「一人で戦わせてもらいたい」
次の決闘で、大陸の王ロイ・グラナトゥムは、前回の決闘でベアトリーチェに故意に力を貸したレオンに下がるよう言い渡した。
本来、自分一人で勝たねばならない戦い。ベアトリーチェがレオンに力を借りることは、反則とみなされた。
「かしこまりました」
ベアトリーチェは静かに返事をした。
魔力が完全に回復していない、ふらつく体を引きずっていたレオンは、ロイを前に震える拳を握りしめた。
「――お前は何も出来ない。レオン・クリスタロス」
嘲笑《あざわら》うかのようなロイの声は、ローズはやはり好ましいとは思えなかった。
「時間をやろうか? ベアトリーチェ・ロッド。空を飛ぶ生き物と、契約を結ぶ時間を」
「……っ!」
最後の決闘の開始は翌日の午後に決まった。
だが今更猶予を与えられても、ベアトリーチェのような地属性に特化した人間が、飛行生物と契約するのは難しいのは明らかだった。
ロイだって、それはわかっているはずなのに。
「ビーチェ様……」
ローズは不安げに婚約者を呼んだ。
「大丈夫。貴方は心配しないでください」
ベアトリーチェはローズの手を握ると、いつものように紳士的な優しい笑みをローズに向けた。
◇
ベアトリーチェが城を去り、ロイはローズと二人きりになった瞬間、彼女の手を痕が残るくらい強く握った。
「ローズ・クロサイト」
「離してください!」
「俺が君と過ごして良い時間はまだ残っている。君に拒否権はない。君はこれで私の妃になると決まったようなものだな。よくしゃべるその口を、今すぐにでも塞いでやろうか」
「おやめください!」
「俺に抵抗するつもりか? ハッ。馬鹿が。契約の出来ないあの男が、俺に勝てるはずがない。君は俺のものだ。俺のものをどう扱おうが、俺の勝手だろう」
「……!」
この方は、やはりそれをわかって――……。
ローズはロイを睨み付けた。
人がどうあがいても埋められない欠点を馬鹿にするなんて、嫌悪に値する。
「諦めろ。石は揃った。あの男が俺に勝つのは、翼を得てももう無理だ。『精霊晶』――俺はあれから、俺の持ち得ない属性のすべてそれを集めた。今の俺は君と同じく、全ての属性の魔法を扱える。所詮この世界の才能なんて、どうやら金で買えるらしいな」
「え……?」
ローズはベアトリーチェを悪く言うなと、ロイに反論するつもりだった。けれど彼から与えられた情報のせいで、全て頭から抜け落ちた。
もし本当に彼が自分と全属性を使えるのだとしたら、彼の言うように、ベアトリーチェに勝機は無い。
空中戦だってもう無理だ。ベアトリーチェが彼に勝てていたのは、属性と回復力だけだったというのに。
結局必要なのは、魔力《ちから》のみ。
そんな言葉が、ローズの頭の中に浮かぶ。
「ローズ・クロサイト。君に指輪は必要ない。君に剣は必要ない。君はただ花として、俺の隣にいればいい。……君は『薔薇の騎士』なんて呼ばれているらしいが、そう強気でいられると、その心の心を暴いてやりたくなるな」
驚きのあまり声の出せないローズを、ロイは嘲笑った。
「知っているか? 昔、人為的に魔法を発現させるために、とある研究が行われたんだ。古代魔法には痛みを忘れるための忘却魔法があったと聞くが、逆の発想もまた面白いものだろう?」
ロイはローズの顎を掴んで、無理矢理自分の方を向かせた。
目と目が合う。しかしやはり彼のその瞳には、何の熱も籠っていないようにローズには見えた。
「――何、を」
陽の入らない暗がりに、ずっと置かれた陶器のような――そんな冷たさを感じて、ローズは息を飲んだ。
「高潔な薔薇の騎士か。全く呆れたものだ。何も選べないだけの人間を、どうして人はそうもてはやすのか。馬鹿馬鹿しい。この国の人間は総じて愚かだ。誰からも愛され守られる――だからこそ、綺麗でいられる。汚れを知らぬ君のような人間を、屈服させるのは面白そうだ」
まるで物を放るかのように、ロイはローズの体をはらった。
ローズは受け身をとったが、背後にあった木にぶつかって肩をおさえた。
「……っ!」
考えが纏まらないせいで判断が鈍る。
そんなローズを、ロイは無感情に見下ろしていた。
ロイは知らない。ローズがどんな思いで、今の場所に立つことになったのかを。
兄であるギルバート、そしてレオンが眠りについていた十年のローズの想いを、ロイが理解できるはずはなかった。
ただ特別な魔力《もの》を与えられ、それをただ感受する人間にしか、ロイにはローズは映らない。
「闇の魔法よ。騎士がその心に宿す、翳りを暴け」
それは、ローズが知らない魔法だった。
彼の詠唱と同時に、黒い糸のようなものがローズの体を縛った。
それと同時に、心臓をえぐられるような痛みが、ローズを襲った。
「……!!」
ばちばちと黒い電流が、糸を通してローズに伝わる。そして糸は集約された先で、一つの映像を紡ぎ出した。
それはローズの始まりの記憶。
『お兄様! レオン様!』
公爵令嬢だった彼女が、騎士となり魔王を倒すことになった過去の記憶。
自分を信じ導いてくれた人を、永遠に失うと思った悲しみの瞬間。
ローズは嘗て感じた胸の痛みに、身が引き裂かれるような思いがした。
そして、場面はその後すぐに切り替わった。
不思議なことに、ローズの体は空中を落下していた。
このままでは死んでしまう。
ローズは魔法を使わねばと思ったが、何故か風魔法は使えなかった。
魔王を討伐した時の記憶ではない。
ではこれは、いつの記憶なのか――ローズは不思議に思ったが、答えはすぐには浮かばなかった。
代わりに、一つの推測が頭に浮かんだ。
もしかしたらこれは、『昔の自分』の記憶なのかもしれない、と。
魔力は魂によって引き継がれる。
だとしたら自分は、前世は「これ」が原因で死んだのかと――。
ローズがそう思っていると、墜落する体を、『誰か』が抱きとめた。
『君は、一体何を考えているんだ!』
珍しく声を荒らげられ、びくりと体を震わせる。
『……君を失うかと思った。もう二度と、こんな危ないことはしないでくれ』
顔が見えない筈なのに、ローズには彼が、泣きそうな顔をしているのように思えた。
――大丈夫。大丈夫、だから……。
手を伸ばして彼に触れたい。そう思ったけれど、彼に抱かれているのは自分であって『自分』ではないことも、ローズは理解していた。
映像がまた変わる。今度の場面は、空中ではなかった。
『見てくれ。薔薇の騎士!』
花の咲く春の丘で、『誰か』に呼ばれて振り返る。笑うその人が手を上げると、空いっぱいに鳥が羽ばたいた。
『これは一体……』
『驚いたか?』
『?』
『紙の鳥が空を飛ぶ。面白い魔法だろう?』
面白い? 違う。あまりも子供じみている。
その理由で、わざわざ高価な白い紙を使う事は誤りだ。ローズの頭の中に、そんな言葉が浮かんで消える。
『……資源の無駄です。一体なぜこんなことを?』
『だって』
呆れたような、ため息混じりの少女の言葉に、彼はどこか悲しそうに声を漏らした。
『……君が、笑ってくれるかと思ったんだ』
『え?』
その言葉にローズの胸が高鳴る。
泣きたくなるほど嬉しいのに、その理由がわからない。
胸が苦しくて、呼吸が上手く出来ない。
「これは……」
まさか。これは――『彼』なのか?
ロイは思わず一歩前に足を踏み出した。
ずっと掴めなかった『友』の行方。
『前世の記憶がある』なんて、人に話して探すことは諦めていた。だが今、その手がかりを見つけた気がして、ロイは目を見開いてその光景を見つめていた。
彼女が何かを知っているなら、聞き出せばいい。いいや、彼女自身が覚えていなくても――魂に残る記憶を引き出せば、『彼』にまつわることがわかるかもしれない。
ロイにとって大切なのは、ローズよりもローズの中にあるかもしれない『彼』の記憶のほうだった。
ロイはローズに対する魔法を強めた。ローズの顔が苦痛に歪む。
「君の魂の記憶を。記憶の中の『彼』を教えてくれ」
「……っ!」
ローズは声にならない声を上げた。
頭の中に反響する叫び声。
悲鳴と慟哭。
曇天も雷雲も、その全てをはねのけて輝くのは、陽だまりのような誰かの笑い声。
自分に微笑みかける優しい声。
白いベッドの中にいるその人が、『こちら』に向かって微笑みかける。
少し痩せたようだ、と何故か思う。けれど、その顔は靄がかかってよく見えない。その人を、自分は知らないはずなのに――今はただその声を聞くだけで、胸がひどく苦しくなった。
『君の手は、温かいな』
触れる手の温もりが、少しだけ硬い手のひらが、自分より大きなその手が、触れ合う瞬間を愛しく思う。
『ありがとう。薔薇の騎士。君の忠義に感謝する』
その声を聞くのが嬉しくて。もっと聞きたいと思うのによく聞こえない。
声も姿も一瞬で、ぼんやりとしたものに変わってしまう。
場面がまた切り替わる。
誰かが、誰かの胸に顔を埋めて泣いていた。
『目を、開けてください。……嫌です。こんなの。こんなのは。こんな別れは』
上手く呼吸が出来ない。
私を置いていかないで。貴方がいなくては生きていけない。それでももう、失ったものは返ってこない。そんな言葉が、頭の中に浮かんで消える。
少女が泣いている。
ローズは胸が痛むのを感じた。心臓の音がしない。目覚めないその人は、兄ではないはずなのに。泣いている少女も、自分ではないはずなのに。
どうしてこんなに、目が離せないのか理解出来ない。
涙が静かに頬を伝う。
「――……私の王様」
自分の唇からこぼれる言葉の意味がわからない。わからないのに、涙が止まらない。
ローズは体に力が入らなかった。
ロイの魔法の仕組みは、ローズにはわからない。
ただ彼の魔法が、かけけられた側の人間に多大なダメージを与えることだけは、確かのようだとローズは思った。
――もう、駄目。これ以上は、耐えられない……。
そんなローズに対して、ロイは非常にも再び魔力を強めようと左手を上げた。
黒い電流が、ローズを襲おうとした時。
「――鳥よ」
その声は、響いた。
「光を纏う聖なる鳥よ、邪なる者の呪法を暴け!」
詠唱と同時、光をまとった鳥が、ロイがローズに絡めていた黒い紐を断ち切っていく。
「他者の魔法の強制的な解除だと……!?」
ロイは後方を振り返った。
本来魔法の解除には多大な魔力を使う。だからこそこの世界に、ロイの魔法を解除できる人間はこれまでいなかった。
しかしそれを、小さな魔力で行うことが出来るとしたら、それはこの世界から失われたはずの魔法だけだ。
紙の鳥を使った魔法の解除。
それは、今は失われたはずの古代魔法の一つ。
「紙の鳥の魔法が有効であれば、俺にだって干渉できる」
リヒトはそう言ってロイを睨みつけると、がくりと崩れたローズの体を支えた。
精神的な負荷がかかりすぎたせいか、ローズの呼吸は浅かった。
――こんなことは許されない。リヒトは唇を噛んだ。
いつも自分の前を歩いてきた人間を、自分が大切に思う人間を、何故かロイは傷付ける。
リヒトが最も得意とするのは光魔法だ。
『光の祭典』――そしてその力もあって、彼はリヒトと名付けられた。しかしそれは、王とは最も遠い力。
誰かの力になりたいと祈る心だけでは、彼一人の力だけでは、世界は動かせない。
本来、人体に影響を及ぼすには多くの魔力を必要とする。だからそんな魔法を、リヒトが破ることは普通なら出来ない。
しかし光属性と対極にある闇の魔法を妨害するだけならば、今のリヒトにも可能だった。まして今回のような、断ち切ればいいだけの糸のような魔法なら。
「貴方が誰であろうとも、この国の人間を傷付ける人間を、俺は許さない」
「まるで『王』のようなことを言う。君はこの国では出来そこないと言われているのだろう? せっかく手を貸してやろうと思ったのに、俺の邪魔をするな」
ロイはリヒトを睨みつけた。
やっと、『彼』に関する手がかりを見つけたかもしれないのに。
ロイにとってのローズなど、所詮その程度の価値しかない。そして、それはリヒトも変わらなかった。
『彼』に比べたら、この世界の殆どは、ロイにとってどうでも良いことだ。
「こざかしい真似はよして正面から戦ったらどうだ? 小手先だけで魔法を操っても、本物の強者には敵わない。そんなものは王とは呼べない」
「守るべき人間を傷付けるようなら、そんな王になるくらいなら、俺は王にはなろうとは思わない!」
リヒトは力いっぱい叫んだ。
「面白いことを言う」
そんなリヒトにロイは一瞬驚いたような顔をして、次の瞬間には彼は、ずっとローズに向けていたような冷たい目で、リヒトのことを見つめていた。
「リヒト・クリスタロス。彼女と婚約破棄した君に、それを言う権利はない」
「……?」
ロイの言葉の意味が分からず、リヒトは首を傾げた。
ローズと自分の破談が、何故今の話の流れで出てくるのか? そう思っている間に、ローズはリヒトの腕の中で意識を失った。
「ローズ。……ローズ!」
名前を呼んでも動かない。
弱り切った彼女を見るのは初めてで、リヒトは唇を噛んだ。
兄といいローズといい、なぜ彼は自分の大切な人を傷付けるのか。そして彼らを守れない自分の弱さに、彼らと肩を並べられない自分の弱さに、腹が立ってたまらなかった。
言い返せない。何も。
「……なんで。なんで、俺は」
――こんなにも、弱いんだろう?
ローズを抱く手に力を籠める。そんなリヒトの姿を、ロイは無感情に眺めて背を向けた。
◇◆◇
「……リヒト様」
目を覚ますと、そこは王宮でかつて魔王討伐の後、ローズが目覚めた部屋だった。
今のリヒトには、人体に影響を与える光魔法は使えない。ただリヒトは、かつてのアカリのように、ローズが目覚めるまでそばにいた。
「ずっと、そこにいてくださったのですか?」
「放っておくわけにも行かないだろ」
当然のように言うリヒトに、ローズは少しだけ胸が痛むのを感じた。
自分に婚約破棄を言い渡した相手。
だというのに、何故自分を助けてくれたのだろう?
ローズには、リヒトの気持ちがよくわからなかった。今だって、リヒトはローズの目をちゃんと見ようとはしてくれないというのに。
「今日の決闘は明日に持ち越されることになった。ローズが見てなきゃ、駄目らしくて」
「そうですか」
「……ローズは」
「はい?」
「俺が婚約破棄して傷付いたか?」
「本人にそれを聞きますか?」
元婚約者の相変わらずの頓珍漢ぶりに、ローズは呆れた。
十年間婚約していた幼馴染に、大衆の面前で婚約破棄されるなんて、普通の令嬢ならもと傷付いて当然の案件だろうに、彼にはそれがわからないのだろうか?
いや、違う。気付かないんじゃない。気付かせられなかったのはたぶん自分のせいだ――今のローズにはそう思えた。
魔力の弱いリヒトを、ローズはこれまで殆ど頼ろうとはしなかった。今になって思えば、自分は彼にとって、可愛げのない女だったに違いない。
「私と貴方は幼馴染だった。婚約は、その延長線上にあったものだったのでしょう?」
「……」
「事実貴方は、私に触れようとはされなかったではありませんか」
今のローズには、ベアトリーチェがいる。ローズには自分に触れる彼らの感触が、まだ残っているような気がした。
自分の手に口づけるベアトリーチェ。
「一年間待ってほしい」そういったユーリは、瞼に口付けた。
そしていつも髪にキスをして軽口を叩いていたレオンは、ベッドの中で自分の手を握る。
そういう触れ合いを、リヒトはローズに与えなかった。
「それに、今はアカリに思いを寄せていらっしゃる」
今のリヒトはアカリを思っている。
自分のような可愛げのない女ではなく、彼女のような人が好きだったから、リヒトは自分を選ばなかったのだ。だとしたら、それは仕方のないことだとローズは思った。
ローズはアカリのようにはなれない。
女の子らしく可愛くて、子どもに向かって笑顔を向ける。弱者を守るためならば、アカリは王にだって立ち向かう。
その自由さや、真っ直ぐさは、ローズには絶対ないアカリの魅力だ。
ローズ自身、アカリの性格を好ましく思っていた。自分がもし男だったら、彼女のような人を選びたいと思うくらいには。
「だから。……私は、貴方と何も無かったことが、今はかえってよかったのかともしれないとも思っています。最初から、形だけの婚約だったから。きっと私は、貴方が誰と結ばれても祝福できる」
ローズの声は震えていた。その声の僅かな変化に、リヒトは顔を上げてローズの方を見た。
「ローズ……?」
しかし今度は、ローズの方がリヒトから顔を背けていた。
「心配されなくても、私はこの国から出て行くつもりはございません。私は、ビーチェ様の婚約者です。あの方なら。あの方となら、きっと私は幸せになれる」
誰もが祝福する、そんな夫婦に。
「だから……私は、大丈夫です」
ローズはリヒトには見えないように、ぎゅっと拳を握りしめた。
「どうかしたのか?」
「いいえ。――なんでも、ありません」
リヒトが心配そうな顔をしてローズに近寄って、触れようとした手からローズは逃れた。
ローズは今リヒトに触れられるのが、何故か少し怖かった。
垣間見せる彼らの心に触れる度に、少しだけ心が動きそうになる自分を戒める。
公爵令嬢であり騎士。次期伯爵《ベアトリーチェ》の婚約者である自分が、他の異性に心をゆるすなど、あってはならないことだ。
「もう、大丈夫ですから。一人にしていただいてもよろしいですか?」
「……わかった」
ローズの言葉に、リヒトは何も言いはしなかった。ただ静かにそう言って、何事も無かったように部屋を出て行く。
扉が閉まるその瞬間、ローズは勢いよく扉の方を見た。けれどだからといって、もう一度彼の名前を呼ぶことは無かった。
自分はこの国に残る。でも彼は――この国を去るかもしれない。
いつだってそばにあった金色は、いつからか遠く感じるようになった。
それは婚約破棄される前から。
いつの間にか生まれた小さなずれは、どんどん大きくなって、今は自分と彼との間には、見えない壁が出来ているような気がローズはした。
「ビーチェ様」
ローズはいつも彼が口付ける手の甲に、自分の唇をそっとあわせた。
誰も選べない自分であることは認める。
でも心が自分に向くまで一年待つと言ってくれた優しい人を、裏切りたくはないと思うことは確かだった。
「いっそのこと、本当に早く貴方に嫁いだ方が、この気持ちは晴れるのでしょうか……?」
大地のような優しさで全てを包み込んでもらえたら、自分の憂いも何もかもから、目を逸らして生きていけるような気もした。
ベアトリーチェと過ごすとき。
ローズの胸は確かに高鳴る。彼は自分の周りにこれまでいなかった部類の人間で、年上の男性で。自分の弱さも何もかもを、全て許してくれるような人だとローズは思う。
でも、だからこそ怖くなる。
全てを彼にゆだねた場合、ローズは自分が、自分でなくなってしまうような気がするのだ。
大切に大切に甘やかされて、自分の全てを肯定されてしまったら――いつの間にかこれまでの自分でさえ、彼の妻としての女性として、造りかえられてしまいそうな気がした。
『妹の破天荒さも、少しは落ち着くかもしれません』
きっとそれは、周りの人間も望むこと。
変わることは、公爵令嬢としては正しい未来なのかもしれない。
でも、自分は――……。
「私は『騎士』で居たい」
この国を守る高潔な騎士。
ベアトリーチェは、ローズにそれを許すだろう。けれど許されても、ローズの心が彼に奪われては駄目なのだ。
愛を囁いてくれるこの人に、相応しい女性になりたいと思う心が、ローズ自身から剣を奪う。
地属性の人間は、ゆっくりとその心を甘く蝕む。
その人間が、傍にいないと生きていけなくなるように。
「ビーチェ、様……」
再び呟かれたその名は、少しだけいつものローズの声より艶っぽかった。
◇
「アルフレッド」
「兄上、ただいま戻りました」
その夜、隠密活動をしている弟の帰還を、ベアトリーチェはいつものように迎え入れた。
父であるレイゼルには許可をとっている。
今のアルフレッドには、伯爵家の門を開く解呪の式も与えられていた。
「大陸の王がローズ様に対して闇魔法を使っていましたが、リヒト王子が助けられたようです」
「リヒト様が?」
ベアトリーチェは思わず聞き返していた。
彼女と婚約破棄したリヒトが、なぜ今ローズを庇うのかベアトリーチェにはわからなかった。
せっかく自分に好意的な存在だというのに、リヒトはロイの反感を買うつもりなのだろうか。
ベアトリーチェは顔を顰めた。
状況がまるでわからない。アルフレッドの情報だけでは、自分が見て得られる情報からは劣ってしまう。
「……傍で守れないことがもどかしい」
「あ。そういえば」
わざわざ自分の為に情報を集めてくれてる弟に悪いとは思いながらベアトリーチェがそう呟くと、アルフレッドが思い出したかのように言った。
「ローズ様が悩ましげな声で兄上の名前を呼ばれていました」
「はい?」
それは嬉しいような傍で聞きたかったような。いやでも、どういう状況なのか……?
◇◆◇
一方その頃、アカリは机に向かって頭を抱えていた。
「ゲームに存在しないはずの要素。同じ要素。それをふまえれば……」
アカリはそう言うと、さらさらと紙に文字を書きだした。
『誓約の指輪』
『ベアトリーチェ・ロッドの初恋』
「ゲームに、シャルルちゃんは多分いなかった」
羽の付いたペンを手にしたまま、アカリは目を瞑る。
――赤ずきん、おおかみ、おおさま。そこから導き出されるのは――……。
「もしかして……『シャルル・ペロー』?」
アカリは記憶力がいい読書家だ。
病院でやることがなかったせいもあるが、彼女はこれまで沢山の本を読んできた。
『グリム童話』、『ペロー童話』。
アカリの知る世界には、そのように呼ばれていた童話が存在していた。
アカリの記憶では、『赤ずきん』はそのどちらにも組み込まれていたはずだ。
「確か……大陸の王のキーアイテムは……」
『Happiness』には、キャラクターごとにグッズ展開のためアイテムが設定されていた。
リヒトが指輪。
ユーリは赤い紐。
ベアトリーチェは四つ葉。
そして、『大陸の王』は――……。
「『開かない箱』」
アカリはゲームの途中でこちらの世界にやってきた。
リヒト、ユーリ、ギルバート、レオン、ベアトリーチェ、ロイと攻略するつもりだったため、レオンの話の途中までしか知らないアカリは、ロイに関してわかっていることはそれだけだ。
「ああもうっ!!! 肝心なことがわからない! 攻略サイト見ておけばよかった……!」
ベアトリーチェのことはたまたま少し知っていたが、一度読んだら忘れられないアカリは、『ネタバレ』を読んではいなかった。
「とりあえず、ローズさんに相談しよう。何かいいアイディアを出してくれるかもしれないし」
アカリはそう言うと、ローズにあてた手紙に触れて魔力を込めた。すると紙は自ら形を変え、丁度鳥のような形に変わる。
「ローズさんが違う国に行ってしまうなんて、絶対嫌」
アカリは窓を大きく開いた。
夜の冷たい外気が、温かな室内に入り込む。
夜の空気は、春とはいえまだ寒い。
いや、春と冬しかないこの国にとっては、季節の変わり目である今は寒くなる時期なのかもしれない。
ここはアカリが生きてきた世界ではない。
でも、そんな世界で唯一信じたいと思った相手を、アカリは失いたくは無かった。
「ローズさんのところに、飛んでいけ!」
アカリはそう言うと、紙の鳥を夜空へと放った。
◇
「アカリから……?」
公爵家の自室でアカリから手紙を受け取ったローズは、彼女が書いたまだ拙い字の手紙を読んで首を傾げた。
何かいい案があれば教えてほしいとあるが、今日の事件もあってか、ローズは頭がよく回らなかった。
「『シャルル・ペロー』?? 『開かない箱』……?」
手紙に書かれた、気になる箇所を読み上げる。
やはり駄目だ。今はまだ頭痛がする。
昼間の魔法の影響で、ローズが頭を押さえて机に手をついていると、とんとんと扉を開く音が聞こえた。
「ごめんください。ここをあけてください」
その声は、ローズのよく知る人物の声だった。
「シャルル?」
ローズは扉を開けた。
廊下に立っていたその子どもは、真っ黒なローブを羽織って、籠の中に真っ赤な林檎を持っていた。
「おいしいりんごをもってきました」
「私に、ですか?」
自分に心を許してくれたということだろうか? ローズはそう思ってシャルルに尋ねた。
シャルルは大きく頷いて、林檎のうち一つをローズに差し出した。
「たべてください」
「?」
子どもからの贈り物を無下にすることが出来ず、ローズは彼女から林檎を受け取って少し齧った。
黒いフードを被った少女。籠の中には艷やかな赤い林檎。それが何を意味するのか、ローズにはわからない。
ローズが林檎を食べたのは、ほんの少しだけだった。けれどその瞬間、ローズは体に違和感を覚えた。
体が動かない。
「しゃ、る……る……?」
「おきさきさまには、わがくににきていただかねばならないのです」
体がしびれて声が出せない。何が起きているのかがわからない。
床に膝をついたローズを、子どもは無感情に見下ろしていた。
「どう、して……」
「おうさまのねがいは、わたしのねがい。そのためなら、わたしは……」
その言葉の続きは、もうローズには聞こえなかった。
次の決闘で、大陸の王ロイ・グラナトゥムは、前回の決闘でベアトリーチェに故意に力を貸したレオンに下がるよう言い渡した。
本来、自分一人で勝たねばならない戦い。ベアトリーチェがレオンに力を借りることは、反則とみなされた。
「かしこまりました」
ベアトリーチェは静かに返事をした。
魔力が完全に回復していない、ふらつく体を引きずっていたレオンは、ロイを前に震える拳を握りしめた。
「――お前は何も出来ない。レオン・クリスタロス」
嘲笑《あざわら》うかのようなロイの声は、ローズはやはり好ましいとは思えなかった。
「時間をやろうか? ベアトリーチェ・ロッド。空を飛ぶ生き物と、契約を結ぶ時間を」
「……っ!」
最後の決闘の開始は翌日の午後に決まった。
だが今更猶予を与えられても、ベアトリーチェのような地属性に特化した人間が、飛行生物と契約するのは難しいのは明らかだった。
ロイだって、それはわかっているはずなのに。
「ビーチェ様……」
ローズは不安げに婚約者を呼んだ。
「大丈夫。貴方は心配しないでください」
ベアトリーチェはローズの手を握ると、いつものように紳士的な優しい笑みをローズに向けた。
◇
ベアトリーチェが城を去り、ロイはローズと二人きりになった瞬間、彼女の手を痕が残るくらい強く握った。
「ローズ・クロサイト」
「離してください!」
「俺が君と過ごして良い時間はまだ残っている。君に拒否権はない。君はこれで私の妃になると決まったようなものだな。よくしゃべるその口を、今すぐにでも塞いでやろうか」
「おやめください!」
「俺に抵抗するつもりか? ハッ。馬鹿が。契約の出来ないあの男が、俺に勝てるはずがない。君は俺のものだ。俺のものをどう扱おうが、俺の勝手だろう」
「……!」
この方は、やはりそれをわかって――……。
ローズはロイを睨み付けた。
人がどうあがいても埋められない欠点を馬鹿にするなんて、嫌悪に値する。
「諦めろ。石は揃った。あの男が俺に勝つのは、翼を得てももう無理だ。『精霊晶』――俺はあれから、俺の持ち得ない属性のすべてそれを集めた。今の俺は君と同じく、全ての属性の魔法を扱える。所詮この世界の才能なんて、どうやら金で買えるらしいな」
「え……?」
ローズはベアトリーチェを悪く言うなと、ロイに反論するつもりだった。けれど彼から与えられた情報のせいで、全て頭から抜け落ちた。
もし本当に彼が自分と全属性を使えるのだとしたら、彼の言うように、ベアトリーチェに勝機は無い。
空中戦だってもう無理だ。ベアトリーチェが彼に勝てていたのは、属性と回復力だけだったというのに。
結局必要なのは、魔力《ちから》のみ。
そんな言葉が、ローズの頭の中に浮かぶ。
「ローズ・クロサイト。君に指輪は必要ない。君に剣は必要ない。君はただ花として、俺の隣にいればいい。……君は『薔薇の騎士』なんて呼ばれているらしいが、そう強気でいられると、その心の心を暴いてやりたくなるな」
驚きのあまり声の出せないローズを、ロイは嘲笑った。
「知っているか? 昔、人為的に魔法を発現させるために、とある研究が行われたんだ。古代魔法には痛みを忘れるための忘却魔法があったと聞くが、逆の発想もまた面白いものだろう?」
ロイはローズの顎を掴んで、無理矢理自分の方を向かせた。
目と目が合う。しかしやはり彼のその瞳には、何の熱も籠っていないようにローズには見えた。
「――何、を」
陽の入らない暗がりに、ずっと置かれた陶器のような――そんな冷たさを感じて、ローズは息を飲んだ。
「高潔な薔薇の騎士か。全く呆れたものだ。何も選べないだけの人間を、どうして人はそうもてはやすのか。馬鹿馬鹿しい。この国の人間は総じて愚かだ。誰からも愛され守られる――だからこそ、綺麗でいられる。汚れを知らぬ君のような人間を、屈服させるのは面白そうだ」
まるで物を放るかのように、ロイはローズの体をはらった。
ローズは受け身をとったが、背後にあった木にぶつかって肩をおさえた。
「……っ!」
考えが纏まらないせいで判断が鈍る。
そんなローズを、ロイは無感情に見下ろしていた。
ロイは知らない。ローズがどんな思いで、今の場所に立つことになったのかを。
兄であるギルバート、そしてレオンが眠りについていた十年のローズの想いを、ロイが理解できるはずはなかった。
ただ特別な魔力《もの》を与えられ、それをただ感受する人間にしか、ロイにはローズは映らない。
「闇の魔法よ。騎士がその心に宿す、翳りを暴け」
それは、ローズが知らない魔法だった。
彼の詠唱と同時に、黒い糸のようなものがローズの体を縛った。
それと同時に、心臓をえぐられるような痛みが、ローズを襲った。
「……!!」
ばちばちと黒い電流が、糸を通してローズに伝わる。そして糸は集約された先で、一つの映像を紡ぎ出した。
それはローズの始まりの記憶。
『お兄様! レオン様!』
公爵令嬢だった彼女が、騎士となり魔王を倒すことになった過去の記憶。
自分を信じ導いてくれた人を、永遠に失うと思った悲しみの瞬間。
ローズは嘗て感じた胸の痛みに、身が引き裂かれるような思いがした。
そして、場面はその後すぐに切り替わった。
不思議なことに、ローズの体は空中を落下していた。
このままでは死んでしまう。
ローズは魔法を使わねばと思ったが、何故か風魔法は使えなかった。
魔王を討伐した時の記憶ではない。
ではこれは、いつの記憶なのか――ローズは不思議に思ったが、答えはすぐには浮かばなかった。
代わりに、一つの推測が頭に浮かんだ。
もしかしたらこれは、『昔の自分』の記憶なのかもしれない、と。
魔力は魂によって引き継がれる。
だとしたら自分は、前世は「これ」が原因で死んだのかと――。
ローズがそう思っていると、墜落する体を、『誰か』が抱きとめた。
『君は、一体何を考えているんだ!』
珍しく声を荒らげられ、びくりと体を震わせる。
『……君を失うかと思った。もう二度と、こんな危ないことはしないでくれ』
顔が見えない筈なのに、ローズには彼が、泣きそうな顔をしているのように思えた。
――大丈夫。大丈夫、だから……。
手を伸ばして彼に触れたい。そう思ったけれど、彼に抱かれているのは自分であって『自分』ではないことも、ローズは理解していた。
映像がまた変わる。今度の場面は、空中ではなかった。
『見てくれ。薔薇の騎士!』
花の咲く春の丘で、『誰か』に呼ばれて振り返る。笑うその人が手を上げると、空いっぱいに鳥が羽ばたいた。
『これは一体……』
『驚いたか?』
『?』
『紙の鳥が空を飛ぶ。面白い魔法だろう?』
面白い? 違う。あまりも子供じみている。
その理由で、わざわざ高価な白い紙を使う事は誤りだ。ローズの頭の中に、そんな言葉が浮かんで消える。
『……資源の無駄です。一体なぜこんなことを?』
『だって』
呆れたような、ため息混じりの少女の言葉に、彼はどこか悲しそうに声を漏らした。
『……君が、笑ってくれるかと思ったんだ』
『え?』
その言葉にローズの胸が高鳴る。
泣きたくなるほど嬉しいのに、その理由がわからない。
胸が苦しくて、呼吸が上手く出来ない。
「これは……」
まさか。これは――『彼』なのか?
ロイは思わず一歩前に足を踏み出した。
ずっと掴めなかった『友』の行方。
『前世の記憶がある』なんて、人に話して探すことは諦めていた。だが今、その手がかりを見つけた気がして、ロイは目を見開いてその光景を見つめていた。
彼女が何かを知っているなら、聞き出せばいい。いいや、彼女自身が覚えていなくても――魂に残る記憶を引き出せば、『彼』にまつわることがわかるかもしれない。
ロイにとって大切なのは、ローズよりもローズの中にあるかもしれない『彼』の記憶のほうだった。
ロイはローズに対する魔法を強めた。ローズの顔が苦痛に歪む。
「君の魂の記憶を。記憶の中の『彼』を教えてくれ」
「……っ!」
ローズは声にならない声を上げた。
頭の中に反響する叫び声。
悲鳴と慟哭。
曇天も雷雲も、その全てをはねのけて輝くのは、陽だまりのような誰かの笑い声。
自分に微笑みかける優しい声。
白いベッドの中にいるその人が、『こちら』に向かって微笑みかける。
少し痩せたようだ、と何故か思う。けれど、その顔は靄がかかってよく見えない。その人を、自分は知らないはずなのに――今はただその声を聞くだけで、胸がひどく苦しくなった。
『君の手は、温かいな』
触れる手の温もりが、少しだけ硬い手のひらが、自分より大きなその手が、触れ合う瞬間を愛しく思う。
『ありがとう。薔薇の騎士。君の忠義に感謝する』
その声を聞くのが嬉しくて。もっと聞きたいと思うのによく聞こえない。
声も姿も一瞬で、ぼんやりとしたものに変わってしまう。
場面がまた切り替わる。
誰かが、誰かの胸に顔を埋めて泣いていた。
『目を、開けてください。……嫌です。こんなの。こんなのは。こんな別れは』
上手く呼吸が出来ない。
私を置いていかないで。貴方がいなくては生きていけない。それでももう、失ったものは返ってこない。そんな言葉が、頭の中に浮かんで消える。
少女が泣いている。
ローズは胸が痛むのを感じた。心臓の音がしない。目覚めないその人は、兄ではないはずなのに。泣いている少女も、自分ではないはずなのに。
どうしてこんなに、目が離せないのか理解出来ない。
涙が静かに頬を伝う。
「――……私の王様」
自分の唇からこぼれる言葉の意味がわからない。わからないのに、涙が止まらない。
ローズは体に力が入らなかった。
ロイの魔法の仕組みは、ローズにはわからない。
ただ彼の魔法が、かけけられた側の人間に多大なダメージを与えることだけは、確かのようだとローズは思った。
――もう、駄目。これ以上は、耐えられない……。
そんなローズに対して、ロイは非常にも再び魔力を強めようと左手を上げた。
黒い電流が、ローズを襲おうとした時。
「――鳥よ」
その声は、響いた。
「光を纏う聖なる鳥よ、邪なる者の呪法を暴け!」
詠唱と同時、光をまとった鳥が、ロイがローズに絡めていた黒い紐を断ち切っていく。
「他者の魔法の強制的な解除だと……!?」
ロイは後方を振り返った。
本来魔法の解除には多大な魔力を使う。だからこそこの世界に、ロイの魔法を解除できる人間はこれまでいなかった。
しかしそれを、小さな魔力で行うことが出来るとしたら、それはこの世界から失われたはずの魔法だけだ。
紙の鳥を使った魔法の解除。
それは、今は失われたはずの古代魔法の一つ。
「紙の鳥の魔法が有効であれば、俺にだって干渉できる」
リヒトはそう言ってロイを睨みつけると、がくりと崩れたローズの体を支えた。
精神的な負荷がかかりすぎたせいか、ローズの呼吸は浅かった。
――こんなことは許されない。リヒトは唇を噛んだ。
いつも自分の前を歩いてきた人間を、自分が大切に思う人間を、何故かロイは傷付ける。
リヒトが最も得意とするのは光魔法だ。
『光の祭典』――そしてその力もあって、彼はリヒトと名付けられた。しかしそれは、王とは最も遠い力。
誰かの力になりたいと祈る心だけでは、彼一人の力だけでは、世界は動かせない。
本来、人体に影響を及ぼすには多くの魔力を必要とする。だからそんな魔法を、リヒトが破ることは普通なら出来ない。
しかし光属性と対極にある闇の魔法を妨害するだけならば、今のリヒトにも可能だった。まして今回のような、断ち切ればいいだけの糸のような魔法なら。
「貴方が誰であろうとも、この国の人間を傷付ける人間を、俺は許さない」
「まるで『王』のようなことを言う。君はこの国では出来そこないと言われているのだろう? せっかく手を貸してやろうと思ったのに、俺の邪魔をするな」
ロイはリヒトを睨みつけた。
やっと、『彼』に関する手がかりを見つけたかもしれないのに。
ロイにとってのローズなど、所詮その程度の価値しかない。そして、それはリヒトも変わらなかった。
『彼』に比べたら、この世界の殆どは、ロイにとってどうでも良いことだ。
「こざかしい真似はよして正面から戦ったらどうだ? 小手先だけで魔法を操っても、本物の強者には敵わない。そんなものは王とは呼べない」
「守るべき人間を傷付けるようなら、そんな王になるくらいなら、俺は王にはなろうとは思わない!」
リヒトは力いっぱい叫んだ。
「面白いことを言う」
そんなリヒトにロイは一瞬驚いたような顔をして、次の瞬間には彼は、ずっとローズに向けていたような冷たい目で、リヒトのことを見つめていた。
「リヒト・クリスタロス。彼女と婚約破棄した君に、それを言う権利はない」
「……?」
ロイの言葉の意味が分からず、リヒトは首を傾げた。
ローズと自分の破談が、何故今の話の流れで出てくるのか? そう思っている間に、ローズはリヒトの腕の中で意識を失った。
「ローズ。……ローズ!」
名前を呼んでも動かない。
弱り切った彼女を見るのは初めてで、リヒトは唇を噛んだ。
兄といいローズといい、なぜ彼は自分の大切な人を傷付けるのか。そして彼らを守れない自分の弱さに、彼らと肩を並べられない自分の弱さに、腹が立ってたまらなかった。
言い返せない。何も。
「……なんで。なんで、俺は」
――こんなにも、弱いんだろう?
ローズを抱く手に力を籠める。そんなリヒトの姿を、ロイは無感情に眺めて背を向けた。
◇◆◇
「……リヒト様」
目を覚ますと、そこは王宮でかつて魔王討伐の後、ローズが目覚めた部屋だった。
今のリヒトには、人体に影響を与える光魔法は使えない。ただリヒトは、かつてのアカリのように、ローズが目覚めるまでそばにいた。
「ずっと、そこにいてくださったのですか?」
「放っておくわけにも行かないだろ」
当然のように言うリヒトに、ローズは少しだけ胸が痛むのを感じた。
自分に婚約破棄を言い渡した相手。
だというのに、何故自分を助けてくれたのだろう?
ローズには、リヒトの気持ちがよくわからなかった。今だって、リヒトはローズの目をちゃんと見ようとはしてくれないというのに。
「今日の決闘は明日に持ち越されることになった。ローズが見てなきゃ、駄目らしくて」
「そうですか」
「……ローズは」
「はい?」
「俺が婚約破棄して傷付いたか?」
「本人にそれを聞きますか?」
元婚約者の相変わらずの頓珍漢ぶりに、ローズは呆れた。
十年間婚約していた幼馴染に、大衆の面前で婚約破棄されるなんて、普通の令嬢ならもと傷付いて当然の案件だろうに、彼にはそれがわからないのだろうか?
いや、違う。気付かないんじゃない。気付かせられなかったのはたぶん自分のせいだ――今のローズにはそう思えた。
魔力の弱いリヒトを、ローズはこれまで殆ど頼ろうとはしなかった。今になって思えば、自分は彼にとって、可愛げのない女だったに違いない。
「私と貴方は幼馴染だった。婚約は、その延長線上にあったものだったのでしょう?」
「……」
「事実貴方は、私に触れようとはされなかったではありませんか」
今のローズには、ベアトリーチェがいる。ローズには自分に触れる彼らの感触が、まだ残っているような気がした。
自分の手に口づけるベアトリーチェ。
「一年間待ってほしい」そういったユーリは、瞼に口付けた。
そしていつも髪にキスをして軽口を叩いていたレオンは、ベッドの中で自分の手を握る。
そういう触れ合いを、リヒトはローズに与えなかった。
「それに、今はアカリに思いを寄せていらっしゃる」
今のリヒトはアカリを思っている。
自分のような可愛げのない女ではなく、彼女のような人が好きだったから、リヒトは自分を選ばなかったのだ。だとしたら、それは仕方のないことだとローズは思った。
ローズはアカリのようにはなれない。
女の子らしく可愛くて、子どもに向かって笑顔を向ける。弱者を守るためならば、アカリは王にだって立ち向かう。
その自由さや、真っ直ぐさは、ローズには絶対ないアカリの魅力だ。
ローズ自身、アカリの性格を好ましく思っていた。自分がもし男だったら、彼女のような人を選びたいと思うくらいには。
「だから。……私は、貴方と何も無かったことが、今はかえってよかったのかともしれないとも思っています。最初から、形だけの婚約だったから。きっと私は、貴方が誰と結ばれても祝福できる」
ローズの声は震えていた。その声の僅かな変化に、リヒトは顔を上げてローズの方を見た。
「ローズ……?」
しかし今度は、ローズの方がリヒトから顔を背けていた。
「心配されなくても、私はこの国から出て行くつもりはございません。私は、ビーチェ様の婚約者です。あの方なら。あの方となら、きっと私は幸せになれる」
誰もが祝福する、そんな夫婦に。
「だから……私は、大丈夫です」
ローズはリヒトには見えないように、ぎゅっと拳を握りしめた。
「どうかしたのか?」
「いいえ。――なんでも、ありません」
リヒトが心配そうな顔をしてローズに近寄って、触れようとした手からローズは逃れた。
ローズは今リヒトに触れられるのが、何故か少し怖かった。
垣間見せる彼らの心に触れる度に、少しだけ心が動きそうになる自分を戒める。
公爵令嬢であり騎士。次期伯爵《ベアトリーチェ》の婚約者である自分が、他の異性に心をゆるすなど、あってはならないことだ。
「もう、大丈夫ですから。一人にしていただいてもよろしいですか?」
「……わかった」
ローズの言葉に、リヒトは何も言いはしなかった。ただ静かにそう言って、何事も無かったように部屋を出て行く。
扉が閉まるその瞬間、ローズは勢いよく扉の方を見た。けれどだからといって、もう一度彼の名前を呼ぶことは無かった。
自分はこの国に残る。でも彼は――この国を去るかもしれない。
いつだってそばにあった金色は、いつからか遠く感じるようになった。
それは婚約破棄される前から。
いつの間にか生まれた小さなずれは、どんどん大きくなって、今は自分と彼との間には、見えない壁が出来ているような気がローズはした。
「ビーチェ様」
ローズはいつも彼が口付ける手の甲に、自分の唇をそっとあわせた。
誰も選べない自分であることは認める。
でも心が自分に向くまで一年待つと言ってくれた優しい人を、裏切りたくはないと思うことは確かだった。
「いっそのこと、本当に早く貴方に嫁いだ方が、この気持ちは晴れるのでしょうか……?」
大地のような優しさで全てを包み込んでもらえたら、自分の憂いも何もかもから、目を逸らして生きていけるような気もした。
ベアトリーチェと過ごすとき。
ローズの胸は確かに高鳴る。彼は自分の周りにこれまでいなかった部類の人間で、年上の男性で。自分の弱さも何もかもを、全て許してくれるような人だとローズは思う。
でも、だからこそ怖くなる。
全てを彼にゆだねた場合、ローズは自分が、自分でなくなってしまうような気がするのだ。
大切に大切に甘やかされて、自分の全てを肯定されてしまったら――いつの間にかこれまでの自分でさえ、彼の妻としての女性として、造りかえられてしまいそうな気がした。
『妹の破天荒さも、少しは落ち着くかもしれません』
きっとそれは、周りの人間も望むこと。
変わることは、公爵令嬢としては正しい未来なのかもしれない。
でも、自分は――……。
「私は『騎士』で居たい」
この国を守る高潔な騎士。
ベアトリーチェは、ローズにそれを許すだろう。けれど許されても、ローズの心が彼に奪われては駄目なのだ。
愛を囁いてくれるこの人に、相応しい女性になりたいと思う心が、ローズ自身から剣を奪う。
地属性の人間は、ゆっくりとその心を甘く蝕む。
その人間が、傍にいないと生きていけなくなるように。
「ビーチェ、様……」
再び呟かれたその名は、少しだけいつものローズの声より艶っぽかった。
◇
「アルフレッド」
「兄上、ただいま戻りました」
その夜、隠密活動をしている弟の帰還を、ベアトリーチェはいつものように迎え入れた。
父であるレイゼルには許可をとっている。
今のアルフレッドには、伯爵家の門を開く解呪の式も与えられていた。
「大陸の王がローズ様に対して闇魔法を使っていましたが、リヒト王子が助けられたようです」
「リヒト様が?」
ベアトリーチェは思わず聞き返していた。
彼女と婚約破棄したリヒトが、なぜ今ローズを庇うのかベアトリーチェにはわからなかった。
せっかく自分に好意的な存在だというのに、リヒトはロイの反感を買うつもりなのだろうか。
ベアトリーチェは顔を顰めた。
状況がまるでわからない。アルフレッドの情報だけでは、自分が見て得られる情報からは劣ってしまう。
「……傍で守れないことがもどかしい」
「あ。そういえば」
わざわざ自分の為に情報を集めてくれてる弟に悪いとは思いながらベアトリーチェがそう呟くと、アルフレッドが思い出したかのように言った。
「ローズ様が悩ましげな声で兄上の名前を呼ばれていました」
「はい?」
それは嬉しいような傍で聞きたかったような。いやでも、どういう状況なのか……?
◇◆◇
一方その頃、アカリは机に向かって頭を抱えていた。
「ゲームに存在しないはずの要素。同じ要素。それをふまえれば……」
アカリはそう言うと、さらさらと紙に文字を書きだした。
『誓約の指輪』
『ベアトリーチェ・ロッドの初恋』
「ゲームに、シャルルちゃんは多分いなかった」
羽の付いたペンを手にしたまま、アカリは目を瞑る。
――赤ずきん、おおかみ、おおさま。そこから導き出されるのは――……。
「もしかして……『シャルル・ペロー』?」
アカリは記憶力がいい読書家だ。
病院でやることがなかったせいもあるが、彼女はこれまで沢山の本を読んできた。
『グリム童話』、『ペロー童話』。
アカリの知る世界には、そのように呼ばれていた童話が存在していた。
アカリの記憶では、『赤ずきん』はそのどちらにも組み込まれていたはずだ。
「確か……大陸の王のキーアイテムは……」
『Happiness』には、キャラクターごとにグッズ展開のためアイテムが設定されていた。
リヒトが指輪。
ユーリは赤い紐。
ベアトリーチェは四つ葉。
そして、『大陸の王』は――……。
「『開かない箱』」
アカリはゲームの途中でこちらの世界にやってきた。
リヒト、ユーリ、ギルバート、レオン、ベアトリーチェ、ロイと攻略するつもりだったため、レオンの話の途中までしか知らないアカリは、ロイに関してわかっていることはそれだけだ。
「ああもうっ!!! 肝心なことがわからない! 攻略サイト見ておけばよかった……!」
ベアトリーチェのことはたまたま少し知っていたが、一度読んだら忘れられないアカリは、『ネタバレ』を読んではいなかった。
「とりあえず、ローズさんに相談しよう。何かいいアイディアを出してくれるかもしれないし」
アカリはそう言うと、ローズにあてた手紙に触れて魔力を込めた。すると紙は自ら形を変え、丁度鳥のような形に変わる。
「ローズさんが違う国に行ってしまうなんて、絶対嫌」
アカリは窓を大きく開いた。
夜の冷たい外気が、温かな室内に入り込む。
夜の空気は、春とはいえまだ寒い。
いや、春と冬しかないこの国にとっては、季節の変わり目である今は寒くなる時期なのかもしれない。
ここはアカリが生きてきた世界ではない。
でも、そんな世界で唯一信じたいと思った相手を、アカリは失いたくは無かった。
「ローズさんのところに、飛んでいけ!」
アカリはそう言うと、紙の鳥を夜空へと放った。
◇
「アカリから……?」
公爵家の自室でアカリから手紙を受け取ったローズは、彼女が書いたまだ拙い字の手紙を読んで首を傾げた。
何かいい案があれば教えてほしいとあるが、今日の事件もあってか、ローズは頭がよく回らなかった。
「『シャルル・ペロー』?? 『開かない箱』……?」
手紙に書かれた、気になる箇所を読み上げる。
やはり駄目だ。今はまだ頭痛がする。
昼間の魔法の影響で、ローズが頭を押さえて机に手をついていると、とんとんと扉を開く音が聞こえた。
「ごめんください。ここをあけてください」
その声は、ローズのよく知る人物の声だった。
「シャルル?」
ローズは扉を開けた。
廊下に立っていたその子どもは、真っ黒なローブを羽織って、籠の中に真っ赤な林檎を持っていた。
「おいしいりんごをもってきました」
「私に、ですか?」
自分に心を許してくれたということだろうか? ローズはそう思ってシャルルに尋ねた。
シャルルは大きく頷いて、林檎のうち一つをローズに差し出した。
「たべてください」
「?」
子どもからの贈り物を無下にすることが出来ず、ローズは彼女から林檎を受け取って少し齧った。
黒いフードを被った少女。籠の中には艷やかな赤い林檎。それが何を意味するのか、ローズにはわからない。
ローズが林檎を食べたのは、ほんの少しだけだった。けれどその瞬間、ローズは体に違和感を覚えた。
体が動かない。
「しゃ、る……る……?」
「おきさきさまには、わがくににきていただかねばならないのです」
体がしびれて声が出せない。何が起きているのかがわからない。
床に膝をついたローズを、子どもは無感情に見下ろしていた。
「どう、して……」
「おうさまのねがいは、わたしのねがい。そのためなら、わたしは……」
その言葉の続きは、もうローズには聞こえなかった。