナがため息をつくと、二人はようやく静かになった。
「姉様?」
「レイナ?」
二人は不安そうにこちらを見つめている。レイナは小さく呟いた。
「二人とも、ひどいですわ」
「姉様! すみません!」
「レイナ! すまない!」
慌てる二人をレイナは右手を上げて制した。
「ただ、今回は、『婚約破棄に憧れる』と言った私が不謹慎でした」
ホッとした二人にレイナは「今日は疲れてしまったので、そっとしておいてくださいませ」と告げて、シャーロットの手を取り歩き出した。
「さてと」
レイナはシャーロットと劇団員達にニコリと微笑みかけた。
「本日は、素敵なサプライズをありがとうございました。このあとは、どうかお仕事は忘れてパーティを楽しんでください」
会場内から歓声が上がり、再び音楽が鳴り響いた。
嬉しそうに食事を始めたシャーロットに、レイナはそっと声をかけた。
「シャーロットさん、あの二人に仕返しをしたいのですが、何か良い案ありまして?」
シャーロットはニヤリと口端を上げた。
「お嬢様、実は隣国では『ざまぁ』というものが流行っていまして、婚約破棄された令嬢が他国の王子に見初められて、元婚約者も家族も捨てて、他国で幸せになるというお話があるのです」
「まぁ、それは……とっても素敵ですわね」
「はい、我が劇団には、王子のように見目麗しい団員も所属しております」
「それはそれは」
レイナとシャーロットは、美しく優雅に微笑み合った。
数週間後。
レイナと劇団員達による見事な『仕返しざまぁ劇』を見せられ、アルベルトとロニーがレイナに縋りつきながら号泣することになるのは……また別のお話。
おわり