嘘つきわんこは愛が重い


 先のかなでの話を聞いても、陸は変わらず優しい声をしていた。

「さっき、成海は人目が気になるタイプなのって訊いたじゃん」
「え…………う、ん」
「昔の俺に似てるなって思ったんだ」

 苦笑いを浮かべて、陸が肩をすくめる。

「俺、すごい人見知りでさ。人目がやたらとこわかったんだよ。だからさっきの成海みたいに、目を閉じて、耳も塞いで、動けなくなる気持ち、分かる気がして」

 共感してくれる言葉が、傷ついたかなでの心にじんわりと沁みていく。
 クラスの女子にどんなに悪く言われても、泣くのを我慢してきた。泣くことでまた悪口を言われると分かっていたから。
 約二ヶ月。ずっと我慢してきたはずの涙が、どうしてかこの瞬間、ぽつりとこぼれ落ちた。

 ぽろぽろとこぼれていく涙を見て、どうしてか、陸はやわらかく笑った。

「人の目ばっかり気にしてるとさ、周りの言葉は全て正しい気がしてくるんだよな」

 だからさっきの成海みたいな言葉が出てくる。
 そう続いた言葉に、回らない頭でゆっくりと思い返してみる。

 ぶりっ子で、男に媚びる、男好き。
 今までたくさん言われて傷ついてきた言葉を、自ら口にした。
 そしてそれは、悪口ではなく本当のことだ、と。

 でもそれは間違ってるよ、と陸が優しい声でかなでに言い聞かせる。

「俺は成海のこと、全然知らないけどさ。少なくとも、ブスじゃないじゃん」
「でも…………すごく、言われるし……」
「…………うーん。そうだなぁ」

 困ったように陸が眉を下げる。
 それから、ああそうだ、と小さく笑う。

「俺は好きな人がいるんだけど、だから正直成海に好かれようが嫌われようが構わないんだよね」
「…………うん」
「俺が成海をわざわざ褒める理由もないわけで……。だからつまり、…………何が言いたかったんだっけ?」

 こてん、と首を傾げる陸。そんな彼をしばらく眺めていたけれど、少しずつ面白さが込み上げてきて、くすり、と笑ってしまった。
 くすくすと小さな声で笑っていると、陸も同じように笑い出した。
 それから、かなでの長く伸びた前髪を指先でちょこんと持ち上げて、整った顔でかなでの顔を覗き込む。

「ほら、笑ったらかわいいし」
「………………え」
「少なくとも悪口のうちの一個は、女子の言いがかりだって分かったね」

 離された前髪が、ふわりとかなでの目を隠す。
 また目に涙が浮かび、頰は熱くてたまらなかった。

 ずっと悪口を言われ続けて、心が折れてしまっていた。知らぬ間に考え方も歪んでしまっていたのだろう。
 ぶつけられた言葉が、全て事実だと思い込んでしまっていた。
 ブスで、ぶりっ子で、媚びていて、あざとくて、男好き。
 かなで自身に非がある。だから何を言われても仕方がない。
 そう、思っていたのに。

「頭のおかしいやつの声ばっかりが大きく聞こえるかもしれないけど、大丈夫だよ」

 成海のことをちゃんと見てくれる人が、絶対にいるよ。
 陸から向けられたその言葉が、かなでの胸の奥深くにじんわりと響いた。
 その日から、かなでの世界は少しずつ変わっていった。
 別れ際にかけてくれた陸の言葉が、かなでのお守りになったのだ。

『何も信じられなくなったら、俺のところに来たらいいじゃん。俺は成海に嘘つかないよ』

 とてもシンプルな言葉だった。
 でも、それゆえに励まされた。
 悪口が聞こえてきて不安になったら、陸の教室を訪ねた。
 最初のうちは嫌な顔をされないかな、面倒じゃないかな、と心配していたが、陸はいつも優しくて、そして正直だった。

 男の子に媚びてるって言われたの、とかなでが言うと、でも俺には媚びてこないじゃん、と言ってくれた。

 上目遣いとか仕草があざといって言われた、と相談したときは、かわいいってことでしょ? 何が悪いの? と首を傾げられた。

 そうして陸の意見を聞いて、心のお守りにすると、不思議と俯く時間が減っていった。
 人の目がこわくて伸ばしていた前髪も、勇気を出して切ってみた。さすがにその日はこわくてたまらなくて、俯いてばかりだった。それでも、たまたますれ違った陸が、似合うじゃん、と笑ってくれただけで、また前を向くことができた。

 陸が話を聞いてくれるようになって、一ヶ月も経つ頃には、かなでにも女の子の友達ができていた。
 理科の実験で同じグループになった沙苗という子で、向こうから声をかけてくれたのだ。
 少しずつ話すうちに、「成海さんのこと誤解してたみたい。今までごめんね」と謝ってくれた。
 沙苗と仲良くなると、他のクラスメイトと関わることも増えていった。沙苗のように謝ってくれた子は少なかったが、かなではそれでもよかった。
 悪口を言われずに、普通に学校生活を送れる。それだけで十分だったのだ。

 友達ができて、笑い合っていても、ふとしたときにこわくなる。もしかしたら心の中ではかなでのことを嫌っているかもしれない。ブス。男好き。媚びてばっかりで気持ち悪い。そんな風に思われているかも。
 そんな考えが頭から離れなくなると、必ず陸のことを思い出した。
 陸の言葉はかなでのお守りで、陸の存在はかなでの精神安定剤だった。

「陸くん陸くん!」
「どうしたの、成海」
「ううん、用があったわけじゃないの。陸くんを見て元気を補充しようと思っただけ!」
「なにそれ。変なの」

 陸がやわらかく笑う。
 その表情が優しくて、すごく好きだなぁ、と思う。
 陸に会うと元気が出る。頑張ろうと思える。それは本当のことだ。

 きっとこれは恋なのだ、とかなでも気づいていた。
 そして陸に好きな人がいるということは、最初から知っている。
 叶わない恋、それでもよかった。
 陸が好きな人と幸せになって、笑っていてくれたら。
 かなでのことを友達としてそばに置いてくれていたならば。
 それだけで、十分すぎるくらい幸せだった。

 だってかなではもう、陸に救ってもらっている。
 たくさんのお守りをもらっている。
 笑いかけてもらうだけで、元気になれる。
 好きだと言えば困らせてしまう。
 優しい人だから、かなでを傷つけることに、陸自身も傷ついてしまうかもしれない。
 そんなのは耐えられなかった。

 だからかなでは、友達でいい。
 友達のまま、陸の幸せを願い続ける。
 友達として、陸に大好きだと伝え続ける。
 もしも陸に元気や自信がなくなったときに、かなでの気持ちが少しでも糧になれるのならば、それでいいのだ。

「陸くんはね、私の推しなんだよ!」

 だからかなでは嘘をつく。
 大好きな人に、大好きと伝えるために。
 大好きな人の、負担にならないために。
 大好きな人を、困らせないために。
 大好きな人が、今日も笑顔でいられるために。

「推しって、アイドルとかに使う言葉じゃない?」
「うーん。推しってその人の元気の源で、原動力で、笑顔にさせてくれる存在だと思うの。つまり、陸くんだ!」
「まあ成海が楽しいならそれでいいけど」

 そう言って笑ってくれる陸に、かなでも笑い返した。
 陸くん、大好き!
 初めて口にしたその言葉は、心からの本音のはずなのに、とても歪だった。
 『恋』ではなく、『推し』。
 まとっているのは、薄皮一枚の嘘。
 その嘘が、二人の関係を守ってくれていた。

 かなでは自分の気持ちが恋だと気づいた後も、隠し続けた。
 陸と仲良くなってから二ヶ月ほど経った頃だろうか。かなでは初めて、陸の好きな人について質問してみた。

「ねぇ、陸くん。前に好きな人がいるって言ってたでしょ? どんな人なの?」

 かなでの唐突な質問に、陸は目をまたたかせた。それから珍しく照れたような表情を見せた。

「言うの恥ずかしいんだけど。言わなきゃダメ?」

 照れた顔もかわいい。
 陸の頭に思い浮かんでいるのは、陸の大好きな人なのだろう。
 かなでが恋を叶えようとすれば、一番の障害になるはずの人。でも、かなではこの恋を叶えたいとは思っていない。
 だから陸の好きな人の話も、純粋な興味として聞きたいと思った。

「聞きたい! 教えて!」

 身を乗り出したかなでに、陸は眉を下げて笑った。

「うーん。いつもまっすぐで、何に対しても一生懸命。負けず嫌いで、ちょっと気が強い」
「うんうん」
「それから…………かわいいよ」

 その言葉を口にしたときの陸の表情は、一度も見たことのない甘やかなものだった。
 ずきん、と胸の奥に痛みが走る。
 この恋を叶えるつもりはない。
 そう思っていたけれど、前提が間違っていたとかなでは思い知る。
 叶えようと思っても、決して叶うことのない恋なのだ。

 それでも好きな人を思い浮かべて微笑む陸の表情が、どうしようもなく好きだと思う。
 優しくて甘い、本当に幸せそうな顔だったから。

「私とその人、どっちがかわいい?」
「え? それは萌かな。成海には悪いけど」
「あはは! 陸くんが正直で安心した!」

 ここでかなでの名前を挙げていたならば、きっと今までお守りにしてきた陸の言葉の信頼性が揺らいでしまっただろう。
 でも陸は迷うことなく、好きな人の名前を口にした。
 正直で、自分の気持ちにまっすぐで、優しい人。そんな陸だから、かなでは好きになったのだ。

「…………もう好きって伝えたの?」
「ん? まだ。もっと野球がうまくなったら言う予定」
「そっか、野球やってるんだっけ」

 どうして告白をするのに野球の上手さが関わってくるのかは分からない。もしかしたら、陸なりの基準やプライドがあるのかもしれない。

「陸くんの恋、叶うといいなぁ」

 かなでの口からこぼれた言葉は、紛れもない本心だった。
 陸が好きな人と結ばれて、幸せになって。そして笑っていてくれたなら、かなではそれだけで幸せだから。

 陸は恥ずかしそうに笑って、叶えられるように頑張るよ、と呟いた。
 


 あれから五年の月日が経ち、かなで達はもう高校三年生になった。
 陸を追いかけて同じ高校を受験し、今でもそばにいることができている。
 そしてかなでは、今も陸を『推し』と称して大好き、という気持ちを伝え続けている。

 高校最終学年で同じクラスになれたのは、本当に幸運なことだった。
 担任と学年主任をさんざん困らせてしまったので、その分勉強は頑張らなくてはならない。
 あまりにもかなでがしつこく嘆願するので、元担任の高村は、陸に「成海をなんとかしてくれ」と泣きついたらしい。
 陸からほどほどにね、と注意をされたので、かなでも少しは自制した。それでも同じクラスにしてくれた先生達には、感謝の気持ちでいっぱいだ。

「今年の年間予定表を配ったけど行き渡ったか? 見てもらうと分かると思うけど、今年は文化祭と体育祭、どちらも開催するから忙しい年になる」

 新担任の中原が教室を見渡しながら説明する。
 中原はまだ教師としては若いが、授業中は厳しく、普段は優しく、とメリハリのあるタイプで、生徒からも評判がいい。
 人気若手俳優と少し顔立ちが似ているところも、女子生徒から好かれる理由のひとつだろう。

 年間予定表には、六月に文化祭、十月に体育祭の文字が記されている。
 本来ならば、文化祭は三年に一度、体育祭のない年に行なわれる。
 しかし昨年度は感染症が流行した影響で、文化祭が延期になってしまったのだ。
 その結果が、文化祭と体育祭を両方開催する、という今年のハードスケジュールなのだろう。
 かなでは大きくため息をついた。

「あれ、どうしたのかなちゃん。おっきなため息ついちゃって」
「蓮くーん。文化祭を今年にずらすなら体育祭はなしでいいじゃんと思ってね……」
「あー、かなちゃんは運動嫌いだもんね」

 中性的な顔立ちの蓮が、くすりと笑う。それだけで周りからかっこいい、と声が上がるのだから大したものである。
 隣の席に座る咲夜は、かなでをバカにするように笑う。

「かなでは運動が嫌いなんじゃなくて苦手なんだろ」
「うるさいなぁ。できないものはできないの!」
「まあまあ。さっくんはあんまりかなちゃんのこといじめたらダメだよ」
「蓮くん優しいー! 持つべきものは優しい友達だよねっ」

 かなでは笑顔で蓮に両手を伸ばす。抱きつくわけではないが、そのフリをして見せただけだ。
 蓮は慣れた様子でかなでの頭をぽんぽんと撫でてくれる。
 大きな手は爪先まで手入れされていて、かなでよりもよっぽど美意識が高いかもしれない。
 聞いたことはないけれど、もしかしたらおしゃれ好きな恋人がいたりするのだろうか。それとも単純に、蓮自身の美容への関心が高いのか。
 後で蓮に聞いてみよう、とかなでが思っていると、丸めたノートで頭を思い切り叩かれる。犯人はもちろん、隣に座る咲夜だった。

「痛いんだけど!? 何すんのよねぎちゃん!」
「ムカついたから」
「はああ!? さっきの蓮くんの言葉、聞いてなかったわけ!?」

 怒りをあらわにするかなでだったが、ケンカは第三者によって止められる。

「おいそこ三人。さっきからうるせえぞ。話聞いてないだろ」

 苛立ち混じりの中原の声に、かなでは慌てる。蓮は平然としているし、咲夜は不機嫌そうだ。斜め前に座る陸は、呆れたような顔でかなでを見ていた。
 先生に怒られることよりも、陸に呆れた顔をされる方がよっぽどダメージが大きい。
 さっきまでの元気はどこへやら。
 しゅん、と落ち込んだかなでに、担任は無情な言葉を投げかける。

「じゃあ先生の話も聞かないくらい新生活も余裕な三人。実行委員やってもらうからな」
「実行委員……?」
「ちょうど今、文化祭と体育祭の実行委員を決めようって話だったよ」

 陸が優しく教えてくれるけれど、内容は全くもって優しくなかった。
 実行委員なんて、忙しいに決まっている。
 かなでは人前に立つのが苦手だし、たとえ一時期でもクラスをまとめるなんて、考えるだけで冷や汗が出る。

「九条は野球部で忙しいだろうから体育祭の実行委員な。それならできるだろ」
「げっ! いや、まあ文化祭よりはいいっすけど……」
「じゃあ白石と成海が文化祭実行委員に決定。おめでとう、拍手ー」

 全然おめでたくない!
 かなでが泣きそうになっていると、蓮の金髪が揺れて、かなでの方を振り返る。

「よろしくね、かなちゃん」
「蓮くん……あんまり頼りにならないと思うけど頑張るね……」

 せめてもの救いは、一緒に委員をやる相手が蓮だということだろう。
 見た目は派手だが、蓮はまじめな性格だ。少なくとも委員の役割を放り出して帰ったりすることはないだろう。
 俺にできることがあったら手伝うよ、と陸が声をかけてくれたので、少しだけかなでの心が軽くなる。
 出会った頃から変わらず、陸の存在は今もかなでの背中を押してくれるのだった。

 本来ならば三年に一度の文化祭。それが、急遽体育祭と同じ年にまとめて開催されるということで、日程は六月末日になってしまった。
 六月、つまり準備期間はわずか二ヶ月。そして高校三年生は、部活動にかける想いも一味違う。最後の夏を、最高の夏にしたいと思っている生徒はたくさんいるだろう。
 各クラスで出し物を出さなければいけないが、選択肢は限られてくる。
 部活動の練習の邪魔にならず、そして二ヶ月で準備のできるもの。

「何かやりたいものある人ー?」

 教壇の前に二人で並び立ち、蓮がクラスメイトに向かって呼びかける。
 メイド喫茶。コスプレカフェ。お化け屋敷。演劇にバンド。
 いろんな案が上がる中、一番票が集まったのはファッションショーだった。

「ファッションショー…………準備が大変そうだけど、楽しそうだね」
「ね。舞台はやっぱり体育館借りたいな。そこの手配は俺がやる。あとは班分けだな」

 進行役の蓮が上手なのか、行き詰まることなく話し合いは進んでいく。
 どんな班が必要か、という質問に対しても、衣装のデザイン班、衣装製作班、ショーに出る演者、小物作り、演出班など意見がどんどん出てくる。
 慌ててかなでは黒板に書き出していく。積極的な人が集まっているクラスのようで、班分けの希望もどんどん名前で埋まっていった。

「はい! 提案があるんですけど」
「どうぞー」
「速水くんにショーに出てもらいたいです!」

 顔を真っ赤にして発言したのは、陸の追っかけ仲間の桜井美月だ。
 美月は野球部の練習や試合を見に行くほど、熱心なファンだ。
 昨年の夏、応援に行った甲子園の試合を見て、すっかり好きになってしまったらしい。
 かなでほど陸にべったりくっついているわけではないが、美月もよく陸に声をかけにくる。
 最初は敵視されていたのだが、かなでの感情が『恋』ではなく『推し』に対するものだと知ってからは、気さくに話しかけてくれる。

 美月天才ー!
 名案じゃん!
 私も陸くんに出てほしいー!

 そんな声が次々と上がり、クラスの中が賑やかになっていく。
 当の陸は困り顔で辺りを見回している。

「えーっと、私もね、正直かっこいい衣装を着た陸くんは、すっごく、すっごく……! 見たいけども!」
「二回言ったね」

 蓮が茶化す言葉を横から投げかける。
 かなでは少し恥ずかしくなったが、頰が赤いのは承知の上で、言葉を続けた。

「でも文化祭は陸くんにも楽しんでもらいたいから、陸くんの意思を尊重した方がいいと思うの……!」

 陸が驚いた顔でかなでを見つめている。
 いつも陸のことが大好き! とかなでは公言しているので、陸のかっこいい衣装姿を絶対に見たい! と言い張ると思っていたのかもしれない。
 どうかな、とかなでが訊ねると、陸は数回目をまたたかせた後、小さく笑った。

「…………俺でいいなら」

 やったー! と一番に声を上げたのは、かなでだった。
 それから我に返り、失礼しました、と赤くなった頰を押さえて一礼する。
 くすくすと笑い声が上がり、さすが陸くんのわんこ、とからかう声も聞こえてきた。

 かなでが忠犬ハチ公のようだ、と言われているのは、かなで自身の耳にも届いている。
 陸は気にすることないよ、と言ってくれるけれど、犬だ、わんこだ、と言われるたびにバカにされているのを感じてしまう。
 それでもかなでは、今の生き方を変えることができないのだ。
 かなでにとって陸は、生きるための原動力で、精神安定剤で、そして、大好きな人なのだから。

「他にショーに出てもいいよって人いる?」

 話題を変えるように、蓮が話を進めてくれる。
 クラスで一番美人な優里香と、おしゃれ好きの菜穂が立候補してくれた。
 モデル役は男女二人ずつ。あと一人、男子がなかなか決まらない。
 男の友人で気安く頼める相手といえば、咲夜しかいない。かなでがじっと視線で訴えると、咲夜はすごい勢いで首を横に振った。

 かなでと咲夜のやりとりを見ていたのだろう。
 かなでの隣で、蓮がふっと笑みをこぼす。そして「さっくんは照れ屋だから無理そうだね」と小さな声で呟いた。

 幼馴染が困ってるんだから、助けてくれればいいのに。
 かなでがぷく、と頰を膨らませると、蓮が助け舟を出してくれる。

「じゃあ俺がやろうかな。ヘアメイクと兼任で」
「蓮くんありがとう……!」

 持つべきものは気の利く優しい友人だ。
 出し物も役割分担も、蓮のおかげでスムーズに決めることができた。

 同じ文化祭実行委員でも、これでは蓮の負担が大きすぎる。
 せめて本部に提出する企画書や、ファッションショーに必要な道具などの下調べは、かなでがしなくては。
 やることを思いつく限り手帳にメモして、顔を上げる。陸と目が合った。心配そうな顔でかなでを見つめていたので、大丈夫だよ、という意味を込めて微笑む。
 小さく頷いてくれた陸に、また元気をもらった。
 かなでは胸があたたかくなるのを感じながら、再びファッションショーの企画を詰めていくのだった。

 新しいクラスに馴染めるか、心配する間もなく、文化祭の準備は始まった。
 ファッションショーのモデルは四人。最低でも四着の衣装を用意しなければならない。
 全て手作りするのかと思っていたが、既製品をアレンジするのもありだと思う、という意見にかなでは安堵した。
 かなでは残念ながら、手先があまり器用ではないのだ。

 話し合いで決まった衣装のテーマは四つ。男子はストリート。女子は最近流行りの量産型ファッション。それから男女共通の大正ロマンと春の舞踏会だ。

 大正ロマンといえば、昔ながらの和装と、おしゃれで華やかなリボンなどの小物を組み合わせたスタイル。
 男性ならば、シャツと袴を合わせ、羽織とハットなどを組み合わせたらかっこいいだろう。

 春の舞踏会といっても、もちろんファッションショーなので、踊るわけではない。
 ただ陸にタキシードを着てもらいたいという女子の意見が多かったのだ。そして男子からも、美人な優里香のドレス姿は確かに見てみたいとの声が上がり、このテーマが採用された。
 そんなに本格的な服が果たして本当に作れるのか、とかなではひやひやしていた。しかしテーマがよかったのか、もしくはモデルがよかったのか。
 思いの外みんな衣装作りに対して協力的なので、心強いことこの上ない。

 特に、クラスに裁縫が得意な子が数人いて助かった。
 ロリータファッションが好きで、自分で服も作るようになった子。
 アニメが大好きで、推しキャラクターのコスプレをするために衣装を作っている子。
 中学生のときから手芸部で、小物作りが得意な子。

 クラスメイトの知恵を借りながら、衣装のデザインを一緒に考えた。
 ストリート系と量産型のファッションは、古着屋をめぐってめぼしいアイテムを手に入れ、そこにアレンジを加える、という話にまとまった。
 大正ロマンは各家庭にある着物や袴の写真を持ち寄って、組み合わせてコーディネートを考えることになった。
 問題は舞踏会のコーディネートだ。春をイメージした新緑のタキシードと桜色のドレス。そう決まるや否や、衣装製作チームが張り切り出した。

「まずは採寸! 陸くんと優里香ちゃんこっちに来て!」
「ええ! 身体のサイズをはかるの!?」
「そうしないと作れないでしょ!」
「やだぁー! 本番までにダイエットしようと思ってたのにー!」

 優里香が恥ずかしそうに声をあげるので、かなでは思わず苦笑してしまった。
 クラスでも一、二を争うほどスタイルのいい女の子で、どう見ても優里香にダイエットは必要なさそうだ。
 
 別室に連れて行かれる優里香を見守っていると、教室の後ろの方からかなでちゃん、と声をかけられる。
 陸の採寸に行ったはずのクラスメイトだった。

「どうしたの?」

 困った顔をしたクラスメイトに駆け寄り、かなでは首を傾げる。それがね、と頰を赤くしながら耳打ちされた言葉に、かなでは目を丸くした。

「速水くん、女子に採寸されるのは恥ずかしいから、白石くんを呼んできてって言われたの」
「蓮くん? 蓮くんは今なら手が空いてるんじゃないかな」
「う、うん。でもね。白石くんが、代打でかなでちゃんに任せるって…………」

 最後まで話を聞いて、かなではぱっと顔を上げた。蓮がニヤニヤしながらこちらを見ている。
 陸は女子じゃ恥ずかしいから蓮を呼んできて欲しいと言ったのに、かなでが代わりに行くのでは意味がない。
 かなでは話をその場で預かり、蓮の元へ向かった。

「ちょっと蓮くん! 私じゃ追い返されちゃうから!」
「ええー? りっくん、かなちゃんならいいよって言いそうだけど?」
「…………それはそれでいやだもん」

 つい口にしてしまった言葉は、かなでの本心から生まれたものだった。
 女子に採寸されるのは恥ずかしいのに、かなでならいいと言われてしまったら、陸の中でかなでが女子として区分されていないことになってしまう。
 この恋を叶えたいなんて少しも思っていないはずなのに、陸に全く意識されていないのは、なんだか寂しい。そう思ってしまったのだ。

「かなちゃんってもしかして…………」

 蓮が言いかけた言葉を遮り、かなでは明るい声で「早く陸くんのところに行ってあげて!」と背中を押した。

 文化祭の準備は、とても慌ただしい。
 もちろんかなで一人でやっているわけではないが、部活動をやっている子はそちらを優先してほしいと思ってしまう。

 いいよ、やっておくよー! とクラスメイトに言い続けること数日。
 かなでの元には頭を抱えたくなる量の作業がたまっていた。

 放課後、誰よりも遅くまで教室に残り、文化祭の準備に勤しむ。いつもは蓮が付き合ってくれるが、今日は用事があるので先に帰ってしまったのだ。
 ひとりぼっちの教室で、かなでは資料や手帳を広げながら苦戦していた。

 文化祭実行委員の本部に提出する企画書。
 ファッションショーに使う演出の申請。
 当日の司会の依頼。
 購入リストのチェックと買い出し。
 衣装と小物作り。
 テーマに合ったヘアメイク選び。
 ヘアメイクの練習。

 企画書を本部に提出しなければ、出し物が出来なくなってしまうので、最優先は企画書だ。これは最終チェックをして提出すれば終わる。
 次にショーに使いたい演出をピックアップし、体育館の利用申請と共に演出申請もしなければいけない。これも手帳に書き出してあるものを清書し、チェックして提出すれば完了だ。
 実行委員の本部の人達が帰宅する前に提出してしまおうと思い立ち、かなでは急いでその二つを確認する。
 念のためスマートフォンで書類の写真を撮って、いつでも確認出来るようにしておく。
 そして企画書と申請書を持ち、かなでは広い学園内を駆け回るのだった。

 無事に書類を提出し終えると、今度はまた教室に戻って作業の続きだ。
 担任に文化祭の準備で残る旨は伝えてあるが、一人で残るのは初めてかもしれない。廊下はもう暗くなっていて、歩くのが心細く感じる。
 やだなぁ、と小さな声で呟き、スマートフォンのライトで足元を照らしながら歩いていると、ふと視界で何かが動いた気がした。

 視線の先には明かりの漏れる教室。
 その中で揺れる影。
 思わず廊下を歩いていた足が止まる。
 スマートフォンのライトが見えないように、慌ててライトをオフにしてポケットにしまう。
 そのときだった。

「かなで?」
「きゃああ! ………………あれ、ねぎちゃん?」

 教室から出てきた影が、かなでの名前を呼び、反射的に悲鳴を上げてしまう。しかしよく見たら、そこにいるのは幼馴染の咲夜だったのだ。

「教室に明かりついてるからもしかして、と思って来てみたら……何時だと思ってるんだよ」
「んーと、八時だね」
「八時だね、じゃねえ! こんな遅くまで一人でいたら危ないだろ」
「大丈夫だよー。まだ部活してる人もいるじゃん!」

 この時間まで部活してる奴らはみんな寮生なんだよ、と咲夜が苛立ち混じりの声を上げる。
 心配してくれるのはありがたいが、さすがに大袈裟な気がする。
 かなでがへらへらと笑っていると、咲夜は不機嫌そうな顔でかなでの腕を引き、教室内に招き入れた。

「今日終わらせたい作業、あとどのくらいあるんだよ」
「うーん。ショーの司会をしてくれそうな人リストアップして、希望順に明日から依頼出すでしょ」
「ん」
「あと買うものリストのチェックしてー、それから衣装の方もちょっと進めたいし、同時進行でどんなヘアアレンジにするかも決めたいかなぁ」

 指折り数えながら、かなでは今日中にやりたいことを挙げていく。一つ、二つと言葉にするにつれ、咲夜の額に青筋が立っていく。
 長年の付き合いから、これは怒られるなぁ、と察したかなでだったが、咲夜は意外にも怒りの言葉を口にしなかった。

「あーもう、分かった。すぐ戻ってくるからかなではここを動くなよ!」
「え? うん」

 もとより作業を再開するつもりなので、教室を出る予定はない。
 それでもやけに念押しする咲夜を納得させるため、かなでは大人しく頷いた。

 教室に戻ってきた咲夜は、数人のクラスメイトを連れてきた。
 東星学園には寮がある。主にスポーツ推薦で入学した生徒が入寮するが、遠方から通う生徒も申請すれば寮に入ることが出来る。
 陸や咲夜は野球に集中するため、寮暮らしをしている。
 咲夜はどうやら寮生のクラスメイトに声をかけて連れてきてくれたようだった。
 その中には陸もいて、かなでは驚いて飛び上がった。

「陸くん! あれ? 部活は?」
「今日はノースローの日だから大丈夫」

 聞き慣れない言葉にかなでが首を傾げると、陸は笑いながら説明してくれる。

「俺はピッチャーなんだけど、たまに肩を休める日を作らないと、故障に繋がるから」
「へぇ…………。えっ、でもいいの? せっかく早く上がれたなら、寮でゆっくり休んだ方がいいんじゃ……」
「成海が頑張ってるのに放っておけないでしょ」

 当たり前だと言わんばかりの表情で、そんな風に言われてしまえば、ときめかないはずがない。
 陸くん大好き! とお決まりの言葉を口にすれば、陸もいつも通り「はいはい」と笑って流される。そんな風につれないところも大好きだ。

「かなで、遊んでないで指示!」
「は、はいっ! えっとみんな疲れてるのにごめんね……! 少しだけ手伝ってもらえると嬉しいです!」

 かなでの言葉に、クラスメイトは口々に「クラスの出し物なんだからみんなでやろうよ」と言ってくれる。
 その言葉が優しくて、かなでは泣きそうになってしまった。

 班分けを思い出しながら、それぞれお願い出来そうな仕事を割り振っていく。
 手先の器用な人には生地の裁断や仮縫いを頼み、おしゃれが好きな子にはヘアアレンジの候補を挙げてもらうことにした。
 舞台のセットに使う大道具は、力仕事が得意そうな男子に任せ、放送部の女の子には司会を頼めそうな人をリストアップしてもらう。

 かなではみんなに仕事を割り振りながら、購入リストのチェックをしていく。足りないものを付け足し、なくても大丈夫そうなものは思い切って削除する。
 割り振った仕事が終わるたびにクラスメイトから声がかかり、その出来映えをかなでが確認して、次の作業を頼む。

 そんなことをしているうちに、あっという間に九時半になってしまった。
 さすがに遅くなりすぎたせいか、見回りに来た担任に「もう帰れよー」と注意をされる。

「みんなありがとう……! おかげでかなり作業が進んだよー!」
「じゃあ悪いけど片付けよろしくな。陸、あと頼んだ」
「ん、任された」

 担任の中原に急かされるままに、片付けを始めようとしたのに、咲夜はかなでの腕を引いて教室を出ようとする。

「えっなに、ねぎちゃん」
「かなでは通いだろうが! 送っていくから帰るぞ」
「えー? 大丈夫だよ。一人で帰れるし、ねぎちゃん寮暮らしなんだから、うちの方まで来たらまた戻って来なきゃいけないじゃん」

 かなでと咲夜は幼馴染なので、家も近い。家から学園までは電車と徒歩合わせて四十分くらいになる。
 それを往復すれば、咲夜は一時間二十分も無駄にしてしまうことになるのだ。
 それにかなでの仕事を手伝ってもらったのに、後片付けもせずに帰るのは心苦しい。
 教室の中を見ると、クラスメイトはみんなかなでにこっちは大丈夫だから帰りなと言ってくれる。

「危ないだろ、遅い時間に女が一人で歩き回ってたら」
「大丈夫だってば。私なんかを送っていく時間があるなら、寮でゆっくり休みなよー」

 かなでがあまりに断るものだから苛立ちを覚えたのだろうか。
 咲夜はムッとした顔で、かなでの方を睨み、大きなため息をついた。
 なによう、とかなでは不満を口にするが、咲夜は取り合うことなく教室の方へ向き直り、陸を呼んだ。

「あれ? まだ帰らないの?」
「かなでがごねてる。一人で帰るんだと」
「成海、もう外は暗いし一人だと危ないよ」

 陸が心配の言葉を口にしてくれるだけで、かなでの心はふわふわと浮き足立つ。
 私を送ってまた寮まで戻ってきたらねぎちゃんが休む時間もなくなっちゃうから、と陸に説明する。
 陸は少し考えて、かなでの目をじっと見つめる。

「じゃあ俺が送るか、咲夜に送られるか、二択ならどうする?」
「ず、ずるいよー…………。そんなの、ねぎちゃんに頼むしかないじゃん……」

 陸のそばにいたい。送ってもらえるなんて、かなでからしたらご褒美でしかない。
 でもかなでは、絶対に陸の負担になるようなことを選べない。
 だって、陸のことが大好きなのだ。負担になんてなりたくない。困らせたくない。
 咲夜には悪いが、かなでを送るという面倒なミッションを、陸の代わりに果たしてもらうしかない。

「はあー。ねぎちゃんごめん。じゃあ送ってください」
「最初っから素直にそう言ってればいいんだよ」

 相変わらず不機嫌な顔をした咲夜に再び腕を引かれ、かなでは陸に手を振る。

「陸くん、また明日! 手伝ってくれてありがとね!」
「うん。咲夜がいるから大丈夫だろうけど、気をつけて」

 咲夜もちゃんと帰ってこいよー、と陸が笑いながら声をかけると、なぜか咲夜は頰を真っ赤に染めた。
 戻るに決まってんだろ! と言い返した咲夜の言葉を聞き、陸が教室に戻っていく。
 その表情が少しだけ曇っていたことには、誰も気がつかなかった。