今日は水泳部が練習の日なので、その代わりとして村上の家にお邪魔している。
彼の母親が出してくれた麦茶を片手に、テレビ画面を凝視していた。
お誘いを受けた理由はとてもシンプルだった。
ふたりが注目しているアニメである『ソラノアリア』をまた見ようということで、彼はちょうどチューナーの再生ボタンを押したところだった。
映像を心待ちにしようと、腕をぐりぐりと回す。
その様子を見た村上が、ストレッチでもしてるのかとツッコミを入れてくれる。
「まあ、ちょっとね」
しだいに追い込まれていく展開がまた描かれている。
主人公の師匠が崖から落ちそう。死の危険を察知した主人公が叫びだすと自身が光に包まれる。
「やっぱり迫力あるなあ」
「そうだね」
そこには詳しい説明が一切なく、仲間に生存してほしいと願った主人公に呼応するように自身の姿を変えることしか描かれていなかった。
一瞬のうちに姿が変貌するだけだったが、それは主人公の願いを具現化するような"進化"の現象なのかもしれない。
今後その秘密を解決してほしいなと思う。
「それで、続きの話を録画してあるんだけど、明日も見るか?」
「明日かあ。
ちょっと学校行かなきゃな」
学校? お前部活に入っていないのに、と村上は目を丸くしていた。
彼の家からお暇している最中、ふとすいのことを思い出した。
僕は彼女の秘密を何も知らない。人魚姫の姿になるということは、何かしらの秘密があるのかもしれない。それは"進化"と言える表現なのだろうか。
それとも、何か人に言えない出来事なのだろうか......。
・・・
今日もプールの授業が行われる。
はずだったのだが、プールサイドにはだれもいなかった。
水泳部の休みがない日だから自分もすいも入ってよいタイミングなのに。
仕方ないから、準備体操でもしておこう。
気合が入っている分、いつもより体を動かしていく。
すると、背中から声をかけられた。
「いつもより多めにやっててえらいね」
いつの間にか現れたすいは、微笑みを投げかけてくれた。
課題は歩きながら息継ぎをしよう、とのことだ。
「浮いたときに、泳ぐときに。
息継ぎができないと全然意味がないからさ、すぐおぼれちゃうよね」
まあ、たしかにそうだ。
「そういえばバタフライでもそうだけど、ちゃんと息継ぎしてるよね」
「あれは腕をかいて後ろに持っていくでしょ。
その時に実は水中をキックしてて、そのタイミングで顔が出るようになってるんだ」
本当に初心者である自分の質問にも答えてくれた。
なるほど、フォームっていうんだろうか。まだ上手くイメージがつかないけど、体の動かし方に合わせて息継ぎができるようになっている感じだろうか。
「まあ、実際そこまで教えるつもりはないけどね。
きみは水泳部じゃないし、完璧なフォームを作ってもね」
たしかにその通りだ。すいのウインクを受け止めた。
わたしがやってみるから見ててね、とすいはさっそく潜ってみせた。
なるほど、潜る直前に息を吸う感じなんだ。
「そうだね。
息を大きく吸って、少しずつ吐き出していくんだ。
前に水に顔付けたじゃない? あの時に少しずつ息を吐いてたと思うけど、潜りながら息を吸って吐くのサイクルを作るのが大事なんだ」
さあ、やってみよう。すいに促されて自分も歩き出した。
顔をつける前に、大きく息を吸い込む。そして水面を見ながら息を吐きだして、顔を上げる。その際にあたらしく息吸い込むんだ。
「お、すぐできちゃうんだね。
もし上がったときに息が残ってたら出し切ってね、新鮮な空気を毎回入れるんだよ。
よし、次は潜ってみようか」
また新しく息を吸い込んだ。
数回潜ったところで、こっちだよと声をかけられた。
振り返ると、すいがいちばん向こうのレーンにいた。右腕を高くあげて、おいでおいでと手招いている。
潜りながらすいのところまで行かないといけない。ただし、コースロープが間に存在する。
6レーンあるから、5回そのミッションがあるわけだ。
コースロープの手前で顔を出して、息を吸い込む。
やってみるとわかるもので、思った以上に体を潜らせないといけないし、それなりの歩数を歩かないとロープをくぐれなかった。
ちゃんとくぐれたかな。
頭上に注意しながら水中を歩いていくと、意識がそちらに向いてしまう。息を吐きだすのがおろそかになりそうだ。
それでも、ちゃんと浮上することができた。そのタイミングで息を吸い込む。
その後も順調に歩いていったが、最後のロープをくぐって浮上するときに頭をぶつけてしまった。
「ふふ、ほんと湊くんは惜しいね。
最後の詰めが甘いんだもん」
ついにすいの目の前までたどり着いたのだが、お腹に手を添えて笑う仕草で歓迎されるとは思っていなかった。
悪気はないのはわかっているけど、彼女は涙が出そうなほどに笑っている。
いい加減止めてほしい。
「でも、まあ良しとしましょう!」
・・・
少しの間休憩をとると、すいが勢いよく言った。
「さあ、ここから本格的な練習をしよう!
ついに、浮くことをはじめるよ」
彼女が腰に手をついて言うことは、ついに実践的なメニューの入り口となるものだった。
泳いでいる間も、実際体は浮いている状態になっている。
その状態をいかに維持できるかが泳ぐための大切なステップだ。
プールに入ったすいが指さしたのは、スタート台に備え付けられている背泳ぎ用のバーだ。
「これを掴んだまま体を伸ばして浮いてみて」
ざっくりした指示のまま、僕は腕を伸ばしてバーを掴んだ。大きく息を吸い込みながら、見よう見まねで床を蹴って浮く姿勢を作ってみる。
いざやってみると、自分でもしっかり浮かぶことができた。
......とはいえ、その姿勢は長くは続かず気を付けていないと足が沈みそうになってしまう。
「一回立っていいよ。
じゃあ、次は顔を上げないで水につけちゃって」
顔を上げたままだと、全身に力がかかってしまうのだという。顔を完全に沈めて水面をのぞき込むことが安定する姿勢を作るコツだという。
「おお、いい感じだねえ」
すいは拍手して褒めてくれると、じゃあ本格的なのをやってみようと次のステップを示してくれた。
彼女が差し出す手のひらに、自分の手を乗せた。
その状態で床を蹴って体を伸ばしてみる。この姿勢のまま、息を吐きだしつつ吸い込むタイミングだけ顔を上げればいい。
なんだか今までの授業が結びついて、ひとつにまとまっていくのを感じた。
「よくできるね。
じゃあ、そのままわたしの手を握ってて」
何をするのかと思ったが、すいが自分の体を引っ張っていく。牽引されながら、自分は姿勢の維持と息継ぎに注力する形だ。
「そう、全身の力を抜いてみて......。
きみはゆっくり身をゆだねていればいいんだ」
まるで子供を諭す親のような、ゆっくりと温かみのある口調だ。
いつの間にか、コースの半分とはいかないもののなかなかの距離を浮いてきたようだ。
ここで、すいが口角を上げる。
自分が息継ぎをしながら見たその表情は、自分が楽しいときにするもの。そして、自分への課題となるものだ。
すいはつないでいた自分の手を離した。
ついに、自分だけが水に浮くようになる。それでも慌てることなくしばらく浮かんでいることができた。
自分の視界に水色が流れていく。
最初のうちはそれが怖かった、あのプールで見た死の縁に追い込むような水流のようで。
そうだとしても、ここにいるのは僕独りじゃない。
手を引っ張ってくれる子がいるんだ。彼女の存在が、次第に水を、水泳を。
今までと違う景色が見えそうだった。
ついに立ち上がってしまった僕を、すいが微笑んで見つめている。
彼女は両手をパーの形に広げてこちらに示した。
そうだ、お祝いをしなきゃ。
ふたりはにっこりと笑いあって、パチンと小気味いい音がしそうなハイタッチをした。
・・・
ひとしきり浮くのに慣れてきた。
さすがに夕方になってしまった。そろそろ帰ろうかとプールから上がって声をかける。
「すいさ、一緒に帰らない?」
彼女は一瞬だけきょとんとした後、形のよい笑みを浮かべてこう返した。
「わたしはもうちょっと泳いでいくよ」
じゃあねと何気なく別れていった。
彼の母親が出してくれた麦茶を片手に、テレビ画面を凝視していた。
お誘いを受けた理由はとてもシンプルだった。
ふたりが注目しているアニメである『ソラノアリア』をまた見ようということで、彼はちょうどチューナーの再生ボタンを押したところだった。
映像を心待ちにしようと、腕をぐりぐりと回す。
その様子を見た村上が、ストレッチでもしてるのかとツッコミを入れてくれる。
「まあ、ちょっとね」
しだいに追い込まれていく展開がまた描かれている。
主人公の師匠が崖から落ちそう。死の危険を察知した主人公が叫びだすと自身が光に包まれる。
「やっぱり迫力あるなあ」
「そうだね」
そこには詳しい説明が一切なく、仲間に生存してほしいと願った主人公に呼応するように自身の姿を変えることしか描かれていなかった。
一瞬のうちに姿が変貌するだけだったが、それは主人公の願いを具現化するような"進化"の現象なのかもしれない。
今後その秘密を解決してほしいなと思う。
「それで、続きの話を録画してあるんだけど、明日も見るか?」
「明日かあ。
ちょっと学校行かなきゃな」
学校? お前部活に入っていないのに、と村上は目を丸くしていた。
彼の家からお暇している最中、ふとすいのことを思い出した。
僕は彼女の秘密を何も知らない。人魚姫の姿になるということは、何かしらの秘密があるのかもしれない。それは"進化"と言える表現なのだろうか。
それとも、何か人に言えない出来事なのだろうか......。
・・・
今日もプールの授業が行われる。
はずだったのだが、プールサイドにはだれもいなかった。
水泳部の休みがない日だから自分もすいも入ってよいタイミングなのに。
仕方ないから、準備体操でもしておこう。
気合が入っている分、いつもより体を動かしていく。
すると、背中から声をかけられた。
「いつもより多めにやっててえらいね」
いつの間にか現れたすいは、微笑みを投げかけてくれた。
課題は歩きながら息継ぎをしよう、とのことだ。
「浮いたときに、泳ぐときに。
息継ぎができないと全然意味がないからさ、すぐおぼれちゃうよね」
まあ、たしかにそうだ。
「そういえばバタフライでもそうだけど、ちゃんと息継ぎしてるよね」
「あれは腕をかいて後ろに持っていくでしょ。
その時に実は水中をキックしてて、そのタイミングで顔が出るようになってるんだ」
本当に初心者である自分の質問にも答えてくれた。
なるほど、フォームっていうんだろうか。まだ上手くイメージがつかないけど、体の動かし方に合わせて息継ぎができるようになっている感じだろうか。
「まあ、実際そこまで教えるつもりはないけどね。
きみは水泳部じゃないし、完璧なフォームを作ってもね」
たしかにその通りだ。すいのウインクを受け止めた。
わたしがやってみるから見ててね、とすいはさっそく潜ってみせた。
なるほど、潜る直前に息を吸う感じなんだ。
「そうだね。
息を大きく吸って、少しずつ吐き出していくんだ。
前に水に顔付けたじゃない? あの時に少しずつ息を吐いてたと思うけど、潜りながら息を吸って吐くのサイクルを作るのが大事なんだ」
さあ、やってみよう。すいに促されて自分も歩き出した。
顔をつける前に、大きく息を吸い込む。そして水面を見ながら息を吐きだして、顔を上げる。その際にあたらしく息吸い込むんだ。
「お、すぐできちゃうんだね。
もし上がったときに息が残ってたら出し切ってね、新鮮な空気を毎回入れるんだよ。
よし、次は潜ってみようか」
また新しく息を吸い込んだ。
数回潜ったところで、こっちだよと声をかけられた。
振り返ると、すいがいちばん向こうのレーンにいた。右腕を高くあげて、おいでおいでと手招いている。
潜りながらすいのところまで行かないといけない。ただし、コースロープが間に存在する。
6レーンあるから、5回そのミッションがあるわけだ。
コースロープの手前で顔を出して、息を吸い込む。
やってみるとわかるもので、思った以上に体を潜らせないといけないし、それなりの歩数を歩かないとロープをくぐれなかった。
ちゃんとくぐれたかな。
頭上に注意しながら水中を歩いていくと、意識がそちらに向いてしまう。息を吐きだすのがおろそかになりそうだ。
それでも、ちゃんと浮上することができた。そのタイミングで息を吸い込む。
その後も順調に歩いていったが、最後のロープをくぐって浮上するときに頭をぶつけてしまった。
「ふふ、ほんと湊くんは惜しいね。
最後の詰めが甘いんだもん」
ついにすいの目の前までたどり着いたのだが、お腹に手を添えて笑う仕草で歓迎されるとは思っていなかった。
悪気はないのはわかっているけど、彼女は涙が出そうなほどに笑っている。
いい加減止めてほしい。
「でも、まあ良しとしましょう!」
・・・
少しの間休憩をとると、すいが勢いよく言った。
「さあ、ここから本格的な練習をしよう!
ついに、浮くことをはじめるよ」
彼女が腰に手をついて言うことは、ついに実践的なメニューの入り口となるものだった。
泳いでいる間も、実際体は浮いている状態になっている。
その状態をいかに維持できるかが泳ぐための大切なステップだ。
プールに入ったすいが指さしたのは、スタート台に備え付けられている背泳ぎ用のバーだ。
「これを掴んだまま体を伸ばして浮いてみて」
ざっくりした指示のまま、僕は腕を伸ばしてバーを掴んだ。大きく息を吸い込みながら、見よう見まねで床を蹴って浮く姿勢を作ってみる。
いざやってみると、自分でもしっかり浮かぶことができた。
......とはいえ、その姿勢は長くは続かず気を付けていないと足が沈みそうになってしまう。
「一回立っていいよ。
じゃあ、次は顔を上げないで水につけちゃって」
顔を上げたままだと、全身に力がかかってしまうのだという。顔を完全に沈めて水面をのぞき込むことが安定する姿勢を作るコツだという。
「おお、いい感じだねえ」
すいは拍手して褒めてくれると、じゃあ本格的なのをやってみようと次のステップを示してくれた。
彼女が差し出す手のひらに、自分の手を乗せた。
その状態で床を蹴って体を伸ばしてみる。この姿勢のまま、息を吐きだしつつ吸い込むタイミングだけ顔を上げればいい。
なんだか今までの授業が結びついて、ひとつにまとまっていくのを感じた。
「よくできるね。
じゃあ、そのままわたしの手を握ってて」
何をするのかと思ったが、すいが自分の体を引っ張っていく。牽引されながら、自分は姿勢の維持と息継ぎに注力する形だ。
「そう、全身の力を抜いてみて......。
きみはゆっくり身をゆだねていればいいんだ」
まるで子供を諭す親のような、ゆっくりと温かみのある口調だ。
いつの間にか、コースの半分とはいかないもののなかなかの距離を浮いてきたようだ。
ここで、すいが口角を上げる。
自分が息継ぎをしながら見たその表情は、自分が楽しいときにするもの。そして、自分への課題となるものだ。
すいはつないでいた自分の手を離した。
ついに、自分だけが水に浮くようになる。それでも慌てることなくしばらく浮かんでいることができた。
自分の視界に水色が流れていく。
最初のうちはそれが怖かった、あのプールで見た死の縁に追い込むような水流のようで。
そうだとしても、ここにいるのは僕独りじゃない。
手を引っ張ってくれる子がいるんだ。彼女の存在が、次第に水を、水泳を。
今までと違う景色が見えそうだった。
ついに立ち上がってしまった僕を、すいが微笑んで見つめている。
彼女は両手をパーの形に広げてこちらに示した。
そうだ、お祝いをしなきゃ。
ふたりはにっこりと笑いあって、パチンと小気味いい音がしそうなハイタッチをした。
・・・
ひとしきり浮くのに慣れてきた。
さすがに夕方になってしまった。そろそろ帰ろうかとプールから上がって声をかける。
「すいさ、一緒に帰らない?」
彼女は一瞬だけきょとんとした後、形のよい笑みを浮かべてこう返した。
「わたしはもうちょっと泳いでいくよ」
じゃあねと何気なく別れていった。