聖奈にどんな顔をして会えというのだろうか?
もう僕は昔とは違う。聖奈とは住む世界が違うのだ。僕の唄う姿を見て、かわいそうに、なんて聖奈に思われたら本当に死んでしまいたくなる。
僕のナイーブな心境はやっぱり親でも分からない。きっと、人工透析患者という立場を経験したことがないからだ。
この日から僕は、市民文化祭に備えて、恐怖で震える毎日を送るはめになった。
人工透析をしないで家にいる時間、僕は何かをする訳ではない。だいたい何時も自分の部屋で本を読んだり、テレビを見たりして家の中でだらだらとしている。何もする事がないという苦しみにも慣れていたから、逆に今は何かをしなければいけないというのが苦痛だ。
市民文化祭でステージに立つため、僕は数年ぶりに押入れにしまってあったギターを取り出し、弦を張り替えた。ギターを手に持つ感触が懐かしい。
これは、僕が12歳の時に買ってもらったギブソンというメーカーのアコースティック・ギターだ。昔のようにすいすいとチューニングができない。
ようやく六本の弦が正しい音を出すようになると、コードCをピックで軽くストロークしてみた。
ド、ミ、ソの純正な音が重なり合って美しい。ギターにのめり込み、聖奈を愛した当時が頭に蘇ってきて、僕は悔し涙が止まらなかった。
どうしてこんな体になってしまったのだろう?
どうしてこんな考え方がネガティブになってしまったんだ?
昔は負けるのが嫌いで何事にも必死だった。しかし今は全てを諦めようとしている。諦めることに納得している。こんな人生に意味があるのだろうか?
僕は悔しくてたまらなかった。
泣きながら、僕はビートルズの「オウ・ダーリン」のコードを弾いて唄ってみた。中学生の時、聖奈に聴かせた思い出の曲だ。
あの聖奈は僕の歌を聞いて、カッコいい、と言ってくれた。
でも今は、泣いているから上手く唄えない。昔みたいに高い声も出ない。もうあの頃に戻れないのだ。
やっぱり僕が馬鹿だった。健康だった昔の気分に戻れたらいい、などとわずかな期待をしてしまった僕が馬鹿なんだ。
ギターが急に憎く思えて、部屋の端へ放り投げる。壁にぶつかった弦が痛々しい不協和音を奏で、僕の心を切り裂いていった。
「どうしたの?」
僕の部屋から響いたギターの悲鳴を聞いて、心配した母さんが僕の部屋に入ってきた。僕が泣いているから、母さんは驚いている。
「無理だよ。できないよ」
「まだ何もやってないじゃないの。やってないのに無理って決め付けるのはおかしいでしょ?」
「母さんには分からないよ。僕はこれで精一杯なんだ。ギターを弾くと思い出したくないことばかりが頭に浮かぶ。元気だった頃は、毎日が輝いてたよ。でも病気になって僕は全部失った。聖奈も僕を見捨てた。それでいいんだ。人工透析している僕みたいな人間は、叶わない願いなんて持つもんじゃないよ。期待した分だけ後で虚しくなるだけだ。僕は負け犬だ。負け犬で結構だ」
泣きわめく僕を見て、母さんは黙り込んだ。自分が息子を苦しめていることを自覚して、苦悶の表情を浮かべる。しかしすぐに僕を厳しい目で睨みつけた。
「ギターを弾きなさい」
母さんは容赦なく僕を追い詰めて言った。
僕には母さんの考えていることがさっぱり理解できない。まるて弱い者いじめを楽しんでいる鬼のようだ。
「できないって」
僕はかたくなに断る。どうしても僕の気持ちを母さんに分かって欲しかった。
「あなたは生きているのよ! なのにあなたの目は死んでいるじゃない。人は生きている以上、社会と関わって生きていく必要があるのよ。どんなにつらくても逃げちゃダメ」
母さんが大声で僕を叱った。でも僕も譲れない。
「生きているんじゃない! 人工透析の機械に生かされているだけだ」
僕が大声で叫んだ途端、今度は母さんが泣き出した。
母さんに泣かれると、つらい。
「私を恨みたいのなら恨みなさい。こんな母親でもやっぱり克成を大切に思うから、厳しくせざるを得ないの。克成はきっと私の想像を絶する苦しみを抱えているんだと思う。17歳でそんな苦しみにじっと耐えている克成は立派よ。でもね、どんなにハンディを背負った人でも激痛を感じながらそれでも乗り越えなきゃいけない社会の壁があるのよ。だって生きているんだから。生きるということは社会と関わることだよ。引きこもっている克成には分からないだろうけど、世間は本当に広くて色んな考えを持った人がいるんだって。人と交わらなきゃ自分の本質だって分からない。あなたにはいろんなものを見てさまざまな人と接し、視野を広げてほしい。逃げちゃダメなのよ。克成は私の大事な大事な一人息子なんだから、絶対、逃げちゃダメなのよ」
母さんの説得に僕は言葉を失った。
母さんは母さんなりに僕のことを一生懸命に考えてくれているのは、もちろんよく分かっているし、言っている意味も分かる。
しかし、今回、ステージでちゃんとパフォーマンスをできるだろうか?
「昔みたいに上手く弾けないし、唄えないんだ。それでもいいの?」
僕は改めて、不甲斐ない結果になることを想定して母さんに聞いた。
「テクニックじゃないよ、音楽は。男も女も芸事も皆、大切なのはハートでしょ?」
また母さんは演歌歌手みたいなことを言う。人生は浪花節のようにはいかないと思うのだが。
「いきなり聖奈と再会するなんて刺激が強すぎるよ。普通はまずリハビリからスタートするもんだろ?」
母さんは笑った。さっきまで泣いていたかと思うと今度は急に笑う。
母さんは感情の起伏が激しいから、ついて行くのに一苦労だ。
「他のことにチャレンジして人と接しようとするのなら、別に今回の市民文化祭は出なくてもいいのよ。断るのなんて簡単なんだから」
「へ? そうなの」
どうも母さんの真意を理解しかねる。だって先日の夕食で、聖奈を見返してやれ、と私的感情を込めて言ってたくせに。
「出てほしいのは出てほしい」
「どっちなの?」
「だって家族で私一人だけがカラオケに出るって恥かしいじゃない。ご近所さんの付き合いがあるから断れないし」
悪い顔をして母さんが言う。さっき僕を説教した勢いはどこへいったのだろうか?
「何か僕を騙してない?」
「克成は私の子どもなんだから、親に騙されて当然なの」
とうとう母さんは開き直った。そしてまた大声で母さんは笑う。
「嘘よ。私が一番言いたいのは、社会と関わってほしいってこと。何か別のことに挑戦するんだったら、今回の市民文化祭は出なくてもいいのよ」
「そうなんだ」
でも母さんはきっと市民文化祭に僕が出てほしいと思っている。
「たった一つだけ忘れないで。克成は生きていんだし、生きるために人工透析をしているの。絶対に生かされているなんて思っちゃダメ」
「うん」
そして母さんはすっきりとした顔をして部屋を出て行った。
母さんが言うように僕は今まで、体は生きていたが魂は死んでいたような気がする。僕は新たに一歩踏み出し、成長しなければいけない時期に来ているのだろうか?
とにかく、聖奈と鉢合わせになる市民文化祭に出なくてもいいと言われたから、僕の肩の荷が下りた。
でも自分が今後どう外に出て、人と関わって生きていくかを模索していかなければならない。いずれにしてもこの苦しみはずっと続くのだ。
もう僕は昔とは違う。聖奈とは住む世界が違うのだ。僕の唄う姿を見て、かわいそうに、なんて聖奈に思われたら本当に死んでしまいたくなる。
僕のナイーブな心境はやっぱり親でも分からない。きっと、人工透析患者という立場を経験したことがないからだ。
この日から僕は、市民文化祭に備えて、恐怖で震える毎日を送るはめになった。
人工透析をしないで家にいる時間、僕は何かをする訳ではない。だいたい何時も自分の部屋で本を読んだり、テレビを見たりして家の中でだらだらとしている。何もする事がないという苦しみにも慣れていたから、逆に今は何かをしなければいけないというのが苦痛だ。
市民文化祭でステージに立つため、僕は数年ぶりに押入れにしまってあったギターを取り出し、弦を張り替えた。ギターを手に持つ感触が懐かしい。
これは、僕が12歳の時に買ってもらったギブソンというメーカーのアコースティック・ギターだ。昔のようにすいすいとチューニングができない。
ようやく六本の弦が正しい音を出すようになると、コードCをピックで軽くストロークしてみた。
ド、ミ、ソの純正な音が重なり合って美しい。ギターにのめり込み、聖奈を愛した当時が頭に蘇ってきて、僕は悔し涙が止まらなかった。
どうしてこんな体になってしまったのだろう?
どうしてこんな考え方がネガティブになってしまったんだ?
昔は負けるのが嫌いで何事にも必死だった。しかし今は全てを諦めようとしている。諦めることに納得している。こんな人生に意味があるのだろうか?
僕は悔しくてたまらなかった。
泣きながら、僕はビートルズの「オウ・ダーリン」のコードを弾いて唄ってみた。中学生の時、聖奈に聴かせた思い出の曲だ。
あの聖奈は僕の歌を聞いて、カッコいい、と言ってくれた。
でも今は、泣いているから上手く唄えない。昔みたいに高い声も出ない。もうあの頃に戻れないのだ。
やっぱり僕が馬鹿だった。健康だった昔の気分に戻れたらいい、などとわずかな期待をしてしまった僕が馬鹿なんだ。
ギターが急に憎く思えて、部屋の端へ放り投げる。壁にぶつかった弦が痛々しい不協和音を奏で、僕の心を切り裂いていった。
「どうしたの?」
僕の部屋から響いたギターの悲鳴を聞いて、心配した母さんが僕の部屋に入ってきた。僕が泣いているから、母さんは驚いている。
「無理だよ。できないよ」
「まだ何もやってないじゃないの。やってないのに無理って決め付けるのはおかしいでしょ?」
「母さんには分からないよ。僕はこれで精一杯なんだ。ギターを弾くと思い出したくないことばかりが頭に浮かぶ。元気だった頃は、毎日が輝いてたよ。でも病気になって僕は全部失った。聖奈も僕を見捨てた。それでいいんだ。人工透析している僕みたいな人間は、叶わない願いなんて持つもんじゃないよ。期待した分だけ後で虚しくなるだけだ。僕は負け犬だ。負け犬で結構だ」
泣きわめく僕を見て、母さんは黙り込んだ。自分が息子を苦しめていることを自覚して、苦悶の表情を浮かべる。しかしすぐに僕を厳しい目で睨みつけた。
「ギターを弾きなさい」
母さんは容赦なく僕を追い詰めて言った。
僕には母さんの考えていることがさっぱり理解できない。まるて弱い者いじめを楽しんでいる鬼のようだ。
「できないって」
僕はかたくなに断る。どうしても僕の気持ちを母さんに分かって欲しかった。
「あなたは生きているのよ! なのにあなたの目は死んでいるじゃない。人は生きている以上、社会と関わって生きていく必要があるのよ。どんなにつらくても逃げちゃダメ」
母さんが大声で僕を叱った。でも僕も譲れない。
「生きているんじゃない! 人工透析の機械に生かされているだけだ」
僕が大声で叫んだ途端、今度は母さんが泣き出した。
母さんに泣かれると、つらい。
「私を恨みたいのなら恨みなさい。こんな母親でもやっぱり克成を大切に思うから、厳しくせざるを得ないの。克成はきっと私の想像を絶する苦しみを抱えているんだと思う。17歳でそんな苦しみにじっと耐えている克成は立派よ。でもね、どんなにハンディを背負った人でも激痛を感じながらそれでも乗り越えなきゃいけない社会の壁があるのよ。だって生きているんだから。生きるということは社会と関わることだよ。引きこもっている克成には分からないだろうけど、世間は本当に広くて色んな考えを持った人がいるんだって。人と交わらなきゃ自分の本質だって分からない。あなたにはいろんなものを見てさまざまな人と接し、視野を広げてほしい。逃げちゃダメなのよ。克成は私の大事な大事な一人息子なんだから、絶対、逃げちゃダメなのよ」
母さんの説得に僕は言葉を失った。
母さんは母さんなりに僕のことを一生懸命に考えてくれているのは、もちろんよく分かっているし、言っている意味も分かる。
しかし、今回、ステージでちゃんとパフォーマンスをできるだろうか?
「昔みたいに上手く弾けないし、唄えないんだ。それでもいいの?」
僕は改めて、不甲斐ない結果になることを想定して母さんに聞いた。
「テクニックじゃないよ、音楽は。男も女も芸事も皆、大切なのはハートでしょ?」
また母さんは演歌歌手みたいなことを言う。人生は浪花節のようにはいかないと思うのだが。
「いきなり聖奈と再会するなんて刺激が強すぎるよ。普通はまずリハビリからスタートするもんだろ?」
母さんは笑った。さっきまで泣いていたかと思うと今度は急に笑う。
母さんは感情の起伏が激しいから、ついて行くのに一苦労だ。
「他のことにチャレンジして人と接しようとするのなら、別に今回の市民文化祭は出なくてもいいのよ。断るのなんて簡単なんだから」
「へ? そうなの」
どうも母さんの真意を理解しかねる。だって先日の夕食で、聖奈を見返してやれ、と私的感情を込めて言ってたくせに。
「出てほしいのは出てほしい」
「どっちなの?」
「だって家族で私一人だけがカラオケに出るって恥かしいじゃない。ご近所さんの付き合いがあるから断れないし」
悪い顔をして母さんが言う。さっき僕を説教した勢いはどこへいったのだろうか?
「何か僕を騙してない?」
「克成は私の子どもなんだから、親に騙されて当然なの」
とうとう母さんは開き直った。そしてまた大声で母さんは笑う。
「嘘よ。私が一番言いたいのは、社会と関わってほしいってこと。何か別のことに挑戦するんだったら、今回の市民文化祭は出なくてもいいのよ」
「そうなんだ」
でも母さんはきっと市民文化祭に僕が出てほしいと思っている。
「たった一つだけ忘れないで。克成は生きていんだし、生きるために人工透析をしているの。絶対に生かされているなんて思っちゃダメ」
「うん」
そして母さんはすっきりとした顔をして部屋を出て行った。
母さんが言うように僕は今まで、体は生きていたが魂は死んでいたような気がする。僕は新たに一歩踏み出し、成長しなければいけない時期に来ているのだろうか?
とにかく、聖奈と鉢合わせになる市民文化祭に出なくてもいいと言われたから、僕の肩の荷が下りた。
でも自分が今後どう外に出て、人と関わって生きていくかを模索していかなければならない。いずれにしてもこの苦しみはずっと続くのだ。