家に着くと、珍しく先に父さんが帰っていた。居間に寝転がり、地元のケーブルテレビのコミュニティチャンネルを見ている。
この「いなべ10」という番組は、近所の人たちや知り合いなどがたくさん出演するから楽しいらしい。
見ている途中で、夕食の準備をしている母さんか不機嫌気味になっているのを見て、マズいと思ったのか、父さんは急に母さんを手伝い出した。
減塩ケチャップだけをソースとしてかけたハンバーグに、ドレッシングなしのサラダ、酢の味しかしないサーモンのマリネ、薄味の味噌など、腎臓に負担をかけない料理が食卓に並ぶ。
同居するおじいさん、おばあさんと両親、一人息子の僕は、揃って夕食を食べた。
「なあ、克成。母さんから聞いたと思うけど、文化祭に出る気ないか?」
父さんは今日、会社でいいことがあったのか、上機嫌でビールを飲んで、僕に言う。
「無理だよ」
僕はそうとしか答えようがない。
「やっぱりつらいか?」
「うん」
父さんは母さんと違って回りくどい言い方はせず、ストレートに言うから幾分気持ちが和らぐ。父さんとは男同士腹を割って話ができるからいい。
母さんは心配そうに僕の表情を見つめている。おじいさんとおばあさんは、むにゃむにゃ言いながら、のん気にほうれん草のおひたしを食べていた。
「僕は静かに暮らしたいんだ。今更社会に出て働くこともできないし、人と関わって普通に生きるのも無理だ。こういう運命なんだから、僕は納得してる。だから、僕は健康な一般の人たちと関わらない方がいいと思う」
「そうか」
父さんは納得した顔をすると、サーモンのマリネを箸で挟み、口に運んだ。このマリネは酸味ばかりで、一般的なものも比べると食べごたえがない。酒の肴にもならないんじゃないだろうか。
しかし、父さんは愚痴を一度も言ったことがない。
「克成ちゃんは偉いねえ。我が家の誇りだ」
おばあさんがいつも僕を褒めてくれる。
「そうだ、そうだ」
おじいさんは相槌を打ったが、耳が遠いから恐らく僕の言ったことが分かっていないと思う。
僕はまるですまし汁のように透き通った味噌汁を啜った。塩分が沢山含まれる味噌が少量しか入っていないから、ダシの味しかしない。こんな風に腎臓の悪い人が家族に一人でもいると、一家の食事が激変してしまう。
母さんは突然、涙を流した。
「そういう克成を見てると私もつらいのよ。あなたはまだ17歳でしょ? いろんなことに挑戦して生き生きとしてほしいのよ。病気だからって諦めなくってもいいじゃない」
母さんの涙の訴えに、家族全員が黙りこくる。
母さんに泣かれると、僕はまた迷惑をかけてしまったようでいたたまれないが、僕の主張はそれなりに正当性があると思う。
「おい、克成には克成なりの強い覚悟があるんだから」
父さんは母さんをなだめようとする。
「どうして男は男同士だけで分かり合おうとするのよ。不公平よ。克成に押し付けるだけじゃなくて、母さんもカラオケで出演するって決めたの。これでフェアでしょ?」
これをフェアだというのなら、母さんはものすごく身勝手だ。僕にだって普通の17歳らしくできるものならやってみたい。でもできないのだ。
「そんなことしたら、また送り迎えや何やらで母さんに負担が掛かるんだよ。分かるだろ? もうできるだけ迷惑かけたくないって思う僕の気持ちが」
「別に迷惑を掛けてもいいじゃない。家族なんだから」
母さんは僕の主張を一歩も譲らない。もはや意地になって自分の意見を通そうとしている。
また始まった、と言わんばかりにおじいさんとおばあさんは知らん顔をして黙って箸を進める。
「父さんはな、克成の意思を尊重したい。でもな、母さんの言い分も分かる」
突然、父さんが中立宣言をした。これで僕は家庭内の論争で分が悪くなる。
「昔、克成がギターを弾き語りするのが好きだったんだけどなあ」
それとなく父さんは僕に折れるように促す。ギターの弾き語りでステージに出ろ、ということだろう。
さすが仕事で営業をしてるだけあって、巧みな交渉術だ。
そうよ、と急に母さんも勢いを取り戻した。
確かに僕は中学生の頃バンドを組み、地域のイベントに出てはギターを弾いて唄っていた。腎臓病をする前は目立ちたがり屋で、何事にも積極的だったのは認める。
でも腎臓病と人工透析という逃げられない状況を受け入れて、僕は変わってしまったのだ。もう3年以上、まったくギターに触れていない。触りたくないし、弾きたくない、というのが本音だ。
ギターを弾くと元気だった昔を思い出しそうで嫌なのだ。
「ベートル何とか、克成ちゃんお上手だったねえ」
ついにおばあさんまでも、同調してしまった。おばあさんの言う「ベートル何とか」とは、多分昔僕がよくコピーをして唄っていたビートルズのことだと思う。
中学生の頃、僕はませていて、洋楽のオールディーズが好きだった。
「それとね、その発表会には聖奈ちゃんもピアノ演奏で出るんだって」
父さんの後ろ盾を得て強気になった母さんは、懐かしい名前を出した。僕からすれば思い出したくない名前だ。
「ほお、聖奈ちゃんも。可愛くなっただろうな」
父さんは嬉しい顔をした。
聖奈さんは僕が健康だった頃付き合った、最初で最後の彼女だ。当時は中学生だから、付き合っていた、なんて言うのは大げさかも知れない。ただ二人で一緒に通学し、電話で長話をした程度のものだ。
昔は聖奈が僕の家によく遊びに来たから、両親もよく知っている。病気をしてから、僕はここ数年、聖奈への想いを胸の奥に無理矢理しまい込んでいた。
聖奈に今でも会いたいと思う気持ちはある。でも僕は今、こんな体だ。だから僕は諦めるしかないと思う。
それに聖奈は、今、違う男と付き合っているのを母さんから聞いて知っている。
「聖奈が出るんなら、ますますステージに出たくないよ」
今の僕の惨めな姿を、昔好きだった聖奈には見せたくないから僕は必死になって言った。
聖奈にはもう違うカレシがいる。僕には人工透析をしているという劣等感がある。
それに会場で会い、一度は諦めた恋心が蘇ってしまったら、本当に僕は生きていけなくなる。
こんな状況なのに、どうして家族が僕を苦しめるのか理解できない。
「何言ってんのよ。あんた、男でしょ?」
「男だからとか女だからって言うの、母さんの頃は問題なかったかもしれないけど、今は、ちょっとマズいって」
「それが何よ。私からすれば他の男に走る女なんか最低よ。カッコよくステージで決めて、見返してやりなさいよ」
感情的になった母さんには手がつけられない。かなり私的な感情が入っている。
どうも母さんは他の男と付き合っている聖奈に復讐心を持っているみたいだ。
「そんなことしても意味ないだろ」
「あるわよ。女は一途であるべきよ」
「いや、だから男とか女って言っちゃダメだって。それに一途なんて、そんなの演歌の世界だけにしかないってば」
僕と母さんの押し問答を、父さんは笑った。そんな悠長な事態ではないのだが。
かくして家庭内の夕食国会で繰り広げられた市民文化祭出演是非論争は強硬派の母さんの意見に押し切られることとなってしまった。
もう人前に出たくない、という人工透析患者としての僕の切なる願いは聖奈に再会したくない想いへと摩り替わり、その人間としての未熟な部分を突いた母さんが僕を論破したのだ。
この「いなべ10」という番組は、近所の人たちや知り合いなどがたくさん出演するから楽しいらしい。
見ている途中で、夕食の準備をしている母さんか不機嫌気味になっているのを見て、マズいと思ったのか、父さんは急に母さんを手伝い出した。
減塩ケチャップだけをソースとしてかけたハンバーグに、ドレッシングなしのサラダ、酢の味しかしないサーモンのマリネ、薄味の味噌など、腎臓に負担をかけない料理が食卓に並ぶ。
同居するおじいさん、おばあさんと両親、一人息子の僕は、揃って夕食を食べた。
「なあ、克成。母さんから聞いたと思うけど、文化祭に出る気ないか?」
父さんは今日、会社でいいことがあったのか、上機嫌でビールを飲んで、僕に言う。
「無理だよ」
僕はそうとしか答えようがない。
「やっぱりつらいか?」
「うん」
父さんは母さんと違って回りくどい言い方はせず、ストレートに言うから幾分気持ちが和らぐ。父さんとは男同士腹を割って話ができるからいい。
母さんは心配そうに僕の表情を見つめている。おじいさんとおばあさんは、むにゃむにゃ言いながら、のん気にほうれん草のおひたしを食べていた。
「僕は静かに暮らしたいんだ。今更社会に出て働くこともできないし、人と関わって普通に生きるのも無理だ。こういう運命なんだから、僕は納得してる。だから、僕は健康な一般の人たちと関わらない方がいいと思う」
「そうか」
父さんは納得した顔をすると、サーモンのマリネを箸で挟み、口に運んだ。このマリネは酸味ばかりで、一般的なものも比べると食べごたえがない。酒の肴にもならないんじゃないだろうか。
しかし、父さんは愚痴を一度も言ったことがない。
「克成ちゃんは偉いねえ。我が家の誇りだ」
おばあさんがいつも僕を褒めてくれる。
「そうだ、そうだ」
おじいさんは相槌を打ったが、耳が遠いから恐らく僕の言ったことが分かっていないと思う。
僕はまるですまし汁のように透き通った味噌汁を啜った。塩分が沢山含まれる味噌が少量しか入っていないから、ダシの味しかしない。こんな風に腎臓の悪い人が家族に一人でもいると、一家の食事が激変してしまう。
母さんは突然、涙を流した。
「そういう克成を見てると私もつらいのよ。あなたはまだ17歳でしょ? いろんなことに挑戦して生き生きとしてほしいのよ。病気だからって諦めなくってもいいじゃない」
母さんの涙の訴えに、家族全員が黙りこくる。
母さんに泣かれると、僕はまた迷惑をかけてしまったようでいたたまれないが、僕の主張はそれなりに正当性があると思う。
「おい、克成には克成なりの強い覚悟があるんだから」
父さんは母さんをなだめようとする。
「どうして男は男同士だけで分かり合おうとするのよ。不公平よ。克成に押し付けるだけじゃなくて、母さんもカラオケで出演するって決めたの。これでフェアでしょ?」
これをフェアだというのなら、母さんはものすごく身勝手だ。僕にだって普通の17歳らしくできるものならやってみたい。でもできないのだ。
「そんなことしたら、また送り迎えや何やらで母さんに負担が掛かるんだよ。分かるだろ? もうできるだけ迷惑かけたくないって思う僕の気持ちが」
「別に迷惑を掛けてもいいじゃない。家族なんだから」
母さんは僕の主張を一歩も譲らない。もはや意地になって自分の意見を通そうとしている。
また始まった、と言わんばかりにおじいさんとおばあさんは知らん顔をして黙って箸を進める。
「父さんはな、克成の意思を尊重したい。でもな、母さんの言い分も分かる」
突然、父さんが中立宣言をした。これで僕は家庭内の論争で分が悪くなる。
「昔、克成がギターを弾き語りするのが好きだったんだけどなあ」
それとなく父さんは僕に折れるように促す。ギターの弾き語りでステージに出ろ、ということだろう。
さすが仕事で営業をしてるだけあって、巧みな交渉術だ。
そうよ、と急に母さんも勢いを取り戻した。
確かに僕は中学生の頃バンドを組み、地域のイベントに出てはギターを弾いて唄っていた。腎臓病をする前は目立ちたがり屋で、何事にも積極的だったのは認める。
でも腎臓病と人工透析という逃げられない状況を受け入れて、僕は変わってしまったのだ。もう3年以上、まったくギターに触れていない。触りたくないし、弾きたくない、というのが本音だ。
ギターを弾くと元気だった昔を思い出しそうで嫌なのだ。
「ベートル何とか、克成ちゃんお上手だったねえ」
ついにおばあさんまでも、同調してしまった。おばあさんの言う「ベートル何とか」とは、多分昔僕がよくコピーをして唄っていたビートルズのことだと思う。
中学生の頃、僕はませていて、洋楽のオールディーズが好きだった。
「それとね、その発表会には聖奈ちゃんもピアノ演奏で出るんだって」
父さんの後ろ盾を得て強気になった母さんは、懐かしい名前を出した。僕からすれば思い出したくない名前だ。
「ほお、聖奈ちゃんも。可愛くなっただろうな」
父さんは嬉しい顔をした。
聖奈さんは僕が健康だった頃付き合った、最初で最後の彼女だ。当時は中学生だから、付き合っていた、なんて言うのは大げさかも知れない。ただ二人で一緒に通学し、電話で長話をした程度のものだ。
昔は聖奈が僕の家によく遊びに来たから、両親もよく知っている。病気をしてから、僕はここ数年、聖奈への想いを胸の奥に無理矢理しまい込んでいた。
聖奈に今でも会いたいと思う気持ちはある。でも僕は今、こんな体だ。だから僕は諦めるしかないと思う。
それに聖奈は、今、違う男と付き合っているのを母さんから聞いて知っている。
「聖奈が出るんなら、ますますステージに出たくないよ」
今の僕の惨めな姿を、昔好きだった聖奈には見せたくないから僕は必死になって言った。
聖奈にはもう違うカレシがいる。僕には人工透析をしているという劣等感がある。
それに会場で会い、一度は諦めた恋心が蘇ってしまったら、本当に僕は生きていけなくなる。
こんな状況なのに、どうして家族が僕を苦しめるのか理解できない。
「何言ってんのよ。あんた、男でしょ?」
「男だからとか女だからって言うの、母さんの頃は問題なかったかもしれないけど、今は、ちょっとマズいって」
「それが何よ。私からすれば他の男に走る女なんか最低よ。カッコよくステージで決めて、見返してやりなさいよ」
感情的になった母さんには手がつけられない。かなり私的な感情が入っている。
どうも母さんは他の男と付き合っている聖奈に復讐心を持っているみたいだ。
「そんなことしても意味ないだろ」
「あるわよ。女は一途であるべきよ」
「いや、だから男とか女って言っちゃダメだって。それに一途なんて、そんなの演歌の世界だけにしかないってば」
僕と母さんの押し問答を、父さんは笑った。そんな悠長な事態ではないのだが。
かくして家庭内の夕食国会で繰り広げられた市民文化祭出演是非論争は強硬派の母さんの意見に押し切られることとなってしまった。
もう人前に出たくない、という人工透析患者としての僕の切なる願いは聖奈に再会したくない想いへと摩り替わり、その人間としての未熟な部分を突いた母さんが僕を論破したのだ。