その後、亜美花ちゃんと私が一緒に戻って来た事で教室に残っていた二人は驚いた顔をしていたけれど、私から二人に亜美花ちゃんを紹介し、ついでに私の両親が離婚している事も今がタイミングかなと二人に切り出すと、驚きつつもすんなりと受け入れてくれて、それが私と亜美花ちゃんが仲良くなった理由かと納得したみたいだった。
その内に段々と四人で行動する事が増えていき、それに伴い亜美花ちゃんも学校に来る様になっていった。放課後になると私と亜美花ちゃんはお互いの家を行き来したり、眠れない夜は連絡し合ったりと、あの日からずっと親しい友達として仲を深めている。
毎日とても充実していた。わかってくれる人が居るとこんなにも世界が変わるのだなと思った。みんなと自分は違うからと線を引いて卑屈な考え方しか出来なかった自分はなんて馬鹿だったのだろう。今は毎日が楽しい。四人で居る学校が、亜美花ちゃんが居る毎日が、私をいつも一人ぼっちから遠ざけてくれる。
もしかしたら、このまま何気なく日々が過ぎ去っていった先で、家族の事は辛かった過去としていつの間にか乗り越えていく事になるのかもしれない。そんな日がくるまできっとあと少しだと信じられる様な気がしていた。
——けれど、そんなある日の事だった。
「華菜、ちょっと良いか」
ご飯を食べ終えて食器を洗っている最中のこと。あの時に似たお父さんのその声掛けにじわりと嫌な予感がして、洗い物へ目を向けたまま「何?」と答える。
「最近どうだ?」
「どうって、どうしたの急に」
「いや。最近の華菜はすっきりした顔をしてるから……その、良かったらで良いんだけど」
「?」
なんだかやけに言いづらそうにしているなと、タオルで手を拭いてダイニングの椅子に座っているお父さんへと振り返る。すると私と目が合った瞬間お父さんが決心した表情に切り替わり、私の嫌な予感は的中した。
「お母さんに会うか?」
「……え?」
思わず言葉を失う私に、お父さんは、お母さんが会いたがっているのだと淡々と説明した。
「もし会う気があるなら連絡してやってくれ。華菜の許可があるまで向こうから連絡しない約束になってるから。嫌なら何も無かった事にしても良いんだ。父さんに言ってくれ」
「…………」
「……急だよな。とりあえず、そういう事だから」
そう言っていつも通りにお風呂へ向かっていったお父さんに、私は何も言葉を投げかける事が出来なかった。
——お母さんに、会う?
その言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡り、会いたがってくれていた事に嬉しく思うのと同時に、今更何なんだと込み上げる怒りが勝手に私の心の中で主張しあっていて、もう何がなんだかわからなかった。
混乱している。感情がぐちゃぐちゃで、どうする事が正解なのかわからない。判断できない。私はお母さんに会いたいの? 会った方が良いの? 会うべきなの? 会わなかったら、どうなるの?
寝る支度をしてベッドの上に横になっても全然寝付けそうにもなくて、答えの出ない不安に押し潰されそうだった。そうだ、こんな時は亜美花ちゃんに連絡すれば良いんだと、スマホのメッセージ画面を開く。
“亜美花ちゃん、今話せる?”
いつも通りの指の動きで始めのメッセージを送った後——やっぱりやめたと送信を取り消した。
もしかしたらデリカシーの無い相談になってしまうかもと勢いのままに送ってから気がついたのだ。だって亜美花ちゃんの家もうちと同じ様にお母さんが出ていっている。それから会っているかは、本人の口から聞いた事が無い。もしかしたら私の相談で亜美花ちゃんを傷付けてしまうかもしれな、!
急に手の中にあるスマホが震えだした。表示された名前に驚いて、慌てて応答マークをタップすると通話に出る。
「亜美花ちゃん?」
『見たよ〜華菜ちゃんから連絡あったの。すぐ消してたけどどうしたの? ただの間違い?』
「……ごめんね、こんな夜に」
『全然! 起きてたし。何かあった?』
元気が出ない私の声を聞いて心配そうに亜美花ちゃんが言ってくれる。どうやら取り消す前に彼女の目にメッセージが届いていたらしく、消したと同時にすぐに連絡を返してくれたみたいだった。そんな亜美花ちゃんの対応が、身に沁みるぐらい嬉しい。
「うん。あの……あのさ、その……」
——でも。
「……明日の宿題って何だっけ?」
だからこそ優しい彼女を傷付けたくないから、そんな事は言えないと判断した。亜美花ちゃんが心配してくれただけで嬉しい。連絡をくれた事実だけで救われたのだから。
そんな私の質問に、亜美花ちゃんはぽかんとした表情を浮かべたであろう少しの沈黙の後、『えっと、宿題は……確か現文と歴史と……まぁたくさんあったけど』と、らしくない辿々しさで言葉を並べつつも、
『でも、違うよね?』
と、それがメッセージを送った本来の目的と違うのだと気がついていた。……気づいてくれた。さすが亜美花ちゃんだ、敵わない。
このまま誤魔化しても余計な問題を生んでしまうかもと、観念して傷付けてしまう覚悟を決めた。
「……うん。あの……実はね、」
『うん』
「実はその……お、」
『お?』
「お母さんに、会うかもしれなくて……」
『え⁈』
すると電話の向こうの亜美花ちゃんは随分と驚いていて、『何で⁈』『急じゃん!』『いつ?』と、興奮したテンションで次々と質問を口にする。そんな彼女の様子に、まずは傷付ける様な事にはならなかったのかとほっと一息ついた。
『え、華菜ちゃん? 聞いてる?』
「聞いてるよ。なんかちょっと、ほっとして」
『ほっとした? なんで?』
「……亜美花ちゃんを傷付けたらどうしよって思ってたから……」
『私?』
「だって亜美花ちゃんちもお母さん居ないでしょ……?」
『えぇ⁈ 今更そんなこと気にしてたの⁈』
『真面目か!』と、亜美花ちゃんの大笑いする声がスマホを通して聞こえてくる。ひとしきり笑い終えると、『ごめんごめん』と言いながら亜美花ちゃんの声が戻ってきた。
『もう、さすがなんだから。うちは特別会いたいとかそういう段階は越えたって感じかな。いつでも会えるし連絡もしようと思えば出来るけど、別に良いかなって。そっか、まだ話してなかったか』
「……うん」
もう随分と昔の事の様に言う亜美花ちゃん。悲しいとか寂しいとか、そういうものからまだ乗り越えられてないと言っていたけれど、彼女はいつも穏やかにその話が出来る。心の中には傷が残っているはずなのに。それを受け流し包み込める柔らかな力がある人だなと、彼女と話しているとつくづく感じる。
「あのさ、」
『うん?』
「最初にお母さんに会った時ってどんな感じだった?」
だから私は彼女に自分の弱さを見せられるし、話す事が出来るのだ。彼女の答えが聞きたいから。彼女だったらどうするのか知りたいから。
「さっきね、お父さんにお母さんが会いたがってるって言われて、会う気があるなら連絡するようにって……なんか、急な事でよくわかんなくなっちゃって」
『自分の気持ちが?』
「そう」
『確かに。会いたいって言われても、出てったのそっちじゃんて感じだもんね。どれだけこっちが悲しんだかわかってんの?って思うと簡単に連絡してやるのも複雑だし、会って後悔する事になったらって、少し怖い気持ちもある』
「……うん」
そっか。亜美花ちゃんでもそう思うんだ。私だけじゃなかったんだ。
こういった悩みについて、言わなくても伝わる亜美花ちゃんとの会話は簡単に本質をつけるし、彼女の言葉でならすんなりと納得出来て心を軽くする事が出来た。今日、今この瞬間もそう。
「会いたい気持ちはもちろんあるの。嬉しい気持ちも。でももう傷付きたくなくて」
『うん』
「やっとしっかり前を向ける様になって来たなって、毎日が楽しいなって思える様になって来たのに、何で今?って」
『うん』
「結局お母さんは自分の事ばっかりじゃんって、すごく嫌な気持ちになる。そうなると会いたいって思った気持ちもよくわからなくなっちゃって」
『…………』
「私、どうしたら良いんだろう。亜美花ちゃんはどうだった? 亜美花ちゃんならこんな時どうする?」
『…………』
私の言葉を最後に、じっと沈黙が訪れる。けれど不安に思う事は無かった。今、亜美花ちゃんは考えてくれているのだと私には信じる事が出来たから。
そしてやっぱり、亜美花ちゃんはこたえてくれた。
『私なら会うと思う。だってお互いに会いたいと思ってるんだから』
「………」
『会える時に会わないと、いつか会えなくなる日が来た時にそれこそ取り返しのつかない後悔をする事になるだろうから。だから、少しでも会いたいと思うなら私は会いにいくかな』
「……そっか。そうだね」
それはとても亜美花ちゃんらしい素敵な答えだった。
「会いたいから会う……そうだよね。亜美花ちゃんの言う通り。落ち着いてみれば意外とシンプルなのかもしれない」
『そうだと思う。そう……私も会える内に会わないと』
「? お母さんに?」
『ううん、彼氏に』
その答えもまた亜美花ちゃんらしくて私は冗談まじりに「毎日でも会いたいんだね」なんて言うと、やけに重い空気を纏って、『……うん』と返ってきた。そのいつもと違う気がする雰囲気にあれ?と、違和感を抱く。
「……彼氏さんと何かあったの?」
私の問いに、小さな声で『うん』ともう一つ声が返ってきて、こんなに元気がない亜美花ちゃんは初めてだったから、躊躇いながらも「何があったか聞いても良いかな」と声を掛ける。
『……実はさ、彼氏と会えなくなるらしくて……』
「え!」
『なんか、親戚のやってる会社に就職する事にしたんだって。それが飛行機使う距離の場所だから、向こうに引っ越しちゃうんだって』
「……そっか。それは寂しいね……」
『……うん』
亜美花ちゃんの彼氏の事。あまり詳しく彼の身の回りについて話してくれた事はないけれど、年上の人だというのは聞いていた。亜美花ちゃんの一番辛かった頃を支えてくれた大事な存在だという事も。
「……亜美花ちゃん、大丈夫?」
それは亜美花ちゃんにとって大きな問題だろうという事はわかる。でもあまり詳しく聞いてこなかった分、気の利いた台詞が浮かんでこなくてこんな事しか言えなかった。亜美花ちゃんはいつも私に大事な言葉をくれるのに。
『……うん。まぁ、なる様にしかならないしね』
そして返ってきた言葉はこんな投げやりな言葉で、亜美花ちゃんの中でここで話すつもりは無いのだと決まった事が伝わって来た。私は今この瞬間、亜美花ちゃんに線の外へ出されてしまったのだ。
……私も、亜美花ちゃんの力になりたいのに。もっと亜美花ちゃんの事が知りたいし、もっと辛さを分け合える存在にして欲しいと思ってるのに。私じゃ駄目なの? だから話してくれないの?
——いや、そんな事ない。本当にそうだったなら亜美花ちゃんはこの話題を出さなかったはず。
言いづらいのに言い出してくれたのなら、隠し切れないくらいに今辛いのなら、そこで私が弱気になってどうする!
「あのさ、私も亜美花ちゃんの為になりたい人間の一人だよ。だからなんでも話して欲しいの」
亜美花ちゃんの事が大好きだから。亜美花ちゃんは私の大事な人だから。
「辛さを隠さないで欲しい。一人にしたくない。私は亜美花ちゃんの事がもっと知りたいし、支えていきたいよ」
『……でも私、本当にめっちゃヤバい奴なんだよ。引かれたくない』
「引く事なんて絶対にない」
『…………』
「信じて欲しい。私、亜美花ちゃんの事もう一人の私だと思ってるの」
『……もう一人の私?』
どういう事?と首を傾げる亜美花ちゃんの様子が目に浮かぶ。私自身そんな言葉が出てきた事に驚いていた。けれど、そういう事かとすっと馴染む様に染み込んで心がすっきりとした感覚になる。それは言葉にした今この瞬間に初めて知った、自分の奥底にあった考えだったのだ。
「そう。正反対のもう一人の私。同じスタートラインの先に私じゃ選べなかった未来を見せてくれる、憧れて誇りに思う私じゃない私」
『…………』
「亜美花ちゃんは、私と同じなのに全然違う。そんな亜美花ちゃんだから私は大好きなの。もう一人の私みたいな存在だって、勝手に自分を重ねて憧れるくらいに。だから、亜美花ちゃんがどれだけ私の想像と違っても、それは亜美花ちゃんが見せてくれる私のもう一つの人生みたいなものだから、引く様な事は絶対に無いんだよ」
『……こんな駄目な私を、自分の人生に重ねてくれるの?』
「駄目なんかじゃない。亜美花ちゃんは私一人じゃ知らないまま終わってた未来そのものだよ。だからずっとこれから先も一緒に居たいし、傍で見守っていたいと思う」
『……そっか』
暫しの沈黙の後、亜美花ちゃんがすっと息を吸うと言った。
『私ね、中三の時に親が離婚したんだけど、その頃から派手な格好して学校にもあんまり行かなくなったの。行かないで、ずっと彼氏と居た。夜の仕事してる人だったから昼間じゃないと会えなくて、向こうの家に転がり込んで、ずっとだらだらして』
「……うん」
『私にとってそれが全てだったの。私の全てを受け入れてくれる人が居るこの空間があれば何も要らないって思ってて……でも、退学になったら駄目だって彼氏に言われて。高校生になってから初めて登校した日、あったでしょ? あの日も学校まで送って貰って渋々来てたんだ。それで華菜ちゃんと出会って、それから段々学校に行ける様になってきて、彼氏は良かったねって言ってくれた』
「ずっと心配してくれてたんだね」
『うん。昔の自分と重ねてたんだって。家族と揉めて家出たんだって言ってた。でも大変だったから私には同じ様になって欲しくないって言ってた』
「良い人だ」
『そうなの。優しくて良い人なの。だけど……もう会えなくなっちゃう』
「……引っ越しちゃうんだっけ」
『そう。私が学校通う様になったの見て、自分も家族ともう一度向き合おうと思ったって……だから心の準備しろって言われてさ、ぐずってたら学校行かないと会ってくれないって言われて、だけど学校行っちゃうと時間合わないから結局会えないでいて……でもさ、本当は毎日でも会いたいの。だって、もう会えなくなっちゃうんだよ?』
「………」
『私、会いたい。会える内に会いたい。今会わないと後悔すると思う。でもそしたらまた私学校に行かなくなっちゃうし、彼氏にも呆れられちゃったらどうしようとも思う。てことはそれが間違ってるって事で、きっと華菜ちゃんだったらそうしない。そうだよね?』
「………」
『わかってる。わかってるんだけど、それでもやっぱり私は弱くて、会いたくて仕方ないの。だから、華菜ちゃんと話してて決めた。会いに行こうと思う』
亜美花ちゃんのその言葉に、私はどう答えれば良いのかすぐにはわからなかった。彼氏さんの言う事は正しい。二人は離ればなれになってしまうかもしれないけれど、それはそれぞれの人生を前に向かって歩き出す為なのだから仕方がない事だし、今より正しく思える未来へ向かう為には必要な事だと思う。決して一生会えなくなる訳では無いのだから。
けれど、会える内に会いたいという亜美花ちゃんの気持ちも否定してはいけないはずで、後悔する事になるのなら今全力で何もかもを捨ててでも向き合うべき彼女の現実も確かにここにあると思う。正論で言いくるめてはいけない大事な感情がそこにあって、それは私一人の時には絶対に理解出来なかっただろう答えだ。でもきっと、亜美花ちゃんならそっちを選ぶ。間違っているとわかってても突き進む強い意思があるから、それが亜美花ちゃんだから——、
「……そうだね。それが亜美花ちゃんだもん」
『引いた?』
「引いてないよ」
『嫌いになった?』
「なってないよ。……亜美花ちゃんが決めたなら、私は支える準備をするよ。答えが出たその時は一番に連絡して」
『…………』
「私、いつでもなんでも待ってるから」
『……ありがとう』
——そして、次の日から亜美花ちゃんは学校へ来なくなった。
その内に段々と四人で行動する事が増えていき、それに伴い亜美花ちゃんも学校に来る様になっていった。放課後になると私と亜美花ちゃんはお互いの家を行き来したり、眠れない夜は連絡し合ったりと、あの日からずっと親しい友達として仲を深めている。
毎日とても充実していた。わかってくれる人が居るとこんなにも世界が変わるのだなと思った。みんなと自分は違うからと線を引いて卑屈な考え方しか出来なかった自分はなんて馬鹿だったのだろう。今は毎日が楽しい。四人で居る学校が、亜美花ちゃんが居る毎日が、私をいつも一人ぼっちから遠ざけてくれる。
もしかしたら、このまま何気なく日々が過ぎ去っていった先で、家族の事は辛かった過去としていつの間にか乗り越えていく事になるのかもしれない。そんな日がくるまできっとあと少しだと信じられる様な気がしていた。
——けれど、そんなある日の事だった。
「華菜、ちょっと良いか」
ご飯を食べ終えて食器を洗っている最中のこと。あの時に似たお父さんのその声掛けにじわりと嫌な予感がして、洗い物へ目を向けたまま「何?」と答える。
「最近どうだ?」
「どうって、どうしたの急に」
「いや。最近の華菜はすっきりした顔をしてるから……その、良かったらで良いんだけど」
「?」
なんだかやけに言いづらそうにしているなと、タオルで手を拭いてダイニングの椅子に座っているお父さんへと振り返る。すると私と目が合った瞬間お父さんが決心した表情に切り替わり、私の嫌な予感は的中した。
「お母さんに会うか?」
「……え?」
思わず言葉を失う私に、お父さんは、お母さんが会いたがっているのだと淡々と説明した。
「もし会う気があるなら連絡してやってくれ。華菜の許可があるまで向こうから連絡しない約束になってるから。嫌なら何も無かった事にしても良いんだ。父さんに言ってくれ」
「…………」
「……急だよな。とりあえず、そういう事だから」
そう言っていつも通りにお風呂へ向かっていったお父さんに、私は何も言葉を投げかける事が出来なかった。
——お母さんに、会う?
その言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡り、会いたがってくれていた事に嬉しく思うのと同時に、今更何なんだと込み上げる怒りが勝手に私の心の中で主張しあっていて、もう何がなんだかわからなかった。
混乱している。感情がぐちゃぐちゃで、どうする事が正解なのかわからない。判断できない。私はお母さんに会いたいの? 会った方が良いの? 会うべきなの? 会わなかったら、どうなるの?
寝る支度をしてベッドの上に横になっても全然寝付けそうにもなくて、答えの出ない不安に押し潰されそうだった。そうだ、こんな時は亜美花ちゃんに連絡すれば良いんだと、スマホのメッセージ画面を開く。
“亜美花ちゃん、今話せる?”
いつも通りの指の動きで始めのメッセージを送った後——やっぱりやめたと送信を取り消した。
もしかしたらデリカシーの無い相談になってしまうかもと勢いのままに送ってから気がついたのだ。だって亜美花ちゃんの家もうちと同じ様にお母さんが出ていっている。それから会っているかは、本人の口から聞いた事が無い。もしかしたら私の相談で亜美花ちゃんを傷付けてしまうかもしれな、!
急に手の中にあるスマホが震えだした。表示された名前に驚いて、慌てて応答マークをタップすると通話に出る。
「亜美花ちゃん?」
『見たよ〜華菜ちゃんから連絡あったの。すぐ消してたけどどうしたの? ただの間違い?』
「……ごめんね、こんな夜に」
『全然! 起きてたし。何かあった?』
元気が出ない私の声を聞いて心配そうに亜美花ちゃんが言ってくれる。どうやら取り消す前に彼女の目にメッセージが届いていたらしく、消したと同時にすぐに連絡を返してくれたみたいだった。そんな亜美花ちゃんの対応が、身に沁みるぐらい嬉しい。
「うん。あの……あのさ、その……」
——でも。
「……明日の宿題って何だっけ?」
だからこそ優しい彼女を傷付けたくないから、そんな事は言えないと判断した。亜美花ちゃんが心配してくれただけで嬉しい。連絡をくれた事実だけで救われたのだから。
そんな私の質問に、亜美花ちゃんはぽかんとした表情を浮かべたであろう少しの沈黙の後、『えっと、宿題は……確か現文と歴史と……まぁたくさんあったけど』と、らしくない辿々しさで言葉を並べつつも、
『でも、違うよね?』
と、それがメッセージを送った本来の目的と違うのだと気がついていた。……気づいてくれた。さすが亜美花ちゃんだ、敵わない。
このまま誤魔化しても余計な問題を生んでしまうかもと、観念して傷付けてしまう覚悟を決めた。
「……うん。あの……実はね、」
『うん』
「実はその……お、」
『お?』
「お母さんに、会うかもしれなくて……」
『え⁈』
すると電話の向こうの亜美花ちゃんは随分と驚いていて、『何で⁈』『急じゃん!』『いつ?』と、興奮したテンションで次々と質問を口にする。そんな彼女の様子に、まずは傷付ける様な事にはならなかったのかとほっと一息ついた。
『え、華菜ちゃん? 聞いてる?』
「聞いてるよ。なんかちょっと、ほっとして」
『ほっとした? なんで?』
「……亜美花ちゃんを傷付けたらどうしよって思ってたから……」
『私?』
「だって亜美花ちゃんちもお母さん居ないでしょ……?」
『えぇ⁈ 今更そんなこと気にしてたの⁈』
『真面目か!』と、亜美花ちゃんの大笑いする声がスマホを通して聞こえてくる。ひとしきり笑い終えると、『ごめんごめん』と言いながら亜美花ちゃんの声が戻ってきた。
『もう、さすがなんだから。うちは特別会いたいとかそういう段階は越えたって感じかな。いつでも会えるし連絡もしようと思えば出来るけど、別に良いかなって。そっか、まだ話してなかったか』
「……うん」
もう随分と昔の事の様に言う亜美花ちゃん。悲しいとか寂しいとか、そういうものからまだ乗り越えられてないと言っていたけれど、彼女はいつも穏やかにその話が出来る。心の中には傷が残っているはずなのに。それを受け流し包み込める柔らかな力がある人だなと、彼女と話しているとつくづく感じる。
「あのさ、」
『うん?』
「最初にお母さんに会った時ってどんな感じだった?」
だから私は彼女に自分の弱さを見せられるし、話す事が出来るのだ。彼女の答えが聞きたいから。彼女だったらどうするのか知りたいから。
「さっきね、お父さんにお母さんが会いたがってるって言われて、会う気があるなら連絡するようにって……なんか、急な事でよくわかんなくなっちゃって」
『自分の気持ちが?』
「そう」
『確かに。会いたいって言われても、出てったのそっちじゃんて感じだもんね。どれだけこっちが悲しんだかわかってんの?って思うと簡単に連絡してやるのも複雑だし、会って後悔する事になったらって、少し怖い気持ちもある』
「……うん」
そっか。亜美花ちゃんでもそう思うんだ。私だけじゃなかったんだ。
こういった悩みについて、言わなくても伝わる亜美花ちゃんとの会話は簡単に本質をつけるし、彼女の言葉でならすんなりと納得出来て心を軽くする事が出来た。今日、今この瞬間もそう。
「会いたい気持ちはもちろんあるの。嬉しい気持ちも。でももう傷付きたくなくて」
『うん』
「やっとしっかり前を向ける様になって来たなって、毎日が楽しいなって思える様になって来たのに、何で今?って」
『うん』
「結局お母さんは自分の事ばっかりじゃんって、すごく嫌な気持ちになる。そうなると会いたいって思った気持ちもよくわからなくなっちゃって」
『…………』
「私、どうしたら良いんだろう。亜美花ちゃんはどうだった? 亜美花ちゃんならこんな時どうする?」
『…………』
私の言葉を最後に、じっと沈黙が訪れる。けれど不安に思う事は無かった。今、亜美花ちゃんは考えてくれているのだと私には信じる事が出来たから。
そしてやっぱり、亜美花ちゃんはこたえてくれた。
『私なら会うと思う。だってお互いに会いたいと思ってるんだから』
「………」
『会える時に会わないと、いつか会えなくなる日が来た時にそれこそ取り返しのつかない後悔をする事になるだろうから。だから、少しでも会いたいと思うなら私は会いにいくかな』
「……そっか。そうだね」
それはとても亜美花ちゃんらしい素敵な答えだった。
「会いたいから会う……そうだよね。亜美花ちゃんの言う通り。落ち着いてみれば意外とシンプルなのかもしれない」
『そうだと思う。そう……私も会える内に会わないと』
「? お母さんに?」
『ううん、彼氏に』
その答えもまた亜美花ちゃんらしくて私は冗談まじりに「毎日でも会いたいんだね」なんて言うと、やけに重い空気を纏って、『……うん』と返ってきた。そのいつもと違う気がする雰囲気にあれ?と、違和感を抱く。
「……彼氏さんと何かあったの?」
私の問いに、小さな声で『うん』ともう一つ声が返ってきて、こんなに元気がない亜美花ちゃんは初めてだったから、躊躇いながらも「何があったか聞いても良いかな」と声を掛ける。
『……実はさ、彼氏と会えなくなるらしくて……』
「え!」
『なんか、親戚のやってる会社に就職する事にしたんだって。それが飛行機使う距離の場所だから、向こうに引っ越しちゃうんだって』
「……そっか。それは寂しいね……」
『……うん』
亜美花ちゃんの彼氏の事。あまり詳しく彼の身の回りについて話してくれた事はないけれど、年上の人だというのは聞いていた。亜美花ちゃんの一番辛かった頃を支えてくれた大事な存在だという事も。
「……亜美花ちゃん、大丈夫?」
それは亜美花ちゃんにとって大きな問題だろうという事はわかる。でもあまり詳しく聞いてこなかった分、気の利いた台詞が浮かんでこなくてこんな事しか言えなかった。亜美花ちゃんはいつも私に大事な言葉をくれるのに。
『……うん。まぁ、なる様にしかならないしね』
そして返ってきた言葉はこんな投げやりな言葉で、亜美花ちゃんの中でここで話すつもりは無いのだと決まった事が伝わって来た。私は今この瞬間、亜美花ちゃんに線の外へ出されてしまったのだ。
……私も、亜美花ちゃんの力になりたいのに。もっと亜美花ちゃんの事が知りたいし、もっと辛さを分け合える存在にして欲しいと思ってるのに。私じゃ駄目なの? だから話してくれないの?
——いや、そんな事ない。本当にそうだったなら亜美花ちゃんはこの話題を出さなかったはず。
言いづらいのに言い出してくれたのなら、隠し切れないくらいに今辛いのなら、そこで私が弱気になってどうする!
「あのさ、私も亜美花ちゃんの為になりたい人間の一人だよ。だからなんでも話して欲しいの」
亜美花ちゃんの事が大好きだから。亜美花ちゃんは私の大事な人だから。
「辛さを隠さないで欲しい。一人にしたくない。私は亜美花ちゃんの事がもっと知りたいし、支えていきたいよ」
『……でも私、本当にめっちゃヤバい奴なんだよ。引かれたくない』
「引く事なんて絶対にない」
『…………』
「信じて欲しい。私、亜美花ちゃんの事もう一人の私だと思ってるの」
『……もう一人の私?』
どういう事?と首を傾げる亜美花ちゃんの様子が目に浮かぶ。私自身そんな言葉が出てきた事に驚いていた。けれど、そういう事かとすっと馴染む様に染み込んで心がすっきりとした感覚になる。それは言葉にした今この瞬間に初めて知った、自分の奥底にあった考えだったのだ。
「そう。正反対のもう一人の私。同じスタートラインの先に私じゃ選べなかった未来を見せてくれる、憧れて誇りに思う私じゃない私」
『…………』
「亜美花ちゃんは、私と同じなのに全然違う。そんな亜美花ちゃんだから私は大好きなの。もう一人の私みたいな存在だって、勝手に自分を重ねて憧れるくらいに。だから、亜美花ちゃんがどれだけ私の想像と違っても、それは亜美花ちゃんが見せてくれる私のもう一つの人生みたいなものだから、引く様な事は絶対に無いんだよ」
『……こんな駄目な私を、自分の人生に重ねてくれるの?』
「駄目なんかじゃない。亜美花ちゃんは私一人じゃ知らないまま終わってた未来そのものだよ。だからずっとこれから先も一緒に居たいし、傍で見守っていたいと思う」
『……そっか』
暫しの沈黙の後、亜美花ちゃんがすっと息を吸うと言った。
『私ね、中三の時に親が離婚したんだけど、その頃から派手な格好して学校にもあんまり行かなくなったの。行かないで、ずっと彼氏と居た。夜の仕事してる人だったから昼間じゃないと会えなくて、向こうの家に転がり込んで、ずっとだらだらして』
「……うん」
『私にとってそれが全てだったの。私の全てを受け入れてくれる人が居るこの空間があれば何も要らないって思ってて……でも、退学になったら駄目だって彼氏に言われて。高校生になってから初めて登校した日、あったでしょ? あの日も学校まで送って貰って渋々来てたんだ。それで華菜ちゃんと出会って、それから段々学校に行ける様になってきて、彼氏は良かったねって言ってくれた』
「ずっと心配してくれてたんだね」
『うん。昔の自分と重ねてたんだって。家族と揉めて家出たんだって言ってた。でも大変だったから私には同じ様になって欲しくないって言ってた』
「良い人だ」
『そうなの。優しくて良い人なの。だけど……もう会えなくなっちゃう』
「……引っ越しちゃうんだっけ」
『そう。私が学校通う様になったの見て、自分も家族ともう一度向き合おうと思ったって……だから心の準備しろって言われてさ、ぐずってたら学校行かないと会ってくれないって言われて、だけど学校行っちゃうと時間合わないから結局会えないでいて……でもさ、本当は毎日でも会いたいの。だって、もう会えなくなっちゃうんだよ?』
「………」
『私、会いたい。会える内に会いたい。今会わないと後悔すると思う。でもそしたらまた私学校に行かなくなっちゃうし、彼氏にも呆れられちゃったらどうしようとも思う。てことはそれが間違ってるって事で、きっと華菜ちゃんだったらそうしない。そうだよね?』
「………」
『わかってる。わかってるんだけど、それでもやっぱり私は弱くて、会いたくて仕方ないの。だから、華菜ちゃんと話してて決めた。会いに行こうと思う』
亜美花ちゃんのその言葉に、私はどう答えれば良いのかすぐにはわからなかった。彼氏さんの言う事は正しい。二人は離ればなれになってしまうかもしれないけれど、それはそれぞれの人生を前に向かって歩き出す為なのだから仕方がない事だし、今より正しく思える未来へ向かう為には必要な事だと思う。決して一生会えなくなる訳では無いのだから。
けれど、会える内に会いたいという亜美花ちゃんの気持ちも否定してはいけないはずで、後悔する事になるのなら今全力で何もかもを捨ててでも向き合うべき彼女の現実も確かにここにあると思う。正論で言いくるめてはいけない大事な感情がそこにあって、それは私一人の時には絶対に理解出来なかっただろう答えだ。でもきっと、亜美花ちゃんならそっちを選ぶ。間違っているとわかってても突き進む強い意思があるから、それが亜美花ちゃんだから——、
「……そうだね。それが亜美花ちゃんだもん」
『引いた?』
「引いてないよ」
『嫌いになった?』
「なってないよ。……亜美花ちゃんが決めたなら、私は支える準備をするよ。答えが出たその時は一番に連絡して」
『…………』
「私、いつでもなんでも待ってるから」
『……ありがとう』
——そして、次の日から亜美花ちゃんは学校へ来なくなった。