冬になると、あっという間に受験シーズンが始まった。
就職希望のクラスにいるので、クラスの中で共通テストを受けに行くのもかなでだけだ。
共通テストを翌日に控えた日、陸から珍しく電話があった。
『なる? 忙しいところごめん。ちょっとだけ大丈夫?』
「うん、大丈夫だよ。もうテスト明日だし、じたばたしても仕方ないから」
『そっか。…………最近、ちょっと調子悪そうだけど、受験のせい?』
同じクラスにいるのに、陸がわざわざ電話という手段で、かなでに連絡を取った理由が分かった。
陸は察していたのだ。
かなでが、中学生の頃と同じように、ストレスで神経が過敏になっていることを。
そしてそれを、咲夜や蓮に知られたくない、と思っていることも。
「すごい、なんで分かったの?」
『……俺がこの間、卒業後に集まりたいって話をしたとき、一瞬なるが不安そうな顔をしてたから』
かなでの記憶にも強く残っている。
卒業したら忙しくなるけど、予定合わせてみんなで集まりたいな。と陸が言ったとき、かなでは思ってしまったのだ。
『みんな』の中に、かなでは入っているのだろうか、と。
きっと声はかけてもらえる。そう思いたい。
でも、いつも一緒にいる陸、咲夜、蓮、かなでの四人の中で、かなでだけが女なのだ。
たとえば誰かに嫉妬深い恋人ができたら?
陸はすでに注目選手なので、女の子と会わないように、なんて注意を呼びかけられるかもしれない。
スポーツ選手にとって、身に覚えのない恋愛のスキャンダルほど邪魔なものはないだろう。
かなでだけ、声がかからないかもしれない。
一度そんな考えが頭をよぎったら、もうダメだった。
嫌な考えばかりが頭をめぐる。
卒業後に集まるときも、同窓会も、結婚式も、かなでにだけ声がかからない。
他のみんなは仲良く交流しているのに、かなでだけが輪の外にいる。
そしてそれを、誰かのSNSの投稿で知る…………。
『なるは呼ばなくていいんじゃない?』
陸くんはそんなこと言わない。
『かなでを呼ぶと、陸くん陸くんってうるさいし、いいよ呼ばなくて』
咲夜がそんな風に思ってたらどうしよう。
『かなちゃんは京都だもんね。遠いし、声かけたら逆に気を遣わせちゃうんじゃない?』
蓮くん、そんな悲しいこと言わないで。
全部かなでの被害妄想だ。分かっているのに、止められない。
スマートフォンを握りしめたまま、何も言えなくなってしまったかなでに、陸が優しい声を紡いだ。
『ねえ、なる。受験終わるまで言わないでおこうと思ったんだけど、ちょっとだけ聞いて』
「………………やだ、こわい……」
ずっとなるのこと、うざかったんだ。
付きまとわれて迷惑だったんだよ。
やっと離れられてせいせいする。
もしかして俺のこと、そういう意味で好きだったの?
気持ち悪い。
「こわい…………っ、やだ…………」
陸はそんなことを言わない。
何十回、何百回言い聞かせても、かなでの頭は言うことを聞いてくれない。
助けて、陸くん。
そう思うのに、肝心の陸に嫌われているかもしれないと思っているのだから、助けを乞うことすらできない。
陸の話が何かも分からないのに、かなではぼろぼろと涙をこぼす。
やだ、こわい、と何度も繰り返していると、陸がふいに話を変えた。
『なる、今って家にいる?』
「う、ん…………」
『今から行っていい?』
え、と戸惑うかなでに構わず、電話口からばたばたと慌てるような音がする。
お守りを持っていくから、という言葉を最後に、電話が切れた。
ツーツーと鳴り響く音を聞きながら、かなでは呆然としていた。
外はもう暗い。
きっと今日も寒いのだろう。
そんなことを考えながら窓から外を眺めていると、自転車に乗った陸が現れた。
かなでは慌てて厚手のカーディガンを羽織り、家の外に出る。
「ごめん、前日に」
「う、ううん…………。私も、さっき……取り乱してごめんね」
「大丈夫。気にしてないよ」
陸はかなり急いできたのか、うっすら汗をかいている。
こんなに寒いのに、とかなでが身を縮めると、用件三分で済ませるから! と陸がポケットから何かを取り出す。
丁寧に四つ折りにされた、白い紙。
差し出されたそれを受け取って、かなでは首を傾げる。
「なあに、これ」
「受験終わってからしようと思ってた話の、ちょっとだけの欠片?」
話のちょっとだけの、欠片?
意味が分からずに、かなでは受け取った小さな紙を広げてみる。
白い紙に黒い字で、好きな人、と書かれている。
この字は陸のものではない。かなでのものでも、咲夜や蓮のものとも違う。
だからこそ意味が分からずに、再びこてんと首を傾げた。
「意味分かんないと思うけど、受験のお守りにして」
「えええ……どういうことなの」
「うーん。今言えるのは、俺はなるの味方だよ、ってことかな」
その瞬間、かなでの手の中にある小さな紙切れが、お守りへと変わった。
あの頃から何も変わっていない。
かなでにはやっぱり、陸の言葉が必要だ。
陸の言葉で世界が明るくなって、少しだけ世界を好きになれる。
さっきまで不安でたまらなかったはずなのに、陸が味方だよ、と言ってくれただけで、かなでは頑張れてしまう。
やっぱりどこまでも単純で、陸に依存している。
迷惑かもしれない。それでも、陸が好きだ。どうしようもなく、大好きだ。
かなでは大粒の涙をこぼしながら、陸にありがとう、と笑う。
お守りを優しく両手で包み込むと、陸がその上からそっと手を重ねる。
「明日と明後日? 頑張ってね」
「うん」
「受験が終わったら、話聞いてくれる?」
「…………それはこわい」
「うーん。たぶん、悪い話じゃないよ?」
陸がやわらかく笑ってそう言うので、かなでも小さく頷いた。
「…………受験が全部終わったら」
「うん、それでいいよ」
あたたかかった陸の手が離れ、寂しい気持ちに駆られる。
風邪ひいちゃうからもう入りな、と陸が心配してくれるので、かなでは家のドアに手をかける。
「陸くんありがとう。気をつけて帰ってね」
「ん。なるも、明日と明後日、気をつけてね」
応援してるから、という陸の言葉を胸に抱き、かなでは家に入った。
寒かったはずなのに、心だけはぽかぽかしている。
もらったお守りを再び見つめ、かなではそっと明日の荷物の中に入れた。
共通テスト二日間は、無事に終了した。
休み時間のたびにお守りを握りしめ、陸の言葉を思い出した。
俺はなるの味方だよ、と。
あんなに心強い言葉が他にあるだろうか。
おかげでかなでは、調子を崩すことなく、試験に集中できたのだった。
共通テストの後は、私立大学の受験があり、さらに二月の後半には国立大学前期試験が控えていた。
学校は自由登校期間になり、陸と会える回数はがくんと減った。
今までは休日でも学校に行って勉強していたのだが、受験までの体力を考慮して、なるべく家で勉強するようになったのだ。
第二志望、第三志望は無事に合格をもらえた。
第三志望の方は数学が苦手な範囲からの出題で、自己採点が思わしくなかったので、正直ホッとした。
第一志望校の試験も、前期試験から手応えがあった。
ただ合格発表の前に卒業式があるので、ひどく落ち着かない状態で式を迎えることになってしまったのだが、こればかりは仕方がないだろう。
卒業式当日、制服姿の友達とたくさん写真を撮った。
特に陸には、推しと撮れるの最後かもしれないから、と泣きついて、たくさん撮ってもらった。
またいつでも会えるよ、と陸は言ってくれるけれど、プロ野球選手と普通の大学生では生きる世界が違いすぎる。
分かっていたはずなのに、いざお別れのときが近づくと、涙が止まらなくてどうしようもなかった。
「なーる、大丈夫だって。少なくとも一回は会えるでしょ」
「うう…………一回じゃやだぁ、陸くんがいなきゃ生きていけないもんーっ!!」
陸離れをする、と決めていたはずなのに、寂しすぎて陸にしがみついたまま離れられない。
本当にこんな状態で、春から大学生になれるのか、不安でいっぱいだ。
しかも、大学ではひとりぼっち。知っている人のいない環境で、一から人間関係を構築しなければいけない。
不安と寂しさで泣き続けるかなでに、陸は眉を下げて笑った。
「じゃあ会うたびに毎回次の約束をしようか」
「…………え?」
「約束があれば、少しは不安も紛れるでしょ」
それは、これから先もかなでとの関係を続けてくれる、という宣言に聞こえた。
会うたびに。その響きが嬉しくて、かなではこくこくと何度も頷いた。
「じゃあ次は、なるの前期試験の結果が出たら、かな?」
「…………! うんっ! 絶対ね!」
「ん、約束」
陸が差し出してくれた小指に、かなでは自分の小指を絡める。
指切りげんまん、と歌っていると、先生たちに挨拶回りをしていた咲夜と蓮が戻ってきた。
「あはは、かなちゃん、卒業式でも全開だねぇ」
「全開? なにが?」
「りっくん大好きオーラかな?」
かなでは照れながら笑うが、咲夜は隣で大きなため息をこぼす。
「かなで、本当に四月から大丈夫か?」
「大丈夫! あのね、陸くんがね、会うたびに次の約束をしてくれるって!」
だから頑張れちゃう! と満面の笑みをこぼすかなでの後ろで、陸が少しだけ恥ずかしそうに頰を赤く染める。
陸と咲夜の目があった。ほんの少し困ったように笑う陸と、複雑そうな表情を浮かべる咲夜。
そんな二人に気がつき、かなではどうしたの? と覗き込む。
「ん? 咲夜と蓮も、頑張れって言おうとしてたところ」
「うん。りっくんも頑張ってね」
「そうだそうだ! 陸が一番頑張らないとやばいんだからな!」
「こら、咲夜! 陸くんはいつも頑張ってるんだから、追い込むようなこと言わないの!」
プロの世界に入れば、きっと学生の頃とは全く違う努力を求められるのだろう。
それでもかなでは知っている。
陸は、誰に言われなくても、一生懸命頑張れる人だ、と。
「陸くん! 咲夜! 蓮くん!」
かなでは三人の名前を呼び、笑いかける。
そして、一緒にいてくれてありがとうございました! と言って頭を下げた。
三人が驚いていることは伝わってきたが、どうしても伝えたかったのだ。
少し照れくさいので、なんてね、という言葉で誤魔化して、かなでは涙を堪える。
またいつでも会えばいいだろ、と咲夜がぶっきらぼうに言う。
何言ってんの、これからも仲良くしてよ、と蓮が笑う。
こちらこそありがとう、と陸がまっすぐな瞳で見つめてくる。
三人のことが、本当に大好きだった。
四人で過ごせた時間は、かなでにとっての宝物だ。
涙を誤魔化すように空を見上げる。
門出を祝うような、雲ひとつない快晴だった。
卒業式から約一週間。
ドキドキしながらも勉強は欠かすことなく、迎えた合格発表日。
発表時間にウェブサイトにアクセスし、泣きそうになりながら結果を照合する。
スマートフォンに記された、おめでとうございます、という文字に、かなでは数十秒固まっていた。
それから慌てて両親のところまで走り、外出中の姉には電話で報告する。
嬉しさと安堵の気持ちで胸がいっぱいになり、うまく呼吸ができない気がした。
それでも学校に連絡を入れ、お祝いの言葉をかけられると、かなではようやくこれが現実なのだと実感し始めた。
陸と咲夜と蓮、かなでの四人で連絡を取るために作ったメッセージアプリのグループ。そのトーク画面に、受かった! と一言報告すると、すぐに既読の文字がつく。
おめでとう、と三人からもお祝いの言葉をもらい、舞い上がるかなでの元に、一件のメッセージが届く。
それは、陸からだった。
『合格おめでとう。なるはすごく頑張ってたから、結果に繋がって本当によかった』
グループのメッセージでもお祝いしてくれたのに、個人のメッセージまで送ってきてくれるなんて、あまりにも優しすぎる。
感極まってスクリーンショットを撮ろうとすると、そのまま追加でメッセージが送られてくる。
『大事な話があるんだけど、聞いてくれる?』
かなではもちろん、と返信をして、お守りを取り出す。
好きな人、と書かれた四つ折りの紙。
陸曰く、受験が終わってからしようと思っていた話の、ちょっとだけの欠片。
全然意味は分からないが、悪い話ではないと思う、という陸の言葉を信じている。
予定を聞かれ、今日でも明日でもいつでも! と返信すると、陸は今日がいいと答えた。
急な予定になってしまったが、かなでは慌ててかわいい私服を引っ張り出して、出かけることにした。
かなでの家の近くまで陸が迎えに来てくれたので、一緒に電車に乗って移動する。
会ってすぐに合格記念に抱きついていい!? と訊ねると、陸はなにそれ、と笑いながらも頷いてくれた。
ぎゅーっと思い切り抱きついて、陸から元気をもらう。
頑張ったね、と背中をぽんぽんと叩いてくれたから、それだけで一年分くらいの元気が補充された気がした。
合格の知らせと合格記念ハグが相まって、かなでは上機嫌だった。
そもそも陸とのお出かけというだけでもかなでにとっては特別なのだ。
にこにこしながら「どこに向かってるの?」と訊ねると、「内緒」と言われてしまう。
「とは言ってもそんなにちゃんとしたところではないけど」
「ちゃんとした?」
「うん、デートスポットみたいな?」
陸からそんな単語が出てくると思っていなかったので、かなでの頰は赤く染まる。
そんなかなでを見て、真っ赤、と陸が笑う。でもその響きにはバカにしているような色は含まれていなくて、胸の奥がきゅん、と鳴いた。
デートスポットって言ったけど、冗談だよね?
かなでが心の中で呟くと、降車駅に着いたらしい。陸がかなでの手を取り、駅のホームへと降り立つ。
あまりにも自然に手をさらわれてしまったものだから、心臓がうるさくてたまらない。
「な、なんか今日の陸くん、いつもと違う……」
ときめきすぎて死んじゃいそう。
そんな言葉はギリギリ飲み込んで、かなでが訴えかけると、やけに大人っぽい顔で陸は笑った。
陸が連れてきてくれたのは、桜と菜の花がきれいなコントラストを演出している、花見スポットだった。
「桜、もう結構咲いてるね」
「わああ……! きれい……!!」
かなでがくるくると辺りを見回していると、転ばないように陸が手を引いてくれる。
見渡す限りの桜並木。
そして一面に広がる菜の花。
学校や公園にある桜はもちろん見たことがあるが、こうしてお花見に来るのは初めてだ。
桜並木からひらひらと舞う花びらも、風に揺れる緑も、太陽と同じくらい眩しい菜の花も、全てが絶景だった。
「すごいねぇ……! 私、お花見って初めて!」
「喜んでくれてよかった。なるって言ったら桜だな、と思って」
「え? 私、春生まれじゃないのに?」
かなでは九月生まれだ。
陸も毎年お祝いしてくれているので、誕生日は知っているはず。
どうして桜なんだろう、と首を傾げていると、文化祭のドレスだよ、と陸は笑った。
「あー! そっか! お花のドレス!」
陸は新緑をイメージしたタキシード姿だった。
かっこよかったなぁ、と思い出して笑っていると、かなでの髪についていた桜の花びらを陸が取ってくれる。
ドラマのワンシーンみたい、とかなでは心の中で呟いた。
陸が花びらを摘み上げるだけで、恋愛ドラマにできそうなくらい、絵になるのだ。
とくんとくん、と少し速くなり出した心臓の鼓動を聞きながら、かなではやわらかく笑う。
「文化祭、楽しかったよねぇ」
「なるは急な出番で大変そうだったけどね」
「うん、でも楽しい思い出の方が多いかな!」
文化祭の日。
お花のドレスを着て、タキシード姿の陸と並んで歩いた。
目の前に陸が跪いて、左手の薬指にキスをしてくれたのだ。あのときの陸は、いつもよりもどこか強い目をしていて、かなでは心臓が口から飛び出てしまいそうだった。
それから控え室に戻ったら、きれいだねと褒められて、でもいつものなるの笑顔が好き、と言ってくれた。あの言葉は、今でもかなでのお守りだ。
陸のずっと好きだった人、萌に会ったのも文化祭の日。
二人の距離感と、陸が見せる優しい笑顔を、羨ましいと思ったりもした。
陸にお説教もされた。
かなでの存在が陸を救っているのだ、と教えてくれた。
それから、とかなでは思い出して俯く。
これからもずっと友達でいてほしい、と、陸はそう言ったのだ。
「…………なる」
ふいに、陸の歩みが止まる。
せっかく大好きな人と一緒にいるのに、考えごとをしながら歩いてしまった。
かなでは慌ててなあに、と訊ねる。かなでの手を握る陸の手が、ぎゅっと少しだけ強くなった。
「中学のとき、なるに嘘はつかないよ、って約束したの、覚えてる?」
「うん。当たり前だよ」
「俺さ、なるに一個だけ、嘘をついたことがある」
突然の告白に、かなでは首を傾げる。
嘘ってなんだろう。
優しい陸のことだから、きっとかなでを傷つけるようなものではない。
背の高い陸を見上げ、次の言葉を待っていると、ふいに違う話に変わってしまう。
「お守り。あげたやつ、持ってる?」
「えっ? う、うん、持ち歩いてるけど……」
「貸して?」
話が読めずに困惑しながらも、陸の言う通り、もらったお守りを手渡す。
四つ折りのそれを器用に片手で開いた陸は、「これ、何だと思う?」とかなでに訊ねた。
好きな人と書かれたそれを眺め、かなでは首を傾げる。
「なんだっけ。大事な話の、欠片? みたいな……」
「まあ、そうなんだけど。……借り物競走の、お題なんだよ」
「………………えっ?」
体育祭の借り物競走。陸はお題を引いて、迷わずかなでを選んでくれた。
確かにあのとき陸は引いたお題を記念にもらっていたけれど、でも、犬系女子っていうお題だった、と。
かなでの中で線が繋がり、ええ! と声を上げる。
「犬系女子っていうのが嘘だったってこと!?」
「そう。嘘ついてごめん」
「え、全然大丈夫だよ! そんなのかわいい嘘じゃん!」
実際、犬系女子じゃなかったからといって、落ち込んだりはしていない。
それに、かなでの方がよほど重たくて汚ない嘘をついている。
笑うかなでに、陸が首を傾げる。
「なる、意味分かってる…………?」
その瞬間、花びらを巻き上げるように、強い風が二人の間を吹き抜けた。
陸はやわらかい声で、ゆっくりと語る。
「最初に意識したのは、文化祭のとき。ドレスを着たなるがあまりにも大人っぽくて、焦ってさ。でも、いつもの笑顔を見たらなんかすごい安心して、好きかもしれないって思ったんだ」
かなでは目をまたたかせながら、陸の話に耳を傾ける。
陸の声はしっかりと聞こえているのに、言葉の意味が分からない。
正確にいえば、分かっているけれど、ありえない、と頭が否定しているのだ。
「でもなるは、俺のことを推しだって言ってくれてるから。それならちゃんと、友達のままでいようと思った」
それから体育祭の借り物競走についても説明をしてくれる。
リレーの練習でかなでが泣いているのを見て、笑顔でいてほしいと思ったこと。
守りたい、と思ってくれたこと。
そんな状態で借り物競走に出て、好きな人という紙を引き当てしまったものだから、まっすぐかなでの元へ向かってしまったこと。
誤魔化すために、初めてかなでに嘘をついたこと。
喉がからからで、声が出ない。
きっと頰は真っ赤に染まっている。
それこそ、先ほど陸に指摘されたときよりも、もっとずっと。
何も言わないかなでに怒ることなく、陸は大丈夫? と優しく声をかけてくれる。
必死になって首を縦に振るけれど、本当は全然大丈夫じゃない。
胸がきゅうと締め付けられるし、ドキドキと心臓はうるさい。顔も熱くて、息もうまくできない。
なに、何が起こってるの。
だって陸くんには、好きな人がいて。
私のことは友達だと思っていて。
いつだってそばで励ましてくれるけど。
でも、やっぱりただの友達でしかなくて……。
陸が紡いだたくさんの言葉が、ゆっくりと時間をかけて、かなでの心に沁み込んでくる。
どうしよう。
顔が熱くて。ううん、そうじゃなくて。
泣いてしまいそう。
まだそうだと決まったわけではないのに。
はっきりと、その言葉をもらったわけではないのに。
かなでが空いた左手で顔を隠すように覆うと、陸の優しい手が、いじわるにそれをどかしてしまう。
「だ、め…………いま、泣きそう、だからっ……」
「うん。でもちゃんと顔を見て言いたいし」
「い、いじわる…………っ!」
「そうだよ、俺は結構意地悪だし、ヤキモチもやくし、独占欲も強いよ?」
がっかりした? と試すように訊ねるのは、ずるいと思う。
かなでがふるふると首を横に振ると、よかった、と陸はやわらかな笑みをこぼした。
「なるの、笑った顔が好き」
「…………っ!」
「でも泣いたり困ったりしてるところもかわいいと思う」
陸が何を言い出したのか分からなくて、かなでは口をはくはくと動かす。
しかし何ひとつ言葉にならない。
「俺、なるが好きだよ」
ずっと欲しかったその言葉は、かなでの鼓膜をやわらかくくすぐって、胸の奥に溶けていった。
ぎゅっと優しく握られた手が、少しだけ震えていることに気がついた。
陸ももしかしたら緊張をしているのかもしれない。
それはつまり、今の言葉が本当だ、ということで。
かなでは唇を噛んで、涙を堪える。
「…………俺の予想だと、なるも俺のこと、そういう意味で好きかなって思うんだけど…………違った?」
アーモンド型のきれいな薄茶色の目に、不安の色が入り混じる。
陸は首を傾げ、かなでの言葉を待っている。
いつからかは分からない。
でも陸は、気づいていたのだ。
陸くん大好き! 陸くんは私の推しだよ! というかなでの嘘に。
嘘に気づいた上で、許してくれると彼は言う。
むしろ、嘘だったら嬉しいな、と期待をしている。
こんなにも幸せなことがあっていいのだろうか。
かなではどうしようもない嘘つきで。
陸のそばにいるために、ずっと騙し続けてきたというのに。
「わ、たし…………陸くんの、そばにいたくて」
「うん」
「でも、これを言ったらそばにいられないから、ずっと推しだって嘘ついてて」
「うん」
「でも本当はね……、ずっと、言いたかったの…………!」
堪えきれなくなった涙が、頰を伝う。
陸の指先がそれを拭ってくれたのに、一粒、また一粒とぽろぽろこぼれ落ちて、涙は止まってくれない。
前に見たことがある。
陸が好きな人を想って話すときの、とても優しい表情。
ずっと向けてほしかったその表情で、陸がかなでに呼びかける。
「なに? なるの言いたかった話、俺は聞きたい」
甘やかな声が、またかなでの涙を誘った。
「…………っすき、大好き、陸くんのこと、大好きっ!!」
「うん」
「世界でいちばん、好きなの! 推しじゃなくて! 大好きなのっ……!」
叫ぶように口にした言葉は、陸の服に飲み込まれてしまった。
抱きしめられたのだ、と気づくのに、数秒かかった。
ぼろぼろとこぼれる涙は、どんどん陸の胸元を濡らしていく。
「ねえ、なる」
しばらくの間、泣いているかなでを抱きしめていた陸は、耳元でかなでの名前を呼ぶ。
「オフシーズンになったら京都まで会いに行くから、それまで待っててくれる?」
「…………っ、次の、約束?」
「うん。もちろん、電話もするし、メッセージも送る」
「私、陸くんのこと、まだ好きでいていいの……?」
おそるおそる訊ねた言葉に、当たり前じゃんと陸が笑う。
好きでいていい。この恋を、終わりにしなくていい。
そのことが、どれほど嬉しいか。
きっと陸は知らないだろう。
「遠距離になっちゃうし、シーズン中はろくに会えないと思う」
「…………陸くん」
「それでも俺は、なるに彼女になってほしい。なるのこと、ひとりじめしたい」
ひとりじめ。
重たいはずの言葉が、かなでの耳にはどうしようもなく魅力的に聞こえた。
自分で涙を拭い、かなでは笑う。
「私も陸くんのこと、ひとりじめしたい。陸くんの、彼女になりたいよ」
「…………よかった、ありがとう」
安堵のため息をこぼした陸に、いつか言えるだろうか。
かなでが六年間積み重ねてきた、たくさんの大好きを。
少し重たいかもしれないけれど、受け入れてもらえる日がくるといい。
それがどれくらい先の未来かは、まだ分からないけれど。
陸が好きだと言ってくれたとびきりの笑顔で、かなでは陸を呼ぶ。
「陸くん!」
「ん? どうしたの?」
優しい笑顔で応えてくれる陸は、今日からかなでの彼氏だ。
「あのね! 私、今日も明日も明後日も、これから先ずーっと! 陸くんのことが大好きだよ……!」
「俺だって負けないよ。なるのこと大好きって言い続けるから、覚悟しておいてね」
そんなの、かなでにとっては、ご褒美でしかない。
陸の言う通り、しばらくは寂しい思いをするかもしれない。
それでもかなでは、今日たくさんもらった陸の気持ちを糧に、頑張れる。そんな気がしていた。
退屈な入学式を乗り越えて、かなでは無事に大学生の仲間入りをした。
毎日が朝から忙しい。
大学には私服で通うので、大人っぽくてかわいい服を休み中に買い揃えた。
いろんな組み合わせを試してみて、今日は空色のシャツに白いフレアスカートを合わせてみる。
ハイウエストでスカートを履き、シャツも短めに見えるように、裾はシュシュを使ってアレンジする。
メイクは蓮に以前から教えてもらっていた通りに実践した。
ヘアアレンジは苦手なので、ハーフアップに桜の髪飾りをつけるだけの簡単なもの。
鏡の中に映るかなでは、高校生のときよりも少しだけ大人びて見える。
これならばきっと、高校生に間違えられることもないだろう。
大学ではすでに何人か話ができる相手ができた。
相変わらず人目のこわいかなでは、自分から話しかけることはできない。
でも周りの優しい人が声をかけてくれるおかげで、無事に新生活に馴染み始めている。
不安になることもたくさんある。
それでも、そんなときは陸の言葉を思い出すのだ。
『俺はなるの味方だよ』
『なるの、笑った顔が好き』
今は近くにはいないけれど、陸にもらったたくさんのお守りの言葉は、今日もかなでの心を支えてくれている。
「かなで! 一緒にサークル見学に行かない?」
「行きたい! いいの、一緒に行って?」
「当たり前でしょ。あ、山下! 高橋! あんたたちも一緒に行く?」
「おー行く」
「どこ見に行く?」
同じ学部の男の子二人も合流して、どのサークルを見学に行くか、討論が始まる。
成海はどこがいい? と訊かれて、かなでは首を傾げる。
「うーん、野球、に詳しくなれるところとか……?」
「なにそれ。野球好きなの?」
「全然分かんない」
かなでがへらりと笑うと、男子の一人がなぜか手を挙げる。
「はい! 俺、高校までがっつり野球やってた! 彼氏候補にどう!?」
ぐいと顔を覗き込まれて、かなでは眉を下げる。
別に、野球をやっている人が好きなわけではなくて。
大好きな人が、たまたま野球をやっていただけなのだが。
陸の笑顔を思い出し、かなでは笑う。
「ダメ! 私、もう心に決めた人がいるから!」
振られてるじゃん、と笑い声が上がる中、かなでのポケットでスマートフォンが震える。
陸からのメッセージだった。
『サークル見学楽しそうだね。変な男に絡まれないように気をつけてね』
離れていても、心配してくれている。
かなでは陸を安心させるためのメッセージを返信する。
『大丈夫! 私ね、陸くんしか見えないから!』
今日も明日も明後日も。
かなでが大好きなのは、ずっと変わらず、陸だけなのだから。
メッセージを見た陸が、かなでの笑顔を思い出してくれるといい。
そんなことを考えながら、同期たちに置いていかれないよう、かなでは三人の背中を追いかけるのだった。
おわり。