五月も終わる、梅雨入り直近の朝から雨の日だった。
青木と親しくしていた都築という男子が、目を腫らして教室に入ってきた。
いつもは気にも留めないこと。けれど何だか嫌な予感がした。
「みんな、聞いてくれ」
都築は震える声を絞り出した。教室中が好奇心を伴う視線で都築に注目した。
「あ、青木が……」
都築はそこまで言うと顔を歪めた。次の言葉がなかなか口から出せないようだった。
あたしは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。都築が拳で自分の太腿を叩く。そして。
「青木がっ、死んだっ!」
都築は悲痛な声で叫ぶと、大粒の涙を溢れさせた。
教室は静まり返った。
「道路へ飛び出した猫をかばってっ! 昨日青木のお母さんから連絡あって……」
都築は涙を拭おうとせず嗚咽を漏らした。
教室が騒めく。
「青木君、が……?」
「え、嘘……」
あたしは。
脚が震える。
猫をかばって? あはは。ありえないでしょ、そんなの。
青木ならやりかねないという思いを無理やり隅に押しやりながら、あたしはかぶりを振った。馬鹿馬鹿しい。
離れていても、青木の眩しい笑顔はこんなに鮮やかに思い出せるし、今日だって青木はあたしの知らない土地で笑っているに決まっているんだ。そうじゃなきゃ嫌だ。
死んだ? 死んだって何? そんなの信じられるわけない!
あたしは事実を受け入れることができなかった。教室からすすり泣く声が、どこからともなく聞こえてきても、腹が立つだけだった。
なんでみんなそんな簡単に青木の死を受け入れられるの? 青木は死んでなんかいないよ!
教室のすすり泣きは、やがて嗚咽となった。
そんな中あたしは無表情に空を見つめていた。空までも泣いてる。
なんで、泣くのよ!
青木の死を認めるなんてできない。
都築は早退して青木の葬儀に行ってしまった。青木らしい幸せそうな笑顔の遺影だったと話をしているのを、あたしは他人事のように聞いていた。
葬儀? 誰の? 青木のじゃないよ!
あたしは信じられない。信じない!
青木、生きてるよね?
***
数年前、祖母の死を看取ったときもそうだった。死んだという事実を受け入れることができなかった。目の前にいる祖母の身体に魂が宿っていないという事実。もう祖母は動くことはないという事実。この世に祖母はもう存在しないという事実。
それはとても不可解に思えた。
ここに寝ているのに?
祖母の身体には温もりがなく、冷たかった。ただそれだけだ。
他人事のように進んでいった祖母の葬式。流れる読経。たくさんの喪服の人たち。訪れた人に頭を下げる両親。形式だけの茶番を見ているような気になった。
涙は出なかった。
あたしが祖母の死を受け入れられたのはそれから数週間たってからだった。お棺を閉めるとき、そっと触れた冷たい祖母の頬の感触を突然思い出して、涙があふれた。
おばあちゃん、死んじゃったんだ……。
人は死ぬ。なのになぜ生まれて来るのだろう。何のために生きるというのだろう。
わからない。わからないよ。
悲しさもあった。それより悔しさが勝った。
人間は死から逃れられない。そのとき悟った。
***
時間というものは全てを流しさってしまう。留めておこうという意思がなければ人の脳は段々過去の記憶を手放し、代わりに新しい情報が脳を埋めていく。
青木とよく一緒にいた男子たちは、青木が亡くなって居場所を失ったかのようにうろうろとしていた。けれど時というのは不思議なもので、そのような彼らの姿ももう見られなくなった。
青木がいない時間は当たり前のように過ぎていき、違和感は日常の中に溶けて消えていった。
けれどあたしの時間だけは違った。
「見ない」のと「見られない」のは全く違う。見なくてもいつのまにか感じとれるようになっていた青木の気配。笑い声。それらがいっさい消えた世界で、あたしは青木を忘れなかった。
青木。生きているよね? 灰になんかなってないよね?
あたしは何度も心で問いかけた。
現実じゃなくて嫌な夢を見ているのだと思った。
だから毎日に実感がなく、自分だけどこか違う次元で生きていて、周りが勝手に進んで行っているような妙な感覚を覚えた。
もともと浮いていたあたしは、ますます現実に溶け込めなくなっていた。抜け殻の身体が勝手に毎日を送る。
青木のいない世界なんてありえない。あってはならない。
そう思っているのに、今のあたしはどこかでそれを認めていて、意固地になって心だけ抵抗しているような状態なのかもしれない。自分でもよくわからなかった。
黒板に文字を刻む白墨の音をぼんやりと聞きながら、いつものように窓から見える空に目をやった。梅雨の晴れ間。雲が多いけれど久しぶりの晴れは少し嬉しい。
もう六月も半だ。
何の変哲もない日常。ただそこに青木が足りない。
あたしは呆けたように空を見続けた。そして、青木の笑顔は、梅雨晴れというよりかは春の晴れた空だよな、なんてふと思った。暖かい柔らかな春の快晴。
その瞬間、不意に視界がぼやけてきた。
嫌! 認めちゃ駄目! 違う!
けれど一度溢れ出した涙は、ノートに大きな染みを作った。ポタポタと静かに落ちる涙でノートがめちゃくちゃになる。
青木! 本当にどこにもいないの? 死んでしまったの?
青木が死んだというのなら、青木の一生はいったいなんだったんだろう。あまりにも短いその一生に青木は何を見い出せたのだろう。
ああ。もう駄目だ。あたしの心は青木の死を受け入れようとしている。
嫌だよ。青木。死んだなんて嘘だよ! なんであんなにいいやつがこんなに早く死ぬんだよ!
涙が止まらない。あたしはとうとう青木の死を実感してしまった。
――青木!!
青木と親しくしていた都築という男子が、目を腫らして教室に入ってきた。
いつもは気にも留めないこと。けれど何だか嫌な予感がした。
「みんな、聞いてくれ」
都築は震える声を絞り出した。教室中が好奇心を伴う視線で都築に注目した。
「あ、青木が……」
都築はそこまで言うと顔を歪めた。次の言葉がなかなか口から出せないようだった。
あたしは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。都築が拳で自分の太腿を叩く。そして。
「青木がっ、死んだっ!」
都築は悲痛な声で叫ぶと、大粒の涙を溢れさせた。
教室は静まり返った。
「道路へ飛び出した猫をかばってっ! 昨日青木のお母さんから連絡あって……」
都築は涙を拭おうとせず嗚咽を漏らした。
教室が騒めく。
「青木君、が……?」
「え、嘘……」
あたしは。
脚が震える。
猫をかばって? あはは。ありえないでしょ、そんなの。
青木ならやりかねないという思いを無理やり隅に押しやりながら、あたしはかぶりを振った。馬鹿馬鹿しい。
離れていても、青木の眩しい笑顔はこんなに鮮やかに思い出せるし、今日だって青木はあたしの知らない土地で笑っているに決まっているんだ。そうじゃなきゃ嫌だ。
死んだ? 死んだって何? そんなの信じられるわけない!
あたしは事実を受け入れることができなかった。教室からすすり泣く声が、どこからともなく聞こえてきても、腹が立つだけだった。
なんでみんなそんな簡単に青木の死を受け入れられるの? 青木は死んでなんかいないよ!
教室のすすり泣きは、やがて嗚咽となった。
そんな中あたしは無表情に空を見つめていた。空までも泣いてる。
なんで、泣くのよ!
青木の死を認めるなんてできない。
都築は早退して青木の葬儀に行ってしまった。青木らしい幸せそうな笑顔の遺影だったと話をしているのを、あたしは他人事のように聞いていた。
葬儀? 誰の? 青木のじゃないよ!
あたしは信じられない。信じない!
青木、生きてるよね?
***
数年前、祖母の死を看取ったときもそうだった。死んだという事実を受け入れることができなかった。目の前にいる祖母の身体に魂が宿っていないという事実。もう祖母は動くことはないという事実。この世に祖母はもう存在しないという事実。
それはとても不可解に思えた。
ここに寝ているのに?
祖母の身体には温もりがなく、冷たかった。ただそれだけだ。
他人事のように進んでいった祖母の葬式。流れる読経。たくさんの喪服の人たち。訪れた人に頭を下げる両親。形式だけの茶番を見ているような気になった。
涙は出なかった。
あたしが祖母の死を受け入れられたのはそれから数週間たってからだった。お棺を閉めるとき、そっと触れた冷たい祖母の頬の感触を突然思い出して、涙があふれた。
おばあちゃん、死んじゃったんだ……。
人は死ぬ。なのになぜ生まれて来るのだろう。何のために生きるというのだろう。
わからない。わからないよ。
悲しさもあった。それより悔しさが勝った。
人間は死から逃れられない。そのとき悟った。
***
時間というものは全てを流しさってしまう。留めておこうという意思がなければ人の脳は段々過去の記憶を手放し、代わりに新しい情報が脳を埋めていく。
青木とよく一緒にいた男子たちは、青木が亡くなって居場所を失ったかのようにうろうろとしていた。けれど時というのは不思議なもので、そのような彼らの姿ももう見られなくなった。
青木がいない時間は当たり前のように過ぎていき、違和感は日常の中に溶けて消えていった。
けれどあたしの時間だけは違った。
「見ない」のと「見られない」のは全く違う。見なくてもいつのまにか感じとれるようになっていた青木の気配。笑い声。それらがいっさい消えた世界で、あたしは青木を忘れなかった。
青木。生きているよね? 灰になんかなってないよね?
あたしは何度も心で問いかけた。
現実じゃなくて嫌な夢を見ているのだと思った。
だから毎日に実感がなく、自分だけどこか違う次元で生きていて、周りが勝手に進んで行っているような妙な感覚を覚えた。
もともと浮いていたあたしは、ますます現実に溶け込めなくなっていた。抜け殻の身体が勝手に毎日を送る。
青木のいない世界なんてありえない。あってはならない。
そう思っているのに、今のあたしはどこかでそれを認めていて、意固地になって心だけ抵抗しているような状態なのかもしれない。自分でもよくわからなかった。
黒板に文字を刻む白墨の音をぼんやりと聞きながら、いつものように窓から見える空に目をやった。梅雨の晴れ間。雲が多いけれど久しぶりの晴れは少し嬉しい。
もう六月も半だ。
何の変哲もない日常。ただそこに青木が足りない。
あたしは呆けたように空を見続けた。そして、青木の笑顔は、梅雨晴れというよりかは春の晴れた空だよな、なんてふと思った。暖かい柔らかな春の快晴。
その瞬間、不意に視界がぼやけてきた。
嫌! 認めちゃ駄目! 違う!
けれど一度溢れ出した涙は、ノートに大きな染みを作った。ポタポタと静かに落ちる涙でノートがめちゃくちゃになる。
青木! 本当にどこにもいないの? 死んでしまったの?
青木が死んだというのなら、青木の一生はいったいなんだったんだろう。あまりにも短いその一生に青木は何を見い出せたのだろう。
ああ。もう駄目だ。あたしの心は青木の死を受け入れようとしている。
嫌だよ。青木。死んだなんて嘘だよ! なんであんなにいいやつがこんなに早く死ぬんだよ!
涙が止まらない。あたしはとうとう青木の死を実感してしまった。
――青木!!