「おっまえ、めちゃくちゃうまそうに食べるじゃん!」
笑いながらそう言った彼に対して私が抱いたのは、羞恥でも怒りでも喜びでもなく。
ただ、驚愕だった。
私の家では、家族揃って食事をとるということが滅多になかった。また、テレビ番組で見るような、和気藹藹とした食卓も知らなかった。お行儀良くすることが、私に課せられた義務だった。
家族が揃って食事をする時は、団欒するためではない。普段の生活の報告だったり、お小言だったり。学校の定期テストと同じだ。家庭の定期チェックなのだ。だから私は、揃って食事がしたいとも思っていなかった。
味覚は人並みに発達していた。だから「緊張して味がしない」とか「嫌いな人と食べる食事は不味い」というのは嘘だと思っていた。
誰と食べても、どんな状況でも、食事の味そのものは変わらない。不味いものは不味いし、美味しいものは美味しい。
家族と食べる食事も。学校でグループと食べる給食も。放課後に友達と行くファストフードも。おじさんに奢られる高いご飯も。
全部一緒。値段相応、物相応の味がする。おじさんと食べる黒毛和牛より、友達と食べる謎肉の方が美味しいなんてことはない。黒毛和牛の方が美味しい。
場の空気が嫌になることはある。けれどそれは雰囲気に対して嫌悪感があるのであって、やはり味覚に影響はないのだ。
ずっとそうだった。それが当たり前だと思っていた。だからあの日、私は驚いたのだ。
大学受験のために通っていた塾の帰り道。私は同じコースで受講している、ある男子生徒とよく一緒になった。
彼の名は弘樹。
暗い夜道を一人で歩くのは危ないから、と彼が声をかけてくれたのが切っ掛けだった。
弘樹は取り立てて顔が良いわけでも、頭が良いわけでも、スポーツができるわけでもない、ごく普通の男子高校生だった。
ただ彼は私と違って、明るく社交的だった。それが計算ではなく、単純に人への興味であることが窺えた。屈託のない笑顔に、眩しさすら感じた。だから人間関係を煩わしく思っていた私でも、彼のことは邪険にできなかった。
それどころか、彼と話していると、なんだか自分まで白くなっていくような気がした。いつも胸に渦巻いている黒いものが、彼といる時だけは、穏やかに凪いでいた。
今思えば、私は弘樹のことが好きだったのだと思う。けれど当時は、受験に失敗できないというプレッシャーから、恋などと浮ついたものを考える余裕がなかった。
その日は雪が降っていた。
肺まで刺さる冷気。手袋をしていてもかじかむ指先。鼻は真っ赤で、鼻水が垂れてやしないかと、私は気が気でなかった。早く帰りたかったが、急いで歩くと転んでしまいそうで怖かった。
弘樹と並んで歩いていると、私のお腹がぐうと鳴った。学校が終わった後、塾に来る前に夕食を食べそびれたので、お腹が減っていた。私は慌ててお腹を押さえたが、弘樹には聞こえたようで、くつくつと笑っていた。
「なぁ、コンビニ寄ってかね?」
時刻は夜の九時をとっくに過ぎている。高校生である私達はファミレスやファストフードは十時に追い出されてしまうので、塾の帰りに寄る生徒はほとんどいない。
この寒いのに、とも思ったけれど、弘樹と寄り道できるのが嬉しくて、私は黙って頷いた。
コンビニに入った瞬間、温風を感じてほっと体が緩む。しかし一度暖かさに慣れてしまうと外に出るのが億劫になる。私は真っ直ぐレジに向かって肉まんを頼み、弘樹はピザまんを頼んだ。
店内にイートインスペースはない。買ったものを持って外に出て、駐車場の端に寄った。
冷えた指先を温めるように、私は手袋を外して、肉まんを袋の上から手のひらで包んだ。
「そんなんしてると冷たくなるぞー」
弘樹は熱々のピザまんをさっさとほおばっていた。
「ん! んんん」
とろりと伸びたチーズが落ちそうになって、弘樹はそれを舌で追って掬ったが、更に伸びて、また食いついてを繰り返していた。
その姿がおかしくて、私は声を上げて笑いながら、自分の肉まんの包みを剥がした。
冷たい手で包んでいたせいで少しばかり冷めてしまったが、まだ十分に温かいそれに大口でかぶりつく。一口で中身まで到達できたので、じゅわっと肉汁が口に広がって、私は満足げにそれを咀嚼した。
そうしていると、横から「ぶはっ」と吹き出す声が聞こえた。
「おっまえ、めちゃくちゃうまそうに食べるじゃん!」
笑いながらそう言った弘樹は、おそらく私を食いしん坊扱いしたのだと思う。そもそもコンビニに寄ることになった切っ掛けは、私がお腹を鳴らしたからだ。
だからきっと、ここで私が取るべき反応は、少し恥じらってみせることだった。そして照れ隠しにわざとらしく怒ってみせるべきだった。
ところが私は、あまりの驚きに、そのまま呆けてしまったのだ。
私は今までの人生において、「美味しそうに食べる」などと言われたことは一度たりともない。
どんなに美味しいものを食べても、美味しい、と感じるところで私の感情は終了していた。だからそれが表情に出ることはほとんどなかった。
今も。確かに寒い中で食べる肉まんは美味しかった。けれどコンビニの肉まんはコンビニの肉まんでしかなく、味覚にそれ以上の影響は与えなかった。
違うのだ。今感じているこれは。肉まんを特別に美味しく感じているのではない。
楽しいのだ。
私は今、この時間を、肉まんを食べることを、「楽しい」と感じている。
食事を「楽しい」などと思ったのは初めてだった。食事はただ義務でしかなく、栄養素を摂取し腹を満たすための行為で、たまに交流のために使われる煩わしいものですらあった。
それがどうだ。ただ彼と一緒にいるというだけで。彼と食事を共にしているというだけで。この肉まんは特別なものになった。
人が言う「美味しい」はきっと、こういう気持ちを含めての事なのだろう。味覚の反応だけではない。心が感じている嬉しさや楽しさを含めて、「美味しい」と言っているのだ。
私はその時初めて理解した。何を食べるかよりも、誰と食べるかが重要だという意味を。
「な……なんだよ。怒ったのか?」
からかったつもりが全く反応を示さない私に、弘樹が恐る恐る声をかけた。はっとして、私はぶんぶんと首を振った。
「ううん、ちょっと、びっくりしただけ」
「ふぅん……?」
弘樹は怪訝そうにしながらも、深く聞くことはなかった。
気まずい空気になるのが嫌で、私はまた大口で肉まんに齧りついた。
「うん、美味しー」
もう食べ終わっていた弘樹は、何か言いたげにしていたが、結局何も言うことはなかった。黙って雪を目で追う彼の横顔を見ながら、私は噛みしめるように肉まんを食べていた。
その後、無事受験に合格して、塾を辞め、弘樹とは疎遠になった。
恋というものを自覚していなかった私は弘樹に告白することはなかったし、地方の大学に進学した彼も、私に何かを言うことはなかった。
結局、弘樹と私は、塾の帰り道を一緒に過ごすだけの間柄で終わった。
今でも雪が降ると思い出す。
あれ以来、私に同じ言葉をかけてくれた人は、誰一人いない。
私も、あの時と同じ気持ちを味わったことはない。
もう夜の十時を過ぎても追い出されることはないのに、私はファミレスではなくコンビニに寄って、肉まんを一つ買った。
外に出て、冷たい空気を肌で感じながら、包みを剥がす。
一口、齧りつく。美味しい。味覚は美味しいと判断している。
けれど、あの味をもう一度味わうことは二度とないのだ。
肌に落ちた雪は体温で溶かされ、そのまま雫となって落ちていった。
笑いながらそう言った彼に対して私が抱いたのは、羞恥でも怒りでも喜びでもなく。
ただ、驚愕だった。
私の家では、家族揃って食事をとるということが滅多になかった。また、テレビ番組で見るような、和気藹藹とした食卓も知らなかった。お行儀良くすることが、私に課せられた義務だった。
家族が揃って食事をする時は、団欒するためではない。普段の生活の報告だったり、お小言だったり。学校の定期テストと同じだ。家庭の定期チェックなのだ。だから私は、揃って食事がしたいとも思っていなかった。
味覚は人並みに発達していた。だから「緊張して味がしない」とか「嫌いな人と食べる食事は不味い」というのは嘘だと思っていた。
誰と食べても、どんな状況でも、食事の味そのものは変わらない。不味いものは不味いし、美味しいものは美味しい。
家族と食べる食事も。学校でグループと食べる給食も。放課後に友達と行くファストフードも。おじさんに奢られる高いご飯も。
全部一緒。値段相応、物相応の味がする。おじさんと食べる黒毛和牛より、友達と食べる謎肉の方が美味しいなんてことはない。黒毛和牛の方が美味しい。
場の空気が嫌になることはある。けれどそれは雰囲気に対して嫌悪感があるのであって、やはり味覚に影響はないのだ。
ずっとそうだった。それが当たり前だと思っていた。だからあの日、私は驚いたのだ。
大学受験のために通っていた塾の帰り道。私は同じコースで受講している、ある男子生徒とよく一緒になった。
彼の名は弘樹。
暗い夜道を一人で歩くのは危ないから、と彼が声をかけてくれたのが切っ掛けだった。
弘樹は取り立てて顔が良いわけでも、頭が良いわけでも、スポーツができるわけでもない、ごく普通の男子高校生だった。
ただ彼は私と違って、明るく社交的だった。それが計算ではなく、単純に人への興味であることが窺えた。屈託のない笑顔に、眩しさすら感じた。だから人間関係を煩わしく思っていた私でも、彼のことは邪険にできなかった。
それどころか、彼と話していると、なんだか自分まで白くなっていくような気がした。いつも胸に渦巻いている黒いものが、彼といる時だけは、穏やかに凪いでいた。
今思えば、私は弘樹のことが好きだったのだと思う。けれど当時は、受験に失敗できないというプレッシャーから、恋などと浮ついたものを考える余裕がなかった。
その日は雪が降っていた。
肺まで刺さる冷気。手袋をしていてもかじかむ指先。鼻は真っ赤で、鼻水が垂れてやしないかと、私は気が気でなかった。早く帰りたかったが、急いで歩くと転んでしまいそうで怖かった。
弘樹と並んで歩いていると、私のお腹がぐうと鳴った。学校が終わった後、塾に来る前に夕食を食べそびれたので、お腹が減っていた。私は慌ててお腹を押さえたが、弘樹には聞こえたようで、くつくつと笑っていた。
「なぁ、コンビニ寄ってかね?」
時刻は夜の九時をとっくに過ぎている。高校生である私達はファミレスやファストフードは十時に追い出されてしまうので、塾の帰りに寄る生徒はほとんどいない。
この寒いのに、とも思ったけれど、弘樹と寄り道できるのが嬉しくて、私は黙って頷いた。
コンビニに入った瞬間、温風を感じてほっと体が緩む。しかし一度暖かさに慣れてしまうと外に出るのが億劫になる。私は真っ直ぐレジに向かって肉まんを頼み、弘樹はピザまんを頼んだ。
店内にイートインスペースはない。買ったものを持って外に出て、駐車場の端に寄った。
冷えた指先を温めるように、私は手袋を外して、肉まんを袋の上から手のひらで包んだ。
「そんなんしてると冷たくなるぞー」
弘樹は熱々のピザまんをさっさとほおばっていた。
「ん! んんん」
とろりと伸びたチーズが落ちそうになって、弘樹はそれを舌で追って掬ったが、更に伸びて、また食いついてを繰り返していた。
その姿がおかしくて、私は声を上げて笑いながら、自分の肉まんの包みを剥がした。
冷たい手で包んでいたせいで少しばかり冷めてしまったが、まだ十分に温かいそれに大口でかぶりつく。一口で中身まで到達できたので、じゅわっと肉汁が口に広がって、私は満足げにそれを咀嚼した。
そうしていると、横から「ぶはっ」と吹き出す声が聞こえた。
「おっまえ、めちゃくちゃうまそうに食べるじゃん!」
笑いながらそう言った弘樹は、おそらく私を食いしん坊扱いしたのだと思う。そもそもコンビニに寄ることになった切っ掛けは、私がお腹を鳴らしたからだ。
だからきっと、ここで私が取るべき反応は、少し恥じらってみせることだった。そして照れ隠しにわざとらしく怒ってみせるべきだった。
ところが私は、あまりの驚きに、そのまま呆けてしまったのだ。
私は今までの人生において、「美味しそうに食べる」などと言われたことは一度たりともない。
どんなに美味しいものを食べても、美味しい、と感じるところで私の感情は終了していた。だからそれが表情に出ることはほとんどなかった。
今も。確かに寒い中で食べる肉まんは美味しかった。けれどコンビニの肉まんはコンビニの肉まんでしかなく、味覚にそれ以上の影響は与えなかった。
違うのだ。今感じているこれは。肉まんを特別に美味しく感じているのではない。
楽しいのだ。
私は今、この時間を、肉まんを食べることを、「楽しい」と感じている。
食事を「楽しい」などと思ったのは初めてだった。食事はただ義務でしかなく、栄養素を摂取し腹を満たすための行為で、たまに交流のために使われる煩わしいものですらあった。
それがどうだ。ただ彼と一緒にいるというだけで。彼と食事を共にしているというだけで。この肉まんは特別なものになった。
人が言う「美味しい」はきっと、こういう気持ちを含めての事なのだろう。味覚の反応だけではない。心が感じている嬉しさや楽しさを含めて、「美味しい」と言っているのだ。
私はその時初めて理解した。何を食べるかよりも、誰と食べるかが重要だという意味を。
「な……なんだよ。怒ったのか?」
からかったつもりが全く反応を示さない私に、弘樹が恐る恐る声をかけた。はっとして、私はぶんぶんと首を振った。
「ううん、ちょっと、びっくりしただけ」
「ふぅん……?」
弘樹は怪訝そうにしながらも、深く聞くことはなかった。
気まずい空気になるのが嫌で、私はまた大口で肉まんに齧りついた。
「うん、美味しー」
もう食べ終わっていた弘樹は、何か言いたげにしていたが、結局何も言うことはなかった。黙って雪を目で追う彼の横顔を見ながら、私は噛みしめるように肉まんを食べていた。
その後、無事受験に合格して、塾を辞め、弘樹とは疎遠になった。
恋というものを自覚していなかった私は弘樹に告白することはなかったし、地方の大学に進学した彼も、私に何かを言うことはなかった。
結局、弘樹と私は、塾の帰り道を一緒に過ごすだけの間柄で終わった。
今でも雪が降ると思い出す。
あれ以来、私に同じ言葉をかけてくれた人は、誰一人いない。
私も、あの時と同じ気持ちを味わったことはない。
もう夜の十時を過ぎても追い出されることはないのに、私はファミレスではなくコンビニに寄って、肉まんを一つ買った。
外に出て、冷たい空気を肌で感じながら、包みを剥がす。
一口、齧りつく。美味しい。味覚は美味しいと判断している。
けれど、あの味をもう一度味わうことは二度とないのだ。
肌に落ちた雪は体温で溶かされ、そのまま雫となって落ちていった。