あたしは朝に弱い。
 毎日、起きているのか寝ているのかわからない状態で、味わいもせずにトーストを食べ、サラダを口に押し込む。そして部活の朝練に家を出るのだ。

「おはよう」
「おはよう。ほら、ちゃんと目を覚まして。朝練があるんでしょ?」

 母の言葉に、

「ふわあい」

 とあくび混じりに返事する。

 昨夜のことは実感が湧かなかったからか、すっかり忘れていた。だから、焦げ気味のトーストをガジガジと食べているときに、頭上から、

「おはよう立野。目、ちゃんと覚めてるのか?」

 という青木の声がしたときは、一瞬、頭が真っ白になった。

 そうだった。昨夜からあたしには、青木の幽霊がついてる(憑いてる?)のだ。

「……おはよう。朝は苦手で」

 母に聞こえないようにぼそぼそと返す。
 青木が、

「はは! そうみたいだな」 

 と楽しげに笑うから、頬が熱くなった。
 これからいつまでか分からないけれど、毎日こんな自分を見られるのだ。恥ずかしい。

 とにかく、朝錬に遅刻すると、部長から地獄の課題を出されるので急がなければ。

「いってきまーす」

 教科書は部室に置き勉しているので、ほとんど空のスクールバックを手に、あたしは学校まで軽くジョギングをする。朝錬の前錬みたいなものだ。
 そうしているうちに目が覚めてきて、朝日を見る余裕などがでてくる。
 毎日のこと。
 でもやはり毎日朝日は美しいし、その光をいっぱいに浴びると、身体中にエネルギーが満たされる気分になるのはなぜだろう。

「立野はこうやって毎日学校へ行くんだな。なんだか自分以外の人の生活を見るのって、楽しいな」

 まただ。青木は楽しそうに笑っている。
 青木がいつも笑っていたのって、人より楽しみを多く見つけられるからなのだろう、とあたしは思った。

 ただ、こんなに近くでそんな顔をされるのは反則だ。青木の笑顔が、自分だけのものになったような錯覚を覚えてしまう。

 いやいや。青木はあたしに憑いてるだけ。
 
 母には見えていないみたいだったから、もしかしたら特定の人にしか見えないのかもしれない。

「ハンドボール部も朝錬あったでしょ?」
「あったよ。でも陸上部ほどきつくはないんじゃないかな」

 陸上部の朝錬は、四十分間延々とジョグとダッシュを繰り返すインターバルトレーニングで、終わったらヘトヘトになる代物だ。他の運動部は、十五分後から各部特有の練習に入るけれど、陸上部は走る部である。だから朝練ではひたすら走らされる。
 あたしは、走ること自体がそんなに好きではないので、朝からどうして跳ばせてもらえないのかなと思っていた。朝空の下でのハイジャンは、夕方とはまた違った感覚だろうに、と。

 ジョグとダッシュ地獄を今日もこなし、あたしは部室で着替えて教室に入った。と、そのとき青木の声がした。

「俺、ちょっといろいろ見てくる」
「うん。そうしなよ」

 願ったり叶ったりだ。正直授業中の自分を見られたくはなかった。問題を解けずに悶々とする姿や、時折居眠りをする姿などを青木に見られるなんて恥ずかし過ぎる。
 ところが青木は予想より早く戻ってきて、親切にも数学の解き方の間違いを指摘したり、英語の和訳を訂正してくれたりしたのだった。

 青木って頭よかったんだ……。

 そんな不本意な授業を終えたため、部活にいくときは自然と足取りが軽くなった。

 今日は晴れだ。梅雨の重たい曇り空から、だんだんと夏の空に変わってきているのを感じる。滲むように青く光る空に、たくさんの綿雲が浮いている。この雲が段々と高さを持って、入道雲になれば夏が来る。
 梅雨の雨の日は、ハイジャンをやらせてもらえず、廊下を走る苦痛な自主練ばかりだった。でも、今日はハイジャン日和だ。

「空見上げるのって、立野のくせなの?」

 青木の声が降ってきた。

「そ、そんなに見上げてた?」

 空を眺めながら青木の笑顔を思い出していて、それが癖になった、とはさすがに言えない。

「ああ。授業中も。眩しそうに」

 あたしは青木のことは伏せて、空を見るもう一つの理由を答えることにした。

「昔から空って好きなんだよね。毎日姿を変えるし、そのどれもが綺麗じゃない? ……幼いころ、空は、地上に存在るみんなの想いを吸い込んでいるから、毎日変わるんだろうなと思ってた。だって人の想いも毎日変わるでしょ?」

 空は想いの結晶のようなものだと。だからあんなに美しいのだと、小さなあたしは思っていた。
 チリが青く光るという夢のない現実を知ってからも、空好きなのは変わらない。

 でも、最近は思う。人の想いは美しいだけのものではない。人にはもっと汚い想いや、複雑な想いがあるのだ。綺麗なだけの空とは違うのだ。
 それは悲しいことだけれど、人の汚い面から目をそらすほど、あたしはもう幼くはない。

 あたしが複雑な気持ちでいると、青木は驚いたようにあたしを見つめてきた。

「立野って、変わってるって言ったら失礼かな? 空見てそんなこと考えてたんだ。なんか新鮮! あ、でも俺の親父もそんな感じだったのかもしれない。俺の苗字って青木だろ? 澄広って名前。青くて澄んでて広い。空の好きな親父がつけた名前なんだ」

 あたしは微笑んだ。

 そうか。名前の通り育って青木は快晴の笑顔なんだ、と勝手に納得した。

「ん? 何で笑うんだ、そこで」
「うーん、言ってもわかんないだろうけど、青木は名前の通りに育ったんだなと思って」
「俺が空? やっぱり立野って変わってるかも」

 あたしはその言葉に目を細めて頷いた。どこか自嘲的な目になっていたと思う。

「やっぱりそう思う? あたし、変わってるんだ。教室でも浮いてるでしょ? 特に同い年の女子の中で。あたしはあの娘たちの思考回路とか行動とかわかんないんだよね。……でも今は男子の心もわからない。あたしはどこにも属してなくて、それは属したくないからかもしれないし、属せないからかもしれない。でもいい。あたしはハイジャンできるから。大好きな空でいっぱいになれる。他はいいや」

 現実から逃げているだけかもしれない、という思いはかき消してあたしはまた空を仰いだ。

 言っちゃった。青木はどう思うかな。

 ちらりと隣を見上げると青木はちょっと戸惑った顔をしていた。でもすぐに、

「俺には立野の感じてること、全部分かるわけじゃないし、立野がクラスでそこまで浮いているなんて思ったことはなかった。でも、俺が立野を覚えてたのってたぶんそのせいだ。持ってる空気が他の女子とどこか違うなと思って。部活ばっかりやってたし」
「ふうん。そうなんだ」

 やっぱり自分は違うんだということを、他でもない青木の口から再認識させられて、あたしは小さくため息をついた。でも、仕方ないことだ。事実なのだから。

「これから、ニ時間ぐらいその部活ばっかだよ? どっか行ってたら?」
「いや、立野が毎日一生懸命になれることだろ? 面白そうだから見とくよ」
「面白いもんじゃないと思うけど、青木がそう言うなら、じゃあ、行こうか」

 そう返事したものの、ずっと青木がそばで見ているというのは、思った以上に気が散るものだった。

「立野! 集中してる? フォームが乱れてるからバーを越える前にバーに肩があたるんだよ!」

 ハイジャン種目の三年の、西月先輩に怒られる。西月先輩は、去年も全国大会まで行った、実力ある先輩だ。普段は、ざっくばらんで面白い先輩だけれど、部活の時間は容赦がない。

「すみません!」

 いつもはしないようなミスで、バーを落としてしまっている。青木がそばで見ていると思うと、緊張してしまって普段のように跳べない。

 でも今はバーに集中しないと。大好きなハイジャンなんだから。

 あたしは一度頭を軽く振って、バーを睨んだ。

 ふっと短く強く息を吐いて助走に入る。半円を描くようにスピードを上げていき、左足で強く踏み切って、なるべく背中がバーと平行になるように跳ぶ。

 きた! 

 浮遊感。全視界が淡い桃色になったのは一瞬。トスッとマットに背中から体が落ちた。

「その感じだよ。助走しても、その場跳びのときの、バーとの平行に跳ぶ感覚を忘れちゃだめだよ!」
「はい!」

 バーをクリアしたときは、やっぱり気持ちいい。

 バーを落とし、その上に背中から落ちたときの痛みは尋常でない。一度経験すると跳ぶのが怖くなるという部員は多い。あたしも初めてバーの上に落ちたときはそうだった。背中にはいく筋ものみみず腫れができて、湯船に浸かるたびに痛んだ。

 それでも跳べたときの快感は、あたしを跳ぶことに駆り立てる。

 桃色から橙に、そして緑、青、紺と色を変えていく空に支配されるがままに、あたしは跳んだ。いつのまにか、青木の視線が気にならなくなっていた。