「華菜〜! 着替え行くよ〜」
「うん。あ……あれ?」

 次は体育だ。更衣室へ向かう為に体操服を出そうとスクールバッグを開くと、無い。体操服が入ってない。

「! 玄関に忘れた……」
「え? 忘れたの?」
「他のクラスに借りに行く?」
「いやでも、ジャージじゃなくて体操服だから汗かいたら申し訳ない……もう時間も無いし……」
「じゃあお腹痛いって事にする? 保健室送ろうか?」
「そんな嘘はつけない……」
「真面目か」

 結局私は制服のまま体育を見学する事に。ちゃんとしたいのにこういう忘れ物をする自分の情けなさに落ち込んだ。まだまだ私はダメなままだ。こんなんじゃ一人でちゃんと生きていける人間にはなれない。
 もし私がもっとちゃんとしていたら。漫画を読んでごろごろしてる様な人間じゃなかったら。そうだったらお母さんは出ていかなかったかもしれないし、私を一緒に連れて行ってくれたかもしれないのに。

「一列に並べー。順番にスタートして、終わった人はタイムを聞いて記録する事」

 今日の体育は短距離走のタイムを測るらしい。見学は私だけで、それはつまり次回の体育で私は一人、みんなの前で走らされてタイムを測られる事が決まったという事。物凄く恥ずかしい……憂鬱だ。なんで玄関に忘れちゃったんだろう。
 位置について、の掛け声でスタートラインに並んだ生徒達が次々と走り出していくのを黙って眺めていた。太陽の日差しが強くて眩しいけれど、日陰になる様な場所が見当たらないのでじっと暑さを我慢してぼんやりとしていた、ちょうどその時だった。
 私の隣に、制服姿の生徒がもう一人やって来た。

「!」

 綿貫さんだ。
 朝見かけてすぐに先生と教室を出て行った彼女は今、用事を終えて授業に戻って来たらしい。

「…………」
「…………」

 ……気まずい。たった今この空間に私達は二人きりである。でも気軽に話し掛ける様な仲でも無いし、そもそも知り合いですら無い。
 そっと横目に眺めてみると、風に靡く彼女の髪の毛は金色で、香水の匂いだろうか。彼女からはとても良い香りがした。私とは全然違う人なのだと隣に居るだけで実感する。
 すると、不意にこちらを向いた彼女と目が合った。びっくりしてぱちぱちと瞬きをする私をじっと見つめた彼女は、「ねぇ、」と私に声を掛ける。

「彼氏が居なくても生きていけるもの?」
「……は?」

 いきなり何だと、つい尖った声色を返してしまう。だってそんな事を聞かれるなんて思いもしなかったから。ていうか彼氏が居なくても生きていけるのかって、見るからに彼氏なんて居なそうだけどどうやって生きてるの?って、今聞かれてる?

「……生きていけますけど」

 カチンときて、言葉に乗る感情を隠す事なく露わにした。だって失礼にもほどがある。

「私が今生きている中で、彼氏という存在はなくてはならないほど大切なものでは無いので」
「じゃああなたにとって大切なものって?」
「……自分、ですかね。自分の人生を一人で生きていける様にならないといけないので」
「え、何? 友達居ないの?」
「居ますけど。でも、最終的にみんな一人じゃないですか。誰も私の人生の責任を負ってくれる訳でも無いし」
「……ふーん」

 そう軽い感じで返した彼女は、遠くを眺める様に視線を空へ移した。関心の持てない答えだったという事だろうか。私にとっては大事な事だけど、他の高校生にこんな事を話しても本当の意味では伝わらないのだと私はもう知っていた。だってみんなは私とは違う環境を生きているのだから。みんなと私は違う。誰にも私の考えは分かって貰えない。

「でもさ、人間は一人でなんて生きていけないものじゃん」

 隣から聞こえてきたその言葉に、いつの間にか俯いていた顔を上げる。するとそこには真っ直ぐに私を見つめる彼女の真剣な表情があった。

「一人で生きられなくても良くない? そんなの寂しいよ」
「でも、一人で生きられなきゃ捨てられた時にどうにもならないんで」
「捨てない人を探せばいいじゃん」
「そんなのその時になるまでわからない」

 みんなはわからないんだ。ある日突然信じていた人が居なくなる時が来る事を。辛い毎日と不安な未来に向き合わなければならない事を。
 自分のわがままを通す為に学校のルールも守れないこの人はわかってないんだ。毎日間違えないで生きていく事がどれだけ大変で、そのレールを外れる事がどれだけ怖い事なのかを。

「うち、離婚してるんです」

 だからつい、口から出てしまった。

「父子家庭なの。お母さんは私を置いて出ていって、それから会えてない」

 あなたとは違うのだと現実を突きつけてやりたかった。どれだけ自分が甘えてるのかわからせてやりたい、そんな思惑があったと思う。

「お母さんに捨てられるなんて誰が思う? しかもお金が無いからだって。私を育てられる自信が無いんだって。私の未来が自分にのし掛かるのが嫌だったんでしょ。勝手に産んだのはそっちなのに」

 最低だ、最低で最悪な気分。私って最悪。こんな人間ですって、嫌な言葉が口から吐き出て止まらなくて、真っ黒な感情に飲み込まれていくのがわかった。わかってたのに、とめられない。

「だから、だから私は一人で生きていける様にならなきゃダメなの。一人で生きられないと相手の負担になって、そしたら捨てられちゃうって知ったから。これからは一人で生きていける様にならないと。もう同じ間違いは絶対にしたくない」
「……捨てられちゃうかな」
「捨てられちゃうよ」
「でも、それでも私は出会いたいって思うよ。私を見捨てないって心から信じられる人に」

 背中にそっと撫でてくれる手のひらの温もりを感じてびっくりした。それは隣の彼女、綿貫さんのものだった。

「分かるよ、その気持ち。うちも同じだから」
「え……」
「うちも母親が私を置いて出てったから。私が居ない方が生きやすいんだろうね。良くわかんないけど」
「…………」

 ハッとした私と彼女の視線がぴたりと合う。

「辛いよね。寂しくて悲しいのに、もうどうにもならないから気持ちの行き場が無いよね」
「…………」

『辛くて悲しくて、気持ちの行き場が無い』そう言った綿貫さんの言葉がすっと心に染み込んでいくと、なんだかぼんやりと見えなくなっていたその感情がはっきりと名前をつけて現れてくるを感じた。

 ——そっか、わかった。

「……寂しかったんだ、私」

 言われてみると、それはとても簡単で、ずっと見つけられないでいた私の気持ちをそのまま表す言葉だった。
 ずっとずっとその気持ちから目を逸らしてきた様に思う。みんなと私は違うからと意地を張って、みんなは良いよねと人を羨み、自分と比べ、自分の今を肯定して前を向く原動力にする為に、その感情だけは自覚しないようにしてきた。だって前を向いて歩いていないと、もう立ち上がれなくなってしまうと思ったから。
 私はずっと、寂しくて悲しかったんだ。

「……私、悲しいって誰にも言えなかった。言った事なかった」
「親にも?」
「うん。だってもう決まった事だし、言った所で迷惑かけるだけだから……」
「真面目か」

 あははっと笑う彼女の笑顔がきらきらと輝いていた。この人は私と同じものを背負っているのに、こんなにも綺麗に、柔らかに、明るく笑ってる。それはとてもすごい事だと思った。辛い現実の全てを受け止めないとそんな風にはなれないはずだから。

「あの、綿貫さん」
亜美花(あみか)で良いよ」
「亜美花ちゃん」
「何?」
「亜美花ちゃんは、どうやって寂しさとか悲しさとか乗り越えたの?」

 こんな風に笑える様になりたい。きらきら輝く彼女の様になりたいと思った気持ちからの言葉だった。でも彼女は笑いながら、「私もまだ乗り越えてないよ」なんて言う。

「本当に? でも私にはそんな風に笑ったり、人を思いやれる様な気持ちの余裕が持てない」
「気持ちの余裕か……逃げられる場所があるからかな」
「逃げられる場所?」
「そう。どうしようもない気持ちの時、私いつも彼氏に連絡するの。そしたら相手してくれるから、その時だけは嫌な気持ちから逃げられるんだ。だから私がそんな風に見えるなら彼氏のおかげかも」
「…………」
「情けないよね。現実と真っ直ぐ向き合う事も、乗り越えようと努力する事も出来ないでやり過ごす毎日だよ。だからすごいと思う。一人で弱音も吐かずに頑張るなんて私には出来ない」

 じっと私を見つめるその瞳は真剣で、彼女が心からその言葉を口にしている事がひしひしと伝わってきた。

「あなたはすごいね。かっこいい」

 それはあの日から一人ぼっちになった私が初めて人に受け入れられたと感じた瞬間だった。
 陽の光を浴びて彼女の金色の髪が光る。まるで彼女の笑顔の様で、その金色はとても彼女に似合っていると思った。