好きな人がいる。片思いしてる。
コートに立っている時の、正面を鋭く睨みつけた真剣な顔が好きだった。
練習前に行われる準備運動のクライマックスは、体力づくりのために体育館の周りを走る『外周』と呼ばれるもので、走り終えた人から体育館に戻ってきて休憩時間に入る。
女子バスケ部はさっき外周がはじまったところだけど、男子バスケ部はそろそろ戻ってくる頃。タオルを持って待っていると、一人目が戻ってきたところだった。息はあがっていて、苦しそうに肩が上下している。それから体育館の壁にもたれかかって、ずるずると倒れこんだ。
「お疲れさま、二見沢」
タオルを手渡すと、苦しげだった瞳が力を取り戻し、こちらを見つめ返す。走っている時とは違う穏やかで、優しい光を湛えていた。
そして切り替わり、笑顔が弾ける。にこっと擬音でもついていそうなほどわかりやすく、くしゃりと顔を緩ませて二見沢が言った。
「西那センパーイ、たっだいま! タオルあざっす」
「はー。ふかふかのタオルきもちいいー」とタオルに顔をうずめて喜んでいる姿は、昔飼っていた犬を思い出す。その犬も楽しそうに外を駆け回って家に入る前、お気に入りのふかふかのタオルで何度も足踏みしていた。
それを思い出してくすくす笑っていると、二見沢が顔をあげた。
「なあにー? センパイ、ニヤニヤしちゃって」
「二見沢って昔飼っていた犬に似てるんだよねー。実は犬だったりする?」
「オレは人間です! ってか犬飼ってたことあるんすね。いがーい!」
「白のもふもふサモエドね。写真あるから今度見る?」
「みるみる。西那センパイ優しいからだーいすきっ」
と言って、ぴょんと跳ねて抱きついてくる汗だくの塊。ふわりと揺れた二見沢の髪と服越しに伝わる体温に、緊張してしまう。
誰にでも抱き着いたり手を掴んだり、二見沢の距離感がおかしいってわかっているけれど、心臓はどくどくと急いていて、声が震えた。「二見沢ったら」と呆れたように言いたいのに、うまく言えない。
「まーた《《ふたみん》》が、じゃれついてんぞ」
そうして話している間に次々と男子部員が戻ってきて、二見沢に声をかける。ふたみん、というのは一部が使う二見沢のあだ名だ。
「ほら、西那マネを離してやれって」
「えー、じゃあ今度は誰にしよっかな」
部員に言われて、二見沢は唇を尖らせて離れていく。そしてきょろきょろと体育館入り口を見て標的を探していた。その視線は戻ってきたばかりのバスケ部一年生一ノ瀬で止まる。
「あ、イッチー発見! 抱きつき攻撃をおみまいしてやる! モテる男に攻撃だー!」
「うわっ何するんですか、ふたみん先輩!」
だだっと駆け出し、一ノ瀬に抱きつく。さっきの私にしたものと同じように。
嫌がる一ノ瀬とじゃれつく二見沢と。それを見ながら笑っているバスケ部男子部員たちと一緒に、私もくすくすと笑う。
二見沢は誰にでもああやって接するから、私だけが特別なわけじゃない。ハグなんて他の国じゃ挨拶で、二見沢にとっても挨拶なんだ。
わかっているけれど、少し前のときめきが残っている。特別なんかじゃないのに特別な気持ちを残していく、二見沢とのやりとり。
私は二見沢に片思いしている。去年からずっと。
だけど告白とか、行動を起こしたことはなくて。
だって好きなんだと相手に知られてしまえば、この関係は終わってしまうかもしれない。名前を呼んでくだらない話をして抱きついたりするような、気楽な関係が壊れてしまうのが怖くて。
片思いの結末はハッピーエンドだけじゃない、報われないものだってある。だめだった時が怖いから動けずに、片思いはずるずると続いていた。
って、永遠にずるずると続くものならいいけど。食べ物に賞味期限があるように、片思いにも期限というものがあって。
「集合! 二年生はこっちに集まってくれー」
「はいはーい。二見沢、いっきまーす」
「ちょ、ふたみん先輩、引っ張らないでください! 俺は一年ですって!」
「イッチーも巻きこみ! 引きずってくぞ」
「うげ。首が締まりそうっす……」
じゃれ合っているうちに休憩時間は終わって、二見沢も走っていく。
私もそろそろ仕事をしなきゃ。去年までバスケ部マネージャーは私だけだったけど今年は大豊作。一年生のマネージャーが増えたから、仕事を覚えていってもらわないと。
「西那先輩、次は何準備します?」
「じゃあ次は……」
二見沢は高校二年生、私は高校三年生。同じ場所に通えるのは一年間。
この片思いの賞味期限は、あと一年しか残ってない。
***
「……で、今日も変わらず進展なしかあ」
昼休み。不満そうな顔でお昼ごはんのハムサンドを食べているのは、友達の後藤カナデ。ほおばったハムサンドを飲みこんだ後、両手を大きく広げて言う。
「もっとこう、ばーん! どーん! と進まないもんかねぇ。もじもじしてて見てられないよ」
「そう言われてもさー……」
「いっそのこと『ふたみん』って呼んでみたらどう? 語尾にハートマークつける感じで。あとニナも『ふたみん大好き』って言って抱きついてみるとか」
それができたら片思いをこじらせていないって。心中でツッコミしつつお茶を飲む。購買で買った紙パックのウーロン茶が最近のお気に入りだ。
ニナというのは私のあだ名。名字が西那なのでニナって呼ばれている。
「カナデちゃん、無茶言っちゃだめよ。ニナちゃんだって部活とか学年の違いとか色々あるんだし」
助け船を出してくれたのはもう一人の友達こと久瀬綾乃。
綾乃と私はマネージャー仲間という共通点がある。私はバスケ部、綾乃は野球部のマネージャーだ。数名高校の野球部は今年こそは悲願の甲子園なんて息巻いているので、マネージャーも忙しいみたい。
そんな綾乃が参入してきたことでカナデの目が光る。
「やっぱ『甲子園に連れていく』なんて約束してもらった子は違うねぇ……」
「ちょ、ちょっとカナデちゃん!?」
「いいよねぇ、青春。相手はあの九重でしょ? 何考えてんのかわからない無口男でも青春に染まるんだなぁ……で、もう付き合ったの?」
「付き合ったりとかそういうのは……今は大会もあるし……っていうか私たちそんなのじゃ」
「くー! 両片思いってやつ!? ドラマじゃん、青春じゃん。あーあ羨ましい」
綾乃をからかって満足したのかカナデは机に突っ伏してぼやく。
そんなカナデは恋多き乙女だ。オシャレが好きな子なので、部活に入るよりもアルバイトをして、可愛い服を一枚でも多く買いたいとよく話している。飽き性なところがあるのでバイト先はころころと変わり、『今度のバイトで彼氏を見つける』なんて宣言はよく聞く。
「のんびりしてられないんだよぉ……だってもうすぐ夏じゃん? 秋は受験勉強だし、冬は登校日少ないし。高校生でいられるのってあと少ししかなーい……」
「そうね――ニナちゃんも頑張らないと。二見沢くんと一緒にいられるのって今だけだよ。片思いもできなくなっちゃう」
頑張れってのは二見沢との距離を縮めろという意味であって、その意味が伝わっているから私は頭を抱える。
どうしたもんやら。はあ、とため息を吐いた時、教室の入り口で騒がしい声が聞こえた。
「ちーっす! バスケ部の連絡でーっす! 西那センパイと篠宮センパイいますかー?」
振り返れば、そこにいたのは二見沢だ。話をすればなんとやらというやつ。
目が合うと二見沢はずかずかと教室に入ってくる。上級生の教室でも容赦はない。
「あー、美味しそうな唐揚げ食べてる。いいなー」
一直線にこちらへやってきて、ぐいっと私の肩に顎を乗せる。視線は机上のお弁当に向けられているんだろう。
そのやりとりを眺めていたカナデは「騒がしいヤツきた……」とため息をついているし、綾乃は苦笑していた。
「ひとつ食べる? お腹いっぱいだからいいよ」
「ラッキー! 西那センパイって優しいからだーいすきっ」
「はいはい。じゃあ一つどうぞ」
二見沢は喜んで唐揚げをつまんでいる。それを食べ終えてようやく本題に入った。
「んで、連絡なんですけど。今日は体育館じゃなくて部室に集合になるそうです」
「わかったよ。教えてくれてありがとう。他の人たちにも伝えた?」
「三年生は……あとは篠宮センパイだけっすねー」
そう言って二見沢くんは教室を見渡すけれど、バスケ部三年の篠宮はどこにもいない。
「篠宮くんは、弟さんたちとご飯食べてるんじゃないかな? いつもお昼休みは教室にいないのよ」
きょろきょろと探している二見沢に言ったのは綾乃だ。
「なーるほど! 教えてくれてありがとうございます。で、センパイの名前は?」
「私は野球部マネージャーの久瀬綾乃です。よろしくね」
「久瀬センパイだね、かーわいい名前! オレ、優しいセンパイだーいすきっ」
いつもの流れに進んでハグ……となりそうなところで、私が止める。
「こらこら。綾乃に抱きついちゃだめだって。こわーい野球部の人たちにボコられるよ」
「それは困る! じゃ、オレは篠宮センパイ探してきまーす」
そう言って二見沢が綾乃から離れたので安心する。
放っておいたら綾乃にも抱きついていたんだろう。コミュ力があるというよりも人懐っこさが限界値まで達してフリーハグ男になっている気がする。
他の人にじゃれついているところを見るのは毎日のことで。それが先輩後輩男女関係なく、時には先生だってターゲットになっているぐらい。だから見慣れているけれど。
こじらせた片思いは、寂しいなあと呟いていた。私にしか聞こえない、心のずっと奥の方で。
部活が終わって体育館はがらんと静かになる。
部員たちは今頃更衣室で着替えているのだろう。私たちマネージャーも後片付けをして帰るだけだ。
「西那先輩、用事あるので先に帰りますね」
「うん。お疲れさま。また明日ね」
一年生マネージャーたちを見送って、最後の確認。ウォーターサーバーも片付けたし、洗濯物を干すのもばっちり。部活動日誌は書き終わっているから、私もすぐに帰れそう。
そして体育館の隅に置いてある荷物を取ろうとした時、ぽんぽん、とボールの弾む音が聞こえた。
「あっれー、西那センパイまだ残ってたんだ」
音の方を見れば、そこにいたのは二見沢くんだった。ジャージから制服に着替えてはいるものの、バスケットボールを持っている。
「どうしたの、忘れ物?」
「ちょっと練習しよっかなーと思って。あ、部長と顧問の許可はもらってるんで安心してくださーい」
軽い調子で言った後、制服のジャケットを脱ぐ。ネクタイも外して、ジャケットの上に放り投げた。
こうして二見沢が居残り練習をするのは珍しいことじゃない。何度も、彼は体育館に戻ってきて練習している。
「手伝おうか?」
私が声をかけると二見沢は首を横に振った。
「センパイったらやさしー! でもオレのことは気にしないで帰ってだいじょーぶ!」
そう言って、二見沢はゴールを睨む。普段と違う真剣な瞳。
数度ボールを弾ませて集中力を高め、するりと放つ。
バスケットゴールの真横、いわゆる0度の角度。ゴールリングからは遠く、その位置から放ったシュートが入れば3点入る。スリーポイントシュートというやつだ。
けれど、二見沢が放ったシュートはリングをぐるりと回って落ちた。
それでも諦めない。ボールを拾って再び同じ位置からシュート。それを何度も何度も繰り返す。
二見沢のことを好きになったのは、バスケットボールと真摯に向き合っているこの姿を知ってしまったから。普段との違いに驚いて、好きになっていた。
だから応援したくて、二見沢の元に向かう。
「私、動画取るよ。シュートフォームの確認できるでしょ」
「それめちゃくちゃ助かる。あざまーす」
こちらに向けて話す時はふわりとした笑顔で、でもボールを持ったら変わる。
スマートフォンの液晶には二見沢がつま先から頭のてっぺんまで映りこんでいて、きっとこの動画は消せないと思った。
「オレの好きな選手が、この位置からスリー打つの得意でさ。めっちゃ格好いいんだよー」
私にとって、格好いいのは二見沢だよ。
そう伝えられたら、楽なのに。
放ったシュートはリングに弾かれて、落ちた。
***
賞味期限はあと一年を切っている。わかってはいるけれど、なかなか動くことは難しい。
その日は春なのに少し暑くて、放課後になってもなかなか温度は下がらなかった。部活はあるけれど、今日までに提出しないといけないグループワークのプリントがあって、私は教室に残っていた。
「はー……夏がきちゃう。彼氏ほしい」
「はいはい。頑張ろ」
「ニナだってさー……がんばらないとさー……」
ぼやくカナデを宥めてプリントを進める。カナデのやる気はゼロになっているのかまったく進んでいないようだった。
「書かないと終わらないよ」
「だってめんどうだしー……こんなんやらなくてもよくない? 勉強なんかしなくたって大人になれるっつーの」
「私、書き終わったから部活行っちゃうよ?」
「そーれーは困るー。プリント見せてー、助けてー」
こうしてカナデに付き合っているうちに、時間はどんどんと過ぎていって。居残りから解放されたのは、とっくに部活の始まっている頃だった。
部活に遅れることは伝わっていると思うけど、私以外のバスケ部マネージャーは一年生だから不安になる。駆け足で体育館へ向かった。
体育館について、女子更衣室を目指す。動きやすいジャージの方が楽だから、まずは着替えよう――と思っていたけれど。
「――そういうところ、あざとくて嫌いなんだよな」
「わかるわかる」
ぼそぼそ、と聞こえてきたのは男子の声。水飲み場の影で男子たちが話しているらしい。
聞いてはいけない会話だと悟って、とっさに身を隠した。掃除用具入れの影に座りこむ。
今日体育館を使っているのはバスケットボール部だけ。ということは男子バスケ部員、ここで話しているってことは休憩時間なのかも。
声から察するに二見沢じゃない。三年の篠宮でも一年の篠宮弟でも一ノ瀬でもない。おそらく二年生だと思うけど誰だろう。気になって聞き耳を立ててしまう。
「みんなに好かれようとしてるのバレバレじゃん? 女子バスケにもいい顔してるし」
「八方美人だから、二見沢は」
出てきた名前に、心臓がどくりと大きく騒いだ。私のことではないのに、なぜか胸が苦しくて嫌な汗が出る。
この人たちは二見沢の悪口を言っているんだ。状況を理解すればするほど苛立っていく。
「三年を差し置いて二見沢がスタメンっての許せねー」
「あいつが先輩の気持ち汲むなんてできないっしょ、目立ちたがり屋だから」
「顧問と仲いいからさ、仲良し選出あるんじゃね?」
「ありそー。こないだ顧問に抱きついてたの見た。おっさん相手によくやるよ」
彼らは、スターティングメンバーに二見沢が選ばれたことで不満を抱いているようだった。
男子バスケ部は人数が多いから全員が表にたてるわけじゃない。ベンチに入れない子だっている。選出基準は年齢じゃなくて実力だから。
それに私は知っている。
二見沢が選ばれたのは八方美人だからでも運でもない。彼の努力があったからこそ。
元から足は速いけれど、入部したての頃はスタミナがなくて外周も辛そうだった。体力づくりをして走りこんで、今じゃ男子部員の外周で最初に帰ってくるぐらい体力がついた。
それだけじゃない。練習は休まないし、積極的に居残り練習もする。バスケ部全体で見れば身長が低い方だから、体格差あっても戦えるようになりたいと言って、遠くからでも打つことのできるスリーポイントシュートを武器に選んだ。そのためにプロバスケの試合を見て研究してる。
二見沢を見てきたから、片思いをしてきたから、私は彼の努力を知っている。
苛立ちは限界に達して、私は掃除用具入れの影から飛び出して廊下に出た。
「こら! そこの二人!」
私が叫ぶと、陰口を叩いていた男子部員二人がびくりと肩を震わせて振り返った。
「げ。西那マネじゃん……」
「ぐだぐだ言ってる暇があったら練習! 実力があるからスタメンになれるの。悔しかったら二見沢を超えるぐらいたくさん練習しなさい!」
よほど人に聞かれたくなかったらしく、私が出てきたことで部員二人は慌てていた。
すみません、と頭を下げて駆けていく。その姿が体育館に消えてからため息を吐いた。
二人が消えれば頭は冷静になって、もっと言えることがあったと考えてしまう。二見沢が人知れず努力してきたことだって伝えたかった。
ジャージに着替えて体育館に入ると、先ほどの二年部員たちは何事もなかったように二見沢と接していた。二見沢もじゃれついて笑っている。
きっと二見沢は影で何て言われていたのか知らない。でもそれでいい。余計なことを知って彼が集中できなくなる方が嫌だから。
練習終わって、いつもの片づけ時間。
今日は私の合流が遅かったから、一年の子たちは先に帰して、片づけを一人でやることにした。中身の残ったウォーターサーバーを片づけて、洗濯物を干す。
ようやく終わったというところで聞こえてきたのはボールの音だった。まだ、誰か残っている。
「……あ」
体育館を覗けば、そこにいたのは二見沢だった。今日も居残り練習するのかもしれない。
「お疲れさま。今日も残るんだ?」
声をかけるとその姿が振り返ってこちらを見る。いつも通り、犬みたいに可愛く笑う二見沢だ。
「おつかれさまでーっす。ちょっと練習しようと思って」
「ちゃんと許可もらった?」
「もっちろん! 部長にはほどほどになって怒られましたけど」
「じゃあ安心だね。動画取る? フォーム確認するなら付き合うよ」
私が聞くと二見沢は「今日は大丈夫っす」と短く言った。
一人で集中したいのかもしれない。残念だけど練習の邪魔をしたくない。私も帰る準備をしようと背を向けた時、二見沢が呟いた。
「西那センパイ。今日は……ありがとうございました」
何のことだろうと振り返れば、ボールは二見沢の手中に収まっている。弾む音はしていない。その瞳はゴールリングではなくこちらを見ていた。
「その……今日の部活中のこと、っすけど」
「あー……もしかして」
二年部員たちが二見沢の話をしていたこと、だろうか。でもあの場に二見沢はいなかったはずじゃ。
「ちょうど男子更衣室にいたから、あいつらの話聞こえちゃって。あんな風に言われるなんてオレ有名人じゃん?」
へらへらと軽く笑っているけれど。二見沢の本心はどうなのだろう。
私なら――私が二見沢だったら。部活仲間からあんな風に言われたら、悲しくなる。こんなに笑っていられない。
「二見沢は……悲しくなかったの?」
「ぜーんぜん大丈夫! 何言われたって気にしなけりゃいいんだし、オレはオレだから好きに言ってくれーって感じ」
本当にそうならいいけれど。私にはその笑顔がぎこちないもののように感じる。いつもよりも明るく元気な声は、本心を隠すためかもしれない。
疑うようにじっと見つめていると二見沢はこちらを見て、いつもよりも落ち着いた声で言う。口元は緩めているけれど、どこか切なかった。
「オレのことかばってくれて、ありがとうございました」
「かばうとかじゃないよ。私は二見沢が頑張ってきたこと知ってるから、あんな風に言われて悲しかった、悔しかったの」
「あははー。西那センパイったら女神さまー! だいすきー!」
その『大好き』は綿あめみたいな軽さで、どこにでもあるもの。よくある甘さの『大好き』なんだってわかってる。毎日聞くじゃないか、その言葉。
わかっているけれど気が急いた。どれだけ二見沢と一緒にいても真剣に向き合ってもらえない。
もっと距離を縮めて、仲良くなってから言えばいいって思ってた。でも違う。このままじゃ、距離が縮まるなんてきっとない。
彼の本心が掴めないことに苛立って。その結果生じたのは、勇気だ。
「私も」
その短い言葉は、口にすればあっという間に空気に溶けていく。勇気なんていらなかったんだってぐらい簡単に溶けて、二見沢に届く。見開いた瞳はこちらを捉えて、動かない。
「…………え?」
「私も、二見沢が好き」
「は……え、いや……それってオレが言う、遊びみたいなやつじゃなくて……」
「二見沢のとはちょっと違うかも。私は、恋愛の方の『好き』だから」
一歩踏み出して、その先にあるものを知っていた。この片思いは一方通行で、二見沢にとって私は特別でも何でもない。彼なりの挨拶で『大好き』と言ってしまえるごく普通の関係。
だからこの片思いは終わる。告げてしまえばやってくる悲しい結末。
実際に二見沢は戸惑っているようだった。困ったように手中のボールをくるくると回して、言葉を探す。
「……そういう風に考えたことなくって」
「うん、わかってた」
「西那センパイのそういう気持ちも気づいてなかったから……ごめん」
告白してしまったことを後悔するほど空気が重たくて、両目がじわじわと熱くなった。気を緩めたら泣き出してしまいそうで、だけどここで泣いてしまえば二見沢をもっと困らせるから手を強く握りしめて耐える。
「だってさ、センパイは『ふたみん』って呼んでくれなかったじゃん。いつも『二見沢』って呼んでたから予想外っていうか……好きとかそういうの、ないと思ってたし……」
これ以上二見沢の前にいるのが辛くて、背を向ける。
「練習の邪魔してごめん。私、帰るね」
やっぱりだめだった。きっと明日から二見沢との関係はぎこちなくなる。前みたいに抱きついてきたり好きって言ったり、そういうのもなくなっちゃう。
言わなきゃよかったと後悔した。でも、言ったからこそ二見沢が向きあってくれた気もして。
早く帰ろう。これ以上ここにいられない。
逃げるように歩き出して――瞬間、ボールの弾む音が聞こえた。
少し遅れて、ぐいと腕を掴まれる。最後に聞こえたのは二見沢の声だった。
「待って」
体育館に響く、言葉。腕は掴まれているところだけ熱いから、立ち止まるしかなかった。ボールの弾む音は少しずつ小さくなって、そのうちに聞こえなくなる。体育館がしんと静かになれば、緊張して騒がしい心臓の音が聞こえてしまいそうだ。
「オレ、センパイの気持ちうれしかった」
頭が真っ白になりそうだった。紡がれた声音が優しいものだったから余計に。
「センパイのこと、真剣に考えるから。その気持ちに追いつきたいから待ってて」
試合終了間際の逆転シュートみたいに。
見えないボールがゴールリングを通る。揺れるネット。終わると思っていた片思いは終わらずに、もう少しだけ続くのかもしれないと予感させる言葉。
「だから……帰らないで。センパイと話していたい。センパイのこと教えて」
あれほど泣きそうだと思っていたのに、すっかり涙は消えてしまって。
彼は微笑んでいた。犬みたいに、懐っこくて可愛い笑顔。
***
それから数日後の朝練。一年生と二年生がコートでシュート練習しているのを壁にもたれかかって見ていると、男子バスケ部三年生の篠宮が隣に並んだ。
「あいつ、変わったねえ……」
「変わったって、誰が?」
「二見沢のこと。誰彼構わず抱きついたり、好きだの軽口飛ばしたりしなくなった」
「あー、それは確かに。前より落ち着いたかも」
最近の二見沢は軽率な行動をとらなくなった。女子バスケの子と喋ったりもするけれど、前みたいな距離の近さではなく一歩引いた位置にいる。
「いいことだね、うんうん。二見沢も頑張っているし、これで僕も安心して卒業できる」
「卒業までまだあるでしょ。篠宮弟とか一ノ瀬が寂しがるよ?」
「ああ、そうだったね。一年軍団が残ってた――と噂したら二見沢だ」
豪快な足音と共にやってきたのは二見沢だった。コートの端の方にいたと思えば大急ぎで駆けてきたらしい。そして。
「西那センパーイ! 疲れたから充電させてー!」
汗だくの塊が肩にのしかかる。抱きついているというより背中に乗っているというか。
二見沢の仕草が甘えている犬みたいだったから、飼っていた犬にしていたのと同じように頭を優しくぽんぽんと撫でた。
「よしよし。いい子いい子」
「ワンワン! 西那センパイ、だいすきー! お手とかしちゃう?」
「……こりゃ前言撤回だ。西那相手になると変わらないねえ」
呆れたように篠宮が言って、歩き出す。
その姿が少し離れてから、二見沢は抱きつくのをやめて隣に座った。
「急にどうしたの?」
「だってさー、篠宮センパイと楽しそうに話してたじゃん? なんかイラッとしちゃって。割りこんじゃいました」
「二見沢の話をしてたんだよ。頑張ってるって褒めてたよ」
「褒められるのはうれしいけどさー……なーんかモヤモヤする」
と説明するも二見沢はあまり納得いかないようで、むすっと唇を尖らせていた。むくれた顔もまた可愛くてくすくす笑っていると、拗ねた声で二見沢は言う。
「……今日も、居残り練習しようと思ってるんだけど。センパイも付き合ってくれる?」
「うん。付き合うよ」
「あといつもの呼び方して? そしたらモヤモヤ吹っ飛んで元気になるから」
コートでは部長が「全員集合」と叫んでいた。けれどまだ二見沢は立ちあがるそぶりを見せなくて。呆れながらもその手を引いて、私は言う。
「《《ふたみん》》――ほら、行こう?」
ふわりと微笑んで、彼は頷いた。
「これならすぐ追いつけそう。つーか、オレの方が追い越しちゃいそう。やばい」
「何ぶつぶつ言ってるの? 部長睨んでるし、急ぐよ」
「はーい。二見沢、いっきまーす!」
体育館中央、みんなが集まっているところに向かって走る。
この片思いは賞味期限が切れる前に、別の形に変わる。きっと。
大好きな人の口から出てきたのは、あっけない『さよなら』だった。
「好きな人がいるんだ。雪花じゃない、他の女の子」
気配なく突然現れた終了宣言によって指先から力が抜けていって、あと少し気が抜けていたらお弁当箱を入れたミニバッグを落としていたかもしれない。
言いたいことも聞きたいこともたくさんあった。まず浮かんだのが『私じゃだめなの?』、次に浮かんだのが『他の子って誰』という疑問。
でも口にすることはできなかった。
彼のことが好きという気持ちが消えていないから。わがままに振る舞うことも感情に素直になることも許されず、いい子のふりをしてしまう。
立ち尽くすだけ。好きな彼の前だからいい子でいたくて、何も言えない。
「雪花とは友達に戻りたいんだ。付き合う前の状態に」
彼はというと罪悪感よりも清々しさが勝ったような顔をしていた。
「付き合う前はいい友達だったじゃん。雪花のこと応援するから、雪花も俺のことを応援してくれ」
どれも快速電車のように右耳から左耳へと通り抜けていく。
好きとか付き合いたいとかそういう幸せな言葉ならば通り過ぎず、止まってくれるのに。
「言いたいことはこれだけだったからさ。今日で別れるってことで。ごめんね」
最後は短い謝罪だった。一方的に別れを告げ、私の言葉を待たずに去っていく。
私が好きだったのは優しい彼だったのに、ここに優しさはない。遠ざかる背は振り返ることさえしてくれなかった。
彼が去って、その足音も聞こえなくなってから、私の時間が動きだす。
潤んでいた視界から絞り出されたように涙が落ちて、校舎裏のアスファルトは染みだらけになった。
今日は晴れているのに、私の周りだけ雨が降っているみたいに。ここだけ天気雨。
その場所から一歩も動かずに泣いていたのは、彼が戻ってきて『あれは嘘だよ』と声をかけてくれるかもしれないと期待していたから。戻ってきてくれると願って、まだ動けない。
そんな私に聞こえてきたのは彼の足音ではなく、話し声だった。
「それって、どういうこと?」
「だから終わりにしようって」
近くで女の子と男の子が深刻な話をしているらしい。終わりって単語から別れ話だと思った。
女の子の声は震えていたけれど、男の子は食い下がる彼女に呆れた様子だった。
それからは「もうやめてくれ」「最初から好きじゃなかった」なんて冷めた声で男の子が語る。聞いているだけで私まで苦しくなってしまう言葉たち。
それに比べれば私はまだ優しい別れ方をしたのかもしれない。女の子に同情してしまって、現場を覗いてみたくなった。
足音を消して壁に張り付き、そっと覗きこむ。その瞬間――パン、と甲高い破裂音が響いた。
覗きを叱るようなタイミングで発せられた音に、びくりと体が震えた。
でもその音は、私ではなく男の子に向けられたもの。
女の子の目は真っ赤なのに眼光鋭く、怒りをむき出しにしている。空中でぴたりと止まった右手の様子から、男の子の頬を平手打ちにしたんだとわかった。
それから女の子は、とどめを刺すように「最低!」と罵った。
平手打ちも罵声も、私が取れなかった行動をしているようで目が離せなかった。こういう別れ方も存在して、こんな感情の爆発もある。何も言えずいい子のままで終わりを告げた私とは真逆。
女の子はいよいよ泣き出してしまったけれど湿度は感じない。怒って泣いて、なのに爽やかな涙。
女の子は「あなたなんて大嫌い」と叫んで背を向けた。数歩ゆったりと進み、それから勢いをつけて走り去る。
風に揺れる長い髪、遠ざかる背にリズムよくフェードアウトしていく靴音。どれも鮮やかだった。
それに夢中ですっかり忘れていた。近くで聞こえる靴音、振り返った男子制服。気づいた時には遅く、彼は私に言った。
「君も別れ話してたでしょ?」
発せられた声は軽い。別れ話も平手打ちもなかったかのように、けろりと晴れた声。
ネクタイの色から判断するに男子生徒は三年生。私のひとつ年上。
そんな彼の姿を見て、真っ先に浮かんだのは『不良』の二文字だった。
数名高校の生徒にしては珍しい金茶色の明るい髪。制服は着崩している。ネクタイを緩めてまでシャツのボタンを開けたのは、首筋に光るシルバーのネックレスを見せるためだろう。
腕にはウッドビーズのブレスレット、耳にはシルバーのピアスがいくつも並んでいる。校則違反の塊だ。
垂れた瞳に整った顔つきは大人びた印象を与えて、いわゆるキケンな雰囲気がする。ちょっと悪い子に憧れる女子に、好まれそうなタイプ。
その不良っぽい男子は、男にしては長めの前髪をかきあげて言った。
「さっき聞こえてきたんだよねぇ。同じタイミングで別れ話かよ、って思ってた」
「す、すみません……」
平手打ちされた彼の顔をまじまじと見るのはいけない気がして俯く。相手が先輩であることや不良っぽい外見は威圧感があって怖い。
怯える私を無視して、男子生徒は校舎の壁に背を預けて座りこんだ。それから、「ねえ」と声をかけて手招きをする。
「こっちおいで。そこで突っ立って泣かれたら、君のところだけ雨が降っているみたいでなんかヤダ」
危険な香りを纏っている人なのに、『雨』という言葉が胸を打った。
だって私も、彼から別れを告げられて泣いていた時、ここだけ雨が降っているようだと思ったから。
それに。不良そうな見た目のくせに優しい声で言ったから。手招きをする仕草も、彼と別れたばかりで傷ついている私の心に響く。
私は彼の隣に座って、膝を抱えた。
「我慢せず、泣いていいよ。俺は泣かないけど」
それはぐずぐずになっていた涙腺を本格的に破壊した。
反論も平手打ちもできずに抑えるだけだった感情は涙となって表に溢れ、名前も知らない人が隣にいることも気にせず、わんわんと声をあげて泣いた。
その間、男子生徒は何も言わなかった。事情を聞くこともなぐさめの言葉もなく、それは少しだけ心地いい時間。
昼休み終了のチャイムが鳴っているのに、男子生徒は慌て教室に戻る様子なく座り込んだままだった。私の視線に気づいたらしい彼が口を開く。
「俺はサボり。元彼女に会うの面倒だから昼寝する。ここがお気に入りの場所だから」
両手をあげて大きく伸びをしてから、座りなおして壁に深くもたれかかる。その動作は眠る前の猫を彷彿として、このまま彼が寝入ってしまうのだと思った。
「君もいていいよ、その顔で教室戻れないでしょ」
これだけ泣いていたのだから私の目は真っ赤に腫れているのかもしれない。まぶたがじわじわと熱い。この様子なら友達も心配するだろうし、疲れた体で授業を受けるのは億劫かも。
それなら授業を休んで、ここでもう少し休みたかった。
授業サボりを決意して座ったままでいると、男子生徒はこちらをじっと覗きこんだ。
「俺が眠くなるまで何か話してよ。誰かと喋っていたら失恋の辛さが薄まるかもよ」
「何か話って言われても……」
気の利いた話は何も浮かばない。失恋したばかりの傷心女子に眠くなる話をしろと要求するのが間違っている気がする。
そもそも彼だって別れ話をしていたわけで、彼だって失恋したはずだ。なのにどうして悠々としているのだろう。
平手打ち元彼女のことなんてすっかり忘れたような振る舞いが鼻について、ついいじわるなことを訊いていた。
「どうして別れたんですか?」
「それじゃ俺の話じゃん。まあいいけど――必要ないと思ったからだよ」
踏み込んだ質問に怒るかと思いきや、あっさりと返ってきて。しかし訊いたことを後悔してしまうほど、彼が語るものは私の胸にざくりと刺さった。
「面倒になってきたから、お別れしておこうかなって。あの子と別れても、彼女は二人いるから困らないし」
「二人ってことは、同時に三人の方と付き合っていたんですか!?」
「うん。そんなに驚くことじゃないでしょ」
三人の女の子と同時に付き合う。つまりは浮気。それを平然と言ってのける姿は、男子生徒に対する印象をがらりと変えた。
ぞっとする。罪悪感なんて微塵もない顔をして、明日の天気について語るように「一人も三人も一緒でしょ」と追い打ちをかけてくるから余計に。
その姿は私の彼氏を思い出した。私と付き合っていたのに、他の人を好きになる。彼氏の姿とかぶってしまったからか、別れ話の時には言えなかった罵声がこぼれた。
「……最低」
「あはは、言うねぇ」
「恋人がいるのに他の人と付き合うなんてだめです」
「恋愛に『一途じゃなきゃダメ』ってルールはないんだよ。自由だから」
「人の気持ちを弄んで、傷つけるのはダメです。彼女さんだって泣いていたじゃないですか」
すると男子生徒は伏せていた瞳を開いて、じっと私を見つめた。薄っぺらい微笑みを張り付けて、言う。
「君だってそういうフラれ方をしたくせに。雪・花・ち・ゃ・ん」
「なっ……! どうしてそれを」
「聞こえちゃったから。二年生の参河雪花ちゃんでしょ?」
考えてみれば、私が彼らの会話を聞いてしまったように、彼らだって私の会話が聞いている。好きな人ができたからと捨てられたその理由をこの人も知っている。
恥ずかしさがこみ上げて顔がかっと熱くなった。
「一途になったところで意味がないんだよ。人間は天気と一緒でころころ変わるんだから、本気になったって無駄だよ」
そこで会話は途切れた。
こっそり様子を窺えば、平手打ちをされた頬が不自然に赤い。いい音を響かせていたけれどその平手打ちも男子生徒の心に傷を作ることはできなかったのだろう。
走り去っていった女子生徒が可哀想で、胸がきゅっと苦しくなる。
空を仰ぐ。悔しいほどに晴れた空で、じめじめとしているのは私だけ。大事に温めてきた恋は失われて、直後に最低男によって傷ついて、なんて最悪な日だろう。
***
こうして昨日、失恋した。大好きな彼氏が《《元》》彼氏になった。
あんな一方的な別れを告げられても、一晩たった程度じゃ気持ちが落ち着くことはないのだと知った。まだ彼のことが好きで、忘れることなんて絶対にできない。
他に好きな人を作ってしまった彼への苛立ちはあまりなくて、苛立ちの矛先は別に向いていた。それはあの浮気性の男子生徒。
同時進行でたくさんの人と付き合っていたなんて最低だ。あんな人、平手打ちされて当然。
なんとか学校へは行ったものの、授業も頭に入らず、寝不足で具合が悪い。こんな状態で体育の授業なんて受けられない。私は保健室で休むことになった。
「失礼します」
保健室の扉を開けて、挨拶してもしんと静か。先生の姿は見当たらない。
テーブルに『席を外しています』と書置きが残っていたので、今頃は職員室にいるのかもしれない。
先生不在時に保健室を使う時は、利用リストに名前を書く。リストを手に取ると、先客がいるみたいで、『三年 三崎』と書いてあった。三台あるベッドのうち一つにカーテンがかかっていたので、先客はそこで眠っているのかもしれない。
気遣って物音を立てないよう、そろそろと移動する。もうすぐベッドに着くといったところで、隣のカーテンが開かれた。
「あ」
先客と目が合うなり、声をあげていた。
だってそれは、まだ記憶に新しい、嫌な人物だったから。
「昨日、失恋した子だ」
会いたくなかった最低な人、再び。
この学校にはたくさんの生徒がいるのに、よりによってこの人と保健室で二人きりとは。
「君もサボりにきたの?」
「違います。体調不良です」
「なーるほど。顔色悪いもんねぇ」
彼は呑気な顔をしてひらひらと手を振っていた。その腕にやっぱりアクセサリーがついている。
彼を無視して空きベッドに入り、カーテンを荒っぽく閉める。これ以上会話する気はないという無言の宣言。
ベッドに潜りこんだけれど、隣のベッドにいる存在がなかなか頭から離れてくれない。リストにあった名前の三崎とは彼のこと。学年は一つ上なので三崎先輩だ。
三崎先輩が最低な人だから苛立ってしまうけれど、どうしても気になることがある。
カーテンを閉める直前に見えた彼の腕。違和感があった。
数名高校では過度なアクセサリーは校則違反。目立たないワンポイントのピアスとか制服のリボンにピアスをつけるのは許されたりとか、そこらへんは取り締まる先生によって様々。でも基本的にはだめ。
校則違反のアクセサリーを三崎先輩はたくさん身に着けていた。ネックレスもピアスも。アクセサリーはどれも色がシルバーで、重厚感のある男物だった。
だけど手首だけウッドビーズのブレスレットだった。ウッドビーズは地味なアースカラーで、そこにトランペットのチャームがぶらさがっている。
派手な髪色や着崩した制服にアクセサリー、不良といった印象の三崎先輩がどうしてトランペットを。どう組み合わせても合わない。手首だけ別人を見てしまったような気分。
深く考えたってわからない、本人に直接聞くのも嫌だった。話しかけたくない。この疑問は頭の片隅に放り投げるしかなかった。
ブレスレットの違和感を忘れると、その代わりに浮かんでくるのが元彼のことだった。気を抜けばすぐにやってくる失恋の痛み。告白した日やデートした時の楽しい思い出が蘇って苦しい。彼氏じゃなくて元彼氏なんだって実感するとただ悲しくて。
また泣いてしまいそうになって、制服の袖を目に押し付けて涙を堪えた。
「ねえ」
カーテンの向こうから三崎先輩の声がした。
「眠くなるまで何か話してよ、暇なんだ」
「……」
「あ、具合が悪いんだっけ? そうだろうね、泣きすぎて眠れなかったんじゃない?」
「……」
「俺さ、失恋したことないんだよねぇ。ねえ、いま何を考えてるの?」
頑なに無視を決め込んでいたものの、カーテン越しに飛んでくる無神経な質問は放っておけなかった。
昨日の別れ話を覗いていた私に対し、失恋を知らないなんてよく言ったものだ。
昨日立ち去った女子生徒のことを思い浮かべ、失恋の痛みを少しでも知ってほしくて私は口を開く。
「いま考えていたのは、元彼と付き合った時のことです」
「付き合えて嬉しかった?」
「幸せでした。これが夢じゃないことを確かめたくて、何度もスマホのメッセージを見たり、電話をかけようとしたり……」
口にすれば鮮明に蘇る高揚感。付き合った日は特に一日中顔が緩んでいた。これから先どんな楽しいことが起きるのか、その隣に彼がいることを想像して胸が弾む。
デートが決まれば、数日前から肌の手入れをしたり服を決めたりと準備していた。その時は緊張していたけれど、今思えば準備している頃から楽しかった。
思い出すのは簡単なのに、もう過去のこと。
一人になってしまった。彼がメッセージを送ったり電話をかけたり、彼の隣で幸せをかみしめるのは、もう私じゃない。別の人になってしまう。
その話をしても、三崎先輩は「へえ」とそっけない態度だった。
チャラチャラと弾むような軽い音が聞こえる。頭に浮かんだのはあのウッドビーズのブレスレットだった。私の話なんて興味ないとばかりにカーテンの向こうでブレスレットをいじっているのかもしれない。
その音はしばらく経って止んだ。三崎先輩が喋る。
「そのうち忘れるよ。楽しかったことも悲しいことも薄れてくるから」
「嫌な言い方しますね」
「俺、先輩だからね。君より恋愛経験だって多いし?」
「遊んでいるだけじゃないですか。そんなのカウントに入りません」
「それでも恋愛でしょ」
飄々とした物言いの三崎先輩と異なり、私の苛立ちは増していた。
だってひどい。忘れるとか薄れるとか、失恋したばかりの人間に言う言葉じゃない。
三崎先輩は失恋したことがないって言っていたけど、それは本当の恋をしてないからだと思う。
本当に相手のことが好きだったら。他の人なんて見えなくなる。突然別れを告げられて、傷つかずにいられない。
先輩の物言いに苛立ち、私は強く言い返した。
「本気で好きになったことがないくせに」
私の言葉は、保健室の空気を止めた。
言ってはいけない言葉だったと気づいたのは私の鼓膜が静寂に慣れた頃で、その間三崎先輩は何も言わず、動かず、ブレスレットの音だって聞こえなかった。
三崎先輩は平手打ちされても特に傷ついた様子なく、からりと晴れた空のようだったのに。カーテンの向こう、今の三崎先輩は晴れた空なんかじゃないという予感があった。平手打ちよりも今の言葉の方が、彼の心に刺さってしまった気がする。
私、言い過ぎたかもしれない。
謝ろうと起き上がったけれど、それを止めたのは、しとしと降る小雨のような三崎先輩の声だった。
「君は元彼と、どれくらい付き合ったの?」
「は? 何ですかその質問」
「答えられない?」
「……二ヶ月ぐらいです」
質問の意図がわからぬまま答えると、カーテンの向こうからくすくすと笑う声が聞こえた。
「ははっ、その程度でよかったね」
「よかった、ってどういうことですか」
「長く一緒にいればいるほど、離れた時の喪失感が強くなるから。深入りする前でよかったね」
小雨のようだと思ったそれは一転して、暴風雨へと変わる。
嵐。私の心を抉る雨風。
失恋の辛さも三崎先輩への苛立ちも積もり積もって大きな渦となる。ぐるぐると渦巻くそれから放たれた言葉に傷つけられ、謝ろうなんて気持ちは消えていた。あるのは怒りだけ。歯を噛み締め、手を強く握りしめる。
「二ヶ月の恋愛ごっこ。大丈夫、君の失恋はかすり傷だからすぐ次に進める――なんて、俺は失恋なんてわからない男だけど」
この失恋が馬鹿にされている。こんな人、嫌い。
感情の爆発を引き留めていた糸がぷちんと切れた。
相手が不良みたいな生徒だとか先輩だとか、そういった恐怖は麻痺していた。
こんな最低男、平手打ちを一発おみまいしてやらないと気が済まない。昨日は元彼に何も言えなかったのに、今日は違った。
嵐。この暴風雨の中心にいるだろう三崎先輩へ。
ベッドの間を仕切るカーテンを荒々しく開いた。そしてベッドで寝転がっているだろう三崎先輩に平手打ちだの罵声だの、とにかく昨日の女子生徒と同じことをしようと思ったのに――
「……え?」
手を振り上げることさえできなかった。
カーテンに遮られていたから、わからなかった。
三崎先輩は後悔を詰め込んだような苦しい顔をして、天井に向けて伸ばした手をじっと見つめていた。
泣いていないのに、三崎先輩の周りだけ雨が降っているようで、胸中に浮かんだ言葉は『寂しい』だった。
嵐だと思ってた。心を傷つける刃みたいな風が吹いていると思ってた。でも違う。
三崎先輩の方が、傷ついた顔をしている。
「お、まさか殴りこみにきた? 見た目より度胸あるじゃん」
私に気づくと、三崎先輩は表情を緩めて、へらへらとした笑顔をこちらに向けた。
雲の切れ間から太陽が覗くような一瞬で、私が垣間見た寂しさは消えてしまった。残っているのは昨日出会った時と同じ、軽い口調の三崎先輩だけ。
どうして。あんな表情していたのだろう。
その疑問はすぐに答えに辿り着き、唇からこぼれていた。
「三崎先輩は、失恋したことがあるんですか?」
何度も『失恋したことはない』と言っていたけれど、嘘だと思った。
私の問いかけに、三崎先輩の眉がぴくりと動いた。
「ないよ。俺は一途じゃない野郎だから」
「嘘ついてます、よね?」
「さあ。どうだろ」
私に向けた返事のくせに、それは三崎先輩自身に言い聞かせているように感じた。
三崎先輩は大きく息を吸いこんで腕を伸ばす。その動作に合わせてブレスレットが揺れた。
カーテンを開けた時に彼は寂しそうに手を見つめていたけれど、それは手ではなくこのブレスレットを見ていたのかもしれない。彼が身に着けるアクセサリーで唯一、シンプルで素朴なブレスレット。トランペットのチャームはかすかに揺れていた。
「こういう話だと眠れないからさ、楽しい話をしようよ」
彼はベッドに寝転んで言った。ブレスレットのついた手は掛け布団の中に隠している。
私も自分のベッドに戻った。
カーテンを閉める気にはなれず、布団に潜り込んでから三崎先輩の方をちらりと見る。視線が合うなり三崎先輩はにやりと笑って言った。
「次に付き合うとしたら、どんな男がいい?」
「別れたばかりの人にそういうことを聞くのはどうかと思います」
「いいじゃん。失恋が薄まるよー」
「じゃあ……一途な人で」
不思議なことに、三崎先輩への嫌悪は薄れていた。嵐のように渦巻いた苛立ちも通り過ぎて、今は穏やか。
「君の一途な男ランキングでいえば、俺みたいな野郎はどうなの?」
「圏外です」
「あはは。はっきり言うねぇ。サイコーだ」
「先輩は?」
「女の子だったら誰でもウェルカム」
「うわ、最低。さすが圏外の人ですね」
三崎先輩はけたけたと笑っていて、それにつられて私の気持ちも緩んでいく。
失恋の傷が癒えたわけではない。でも昨日からずっと抱えていた負の感情がここでは薄まっている。三崎先輩の言う『誰かと喋れば失恋の辛さが薄まる』は正しいのかもしれないと思った。
***
涙腺が崩壊することはないけれど、まぶたや目の周りはひりひりと痛い。お天気で例えるなら、空はどんよりと曇っているけれど雨は降っていないような状態と似ていた。
このまま時間が経てば、綺麗に笑えるようになるのかもしれない。
今日こそはちゃんと昼食を取ろうと、廊下へ出る。
購買に行こうかななんて考えていたのに、私の足は動かなくなった。
だって視界に、彼の姿があったから。
彼が、いる。
人通り多くざわついた廊下。たくさんの人がいても好きな人をを見つけ出す癖はまだ抜けていないから。好きだった背格好や髪形。歩き方まではっきりと覚えている。
だって昨日別れたばかり、まだ好きに決まっている。期待して追いかけそうになってしまう。
声をかけようとした時、その隣で長い髪が揺れた。
「……あ、」
長い髪の毛を辿って愕然とした。元彼の隣にいるのは女子生徒。確か彼と同じクラスで仲がいいって話してた子。
ここにいるのが元彼一人だったら、こんなに辛くならなかった。元に戻ろうと言われる期待をして声をかけていたけれど。
そこで彼が私に気づいた。少し遅れて女子生徒も振り返り、私と元彼を交互に眺めて言う。
「参河さんだ。そういえば二人って付き合っていたんじゃ――」
「別れたんだ! 元彼女だから!」
彼は女子生徒の言葉を遮って、別れたことを主張していた。
慌てた様子から、私は悟ってしまった。
彼の想い人は誰なのか。私と付き合っていたくせに好きになってしまった女の子が誰なのか。
女子生徒へ向けるまなざしは温かく、以前の私が受けていたものと同じ。
付き合っていたからわかる、好きな人に対する態度。それは私ではなく、隣にいる別の女の子に注がれていた。
『別れたくなかった』『私はまだあなたが好き』
様々な言葉が瞬時に浮かぶ。この場で彼に言えたら、失恋の痛みだって和らぐのかもしれない。昨日のように平手打ちをしてみればもっと軽くなるのだろうか。
でも。
「そう……だよ……」
泣くな、泣くな、泣くな。と強く念じる。決壊寸前の涙腺を奮い立たせて、涙なんて一粒も見せないようにして。
彼に新しい好きな人がいるのなら応援してあげたいなんて、この期に及んでもいい子でいたくなる。
私の中にまだ好意が残っているから、彼のことが好きだから、思っていること言いたいことを素直に言えない。
「別れたから。私たちもう関係ないの」
その一言は、本当は胸が張り裂けそうなほどつらい。
元彼も女子生徒も、誰も気づかない痛み。
ついに目端から涙が零れ落ちたのは元彼たちの姿が遠くに離れてからだった。
元彼の前で泣かなかっただけ自分を褒めてあげたい。制服の袖を目に押し付けて涙を隠していると、頭に温かなものが触れた。
「つらいね」
大きなてのひら。なぜか三崎先輩の声がした。
「君はがんばっていたよ」
その手は離れていって、私が顔をあげると廊下を歩いていく三崎先輩の背が見えた。きっと購買に向かうため階段を降りてきたんだろう。すれ違うほんの一瞬の出来事だった。
でもその一瞬が私の涙が止めた。失恋の痛みを三崎先輩のてのひらが吸い取っていった。
『つらいね』って言葉が、誰かにこの痛みをわかってもらえたことが、うれしかった。
「雪花待って。お昼ご飯一緒に食べよう」
ぼんやりとしていた私を現実に呼び戻したのは、友達の蜂須ちゃんだった。
私のことを追いかけてきたらしい蜂須ちゃんは隣に並んで、それから私の視線を追う。そこには三崎先輩の後ろ姿があった。
「……え。あれって三年の三崎先輩? うわ、久々に見た。ってか、なにあの髪色! あんな人じゃなかったのに」
「知り合いなの?」
「だってあの人、元吹奏楽部だよ」
「え? 三崎先輩が吹奏楽部!?」
驚くしかない。だって、吹奏楽部顧問の先生は厳しいと聞いているのであの髪色は許されないし、不真面目そうな三崎先輩がみんなと一緒に演奏している姿も想像できない。
でも吹奏楽部の蜂須ちゃんが言うのだから嘘じゃないはず。昨日だって『テストの点数とれなきゃ部活続けられない』なんて騒ぎながら部活に行っていたから。
「あの人、私と同じペッターだったの。すっごく上手で、演奏会ではソロだって任されてたんだよ」
「トランペット……三崎先輩が……」
「その頃は髪も黒かったし真面目な人だと思ったけど――やっぱりアレが原因なのかな」
髪が黒いとか吹奏楽部とか、予想外のワードが並ぶ中、特に気になったのは最後に語られたもので。アレって何のことだろう。
頭の奥で揺れるブレスレット、トランペットのチャーム。三崎先輩が隠しているものがここにある気がした。
ずるいかもしれないけれど、知りたい。
「三崎先輩に……何があったの?」
「一つ年上の先輩と付き合っていたんだけど、別れちゃったの。彼女の方が他校の不良生徒に惚れちゃったって噂だよ」
「……え? 失恋したことないって、言ってたのに」
「三崎先輩、ショックだったんじゃないかな。別れた後は部活もやめて、学校も休みがちって聞いたけど……まさかあんな派手になってるとは」
きっと三崎先輩は――本気で好きだった人と別れたのだ。
私が三崎先輩に言った『本気で好きになったことがない』を思い出して、後悔した。私はひどいことを言ってしまった。
「……私、謝らなきゃ」
「え? 何の話?」
謝らなきゃ。謝らなきゃだめなんだ。
寂しそうな三崎先輩の顔が浮かんだ。まるで彼のところだけ雨が降っているかのようだった、あの時の。
失恋したことがないんじゃない。傷ついたままなんだ。
三崎先輩は止まない雨の中で、迷子になっているのかもしれない。
***
放課後になってすぐ、私は三年生の教室に向かった。保健室のリストで見たクラスを覗いたけれどあの目立つ容姿の三崎先輩はいない。
もう帰っちゃったのかもしれない。戻ろうとすると、ちょうど三年生が出てくるところだった。肩がぶつかってバランスを崩し、私は扉にもたれかかる。
「悪い。大丈夫か?」
「あ……すみません」
そのクラスでもやけに目立つ、大柄の男子生徒だった。見上げると坊主頭で、先入観から野球部にいそうだと思った。名札には『九重』と書いてある。
「誰か探してるのか?」
「三崎先輩です。帰っちゃいました?」
「……いや、あいつなら昼休み後から見ていない。サボりだろ」
「どこにいるんだろう……」
思えば三崎先輩との遭遇はすべて偶然。連絡先だってわからない。真面目に学校に来ている人なら会えるかもしれないけど、あのサボり癖だから怪しい。
私は九重先輩にお礼を告げて校舎を探すことにした。
一通り校舎を回って探し、それでもだめなら明日にしよう。
広い校舎を端から端まで。屋上も覗いてみた。それでも見つからない。
とぼとぼ廊下を歩いていると、部活動の練習が始まっているらしく金管楽器の音が聞こえてきた。吹奏楽部が使用する音楽室はもっと遠くにあるけど、放課後になって校舎が静かになっているから、ここまで聞こえてくる。
夕暮れの廊下に響く、音。
最後に音楽室の方へと向かってみようかと一歩踏み出そうとし、思い出す。
三崎先輩と一緒に授業を休んだ場所――校舎裏のあの場所は音楽室の真下。そして『お気に入りの場所』と言っていた。
気づいた瞬間、走り出す。
夕暮れの廊下、生徒玄関。私を急かす吹奏楽部の奏でる曲。
様々な金管楽器が弾むように楽しそうに歌っていて、それに背を押されるようにして飛び出す。
息切らしてようやく辿り着いた校舎裏。音楽室の真下にあたるこの場所はどこよりもはっきりと吹奏楽部の曲が聞こえていた。
そこで壁に背を預けて座り込む人物に、私は声をかけた。
「三崎先輩」
伏せていた瞼がゆっくりと持ち上がる。
「……また会ったね。今日はよく君に会う」
へらりと笑っているけれど。知ってしまった私にはもう悲しい笑顔にしか見えなくて。一人冷たい雨の中にいるだろう彼に向けて、頭を下げる。
「『本気で好きになったことがない』なんて言って、すみませんでした」
すると三崎先輩はほろ苦く笑った。
「もしかして……俺のこと、聞いちゃった?」
「……はい」
勝手に聞いたことを怒らず、三崎先輩は「そっか」とあっさり返すのみ。
平静を装ってはいるけれど、ウッドビーズのブレスレットを撫でていて、その手つきは似合わないほどに優しい。
「誰かと喋っていると失恋の辛さが薄まるそうですよ。私が聞きますから、いくらでも話してください」
そう言って隣に座る。三崎先輩は「どこかで聞いたことのある台詞だ」と笑った後、深く息を吸いこんで、それからゆるゆると喋りだした。その横顔は切なく、視線は空のずっと遠くの方へと向けられていた。
「中学生の時に吹奏楽部に入っていたんだ。そこで出会った一つ年上の先輩に憧れて、ずっと好きだった。先輩と同じ高校に入るために猛勉強するぐらいに」
「それで数名高校に入ったんですね」
「吹奏楽部に入って仲良くなって――告白してオッケーもらえた時は、嬉しかったよ。プレゼントでもらったブレスレットだってまだ捨てられない」
ぽつぽつと落ちる言葉は、雨のように。
泣いていないのに三崎先輩の周りだけ雨が降っている。苦しさが混じってじめじめとした、失恋の雨だ。
「……どうして、別れちゃったんですか?」
「他の男を好きになった、だってさ。どこかで聞いたことあるでしょ? 笑っちゃうよね」
三崎先輩が自嘲ぎみに言ったそれは、昨日私が告げられたものと似ていて、息を呑んだ。
知ってしまえば、頭に駆け巡る今日までのこと。うわべの彼だけを見て最低だと罵ってしまったことが恥ずかしくなる。
「私、三崎先輩のことを誤解していました」
「うん?」
「遊ぶ目的で色んな人と付き合っているんだと思っていたけれど、本当は違う。本気で好きになって裏切られるのが怖いから軽くしか付き合えない。色んな子と同時に付き合っていたのも本気にならないため……だったのかなって」
「さあ、どうだろう。どんな理由があったとしても俺は軟派で最低な男だと思うよ」
その失恋の傷がどれだけ深いものか、それは彼の腕に残っているブレスレットが示している。
他の人と付き合ってもなお捨てられず身に着けていたそれは、彼の周りは雨が降り続いているのだと示しているようで。どんな人と付き合っても心は晴れず、雨があがることはなかったのだろう。
私には想像もつかない深い苦しみが、彼の腕に佇んでいた。
三崎先輩もブレスレットを見つめていた。トランペットのチャームを指でつつく。
「――でも反省した。似た理由で別れた君を見ていたら、自分がばからしくなってきちゃって」
「私、ですか?」
「失恋にまっすぐ向き合って、辛いのを押し殺して元彼くんを応援している。そんな君が強いなって思ったんだ。俺はそういうの全部背を向けて、逃げ出しちゃったからさ」
短く息を吸いこむと「もう、いいかな」と呟き、三崎先輩の指がブレスレットをつまんだ。
パチンと乾いた音が響く。そのブレスレットにどんな意味があるのか知ってしまった私には、あっけなく外れてしまうことに驚いていた。
「外しちゃうんですか?」
「ずっと時間が止まっていて、別れようって言われたのが昨日のことみたいだった。でもそれじゃだめなんだ。俺も前向かなきゃ、明日に進まなきゃ」
清々しさと懐かしさを混ぜ、そこに一滴の悲哀を落としたような瞳がブレスレットを見つめていた。なかなか視線を剥がせない様子からおそらく未練は残っている。でも、再び身に着けることはないのだろう。
「はー。手首が軽くなった。今度は本気で好きになれるような子を探すよ」
「そういう目標いいですね。私は、今度は思ったことを素直に言い合えるような人を探します」
「いいねいいね。お互い前向いていこう――って遊びで付き合った子たちと関係清算しなきゃだけど」
「また平手打ちされますね」
「それは困る。いい男が台無しになっちゃうよ」
すっかりいつもの様子に戻って茶化しているけれど、その顔つきは失恋と向き合う決意があって、初めて会った時の三崎先輩とは少し違う。
私だって失恋したばかりで人の心配なんてする余裕はない、はずなのに。三崎先輩の変化が嬉しくて、応援したいと思ってしまった。私がしてもらったように、涙を止めることができるのなら。立ち上がって、三崎先輩の頭を撫でた。
「平手打ちされたらまた話を聞きますよ。がんばれ、先輩」
金茶色に染められた髪の毛は触れてみると、ブリーチで脱色したせいかサラサラしているとは言い難く、傷ついた髪は私の手に合わせて揺れる。励ましているのは私なのに、手のひらに伝わるぬくもりが心地いい。
そんな中、三崎先輩は何かに気づいたように目を丸くして、私を見上げていた。
「――っ、雪花、ちゃん?」
先輩があまりにも呆けた顔をしていて、私がしたことは先輩にとって良くないことだったのではないかと我に返った。
髪に触れる、人に触れるというわけであって。なんて思い切ったことをしてしまったのかと恥ずかしくなる。
「失恋が薄まるかなと思ったんですけど……だめでした? ほ、ほらさっき廊下で頭撫でてもらいましたし!」
慌ててごまかすと三崎先輩はクスクスと笑い出した。
「いや、大丈夫――薄まりますねぇ。誰が思いついたんだ、これ」
「先輩ですよ」
「なるほど。俺、天才だ」
その言い方が妙におかしくて、つい吹き出してしまう。私が笑うと、三崎先輩もつられて笑った。
私たちは似た失恋の傷を抱えていて、まだ立ち直れそうになくて。
でも薄まっている。私は泣かない。三崎先輩の手首にブレスレットはない。
並んで二人座りながら、聞こえてくるのは吹奏楽部が奏でる音色。原曲は流行りの邦楽で別離を歌った悲しいラブソングだったはずが、様々な楽器が音を重ね合えば、どういうわけか悲哀は薄れる。むしろ清々しいのだ。メロディラインを歌うトランペットの音が甲高く駆け抜けていく。走って走って、原曲が歌った悲しいものの先にあるものに辿り着こうとしている。
「ねえ。俺が一途になるって言ったら、どう?」
からかうような質問に、返す言葉は決まっていた。
「圏内に昇格ですね」
オレンジ色の夕暮れに、薄まっていく。
私たちの周りに降る失恋の雨は、止む日がくる。
そして雨があがった時、私たちは――。
私はいつもまんなかを歩いている。
右と左には必ず誰かいて。それは学校に行く時も、ご飯を食べる時も、学校から帰る時も。私はいつも二人の間に挟まれている
「四葉、今日のお弁当ってなに?」
「今日は私が作った焼肉弁当だよ。あと昨日の夕飯残り物のポテトサラダ」
答えると、私の左隣にいる彼は笑う。今年入学したばかりでピカピカの名札には『篠宮』と書いてある。一年生の篠宮翔だ。
入学してすぐの時、『あともう一年離れていたらお下がりの名札がもらえたのにね』と話したら、『兄貴のお下がりはいらねー』とつっぱねていた。名札だけじゃなく制服やかばんもぜんぶ、お下がりは嫌だと主張している。
「それは楽しみだ。四葉が作ったお弁当を食べると午後も頑張れるよ、うん」
口元を緩めてお弁当箱の蓋を開けているのは、私の右隣。こちらも名札には『篠宮』と書いてあるけれど、名札にはヒビが入っている。本人も気づかぬ間に亀裂が入ったそうで、いつ頃からあるものかはわからない。
そんな三年生の篠宮樹。翔のお兄ちゃんだ。
「うんうん。とっても美味しい。四葉はいいお嫁さんになれるね」
樹がそう言った瞬間、翔が「お前……」と呆れた様子で呟いた。けれど樹は弟を無視して、にっこりと笑顔で続ける。
「明日はどんなお弁当なのかな。今から楽しみだよ」
「兄貴、いい加減にしろって。俺たちの分まで作るの大変だろ――四葉も無理しなくていいぞ。俺たちは購買で買えばいいんだし」
樹を制した後、翔が私に向けて言う。
話題の中心にあるのは私たちのお弁当のことだ。私と篠宮兄弟、計三つのお弁当は私が作ってきたもので。
その理由は、篠宮兄弟の家庭環境だった。二人は幼い頃にお母さんを亡くして、お父さんと三人で暮らしている。中学校までは給食があったからよかったけれど、私たちが通う数名高校に給食はない。
それならと手をあげたのが我が家だった。年齢は違うけれど篠宮兄弟と幼馴染で、家族同士も付き合いがある。篠宮兄弟のお父さんが残業の時は、我が家に来て夕飯を食べるような間柄だ。
母曰く、お弁当が二つ増えたところで平気らしい。篠宮兄弟のことを可愛がっていたから特に問題はない様子で。最近は母に代わって私もお弁当を作っている。今日は私が作ったお弁当だった。
我が家のことを心配してくれているのだろう翔に向けて微笑む。
「大丈夫だよ。母さんも私も、二人のお弁当を作るのが楽しいから」
「……それなら、いいんだけど」
「でも、二人だってお友達と食べたいでしょ? 無理して二年の教室にこなくたって――」
篠宮兄弟はバスケ部に入っていて、朝練があるからと家を出るのが早い。朝練のない時は一緒に登校しているけれど、そうじゃない時は二人が先に行ってしまう。お弁当を受け取るため、昼休みになると私の教室にきていた。そのまま二年の教室で食べていくのがいつものことで。
気心知れた幼馴染と一緒にいられるから私は嬉しいけど、二人は友達と一緒にいたいだろう。
樹はバスケ部だけじゃなくて生徒会にも入っているから知り合いは多いし、翔だって同じ一年生のバスケ部の子と仲がいいって聞く。
「うんうん。無理して僕たちに付き合わなくていいよ。翔は明日から一人で食べればいい」
私の言葉をどう解釈したのか、樹は頷きながら言ったのは予想外のもので。それを言われた翔は「はあ?」と眉間にしわを寄せていた。
「一緒にご飯を食べるような友達いるだろう? 一ノ瀬とか。あと二年の二見沢も翔が声をかけたら喜ぶぞ」
「いいって! 俺はここで飯食うの。余計なこと言うなクソ兄貴」
「四葉、今の聞いたかい? 可愛い弟にクソなんて言われてしまった。僕の心が折れそうだよ」
「おい! 四葉に絡むな! っつーか離れろ、くっつこうとするな!」
樹はわざとらしすぎる泣きまねをしてこちらにすり寄ろうとしたけれど、翔が声を荒げてそれを止める。
「兄貴こそ教室戻れよ。変人たちと飯食ってろ」
「僕の友達を変人呼ばわりするのはいただけないね……いい奴らだと思うけど」
「どこがだ! 女みたいな美術部部長に、顔以外残念の生徒会長だろ。そして甘ったれクソ兄貴の変人三連星だろ」
「うーん。改めて言われると僕の友達は変わっているねえ」
翔がヒートアップしそうになったところで私が間に入る。
二人が顔を合わせるといつもこうで、穏やかなお昼ご飯といかず、ささいな出来事を見つけては言い争う。本気の喧嘩じゃなくて、子猫がじゃれ合っているようなものだからいいけれど、でも止めないと美味しくお昼ご飯を食べられない。
「二人ともストップ。樹は翔を煽らない、翔も怒らない」
「……ごめん」
「あと部長のこと悪く言わないこと。私、美術部員の平井四葉だからね? うちの部を悪く言うのは許しません」
美術部部長が変わり者ってことは認めるけど、女っぽいとかそういう言葉はちょっと許せなくて。
じっと睨むと、翔は気まずそうに視線をそらして二度目の「ごめん」を呟いた。
「ほら。仲良く食べよ?」
「四葉の言うとおりだ。翔は反省するように」
「お前も怒られたんだからな!? あと四葉の方にすり寄ろうとすんな!」
「あー、もう! 二人とも騒がない!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐ二人を止めて、ため息をつく。二人と一緒にいるのは楽しいけれど、最近は翔がイライラしていることが多い気がする。樹もそれを煽るからよくない。
逃げるように黒板の日付を見る。もう夏休みに入ってしまう。
樹は三年生だから、高校生でいられるのはあと半年。幼馴染の三人が同じ教室でご飯を食べていられるのもわずかなのに。
「仲良くご飯を食べたいんだけどなあ……」
樹と翔はまだ騒いでいたから、私の独り言は聞こえていない。
***
夏休みはあっという間にやってきて、毎日着ていた制服も休める時期――と思えばそういかないのが高校生活。部活だの夏期講習だの、夏休みでもなんだかんだ制服に袖を通す。
今日も制服を着て学校へ。待ち合わせの時間に家を出ると、樹が待っていた。
「おはよう。今日は呼び出してごめんね」
「暇だったから大丈夫。今日は生徒会のお手伝いだっけ?」
今日は部活も休み、夏期講習もない。学校に行くのは樹に生徒会の手伝いを頼まれたからだ。9月に行われる学校祭に向けて、今のうちから準備をしているらしい。
「四葉の書く字は綺麗だからね。引き受けてくれて助かるよ」
「任せて。こう見えても美術部だし!」
「頼もしいねえ。四葉が生徒会に入ればよかったのに」
数名高校は家の近くにあるから、自転車で通っているけれど今日は樹と二人で徒歩。しばらく二人で並んで歩き、学校の敷地内に入る。夏休みだというのに体育館やグラウンドは騒がしかった。
「翔は部活?」
「今日はバスケ部が体育館おさえているから。朝から夕方まで練習かな」
「じゃあ翔の分、お弁当作ってくればよかったね」
「はは。夏休みまで無理しなくていいよ。あいつはコンビニでおにぎりでも買えば十分」
体育館の横を通るとボールの弾む音や部員たちの声が聞こえた。覗いてみたい気はしつつも通り過ぎて校舎へ。
教室に入るも誰もいなかった。他の生徒会部員がいるのかと思っていたけれど、私と樹の二人だけ。机を避けて、床に模造紙を広げる。
書く内容は樹が考えて、私はそれを清書するだけ。
「9月はやることがたくさんあるからね、早めに準備しておいた方が楽なんだ。でも一、二年生は部活があるから、生徒会にばかり時間をかけていられない。引退して手が空いた三年生たちから準備をはじめるんだよ」
「そっか。樹も引退しちゃったもんね」
ちらりと見ると樹は少し寂しそうにしていた。
数名高校バスケットボール部はどちらも地区大会で敗退。三年生たちは引退し、今は一、二年生たちが練習をしている。バスケ部員として活躍する樹を見ることはなくなった。
「僕以外の三年生は顔を出しているみたいだけどね。マネージャーの子なんて引退後も部活漬けだ」
「樹は行かなくていいの?」
「そこはほら、僕には生徒会もあるから。それに頼もしい二年生たちがいるから僕が行かなくたって」
「そうかなあ……翔は寂しがってると思うけど」
と私が言った瞬間、樹が吹き出して笑い出す。思ってもいなかった一言らしく、肩をふるわせてケタケタと笑っていた。
「ないない。むしろ焦ってるだろうね、あれは」
「最近の翔、イライラしてるみたいだから何かあったのかな……焦るようなことがあったのかな。相談してくれたらいいのに」
「さあ。どうしてだろう――でもあれだね。こうして書いてばかりじゃ疲れるね、眠い」
隣に座っていた樹が、床に寝転がる。手伝ってと言ったのは樹のくせに、このやる気のなさだ。どうしたもんかと見守っていると、樹が私を見上げた。
「ここは膝とか貸してくれる場面だと思うんだけど」
「貸しません。それより早く終わらせちゃおうよ?」
「ゆっくりでいいよ。四葉とのんびりするのが楽しいんだから」
「もー。私は樹の手伝いできたのに、これじゃ作業になりません」
注意しても樹が起き上がる気配はなくて、その姿に呆れてため息をつく。
「……翔の話ばかりしていたら拗ねちゃうよ」
「え?」
「こっちの話。四葉が書く字は綺麗だなって言っただけ」
小さな声で喋っていたから聞こえなかったけれど、字の話はしていなかったと思う……ような。そのうちに樹は目を閉じてしまった。
無視して書き進めたい、けど。油断すればいつ膝に乗ってくるかわからないほどすぐ隣で、樹が寝転んでいる。それになんだか緊張してしまって。
「喉渇いちゃったから自販機で何か買ってくる。樹も何か飲む?」
「緑茶がいい」
「わかった。行ってくるね」
まだ寝転がってサボっている樹を残して教室を出る。
夏休みだから購買は開いていないけれど、自販機は営業中。自販機の前には何人かの生徒がいて、野球部や吹奏楽部の子たちも飲み物を買いにきていた。
樹が好きなメーカーの緑茶を買って次は私の――と自販機に小銭を入れようとしたところで、名前を呼ばれた。
「四葉! なんで学校にいるんだよ」
振り返るとそこには翔がいた。部活の休憩だったのか、首にスポーツタオルをさげている。
「今日は美術部なかったよな。忘れ物でもしたのか?」
「ううん。樹に頼まれて生徒会のお手伝い」
「は……? 樹が?」
樹から聞いているのかなと思ったけれど、その反応を見るに知らなかったらしい。私を見つけて驚いていた顔は次第に曇っていく。
「なんだよそれ。四葉は生徒会と関係ねーだろ」
「そうだけど。手伝っちゃだめだった?」
「だめじゃねーけど……でもなんで樹と……」
樹の手伝いを、翔はよく思っていないらしい。苛立っているのがわかる。
いや樹の手伝いではなく、樹に関わっていることが嫌なのかもしれない。一緒にご飯を食べている時だって、樹に突っかかってばかりいたから。
どうしたらいいのだろうと言葉に悩んでしまう。何も言えずに翔と私、二人うつむいたまま。
そこへ声をかけてきたのは翔の友達らしい男子生徒だった。バスケ部員共通のTシャツを着ていることから同じ部活だろう。彼はいちごミルクの紙パックを手にしていた。
「何してんだよ、早く戻るぞ」
声をかけられて我に返ったのか、翔が顔をあげた。そして。
「あとで行くから」
「部活あるんじゃないの?」
「なんとかする」
それってなんとかなるものかな。疑問に思ったけれど、詳しく聞くことはできず、翔は友達と一緒に歩き出してしまった。
翔がきてくれたら、サボっている樹を叱ってくれるかもしれないけれど、そのために部活を抜け出してくるのは嬉しくはない。
樹と翔は仲がよかったはずなのに最近はかみ合っていない。いつからこんな風になってしまったんだろう。
教室に戻ると樹は椅子に座って待っていた。
「おかえり。ずいぶん遅かったね」
「自販機のところで翔に会ったの。あとで行くから、って言ってたけど」
「やだなあ。あいつ来なくていいのに」
やっぱり。樹も翔を遠ざけるようなことを言う。
「樹は翔のことを煽りすぎ。兄弟なんだから仲良くしないと」
「ううーん。それは難しいなあ。いくら兄弟だからって譲れない時もあるんだよ」
私は一人っ子だから兄弟がいる気持ちはわからない。譲れない時というものを想像してみるけれど、どんなものかいまいちわからなくて。首を傾げていると樹が笑った。
「四葉は気にしなくていいの。だから膝枕してよ、僕は眠いんだ」
「サボろうとしない! 膝枕もしません!」
「じゃあ肩でいいから。四葉にもたれかかって眠ったらいい夢が見られそう」
「私は枕じゃありません!」
「じゃあ膝にしよう」
反論するも樹は聞かず。隣に座ったと思いきや、膝に頭を乗せた。生徒会の仕事はどこへ消えたというぐらい潔くサボっている。
「四葉は可愛いなあ」
「もー! これじゃあ進まないよ」
「終わらなかったらまた明日学校に来ればいい。僕も来るから」
開き直っている樹をどうすべきか迷っていると、廊下の方から足音が聞こえた。慌ただしく階段を上る音。そして。
がらりと教室の扉が開き、そこにいたのは翔だった。体育館から着替えずに走ってきたらしくTシャツは汗で濡れている。
「げ。もう来ちゃったのか」
膝で寝転んでいる樹がうんざりとして呟く。翔はというと、私と樹の状況を見て固まっていた。
「……兄貴、何してんだよ」
翔の声は低く、わかりやすいほど怒気がこもっている。対する樹はというと、開き直って飄々としていた。
「四葉と生徒会のお手伝いだよ」
「そうじゃなくて。何で、四葉にくっついてんだって話」
「僕が眠たくなっちゃったから仕方ない」
「いいから離れろクソ兄貴」
「はいはい、わかった」
翔の苛立ちをようやく受け止めたらしい樹が起きあがり、私の膝も解放される。
「部活はいいの?」
「抜けてきた。俺も手伝うから、さっさと終わらせよう」
「翔はこなくてもいいよ、僕と四葉で頑張るから」
ぶちぶちと不満をたれている樹だったけど、翔がきたことで気持ちが切り替わったのか、先ほどのようにサボることはなくなった。作業も順調に進んでいく。
マーカーを握りしめて、模造紙に字を書いていた翔が言った。
「四葉。今度から、兄貴が変な頼み事したら断っていいからな」
「私は平気だよ。今日も部活なかったから手伝えたんだし」
「そうやって甘やかすから兄貴がつけあがるんだ。この仕事だって四葉がやらなくても他のやつがやる。あと膝枕だってしなくていい」
ちらりと見れば翔はまだ怒っているみたいだった。樹も口数が減った。あんなに楽しそうにしていたのに、翔が来てからつまらなさそうにしている。
この空気を払拭できないかと考え、思いだしたのは明日の夏祭りだった。
「明日の夏祭り、二人とも行く?」
近くの神社で行われるお祭りで、毎年三人で回っていた。今年も三人で行きたかったけれど、ここ最近の二人はあまり仲がよくないから誘い辛かったのだ。
「行く。四葉も一緒に行こう」
先に答えたのは翔だった。続いて樹もこちらを見る。
「僕も行くよ。翔と四葉だけじゃ心配だからね、うんうん」
よかった。今年も三人で回れそう――なんて安堵するも、数秒後にそれは崩れた。翔は握りしめていたマーカーを置いて、樹をにらみつける。
「兄貴は家にいていいよ。さっき膝枕してもらったんだろ、空気読めよ」
「空気って読むものじゃないでしょ。ちょっと僕にはわからないなあ。どうやって空気を読むのか見本を教えてもらいたいねえ」
「うだうだうるせーな。家にいろって」
「翔こそ部活で忙しいだろう。家で休んだ方がいい」
ああ、また。ただ夏祭りの話をしただけなのに、二人は小競り合いを始めてしまった。いつものように言い争うだけで済むならいいけれど今回は少し違っていて。
「明日は俺と四葉が行くから。兄貴は来なくていい」
それは怒りとは違う、しんと冷えた声。翔の真剣な表情に応えて、樹も鋭くにらみ返す。
「そこまでして僕をおいていきたい理由ってなに?」
「それは……」
「うん? 言えないのかな。じゃあ大した理由じゃないんだろうね」
苦しそうに言い淀む姿に、胸が苦しくなった。翔がそんな表情をしていることがつらくて、そうさせているのが樹ということもつらくて。
いつもいつもこうして言い争ってばかり。その苛立ちが、ついに爆発した。
「二人ともいい加減にして!」
私が声を張り上げると、驚いた二人の視線がこちらに集まる。
「最近二人とも喧嘩してばかり。どうして仲良くできないの!?」
「仲良くって言われても俺は……」
「樹も翔も! 私たち三人が同じ学校にいられるのは半年なんだよ、言い争いばっかりじゃやだよ」
「ごめんね、四葉。でもこれは――」
樹が言いかけた言葉を遮って、宣言する。
「夏祭り。私一人で行く」
***
家が近いと帰り道も一緒なもので。普段は気にならないけれど、喧嘩した後だと距離の近さが憂鬱になる。樹はまだやることがあるからと学校に残って、帰り道は私と翔の二人。
夏祭りお一人様宣言から私たちは気まずいままだった。翔もその気まずさを認識しているらしく、おそるおそるといった様子で私に聞いた。
「四葉、まだ怒ってる?」
「うん」
「それって、俺と兄貴が仲良くしないから、だよな?」
「うん」
うん、と短く答えているのは私の怒っていますアピールであって。それを受けて翔は困ったように頬をかく。
「だって。せっかく三人集まっているのに言い争ってばかりは嫌だもん。誰か一人はおいていくとか二人で行くとか、そういう話で喧嘩してほしくない」
「……四葉の言いたいことはわかる、けど」
そこで翔の足が止まった。どうして立ち止まったのか気になって、私は振り返る。
翔は、見たことないぐらい真剣な顔をして、でも少し照れているのか顔が赤い。そして、言った。
「俺は、三人じゃなくて四葉と二人がいい。四葉の特別になりたいから」
「特別? 私にとって二人とも特別な幼馴染だよ」
「そうじゃない。幼馴染じゃなくて、友達でもない。俺たちは――」
翔が言いかけたものは、どれだけ待っても出てこなくて。私をじっと見つめていた翔は苦しそうに顔をゆがめて、それからうつむいた。
「……勝手に言うな、って兄貴に怒られそうだ」
「翔?」
「なんでもない。とにかく、俺と兄貴は仲良くできねーよって話だから」
篠宮兄弟に仲良くしてほしい私と、兄弟仲良くできないと主張する二人。平行線のまま私たちは家について、そして。
夏祭りの日になった。
***
「今日お祭りでしょ? 浴衣着ていくよね?」
夕方になって、母が浴衣を持ってきた。今年も篠宮兄弟と夏祭りを回ると思っているらしく、浴衣から下駄、髪飾りまで準備はばっちりだ。
「あー……うん。行く、かも」
「じゃあ迎えが来る前に着ちゃいましょう。この浴衣、今年買ったばかりでしょ? 早く着ているところが見たかったの」
一人で行くと言い出せないまま、新しい浴衣に袖を通すと悲しい気持ちになる。
毎年三人で夏祭りに行って、私が浴衣を着ていると二人ともそれを褒めてくれた。
去年は、樹はうんうん頷きながら『四葉可愛いねえ』と言って、翔だって照れて顔を赤くしながら『似合ってる』と言ってくれた。今年は新しい浴衣を買ったから、二人に見せたかったのに。
「樹くんと翔くんの反応が楽しみね」
母は知らないから、そう言って。
私は言い出せないから、相づちを打つことしかできなくて。
結局、『神社で待ち合わせだから』と嘘をついて家を出た。
本当は家で閉じこもっていたかったけれど仕方ない。適当に屋台を回って時間を潰して帰ろう。
履き慣れていない下駄は足が痛くなる。二人がいたらこの道のりだって楽しいから痛みだってわからなかっただろう。
お祭りから帰る人たち、賑やかな声、屋台の匂い。あらゆるものが寂しくて、私は一人なのだと思わせる。
いつも二人がいたから。こんな風に思ったことはなかった。
神社の前に並ぶ屋台。大通りを歩こうとした時、人混みに懐かしい顔を見つけた。
「もしかして、眞人さん?」
「……ん?……あー……四葉ちゃん、だよね、たぶん」
彼は七条眞人さん。私の従兄だ。近くの大学に通っていると聞いたけれど会うのは久しぶりだ。
「眞人さんも夏祭りにきてたんだ?」
聞くと、眞人さんは「んー?」と困ったように首を傾げた。それからあたりを見渡してぼそっと呟く。
「バイト行こうと思った、けど……考え事してたら、ここにいた」
いわゆる迷子というやつで。これが翔とか樹なら『大丈夫?』と心配するところだけど、この眞人さんはちょっと変わっているから納得してしまう。
いつもぼーっとしていて、何時に会っても眠そうな顔をして、歩きながら寝ているのかと疑いたくなるほどふらふらと歩く。親戚の間で『不思議宇宙人系』なんて呼ばれているような人だから、迷子というのも頷ける。
「眞人さん、どこでバイトしているの?」
「駅前のレストラン」
「……接客業? ちょっと想像がつかないっていうか、向いてなさそうな……」
「ん。だいじょうぶ」
人と喋るのも億劫という、意思疎通さえ難しいこの人が、レストランで働くなんてできるのだろうか。まったく想像できない。
「あんたは? 一人でお祭り?」
「私は……」
言いかけて、口ごもる。
視界には眞人さんと、その向こうに夏祭りの屋台や人混みが見えていて。楽しそうに歩く人たちの姿が、胸中の寂しさを掻き立てる。
だって、思い出がたくさんある。
翔は射的が好きだったから毎年何かしらの景品を持ち帰ってきて、ある年は紙コップに入ったカブトムシを持ってきていた。翔も中身がカブトムシなんて知らなかったらしくて驚いていた。私たちが慌てている間に、それは飛んでいってしまって、翔は悔しがっていた。
樹はりんご飴が好きで、お祭りに来ると必ず食べていた。最近はりんごだけじゃなくて、いろんな果物の飴があるから持ち帰りの分まで買うほど。なぜか運がいいので、くじびきをする時は樹に引いてもらっていた。
少ないお小遣いで色んなものを食べたくて、焼きそばやポテトは一つ買って三人でわける。買いこんだものを公園のベンチで分けて食べたりもして。
あの頃が、楽しかった。
樹と翔。三人で一緒にいたかったのに。
涙がにじむ。堪えようとうつむくと、眞人さんが言った。
「……泣きそうになってる。あんたを困らせること、言ってたらごめん」
頑張って笑おうとするけれど、うまくできなくて。目端から涙がぽたりと落ちる。
「あ、あれ……やだ、泣くつもりじゃ……」
一つ落ちれば次々と。そんな姿を人に見せるのが嫌で両手で顔を覆う。その瞬間――
「四葉!」
はっきりと聞こえた声に、心臓がびくりと跳ねる。
寂しさばかりが占めていた心は、少しずつ喜びが満ちていく。声がした方を振り返れば、人ごみをかき分けてやってくる二人の姿があった。
「樹! 翔!」
夏祭りで二人に会えたことが嬉しくて笑顔で手を振った直後、二人の様子がいつもと違うことに気づく。普段飄々としている樹は珍しく慌てているし、翔なんて真っ青な顔をしてこちらに駆けてくるのだ。
二人の鬼気迫る様子から何かあったのかもしれない。
「二人ともどうしたの?」
到着した二人に聞く。すると翔は私の左手を掴んで引き寄せ、眞人さんとの間に割り込んだ。
「こいつはだめ。俺たちのだから、お前には渡さない」
翔は警戒心むきだしにして眞人さんを睨み付けていた。その行動が理解できず固まっている私を守るように、右肩に触れたのは樹だ。樹は不安そうに私を見て言う。
「大丈夫かい?」
「い、樹までどうしたの?」
「だって泣いていただろう? この男に何か言われた?」
そう言って樹と翔が眞人さんを見る。私も眞人さんを見る。眞人さんはなぜ注目されているのかわからないといった顔をしていた。
「違う。不審者じゃない。四葉ちゃんのいとこ」
「本当に四葉の従兄……なのか?」
「うん。挨拶していただけだから大丈夫だよ」
私の説明を聞いて樹も翔も、深いため息をつく。緊張の糸が切れてしまったように、ぐったりと疲れた様子で翔はその場に座り込んだ。
「はー……なんだよ、従兄って」
「翔が『四葉が変なやつに泣かされてる』とか言うからだな」
「兄貴だって『どこかに連れていかれたらまずい』なんて慌ててただろ」
どうやら篠宮兄弟は勘違いをしていたらしく、大事になる前に誤解がとけてよかった。
「……よくわかんないけど。バイトあるから、もう行く」
「アルバイト頑張ってね。迷子にならないように」
「ん。あんたも夏祭りがんばって」
マイペースな眞人さんは歩き出し、ふらふらした後ろ姿は見ているだけで不安になってしまう。駅前まで無事にたどり着けるのを祈るばかりだ。
さて。眞人さんが去ったところで翔に手を差し出す。私の左手を掴んで、翔は立ち上がった。
「二人ともお祭りにきていたんだね」
「だって、四葉一人じゃ心配だろ」
次は樹に右手を。樹はためらっていたけれど、問答無用で手を繋ぐ。
「みんなで夏祭り回ろうよ。三人とも高校生でいられるのは今だけなんだよ」
「はあ。四葉には敵わないね……わかったよ」
樹と私と翔と。三人で手を繋いで歩く。
やっぱり三人でいるのが楽しくて、つい笑顔になってしまう。そんな私を見て、樹は呆れたように言った。
「僕と翔のどっちが好き――って聞いても、四葉は選べないだろうね」
「私は、樹も翔も、二人とも好きだよ」
「……それは、僕たちとは違うベクトルだねえ、うん」
「いいよ、三人で。お前が変なやつと話してるぐらいなら、クソ兄貴がいて三人の方がいい」
「僕も賛成だ。それまで休戦協定といこうか」
「だな」
高校生が終わってしまったら。私たちはそれぞれの道に進んだり、二人の間にいられなくなるのかもしれない。左の道か右の道かどちらを選ばなきゃいけない日がくるのかもしれない。
「ねえ、りんご飴と射的、どっちから回る?」
「射的行こうぜ。今年も景品持って帰るぞ」
「うんうん。僕はりんご飴がいいと思うな。射的は翔しか楽しくないだろ、一人で行っておいで」
「あ? クソ兄貴こそ一人で――」
「喧嘩しない! 二人とも仲良くして!」
まだ三人でいたい。左右てのひらに伝わるそれぞれの温度も、二人の笑顔も、私はまだ選べない。
これは、私たち三人が高校生でいられる最後の夏。
男女の友情は存在する? って有名な質問、あたしはこう答える。
あるよ。存在するに決まってる。
相手が男だろうと女だろうと、普通の人でも変わった人でも。友情は成立する。
「ねえ、そう思うよね!?」
ぐいぐいと相手の襟首を掴んで振ると、それに合わせて髪が揺れた。鎖骨まで伸ばして毛先だけ紫色に染めた髪。校則違反ど真ん中だけど、どれほど注意されてもこいつには響かな
その揺れる紫色が悲鳴をあげた。
「もー、やめて。頭がグラグラする」
「そう思うよねって聞いてるの。で、あんたはどう思う!?」
「はいはい、成立します、人類みんなフレンド、仲良しこよし、人類皆兄弟――これでいい? そろそろ離して」
投げやりぎみに言ったところは許さないけど。とりあえず解放。
あたしが手を離すと、その男は毛先だけ紫の奇妙な髪をかき上げて、言う。
「……やだやだ、そうやって乱暴するのよくないと思うけど? それだからモテないのよ」
文字だけ拾えば、女みたいな喋り方だけど。発している人の喉を見ればしっかりくっきりと喉仏が浮かんでいて。制服だってスカートじゃなくてスラックス。用を足すときは男子トイレに入る。
そんな《《彼》》はあたしの親友。美術部部長の五十嵐紘。
前は五十嵐って呼んでいたけれど、本人曰く『濁点付きのガ行がゴツい感じしてイヤ』だそうで。それならヒロの方が『ラ行が入っているから綺麗』らしい。そういうわけであたしは彼をヒロと呼んでいる。
夏休みでも美術部は希望者のみ登校で、作品作りをしたいのために部員がいれば美術室を開けているらしい。といっても閑散としていて、美術室にはあたしとヒロしかいない。
「で。愚痴聞いてほしいんだけど」
「あんた、美術室を何だと思ってるの。ここはお悩み相談室じゃないから」
「いいじゃん。ちょっとぐらい聞いてよ」
「ヤだよ、あんたの愚痴想像つくもん。どうせ『バイトのかっこいい先輩にフラれた』でしょ?」
「えー。なんでわかったの、ヒロってエスパー?」
机に広げたスケッチブックに視線を落としたまま、ヒロはこちらを見ることなく「そうよ。エスパーだから」と返す。感情はこめず淡々とした物言いから、あたしの話に興味なしってのが伝わってくる。
冷ややかな態度を取るヒロに対し、あたしはムキになって声を荒げた。
「だって夏だよ? 高校生最後の夏。来年の今頃はあたしたち高校生じゃないんだよ」
「んなもん、カレンダー見りゃ誰だってわかる」
「じゃあカレンダーに書いておいて。夏休みといえばかっこいい彼氏! ロマンス! あたしは彼氏がほしいの、以上!」
と叫んでもヒロの左手は色鉛筆を動かすのに忙しい。
こいつ、あたしの話まともに聞いてないな。あたしの主張は、右耳から左耳への快速電車かっつーの。
文句言ってやろうかと思ったけれど、ヒロが向き合っているスケッチブックが気になった。
スケッチブックにいるのは女の子。ポーズから察するに何かを見上げているのかもしれないけど、顔はのっぺらぼうで真っ白。顔は輪郭しか書いていないくせに髪や足は丁寧に描きこんでいた。髪はポニーテールで、長いリボンがひらひらと揺れているし、足は実在していたら歩きづらそうな高めピンヒール。特にこだわって書き込んでいるのが女の子の着ているドレスだ。
紺の色鉛筆は、ドレスを鮮やかに塗りかえるべく、しゃかしゃか軽快な音を立ててスケッチブックで踊る。
「……何描いてるの?」
ヒロが夢中になって書いているそれが気になって聞いた。
ヒロはこちらを一瞥もせず、相変わらず色鉛筆を握ったまま答える。
「夜景が似合う女の子。夜景に一番似合うドレスを考えてたの」
「ヒロの理想? これ着てみたいとか?」
あたしの言葉にヒロは笑った。
「勘弁してよ。女になりたいわけじゃない、性自認は男」
「でもその言葉遣いじゃ誤解されるでしょ」
「周りに誤解されたって平気、好きに言ってくれて構わない。男らしくとか女らしくとかそういう古くさい考えが嫌いなの。私は私なりに綺麗なものを集めてる――この絵も、私が綺麗だなって思うものを描いてるだけ」
ドレスは夜のような色をして。赤と白の光があちこちにある。夜景に似合うドレスよりも、このドレスに夜景を詰め込んだと言われた方が納得しちゃいそうだ。
夜にきらめくドレス、歩きづらいピンヒール。これを現実にするのは難しいかもしれない。それを簡単にヒロが書いていく。
「この子の顔はまだ描かないの?」
その質問は、軽やかに踊り続けていたヒロの手をとめる。色鉛筆はぴたりと止まって、ヒロの視線もスケッチブックから剥がれる。
「後藤カナデ」
ヒロの唇がそう紡いだ。
それはあたしの名前。どうしていま、あたしの名前を呼んだ。
ヒロの瞳はすっと細くなる。
瞳に反射しているわけじゃない、あたしはヒロじゃないから彼の視界はわからないけれど、でもそこに映っているのはあたしだって思った。そう思わせる、不思議な力を持った瞳。
「これ、後藤カナデってタイトル」
「は……なんで、あたし?」
「カナデを一番綺麗に魅せる服、一番綺麗な場所、一番綺麗な色。そういうのを書いてた」
ヒロが真剣に言うものだからあたしまで緊張してしまって、ごくりと喉が鳴った。その音で我に返れば、ヒロはもう普段通りにしていて、それどころかあたしを見てカラカラと笑っていた。
「冗談。もう、なんて顔してんの」
ほんの一瞬、ヒロがヒロでないような気がしてしまったけれど。冗談という言葉に安堵してほっと息をつく。
「ちょっと仕返ししてやろうと思っただけ。そんな顔されたらこっちまで困っちゃうからやめてよ」
スケッチブックを閉じて、ヒロはこちらに向き直る。
スラックスを履いて男子生徒のように見えるけれど、顔立ちは中性的で髪は長いし口調はこの通り。あたしの前にいるのは性別のわからない綺麗な何かだ。
「で。かっこいい先輩にフラれて落ちこんでるんだっけ?」
「そうなの。せっかくの夏だよ? あたしが高校生でいられる最後の夏なのに彼氏ナシって寂しいじゃん」
「夏だからって恋愛する必要ないでしょ。勉強でもしてれば。あんた成績悪いんだし」
「だから遊びたいの! 勉強漬けになる前に、ぱーっと夏を楽しみたかったの」
「はあ……口を開けば夏夏うるさい。あんたってミンミンゼミみたい」
ヒロは呆れ口調で返し、スケッチブックの表紙をトントンと小気味よく叩く。その爪は前に会った時と違う紫色のネイルに変わっていた。
「……でも高校最後の夏って焦りはわからなくもない」
規則正しい爪先リズムは途切れて、それから。
バン、と手のひらでスケッチブックの表紙を叩く。ヒロは立ち上がって、にやりと笑った。
「明日空いてる?」
「ヒマだけど」
「決まりね。ここでウダウダ愚痴ってるぐらいなら気分転換に出かけましょ。ショッピングでもカラオケでも映画でも何でも付き合ってあげる」
気持ちが滅入っている時に何が必要かわかっているのだと思う。親友ってありがたい存在だ。あたしは嬉しくなってヒロに抱きつく。
「ヒロ~~! ありがと~~!」
「ちょ、苦しい、ギブ、やめて」
「明日楽しみにしてる! ストレス発散ショッピングしよーね!」
「わかった。わかったから離してよ、暴力セミ女!」
「ミーンミン!」
「ああ、もう! 耳元で鳴かないで! うるさい!」
ほんと、親友ってありがたい。
***
翌日。
ヒロと待ち合わせてショッピングへ。せっかくだから、電車に乗って少し離れた臨海地区へ行くことにした。そこは、ショッピングモールの他にも海沿いに続く大きな臨海公園や遊園地があるから、子供連れの家族や観光客が多い。当然、デート中のカップルもいるわけで。
「……気分転換になるかと思ったのに、落ちこみそお」
手を繋いで歩く幸せそうな恋人たちのおかげで気分は沈んでいく。カップルと通り過ぎるたびため息をつくあたしに対し、隣を歩くヒロは呆れていた。
「ヤダヤダ。辛気くさい顔しないでよ。こっちまで気が滅入る」
「なんで臨海地区にきちゃったんだろ……あたしもあんな風に彼氏とデートする予定だったのに」
「仕方ないでしょ、あんたがモテなかったんだから――ねえ、あれ見にいこ」
ヒロはぐいぐいとあたしの手を引いて歩いて行く。向かったのはショッピングモールにあるコスメショップだった。入り口の棚に並んでいるのは、いま流行っているお花と宝石をモチーフにしたマニキュアシリーズだ。
近くのショッピングモールでも販売されているけど人気商品だから品薄で、全色揃っているところなんて見たことない。特にコーラルやベージュ系といったナチュラルな色は入荷してもすぐに売り切れてしまう。
「全色揃ってるのはじめて見た! どれ買おうか迷っちゃう」
パールの入ったシリーズもいいけどキラキラのラメも夏っぽい。でも普段使いするならナチュラルカラーの方がいいかなあ。
可愛らしい瓶に入ったマニキュアたちを眺めていると、隣でするりと紫色のネイルが動いた。
「あんたに似合うのはこれ」
ヒロが選んだのは、塗るには勇気が必要な濃い色。黒に近い紺色で、中に小さなシルバーのラメが入っている。その色は『ラピスラズリ』と書いてあった。
「これ、濃すぎない? あたしに似合う気がしないけど」
「大丈夫。私が言ってんだから信じなさいって」
自分で選ぶ時は当たり障りないナチュラル系のカラーや柔らかい色を選んでしまう。派手な色を買ったことはなかった。だからためらってしまうけれど。
買おうか迷っていた優しい色のマニキュアを指さしてヒロが言う。
「あんたの肌にこの色は似合わないの、印象がぼやけちゃう。パステルカラーも合わないね。それならはっきりと目立つ濃い色の方が似合うの、いっそ黒でもいい」
「黒のマニキュアって勇気いる」
「そうね。黒はちょっと極端な色だから、似合うといえど尖ったイメージになる――だからこの色がいい。あんたに似合うディープブルーのラピスラズリ」
もう一度、そのマニキュアを見る。ラピスラズリって宝石の名前だっけ。もっと青い石だと思っていたのに、小瓶の中に入っているのは黒みたいな紺みたいな不思議な色。
「あとアイシャドウも。無難にブラウン系選べばオッケーなんて思ってるでしょ。無難なものを選んで失敗する癖、やめなさいよ?」
「な、なんでそれを知って……」
「あんたは流行りとか定番とか周りに流されがちだから」
ずばずばとした物言いで、しかも当たっているから恐ろしい。今日つけている茶色のアイシャドウも雑誌に載っていたからという理由で買ったわけであって。
ヒロ、恐るべし。
「あたし専属のファッションアドバイザーって感じ」
感嘆をこめて呟くと、ヒロは得意げな顔をした。
「任せてよ。あんたより私の方が、あんたのことに詳しいから」
「あたしはそこまでヒロに詳しくないかも」
「そりゃ、あんたって周りをちゃんと見てないもん」
「ハイその通りです……」
「ほら、まだ見たいところあるんだから。さっさと次行くよ」
ヒロが進めてくれたマニキュアは悩んだけれど、買わなかった。元の場所に戻して、先を歩いて行ったヒロを追いかける。
あたしたちの買い物は続いて。
コスメに服、かばん、靴――どれもヒロが一緒だと楽しい。的確なアドバイスをもらえるから、自分じゃ勇気のでないものだって買えてしまう。
ずっと来たかった人気のドリンクショップに並んで、ミルクティーを二つ買う。それを持ってあたしたちは臨海公園に向かった。
ベンチに腰掛けて休憩。夏はど真ん中で外に出ればうだるように暑いけれど、夕方の海風が心地いいから許される。買い物の疲れも飛んでいきそうだ。
臨海公園から海が見えて、遊覧船の汽笛がかすかに聞こえた。視界の端には近くの遊園地の観覧車もある。
「やっぱ、ヒロと買い物にくるのが一番楽しい」
「何言ってんだか。あんた、友達多いんだから他の子とくればいいじゃない。西那さんと仲いいでしょ」
「ニナは彼氏と仲良しだからねえ……最近忙しそうだし、誘いづらい」
隣に座るヒロが「なるほどね」と相づちを打った。ヒロもニナのことは知っているけれど、仲がいいわけじゃない。ニナとか綾乃から見ればヒロはかなり不思議で変な生徒らしい。
「ヒロは? せっかくの夏休みなのに、友達と遊んだりしないの?」
「友達ねぇ……」
この風貌や口調もあってか、ヒロが他の生徒と仲良く話しているところはあまり見かけない。一歩引いて見ている生徒が多い。私が知る限り、ヒロの友達っぽい生徒は数人だけ。
「八街会長と仲良く話してるじゃん。一緒にご飯食べたりしてるでしょ?」
「イヤ。あいつ変な人だから。休みの日まで八街に振り回されたくないの」
「あと……ほら美術部の二年生とか」
「四葉ちゃんのこと? ……あれも勘弁してほしいわ。あの子はボディーガードが多すぎなの。四葉ちゃん取り合っての兄弟喧嘩よ、美術室で昼ドラ見てる気分。私は穏やかに過ごしたいの」
ぶつぶつと文句を言っているけれど、嫌っているわけではないと思う。ヒロはそういう性格で、表面は嫌そうに不満たれているけれど、八街のことを信頼しているし、二年生の美術部の子を可愛がっている。
「……ねえ。カナデ」
気づくとヒロの表情に影が差していた。置いていかれた子供みたいに寂しそうな顔をして、こちらを見ている。
「私は一人でも平気だから、無理しなくていいの。あんたは、あんたの友達と遊べばいい」
「そう? あたしはヒロと遊ぶのが好きだよ」
急に暗い顔をしたから何かと思えば、そんなことで落ちこんでいたなんて。あたしは笑ってヒロの背を叩く。
「オシャレの話も買い物も、価値観が一番似てる。頼れるお姉さんみたいな、最高の親友」
「ちょっと。私、女じゃないからね? 何度も言うけど男よ」
「わかってるわかってる。男だろうが女だろうがヒロはヒロだよ、あたしの親友」
「……あんた、はじめて話した時もそれ言ってたわね」
「言ったっけ?」
「言ってた。私ちゃんと覚えてる」
数名高校に入ってあたしとヒロは出会った。一年生の時は同じクラスで、ヒロは教室の窓側、一番後ろの席に座っていた。
その時からヒロはこの口調で、髪も長かった。まだ髪を染めてはいなかったけど、すでに独特の空気を纏っていたから、クラスのみんなは一歩引いて彼に接していた。
私も最初は戸惑ったもんだ。制服と座る席の位置から男子なのはわかったけど、この口調だからオネエなのかもしれないって思っていた。
「放課後。教室は私以外誰もいなくなったから爪を塗っていたの。家だと色々言われて面倒だから学校でね。そこにあんたがやってきて、私に声をかけたのがはじまり」
バイトまでの時間潰しのため教室に行ったら先客がいて、それも変人呼ばわりされていたヒロがいた。真剣にマニキュアを塗っているその横顔が綺麗すぎたから、釘付けになった。男も女でもどっちでもいいと思ってしまうぐらい、綺麗に見えた。
『ネイル上手じゃん。ねえ、あたしの爪にも塗ってよ』
自然とその言葉が出ていた。ヒロは目を瞬かせて『私みたいなやつに?』『男がマニキュア塗ってるの変だと思わないの?』と言っていた。クラスのみんなからどんな風に扱われていたのか、ヒロなりに自覚していたんだと思う。
でもそんなのどうでもよかった。その時塗っていたマニキュアがどんな色だったかは忘れた。放課後の夕焼けよりもヒロの方が綺麗だと思った。
「『男でも女でも、五十嵐は五十嵐でしょ』ってあんたが言ったの」
「言ったような……うーん、覚えてないかも。だって三年前だし」
その後からあたしとヒロは仲良くなっていった。
ヒロの美的感覚は優れていて、あたしに的確なアドバイスをしてくれる。似合う色やファッション、高校生になってから今日まであたしはいつもヒロに頼っていた。
「もう三年ねえ……」
「あたしたちが高校生でいられるのあと半年しかないよ。どうしよ」
まだ夏、だけれど。あたしたちの時間は確実に減っていく。高校の制服は、静かにカウントダウンをはじめている。
「ヒロは卒業したらどうするの?」
「目指すはファッションデザインの専門学校。私、自分が着飾るんじゃなくて他の人を綺麗にするのが楽しいのよ。化粧もお洋服も、相手に似合うものを見つけたいし、私だけの綺麗を追求したい」
「うん。なんだかヒロらしいね」
「あんたは? カナデは進路どうするの?」
話を振られて、でもあたしははっきりとした答えを持っていない。ヒロみたいにやりたいことも見つからない、ただ適当に。周りに流されて、とりあえず大学行こうかぐらいのゆるい考えで。
「たぶん、進学かな」
「じゃあ勉強しないとね。あんた頭悪いんだから」
やりたいことは見つからない。大学に通っている自分の姿が想像できない。
まだ、高校生でいたい。友達や親友と楽しく過ごす高校生活が来年も続いてほしい。
「ねー……来年もこうして遊ぼうよ」
でもヒロはすぐ答えなかった。しばらく悩んで、それから。
「来年の夏こそは彼氏作らなくていいの?」
「彼氏と親友は別でしょ」
「……そう、ねえ」
そこでヒロは話を打ち切ってため息をつく。ミルクティーは手中で温められていて、氷が溶けている。それでもヒロは飲もうとしなかった。
無言が続いて、それが少しだけ気まずい。
「ヒロこそどうなの? 前に好きな人いるって言ってたけど、進展は?」
「振り向きそうにないねぇ」
「相手は女の子でしょ、いつになったら紹介してくれるの?」
独特な生き方をしているヒロが好きになる人ってのは気になるもので。いったいどんな子を好きになったのだろう。紹介してよと何度もせがんでいるけれど、ヒロはいつも渋る。
「そのうちね」
いつもと同じかわし方をして、ヒロは切なく微笑む。
「じゃあさ。あたしたちが卒業して、お互い彼氏彼女いなかったらルームシェアしよ」
「なんであんたと一緒に住まなきゃいけないのよ」
「いいじゃん。あたしたち気が合うからいけるって」
卒業したら、こんな風に顔を合わせることはできなくなる。それが寂しくてルームシェアを提案したけれど、ヒロはあまり乗り気ではないようだった。
そうして話しているうちに日が沈んでいく。オレンジ色の夕日が海に反射して眩しい。
「ヒロ?」
「……なあに」
「急に喋らなくなったから」
「……ちょっと考え事してただけ」
ヒロは頬に手を当てて何やら考えこんでいる。いつ見てもその紫色の爪は綺麗だ。
日が沈んで夜になったら。その爪みたいな紫色の夜になったら、家に帰る。楽しかった夏休みの一日が終わっちゃう。夏休みはまだまだ残っているくせに、急に寂しくなった。
「ねえ。観覧車乗ろ」
気は進まないらしいヒロの手を引いて歩き出す。男のくせに細い指をしていると思ったけれど、触れてみれば熱い。ヒロらしくない温度だと思った。
***
「あたしさ、観覧車ってもっとのんびりしたものだと思ってた」
「のんびりしてるじゃない」
「でも乗る時焦るじゃん? ゴンドラは動いたまんまだから慌てる」
「ふ、なにそれ。あんただけでしょ」
あたしの話を聞いてヒロが吹き出して笑う。
扉は閉まって、狭いゴンドラに二人だけ。
彼氏ができたら一緒にくるはずだった観覧車。予定では臨海地区の夜景を観覧車から見る予定で、でもまだ夜景というほど暗くはない。あたりは夕方の赤い空気に包まれているから。
対面に座るヒロは外の景色をじっと見ていた。細い指は顎に添えられ、紫色の爪が光を浴びて輝いている。
「そのネイル、綺麗だよね。ヒロって紫色が似合う」
ヒロはこちらを見て微笑んだ。
「ヘリオトロープ」
「ヘリオ……なにそれ」
「この色の名前。ヘリオトロープって花の色からつけたんだってさ」
そういえば。二人でマニキュアを見ていた時に、この色があった。どうして覚えているのかというと、ヒロが選んでくれたラピスラズリの隣にこれが置いてあったから。
「似合えばいいなと思って買ったけど、冒険するのも案外悪くないね」
「そうなの? 気に入って買ったのかと思った」
「……買ったのは、自分でも呆れるぐらいくだらない理由よ」
「えー。なにそれ、気になる。花言葉で選んだとか?」
「やだー少女漫画って感じ。そんな可愛いものじゃないからこの話はおしまい」
観覧車はぐんぐんと上って、臨海地区の景色が離れていく。もう少し時間が遅かったら、臨海地区のビルがライトアップされて綺麗だったことだろう。
「いつか彼氏ができたらこの観覧車に乗ろうと思ってた」
「定番ね」
「隣に彼氏が座って、臨海地区の夜景を眺めて。風が吹いて観覧車が止まったり、プレゼントをもらったり。あー、でも頂上で告白されるってのもいいかも。なんかロマンチックじゃない?」
「話聞いてるだけで胃もたれしそう。夢見すぎ」
あたしはいたって真面目に話しているんだけど、ヒロは呆れ顔で、とどめにため息のオプション付き。
恋愛なんて無関係ですって態度をとっているくせに、ヒロには好きな子がいる。だからヒロだって夢を見ればいい。あたしはずいと身を乗り出して聞いた。
「そういうヒロこそ、好きな子とデートしたらどこに行こうとか考えなかったの?」
「考えたとしても言わないわよ、そういうの」
「えー。どうして。親友でしょ、ちょっとぐらい話してくれたっていいじゃん」
「いや。言わない」
「教えてくれないと観覧車揺らす」
「サイテー」
聞き出そうとしてもヒロの態度は頑なで、視線はあたしではなく窓の外。
ゴンドラを揺らしてやろうかと思ったけれど、この高さでぐらぐら揺れるのはちょっと怖い。諦めて大人しく座る。
しばしの無言が続いて、それから。
「……三崎のこと覚えてる?」
ヒロが切り出した。
三崎ってのは、数名高校の三年生。一年生の時はあたしとヒロと同じクラスだった。でも色々あったらしくて、一時期学校に来なくなった。登校はしていたのかもしれないけど授業に出てこない。たまに姿を見れば、前とは印象ががらりと変わって髪は金髪。不良になっちゃったのかなと思っていたけれど。
「確か、ヒロと仲良かったよね――はっ、まさかヒロは三崎のことが好きとか……?」
「性自認は男って何回言えばわかるのよ。恋愛対象は野郎じゃなくて女の子よ」
「じゃあ、なんで三崎の話を?」
するとヒロは俯いた。ヒロにとってあまりよくない話なのだろうかと思ったけれど、その声音は予想と違っていて寂しそうだった。
「あの子、彼女と別れてから荒んじゃったでしょ。不良落ちっていうか」
「うん。すごい髪色になったよね。退学するのかなって思ってた」
「髪を染めるの私が手伝ったの、綺麗な金色だったでしょ。本当はだめなことだけど止められなかった。このままテンプレ通りの非行少年になるのかと心配だった――でもあの子、変わったの」
そう言われてもピンとこないのはあたしが三崎に会っていないから。記憶の中の三崎は授業をサボってどこかへ消えるようなやつだった。どう変わったのか想像つかなくて息を呑む。
「こないだ会って、あの子の髪を黒く染めた。理由を聞いたら『好きな子がいるからちゃんとするんだ』ですって。だから秋からちゃんと学校に来ると思う」
「よかったじゃん。いい話なのにどうしてヒロは喜ばないの?」
「……怖いと思った。恋愛は簡単に人を変える。黒から金色に。いいことも悪いことも、何でも簡単に壊せちゃう」
ぐ、とヒロの手に力がこもる。紫の爪は手のひらに隠されて見えなくなっていた。
「……簡単に壊せるから、怖い」
ヒロは恋愛が怖いと言うけれど。あたしはそう思わなくて。
好きな人に想いを伝えないままでいる方が、もどかしくてたまらない。好きだと思ったら言えばいい。だって動かないと、進展なんて起こらないんだから。
「壊してもいいって、思うけど」
「そう?」
「だって気持ちを伝えない方がいやでしょ。じれったいもん。壊したってその後作り直せばいいんだよ。三崎だって壊した後、新しい好きな人をみつけて、新しい形になろうとしてるんだから」
あたしが言うと、ヒロは顔をあげた。
気が抜けたようにふっと笑って「あんたらしいね」と呟く。
窓の外を見れば、あたしたちのゴンドラはかなりの高さまで上がっていた。さっきは観覧車が止まったらなんて話したけれど、この高さで止まったらちょっと怖い。もう少し下で止まった方が嬉しいかも。
「ここらへんが頂上かなあ」
前のゴンドラは下降しはじめたところだし、頂上はあたしたちのゴンドラだと思う、たぶん。自信がなくてヒロに聞いてみたけれど。
「――ねえ」
がたん、と揺れる。
風が吹いたらなんて話していたから、本当に強い風が吹いたのかと思った。
でもそうじゃない。視界にいるその人物が、ゆらりと立ち上がっていたから。ゴンドラは狭いのにどこに行くの。その疑問は浮かぶと同時に、泡のように消えた。
紫色の毛先がすぐ近くにいた。ヒロはじっとこちらを見つめていて、でもあたしたちの距離は三年間一緒にいても味わったことのない至近距離。
距離は詰まって、紫色の爪が視界を通り過ぎる。頬を撫でるようにかすめて、髪を揺らし、耳を通り過ぎて。真後ろにある窓ガラスで手をつく。逃げ道は塞がれ、追い詰められている気がした。
この状態で目の前にヒロがいる。親友であってもこの近さは緊張する。身動きどころか呼吸さえためらうほどの。
「……好きだ、って言ったら壊れる?」
「は――ヒロ、なに言って」
「頂上で告白されるのが理想でしょ? だから、」
すっと短く息を吸いこむ音。ヒロの体重がこちら側にあるからゴンドラは傾いている。それでも観覧車は止まらず、下降していく。
「三年間、あんたのことが好きだったの。親友だって思ってたのは、あんただけよ」
下降していく。少しずつ落ちていく。
心臓が急いた理由が何かわからない。でも観覧車は確かに動いている。あたしの視界で、紫色の髪が揺れている。
好きってなに。親友だと思っていたのはあたしだけ。
なにそれ。
理解できない。この距離も発言もぜんぶ、意味がわからない。
大混乱の中で一つだけ、わかることがあって。
この近さで見るヒロはとても綺麗で、紛うことなき『おとこのひと』だと思った。
細身であるけれどその腕は、捕まったら振りほどけない。きっと。
「……手、出して」
この場で誰が逆らえるか。ぽかんとしながらも手を差し出すと、紫の爪が動く。濃紺の小瓶をあたしの手のひらに残して――それからヒロが戻っていった。
傾いたゴンドラは落ち着きを取り戻して元に戻り、何事もなかったように対面にヒロが座る。
こっちは混乱しているというのに、ヒロは憑き物落ちたかのようにすっきりとした顔でくつくつと笑っていた。
「あんた、なんて顔してんの」
「は……だって、いま、え? なに?」
「そんなんじゃ観覧車が止まっても夢見るロマンス展開にはならないでしょうね」
「ってか、今のって! 親友だと思ってたのはあたしだけってそれ――」
からかっているんだよね、きっと。
いつもみたいに『冗談』と笑うんだ。そう思って聞いたのに、ヒロは吹っ切れたようにさらりと言う。
「本気よ。だから私は、あんたとルームシェアしたくない」
「……じゃあ、ヒロの好きな人って」
そしてヒロはそっぽを向いてしまった。暗くなっていく外を眺めて、頬に手を当てているから表情はわからない。
あたしは手中の小瓶を見る。
『ラピスラズリ』と書いてあるマニキュア。昼間にヒロがオススメしてくれたやつ。
確か。その隣に並んでいたのが、『ヘリオトロープ』のマニキュア。
ヒロは『買ったのは、自分でも呆れるぐらいくだらない理由』と言っていたけれど。
「……あたしに似合うと思った色の、隣」
呟くと、対面のヒロが笑った。
「そうね。くだらない理由でしょ、呆れていいよ」
その後は魔法が溶けていくみたいに。地面が近づいて夢のような空中散歩の時間が終わる。
けれど無言の空気が、頂上での出来事は嘘じゃなかったんだと告げていた。
***
「さーて。帰りましょうか」
ゴンドラを降りると、ヒロの様子は前と同じに戻っていた。その表情に気まずさはなく、もしかすると気まずさから目をそらして無理しているのかもしれないけど。
「夜になっても暑いって勘弁してほしい。いつになったら涼しくなるのよ」
そう言って前を歩く。隣じゃなくてあたしの前を。
普段通りに振る舞っているけれど、ここで帰ってしまったら何も残らない気がする。
手中にあるラピスラズリのマニキュアは、夜みたいな紺色をしていた。きらきらしたラメは夜景の明かりみたいに。
やっと街は電気が点き始めた頃だった。まだかすかに明るい空の、夜の訪れを待っているかのようなビル群の明かり。
「ねえヒロ。夜景見てから帰ろうよ」
あたしの提案に、ヒロは「やだ」と言って振り返りもしない。
「それは彼氏の役目でしょ。いつか素敵な彼氏に連れてきてもらいなさいよ」
観覧車であんな風に言ったくせに、なかったことにして振るまって。あたしの返答を聞かず、反応だけを見て勝手に判断する。
「待って」
先を歩いて行こうとするヒロの腕を掴んで、引き止める。
あたしよりも少し大きな手のひらに、ラピスラズリのマニキュアを乗せる。
「……なに。いらないから返すってわけ?」
戸惑い混じりの声がして、あたしは首を横に振る。
「違う。あたしじゃうまく塗れないから、ヒロに手伝ってほしい」
「……それって、どう受け止めたらいいのよ。こっちは本気で言ったんだけど」
ヒロは呆れているようで、でも怖がっているようにも見えた。
あたしのうぬぼれかもしれないけど。ヒロは、好きな子に似合いそうな色の隣にあるってだけで紫色のマニキュアを買ってしまうような、三年間を送ってきたんだと思う。その子に親友だと連呼されていたわけで。
それを壊して一歩踏み出すのは勇気がいる。気持ちを伝えて壊した後は新しい形を作らないといけない。
だからあたしも、正面からぶつかろうと思った。
「あたしはヒロのこと親友だと思ってたから、まだ整理できていないけど――観覧車でのヒロは『男の人』だと思った」
「はあ? 何回言えばわかるのよ、私は男だってば」
「言ってたけど! 言ってたけど……」
ヒロの手を掴んで、離さない。ぐっと力を込めるけど、折れることはない。こいつの腕は男の腕なんだって観覧車で学んだから、たぶん大丈夫。
「もっかい観覧車に乗ろう。夜景見よう。今度は観覧車が止まってくれるかもしれないし」
言い終えると、ヒロが笑い出した。吹っ切れた笑いだけどどこか嬉しそうにしていて。
「……観覧車が止まってほしい女ってどうかと思うわ」
「それはほら。やっぱり夢見ちゃうじゃない?」
「止まる確率って相当低いよ」
「じゃあラッキーじゃん。ねえ行こうよ、夜景見よう」
「わかった、わかったから手を離して。力込めすぎ。痛いのよ」
力を緩めるとするりとヒロの手は逃げていって、それから。
「あんたって手を繋ぐこともできないの?」
指と指が絡んで、紫色の爪が見える。触れてみればやっぱり熱いてのひら。
「ほら、行きましょ。たぶん夜景が綺麗よ」
次に乗る時は観覧車が止まればいい。確率は低いって言われても、やっぱり願っちゃう。
恋愛が男女の友情を壊したとしても、壊した後に新しいものができればいい。別の形になればいい。
だから男女の友情は存在する。成立するに決まってる。たまに進化して別の形になることもあるけれど。
彼をはじめて見た時、嵐がきたのだと思った。
「どうもー! 俺、六本木駿輔です! 美岸利高校から転校してきましたー! 好きなものは野球、趣味は野球、入りたい部活は野球部です。制服はまだ間に合ってませーん。よろしくおねがいしまーす」
夏休み終わって二学期二日目。私のクラスに転校生がやってきた。
転校生といえば黒板に名前を書くのかな、なんて思ったけれど。彼はそんな間なく、すらすらと自己紹介をしている。
彼の第一印象は『賑やか』だった。快活であることは伝わっているから、クラスに馴染むのは早いだろう。
「六本木くんの席は牟田さんの後ろね」
夏休み前まで教室に空席はなかった。私は教室中央列の一番後ろ、だったのに。登校した時から私の後ろに一つ、席が増えていた。それは彼のために用意されたものだろう。
最後尾は私から転校生に変わる。最後尾はプリントの回収などで席を立つことが多いから少しほっとしたような、けれど急に後ろに人が座るというのは緊張する。壁だと思って気ままにしていた授業中が息苦しくなりそうだと思った。
六本木くんはクラス中から向けられる好奇の目に臆さず、ニコニコ笑顔で弾むように歩いていく。数名高校の臙脂色の制服の中で、浮いているライトグレーのジャケット。波をかきわけ、はっきりと目立つそれは異物なのに、彼はひどく楽しそうだった。
「牟田ちゃん、だよね」
後ろの席に彼が座って、それからまもなく声をかけられた。
振り返り、見る。野球野球と騒いでいたくせ坊主ではない。髪は束になり、光の反射を見るにしっとりした質感かもしれない。ヘアワックスとかスプレーでかためているような。野球部らしさは、スクールバッグ代わりのスポーツバッグだけ。
その六本木くんの第一声が『牟田ちゃん』であって。初対面の女の子を『ちゃん』付けで呼ぶ軽薄さに、声は一瞬ほど出ず。
「牟田です」
控えめに呟くのが精一杯だった。
「ねえねえ牟田ちゃんって部活やってるー? 学校案内してよ」
「……」
「俺、昼飯持ってきてないんだ。購買ってある? おすすめの食べ物とかあったら教えてよ」
「……」
周囲に声をかけたかったのかもしれない。彼の席の周囲といっても両隣は誰もいないし、後ろにはロッカー。前に私がいるだけの状況だ。
私はうまい返答が思いつかなかったからと、質問を受け流すことにした。
だって私に話しかけたって面白くない。あと数時間もすれば彼もそれに気づくはず。
ホームルームが終わって次の授業がはじまるまで5分ほどの時間が空く。早々に教科書とノートを取り出し、終わったらかばんから取り出して本を読む。そんな時に。
「ねーねー、牟田ちゃーん」
後ろから、声。
「聞いてるー?俺、学校のこと色々と教えてほしいんだけどー」
私の返答がないことに気づいているのかふて腐れた調子だった。
しかし学校のことを何も知らないままというのは不便かもしれない。
今日が始業式であるなら半日で終わるけれど、彼は二学期二日目からの転校なので普段通りに授業は行われる。お昼ご飯を持ってきていないのなら大変だ。購買の場所を伝えた方がいいのかもしれない。
意を決して彼の方を見るべく振り返ろうとして――でもそれは横から割り込んできた言葉に遮られた。
「やめやめ。そいつ喋んねーから楽しくねーぞ。ぜんぜん喋らない根暗女なんだよ。学校のことなら俺が教えてやるから」
こいつ、という言葉が示すのは私のことだとすぐにわかった。
振り返ろうとしていたのはやめて俯く。気にしない気にしないと心中で呪文を唱えて再び文庫本を手に取る。けれど綴られている文字は少しも頭に残らない。意識は後ろの席に向けられていた。
それからしばらくして授業が始まった。
出席確認をしていた先生は、六本木くんの名前に辿り着いたところで顔をあげた。
「このクラス転校生がいたのね。六本木くん教科書ある?」
「ないでーっす」
「予備の教科書持ってくればよかったわね。じゃあ――前の席の牟田さん。彼に教科書を貸してあげて。牟田さんは隣の席の子と一緒に使ってね」
教科書を、貸す?
人に貸すことにためらいはないけれど。先ほどの野球部男子との会話があったから気まずくて。
そこでふと思い立った。
購買の場所をメモに書いてしおり代わりとして教科書に挟めば、どのページから授業が始まるかもわかる。
『学校の地図です。購買はここです』
ノートの端をちぎって走り書きをし、教科書に挟む。それからおそるおそる振り返った。けれど目を合わせるのは怖いから、視線は斜め下。机の角の方を見ていた。
「……っ、あ、あの、」
「え? なあに? 教科書貸してくれるの?」
彼の机に置いて戻るのが精一杯だった。うまく喋れない。声が出ない。振り返ることさえ緊張する。
それは彼だけの話じゃない。野球部の子が言ったように、私は喋らない根暗女なのだ。
クラスの子と親しくなるなんて難しい。相手が男子でも女子でも喋るのが怖い。同じ吹奏楽部の子は色々と気にかけてくれるけれど、私はそれについていくのが精一杯で。
はっきりと喋ることが苦手な私は、いつの間にかクラスでひとりぼっちだった。
憂鬱だ。本当に。
後ろから、肩にトントンと何かが当たった。叩くというよりも柔らかく撫でるような、そういう優しさで。
何事かと振り返れば、六本木くんだった。何やら丸めた紙を持っていて、それで私の肩を叩いたらしい。
「読んで」
先生に聞こえない小さい声で彼が言った。筒のように丸まった紙を受け取って、机に隠しながら開く。
『教科書貸してくれてありがとう。購買のことも教えてくれて助かる!』
最後には可愛らしいニコニコの絵文字が書いてあった。
ともかく。懸念していた購買事情はこれでクリア。この先六本木くんと関わることもない。
そう思っていた。
***
翌日のこと。
六本木くんは恐ろしい速さでクラスに馴染んでいく。特に男子生徒とはすぐに打ち解けたようで、休憩時間や休み時間のたび六本木くんの席に生徒が集まった。
本を読みながらもつい後ろの席に聞き耳を立ててしまう。
「なあ六本木、お前どこからきたんだっけ?」
「美岸利島ってとこ。知ってる?」
六本木くんの返答を聞いた男子生徒は笑った。
「島ってことはやっぱ田舎? 人少ない? こっちに来た方がお店たくさんあるし、引っ越してきてよかったじゃん」
質問攻めであるけれど、男子生徒の声音は美岸利島を嗤っている。その男子生徒は田舎を見下していたのかもしれない。
一瞬ほど、六本木くんはどんな反応をするのかと気になった。
「あはは。やっぱ都会だよなー」
けれど、蓋を開けてみれば杞憂に終わった。乾いた笑いとあっさりした反応。男子生徒が美岸利島を見下していることは彼にとって何事もなかったのかもしれない。
先生がやってくる気配を感じ取って男子生徒が自席に戻っていく。
六本木くんの周りに誰もいなくなって、それから。
「……はあ」
ため息が聞こえた。それは私でも隣でもなく、真後ろから。
六本木くん、疲れているのかもしれない。気になって様子を伺う。
「……あ。牟田ちゃん? どうしたの?」
「っ、な、んでも……」
すぐに顔をそらしてしまったけれど、元気そうには見えなかった。六本木くんの表情を曇らせたのは、美岸利島の話だろうか。思いつくけれど聞くことなんてできやしない。『なんでもない』の一言さえうまく言えないような私だから。
うまく言えないなら――手紙だ。再びノートを千切り、綴る。
『元気ないけど大丈夫?』
うまい言葉が思いつかずあっさりとしたものになってしまった。それを折りたたみ、後ろの席に置く。
それから数分も経たぬうちに、くしゃくしゃに丸めた紙がぽとりと落ちてきた。それは肩から転がってスカートで止まった。六本木くんからの返事だ。
『大丈夫。気づかってくれてありがと』
またニコニコの絵文字が書いてある。私は再びペンを握り、手紙を綴る。
『私は美岸利島って素敵な場所だと思うよ』
手紙を書いて、また返事が返ってきて。
クラスの誰も知らない。私と六本木くんの文通が始まった。
***
授業が終わっても、次の授業がはじまるとまた手紙のやりとりがはじまる。
『牟田ちゃんって部活入ってる?』
『吹奏楽部だよ』
『そうなんだ。ちなみに俺は野球部に入るよ!』
『前の高校でも野球部だったの?』
『うん。弱小チームだったけど、楽しかった。数名高校の野球部って強いんでしょ?』
『今年は地区大会決勝で敗退したよ。甲子園一歩手前だったから大騒ぎ』
やりとりがしばらく続いて、そして。
『牟田ちゃんはクラスの子と喋ったりしないの?』
その質問になんて答えればいいのか、迷った。
本当のことを言えば――憧れる。
こうして手紙のやりとりをしているだけで楽しいのだから、向き合って話せばもっと楽しいだろう。六本木くんだけじゃなくてクラスのみんなと、話してみたかった。
声が出ないわけじゃない。大きな声だって出せる。でもみんなみたいに面白いことが言えない。私が語るものはすべてつまらないんじゃないかって怖くなる。
期待外れなことを言ってしまったら。面白いことを言えなかったら。発する言葉に失礼がないか、頭の中で確かめているうちに相手は動き出す。『牟田はつまらない』『根暗女』という結論を残して。
友達なんていなくたっていいと思っているけれど、本当は憧れるんだ。友達と話したい。クラスに馴染みたい。
『一人でだいじょうぶ』
シャープペンシルの先。灰黒色の芯にぽたりと落ちる。それが涙だと気づいた時には、紙にじわりとしみこんでいった。一瞬にしてふやけて、乾いてもその紙はよれているだろう。
こんな手紙、渡せるわけない。ぐしゃぐしゃと丸めてポケットに隠す。周りに気づかれぬよう、目元を拭った。
授業が終わって休み時間。扉側が騒がしい。また男子たちが騒いでいるのかもしれないと気にとめず、かばんから文庫本を取り出した。
「牟田さん」
声をかけてきたのは同じクラスの小川ななみさん。見ると小川さんは扉方面を指さして言った。
「吹奏楽部の連絡だって。隣のクラスの日都野さんが呼んでるよ」
入り口にいるのは隣のクラスで同じ吹奏楽部の日都野さんだった。といってもあまり話したことはない。相手は気遣って話してくれるけれど、私がうまく答えられなくて。
「あ…………はい」
教えてくれてありがとう、って言うことができなくて。そのうちに小川さんは自席の方へと戻ってしまった。
それもまた、小川さんから見れば『お礼も言えない牟田さんはつまらない』となるのだろうか。ちゃんと言えばよかった。後悔と共に唇をかみしめる。
入り口に行く。日都野さんは私を見るなり手を上げて微笑んだ。
「今日の部活はお休みだって」
「……は……い」
ありがとうってたった五文字なのに。文字にすれば簡単なのに。声にできず、流れていく。私はいつも言えないままで。
変わりたいのに、できない。
日都野さんが去って、私は教室に戻る。
ポケットに手を入れると、さっきの手紙が入っていた。ぐしゃぐしゃに丸めたその手紙をゴミ箱に捨てる。あんな涙の跡がついていたら渡せない、だからもういい。
黒板前、男子たちが騒ぐ横を通り過ぎて自席に戻る。バスケ部や野球部の男子生徒たちが一ノ瀬くんの席に集まって、楽しそうに盛り上がっていた。
その中に、六本木くんの姿もあった。
「牟田ちゃん?」
声をかけられても、六本木くんの顔を見れない。こんな情けない私を、少しでも見られたくなかったから。
自席に戻って本を読む。本を壁のように立てて読み、教室の喧噪を遮った。
次の授業が始まってしばらくして、六本木くんからの手紙がきた。
『牟田ちゃん、どうしたの? 元気ないよ』
彼から見ても私は落ちこんでいるように見えたのだろう。反省しながら返事を書く。
『大丈夫』
『もしかして、俺がさっき変なこと聞いたから落ちこんじゃった?』
『違うよ、大丈夫』
手紙はぱったりと止まって、しばらく後ろの席から届くことはなかった。
六本木くんからの手紙が来なくなると少し寂しい。授業に集中しないといけないってわかっているけれど。
まもなく授業終了のチャイムが鳴ろうという頃。
ぽとり、と転がってスカートに落ちる手紙。今までで一番長文の手紙だった。
『もしクラスで喋る子いないなら俺と話そう。もし牟田ちゃんがうまく喋れないなら手紙でいいよ』
そして。
『みんなと喋りたいけど勇気が出ないなら、俺が手伝うよ。みんなと話せるように変わろう』
変わる。
その文章は、私の心に刺さって。
クラスのみんなと打ち解けずに抱えた気持ちを、彼はどうして見抜いたのだろう。怖くなって六本木くんの方を覗き見る。
「あ」
目が合った瞬間、彼はふわりと微笑んだ。
唇は弧を描き、それに合わせて目も細まる。目元の皮膚も引っ張られるように動いて、文字通り満面の笑みがそこにあった。
「やーっとこっち見てくれた」
授業終了のチャイムが鳴って、我に返る。教卓の方を向いてお辞儀をしても心臓が急いていた。駆け足の鼓動は、チャイムの音よりも早くて。
先生が去って、生徒たちが動き出す。六本木くんも立ち上がり友達の席へ向かおうとしたのだろう。私の机の横を通り過ぎる時。
「また、授業中に」
私だけに聞こえる声。はっとして見上げれば、六本木くんは唇に人差し指を当てたいわゆる『内緒』のしぐさをしていた。
私たちだけの秘密。授業中の手紙交換。
その後は本を読んで時間をつぶそうとしたけれど、逸る鼓動はなかなか落ち着いてくれなくて、学校生活の変化を感じ取って集中できなかった。
***
『牟田ちゃんが変われるように、クラスのみんなと馴染めるように、俺も手伝うよ。一緒に練習しよう』
六本木くんがその手紙を渡してきた翌日から、練習は始まった。
私が変わるために。その第一歩が――
「牟田ちゃん、おはよ!」
相手の目を見て挨拶する。いきなり難題だ。
登校して教室に入るなり、待ち構えていた六本木くんがこちらを見て声をかける。
「え、と」
しどろもどろになって声が出ない。けれど六本木くんはニコニコと笑顔を絶やさぬまま、私が挨拶するのをじっと待っていた。
「……おはよう、ございます」
言い終えると、六本木くんは微笑んで、それから。
「よくできました! 俺以外のクラスメイトにも言えたらいいんだけど。少しずつ練習していこう。ゆっくりでいいからさ」
六本木くんにとっては、もどかしいのかもしれない。
でも私にとっては大きな一歩で、『よくできました』の言葉が胸にしみこんで温かい。つまらないとか面白くないとか、そんな風に言われなかったという安心感。嬉しくて、口元が緩んでしまいそうだから俯いた。
授業が始まるとさっそく手紙が回ってくる。先生の目を盗んでのやりとりだ。
『牟田ちゃん、もっと自信持てばいいのに』
手紙というのは不思議なもので、言いづらいことも書けてしまう。抱えていた気持ちを少しずつ、文字に記していく。
『私が話すと、つまらないって言われるから。怖いの』
『そんな風に言うやつは無視! 悪口言うやつは無視していこう! 自信持って。大きい声出すの苦手とかある?』
『大きい声は出せると思う。話すことが怖いだけ』
『部活ではどうしてるの?』
『なるべく喋らないようにしてる。だから部活もあんまり楽しくないの』
すると、手紙はしばらくの間を置いて。
『いいきっかけがあればいいんだけどなー』
口が3の形になった可愛らしい顔文字つきで返事が届く。そうしてその日は終わった。
***
「それでは数名祭に向けてのグループ分けをします」
転機はホームルームの時間にやってきた。数名祭とは今月行われる学校祭のことだ。
どのクラスも『学年演劇』と『クラス出店』に分かれることが決まっているけれど――私はどちらでもいいと思っていた。クラス出店はコスプレ喫茶で、学年演劇はシンデレラをやるらしい。どちらを選んでも私は裏方だ。舞台に立つことはない。
人が少ない方を選べば、クラスのみんなに迷惑をかけないはず。そう考えていた時だった。
後ろからぐい、と手を掴まれる。そして。
「はいはーい! 六本木と牟田は、演劇やりまーっす」
高々とあがるその手が自分のものだと認識するのに時間がかかった。
私の手を無理矢理掴んで挙げさせた犯人は楽しそうに言う。
「これ、チャンスだよ。一緒に頑張ろう」
六本木くんはそう言っているけれど、私は怖くてたまらない。だってクラス中が私たちを見ている。あの根暗女が自ら手をあげて演劇をやると言っているのだから。無言の圧力を感じて、きゅっと目をつむる。
「……牟田さん、いいの?」
そんな私に声をかけたのは小川さんだった。
「六本木くんが無理矢理手を挙げさせたように見えたから……もし嫌なら、何とかするから教えてね」
遠い席に座っている小川さんは、私のことを心配してここまで来てくれたらしい。その配慮に感謝しつつ、私は後ろをちらりと見る。
変わろうって言ってくれた。クラスで喋る子がいなかったら、文通でもいいから話そうと言ってくれた。挨拶できた時『よくできました』と褒めてくれた。
だから、もう少しだけ六本木くんを信じたい。
「……頑張ります」
「わかった。でも何かあったら相談してね」
「あ……あの、」
手を強く握りしめる。
勇気を出して。挨拶する時のように。相手の顔を見て。自信を持って。
「……ありがとう。小川さん」
すると小川さんは驚いたらしく目を見開いて、でもふっと柔らかく微笑んだ。
「初めて名前呼んでくれた」
「……そ、その、ごめんなさ……」
「牟田さんと話せて嬉しいよ」
私は一歩踏み出せたのだろうか。
小川さんとの会話が終わって一息ついた時後ろから手紙が落ちてきた。
『よくできました! 俺、感動したよ! このペースで、みんなと話せるようになっていこう!』
振り返って手紙を書いた主を見る。六本木くんは嬉しそうな顔をしてピースサインをしていた。
***
数名祭に向けての慌ただしい日々が始まった。
学年演劇担当になった生徒集まっての顔合わせ。台本配布。役者くじびき。生徒は、必ず一つは希望の役を選ばなきゃいけない。くじびきをして当たった生徒が演じ、外れた生徒は裏方に回る。つまるところ、役が当たるかは運であって。
「俺はさー、格好いい役がよかったんだよ。王子様とか」
役決めや裏方作業の分担が終わって、それぞれの個人作業に入った頃。その昼休み、私は六本木くんと向かい合って、台本の担当箇所にマーカーで印をつけていた。右手には蛍光ペン。
「牟田ちゃんの希望役提出、俺が書いたじゃん? シンデレラに丸つけて」
「……私は裏方でよかったのに」
少しずつ慣れてきて手紙でなくても六本木くんと喋れるようになってきた。とはいえ相手の顔を見て話すのは勇気がいるし、自信のなさは声量に表れてしまうから、騒がしい教室だと相手にうまく伝わらない。
六本木くんは私のそういうのを把握しているようで、耳を澄まして聞いてくれるし、返答が来るまでじっと待っていてくれる。
「牟田ちゃん似合うと思ったんだよ。んで俺が王子様役! ってのが理想だったのにさー、はあ」
ため息をつきながら六本木くんがマーカーを引くのは魔法使いの台詞。王子様役に丸をつけたつもりが一つずれて魔法使いになってしまったらしい。
王子様役は私のクラスの一ノ瀬くんで、一ノ瀬くん的にはシンデレラ役が別の子になると思っていたようだ。わかりやすいほどがっかりしていて、なんだか申し訳ない。
「シンデレラ……私じゃない方が……みんな喜んだと思う、けど」
シンデレラ役のくじびきをして当たったのは私だった。となれば当然ざわつくわけで。
あの喋らない根暗女がどうして、と皆の視線が刺さったことを覚えている。六本木くんだけは笑顔で拍手をしていたけれど、今も私以外の人がシンデレラをやればよかったのにと思ってしまう。
「いいの! これが一歩踏み出すチャンスだから――よーし、台詞に印もつけたし、ちょっと読んでみる?」
「……自信ない」
「自信はこれから作るもの。さ、練習しよ」
言われて台本を開く。ピンクのマーカーを引いたシンデレラの台詞は、主役ということもあって量が多い。これを覚えられるのか不安になった。
「……『おかあさま、わたし、舞踏会に行きたいの』」
うまく声が出ない。ぼそぼそと喋るだけ。
これじゃ期待外れかもしれない。不安から六本木くんを見上げる。
「上手だよ! 前から思ってたけど牟田ちゃん綺麗な声してるんだから、もっと自信持って大きな声で喋っていいと思う」
「……う、ん」
「じゃあ次。魔法使いと会う場面やろ。俺も台詞あるし!」
ぱらぱらとページをめくって、魔法使いとシンデレラが出会う場面。魔法がかかってシンデレラの姿が変わるシーンだ。
「『私は魔法使い。シンデレラ、お前は舞踏会に行きたいのかい?』」
「……『はい。わたしも、舞踏会に行きたいのです』」
「『そのためにはお前が変わらなきゃいけないよ。お前が望むなら願いを叶えてやろう』」
「『わ、たしは……』」
そこでシンデレラは『変わりたい』と願う。そして魔法使いは願いを叶えて、ドレスや馬車を用意するのだけど――変わりたい、その一言がうまく出ない。
「牟田ちゃん?」
まるで。魔法使いは六本木くんだ。
手紙で私とやりとりをして、変わろうよと提案してくれた心優しい魔法使い。その魔法使いは呪文を唱えて、でも私は――シンデレラになれるのだろうか。
「……大丈夫。自信持って」
心中の不安を見抜いたように、対面の彼はふわりと笑った。
「この劇が終わったら、牟田ちゃんはもう変わってる。みんなと話せる。友達もできる」
台本を握る手に、重なる手。それは私ではない温かさをしている。
六本木くんの手は、私よりも少しだけ、大きい。
***
数名祭は少しずつ迫り、それに合わせて私たちの準備も進んでいく。読み合わせから体育館ステージを借りての通し練習まで進んだ。
六本木くんは出番の少ない魔法使い役だけど、出番が終わっても舞台袖で私が終わるのを待っていてくれた。
「次は今よりも大きな声で言ってみよう」
「うん、わかった」
通し練習が一回終わったら、六本木くんは必ずよかったところや悪かったところを言ってくれて。
「大丈夫だよ。自信持って」
最後は必ずその台詞が出てくる。
その言葉は私に力を与えた。次はもう少しだけ、大きな声で。そう思わせる不思議な呪文。
台詞は一度覚えたら変わらない。練習を繰り返すうちにうまく言えるようになっていく。
「『おかあさま、わたし、舞踏会に行きたいの』」
体育館に響く、声。
舞台袖を見れば六本木くんがピースサインをしてこちらを見ていた。それからノートに大きな文字を書いてこちらに向ける。
『今のバッチリ! よくできました!』
***
「牟田さん。衣装合わせするからこっちに来て」
数名祭に向けて準備中の放課後。日都野さんが私を呼んだ。
日都野さんは衣装係の担当だ。私は日都野さんと共に隣の教室に入って着替える。
シンデレラということで青いドレスだった。その隣には王子様の衣装や魔法使いのローブもある。六本木くんの衣装合わせもこれから行うのだろう。
「前年の先輩たちが作った衣装だから、サイズをちょっと直すだけなんだけど――」
衣装に袖を通す。艶々した生地、しかも水色。こんなの似合わないと思っていたけれど。
「ばっちり、似合ってるよ」
着終えた私を見て日都野さんは満足そうに頷いていた。細かなサイズの修正も終わってあとは脱ぐだけだ。
「最初はね、シンデレラ役が牟田さんになったから心配だったけど、こんなに上手なんて知らなかったよ。私、びっくりしちゃった」
その話をして日都野さんの顔を見た時に思い出した。
王子様役に選ばれた一ノ瀬くんが落ちこんでいて、その理由がわからずあたふたしていた時に、六本木くんがこっそり教えてくれたのだ。
『内緒だけど。一ノ瀬は隣のクラスの日都野さんがよかったんだってさー。あいつ、日都野さんのこと好きなのかなー?』
一ノ瀬くんは、日都野さんにシンデレラを演じてほしかった。きっと日都野さんも――
「……根暗でつまらない私がシンデレラで……ごめんなさい」
心が沈んでいく。やっぱりやるべきじゃなかった。
変われるわけがない。私は根暗で、つまらない子だから。
「え? どうして――」
「私で……ごめんなさい!」
「牟田さん、待って!」
ドレスを脱いで、教室を出て行く。怖くて日都野さんの方を見ることはできなかった。
通し練習中の教室に戻ると、六本木くんがこちらにやってきた。
「どうしたの? なんか暗い顔してるけど」
「……あ、わ、わたし」
シンデレラ役をやめたい、と言えたらいいのに。
本番は迫っているから、他の人に役を代わってもらう余裕はない。私がやらなきゃいけない。
でも。心が沈んで、うまく前を向けない。
「急に怖くなっちゃった? 大丈夫だよ、牟田ちゃんならできるから」
六本木くんは励ましてくれるけれど、みんなは違う。
どうしてあんなやつが主役にって思っている。私じゃない子がシンデレラをやればよかったと嗤うのかもしれない。
私に、ガラスの靴は似合わない。
***
そうして数名祭当日になった。
体育館のステージで各学年ごとに演劇が披露される。一年生は最初だ。
シンデレラの衣装は途中で変わる。最初はボロボロに汚れたエプロンをつけた家政婦姿だ。衣装を着て、舞台袖で準備する。
「牟田ちゃん緊張してる?」
気づくと隣に魔法使いのローブを着た六本木くんが立っていた。私は静かに頷く。
「大丈夫大丈夫。ここまでたくさん練習してきたんだからさ、自信持って行こう」
「……でも、わたしは……」
自信を持ってと言われても前は向けなくて。俯く私の肩を六本木くんが叩く。
「俺を信じて」
その言葉と共に演劇開始のブザーが鳴る。まもなく幕が上がる。私はステージの、指定の位置に向かった。
いざ幕が開いて、最初に思ったことは眩しいということだった。
体育館は真っ暗になっていて光はすべてステージに集っている。真っ暗な観客席は、前列しか生徒の顔が見えず、奥の方はただの闇。でもその闇から視線が向けられているのがわかる。
息を吸う音、吐く音、喋る声。しんと静かになった体育館にそれは響き、その静寂と暗闇からの視線は緊張に変わって降りかかる。
「『お……かあさま……』」
あれほど練習した台詞が、掠れた。
声が震えて、うまく話せない。
「『わたし、舞踏会に行きたいの』」
練習していた時よりも小さな声。私のその様子は観客席にも伝わったようで前列から「何喋ってるんだ?」「聞こえねー」などの不満の声があがった。
早く、幕が下りてほしい。
こんなつらい演劇、やらなければよかった。
後悔がにじんで泣きそうになる。せめて劇が終わるまでは頑張らないと。
そのうちに場面は進んで――そして。
「『私は魔法使い。シンデレラ、お前は舞踏会に行きたいのかい?』」
魔法使いに扮した六本木くんがステージに出てくる。
「『はい。わたしも、舞踏会に行きたいのです』」
「『シンデレラ。お前は――』」
そこまで言いかけて、六本木くんは言い淀む。
まさか台詞を忘れちゃった? と不安になったけれど、すぐに六本木くんの唇が動く。けれどそれは想定外の台詞で。
「『つまらない子でも根暗でもない。大丈夫、もっと自信を持っていい』」
台本にない台詞。はっとして見れば、六本木くんは真剣な顔をしていた。
「『周りが馬鹿にしたものを、君だけは素敵だと言ってくれた。君は自信がないというけれど、そんな君に助けられた人もいる』」
突然のアドリブに混乱していたけれど、六本木くんが話しているものが何のことか、それだけはすぐにわかった。
たぶん、六本木くんの故郷。美岸利島のことだ。男子生徒たちが馬鹿にしていたそれを私は『素敵だと思う』と手紙に書いたから。
六本木くんは穏やかに目を細め、こちらに手を伸ばす。
「『変わろう。君がこれから前を向けるように』」
私の前に立つのは六本木くんのようで、でも魔法使いだと思った。
これはチャンスだと背中を押してくれたのも、『よくできました』と褒めてくれたのもいつも六本木くんだった。この人が来て、変わろうと立ち上がることができたんだ。
「か……変わりたい!」
それは大きな声で、体育館にびりびりと響く。シンデレラの台詞なのか私の言葉なのか、わからなくなっていた。
しっかりとその手を取る。魔法使いは微笑んだ。
「『変わろう。きっと舞踏会はいい場所だよ』」
そこでいったん幕は下りて、従者やネズミ役の子たちが幕の前で小劇を披露する。その間に私はドレスに着替える。ドタバタの準備時間だ。
慌ただしくドレスを着てステージに戻る。もうすぐ小劇が終わって幕が開く。その時、ステージから舞台袖に移動する六本木くんを見つけた。
「あの、さっきの……その……」
その背を呼び止める。六本木くんは振り返って、それから。
「よくできま……っ、その、衣装……」
言いかけて口ごもる。視線をこちらに向けたままじっと固まってしまった。
「……六本木くん?」
「へ? あ、いやいや……なんでもない……」
何か失礼なことをしてしまったかと不安になったけれど、固まっていたのは数秒だけで、またいつもの笑顔に戻る。
「よくできました! そのドレス、めっちゃ似合うよ。だから自信持って!」
魔法使いではなくいつもの六本木くんに戻って、励ましてくれる。その優しさがじわりと胸に染みて温かい。
変わる。友達と話したり、クラスに馴染んだりできるように。
私は六本木くんの目をじっと見て、微笑んだ。
「私、もう大丈夫。頑張ってくるね」
***
学年演劇が終わって、控え室に戻る。一年演劇控え室に割り当てられた教室には小道具など様々な荷物が置いてあって、その中心に生徒たちが集まっていた。
「牟田さん! 劇、すっごくよかったよ。おつかれさま!」
私が教室に入るなり、やってきたのは日都野さんだった。
「衣装合わせの時ちゃんと話せなかったけど……私、牟田さんがシンデレラ役決まって嬉しかったの。これをきっかけに、牟田さんと仲良くなれるかもしれないって思ったから」
「仲良くって……わ、私と……?」
「うん。同じ部活だし、仲良くなろう。牟田さんとたくさん話してみたかったの。友達になりたくて」
友達。
憧れていたものが目の前にある。
もう制服に着替えているからシンデレラのドレスは着ていない。でも魔法が残っている気がした。
「ほらほら! こっちでお疲れ様会しよう? みんな、牟田さんのシンデレラに感動して、その話ばかりしてたんだよ。主役はこっちに座って!」
教室にいるみんな、日都野さん、一ノ瀬くん、そして六本木くん。
みんなの視線が私に集まっているけれど、怖くない。
「みんな、ありがとう」
声はもう震えていなかった。
数名祭も終わった帰り道を六本木くんと一緒に歩く。
「そういえば明日から数名高校の制服なんだよ」
六本木くんはそう言って笑った。
「俺だけ制服違うからなんか浮いててさー、これでみんなと一緒になれる」
「美岸利高校の制服も似合っていたけど、数名高校の制服もきっと似合うよ」
臙脂色のブレザーは六本木くんによく似合うことだろう。今までの制服が見れなくなるのは少し寂しいけど、新しい制服を着たところを早く見てみたかった。
「俺、本当は転校なんてしたくなかったんだ」
六本木くんはぽつりと呟いた。視線は自らの学生服にある。遠い故郷を思い出しているのかもしれなかった。
「俺、美岸利島が好きだったからさー、引っ越したくなくて。案の定野球部のやつに田舎を馬鹿にされるし。田舎暮らしだって悪くないっての!」
苛立たしげに叫んだ後六本木くんは立ち止まる。視線は私へ。どうしたのかと思いきや、六本木くんは頭を下げた。
「演劇だの挨拶だの変わろうだの、牟田ちゃんを振り回してごめん」
六本木くんは謝っているけれど――違う。私は六本木くんの方へ歩み寄って、言った。
「謝らないで。感謝してる。六本木くんのおかげで、変わることができたから」
変わろうと言って、私に魔法をかけてくれたのは六本木くんだ。出会えなかったら、手紙のやりとりをしていなかったら、きっと私はうまく喋れないままだった。
「でもどうして、私に『変わろう』って言ってくれたの?」
「だって、俺の好きな場所を『素敵』だって言ってくれた子を放っておきたくなかった。つまらないとか根暗とか、そんな風に言われてるの嫌じゃん? 牟田ちゃんは字も声も綺麗だし、いいところがたくさんあるのに、一部だけを見て悪く言われるの俺は許せない」
私たちは顔をあげて、それからお互いにはにかんで笑う。歩道で二人して頭を下げ合っているなんてなんだかおかしくて。
「本当にありがとう、六本木くん」
「いやいや俺じゃなくて牟田ちゃんの頑張りでしょ! これからも友達でいようよ」
「うん……えっと、駿輔くん」
自己紹介の時、六本木駿輔って言っていたけれど。せっかく仲良くなったのだから名前で呼びたいと思った。けれど隣を歩く六本木くんの反応は予想外なもので。
「え……な、名前、俺の……?」
「友達になったら名前で呼び合うって思ってたけど……違った?」
その顔が赤く見えたのは夕方のせいかもしれない。六本木くんはぶんぶんと首を横に振った。
「い、いや、いいと思う、思います! あー、なんかキュンっときた……これが青春……」
「きゅん?」
「こっちの話! 気にしないで」
そして歩き出す。数名祭が終わって普段通りの学校生活になるけれど、それが楽しみでたまらない。
一人で本ばかり読んでいた学校生活は変わって、友達と過ごす楽しい日々がはじまる。きっと。
「来年も一緒に劇やろうね」
「いいねー。俺、来年こそ王子様役やりたい!」
「魔法使いっぽい気がするけど……」
「やだー! 俺も主役がいいー! 牟田ちゃんがヒロインで!」
一歩踏み出して変わる世界。私に魔法をかけてくれたのは六本木くんで、この魔法はまだまだ溶けそうにない。
ううん違う。別の魔法に変わるのかもしれない。キュンとするような青い魔法に変わるのは、もうちょっと先のお話。
一年に四回も季節が変わるのだから、私の高校生活だって些細なことで変わってもいい。
高校の制服も馴染んできた秋の頃、私はアルバイトをすることに決めた。アルバイトを始めたら、私の高校生活が変わりそうな気がしたから。
働く場所はレストラン。可愛い従業員制服を着たり、他従業員の人と仲良くなったり、きらきら輝く瞬間がここから始まる――はずだった。
「困った……」
スタッフルームに響く店長さんのため息は何度目かわからない。可愛い従業員制服に身を包んだ私は、いすに座ったまま固まっているだけ。
店長さんは時計とスタッフルームの扉を交互に眺めて、困り顔で言った。
「君の教育係は大学生の子なんだけど……早く来るように言ったんだけどな。あいつ、《《また》》迷っているのか」
このレストランは駅前のわかりやすい場所にある。ロードサイドにでかでかとした看板があるので間違うことはほぼない。それに教育係になる人ってすでに働いている人だろうから、何度もここに来ていると思うけど。
それなのに迷うって一体どういうこと。
店長さんは「困った」とか「いっそのこと別の人に教育係を」なんて呟いているし、どうしたらいいんだろう。
そして勤務開始時間の五分前になり――
「……はよ、ございます」
ついに扉が開いた。
やってきたのは男子大学生。
シルバーのピアスがいくつも並ぶ耳を強調するよう、ツーブロックにセットした黒髪。服は白のスリムパンツに水色のカーディガン、さらに男子の間で人気のブランドのスニーカー。
細部までオシャレにこだわる憧れの大学生像が目の前にいた――けど、おかしい。理想通りなのに何かがおかしい。
変だなと思いながら視線を下げていく。大あくびスタッフルームの入り口でスニーカーを脱いで、そこでちらりと不自然な位置に肌色が見えた。黒い靴下にちらちらと見えた肌色。
「……あ」
黒い靴下の先に、穴。
黒地からぽっかりと覗く親指の爪がこんなにも目立っているのに、気づいているのは私だけのようで、店長さんは平然としている。
「眞人、ギリギリだぞ。また迷っていたのか」
七条さんは頷いた……んだと思う。首がガクンと落ちて、最初は頷いたんだと思った。でも上に戻ってこない、そのまま寝てしまいそうな顔をしていたので店長に「起きろ」と怒られていた。
七条さんはふらふらとした足取りで更衣室に入っていった。アコーディオンカーテンで仕切られた向こう、かばんを壁にぶつける音とかベルトが床に落ちる音とか、とにかく騒がしい。
ここまでの流れで、この七条さんが変な人だということはじゅうぶんにわかった。追い打ちをかけるように店長さんも言う。
「あいつは七条眞人。大学生だ。変わったところがあるけど、よろしく頼む」
「……は、はあ」
「マイペースを極めすぎて宇宙空間にいるような男だけど、悪いヤツじゃないから」
マイペースって極めたら宇宙に行けるんだっけ? ぼんやり考えていると、アコーディオンカーテンが開いた。
レストラン指定の制服に着替えた七条さんが戻ってくる――けれど着替えても靴下の穴には気づかなかったようで、親指の爪はばっちり見えていた。
靴下に穴が空くことはよくある。登校して靴を履き替えようとしたら靴下に穴が空いていた、なんて私も経験ある話で。
仮に友達の靴下に穴が空いていたら。仲がいい子なら「靴下に穴空いてる」って言えるけど、仲良くなければ言いづらい。そういう時は見ないふりをしている。
だから見ないふりをしたい。けど。
七条さんの場合はどうにも目立つ。小さい穴じゃない。親指の爪ぜんぶ見えてる。黒い靴下だから目立ってしまう。逆ブラックホール。
まだ店長さんも気づいていないようだった。
「お前、この子の教育係だから頼むぞ」
「教育……? 僕が?」
「しっかりしろよ。お前が先輩だからな」
店長さんが肩を叩いても、七条さんはとぼけた様子だった。
眠そうな瞳で私を捉えると、ぼそぼそと呟く。
「あんたの名前は?」
「小川ななみです。よろしくお願いします」
緊張混じりに答えながら頭をさげて――靴下の穴と目が合ってしまう。だめだ。視線を下げるとどうしても靴下の穴に吸いこまれる。気になって仕方がない。
「七条でいい……ん?」
私の不自然な注目に気づいたらしく、七条さんが足元に目をやる。そして。
「ああ、穴が空いてたのか」
今日の天気でも話すような軽さで、驚きも恥じらいもなく。淡々としていた。
七条さんは表情を変えずにスタッフルームの机に近寄った。引き出しをあける。
もしかして穴を縫うのかな、なんて思っていたら手に取ったのは黒の極太サインペン。嫌な予感しかしない。
そういう話は聞いたことある。どうにかして靴下の穴をごまかそうとして、でもさすがにそれは、格好いい大学生のイメージが崩壊する。他の人の前でそんなことはさすがにしないだろう。
結局、私の予想は当たった。
床に座りこんだ七条さんは、慣れた手つきで親指の爪を塗っていく。
黒い靴下だからって、サインペンの黒とは別物。塗ったところだけ艶々としていて、靴下に穴が空いていることはやっぱりわかってしまう。
呆気にとられている私に店長さんがフォローを入れた。
「……な? こいつ変わってるだろ。でも仕事はできるから安心して」
言われなくても見ればわかる。七条さんは変。初対面で靴下の穴を隠そうと親指の爪を黒く塗る人だもの。
この人が私の先輩なんて、この先どうなるのだろう。安心なんてできない。不安しかない。
この変な人が教育係になって、本当に大丈夫なのかと疑っていた。教育係どころか、覇気なしやる気なし寄行ありのこの人が働けるのかとさえ。
そのイメージはすぐに崩れることになる。スタッフルームを出てレストランホールに出た瞬間、七条さんの空気ががらりと変わった。
「さっき教えた下げ膳、できる?」
「は、はいっ」
「じゃあ三番テーブル。食器下げた後にテーブル拭くの忘れないで」
ホールに出た瞬間、笑顔全開。
怠そうにぼそぼそと喋っていたのは嘘のようにハキハキとした声に変わる。眠たそうな顔もしていない。
わたわたしながらも食器を片付けてテーブルを拭く。食器は重ね方にルールがあって、厨房に戻ってくると七条さんが言った。
「よくできてる。これなら下げ膳は大丈夫だ」
「……はい」
「少しずつ接客も慣れていこう。お客様がいらっしゃったら、お冷を用意。今日はそれだけでいいから、まずは僕の動きを見て全体の流れを覚えて」
「わかりました」
「わからないことあったらいつでも聞いて――いらっしゃいませ!」
あまりにも別人すぎて、これが本当に七条さんなのか確かめたくなる。スタッフルームではこんな爽やかな顔を数秒もしていなかったし、爽やかな挨拶とは真逆の態度だった。
でも顔も姿も同じ。名札だって七条って書いてある。同一人物。
どうなっているんだこれは。
七条さんは仕事もばっちりだった。来店、オーダー、お冷のおかわりといった作業も先回りして準備し、適切なタイミングでお客様の元へ行く。スタッフ同士の連携にも気を配っていて、担当のテーブル以外でも忙しいところがあればすぐ手伝いに向かう。厨房がオーダーを仕上げるタイミングだって、相手が言わずとも気づいて動く。
スタッフルームでの姿は嘘のように。これこそ仕事のできる頼れる先輩だ。
「ねえ見て。あの人格好いい。七条って言うんだって」
「彼女いるのかなー? こっちのテーブルにきたら聞いてみようよ」
お冷やのおかわりを注ぎにいくと、担当テーブルのお客様たちが七条さんのことを話していた。てきぱき仕事をこなす営業スマイル全開の七条さんだから格好よく見えてしまうのはわかるけれど。
ああ、言いたい。
『あの格好いい七条さんの靴下、とんでもないことになっているんですよ。穴を塗りつぶしているんです』って叫びたい。
ホールにいる姿からは想像もつかないどえらい靴下。それを履くご本人はキラキラ笑顔で接客にあたっていた。
初勤務が終わってスタッフルーム。初めてのアルバイトってのは緊張して、めまぐるしい環境に頭がついていかない。今までお客様としてみてきたものが別視点になる。知らなかった裏側は私の想像以上にばたばたと忙しく、綺麗なものだけじゃない世界だった。
そして、こちらも。
「おつかれさまです。教えていただいてありがとうございました、七条さん」
「……ん。おつかれ」
ホールにいる時の七条さんはどこへ消えたのか。スタッフルームに入った瞬間、空気が抜けて萎んだ風船のように覇気がなくなった。ピンと伸びていた背も丸くなって寝起きのように怠そうな表情。
アルバイトってもう少し和気藹々としたものを想像していたけれど、スタッフルームに戻ってきても七条さんと交わす言葉は挨拶と事務会話程度。ロッカーだの名札入れるのはこの場所だの話して、さっさと着替えてしまった。
爽やかな笑顔は嘘のように眠そうな顔をして、ふらふらしながらスニーカーを取り出す。
この人、ちゃんと家まで帰れるんだろうか。心配で見守っていると、ぼそぼそと喋りだした。
「あんた、明日も入店?」
「はい。明日もよろしくお願いします」
「ん。じゃ、また」
スタッフルームを出て行こうとしたけれど――私の視界には大きなカバンが一つ。それは、七条さんのもので。
「カバン忘れていますよ!」
「ん……ああ、ほんとだ……」
私が教えなかったら、カバンを忘れて帰っていたのかもしれない。出会ったばかりだけど、この人ならやりかねないと思った。
こうして私のアルバイト初日は、変な七条さんに振り回されて終わった。
不安だらけのアルバイトだったけれど、働いてみればやっぱり不安だ。
***
ホールではきびきび動くのに、バイト以外はダメ。そんな七条さんのことも数週間経つ頃にはわかってきた。
七条さんには、やる気スイッチがある。
ホールに出て仕事が始まれば、やる気スイッチはオンに切り替わる。きびきび動く綺麗な七条さんになるのだ。
お客様がいない暇な時は少しだけ雑談もしてくれるので、それが最近の楽しみだった。
「七条さんっておいくつですか?」
「二十歳。見えないって言われるけど」
「でしょうね……」
祝日にしては珍しいノーゲスト。レストランホールを見渡してもお客様の姿はなくがらんとしている。そういう時にしかできない仕事もあって、靴裏で汚れやすいテーブルやチェアの脚を拭いたり、壁の汚れを落としたり。掃除をしながら七条さんと言葉を交わす。
「七条さんって一人暮らしって聞きましたけど……こう言っちゃ失礼ですけど、ちゃんと生活できてます?」
「よく聞かれる。でも、なんとか一人暮らしできてる」
「自炊できてます? ってか昨日なに食べました?」
「それもよく聞かれる。昨日食べたのは……おかゆ」
「おかゆ……? 具合が悪かったんですか?」
「いや。ご飯炊こうとしたら、大量のおかゆができあがってた」
「……水が多すぎたんですね」
現場を見ていないのに簡単に想像できてしまうから恐ろしい。炊飯器の蓋を開け、おかゆ状態になったお米を見て首傾げていそう。
七条さんには申し訳ないけれど、おかゆVS七条さんの想像が面白くて笑ってしまった。
「……楽しそうだな」
「あ。笑っちゃってすみません」
ノーゲストといえ笑っているなんて気が抜けている。なんて怒られるのかと思いきや、あの『表情筋動かすことさえめんどくさい系七条さん』が、私の方を見てくすりと微笑んでいた。
「いや、いい。あんたがこの店に馴染んでくれて、うれしいから」
「はい。七条さんのおかげで少しずつ仕事も覚えてきました」
「あんたは飲みこみが早いから助かる」
こうやってスイッチが入っていれば、格好いい大学生なのに。スタッフルームに戻ったら微笑むこともなく、だるんとした表情でいるのだろう。
ノーゲスト状態続いてほしい気持ちはあるけれど、そうなるとお仕事としては成り立たない。
「今はヒマだけど、これから混みそうだな」
「祝日ですもんね」
「がんばろう――頼りにしてる」
ぽん、と優しく頭に落ちる手のひら。
変な人だとわかっているのに格好よく見えてしまう。スイッチが入っているからって、こんな風に頭を撫でるのはずるい。
仕事が終わってスタッフルームに戻ると、七条さんのやる気スイッチは切れる。気は抜けて眠そうな顔をし、口数も減る。言葉を発する力もないらしい。
「予想通り、今日は忙しかったですね」
「ん」
今日は特に疲れているらしい。あの後は、ノーゲストから一転して満席続きになり、水を飲む間さえないような慌ただしさだった。
私はまだ日が浅いから自分の担当箇所だけを見ていればいいけれど、七条さんはそういかない。私の指導に担当箇所の確認、さらにホール全体の掌握までこなしていたから、かなり疲れているだろう。
そういえばバイト中にわからないことがあった。サイドメニューだけど今日中に確認して覚えておきたい。
「あの、七条さん」
声をかけて、七条さんがいる方向を見た――けれど。
「――っ、な、なにしてるんですか!?」
振り返れば、七条さんは着替えようとシャツを脱いでいた。上半身裸の状態だ。
「……着替え」
「更衣室で着替えてください!」
ここで着替えられたら困るので、眠そうな七条さんの体をぐいぐいと押して更衣室に連れていく。
それから落ちていたシャツや制服を拾って更衣室に。あと自分の名札ケースを間違えることも多々あるので、七条さんのケースを引き出しておいた。
あとは大丈夫だと思う。私は頷いて狭い更衣室から出ようとした。
「はい。オッケーです。じゃ着替えてくださいね――」
けれど。私が出て行くより早く、軽快な音を立ててアコーディオンカーテンが動いた。一気に暗くなって、狭い更衣室がより狭く感じた。
「え? 七条さん?」
どうしてカーテンを閉めたのだろう。後ろにいるだろう七条さんを見上げようとして、気づく。
そういえばこの人、背が高い。
更衣室に連れていくためといえ、その体に触れてしまっていた。温かかった、と思う。
それが急に恥ずかしくなって、七条さんの方を向くことさえためらった。
狭い密室で、二人。よく考えれば普通じゃない。
「……あ」
そこで七条さんの声が落ちた。そして。
「ごめん。いるの忘れて、カーテン閉めてた」
一瞬あれやこれや考えてしまった自分が恥ずかしくなるほど、潔くカーテンが開かれる。
スタッフルームの光が眩しい。うん。
「人のこと忘れないでくださいね……」
呆れながらそう言って、更衣室を出る。バイトよりも疲れた気がした。
少し待っていると更衣室のカーテンが開いた。着替え終わった七条さんが眠そうにもそもそと歩いてくる。
私の最近の仕事は、七条さんの忘れ物チェックだ。まずは使い終わった更衣室を確認。案の定名札が床に落ちている。いつものことなので特に驚きもしない。
「七条さん、名札落としてます」
「ん……ほんとだ」
次はかばん。これもギリギリまで気が抜けない。
あと靴下が片方だけ裏返っていることもあるから確認して、忘れ物率ナンバーワンのスマートフォンもチェック。大丈夫、ポケットに入ってる。
それらの確認を終えると私は頷いた。
「……はい、ばっちりです! お疲れさまでした。ちゃんと前を見て歩いてくださいね」
「がんばる」
頑張らなくても前を見て歩けるようになってくれ。そんなツッコミは飲みこんで、七条さんを見送る。
帰り道迷子になった、なんて話を聞くのは一度や二度じゃない。今日も無事に帰れるよう祈っておく。
「さて。私も着替えて帰らないと……」
そしていざ自分の着替えと更衣室に入ると、七条さんの名札ケースが引き出したままになっていた。そして。
「……この存在を忘れてた」
本来は名札を置く場所に、なぜか定期が置いてある。
嫌な予感しかしない。落胆しつつ手に取れば、案の定『七条 眞人』と刻印が入っていた。
きっと名札をしまおうとして、定期を入れてしまったのだろう。そんなばかな。さすが予想の斜め上を行く男、七条さん。
でも定期がなかったら、帰り道はどうするのだろう。
七条さんが通う大学はこの近くで、家は少し離れたところにあると言っていた。私も電車に乗って帰るから、同じ駅に向かうついでだ。
慌てて着替えてスタッフルームを出る。
駅に着くと、ふらふらと歩く不審な大学生がいた。
「七条さん!」
あのふらつき方は七条さんしかいないと声をかければ、やっぱり七条さんだった。私が追いかけてきた理由がわからないらしく、不思議そうに首を傾げている。
「定期、忘れていましたよ」
定期を受け取った後、七条さんはじっと私の顔を見つめていた。
「助かる。ありがとう」
「私も電車で帰るので、そのついでです。気にしないでください」
「どっち方面?」
「同じ方向ですよ」
定期券に書いてあったのは、私が降りる四つ手前の駅名。四つ離れていると、近いのか遠いのか判断が難しい。
「……じゃあ、頼む」
改札を通りながら、七条さんが言う。しかし主語がないので何を頼まれているのかわからず、返答に困っていると手が差し出された。
「一緒に帰ろう。よく乗り過ごすから、案内して」
乗り過ごす姿が容易に想像できる。眠っているわけじゃないのにぼーっとして降車駅間違えそうだ。
呆れてしまうけれど、でも放っておけない。
「わかりました。一緒に帰りましょう」
手を繋ぐというより、誘導に近い。知らない人が見たら誤解しそうだけど、これは案内しているだけ。
七条さんは子供みたいなことを言うくせに、私よりも手のひらが大きかった。
「あんた、高校生だっけ?」
電車が動きだしてしばらく経った頃、七条さんが言った。
「数名高校です。もうすぐ学校祭があるんですよ」
「……数名高校の学校祭」
文化祭と聞いて、七条さんの瞳がきらきらと輝く。スイッチが切れているのに、こんな七条さんを見るのは初めてだった。
「もしかして興味あります?」
「確か、吹奏楽部が有名……って聞いた」
「吹奏楽が好きなんですか?」
「楽器は弾けないけど……一回聴いてみたい」
ぽつぽつと呟いているけれど、いつもより楽しそうに話している。七条さんは吹奏楽が好きみたいだ。意外な趣味を知ることができて嬉しい。
「意外な趣味ですね」
「大学の管弦楽部定期演奏会も聴くの好き。あと新年のクラシックコンサートも」
バイト中に雑談していたことはあれど、ここまでプライベートなことを知るのは初めて。好きなものを語る七条さんの横顔が、なんだか可愛く見えてしまった。
「数名高校の吹奏楽はすごいって…………が言ってたから」
ぽつりとこぼれた一言が、少しだけ引っかかる。
七条さんの細すぎる声量と電車の音にかき消されてしまって、誰のことを呟いていたのかわからなかった。
もしかして、彼女とか。
想像しようとしたけれど、もやもやした感情が頭を占める。深く考えたくない、知りたくないって願ってしまう。不思議な感情だ。
案内のためと理由をつけて手を繋いで、そのまま電車に乗り込んでしまったから。そのせいで気分がふわふわとしているのかもしれない。
聞こえなかった名前部分のことを頭から追い出して、いつも通りに振る舞った。
「よかったらきてください。今度チケット持ってきますね」
「ん。ありがとう」
「あ。私のクラス出店に来るのも忘れないでくださいね。サービスしますよ」
「それはやだ……面倒」
私からチケットをもらうくせに、クラス出店にこないとは何事だ。それも理由が面倒なんて。これは念押ししないと来ないかもしれない。
「来てくださいね?」
「……ちなみに、何やるの?」
「私のクラスはクラス出店と学年演劇に分かれるんです。私はクラス出店のコスプレ喫茶担当です」
「ふうん……演劇、気になる」
一年生の学年演劇はシンデレラらしいけど。噂によると、不安要素が多いらしい。
「数名高校の学園演劇は伝統らしいですけど……ちょっと今年はどうなるやら」
「なんで?」
「主役を演じる子が、物静かな子なんです。クラスメイトなんだけどみんなと喋ったりしないで一人静かに本を読んでるタイプで」
「……よく主役やるって言い出したね」
「最近転校してきた子がその子を振り回しているんじゃないかって心配です。隙を見て声かけようとはしてるけどなかなかうまくいかなくて……いつかその子もクラスに馴染めたらいいのに」
そこではたと気づいた。学校祭の話をしてるつもりが、いつの間にか私の悩み相談タイムになっている。
せっかく学年演劇に興味を持っているのに、印象悪くしてしまったらよくない。
「す、すみません。相談してしまって」
慌てて謝ると、七条さんはじっと私を見つめて――ふっと微笑んだ。
「あんたは、優しいんだな」
「え? そうですか?」
「いいことだと思う。だから僕も、道案内してもらえる」
「それは七条さんが迷子になってふらふらしているからですよ」
ごまかしているけれど、七条さんに優しいと言われるのは嬉しかった。そしてスイッチオフ状態のふらふらモードで貴重な笑顔を見ることができたのも。
話したいことはもっとあった。七条さんの色んな話を聞いてみたかった。好きなもの、好きなごはん、気になるものはたくさんあるのにうまく聞けないまま。
そしていつもより、電車の速度が速く感じる。駅を一つ飛ばしているじゃないかってほど乗車時間を短く感じた。それは私がこの会話を楽しんでいるからだと思う。
「なあ。コスプレ喫茶って、あんたは――」
七条さんが言いかけたところで、アナウンスが鳴る。まもなく七条さんが降りる予定の駅に着こうとしていた。
「七条さん。次の駅ですよ」
「助かる。あんたのおかげで乗り過ごさなかった」
「七条さんは私より四歳年上なんですから、しっかりしてください」
繋いでいた手が離れて、七条さんが歩き出す。
七条さんが振り返るかもしれないと淡い期待をこめて、離れていく姿を見つめてしまう。
「――あ、」
ドアが閉まる直前。私の願いが通じて、七条さんが振り返った。
目が合って、動けなくなる。唇の動きがゆっくりに見えてしまうほど私は緊張していた。
「あんたと僕。四駅離れて、四歳違うのか」
何を言うかと期待してしまったのに。なんだこれは。
ぽかんとした私と七条さんを切り離すようにドアが閉まった。
『またね』なんて別れの挨拶ですらない。年齢差も駅の差も確かに四つ離れているけれど、わざわざ言うほどのものではない。一瞬ほど何を言っているのかと頭にクエスチョンマークが浮かんだぐらい。
でも、七条さんらしいと思った。
残された言葉は遅効性の毒みたいにじわじわ染みてくる。あと四駅も電車に乗らなきゃいけないのに、笑いを堪えるのが大変だった。
面白くて目が離せない人だから――どうしてか胸が苦しい。降車駅が同じだったらよかったのに。
***
一緒に電車で帰った日から、七条さんのことを考えることが多くなった。手のひらをじっと見つめて、案内のためとはいえ手を繋いでいたことを思いだす。私よりも大きくて、温かな手だった。
「こら」
こつん、と頭を叩かれて振り返ると、七条さんが立っていた。手にしている銀色のトレーには下げてきたらしい食器がある。
「ぼけっとしない。七番テーブルの下げ膳忘れてる」
「す、すみません!」
「……それとも悩みごと?」
七条さんは、悩みの理由が自分だということも知らず、私に合わせて身を屈めて顔を覗きこむ。
その距離に反応して、鼓動が速くなる。これだけ近くにいるのだから私の考えていることが伝わってしまうかもしれない。そっぽを向いて「何でもありません」と逃げた。
「しっかりしろよ――ってこれ、あんたが僕に言ってた台詞だ」
「ふふ、そうですね」
「オーダー取りにいってくるから、下げ膳よろしく。悩みごとあるならあとで聞くから」
指示通り七番テーブルに向かうけれど、やっぱり七条さんが気になってしまう。
ちらりと見れば、七条さんはオーダーを取りにいった先で若い女性のお客様たちと話していた。
「お兄さん、何歳?」
レストランで働いていると、お客様から絡まれることはたまにある。私もあるし、七条さんが絡まれているのを見るのも初めてじゃない。
でも今回は複雑な気持ちになった。相手のお客様は七条さんを見てうっとりしているし、七条さんも笑顔で対応している。接客業として笑顔の対応は当たり前だけど、それが私の胸を苦しめていく。
「二十歳ですね」
「わあ、私たちと同い年!」
「お兄さんは大学生? 恋人いるの?」
恋人。
それを聞いてしまった瞬間、体が動けなくなった。
だって電車に乗っていた時も七条さんは言っていた。
『数名高校の吹奏楽はすごいって……が言ってたから』
そのことを考えると怖くなるから忘れようとしていたけれど。やっぱり、彼女がいるのかもしれない。
変な人だけど七条さんは格好いい。四歳も年上なのだから、恋人がいたっておかしくない。
きっと世話を見てくれる優しい恋人がいる。それは、年齢も距離も近くて、七条さんにお似合いの彼女なのだろう。
あ。もやもやとする。心がささくれだって、何かに引っかかっているような。
そして、気づいた。
この感情の名前は嫉妬だ。私、七条さんの恋人に嫉妬しているのかもしれない。
放っておけない人だと思っていたけれどそうじゃない。放っておきたくなかった。
私、七条さんのことが好きだ。
「恋人は……」
七条さんが言いかける。
でも、聞きたくない。恋人の話を聞いてしまったら、私は――
その時、手にしていた食器がずるりと滑った。甲高い音を立てて、私の足元で割れる。
「っ……ぁ、し、失礼しました!」
付近にお客様がいなかったのはよかったけれど、注意された後でミスをするなんて情けない。
七条さんのことが頭に浮かんで、泣きそうになる。こんなミスを見られたら、嫌われてしまうかもしれない。
「大丈夫か?」
飛び散った破片を拾っていると、七条さんが駆けつけてきた。営業スマイルは消えている。私をじっと見つめるその瞳は怒りを秘めているように見えた。
「ちょっと来て」
七条さんは私の手首を掴み、行き先も言わずに歩き出した。
「あの! どこに行くんですか!? まだ片付けが――」
「片付けは他のやつに頼むからいい、まずはあんたの手当て」
夢中だったから気づいていなかったけれど、私の手に切り傷ができていた。破片を拾った時に切ってしまったらしく血が滲んでいた。
七条さんに連れられてスタッフルームに戻る。
怒られると思ったのに七条さんは何も言わなかった。私を椅子に座らせると、救急箱を取り出して怪我の手当てをする。
ようやく口を開いたのは手当てが終わってからだった。
「今日のあんたは、らしくない。何かあった?」
「……何でもないです」
「嘘だ。悩みごとのある顔してる」
七条さんとお客様の会話に動揺しました。なんて本人に言えるわけない。私が俯くと、無言を感じ取ったのか七条さんが続けた。
「あんたの世話をしてきたのは僕。いつも見てるから、あんたのことはわかる」
「仕事後は、私が七条さんのお世話をしていますけど」
「ああ、助けてもらってる。だからあんたを悩ませてるものを、知りたい。僕も助けてあげたいから」
床に膝をついて、同じ視点の高さから見つめられる。それは逃がさないという七条さんの意思表示のようだった。
逃げ場はない。正直に打ち明けたら七条さんに嫌われてしまいそうで怖かったけれど、これ以上隠し通せない。
それに。七条さんのことが好きと気づいてしまった以上、恋人がいるのかどうか知りたくて仕方なかった。恋人がいるとわかれば、この浮ついた気持ちも鎮まってくれるに違いない。
「お客様との会話を聞いてしまいました。七条さんに恋人がいるのかと考えていたら頭が真っ白になって……」
「僕? それが理由?」
「悩みます! だって七条さんに恋人がいたら――」
七条さんはまっすぐ私を見つめて答えた。
「いない。それがどうしてあんたを悩ませた?」
「それは……」
いない。恋人はいない。
それを知って安堵した。けれど恋人がいないとわかれば、気づいてしまった想いが止まらなくなる。
「……七条さんが好きだからです」
目が離せないのは好きだから。もっと知りたくなるのも好きだから。
アルバイトだけじゃ足りなくて、同じ駅で降りられる関係になりたい。年齢差は縮まないけど、距離は縮めることができるから。
言ってしまえば恥ずかしくてたまらない。心臓は口から飛び出しそうなほどに騒いで、告白してしまった私を責めていた。
これで。七条さんが頷いてくれたら――幸せだったのに。
「あんたが、僕を好き?」
目の前にいるのは一筋縄でいく相手ではないのだと思い知る。だってあの変人すぎる七条さんだから。
意を決した告白だったのに、七条さんは不思議そうに首を傾げていた。
「どういう意味の好きなのかわからない」
「恋愛として好き、って話です」
「これが悩みごと? どうして」
「……七条さんが私のことをどう思っているのかで悩んでいました」
「あんたがいると仕事が捗るし、忘れものも減って乗り過ごしもない。感謝してる」
どう思っているのかという問いかけに対し、出てきたのは恋愛とは少し違うもので。それはお手伝いさんのような、ただ優しい人なだけのような。
どれだけ待っても、私が望んでいる『好き』という答えは、出てこないのかもしれない。
つまり私はフラれた。
「……仕事、戻りますね」
七条さんみたいなタイプには、しっかりした年上のお姉さんの方が似合うのだろう。恋人はいないと聞いて、舞い上がってしまった自分が恥ずかしい。
私はスタッフルームを出て行った。振り返って七条さんの反応を確かめてしまえば、今にも泣きだしてしまいそうだったから。
今日のバイトが終わったら、次は学校祭の後。それほど期間が空くのだから、のぼせてしまった私も冷静になれるはず。
学校祭のチケットは今日渡そうと思っていたので、まだかばんに入ったまま。でも七条さんに渡さないでこのまま無かったことにしようと思った。だってフラれたばかりで、まだうまく七条さんと話せる自信がないから。
***
学校祭こと数名祭の日。
バイトの休みを入れて放課後残って準備を続けたコスプレ喫茶。私は最近レストランでアルバイトを始めたからという理由で接客担当だ。
コスプレ喫茶といっても様々なコスプレがあって、定番のメイドや執事はもちろんのことチャイナドレスなんてのもある。これは体のラインがくっきりでるため不人気だったけれど、あまりものを選んだ結果当たってしまった。深めスリットの入った翡翠色のチャイナドレスはなんとも動きづらい。
そんな当店はありがたいことに午前中から盛況。私もばたばたと走り回っていた。
午後は順番に休憩に入るので、店を回す人数も減って大変だ。私もそろそろ休憩が欲しかったけど仕方ない。夕方になれば手も空くだろうし、それまで頑張るしかない。
「ななみちゃん」
声をかけられて振り返れば、そこにいたのは隣のクラスのお友達こと日都野さんだった。
「きてくれたんだ! 嬉しい!」
「コスプレ喫茶、すっごい人気だね! 廊下まで並んでたよ」
「もう忙しくって。吹奏楽部はこれから?」
聞くと日都野さんは頷いた。彼女は吹奏楽部に入っているからこれからが出番だ。
「牟田さんが演劇の方に回っちゃったから、その分まで私が頑張らないと!」
牟田さんというのは私のクラスメイトで吹奏楽部の子。今年は学年演劇の主役が当たってしまったから、吹奏楽部の発表会は辞退したらしい。日都野さんは学年演劇担当だけど裏方だから発表会に出ると言っていた。
「私も聴きに行きたいけど、この分じゃ休憩とれるか怪しいなあ」
「顔色悪いよ、ちゃんと休憩とってね。無理しないこと! じゃあまたね!」
これから他クラスにも行くらしい日都野さんを見送って、ため息をつく。
本当は吹奏楽部なんて聞くだけで七条さんを思い出してしまう。チケットを渡していないから来ることはないと思うけど、吹奏楽部の演奏をあれだけ楽しみにしていたのだ。聴けなくて残念がっているかもしれない。
七条さんのことを考えるたび、泣き出しそうになる。でも忘れないと、これからも同じバイトで顔を合わせるのが辛くなってしまう。
くらくらと頭が揺れる。喉が渇いて、少しでいいから座って休みたい。
「すみませーん、注文いいっすか?」
「ただいまお伺いしまーす!」
でも休憩はもう少し後。いまは七条さんのことを考えず、数名祭に集中しないと。
オーダーを取りに行こうとして振り返る。瞬間、視界が傾いた。
気持ち悪い。めまいがして、立っていられない。何かに掴まりたいけれど周りにあるのは、飲み物や軽食ののったテーブルや、誰かが座っている椅子ぐらい。
倒れてしまいそうで、それなら床に座りこんだ方がいいかもしれない。そう判断した時、声がした。
「大丈夫か?」
その言葉、その声。聞いたことがある。
でもどうしてここにいるの。確かめるようにおそるおそる顔をあげれば、その人物は相変わらず無表情でじっとこちらを見つめていた。
「七条さん、なんでここに?」
チケットは渡していないのに。そんな私の疑問を無視して、いつかのように七条さんが私の手を握りしめる。そして。
「こいつ、休憩。借りてくから」
教室いっぱいに聞こえる声で宣言。クラスメイトはというと呆気にとられていて、異を唱える間はない。
七条さんはさくさくと歩き出して廊下へ。仕事中じゃないからスイッチはオフになっているはずなのに、ふらつかずまっすぐ歩いて行く。
私はというと、さっきまでのめまいは突然現れた七条さんへの驚きで忘れていた。
廊下の突き当たりでようやく歩みは止まって、七条さんが言った。
「……倒れそうになるまで無理するな」
「あ、ありがとうございます……クラスの子、誰も気づいてなかったのに」
「あんたのこと、よく見てるから。体調が悪いってわかった」
まさか七条さんに助けてもらえるなんて夢みたいだ。フラれたとわかっていてもまだ好きだから、会えて嬉しくなってしまう。
「でもどうして学校に……?」
ふらふら歩いて学校まで辿り着いてしまったとか不法侵入とか、不穏なものばかり想像してしまう。けれど、七条さんはポケットから数名祭のチケット半券を取り出した。
「従妹にねだった」
「え? 従妹?」
「……あれ。電車の時に言ったと思うけど。従妹がこの学校の二年生」
あの聞き取れなかったものが従妹とは。吹奏楽部のことを知っていたのも在校生からの情報なら納得できてしまう。
「そうだったんですね……納得しました」
「ん。でも僕は、なんか、納得できてない」
一体何に納得できていないのか。理解できない私の手をぎゅっと強く握りしめて七条さんは続ける。少し、不機嫌な声音だった。
「……コスプレ喫茶って、そういう格好するの? 先にわかってたら、もっと早く来てた」
「あ、チャイナドレスのことですか? 似合います?」
「似合うとか、そういうのじゃなくて――」
七条さんは苛立ち混ざりにため息をつくなり、着ていたジャケットを脱いだ。そのジャケットを私の肩にかける。
ふわりと甘い香りがした。男物の香水にしては少し甘い、でも心地よい香り。
それから腕を引っ張られて、倒れかかったところを七条さんに抱き留められた。
「ほかのひとに見せないで」
突然七条さん登場からのこの急展開。助けてくれたとか上着をかけてくれたとか、とどめがこの超至近距離だ。抱きしめられているのだと思う、たぶん。頭は混乱していて今の状況が冷静に判断できない。
「あんたが面倒を見ていいのは僕だけ、だから」
七条さんは『ちゃんと伝えました』と得意げな顔をしているけれど、肝心の言葉がでていないからわからない。背中に回された腕が熱いから、勘違いしてしまいそうになる。
「七条さんにフラれたと思っていたのに……抱きしめられたら、期待しちゃいます」
「いつ? 覚えがない」
「最後に会った日、ですけど……」
きょとんとしていた七条さんは、小さな唸り声をあげて考えこむ。そして。
「僕も、あんたのことが好き。言わなかった?」
「は、初めて聞きました……」
「ああ……どういう意味の好きか聞いて、伝え忘れてた、かもしれない」
それ一番大切な言葉です。肝心なところで忘れものをしてしまう癖はここでも。
「あんたが好き。だから頭を撫でたり、手を繋いだり、アピールしてた。いつからだっけ……はじめて会った時?」
「……私に聞かないでください」
「靴下の穴見つけたり、かばん忘れ物教えてくれたり、しっかりした子だなって思って」
「う、嬉しいですけど、それがはじまりってなんだか複雑な……」
腕の力が緩まって、改めて向かい合ったところで七条さんが微笑んだ。それはスイッチが入っている時の営業スマイルとは違う、私だけのもの。
「恋人になって。これからは仕事以外でも面倒みて」
「四歳年下の相手に『面倒みて』って、そんな告白ありですか……」
「だめ?」
伝わりづらいアピールだったり、変な告白だったり。
でもそれが、七条さんらしい。だから目が離せないんだ。私はやっぱりこの人が好きだ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
些細な出来事で高校生活は、変わる。
例えばアルバイトで変な人に出会ったりとか。
そして私たちは電車に乗るのだろう。降りる駅はたぶん、同じ。
数名高校三年生には変人と呼ばれる人が数人いて。その中でもダントツに変な人がいる。
「蜂須ちゃあああん」
放課後。廊下を歩いていたところで、後ろから名前を呼ばれてびくりと体が震えた。
またあの変人がきた。きてしまった。
速やかにお帰りくださいと心の中で悪態をついて、うんざりしながら振り返る。
そこにいたのは、三年生変人ズの中でも最高に変人。キングオブ変人。八街先輩だ。
「どうして一人で帰ろうとしちゃうんだい!? 君の場所はこっちだよ、さあ僕の胸にダイブ!」
「嫌です。お断りです。帰ります」
さてこの八街先輩。いったいどこが変人なのかというと。
「はー……今日もいい感じにツンデレを極めているね。最高。尊みが限界」
どれだけ冷たいことを言っても、恐ろしい脳内変換力を生かしてポジティブに受け止めるのである。それだけじゃない。ポジティブ変換された喜びを、尊いだの萌えだの謎の言語を駆使して表現するのだ。
今もほら。両手を合わせて拝んでいる。なんで私が拝まれるのよ。
何が困るというと、このやりとりが生徒たち行き交う廊下で行われていることだ。通り過ぎていく二年生たちがひそひそと話し、こちらを見ている。私と八街先輩のやりとりに慣れた生徒は「ほらまた蜂須さんが絡まれて」なんて哀れんでいた。
「とにかく! 私、帰りますから!」
「誰が帰すもんか。ほーら、行くよ。生徒会室は僕たちのラブ・プリズン。僕と蜂須ちゃんを待っているよ」
「ラブ・プリズン……うわっ、きもちわる」
変人と呼ばれて当然だと思う。変人を極めたいのなら好きにすればいい。でも私まで巻きこむのはやめてほしい。
けれど逃げ出そうとした私のかばんは、がっしりと八街先輩に掴まれていた。
「ははっ。今日も子猫ちゃんはツンツンして可愛いね」
「気持ち悪すぎ……子猫とか現実に言う人いるの……勘弁してくださいって」
じたばた暴れてなんとか振りほどこうとしていると、通りすがった三年の女子生徒と男子生徒がこちらに向けて微笑んだ。そして八街先輩を見て言う。
「会長、またね」
「うん。またね。三年生の久瀬さん! それから隣の九重くんも!」
「……おう」
名前がぽんぽんと出てくるのは同じクラス――だけじゃなくて。数名高校生徒会長である彼は非常に物覚えがいいのだ。他学年の生徒まで、一回顔を見るだけで名前を覚える。一体その記憶力はどうなっているのか。神様は記憶力を与えて常識を奪ったのかもしれない。
あっけに取られてやりとりを眺めているうちに八街先輩は歩き出す。かばんから手を離さないので、私はずるずると引きずられていく。
「ちょ、ちょっと! 離してください!」
「いやよいやよも好きのうちってやつ。僕の数少ない友人が言ってたよ」
「どうせ五十嵐先輩でしょ」
「おや。どうして知ってるんだ――ハッ、まさか蜂須ちゃんは僕のストーカー……なんてこったい僕も君のストーカーだよ」
「んなわけあるか!」
吹奏楽部をやめて帰宅部になってからというもの、八街先輩は私を生徒会室に引きずりこもうと必死だ。私は生徒会役員でないというのに、気づけば生徒会メンバーは私のことを覚えている。
引きずられて仕方なくやってきた生徒会室。中に入ると今日はメンバーが少なく、いるのは三年の篠宮先輩だけだった。これまた変人。二年の平井四葉さんがお気に入りで、いつも篠宮兄弟がつきまとっている。ボディーガード篠宮兄弟。
その篠宮先輩は部屋にやってきた私を見るなり、二回ほど頷いた。
「うんうん。今日もきたんだねえ、蜂須さん」
「来たくないです。ってか私生徒会役員じゃないんで」
生徒会役員じゃないと主張しても篠宮先輩は助けようとしない。それどころか。
「蜂須さんがきたなら大丈夫かな。ちょっと確認してほしいことがあったんだけど、会長に任せてもいいね?」
「もーちろん。蜂須ちゃんがいれば僕は何でもできるとも! 彼女はね、僕に翼を与えてくれるアフロディーテいやアルテ――」
「うんうん。何言ってるのかわからなくなってきたね。じゃあ僕は、四葉のところに行ってくるよ。美術室にいるから」
仕事放棄して美術室に行くと、堂々の宣言である。
この学校の生徒会ってどうなってんのよ。生徒会室に私たち二人を残すな。
抵抗しても無駄なのはこれまでの学校生活で染みついていて、私は仕方なく空席に腰を下ろす。八街先輩も会長席に座った。
「……で。私は何か手伝えばいいんですか?」
普段はあれやこれやと仕事を手伝わせてくるけれど、今日はその様子がない。八街先輩は書類に目を通したまま言った。
「そこにいてくれれば大丈夫。蜂須ちゃんは僕に元気を分け与えてくれる尊さ放出大明神だからね」
「尊さ放出大明神……? ちょっと言ってる意味がわからないです」
「いいかい!? 萌えってのはね、火山なんだよ。つもりにつもった萌えパワーがある時期にドカーンと放出される。つまり君はキラウエア火山みたいな萌えの塊」
何言ってんだこの人。
大げさにため息をついて呆れているアピールをするけれど、八街先輩はニコニコしてまったく効いていない。空気ってものが読めないんだこの人は。
まともな会話をしようと思ったところで無駄だ。私は八街先輩を無視してスマートフォンを取り出す。といっても友達からメッセージもきてないし、することはなくて。
さっき八街先輩が言っていたラブ・プリズンって何だろうと思いつき、検索する。ラブ刑務所。
「……ふ、くく、刑務所って」
ラブ刑務所が笑いのツボに入ってしまって、堪えきれず吹き出してしまった。突然笑い出した私に気づき、八街先輩が顔をあげる。それから。
「あああああッ! 笑ってる顔、たまらん珍百景! 永久保存!」
こちらをじっと見てどうするのかと思えば、普段通りの謎言語が爆発していた。
しかし。生徒会室に拉致されたところで手伝うものもないってのはつまらない。スマートフォンを見ているのにも飽きてしまって、私は八街先輩の机に近づく。
「八街先輩は何してるんですか?」
「これかい? もちろん僕のミューズには教えるとも」
そしてひらり、とわら半紙が視界を泳ぐ。揺れる紙に書いてあったのは今月行われる生徒会総選挙の内容だった。
「もうすぐ生徒会総選挙だろう? 立候補者は出そろったから、選挙当日の流れを確認しているんだ」
「なるほど。11月ですもんねえ」
数名高校の生徒会は自薦他薦で決まり、候補が複数名いた場合は11月の生徒総会で全校生徒の投票によって決まる。
数名高校の生徒会は比較的ゆるいらしく、部活に入部している人でも生徒会役員になることができる。実際に三年の篠宮先輩だってバスケ部とかけもちだった。
八街先輩は少し寂しそうな顔をしてわら半紙を眺めた。
「といってもね……僕は三年生だから」
「さっさと卒業してください」
「でもそうしたら蜂須ちゃんが寂しくなるだろう!? 僕は君のために留年したい!」
「結構です。私のためを思うならどうぞ卒業してください」
寂しそうな顔と思ったけれど、なんだかんだいつも通りの気持ち悪い八街先輩だ。心配して損した。
「あーっ。蜂須ちゃんの存在が可愛すぎて無理無理の無理。この世の萌え集合体~~!」
「いいからさっさとやること終わらせてください。私、帰りたいんで」
「鞭のようにビシビシと刺さる言葉。ご褒美。たまらん最高です」
「……はあ」
逃げるように再びスマートフォンを見る。ロック画面には日付が出ていて、11月と書いてある。
秋だ。確かに最近寒くなってきた。
生徒会室の窓からはグラウンドに集まった運動部が見える。三年生はとっくに引退しているから、いるのは一年生と二年生だけ。
春や夏に比べて少し寂しいその景色は、枯れ葉が落ちてほっそりとした冬の木に似ている気がした。
「……もうすぐ冬ですね」
その独り言に、八街先輩は笑った。
「当たり前なことを言ってどうしたんだい? 僕への愛に目覚めてしまった?」
「ほら、11月って影が薄いじゃないですか。クリスマスみたいなビッグイベントもないし、秋なのか冬なのか難しい中途半端な季節だし」
「とっくに11月だし、冬だよ」
珍しく真面目に言った。
「君よりも僕の方が、カレンダーに詳しいから」
「う、ううん……? 自信たっぷりに言ってますけど、カレンダーぐらいみんな見るでしょ」
「もちろん。でも日付に関する意識ってのが違うんだよ。だから僕は、全身で11月を感じている」
はあ、と適当な返事をして後は放っておく。
以降はいつものごとく「もちろん蜂須ちゃんのことも全身で感じている」だの「足の小指から頭のてっぺんまで萌えが詰まってる」だの斜め上の謎言語が飛んできたので、無視しておいた。
***
「やあやあ蜂須ちゃん!」
その呼び方をするのは一人しかいなくて、振り返るのも嫌になる。
どうしてこの男は廊下で私を見つけるのがうまいのだろう。勘弁してほしい。透明人間になる薬があったらがぶ飲みして逃げてる。
「……おやあ聞こえないのかな? マイスウィート蜂須ちゃん」
「聞こえてるんでそのマイスイートなんちゃらやめてもらえます? スウィートの発音が無駄に上手いの腹立ちます」
周りの冷えた視線を浴びながら結局逃げ切れずに向き合うしかなく。
一度捕まれば逃げ出せないのがわかっているから、引きずられる前に後ろをついていく。
「てか八街先輩。どうして私ばかり狙うんです?」
「む。狙うとは失礼な言い方だね、僕は蜂須ちゃんだから追いかけているんだよ」
「ああ、もうめんどくさい。どうして私ばかり構うのかって聞いてるんです!」
とぼとぼと歩きながら聞くと、八街先輩は「今更そんなこと」と笑った。
「僕は蜂須ちゃんから元気パワーをもらっているからね。君は僕の太陽なんだ。例えると、そうだね、空腹の時に頭をもぎって分け与えてくれる正義の味方」
「そんなパワーないですし、太陽じゃなくて人間ですし、食べ物分けた覚えもありません」
「君が隣にいるだけで力がみなぎってくるんだよ。存在が奇跡」
これまでに何回か『どうして私なのか』と聞いたことはあるけれど、いつも抽象的な答えだったりぼかしていたりで、いまいちよくわからない。結局この日もよくわからないまま、私は八街先輩の後を追う。
「……って、生徒会室に行かないんですか?」
てっきり生徒会室に行くと思ったのに、八街先輩が向かったのはその隣の生徒指導室。普段は空き教室になっていて、先生に頼めば自習用に教室を貸してくれるらしい。私は頼んだことないけど。
「君はあれだね、カレンダーに疎すぎる」
「またカレンダーの話ですか」
「だって12月だよ」
そう言って八街先輩は教室に入っていく。生徒会室と違って、埃をかぶっているし、備品も最低限のものだけ。八街先輩が会長席に置いていた極彩色レインボークッションみたいなお遊び的なものは一切ない。
「で。今日は何を手伝えばいいんです? ここまで連れてきたんですから、何か手伝いがあるんですよね?」
「思えば今まで色んなものを手伝ってもらったねえ」
「ペットボトルのフタ回収の色分けが一番つらかったです。あれは夢に出ました」
「プルタブ回収で手を切ったこともあったね。蜂須ちゃんの美指に傷つくなんて許せないけど、痛そうにしていた蜂須ちゃん性癖に響いた。プルタブちゃん最高に仕事した。やばかった。夢に出た」
「……今のは聞かなかったことにします」
夢にまで私を巻きこまないで。そんなことを言おうもんならどんな夢だったかの詳細まで語られそうだ。
ここに連れてきて今日はどうするのだろう。生徒会室じゃないから生徒会の仕事はないだろうし。そう考えていると八街会長は空いた椅子に腰掛けてかばんから教科書を取り出した。
「勉強ですか」
「うん」
「八街先輩、頭めっちゃいいから勉強しなくてもいいと思うんですけど」
「僕、頭いいからね! 蜂須ちゃんは成績悪いけど、あっはっは」
「ともかく。勉強するなら、私いない方がいいと思うんですけど。一人の方が集中できると思いますよ」
すると八街先輩は首を横に振って「それはだめだよ!」と演技かかった声で言う。
「マイスイート蜂須ちゃんがここにいる。女神がそばで見守ってくれている緊張感。それが大事なんだ」
「……それ私のことガン無視ですよね? ここで見守っていろって暇すぎるんですけど」
「じゃあ君も勉強すればいい。僕と一緒だね! わからないところはいつでも教えてあげるよ! さあ!」
しばらくは言う通り、大人しくここにいるとして。八街先輩が勉強に夢中になった頃に抜け出せばいいだろうか。
そんなことを考えてスマートフォンを取り出す。パズルゲームに勤しんでいる隣では、八街先輩が教科書開いて勉強中。勉強している時に隣で遊んでいる人がいたら、集中できないと思うんだけど。
どんな勉強をしているんだろうと覗きこもうとして、瞬間八街先輩が顔をあげた。こちらをじっと見ている。
「……もう、トランペットは吹かないの?」
先輩はそう言った。
「やることがなくてゲームするぐらいなら、ここでトランペットを吹いてほしいんだけど」
「……こんな狭い部屋で吹いたら騒がしいと思いますよ」
何を言われても、トランペットを吹くことはないけど。ひねくれた返答をしたけれど八街先輩は目を細めて笑うだけ。
「騒がしくなんてないよ! 蜂須ちゃんの二酸化炭素が美しい音を鳴らすなんて最高じゃあないか。楽器って素晴らしいよ、君のためにある!」
「……はあ」
くだらん。この人の話に付き合った私が馬鹿だった。再びスマートフォンを握りしめる。パズルゲームのゆるゆるした音楽が教室に響く。
「……もう一度、聴きたかったけどねえ」
八街先輩が呟いたそれが何のことかわからなくて、私は答えなかった。
そうしてしばらく経ってから、廊下が騒がしくなった。隣の生徒会室から生徒が出てきたところでこれから帰るのだろう。
その一人が廊下を歩き、そしてこちらの教室を見る。ドアのガラス越しに目があって、それから。
「あ。八街《《元》》会長だ」
確かにそう言った。
その声をきっかけに生徒会役員たちが教室に入り、八街先輩を囲む。「ここにいたなら生徒会室にきてくださいよ」とか「聞きたいことがあったんです」だの騒いでいた。
中心にいる八街先輩はからからと笑っている。
でも私には。
なぜか、その笑顔が薄っぺらく見えてしまって。普段と違う、腹の底から笑ってる感じじゃない。薄っぺらな笑顔で何かを隠している。
隠しているものは何だろう。それを表現するにふさわしい言葉を探す。
一つだけ、ぴったりと当てはまるものがあった。八街先輩が隠しているもの、それは。
「……喪失感」
その独り言が聞こえてしまったのかわからない。
でも生徒会役員たちが去ってから、閉じた教科書を開き直きなおして八街先輩が言った。
「『元会長』だってさ」
「……だから生徒会室に行かなかったんですね。八街先輩、もう生徒会長じゃないから」
「そりゃあ11月に生徒会選挙をしたからね。新しいメンバーが決まった。僕は三年生だから、これでおしまい」
おしまい。と言って、筆箱から出した付箋を教科書に貼る。みれば教科書やノートだけじゃない、参考書やあらゆるものにたくさんの付箋がついていて、使いこんだ印のように表紙は汚れている。
「君、ほんとカレンダーに疎いね」
八街先輩は喪失感を隠すように、薄っぺらく微笑んでいた。
***
「蜂須ちゃあああ――」
「はい。どうも蜂須です。呼び出しですね行きましょう」
その声が聞こえて、すぐに振り返る。
抵抗したって無駄なんだから、それならさっさと従って終わらせた方がいい。
「今日は随分と理解が早いね……はっ、まさか、これが蜂須ちゃんのデレ期!? 蜂須ちゃんのハート温暖化!? グッバイ氷河期!」
「んなわけないです。やりとりするのも面倒なんです」
どうせまた生徒会室の隣に行くんだろうし。とぼとぼ歩いて行くと、廊下の向こうから吹奏楽部の生徒が歩いてきた。譜面をコピーしてきたのか、紙の束を持っている。
彼女は私を見るなり、駆け寄ってきた。
「蜂須先輩! あの……」
名前が知られているのは私が吹奏楽部に入っていたから。でも今は辞めているから彼女が話しかける用事はないと思う。私はぶっきらぼうに「なに」と低い声音で聞く。その一年女子はあからさまな私の不機嫌に臆さず、こちらを正面から見据えて言った。
「部活、戻ってこないんですか?」
それを聞かれるのは、何度目だろう。
頬の筋肉は強ばっていて、でもそれを無理矢理引き上げて笑う。
「戻らないよ」
「でも、先輩が抜けてから……」
「私、吹奏楽部を辞めたから」
強めに返すと、その女子生徒は黙りこんだ。私の言葉を反芻して理解できたのか、一礼した後に去った。
「……いいの?」
やりとりを眺めていた八街先輩が口を開いた。
「戻りたいなら戻ればいいのに」
「いいんです」
「僕専用女神の蜂須ちゃんがそういうなら、僕は構わないけども」
そして歩き出す。少し遅れて私も八街先輩を追いかけた。
「……やりたいことができる時期って、わずかだからね」
八街先輩の独り言だったと思う。けれど、聞こえてしまったから私は何も言えなくなる。
やりたいことができる時期がわずかなのはわかっているけれど、許されないのだから仕方なくて。
生徒会室の隣。その教室を使うのはほぼ八街先輩だけとなっていた。けれど前の生徒会室に置いてあったような私物はやはりなく、知らない人がこの教室を見ても、八街先輩がここを使っていたと気づかないのだろう。
今日も参考書を眺めながら八街先輩は言う。
「それで。どうして蜂須ちゃんは部活をやめたんだっけ?」
「……別に」
「あれれ。こんなに蜂須ちゃんをお慕いしている僕にも話せない?」
「
隠すような内容ではないけれど。
私はひとつ間を置いて、それからゆるゆると語る。人に話したところで戻ることのない、どうせなら忘れてしまいたい話だ。
「テストの点が悪くて、親に反対されたんです」
数名高校吹奏楽部は全国大会出場経験のある強豪で、その分練習時間も長い。体力作りのため運動部と同じように走りこみをし、放課後も真っ暗になるまで練習漬け。朝練だってある。家に帰れば疲れて寝てしまったり、家でも練習してみたり。
そんな日々が続き、元から勉強は苦手なのもあってみるみるうちに成績が落ちていった。見かねた両親が、トランペットを取り上げた。
吹奏楽部をやめること。何度訴えても許されず、ついに退部届を出すしかなかった。
「……なるほどねえ。蜂須ちゃんあんまり頭よくないもんなあ」
「学年トップの人に言われると傷つきますね」
「そりゃ、僕は勉強しか取り柄がないから。あっはっは」
勉強ができるだけ、すごいと思う。
本当は吹奏楽部を続けたかった。先輩たちから受け継いだバトンを、綺麗な形で後輩に託したかった。
でも、もうやめてしまったから。
「ねえ、蜂須ちゃん。手を出してよ」
八街先輩に言われて、その通りに手を出す。
すると、手のひらにぽんと何かが乗った。ひやりと冷たい金属の感触。よく見れば、トランペットのチャームがついたキーホルダーだった。
「プレゼント」
「え? もらっていいんですか」
「蜂須ちゃんに何かプレゼントをしたくてね。朝早く五十嵐くんの家に押しかけて買い物に付き合ってもらったんだ。さらに偶然三崎くんを発見したから彼も捕まえてね。いやあ、楽しい買い物だった。おかげでいいものが見つかったよ」
「わざわざ……私のために……」
キーホルダーを矯めつ眇めつ眺めているうちに、八街先輩の視線は参考書へと戻った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして――それが本物だったら吹いてもらえたのになあ。残念だ」
少し悩んでかばんにつける。キラキラと光るトランペットのチャーム。トランペット風なだけであって細部の作りは微妙に違う、大きさだって当然異なる。でも本物のトランペットを構えた時みたいな、ドキドキがあった。
「それ。僕みたいでしょ?」
「え? トランペットですよ、八街先輩とぜんぜん違いますけど」
「ひどいなあ。それを見るたびに僕を思い出してくれても――」
「感謝はしてますけど、それは嫌です」
辛口で返しているけれど、そこまで嫌じゃない。
こうして八街先輩と二人でいる時間は、なんだかんだ楽しくて。
どうしてだろうと考えた時、両親との会話を思い出した。
『これ以上成績が下がるなら、部活をやめるって約束したわね?』
『……はい』
『吹奏楽部、やめなさい。高校は大事な時期なんだから』
『……わかりました』
反論できず、言われるがままにやめた部活。退部届を書いても提出しても、消化不良で残っているから吹奏楽部の子と会うのが辛くなる。辞めた本当の理由だって、八街先輩にしか話していない。
でも。八街先輩には思っていることを素直にぶつけられる。どれだけ厳しいこと冷たいことを言っても、彼は食いついて離れないから、安心して話せるのだと思う。
変な言動する人だけど、一緒にいる時自然体でいられるんだ。
「……ねえ。お願いがあるんだけど」
「なんですか? 変なお願いなら嫌ですよ」
「僕に『がんばれ』って言ってくれない?」
「は?」
変なお願い事をするものだと思った。
私は首を傾げ、でも言うだけならタダだしな、なんて軽い気持ちで口を開く。
「がんばれ」
すると八街先輩はにっこりと微笑んだ――けれど一瞬で終わって、いつものだらりとした顔に戻る。
「ああー。僕の女神蜂須ちゃん尊すぎ……いまの録音すればよかった……声まで可愛いとかどうなってるの」
変な方向に妄想をはじめた八街先輩を置いて、スマートフォンを手に取る。
ロック画面には日付が表示されていて、それは『1月』。
「……初詣、行かなかったな」
ぼそりと呟くと八街先輩が言った。
「じゃあ一緒に行こうよ」
「休みの日ぐらい解放してくださいよ」
「そう言わずに。僕、一月最終週に神社行く予定だから行こうよ」
まあ少しぐらい、初詣ぐらいなら。
家に帰ると、私宛のチラシがいくつも届いていた。
この時期になるとやけに増える、駅前の塾だとか通信教育だとか。今からでも遅くないって書いてあるのがなんとも腹立たしい。もう遅いってのに。
「……あ」
そのチラシを眺めて、ふと気づく。
「……センター試験じゃん」
センター試験、大学入試。
八街先輩も挑んでいるのだろうか。参考書を読んでいたから、きっと大学受験するのだと思う。
ぜんぜん気づいていなかった。先輩もそのことを言わなくて。
「がんばれって、もっと言えばよかった」
かばんを見れば、あのトランペットのチャームがきらきら光っていた。
***
一月末日。
その日は、学校近くの神社に現地集合だった。待ち合わせ時間より少し早めに向かうと、すでに八街先輩が着いていた。
「お。マイハニーは時間を守るタイプだね」
「……褒められているんだろうけど、マイハニーってのが余計だから複雑ですね」
「はは。蜂須ちゃんったら照れ屋さん」
初詣シーズンはとっくに過ぎていて、神社は閑散としている。境内には『節分用豆配布はこちら』と書いた看板もあった。
「初詣……ではないですねえ、時期的に」
「いいんだよ、気持ちが大事だから」
八街先輩はのんびりと歩き出す。私もその隣に並んだ。
「しかし蜂須ちゃんの私服はなんて可愛らしい。きっと昨日は『初デートに何を着ていこうか迷っちゃう、眠れなーい』となっていたことだろう。うん」
「安心してください。爆睡してました」
「でも服装は悩んだだろう?」
「いえ特に」
「……はー。今日も塩対応のツンデレハニーだ」
本当は服装選びに時間がかかったし、スカートだってお気に入りのもの。それを明かせば八街先輩が調子に乗りそうだからやめておいた。
「ほら。お参りしましょ」
「ああ……ちょっとの雑談も許されず、さくさくと進んでいく……」
ぼやいていた八街先輩だったけれど、いざ拝礼となると顔つきは変わった。
お辞儀を二回して、拍手を二回して――両手を合わせて願いごとを頭に思い浮かべるはずが、これといった願いごとは浮かばない。ここで吹奏楽部に戻りたいなんて言っても難しいだろうし、今さら成績があがっても部活に戻れないし。
だから八街先輩のことを願った。
大学合格できますように。入りたい大学に合格して、八街先輩のやりたいことができますように。
唱え終わって顔をあげると、まだ八街先輩は目を瞑っていた。相当長いお願いごとだ。
それを遮りたくないので黙って見守る。少し経ってから、ふ、と八街先輩が顔をあげた。
「……じゃあ次は絵馬でも」
「初詣シーズンじゃないのにあるんですか?」
「あるある。じゃあさっそく行こう。蜂須ちゃんはいる?」
「私は特に。願い事とかないんで」
八街先輩は颯爽と歩いて行き、絵馬を1ついただいた。黒のサインペンを借りてきて、近くの机で書く。
「何書くんですか?」
「キャー、のぞきよ。蜂須ちゃんが僕の大事なものをのぞきにきてる!」
「誤解を生む言い方やめてください。じゃあ、離れて待ってますから」
「うん。待っててね」
冗談めかして言っていたけれど、願いごとを見られたくなかったんだろう。
先輩は何も言わないけれど大学受験があるからそのことを書くのかもしれない。神社に来たいと言い出した理由もそれだと思っていた。だから邪魔しないよう、少し離れた位置で待つ。
その間におみくじを引こうかと思った。
おみくじも何種類かあり、どれにすべきか迷ってしまう。おみくじ棚とにらめっこをしていると絵馬をかけ終えた八街先輩が戻ってきた。
「おみくじ引くんだ?」
「はい。初詣って言えばこれじゃないですか。八街先輩も引きます?」
すると八街先輩は首を横に振った。
「僕はいいよ。いま、凶なんて引いたら立ち直れない。意外とメンタル弱いから」
そういうものかと納得して、私もおみくじを引くのはやめた。
二人で神社を出る。この後の予定は特にないので解散だ。
デートとかそういうものじゃないってわかっているけれど。服を選ぶのにかかった時間より会う時間の方が短いことが悲しくて。でも引き止める勇気はでなかった。
「……あのさ、」
引き止めたいけれどと逡巡していると、おずおずと八街先輩が切り出した。
もしかすると彼も同じ気持ちを抱いていたのだろうか。もう少しこの時間が続けばいいと願っていたのか。そう期待したけれど。
「……いつも蜂須ちゃんを追いかけ回してごめん」
紡がれたのは予想とは違う、悲しい言葉。
「これで最後だから。今まで君と一緒にいられて本当に楽しかった」
「え……最後って、どういう……」
「生徒会の仕事を手伝ってくれたり放課後に話したり、君に拒否されるのも君を追いかけるのもぜんぶ楽しかった。君は……本当に嫌だったかもしれないけど」
どうしてそんな、真面目なトーンで話すの。
いつもみたいにマイハニーだのマイスイートだの言ってよ。
「やりたいことができる時期ってわずかなんだ。少ししかないんだ。だから、最後に」
八街先輩は私のかばんを指さした。その指は、今日のためにスクールバッグからショルダーバッグへとお引っ越しした、トランペットのチャームがついたキーホルダーに向けられている。
「僕は蜂須ちゃんがやりたいことをできるよう、願ってる」
「……っ、それは」
「二年前の学校祭。トランペットを吹く君に一目惚れしてから今日まで、ずっと追いかけてきた。またあの音色を聞きたかった。でも時間切れだ」
何を言ってるの。まるでこんな言い方をしたら、お別れみたいな。
そんなわけない。きっとまた、学校で先輩は追いかけてくる。放課後廊下を歩いていたら私を呼ぶ。
「はいはい。いつもの斜め上トークですね」
「うん。どう受け止められてもいいよ――ありがとう。蜂須ちゃんに出会えてよかった。君が好きだったよ」
また、私をからかおうとしているに違いない。神妙な顔をしていた八街先輩のそれも、きっと演技じみたものだから。
これはお別れの挨拶なんかじゃない。そう思わせて、学校で話しかけてくるに違いない。
だから、引き止めなくたってまた会える。
そう思っていたのは私だけで。
「あれ、知らなかったの? 三年生は自由登校だよ」
初詣後、三年の教室に行こうとした時、友人の参河雪花は言った。
「……は?」
「2月はぜんぶ自由登校だから。あとは卒業予行と卒業式ぐらいしか来る日ないと思う」
「なにそれ……知らなかった」
駆け出し、三年生の教室に向かう。
自由登校なんて言ったって、きっと、あの変人は来てるはず。
でも。三年生の教室はどれもがらりと空いていて、探している人の姿もなく。
「……あ」
しんと静かな廊下。振り返ってもいない。私を呼ぶ人はいない。
こうしていなくなれば、寂しくてたまらない。
無理矢理生徒会室に引っ張られて嫌だった日々。放課後付き合わされてうんざりしたこと。初詣での言葉。
遊びでもからかいでもなく。あの人は本気でお別れを告げたんだ。
どうして、あの場で気づかなかったのだろう。
正面から彼の言葉を受け止めればよかった。からかっている、なんて流さずに。
彼の話をちゃんと聞いていたのなら、その時引き止めることができた。
これでお別れなんて嫌だと伝えれたのに。
「……マイハニーだっけ」
ぽつりと呟いてみる。今はその言葉が懐かしくてたまらない。
八街先輩は『僕は君よりもカレンダーに詳しい』と言っていた。彼はタイムリミットが迫っていることを知っていたのだろう。私は、ぜんぜん気づかなくて。
「……あら?」
落胆しながら廊下を歩いていると、美術室から派手な髪色の男子生徒が出てきたところだった。男子生徒、でいいんだと思う、たぶん。
名札には『五十嵐』と書いてある。その名はとても有名で、八街先輩と並んで変人と呼ばれた人だ。
彼は私を見るなり、「んー?」と顔を覗きこみ、何やら目を瞬かせていた。
「あんた、もしかして噂の蜂須ちゃん?」
「はい? 噂?」
「あー、噂って言っても話しているのは一人だけどね」
その一人が誰なのか、すぐわかった。
八街先輩だ。というのも五十嵐先輩は、八街先輩の数少ない友人だから。
その五十嵐先輩は、ピンクの紙袋をかばんから取り出した。
「これ、預かってきたの」
「え……」
「あんたもよく知ってるでしょ、八街よ――もう聞いてよ。あの変人野郎の家に荷物届けに行ったの。そしたら私が明日登校するって聞くなり、『二年の蜂須ちゃんに渡してほしい』なんて言い出したのよ。んもー、私はメッセンジャーじゃないっての」
オネエ口調でぼやく五十嵐先輩を無視して、紙袋を開ける。
中に入っていたのは、絵馬だった。
「……『蜂須ちゃんが、自由に好きなことをできますように』って」
受験があるのに。
絵馬は一つしかいただいていないのに。
彼が願うことは大学合格ではなく、私の自由。
「あんたも大変よねえ。変人に愛されちゃって」
絵馬を手に取って呆然としている私の前で、五十嵐先輩が大あくびを一つ。「じゃあね」と手を振って去っていくその背。
これが、最後のチャンスだと思った。
「五十嵐先輩、待ってください」
これが、私が八街先輩と話せる、最後のチャンス。
***
嫌がる五十嵐先輩から聞き出したその場所は、閑静な住宅街。白い外壁と青い屋根の一戸建てだった。
「ここが……八街先輩の家」
土曜の昼間となれば、八街先輩以外のご家族も家にいるわけで。突然後輩のそれも女子生徒がやってくるなんて驚かせてしまうだろう。
それにセンター試験終わって前期試験はまもなく。集中していたい追いこみ時期だ。そこに前連絡なしで私がやってくる、なんて妨害になるかもしれない。
インターホンを押そうとして、ためらう。
会いたい気持ちはあれど動くのは難しいのだと今になって知った。廊下で『蜂須ちゃん』と声をかけていた八街先輩は、平然としていたけれど裏では勇気を振り絞っていたのかもしれない。
気づかなかった。
そういった感情まで、追いかけるまで私は気づかなかったのだ。
やっぱり、勇気を出してインターホンを鳴らそう。
もう一度指を伸ばした時、後ろから声がした。
「……蜂須、ちゃん?」
なじみのある声に振り返る。
そこにいたのは、コンビニの袋を提げた八街先輩だった。
もし私が勇気を出してインターホンを鳴らしていても、家に誰もいなかったらしい。八街先輩はそう笑って、私を家にあげてくれた。
その家は外観どころかリビングや廊下も綺麗で、私のような女子高生にも調度品の豪華さが伝わってくる。玄関なんてぴかぴかに磨かれていた。
案内されて八街先輩の部屋に入る。これまた普段の変人っぷりから想像もつかないシンプルな部屋だった。男子高校生の部屋というより、何もない部屋というのに近い。生徒会室で使っていたような極彩色のクッションは、きっとこの部屋に似合わないだろう。
「……ま、お坊ちゃんってやつで」
これまたお高そうな花柄のティーカップに紅茶を入れて、八街先輩が戻ってくる。
「普段のイメージと違ってて、びっくりしました」
「家ではね。僕は道を逸れてはいけない優等生だから」
マイハニーだの女神だの言っていたと思えない、品のいい私服を着て、カップに口をつける。振る舞いまで学校と異なっていた。
「家では抑圧されているから学校では好き勝手楽しく過ごしてきたよ。変人なんて言われても楽しくて仕方なかった」
「先輩が『やりたいことができる時期はわずか』って言ってたのは、そういう意味もあったんですね」
「うん。高校卒業したら、僕は敷かれたレールを歩くだろうから」
吹奏楽部を辞めることになってふて腐れていた私に、先輩は『もう一度トランペットを吹かないの』と言ってくれた。
それは、先輩自身がやりたいことできる時期は少ししかないと知っていたから。
寂しそうな顔をして、高校生活は終わったかのように話す。
でも私は、まだ終わりたくない。
「……これ。届けにきました」
水色の紙袋に入れてリボンをつけたプレゼント。差し出すと八街先輩は嬉しそうにすっと目を細めた。
「開けていい?」
「どうぞ」
袋から取り出したのは絵馬。でも先輩が書いたやつじゃない。神社にもう一度行って、私の願いごとを書いてきた。
「……こ、これって」
私が絵馬に書いたものを見て、八街先輩が息を呑んだ。その頬が少し赤い気がして、でも私も同じぐらい顔が赤くなっているかもしれないからそっぽを向く。
「トランペット、また吹きますから。だから早く大学合格しちゃってください」
「……あ、ああああ……僕の女神様蜂須ちゃん本当に女神だった! 幸せの過剰供給……」
「一緒に過ごしているうちに私まで変人になっちゃったみたいで。八街先輩に会えないと寂しいんです」
「デレがきた! ツンデレのデレがいまきてる!」
八街先輩は立ち上がり謎のガッツポーズを取っていた。
緊張しそうな八街先輩の家でも、こうして二人でいれば学校の時と変わらない。その変人モードが懐かしくて、妙に落ち着く。
「いま蜂須ちゃんに好きとか言われたら爆発する……散る……」
「入試前に物騒なこと言わないでください」
「あれかな! 合格したら、『マイダーリン八街先輩、大好きです』なんて言ってくれちゃう!?」
「……一部だけ裏声使って謎再現するのやめてください。ご提案は善処しておきます」
その通りに言うかはわからないけども。
八街先輩は両手で絵馬を握りしめて、本当に幸せそうにしていたから。私まで嬉しくなってしまう。
『好きな人が大学合格して、私の演奏を聴いてくれますように』
願いごとが、叶いますように。
一歩ずつ、階段をのぼって、まもなく世界は開ける。
上靴の底から伝わる廊下の床も、じめじめとした空気も、この学校に関わるものが今日で終わるのだ。
胸につけた造花のブローチから『卒業おめでとう』と書かれたリボンが下がっていて、この学校にいられる時間が終わることを示しているようだった。
この校舎を出た瞬間に高校生活は過去に変わる。
それは階段をのぼった先――屋上で待っている人との関係も。
重たい扉を開くと、鈍い金属の音と共に春の風が入りこんできた。それは肌にまとわりつくものではなく、胸の奥までしみこんでいって切なさを引き出す空気。
屋上の真ん中、その人物はいた。目が合うと同時に、私はいつものように微笑む。
「卒業おめでとう、九重くん」
九重くんは照れているのか視線を斜め下に外しながら「お前もな」と答えてくれた。
馴染みのある、低くて少し枯れた声。ここ半年ほど練習に出ていなかったのに、枯れた声はなおっていない。
毎日遅くまで練習して、たくさん声を出していたから枯れてしまったのだろう。それは高校三年生の夏まで続いた九重くんの努力がにじみ出ているようで、好きだった。
「引退したのに、髪は伸ばさないんだ?」
「坊主に慣れた。それに大学入っても野球を続けるから」
一歩ずつ九重くんに近づいて、距離が少しずつ縮まって。
でも、重なることのない三年間だった。数歩ほどの距離を残して、私は立ち止まる。
「そっか。大学に入っても野球はできるもんね」
「お前は? またマネージャーやるのか?」
「うーん……考え中かな」
本当は、マネージャーはしないと決めていた。それは大学を受験する前に決意していたけれど九重くんには言わなかった。
同じ学年だけどクラスは一度も同じにならず、野球部だけが私たちの接点だったから、もう野球に関わる気はないと伝えてしまうのが怖かったのだ。
私たちは別々の道に進む。違う大学、違うものを目指して歩く。きっとこんな風に顔を合わせることもなくなる。だから共通点が欲しかった。私たちの高校生活を繋いだ『野球』を残していたかった。
「それで、話ってなあに?」
私をここに呼び出したのは九重くんだった。卒業式の前日、話したいことがあるから屋上にきてほしいと連絡をもらったのだ。
普段あまり喋らず、チームメイトからも口下手だと笑われていた九重くんが、こうして私を呼び出す。それも卒業式に。
表には出さないようにしていたけれど、期待していた。三年間秘めていた気持ちが報われる時がきたのかもしれないと思っていた。
ずっと、九重くんが好きだった。
誰よりも野球が好きで、うまくなりたくて、練習が終わっても毎日遅くまで残っていた九重くん。そのひたむきな姿が気になって、目で追うようになった。
それだけじゃない。無愛想な人だけどとても優しくて、マネージャーの仕事を手伝ってくれる時もあったし、秋や冬は暗い道を女の子一人で帰るのは危ないからと家の近くまで送ってくれたこともある。
野球に打ち込む真剣な表情や優しい表情、様々な九重くんを知るうちに、好きになっていた。そして今日まで、私の片思いが続いている。
「ありがとう。お前がいたから頑張ってこれた。三年間、支えてくれてありがとう」
私に向かってお辞儀をする見慣れた坊主頭に、ずきりと胸が痛む。
募らせた片思いを打ち明けなかったのは、この関係を壊したくなかったから。
断られたらきっと辛くて、立ち上がれる自信がない。気持ちを伝えたいけれど、踏みこんでいく勇気がでなくて、私は『彼女』ではなく『マネージャー』として留まることを選んだのだ。
『マネージャー』の立場にいたからこそ、ここに呼び出されて、こうして向き合っている。九重くんが告げる感謝の言葉は、私が三年間我慢してきたものを讃えるようだった。
気持ちが報われるかもしれないなんて思っていたのが恥ずかしくなる。いつもの『マネージャー』の顔をして私は微笑んだ。
「私もありがとう。みんなや九重くんと過ごせてとても楽しかったよ」
「俺も楽しかった……約束を叶えられなかったことが心残りだけど」
そう言って、九重くんは空を見上げた。
夏の日。私たちの最終決戦。
こうして九重くんは空を見上げていた。あの日の視界にあるのは青空にあがった白球。私たちが追い求めてきた夢を、三年間を、奪っていったもの。
「……お前を甲子園に連れて行けなくて、ごめん」
私も、九重くんと同じように空を見上げる。目を細めれば、あの日の白球が私にも見える気がした。
***
『久瀬を甲子園に連れていく』
九重くんと約束をしたのは高校三年生の春。
部室に残ってユニフォームの補修をしていた時、九重くんがやってきて言った。
野球部らしい約束だと思う。友達のニナちゃんやカナデちゃんに話したら「ベタだな」なんて笑っていた
「約束を叶えたら……久瀬を甲子園に連れて行ったら、話したいことがある」
「その話したいことって、いまじゃだめなの?」
私の問いかけに、九重くんは迷っているようだった。でも最終的に頷いて「約束叶えたら」と繰り返した。
「俺はそういう約束とかご褒美がないと、だめだと思うから」
「にんじんを鼻先ぶらさげて走る馬みたいな?」
「だな」
そして隣に腰掛けて、私の仕事を手伝う。
人よりも手が大きいから縫い物は苦手だなんて言いながら針を持って、一生懸命縫っていく。
「大丈夫だよ。量少ないし、終わったら帰るから」
「外、暗いだろ。俺が手伝えば早く終わる」
「終わったら一緒に帰る?」
「…………おう」
照れを隠すように俯いて、でもちゃんと返事をしてくれる。
他のマネージャーの仕事も手伝うけれど、私が居残りをする時はいつも九重くんが様子を見に来てくれた。
部室で二人残って作業している時も、終わって一緒に帰る時も。
ぜんぶが幸せだった。もっと続いてほしいと願った。
「私たち、三年生になっちゃったね」
私が呟くと、九重くんの針が止まった。
「夏が終わったら、みんな引退しちゃう。私たちの生活から野球部が薄れちゃう」
「……かもしれないな」
「部室やグラウンドに集まることもない。ユニフォームも着ない。大学受験で勉強漬けの日々になる。きっと――」
こうして二人で、部室に残っていることもなくなる。喉元まであった言葉を、声にすることはできなかった。
もっと高校生が続いてほしい。この幸せな日々が永遠に続いてほしい。
「……甲子園に、行こう」
九重くんはそう言って、前を向いた。
私たちが高校生になる数年前から、数名高校は野球部に力を入れるようになった。元プロ野球選手を監督に迎えたことで知名度は上昇し、部員数は急激に増えた。
そして私たちの代は、数名高校野球部の歴史でも最高だと称されていた。二年生のピッチャーと、キャッチャーである三年生の九重くん。この二人のバッテリーは、練習試合でも負けなし。
それでも地区予選が始まった頃は甲子園なんて夢だった。憧れるけれど手が届くことはない空みたいなものだと思っていた。
一勝、また一勝と勝ち進んでいくたび、それは近づいていく。
厳しいかと思われた試合も奇跡のような逆転勝利、点数動かない試合も延長まで粘って勝利。
あの時の私たちは無敵で、数名高校野球部にできないことはないんだって思っていた。
でも――違った。
空は少しずつ近くなって、あと一勝。もうすぐ甲子園に届きそうなほど近づいていた地区大会決勝戦の日。
スポーツには目に見えない『流れ』というものがある。選手たちはもちろんのこと、ベンチや観客席にも伝わる無言の魔物だ。それは風のようなもので、追い風になる時もあれば向かい風もある。たとえ点差のある試合でも『流れ』を掴めば、ひっくり返すような奇跡だって起きる。
三年間、野球部と共にいた私もその存在を信じていた。ここまでの試合、流れがいいことばかりではなかった。向かい風の時もあったけれど、『流れが悪いかも』という予感みたいなものがあって。
でも。そういった予兆は感じなかった。
何もなかった。球場に潜む『流れ』はどちらにも味方せず、風は吹いていない。
スコアボードは0対0。両校共に投手戦。ヒットは出てもその後のフォローによって点数につながることはなく、これは延長もあるかもしれないと構えていた9回裏。
二年生のピッチャーは、九重くんのキャッチャーミットを目指して白球を放り投げる。普段通りの、何も変わらない投げ方。
でもその球は、甲高い音と共に視界から消えた。
「……あ」
風は吹いていなかった。延長戦に入るのだと信じていた。
晴れた空に突き抜ける金属音。練習や試合で、何度も求めてきたその痛快な音に、脳髄がびりりと痺れる。
見上げれば、宙に白球があった。球場を包む緊迫した空気から抜け出して、灼けつく太陽に近づかんとばかりに高くあがって飛んでいく。
流れていく。風が運んでいく。
ボールがフェンスを越えて視界から消えれば、対戦校の選手たちが大喜びでベンチから身を乗り出していた。サヨナラホームラン、と誰かが言っている。無得点試合のまま9回裏に起きたドラマティックな勝利。
それは私たちの目線になると姿を変えて、夏の終わりなんだ。たった一球で私たちの夢は途切れた。
「……九重くん」
自然とその名を呟いていた。九重くんは、キャッチャーマスクを外して、白球が消えた先を呆然と眺めていた。球場に響く歓喜の声も夏の終わりにすすりなく声も、九重くんには届いていないようだった。
今もはっきり覚えているのは、試合が終わってロッカールームに入った時のこと。三年生たちは悔し涙を流していたけれど、九重くんは泣いていなかった。ただ静かに、俯いているだけ。
「……お疲れ様」
どんな言葉をかければいいのかわからなくて、いつものように告げた。
「……久瀬……俺は、」
言いかけて、飲みこむ。
しばしの間を置いて、ようやく吐き出された言葉は後悔が混ざったもの。
「いつも大事な時に失敗をする。あと一歩のところで勇気がでなくて、憧れていたものを逃すんだ」
「……この負けは、誰かのせいじゃないよ」
「わかってる。わかっているけど――」
俯いた頬をきらめくものが伝い落ちる。
小学生の頃、『男の子だから泣かない』なんて言っている男子がいたけれど。私はそう思わない。男の子だろうが女の子だろうが泣いていい。この涙って綺麗なんだ。今しか流せないものなんだ。
胸が苦しくなって、締め付けられて。
この場所が私と九重くんの二人だけだったら、きっとその肩を抱きしめていたと思う。それぐらい心に響く姿だった。
青く、澄んだ空の日。野球に捧げた私たちの三年間が幕を閉じた。
その後、三年生は引退になってしまった。私は後輩マネージャーの手伝いがあったから何度か部活に顔を出していたけれど、九重くんは違った。部活に出ても後輩の様子を少し見る程度で、野球に触れようとしない。
野球だけじゃない。同じクラスだったから夏の後何度も話したけれど、九重くんは『約束』のことを口にしようとしなかった。
私と九重くんの関係は、一歩を踏み出すことができないまま、夏と一緒に終わった。
***
空を見上げて夏のことを思い出す。あっという間に寒くなって、気づけばもう春。
あの日のように泣いてはいないし、身に着けているのは泥汚れのユニフォームではなく、卒業記念の造花がついた制服だ。
高校の卒業式はどれほど悲しいだろうと思ったけれど、野球部の引退式の方が悲しかった。今日は悲しさよりも寂しさの方が強い。
九重くんがこちらを見た。
「あんな約束をして、後悔してる。甲子園に連れて行くなんて格好いいこと言っておいて、こんな結果なんてな」
「私は、あの約束がすごく嬉しかったよ」
「約束を叶えられなかっただろ」
「ううん。みんなで同じ夢を見ていたからいいの」
九重くんに言ったことは嘘ではない。
私にとって『甲子園に連れていく』は憧れの台詞で、さらに片思いをしている男の子からそれを言われるなんて、物語に出てくるヒロインのようだった。
九重くんの努力を知っていたから約束を信じていた。あの白球がフェンスを越える瞬間まで私はヒロインだったのだ。その時間を味わえただけで幸せだ。
「ねえ、聞いてもいい? 『約束を叶えたら話したいことがある』って、どんな話をするつもりだったの?」
しかし九重くんは「それは……」と言い淀んでしまった。逃げるように視線が泳ぎ、それからため息を吐く。
「内緒?」
助け船を出すと、九重くんはこくりと頷いた。
「じゃあ、いつか教えてね」
「……そう、したいけど」
九重くんはポケットからボールを取り出した。卒業記念にもらってきたのだろう、薄汚れた野球ボール。
「本当に、野球以外だめだな、俺は」
「そうかな?」
「最後かもしれないのに一番大切なことが言えない。勇気がでないんだ」
落ちこむ姿に、私は笑う。
そして数歩後ろにさがり、ボールを受け取れるよう手を構えて「投げて」と合図を送る。
時間を楽しむようにゆっくりとした速度でボールが届く。何度も触った野球のボールが、なぜか今日は重たく感じた。
「私も勇気がでなくて、一歩が踏み出せないの。一緒だね」
「難しいよな。キャッチボールなら簡単なのに」
「本当にね」
お互いを気遣って、素手でも取りやすいように。ボールが落ちてしまわないように。
優しいキャッチボールを交わせば、会話が繋がる。
あの夏、私たちの約束が叶っていたら。
私と九重くんは物語のヒーローとヒロインになれたのだろうか。
甲子園に辿り着いていたのなら、私は九重くんに告白する勇気を得られたのだろうか。
「お前に言いたかったことは、たった二文字なんだ。でもその二文字を言う勇気がなくて――」
そこまで言いかけて、九重くんの動きが止まった。手にしたボールをじっと見つめたかと思えば、今度はかばんに手を伸ばす。
取り出したのはサインペンだった。
「うまいこと言えないから、書いて、投げる」
「九重くんらしいね」
サインペンのふたを取り、いざ一文字目を――と書いたところで九重くんは「あ」と言ったきり手を止めてしまった。
「どうしたの?」
「……字が大きすぎた」
その不器用さが九重くんらしくて、屋上に二人分の笑い声が響く。
「ふふ。それでもいいよ。一文字でも受け取るから」
「それで伝わるのか?」
「たぶん、大丈夫。投げて」
そして九重くんの気持ちを乗せたボールが、屋上にふわりと浮かぶ。
春の風を纏いながらゆるゆると落ちてくるそれを、しっかりと受け止めた。
九重くんは気まずそうに、かばんを手に取る。
キャッチボールが終わった。これで九重くんと私の三年間も終わるのだ。それは名残惜しく、もっと九重くんの制服姿を見ていたくて、目で追ってしまう。
「二文字目は、今度会ったらちゃんと伝えるから」
「……もう、帰るの?」
「……おう」
帰らないで、って言えなくて。
でも『またね』と言うこともできない。だって次はいつ会えるのかわからない。私たちは別々の道に行くのに。
「……三年間ありがとう、久瀬」
勇気がだせず一歩を踏み出すことのできない私を残して、九重くんが去っていく。
屋上の扉が閉まる音は、私の涙腺を壊した。一人になった瞬間、ほたほたと涙がこぼれていく。
泣きながら、ボールを包んでいた両手を開いた。白球には黒いサインペンで『す』と不器用な文字が書かれていて――そのたった一文字で、伝わってしまったのだ。
あと一歩まで迫って、届かない。後悔が詰まった涙は止まらない。
***
「綾乃ー! 遅いよー!」
「二人とも待たせてごめんね」
大学生になって数ヶ月後。ニナちゃんに誘われて、母校に行くことになった。
土曜日の午後はグラウンドや体育館で部活動に励む生徒だらけ。せっかく来たのだからと校舎を見て回ることになった。
集まったのは仲のいい友達のニナちゃんとカナデちゃん。こまめに連絡は取っているけれどこうして会うのは久しぶりだ。数ヶ月前までは制服で通っていた場所に私服で来るなんて少し不思議な気分。
「……で。まずはどこに行く?」
「そりゃもちろん――ニナのカレピッピ観察でしょ」
カナデちゃんはにたりと笑って、ニナちゃんの肩を叩く。
ニナちゃんは、高校三年生の時に後輩くんの二見沢くんと付き合いはじめた。ニナちゃんは部活は違えどマネージャー仲間だったから、ずっと片思いしていた後輩くんと付き合ったと報告を受けた時は嬉しくてたまらなかった。
今日は男子バスケと女子バスケが体育館を使っていると聞いたので早速体育館へ。普段はシューズのこすれる音やバスケットボールの弾む音が聞こえていたのに、ちょうど休憩中だったらしく体育館は静かだ。
中に入ろうとすると、ちょうどバスケット部の男子部員が出てくるところだった。スマートフォンをいじりながら歩いていたので、先頭を歩いていたニナちゃんとぶつかってしまった。男子生徒は慌ててニナちゃんに手を差し伸べる。
「すみません――って西那先輩!? あれ、卒業したんじゃ」
「一ノ瀬くん久しぶり!」
一ノ瀬くん、って聞いたことあるかも。私が三年生だった時、一年のバスケ部にイケメンがいるって話題になった気がする。
「どう? 元気にしてる?」
「それなりに元気ですよ」
「とある筋からの情報だと、ついにクラス替えで願いが叶ったんだって?」
元バスケ部マネージャーってこともあって、ニナちゃんは一ノ瀬くんと親しいらしい。彼がクラス替えにどんな希望を抱いていたのかはわからないけど、一ノ瀬くんは少し照れた様子だった。
「……それ、どこ情報っすか? バスケ部みんな口軽すぎですよ」
「さて誰からでしょう」
「篠宮の兄貴……もありそうだけどやっぱふたみん先輩かなあ。あの人ほんと軽いからなあ」
一ノ瀬くんは困ったように頬をかいて、それから咳払いを一つ。
「それで。西那先輩たちはどうしたんですか? ふたみん先輩なら――」
「あ。違うの。ふたみんの様子も見にきたけど今日は別。母校探検してるの」
ニナちゃんが一ノ瀬くんと話している間に、私とカナデちゃんは体育館を覗く。たった数ヶ月で懐かしいと感じてしまうのだから不思議だ。私が卒業してしまったから、体育館が別の場所になったようだ。以前は平気で立ち入っていたのに、今は靴を脱ぐのに勇気がいる。
「あーあ。バスケしてるところ見たかったのになあ」
「タイミングが悪かったね。先に他の場所を見て、また後で来ましょう」
「次どうする? 美術部か吹奏楽部か」
すると一ノ瀬くんとの話を終えたニナちゃんが戻ってきた。合流したところで次の場所に向かう。今度は校舎だ。
私たちは卒業してしまったので生徒玄関ではなく来客用の玄関からになる。そういった違いも、卒業したのだと改めて実感する。
廊下を歩くと遠くの方から金管楽器の音が聞こえてきた。吹奏楽部の練習だろう。
「そういえば、」
突然カナデちゃんが切り出した。
「あたし、いま駅前のレストランでアルバイトしてるんだけど。数名高校の子が働いてるんだよね」
「へえ。後輩ちゃんと一緒なんだ」
相づちを打ちながら、確か制服がかわいいレストランだったかなと思い出す。カナデちゃんにもきっと似合うことだろう。今度ひやかしに行ってみよう。
「んで、その子の彼氏も同じところで働いててさー。格好いいんだけど、ありえないぐらい変な男なの」
「……変な人と付き合っているカナデちゃんが言えることではないと思う」
「うん。私もそう思う」
「ちょっと二人ともやめてよねー」
カナデちゃんが真面目な顔で変な男なんて言うものだから、どうしても五十嵐くんのことを思い出してしまう。五十嵐くんとカナデちゃんが仲いいのは知っていたけれど、まさか二人が付き合うなんて。高校時代に驚いたニュースの一つだ。
そんなことを話しているうちに音楽室の前に着く。
といっても私たちは吹奏楽部の知り合いもいないし、部活も入ったことがない。そっと音楽室の様子を覗くぐらいだ。
「あ……あの子、部活戻ったんだ」
カナデちゃんがぽつりと呟いた。
「トランペットの子でさ、親の反対食らって部活やめた子がいるって、八街から聞いたことがあって」
「カナデちゃん詳しいのね」
「ヒロと八街って仲がいいでしょ? その子に渡してほしいものがあるだの、八街の家を教えろだの、よく巻き込まれてたみたいで。八街が大学合格したからお礼もらわないとってヒロが張り切ってたよ」
トランペットを吹いている子といってもたくさんいるから、カナデちゃんの言う子が誰かわからないけれど、部活に戻れたのならよかったと思う。やりたいことをやるのが一番だもの。
中には部活をやめて、そのままちょっとずれた道に走ってしまう子もいる。私たちと同じ学年だった三崎くんがその例だった。
何が彼を変えてしまったのか噂でしか聞いたことないけれど。彼は部活をやめてからいわゆる不良生徒になってしまった。
でも、ある時をきっかけにして三崎くんは変わった。生活態度を改めて、ちょっとだけ真面目に変わって、学校もサボらなくなった。危ぶまれていたけれど卒業することもできて、卒業式の帰り道、後輩の子と二人で歩いているのを見た。前より落ち着いたのかなって思う。
そうして音楽室の前で話していると、中にいた吹奏楽部の子がこちらに気づいた。
「あ、あの……何かご用ですか?」
私たちの方へ駆け寄ってきて聞く。声は少し小さめの、小柄で可愛い女の子だ。
前にどこかで会ったことがあるようなないような。思い出そうとしてみるけれどなかなか答えにたどり着けない。
私が迷っている間に、ニナちゃんが答えた。
「ごめんね。見学していただけなの。私たち、OBで久しぶりに母校見に来たんだ」
「そうだったんですね……どうぞ気にしないで見ていってください」
もじもじとした喋り方で思い出す。そうだ。この子、去年の学年演劇で主役をやっていた子だ。確かシンデレラ役の。名札には『牟田』と書いてあった。
その牟田さんは柔らかく微笑んでお辞儀をし、音楽室へと戻っていった。
「……練習の邪魔になりそうだから、次いこっか」
ニナちゃんの提案に頷いて、歩き出す。
音楽室の次は美術室――と思っていたけれど。
タイミングよく美術室の扉が開いて、女子生徒が出てくる。その子はカナデちゃんを見るなり声をあげた。
「後藤先輩!」
「四葉ちゃん久しぶり。元気にしてた?」
「今は私が部長になったので、毎日バタバタしてます。後藤先輩はどうですか? 五十嵐元部長と仲良くしてます?」
「うん。あたしもヒロも元気だよ。ヒロは相変わらず変わってるけど」
小首を傾げて可愛らしく問いかけるのは、美術部員で今は部長の平井四葉ちゃん。
カナデちゃんは五十嵐くんと話すためによく美術室に通っていたから、その時に四葉ちゃんとも知り合ったのだろう。
この四葉ちゃんは私たちの間でも有名で、同級生だった篠宮くんがこの四葉ちゃんを可愛がっていた。さらに二つ下の篠宮くんの弟も、四葉ちゃんにひっついて離れない。四葉ちゃんが歩けば、左右には篠宮兄弟がいる、なんて言われてたほど。
と篠宮兄弟のことを考えていると、再び美術室の扉が開いた。中から顔を出したのは、どういうわけか、卒業したはずの兄の方で。
「……篠宮くん?」
私が聞くと、篠宮くんはこちらを見て「うんうん、久しぶり」と手をあげた。
「篠宮くん、どうして学校にきていたの?」
「そりゃ後輩の様子が気になるからねえ。弟が部活に励んでいる間、僕は四葉の部活を応援しようかと」
その様子から、卒業してもちょくちょく顔を出しに来ているんだろうと想像してしまう。篠宮くんらしいというか。
すると、苦笑いをしている私たちの後ろで声がした。
「兄貴! また学校きてたのかよ!」
噂をすれば何とやら。四葉ちゃんがいれば篠宮兄弟あり。ここに篠宮くんがいるんだから、弟さんだって来るわけで。
弟さんは私たちには目もくれず、お兄ちゃんの方へと走っていく。
「大学生は! 家で勉強してろ!」
「ひどいなあ。僕は四葉の部活を応援しているだけだよ」
「そもそも兄貴は元バスケ部だろ!? 応援するなら体育館来いよ。休憩とっくに終わってるから!」
そんなやりとりに、四葉ちゃんが呆れてため息を一つ。
「……二人とも。そんなに喧嘩したいなら学校出てからにしてね。美術室近くで騒がないで」
きっとこの三人は、変わらずこのままなのだろう。仲がよさそうで何よりだ。
バスケ部、吹奏楽部に美術部。その他、校舎を見て回る。
一通り回り終えたところで、私たちは別行動を取ることにした。ニナちゃんは体育館へ、カナデちゃんも美術室に用事があるらしい。二人を見送ってから、私はグラウンドに向かった。もちろん、今の野球部を見るために。
グラウンドでは、今年こそ甲子園出場を目指す後輩たちが、汗を流して練習に励んでいた。その姿に、去年の野球部を思い出して頬が緩んでしまう。
打球音、ミットにボールが収まる時の音、部員たちのかけ声。
ぜんぶが懐かしい。
「みんな、がんばれ。応援してるからね」
今年こそは、みんなの夢が叶うことを願って。
しばらく練習を眺めていると、休憩に入ったのか後輩たちがぞろぞろと歩いてきた。
差し入れとしてジュースを用意してきたのでちょうどいい。部室前に集まったみんなに近づこうとして――ふと振り返った。
「……久瀬?」
低くて、枯れてて、私の好きな声。
毎日顔を合わせることがなくなっても、その声は消えていない。今も好きだから。
少し遠くに九重くんがいた。私と同じように、後輩たちの様子を見に来ていたのかもしれない。
「九重くん!」
本当は駆け寄りたいけれど――私は慌ててかばんから取り出す。
いつになるかわからないけれど、もしも九重くんに会えたなら。その時に渡そうと決めていたものがあるから。
「これ、受け取って!」
こっちに向かって歩を進めていた九重くんの動きが止まる。私は大きく振りかぶって、かばんから取り出した野球ボールを投げた。
白球が、飛んでいく。私の気持ちを乗せて九重くんの方へと。
投げた球を九重くんが受けとめる。そして、じっとボールを見つめていた。私には『俺が帰ってから読んで』なんて言ったくせに、九重くんはずるい。
白球に込めた想いは一文字。きっと次に会った時に九重くんが伝えようとするだろう、私たちの二文字目。
勇気を出して踏みこむのは怖くて、恥ずかしくて、少しくすぐったい。
九重くんが駆け寄ってきて、私たちの距離が近づくにつれて、顔が熱くなる。三年間何度も目を合わせていたのに、恥ずかしくなって視線を外した。
「……っ、お前! これ!」
息を切らせながらやってきた九重くんの手には、私が投げたボール。ボールには私が書いた『き』の文字が書いてある。
「私も同じ気持ちだよ。これが今度会った時に伝える二文字目、でしょ?」
そう告げた瞬間、体が引き寄せられた。
視界にあるのは私よりも背の高い九重くんの胸元。力強く抱きしめられて、私の首元に九重くんの頭がぽとりと乗る。
「こ、九重くん?」
「こんな伝え方、反則だろ。もっと好きになる」
触れた箇所から九重くんの温度が伝わって、それは私の頬で疼く熱と同じあたたかさをしていた。
高校生の間、勇気のでなかった私はこの腕に包まれて、触れてみたかった。
三年の片思いを経て叶った腕の中は、私が想像していたよりも幸せで優しいもの。
で、終わればよかったのだけれど。
「先輩! 何、いちゃいちゃしてんすか!?」
「よかったッスね、九重先輩。片思いだったもんなぁ」
私たちの様子を見ていた後輩たちの騒ぎで、現実に戻る。
そうだった。ここは母校のグラウンド。九重くんも我に返ったらしく、慌てて私から離れて後輩に叫んだ。
「いいから部室に戻れ! 休憩だろ!?」
「えー。九重先輩ののろけ話聞いてからにしましょうよー」
「六本木。お前なあ……」
騒ぎながらも後輩たちは部室に戻っていく。顔を赤くして恥ずかしそうにしている九重くんが面白くて、私はくすくすと笑いながらそれを見ていた。
そうしてグラウンドに残ったのが私たちだけになって、九重くんがこちらに向き直る。
「急にあんなことして、悪かった」
「ふふ。しばらくみんなにひやかされるね」
ひやかされるのは私よりも九重くんの方だろう。ちらりと見ると、無愛想な表情がわずかに緩んで、頬が赤らんでいた。
「高校生の時から、お前が彼女だったらよかったのにって思ってた。だから、両想いだってわかった瞬間、嬉しくて……止まらなかった」
「私もずっと九重くんに片思いしてたんだよ」
それを聞いて九重くんの足がぴたりと止まる。
「お前を甲子園に連れて行ったら、彼女になってほしいって言うつもりだった。……甲子園行ったらなんてルール作らないで、勇気出せばよかった」
九重くんが空を見上げる。
夏が近いからか空は高くて、雲は一つもない。あの日のような白球も見えない。
「ねえ……甲子園は叶わなかったけど、夏はやり直せる」
「そうだな。じゃあ、」
野球ボールを使わないと勇気を出せなかった私たちだけれど、今度はちゃんと伝えられる。だから私たちだけに見える透明な球に気持ちを込めて、投げ合った。
「俺の彼女になってください」
「私の彼氏になってください」
私たちの間に開いていた距離は、一歩ずつ詰まっていく。重なって、手を伸ばさなくても触れる距離まで。