嘘つきわんこは愛が重い


 七回までは投手戦が続いた。
 蓮が心配していた通り、陸は少し調子が悪いようで、応援席からは心配の声が上がっている。
 普段の陸は狙い球を絞らせないよう、正確なコントロールと緩急で揺さぶり、速球で仕留めるスタイルらしい。
 よく分からずにかなでが首を傾げていると、才能と技術のごり押しで空振りを取るってことだよ、と蓮が説明してくれた。
 しかし今日の陸はいつもの投球ができないようで、打たせて取るピッチングスタイルに変えているようだ。

 野球は、ストライクを三つ取れば、一つアウトがもらえる。そして、スリーアウトで攻守が交代する。

 しかしピッチャーは必ずしもストライクを取りにいく必要はない。
 わざと打者にボールを高く打ち上げさせ、野手がノーバウンドでボールを取っても同じアウト一つ。
 他にも打者が塁を踏む前に送球すればアウトは取れるのだ。
 当てることはできるけれど、打ちづらいボール。そんな投球をすることで、打者にボールを打たせて、アウトを取っているようだった。

 七回裏、ようやくスコアボードが動いた。
 先取点は東星学園。三番バッターが進塁してから四番、五番が大きなヒットを放ち、二得点。
 かなでと蓮は手を取り合って喜んだ。

 八回表、九回表の陸は、一味違った。
 それまでの不調が嘘のように、気持ちがいいほどきれいに三振をとっていく。
 二点リードした状態で、九回表、ツーアウト。
 あと一つアウトをとれば、優勝。

 大きく心臓が鳴り響く。
 両校の応援がヒートアップし、鼓膜が破れてしまいそうだ。
 それまでかなでは、ほとんど声を出していなかった。人よりも大きな声を出すのは苦手だし、どうせ陸や咲夜には届かないから、と。
 でもかなでもこのときばかりは、必死で声を上げていた。

「陸くん! 咲夜ー! 頑張ってー!!」

 届くはずはない。それでも、叫ばずにはいられなかったのだ。

 勝利を目前に立ちはだかるのは、相手高校の四番バッターだった。
 キャッチャーのサインに、陸が頷く。
 そして振りかぶった一球目。身体近くに投げられたボールに、バッターは手が出ない。
 二球目。フルスイングしたバットを嘲笑うかのように、ボールはキャッチのミットにおさまる。
 これで、ツーアウト、ツーストライク。つまり、あと一つストライクを取れば、試合が決まる。

「陸くんーっ!! 頑張れーっ!!」

 周りの応援に負けないように、かなでも必死に叫ぶ。
 大きく振りかぶり、陸が投げたボールは、キャッチャーのミットを小気味よく鳴らした。
 バットは空を切り、ストライクバッターアウト! と審判のよく通る声が響いた。

 会場が、歓声に揺れた。
 かなでは目からぼろぼろと大粒の涙が流れ、ひどくかすれた声でおめでとうー、と呟く。
 隣で観戦していた蓮も涙を必死に堪えているようだった。咲夜に借りたキャップを蓮の頭にぽすんと乗せると、蓮は俯いてひくっと喉を鳴らした。

 この日、高校球児の夏が終わった。

 試合が終わっても、しばらくの間は泣き続けていた。スタンド席で応援していた東星学園の生徒たちは、みんな同じように泣いたりはしゃいだりしている。
 ようやく会場の興奮が落ち着いてきた頃、引率の教師陣が生徒たちに呼びかけ、バスへと移動した。

 生徒たちが乗りこんでしばらくしても、バスは出発しなかった。
 甲子園優勝という快挙を成し遂げたので、理事長や校長だけでなく、教師たちも忙しいのかもしれない。

 会場の熱気に当てられながらの応援、それに勝利への感動で号泣したせいか、かなでは疲れ切っていて、窓に寄りかかりながらうとうとしていた。
 とん、と隣に座る蓮が肩を叩き、かなでは目を覚ます。
 どうしたの? と訊ねると、蓮は嬉しそうに笑いながら窓の外を指差した。

 そこには、試合に出場していたメンバー、ベンチで準備をしていた部員、それからスタンドで応援をしていた者も含め、おそらく全ての野球部員が整列していた。
 バスの中が騒がしくなり、みんな慌てて窓を開ける。かなでも周りに倣って窓を開けると、爽やかな風が髪を揺らした。

「本日は暑い中、応援ありがとうございましたっ!」

 部長らしき人がキャップをとり、大きな声でお礼の言葉を口にする。
 部員たちがそれに続き、ありがとうございました! と声を揃え、全員が頭を下げた。

 停車しているたくさんのバスから拍手とお祝いの言葉が飛び交い、野球部員たちは照れたように笑う。
 甲子園優勝で、インタビューなどもあったはずだ。きっと慌ただしかっただろう。
 それでも、応援をしてくれた人たちに直接お礼が言いたい、と言って、合間を縫って駆けつけて来てくれたのかもしれない。

 かっこいいなぁ、野球部。

 かなでがそんなことを考えながら眺めていると、陸と咲夜が二人で何やらひそひそ話している。
 二人はたくさん並ぶバスを一つ一つ見て回り、かなでたちの乗るバスの前で立ち止まった。

「さっくん、りっくん、お疲れ。優勝おめでとう!」
「おー! 蓮わざわざありがとな!」
「なるも応援ありがとね」
「うん! 二人ともすっごくかっこよかったよ!」

 笑いながら伝えた素直な感想に、陸と咲夜は顔を見合わせて笑った。
 そんな反応をされるとは思ってもみなかったので、かなでは蓮の方を振り返り、「私、変なこと言った?」と訊ねる。
 言ってないよ、と答えながらも、蓮もどこか楽しそうに笑っていた。

「いや? 甲子園で優勝しても、かなではいつも通りだなって話!」
「ん? え、ダメだった?」
「ダメじゃないよ。なるはそのままでいいよ」

 陸がそう言ってやわらかく笑うので、かなでもつられて笑顔になった。
 それからふいに思い出して、咲夜に借りていた帽子を窓から乗り出して返却する。

「帽子! ありがとね!」
「おー。使った?」
「ちょっと借りた! それ、前に使ってたやつなのに、よく持ってきてたね」

 最初に受け取ったときは、かなでのせいで咲夜の帽子がなくなるのでは、と心配した。
 しかしよく思い返してみれば、かなでが借りた帽子は、中学生のときに咲夜が使っていたものだ。
 その証拠に、帽子のつばの裏側に、かなでの字でメッセージが書かれている。
 さくやがんばれ! と平仮名で書かれたそれは、確か咲夜が中学のときに所属していたチームで、初めてレギュラーをとったときに書いたものだ。

 懐かしいものを持ってるな、とかなでは感心した。
 帽子を受け取った咲夜は、くるくると指でそれを回しながら、お守りみたいなもんだよ、と目を逸らして呟いた。

「そろそろ集合みたいだから。蓮もなるも、本当にありがとね。気をつけて帰って」
「疲れただろうからバスで寝て帰れよー」
「陸くんと咲夜こそ、ゆっくり休んでね!」
「二人とも本当におめでとう!」

 最後に言葉を交わし、陸と咲夜は野球部の輪の中に戻っていく。
 野球部に見送られながら、学園のバスは発進した。

 夏休みが明けると、ほとんどの生徒は部活を引退し、学校経由で就職先を決め始めた。
 名のある私立高校で、OBも多いため、就職活動にはかなり有利らしい。
 クラスメイトたちの進路が続々と決まる中、かなでは相変わらず受験勉強に苦戦していた。
 それでも最新の模試では、第一志望がB判定まで上がり、ギリギリ合格圏内といったところだろうか。

 夏休み中と違うところは、授業があるおかげで、陸と会えることだ。
 しかも部活動を引退して、前よりも一緒にいられる時間が長くなっている。
 陸はプロ志望なので、引退しても練習は続けているが、自主練習の範囲なので、時間に融通が効くのだ。

 そして部活を引退したことにより、陸の元にスマートフォンが返された。
 あまりしつこいと嫌われてしまうかもしれないので、どうしても元気が欲しいときだけ、メッセージを送る。
 勉強が思うように進まなかったり、受験への不安で心が折れそうなときだ。
 陸は返事が早い方ではなかったが、それでも必ず返信をくれた。
 他の人から見たら、とても些細なことかもしれない。
 でもかなでは、陸のおかげで勉強を頑張ることができているのだった。

 勉強もそこそこ好調。受験まで一直線に頑張りたいかなでに、大嫌いな行事が待ち構えていた。
 十月の上旬に開催される、体育祭だ。

 陸と同じく部活を引退した咲夜が、体育祭の実行委員として指揮をとる。
 就職希望のクラスは、スポーツ推薦入学者が多いため、体育祭へのモチベーションもかなり高い。
 全員参加の競技もあるが、個人競技が多い。
 スポーツ推薦で入学しているような生徒は、総じて運動神経がいいので、出場競技の取り合いになっている。

 運動が苦手なかなでには、とてもありがたい話である。
 できれば全員強制参加の競技だけで済ませたい。

「じゃあラスト。クラス対抗リレー、男女各三人。出たいやつー」

 咲夜が教室に呼びかけると、男子の手がたくさん挙がる。
 その中に蓮の手がなかったので、かなでは蓮の肩をちょこんとつつく。

「ん? かなちゃんどうしたの?」
「うーん。蓮くんはリレー、出ないのかなって」
「さすがにリレーはねぇ……」

 蓮が苦笑して、手を挙げているクラスメイトたちを見やる。
 よく見れば、各部活のエース級ばかりが出たいと名乗り出ているのだ。
 蓮はかなりスポーツができるタイプだが、さすがにこのメンバーを見れば尻込みするのも分かる気がした。

 男子は立候補者多数のため、百メートル走のタイムが速い順に選出された。
 そして女子のリレー選手を三人、という段階になり、かなでは違和感に気がついた。

 先ほどまではどの競技でもたくさん立候補があったのに、クラス対抗リレーだけはなぜか、女子の手が挙がらない。
 一番近くに座っていたスポーツが得意な菜穂に、かなでは思わず声をかける。

「菜穂ちゃん! なんで急にみんな静かになっちゃったの?」
「いやー。クラス対抗リレーって、男子も一緒じゃん?」
「うん。それがどうかしたの?」
「どんなに頑張っても女子は男子に敵わないからさ」

 ガチなクラスほど男子に責められるらしいよ、と聞いて、かなでは青くなる。
 それは運動が得意な女子でも、確かにためらってしまうかもしれない。
 せっかくの学校行事なんだから、平和に楽しめたらいいのに。
 かなではそう思うけれど、勝敗にこだわる人がいるのも当然のことだ。

 女子の立候補がなかったため、じゃんけんで決めることになった。
 クラスの女子全員参加のじゃんけん大会。
 かなでや、運動の苦手な女子だけでなく、運動神経抜群の子も、かなり必死そうに見える。
 みんな相当リレーに出たくないらしい。
 だからといって、こればかりはかなでも譲れない。
 壮絶なじゃんけん大会の結果は。

「ま、待って…………! 本当に無理だよ! 負けちゃうよ!」

 じゃんけんに負けたかなでは、リレーの選手になってしまった。
 しかも運の悪いことに、かなで以外の女子二人はスポーツ推薦組だ。
 足が遅いのはかなでだけ。公開処刑にもほどがある。

 半泣きで無理だと訴えるけれど、じゃんけんの結果が覆るはずもない。
 諦めろかなで、と頭をぽんと叩かれて、かなでは咲夜を睨みつける。

「ねぎちゃんは足が速いからそんな簡単に言えるんだよ!」
「まあ速いけど」
「む、むかつくー!!」

 かなでがごねていると、体育祭実行委員の咲夜が困ってしまう。
 そのことはかなでにも分かっているけれど、泣いてしまいたいくらいには嫌だ。
 説得が面倒になったらしい咲夜は、最終手段の陸を引っ張り出す。

「まあまあ。なる、一緒に頑張ろうよ。俺と咲夜がフォローするからさ」
「うーーー。本当に遅いよ? 怒らない?」
「怒るわけないじゃん」

 大丈夫だよ、という陸の言葉を信じて、かなではほとんど泣きかけの状態で頷いた。

 リレーの練習は地獄のようだった。

 サッカー部のエースの透が第一走者。
 クラスで二番目に足の速い透が、最初に他のクラスとの差をつける。
 二番目は女子の代表で一番速い雪子。
 三番目が元テニス部の菜穂。
 四番目がかなで。
 五番目は野球部エースの陸。
 アンカーが、クラスで最も足の速い咲夜だ。

 かなでが作ってしまうであろう遅れを、陸と咲夜に取り戻してもらう作戦である。
 迷惑なんてかけたくないのに、どう見てもかなでだけが遅い。
 そして予想通り、練習が始まると明らかにかなでは足を引っ張っていた。
 バトンの受け渡しは下手くそ、そして何より足が遅い。

 練習が始まって一週間が経つ頃。
 ついに透の堪忍袋の緒が切れた。

「成海おまえさぁ、いい加減にしろよ! 足は遅いし体力もねえしバトンは落とすし転ぶし! 何だったらできるんだよ逆に!!」

 透が怒るのも無理はない。

 かなでなりに一生懸命走っているが、焦ると転んでしまう。急がなきゃ、と思うとバトンを取り損ねてしまうこともある。
 あまりにもかなでの足が遅いから、みんなは練習に付き合ってくれているのに、肝心のかなでが一番にへとへとになってしまう。
 そのたびに練習が中断されて、何度も同じことを注意される。
 慣れない運動で足はぷるぷる震えているが、それでも必死にやっている。
 でも、結果に繋がっていないのだから、透からすれば怒りたくもなるだろう。

 悪いのは自分だ。
 そう分かっているのに、透に怒鳴られて、涙が止まらなくなってしまう。

「ご、ごめんなさい……」
「ごめんって言うのは簡単だよな」
「ちょっと透! 言い過ぎ!」

 菜穂が間に入って庇ってくれるが、透は止まらない。

「だってどう見ても成海が足を引っ張ってるだろ! おまえら勝ちたくねえの!?」
「勝ちたいけど! だからってかなでを責めるのは違うでしょ!」

 大粒の涙をこぼしながら、かなでは必死に謝る。
 しかし、怒りに火がついた透には逆効果なようで、しゃがみ込んでいるかなでの腕をぐいと引っ張った。

「泣いて謝るくらいなら練習しろよ!」
「い、いた……!」
「何してんだよ」

 透に掴まれた腕を解放してくれたのは、咲夜だった。
 水分補給に行っていた陸と咲夜が戻ってきたのだ。
 涙をこぼすかなでに、陸がタオルを差し出してくれる。
 そのタオルに顔を埋めて泣いていると、咲夜の怒りに満ちた声が低く響いた。

「遅いから無理だってこいつは散々言ってただろ。それでもじゃんけんで決まったんだから、その分俺らがカバーすればいいだけの話だろ」

 怒られていたことも、泣いてしまったことも恥ずかしい。
 怒鳴られたのはこわかったけれど、透が怒った原因はかなでにある。
 かなでが悪い。そんなことは分かっている。
 それでも、咲夜が庇ってくれたことに、再び涙が込み上げてきてしまう。

「俺より透の方が速いから、俺も強くは言えないけどさ。俺も咲夜の言う通りだと思うよ」

 陸もフォローの言葉を口にしてくれる。
 ぐす、と鼻を鳴らして、おそるおそるタオルから少しだけ顔を上げる。

 咲夜は透の腕を掴んだまま、見たことのないほどこわい顔で睨みつけている。
 陸はかなでを背に隠すように間に入ってくれていて、表情は確認できなかった。
 目の前に立つ陸のジャージの裾をきゅっと握ると、陸が少しだけ振り返り、優しく笑ってくれた。

「かなでが他の女子より三秒遅いとする」
「は?」
「おまえと陸が一秒ずつ、俺が二秒。他のやつより速く走れば解決するだろ」

 咲夜の言葉に、透が息を飲んだのが分かった。
 言っていることは無茶苦茶だ。
 リレーの選手がみんな同じくらいの足の速さなわけもない。
 単純に計算できる問題ではないのに。

「いけるよ。透は速いし、俺も頑張るし」
「一秒だぞ? 本当にいけるのかよ」
「自分のタイムを一秒縮めるんじゃなくて、他の人より一秒速く走るだけでしょ?」

 簡単だよ、とでも言い出しそうな口調で、陸が軽く言ってのける。
 陸に気圧されたのか、透が黙り込む。
 かなでは陸のジャージの裾を握ったまま、涙目でそのやりとりを見つめていた。

「まあ、おまえが自信ないって言うなら? 俺がその分速く走ってやるよ」
「そんなこと言ってねえだろ! やればいいんだろ!」
「はいはい。じゃあ解決な。とりあえずかなでは、陸にバトンを繋ぐことだけ考えてればいいから」

 分かった? と咲夜に頭をバトンではたかれる。少し痛かったけれど、庇ってもらったのが分かっているので、かなでは素直に頷いた。
 心臓がとくんとくんとやけに速く鼓動している気がした。

 体育祭は残念ながら快晴だった。
 いっそ雨が降って延期か中止になってくれれば、と思っていただけに、かなでは目が覚めて一番に大きなため息をこぼしたのだった。
 それでもサボるわけにはいかないので、いつも通り登校すると、教室の中はもう騒がしかった。
 体育祭はクラスTシャツを着て、頭にはハチマキを巻かなければいけない。
 しかし年頃の女子たちが素直にハチマキなんて着けるはずもない。ほとんどの女子がハチマキをリボンのようにして、ヘアセットをしている。

 かなでもオレンジのクラスTシャツに着替えた後、蓮に髪をセットしてもらった。
 ポニーテールに編み込みを混ぜた、かわいいけれど動きやすい髪型だ。
 最後にみんなと同じようにハチマキをリボン代わりにしてもらうと、憂鬱だった体育祭も、少しだけ明るい気持ちで臨める気がした。

 お揃いのクラスTシャツを着た陸に、いつものように挨拶代わりにくっついた。
 陸はかなでを見て、やわらかく笑った。

「あれ、なるかわいいね」
「えっ……! あ、か、髪型? 蓮くんにやってもらったの!」
「さすが蓮。器用だなぁ」

 まさか陸に褒めてもらえると思わなかったので、かなでの胸の奥がきゅんと鳴く。
 かわいい、なんて。いつもは言わないのに。
 体育祭前に、貴重なお守りをもらってしまった。
 かなではクラスTシャツの裾をぎゅっと握り、頑張るぞ、と気合いを入れた。

 体育祭が始まると、必死に応援している間に時間は過ぎていった。
 学年別徒競走、障害物競争や綱引き、球入れが終わり、午前のメイン種目、クラス対抗リレーの時間がやってきた。
 待機場所で顔を合わせたリレーメンバーに、私頑張るからね! と宣言する。
 練習中、さんざんかなでに腹を立てていた透が、吹き出して笑う。

「いや、成海は気合い入れすぎると転びそうだから、ほどほどの方がいいんじゃね?」
「あー…………なる、転ばないようにね。怪我したら大変だから」
「陸くんまで!?」

 心配そうな顔で眉を下げて笑う陸に、かなでは慌てて声を上げる。

「今日は絶対に転ばないよ!」

 だってバトンを陸に繋げば、絶対に陸と咲夜がフォローをしてくれる。
 頼り切ってしまって申し訳ないと思う。
 でも二人のことを信じているから。
 かなでが笑ってみせると、リレーメンバー全員に頭をぽんと叩かれる。

「かなでには負けてられないよね」
「本当に。あたしも頑張らないと!」
「ま、転ぶなよ!」
「なる、バトン待ってるからね」
「…………俺が何とかしてやるから、ちゃんと回せよ」

 練習は辛かったけれど、本番になれば、もう腹を括るしかないのだ。

 スタート位置に待機し、うるさく鼓動する心臓の音を聞きながら、かなでは唇を噛んだ。
 スタートの合図と共に各クラスの一番手が一斉に走り出す。
 先頭争いをしているのは、サッカー部のエースである透と、陸上部の短距離で表彰をされていた男子だった。
 二人とそれに続く後ろの選手は少し差が開いている。

 接戦のまま、二番手の雪子にバトンが渡った。
 男女六人の順番はクラスによって違うので、男子と女子が一緒に走ることもある。
 雪子とほとんど同時にバトンが渡った相手は男子生徒だったため、さすがに少し離されてしまった。
 それでも必死に走った雪子は、二位をキープしたまま菜穂にバトンを繋いだ。
 少しずつ後続が追いついてきて、菜穂は二人に抜かれてしまう。

 苦しそうな顔の菜穂からバトンをしっかりと受け取り、かなでは走り出す。
 バトンは落とさなかった。あとは転ばずに走って、陸に繋げる。
 各クラスの代表が集まっているだけあって、選手は速い人ばかりだ。
 かなでが必死に足を動かしても、どんどん抜かれていってしまう。
 喉も胸も痛くなり、足はもつれそう。それでもかなでは、転ばずに走り切った。

「陸くん…………っ!」

 叫びながら陸にオレンジのバトンを手渡す。
 気のせいだろうか。陸は、やわらかく笑っていた気がした。
 バトンを受け取ってすぐにスピードを上げ、一人、また一人と抜いていく。
 かなでは後ろから二番目まで順位を落としてしまっていたのに、あっという間に上位に食い込んだ。
 前に三人が走っている状態で、アンカーの咲夜にバトンが渡る。

「頑張れー! 咲夜ー!」

 まだ呼吸は整っていないけれど、かなでも必死で応援の声を上げる。
 陸のことをすごく速いと思っていたけれど、咲夜はそれ以上だった。
 アンカーに陸上部を選んでいるクラスが多いなか、野球部の咲夜が、陸上部を抜いていく。
 一人、二人、と抜いて、最後の一人を射程圏内に捉えた。
 ずっと先頭を走っていた男子に咲夜の身体が並び、そして。

 大歓声が上がった。
 ゴールテープを切ったのは、三人抜きをして一位を勝ち取った咲夜だ。
 クラスのリレーメンバーが咲夜の元に駆け寄るなか、かなでは恥ずかしいことに動けなかった。
 集まったメンバーの中にかなでがいないことに気づいたのだろう。へたり込んだまま動かないかなでの元に、咲夜が心配してやって来てくれる。

「どうした? 大丈夫か?」
「あ、はは………。咲夜かっこよかったねぇ。なんか気が抜けたら立てなくなっちゃった…………」
「体力ねえなぁ、かなでは」

 そう言ってかなでを当たり前のように背負おうとするので、驚いて身を引いてしまう。

「や、無理でしょ! 重いよ、私!?」
「大丈夫だって。それにいつまでも座り込んでたら邪魔だろ」
「それはそうかも……」

 午前の競技は全て終わったが、グラウンドの真ん中でいつまでもへたり込んでいるのは恥ずかしい。
 おんぶをされることにも恥じらいはあるが、相手は幼馴染の咲夜だ。他の人よりはずっと頼りやすい。

「……じゃあお願いします」
「ん。ほら、自分で乗れよ」

 背中を向けて屈む咲夜に、おずおずと身を任せる。
 持ち上がらないのではないか、と心配していたが、咲夜はすんなりかなでを背負って歩き出した。

「あれ、どうしたの、なる。怪我でもした?」
「ちがうの……リレーの結果に安心したら、腰が抜けちゃったの……」
「あはは。かなちゃんお疲れ」

 お弁当を広げる陸と蓮の元まで連れて来てもらい、かなではようやく咲夜の背中からおろされた。
 やはり重かったのだろうか。咲夜はそっぽ向いたまま、かなでの方を見ようとしない。
 ごめんね、と何度も謝りながら、咲夜のTシャツの裾をぎゅっと握ると、咲夜は大きなため息をこぼした。

「怒ってねえから! かなでも早くメシ食え!」
「咲夜は食べないの?」
「食うけど、まだいい」

 かなでの方を見ないまま、財布を持って咲夜はどこかへ行ってしまった。
 怒っていないと言っていたけれど、どう見ても怒っていた。
 おんぶをしてもらっている間は、恥ずかしくて背中に顔を埋めていたので、あまり会話はしていない。
 気に障ることを言ってしまったとしたならば、おんぶの前だろうか。
 眉を下げてかなでが考えていると、陸が笑いながら大丈夫だよ、と言ってくれる。

「咲夜は本当に怒ってないと思うよ」
「そうだねぇ。どっちかと言うと、照れてたね、あれは」
「えっ? ああ、リレーを褒めたからってこと?」

 怒っていないならよかった。
 安堵してかなでもお弁当を広げると、陸と蓮が顔を見合わせる。
 それから二人同時に笑い出した。

「えっなになに、どうしたの?」
「い、いや…………咲夜は大変だなぁ、と思って」
「さっくんの道は険しいねー」

 よく分からないが、何やら咲夜は苦労しているらしい。
 陸と蓮は咲夜の事情を知っていて面白がっているが、かなではその内容を知らない。
 男の子同士でしか話せないこともあるのかな、と少しだけ寂しい気持ちになった。
 でもかなでだって陸や咲夜、蓮に話していないことがあるのだから、お互い様かもしれない。

「咲夜もいろいろ大変なんだね……」

 しみじみと呟いたかなでの言葉に、陸と蓮が再び吹き出したのは、言うまでもない。

 体育祭も午後に差し掛かれば、楽しくなってくる。
 理由はとても単純で、かなでの出場競技は全て午前中に固まっていたからだ。
 あとは応援をしながら見ているだけ。
 友達の出番があるたびに声を上げて応援し、午前中とは打って変わって、かなでは体育祭を満喫していた。

「あ! 蓮くんおかえりー! 応援合戦かっこよかったよー!」
「そう? ありがとう」
「動画撮ったからあとで送るね」

 クラス対抗応援合戦。
 応援の方法は自由で、歌を披露するクラスや、ダンス、チアリーダーが出てきたクラスもあった。

 三年七組は、男子総出の学ラン応援団。
 嫌がる男子も多かったが、クラスに気の強い女子が多いせいか、女子の意見が採用されたのだ。
 学ランを着て、応援団長の掛け声のもと、空手の型のようなものを披露していた。
 最初は乗り気でなかった男子たちも、やると決まれば腹を括り、勝ち点を取りにいったのだ。
 かなでの視線は陸に釘付けだったが、男子全員が映るように動画を撮ったので、許してほしい。

「次ってなんだっけ。りっくんとさっくんが学ランのまま走っていったけど」
「んーと…………借り物競走だって」

 あの二人、ほとんどの種目に出てるね、とかなでは笑う。
 陸と咲夜は、部活動を引退してからも自主練習のために身体を動かしているが、どうやらそれだけでは動き足りないらしい。
 体育祭の練習も、本番である今日も、やけに楽しそうだ。

 ご機嫌な陸の姿が見られて、かなでも幸せいっぱいである。
 写真や動画をたくさん撮ったので、勉強に行き詰まったときに見返そうとかなでは思った。

 借り物競走が始まった。
 男女混合、学年もクラスもごちゃ混ぜの種目だ。
 毎年高確率で無理難題が紛れ込んでいるので、借り物が見つからずに走り回る生徒を見るのも名物になっている。
 かなでも一年生のときに出場したのだが、吹奏楽部員の上履き、というお題を引いてしまい、ひどく慌てたのを思い出す。

 あちこちでお題のものを探す声がする。
 「黄色いパンツ履いてる人いない!?」なんていう声も聞こえてきたので、かなでは思わず笑ってしまった。
 仮に黄色いパンツをたまたま履いていたとしても、クラスメイトや好きな人にパンツの色を知られるのは恥ずかしい。
 あれはたぶん誰も名乗り出ないだろうな、と見守っていると、蓮を呼ぶ大きな声が響いた。

「蓮! ちょっと来て!」

 咲夜だった。
 蓮が目を丸くし、俺? と首を傾げると、咲夜は応援席の方に乗り込んできて蓮の腕を引いた。

「わ! いってらっしゃい!」
「えええー! なに!?」
「お題が蓮だったんだよ!!」
「なにそれ!?」

 賑やかに言葉を交わしながら、咲夜が蓮の腕を引いてゴールに走っていく。
 咲夜はかなり足が速いはずなのに、蓮も必死に食らいついていた。
 ゴール前の審判に咲夜がお題の紙を渡し、ひそひそと耳打ちする。
 蓮には聞かれたくないお題なのかもしれない。

「はい、オーケーです! 三年七組、九条くんゴール!」

 一昨年の体育祭の借り物競走では、ゴールするときにお題を読み上げていたはずだ。
 守ってあげたい人、というお題に、剣道で全国大会に出場した男子を選んで、アウト判定をもらっていた生徒がいたので、よく覚えている。
 疲れた様子の蓮が再び戻ってきて、かなではお疲れさま、と笑いかける。

「咲夜のお題、なんだったの?」
「それが、教えてくれないんだよね。何だったんだろう」
「そうなんだ?」

 蓮が気にしているようだったので、かなでは後で咲夜に訊いてみようと思い立った。
 そして悪くないお題だったならば、こっそり蓮に教えてあげるのだ。

 そんなことを考えているうちに、陸の組がスタートを切る。
 グラウンドにいくつか設置されている借り物箱。その中から好きな箱を選び、一枚の紙を取る。
 一度引いたお題は戻せないので、いいものを引けるかは運次第だ。

 陸はスタート地点から少し離れたところにある借り物箱に手を入れる。
 そして少し時間をかけて一枚を引いた。
 紙を開いた陸は、辺りを見回し、そしてかなでたちのいるクラスの応援席まで走ってきた。

「なる、ごめん! 一緒に来て!」
「えっ、はいっ!」
「疲れてるのにごめんね」

 午前のリレーで体力を使い果たし、足はぷるぷると震えている。
 しかし大好きな陸の呼びかけとあれば、答えない理由もない。

 ぴょこんと立ち上がり、陸の元へ駆けていく。
 すると陸は当たり前のようにかなでの手を取り、走り出した。

 えっ、ええええ!? 手、手っ……繋いでる……!!

 心の中で悲鳴をあげるけれど、陸は当然気づかない。
 きっと借り物競走だから、無意識にかなでの手を握って走っているのだろう。
 陸のお題が何かは知らないが、他の女の子じゃなくてよかった、とかなでは心から思った。

 陸は足の遅いかなでを気遣い、ゆっくり走ってくれていた。
 かなでが後ろを振り返ると、まだ他の選手たちはお題のものを見つけられていないようで、追いかけてくる人はいなかった。
 追ってくる人がいたならば、無理にでも引っ張っていってもらおうと思ったが、ここは陸の優しさに甘えてしまおう。
 ゴール前に辿り着くと、陸は審判にお題の紙を渡す。
 そして咲夜と同じように審判に何かを耳打ちして、この子です、とかなでの方を見て笑った。

「はい! 三年七組速水くん、ゴール!」

 審判のコールを聞いた後、陸はかなでの手をそっと離した。
 そして審判に頼み、先ほど提出したお題の紙を返してもらっている。

「どうしたの?」
「ん? 記念にもらおうと思って」

 陸はやわらかく笑って、お題の白い紙を丁寧に折り畳む。それをポケットにしまうと、かなでにもう一度謝った。

「ごめんね、なる。疲れてたのにまた走らせちゃって」
「ううん! 全然大丈夫!」

 陸と手を繋いで走れたのだから、疲れなんてどこかへ飛んでいってしまった。
 それよりもどんなお題だったの? とかなでが訊ねると、陸は珍しくいたずらっ子のような笑みを浮かべる。

「何だと思う?」
「うーん、付き合いの長い友達?」
「残念」
「わりと頭のいい女友達!」
「なにそれ」

 陸がくすりと笑う。
 さっきのいたずらな表情もよかったが、楽しそうに笑う顔もかわいい。

「答えはね」
「うんうん!」
「犬系女子」
「私、犬系女子なの?」

 確かに陸のわんこだとからかわれることはあるが、あれは犬系女子という意味合いではない気がする。
 陸は首を傾げながら、違うのかな? と呟く。

「なんかなるって、ポメラニアンっぽくない?」

 ポメラニアンがどんな犬種が思い出せず、かなでも首を傾げる。
 陸は歩きながらかなでの犬っぽいところを挙げていく。

 いつも目がきらきらしてて、楽しそうに笑ってて、甘え上手で、人懐っこくて、寂しがりやで、見つけると絶対に駆け寄ってきて、いつも後ろをくっついて離れなくて、何気ない一言に一喜一憂して、でも絶対俺の言葉を信じてくれる。

 挙げられた特徴が、本当に犬らしいものなのか、かなでには判断がつかない。
 犬を飼ったことがないからだ。

 でもひとつ、確かなことがある。
 陸はかなでのことを褒める意味合いで、犬系女子と言ってくれたのだ。
 実際にどうなのかはこの際どうでもいい。
 犬系女子というお題を引いた陸が、迷わずかなでを思い浮かべてくれてよかった。
 そのことがかなでの心を浮き足立たせていた。

 体育祭が終わってすぐ、かなでは咲夜を捕まえて、ひと気のないところへ連れ出した。

「なんだよ、急に」
「あのね、咲夜に訊きたいことがあるんだけど……」
「…………なに」

 秋になると、日が沈むのも早い。すでに暗くなりかけている教室で、かなでは咲夜に問いかけた。

「借り物競走! あれ、咲夜が引いた紙、なんて書いてあったの!?」
「………………はー、緊張して損した」
「ねえねえ! なんて書いてあったのー!」

 迷わず蓮くんを連れて行ったよね、とかなでが言うと、咲夜は眉をひそめる。
 しばらくはかなでのことを適当にあしらっていたが、かなでが言い出したら聞かない性格だということを思い出したのだろう。
 蓮には絶対に言うなよ、と前置きをして、教えてくれた。

「…………一番かっこいいと思う人」
「えっ、言えばいいじゃん! 蓮くん喜ぶんじゃない?」
「女子と違って、男は友達同士で褒めあったりしないんだよ!」

 下手したら引かれるぞ、と咲夜は言うけれど、かなではそうは思わない。
 蓮は絶対に引いたりしないのに。

「でも、一番かっこいい人かぁ。咲夜の中で、かっこいいと思う人は蓮くんなんだね!」

 幼い頃から野球をやっている咲夜なら、野球が上手い人をかっこいい人だと認識していそうなものなのに。
 それこそ、陸とか。
 好きな人の顔を思い浮かべ、かなでは笑う。

「私がそのお題を引いてたらねぇ」
「はいはい、陸を選ぶんだろ」
「うん! いつもならね!」

 かなでの言葉に、咲夜が目を丸くする。
 おまえが他の男をかっこいい人として選ぶことなんてあるの? という表情だ。
 まだお礼を言っていなかったので、かなでは照れながら笑ってみせた。

「今日だったら、咲夜を選んだかも! クラス対抗リレー、かっこよかったよ。庇ってくれて、ありがとね!」

 透に怒られたとき、真っ先に庇ってくれた。
 かなでにはバトンを回すことだけ考えろと言って、透と陸と三人でフォローしてくれた。
 本番前も、俺が何とかしてやるからと励ましてくれた。
 そして何より、かなでが作ってしまった遅れを、本当に取り戻してくれた。

 今まで男の人として意識したことはなかったが、それでもドキッとしてしまうくらい、今日の咲夜はかっこよかったのだ。
 でもそれを改めて口にしてしまうとやけに恥ずかしく思えて、かなでは咲夜の反応を見る前に逃げ出すことにした。

「じゃあね! 先に教室戻るから!」
「かなで!」

 教室のドアを開けた瞬間、咲夜に腕を掴まれる。
 その手はとても熱くて、かなでは少しだけドキドキしながら振り向いた。

「なに?」
「…………俺も訊きたいこと、あるんだけど」
「えっ、なーに」
「いつもはねぎちゃんって呼ぶだろ。なんで今日は、名前で呼ぶんだよ」

 特に意識していたわけではない。
 普段からふざけてねぎちゃんと呼んでいるけど、元々は咲夜、と名前で呼んでいたのだから。

「えっ、呼びたかったから……?」

 理由なんてあってないようなものだ。
 たまたま咲夜、と名前で呼びたくなっただけ。
 それを答えると、咲夜は大きくため息をついて、陸みたいなこと言うなよな、と呟いた。
 それから手で追い払うような仕草をするので、かなでは素直に従った。