「カカオって美月のこと好きだったんだ」

 秋山君が見えなくなった途端に保健室のそばの曲がり角から顔を出したのは蘭々だ。手にはクラス全員分はありそうなプリントの束を持っている。

「蘭々……そういえば日直だから職員室に呼ばれてたね」

「教室に戻ろうとしたら詩織とカカオが話してるのが見えて珍しいって思ってつい立ち聞きしちゃった。ごめん」

「私もごめんねー」

 蘭々の後ろから秋野さんも顔を出した。

「職員室で偶然会ったんだ。それよりカカオが部活やめようと思ってるってほんと? その辺だけ声が小さくてうまく聞き取れなかったんだけど」

「うん。今のところ辞める七割続ける三割くらいらしいよ」

 それを聞いた蘭々はひどく落ち込んだようにうつむき、持っていたプリントの束が蘭々の手からするりと落ちて廊下にぶちまけられた。

「もーどうしたのー? 蘭々」

「付き合い長いって言ってたけど、蘭々がそんなに落ち込むくらいのことなの?」

 秋野さんと一緒にプリントを拾いながら蘭々に尋ねると、蘭々は私たちから受け取ったプリントを胸の辺りで抱きしめながら目を細めて優しく微笑む。

 何かを懐かしむようなその仕草は、今やすっかり清楚な美人となった蘭々の容姿にぴったり似合って、私も秋野さんもつい見とれてしまう。

「小学一年生の頃からプロのサッカー選手になりたいって言ってたんだ。その頃から体は皆より小さかったけど小学校の間は学校で一番上手かった。でも中学生になったらかなり体格で不利になってきて努力だけじゃどうしようもなくなってた。高校でもそう」

「詳しいね」

「私、小学校までは男子に混ざってサッカーやってて,中学でもサッカー部に友達多かったからね」

「えー? 初耳―どうして教えてくれなかったのー?」

「だって中学に入ってからは全然やってないからなんか恥ずいじゃん」

 思い返してみれば、蘭々はおしゃれ大好きで体育だるいと思ってそうみたいなイメージに反して運動神経が良かった。偶然ではなく小学生時代に培われたものだったのか。

「私のことはいいの。カカオは小学生のときの私の憧れの選手だったからさ、中学でも高校でも内緒で応援してたから、辞めちゃうのはなんか寂しい」

 秋山君は十年近く目指していた夢を諦めようとしている。体格という努力では乗り越え難い壁を前に、立ち向かうことを辞めようとしている。

 秋山君が今、どんな感情を抱いているのか私には分からなかった。本気で努力してきたことを諦めなければならないときの気持ちは私が未だ抱いたことがない感情だ。

「ま、あいつ切り替えも立ち直りも早いから大丈夫だよ。部活やめても勉強で新しい目標見つけるだろうし、また別の人を好きになるよ、きっと」

 蘭々もサッカーを諦めたのだろうか。それとももっと興味を惹かれることができたのだろうか。

 当時学校で一番上手かった秋山君を憧れの選手というくらいには本気で取り組んでいたはずだから、ピアノも吹奏楽も諦める以前にたいして本気でやっておらず、なんとなく辞めた私とは違うのだろうと思う。

「ごめん、真面目な話はなしにしよっか」

 しみじみと語っていた蘭々が表情をパッと明るくした。

 その通りだ。夢とか将来とか大事なことだけど今日のこの日に辛気臭い話題は似合わない。

 今日は皆でドキドキする日だ。

「んーじゃあ最後に真面目な話を一つだけして良いー? 私がさっき職員室にいた理由なんだけどー」

 右手の人差し指を唇に当て、小首をかしげながら秋野さんが言った。

「確かにそれは気になる。担任と学年主任の先生と話してたよね」

「えっとねー私も四月から春咲さんと同じクラスになることになりましたー。あ、これから詩織って呼んでも良いかなー? 同じクラスになるんだしー。萩原さんも美月って呼ぼーっと」

「それは構わないけど、いったいどうして……?」

 先生に言えばまだ変えられるのは秋山君で確認済みだが、秋野さんは蘭々や大石さん、小畑さんと同じく専門・就職コースを希望していたはずだ。それをいきなり特進コースに変えたとなると何か大きな心境の変化があったに違いない。

 秋野さんは私の問いに「んー」と考えながら私の背中側に回って私に抱き着いてきた。ほんのりチョコの香りがして、朝のチョコパーティの他にも休み時間に他の人とチョコを食べていたのが想像できる。

「ちょ、心愛何やってんの、ずるい」

 私と秋野さんの正面にいる蘭々が焦ったように的外れなことを言っている。

「三学期になって詩織や美月と仲良くなったでしょー。二人を見てたら私も頑張んないとなーって思ったのー」

「確かに心愛はうちら四人の中だとダントツに頭良いもんね。まじでうちらと同じコースで良いのって思ってたもん」

「え? そうだったの?」

「あーひどーい。頭悪そうだと思ってたでしょー? これでも学年五位から下にはなったことないんだからねー」

 秋野さんは私の頬を人差し指で突っつきながら自分の頬を膨らませる。そのもちもちしたほっぺを突っついたら面白そうだと思って私も人差し指で突っつき返すと、反撃されるとは思ってもいなかったであろう秋野さんは目を丸くして口からプッと小さく息を漏らした。

 美月とは励まし合ったりするために手を繋ぐことはあったけれど、こういうスキンシップはしたことがなかったので新鮮で楽しい。

 笑顔で頬を突っつき合う私たちを蘭々が物欲しそうな目で見つめていることに気がついた。

「私も混ぜろ」

 そうやって三人で頬を突っつき合ってはしゃいでいるとガラッという大きな音を立てて保健室の扉が開いた。白雪先生が冷たい目で私たちを見つめている。

「保健室の前で騒いでる奴がいるなと思ったらあんたたちか。詩織が遅いから約束の時間まで少ししかないよ。どうすんの?」

「あ、すみません。すぐ行きます。ごめんね、蘭々……心愛。美月と約束してるから」

「そうだったね。伊織君が来る前の最後の作戦会議。頑張ってね」

「じゃあねー」

 二人と別れて白雪先生と一緒に保健室に入る。時計を見ると伊織が来る予定の時間まであと十二分しかない。急いでお昼ご飯を食べなければ。

「それにしても詩織があんな風に友達とはしゃぐとは思わなかったよ。まるで本物の女子高生みたいだった」

「え、私は正真正銘の女子高生ですよ。何言ってるんですか?」

「はは、ごめんごめん。詩織ってうちの生徒にしては妙に落ち着きがあったからさ。初めて会ったときと比べると結構変わったよね。良い意味で」

「時々言われます。明るくなったって」

「良いことだ。さ、お昼食べようか」

 最後の作戦会議には美月の師匠である白雪先生も参加する。と言ってももう結果は決まっているようなものなので、ウキウキしている美月をおかずにお昼ご飯を食べるだけの会だ。

 美月が語る伊織との思い出や付き合ったらしたいことの話はもう何度も聞いているが、何度聞いても聞き飽きない。それを語るときの美月の表情がとても楽しそうだからだろう。

 約束の時間ちょうどに伊織は保健室に訪れた。私が同席していてはさすがの伊織も恥ずかしいだろうということで私は伊織と入れ替わるように保健室を出ることになっている。すれ違いざまに見た伊織は緊張しているのか硬い表情をしていた。

 この後は移動教室などで忙しいため放課後まで美月には会う時間はない。私はこれから待っている自分の告白を忘れるくらいに二人の今後にワクワクしながら午後の授業を過ごした。