「──……さん、皆吉さん」
女子トイレの入口でチェックシートを眺めていると、肩をポンポンと叩かれた。
「男子トイレ、問題なかったよ。そっちはどうだった?」
「同じく。全部丸だった」
「よし。じゃあ3階に行こう!」
階段を一段飛ばしで駆け上がっていく手島くんの後を、シートに丸を付けながら追う。
終業式を金曜日に控えた火曜日。現在美化委員会の活動で校内の見回りを行っている。
「洗い場と窓、異常なしでーす!」
「はーい」
踊り場から降ってきた報告をシートに書き込む。
蒸し暑い空間を歩いているにも関わらず、テンションは今朝と同じ。元気いっぱい。
一方私はというと──。
「んじゃ、また男子トイレ見てくるね!」
「……」
「あれ? おーい」
「えっ? あっ、うん。お願いしますっ」
ペコッと会釈して女子トイレに入った。
さっきから一息つく度にぼんやりしてしまって、この通り全く集中できていない。
真夏日続きで疲れているとはいえ、今日で1学期最後の当番。やりたいって立候補したんだから、最後まで気を引き締めないと。
個室と窓、床の点検をし、シートに記録。男子トイレの状態も書き込み、教室のチェックへ移る。
1の3は、閉まってる。1の2は、電気点いてるからまだ居るな。1の1は……。
「……さん、皆吉さんっ」
再び肩を叩かれて顔を上げると、目と鼻の先に手島くんの顔があった。
「うわぁぁっ! っな、何?」
「窓、全部閉まってたよって。そんな、化け物に遭遇したみたいに驚かなくても……」
「っだ、だよね。ごめんね!」
少しどもりながら謝罪し、手元に視線を移す。
咄嗟に謝ったけど、あんな目の前に顔があったら驚くに決まってるよ。
女子ならまだしも、男子なんて……。
「どっか具合悪い? きついなら代わろうか?」
優しく気遣う声が聞こえた。記録する手を止めて恐る恐る見上げると、今度は心配そうに顔色をうかがっている。
「あ、それともトイレ我慢してた?」
「ううん! 具合もトイレも大丈夫。前回休んじゃったから今回は任せて!」
笑顔で答えたものの、いまひとつ納得していない様子。作り笑いだって見抜かれたかな……。
「私、そんな体調悪そうに見える?」
「いや、うっすら目の下にクマがあるからちょっと気になっただけ。今朝も休み時間も珍しく寝てたからさ」
怪しまれる前に尋ねてみたが、作り笑い以前に寝不足を見抜かれていた。
「この数日間で、眠れなくなるくらいの悩ましい出来事が起きたのかなって」
早鐘を打っていた心臓がドキッと大きい音を立てる。
確かに今日は勉強せずずっと机に突っ伏していたけど、まさか見られてたなんて。だとすると、ゆま達にもバレてた? 昼休みは夏祭りの計画で話し合っててずっと顔合わせてたから。
特に何も言われなかったけど、心配かけちゃってたかな……。
「もしかして、千葉達と何かあった?」
「ええっ⁉ いや、ないよ?」
「本当? こないだの買い物で連れ回されたとか、詮索されたとか、ない?」
「大丈夫。むしろ、楽しかった、から……」
たどたどしく口を動かす自分の姿が彼の瞳に映り、パッと視線を逸らした。
何やってるんだ私は。いくら気まずいからってこんなあからさまに逸らしたら感じ悪いじゃないか。
手島くんは心配してくれているだけ。興味本位で聞き出しているわけじゃないってわかってるのに……。
「……実は、夢を、見ちゃって」
消したかった。忘れたかった。それでも強く残ってしまった。
本当は嫌だが、これ以上心配をかけるわけにもいかないので意を決して話すことに。
「……仲間外れに、される夢で」
「えええっ⁉ 皆吉さんを? 除け者に⁉」
案の定、目を丸くした手島くん。
口に出した途端、ここ数日間の夢が脳内になだれ込んできた。
初日は平井くんに再会した土曜日の夜。
彼をはじめとする当時のクラスメイトに悪口を言われて、教室から追い出される夢を見た。
熱帯夜だったのも相まってか、起きた時は全身汗びっしょりで、心臓もバクバクしていて。その日は1日中憂鬱な気分で店の手伝いも集中できず、珍しくミスしてしまった。
「災難だったね……。そりゃ熟睡できるわけがないよ。ちなみに、誰にやられたか覚えてる?」
「…………ト」
「ト?」
「……クラス、メイト」
その翌日は中学のクラスメイト、昨日は高校の……今のクラスメイト。
追い打ちをかけるように、登場人物が違うだけの同じ悪夢にうなされた。
「それって……俺も、含まれてる?」
こくりと小さく頷くと、彼の顔が真っ青になり、頭を抱え込み始めた。
「集団いじめって最悪すぎだろ……。マジごめん」
「いや! 変な夢見た私が悪いから! 手島くんはただ笑ってただけで何も言ってないから大丈夫だよ」
「はぁ⁉ 俺笑ってたの⁉ 主犯格よりもたち悪いじゃん……」
慌ててフォローするも、逆に追い詰める結果に。
あぁもう私ってば。心配を取り除くどころか罪悪感を植えつけてどうするの。たとえ夢でも、自分が加害者だって言われたら誰だっていい気分はしないのに。
「他には誰がいた? 千葉? 乃木? まさか、仁田さんと山谷さん⁉」
「え、ええっと……」
ガシッと両肩を掴まれてしまった。よっぽど許せなかったのか、血眼になっている。
どうしよう、何て答えたらいいんだ。
千葉さん達の名前が出たけど、夢に出てきたのは男子だけだったから女子は関係ないんだよね。
でも、そのまま伝えたら乃木くんに飛び火が移りそうだし……。
「おーい、そこのお2人さーん」
渡り廊下のど真ん中で考えていると、野太い声が響き渡った。急いで彼と距離を取り、近寄ってくる人物に体を向ける。
「都丸先生! お疲れ様です! どうしたんですかー?」
「ちょっと忘れ物しちゃってな。教室に取りに行ってたんだよ」
あっはっは〜と豪快な笑い声。右手には新任の頃から愛用しているという紺色のペンケースが握られている。
「そっちは、学校の見回りか?」
「はい。ちょうど今から南館のチェックに行くところです」
「おー、そうかそうか。暑い中お疲れ様。水分補給、ちゃんとするんだぞ」
肩をポンポンと叩いて労った先生。いつもなら立ち話するところだけど、今日はここでお別れ。「お先に失礼します」と会釈して南館へ足を運ぶ。
……だいぶ疲れてたな。一見元気そうだったけど、今朝と比べて表情が硬かった。
それもそうだ。日中は授業で放課後は部活動、朝は挨拶当番もあるもんね。
夏休みも部活動や新学期の準備で忙しいだろうし、今度来た時アイスでもサービスしようかな。
「あ、そうだ。皆吉さんのこと、あまりからかうんじゃないぞ〜」
なんて考えていたら、後ろから注意喚起が飛んできた。振り向くと、都丸先生がドアからひょっこり顔を出している。
からかうって、もしかしてさっきの……。
「……見られてたみたいだね」
静まり返った渡り廊下に手島くんの呟く声が響いた。
「さっきは迫ってごめんね。詮索されてないかって、俺も人のこと言えないよな」
「ううん。私こそ、不快な気分にさせちゃってごめんなさい」
お互いに深々と頭を下げ合い、一件落着。止まっていた足を動かして見回りを再開する。
「あのさ、しつこいかもだけど、何か困ったことがあったら言ってね」
洗い場の状態をチェックする隣から、優しく気遣う声が聞こえてくる。
「俺で良ければいつでも仲介役になるから! あ、でも全部はいいからね? 男子には言いにくい話もあるだろうし」
へへへっと照れたように笑った手島くん。その瞬間、強張っていた心が緩んで、じんわりと温かさが広がった。
あぁ、私はなんて失礼なことをしたんだろう。
タイプが違うグループに急遽参加することになった私を、無理していないか、苦労していないかと気にかけてくれただけなのに。
雰囲気が似ているからと、1度でも平井くんと重ねた自分が恥ずかしい。
「ありがとう」と伝えた後、「ごめんなさい」と心の中で謝罪した。
*
急ぎ足で校舎を回り、全フロアの確認が終わった。
「ちょっとトイレ行ってきていい?」
「いいよ。先に戻ってるね」
トイレに行った手島くんを見送り、チェックシートの感想欄にボールペンを走らせる。
目立った汚れやゴミはなく、綺麗に掃除されていました。窓の鍵のかけ忘れに注意! ……っと。
もう少し細かく書きたいけど、手島くんの書くことがなくなるからこのくらいにしておくか。
北館へ続く渡り廊下を歩きながら、記入漏れがないか入念に確認していた、その時。
「お食事中のところ、邪魔してごめんね」
中庭のほうから女子の声が聞こえた。ふと目を向けたが、慌てて近くの木に身を隠した。
「時間、大丈夫?」
「はい。この時間のバスはもう行ってしまいましたから」
そっと顔だけを出して、彫刻のように美しい横顔を盗み見する。
どうして……昇降口前で別れたはずじゃ……。小腹が空いたから食堂か購買にでも寄ってたとか?
「私、バスの中で助けてもらった時から、ずっと乃木くんのことが気になってて……」
赤らんだ顔で話を切り出した彼女を観察する。
青いリボン……2年生か。可愛い先輩だなぁ。
おめめパッチリで、小顔で、華奢で。今どきのアイドルみたいな可愛らしい雰囲気。女の子が羨む要素を兼ね揃えている。
「もし良かったら……私と、付き合ってくれませんか?」
沈黙を挟んだのち、敬語と上目遣いで手を差し出した。
通学中に助けてもらったのをきっかけに恋に落ちる。いかにも少女漫画っぽい展開だが、彼の容姿なら充分起こりうる。
こんな美少女に告白されたら、ほとんどの人はその場でオッケーするか、まずはお友達からと返すのだろう。
「ごめんなさい」
だけど、乃木くんは迷うことなく、直角なお辞儀で断った。
「どうしても、ダメ?」
「はい」
「お試しでも?」
「はい」
差し出した手がゆっくりと下がる。
一貫した短い返事。初めて告白現場に遭遇した中1の頃から一切変わっていなかった。
この様子だと、恐らく理由は──。
「僕、好きな人がいるんです」
えっ。
のどから出そうになったのを寸前のところで抑えた。
好きな人……⁉ こないだまでは、『誰とも付き合う気はない』って……。
「……そっか」
「本当に、ごめんなさい」
完全に振られたのを確認し、幹に背をつける。
前回見かけた時が先月の中旬だったから、ここ1ヶ月の間でということか。
だよね。乃木くんも私達と同じ高校生。面倒くさがり屋だからって恋愛に興味がないとは限らない。
私が密かに片想いしているように、彼も人知れず誰かを想っていても……。
「返事してくれてありがとう。最後に1つ聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「はい。どうぞ」
「その好きな人って、どんな人?」
去ろうとしていた足がピタッと止まる。
「……気になるんですか?」
「そりゃあ、乃木くん、かっこいいし優しいし。校内1のモテ男子だよ? 気になるに決まってるじゃん」
ほら、早く行かなきゃ。先生が待ってる。
そう頭の中で急かすけれど、意識は完全に2人の会話に持っていかれていて。
「実は、1年の時のクラスメイトが、先週乃木くんに告白したそうなの。だけど……『誰とも付き合う気はない』って振られたんだって」
コツッとローファーの音が鳴った。覗いてみると、彼女が乃木くんの顔を覗き込んでいる。
「不思議だよね。中学の頃からずっと同じ理由だったのに」
「知ってるんですか?」
「友達の妹が乃木くんと同級生でね。教えてもらったの。みやびちゃんって子なんだけど」
その瞬間、全身が金縛りに遭ったように固まった。
みやびちゃんは、私と乃木くんのクラスメイトで、成績学年首位の美人優等生。生徒会長も務めていたため、校内では才色兼備だと謳われていた。
「3年間一緒だったのに情け容赦もなかったらしいね。卒業式の後、ショックで丸3日寝込んだって言ってたよ」
「……僕が嘘をついてるって言いたいんですか」
「やだなぁ。私はただ、突然変えた理由が知りたいだけ」
先輩の顔に不敵な笑みが現れた。
「本当なら、証明してみせてよ」
わかるよ。先週と言ってることが違うなら、疑問を抱くのも当然。でも、このやり方は卑怯すぎる。
いくら振られて悔しかったからって、腹いせに追い詰めるなんて。こんなの先輩の立場を悪用したパワハラだ。
本音を言うと、少し複雑。
だけど……今ここで見て見ぬふりしたら、夢の中の彼らと同じ。
好きな人が窮地に立たされているんだ。──助けなきゃ。
「できないなら、ここで土下座するか、私と付き合うか。大丈夫、他の子には内緒にしておいてあげ──」
「特徴を言えばいいんですよね?」
名前を呼ぼうと口を開きかけたその時、低い声が彼女の声を遮った。
「強くてたくましくて、かっこいい性格をしています。見た目は黒髪で大人っぽいですね。清楚系美人って言葉が似合う綺麗なお顔をしています」
口を挟む余地を与えず、早口で話し始めた。
特徴1つ1つが明確で……彼女への想いが本物であると伝わってくるほどに。
「皆吉さんっ!」
立ち尽くしていると、手島くんが戻ってきた。
「遅くなってごめん! なんか水の流れが悪くてさ、格闘してた。これ書いといたほうがいいよな」
「そう、だね。ごめん、用事思い出したから先に帰るね」
チェックシートを彼に押しつけ、脇目も振らず昇降口に向かう。
端から釣り合うわけないってわかってた。
だからせめて、困った時に寄り添うことができる、頼れる良きクラスメイトになれたらって。
なのに。
『……相当惚れ込んでるんだね』
『はい。来週のお祭りで告白しようと思っているので』
胸を突き刺す光景から逃げるように、無我夢中で自転車を走らせた。
女子トイレの入口でチェックシートを眺めていると、肩をポンポンと叩かれた。
「男子トイレ、問題なかったよ。そっちはどうだった?」
「同じく。全部丸だった」
「よし。じゃあ3階に行こう!」
階段を一段飛ばしで駆け上がっていく手島くんの後を、シートに丸を付けながら追う。
終業式を金曜日に控えた火曜日。現在美化委員会の活動で校内の見回りを行っている。
「洗い場と窓、異常なしでーす!」
「はーい」
踊り場から降ってきた報告をシートに書き込む。
蒸し暑い空間を歩いているにも関わらず、テンションは今朝と同じ。元気いっぱい。
一方私はというと──。
「んじゃ、また男子トイレ見てくるね!」
「……」
「あれ? おーい」
「えっ? あっ、うん。お願いしますっ」
ペコッと会釈して女子トイレに入った。
さっきから一息つく度にぼんやりしてしまって、この通り全く集中できていない。
真夏日続きで疲れているとはいえ、今日で1学期最後の当番。やりたいって立候補したんだから、最後まで気を引き締めないと。
個室と窓、床の点検をし、シートに記録。男子トイレの状態も書き込み、教室のチェックへ移る。
1の3は、閉まってる。1の2は、電気点いてるからまだ居るな。1の1は……。
「……さん、皆吉さんっ」
再び肩を叩かれて顔を上げると、目と鼻の先に手島くんの顔があった。
「うわぁぁっ! っな、何?」
「窓、全部閉まってたよって。そんな、化け物に遭遇したみたいに驚かなくても……」
「っだ、だよね。ごめんね!」
少しどもりながら謝罪し、手元に視線を移す。
咄嗟に謝ったけど、あんな目の前に顔があったら驚くに決まってるよ。
女子ならまだしも、男子なんて……。
「どっか具合悪い? きついなら代わろうか?」
優しく気遣う声が聞こえた。記録する手を止めて恐る恐る見上げると、今度は心配そうに顔色をうかがっている。
「あ、それともトイレ我慢してた?」
「ううん! 具合もトイレも大丈夫。前回休んじゃったから今回は任せて!」
笑顔で答えたものの、いまひとつ納得していない様子。作り笑いだって見抜かれたかな……。
「私、そんな体調悪そうに見える?」
「いや、うっすら目の下にクマがあるからちょっと気になっただけ。今朝も休み時間も珍しく寝てたからさ」
怪しまれる前に尋ねてみたが、作り笑い以前に寝不足を見抜かれていた。
「この数日間で、眠れなくなるくらいの悩ましい出来事が起きたのかなって」
早鐘を打っていた心臓がドキッと大きい音を立てる。
確かに今日は勉強せずずっと机に突っ伏していたけど、まさか見られてたなんて。だとすると、ゆま達にもバレてた? 昼休みは夏祭りの計画で話し合っててずっと顔合わせてたから。
特に何も言われなかったけど、心配かけちゃってたかな……。
「もしかして、千葉達と何かあった?」
「ええっ⁉ いや、ないよ?」
「本当? こないだの買い物で連れ回されたとか、詮索されたとか、ない?」
「大丈夫。むしろ、楽しかった、から……」
たどたどしく口を動かす自分の姿が彼の瞳に映り、パッと視線を逸らした。
何やってるんだ私は。いくら気まずいからってこんなあからさまに逸らしたら感じ悪いじゃないか。
手島くんは心配してくれているだけ。興味本位で聞き出しているわけじゃないってわかってるのに……。
「……実は、夢を、見ちゃって」
消したかった。忘れたかった。それでも強く残ってしまった。
本当は嫌だが、これ以上心配をかけるわけにもいかないので意を決して話すことに。
「……仲間外れに、される夢で」
「えええっ⁉ 皆吉さんを? 除け者に⁉」
案の定、目を丸くした手島くん。
口に出した途端、ここ数日間の夢が脳内になだれ込んできた。
初日は平井くんに再会した土曜日の夜。
彼をはじめとする当時のクラスメイトに悪口を言われて、教室から追い出される夢を見た。
熱帯夜だったのも相まってか、起きた時は全身汗びっしょりで、心臓もバクバクしていて。その日は1日中憂鬱な気分で店の手伝いも集中できず、珍しくミスしてしまった。
「災難だったね……。そりゃ熟睡できるわけがないよ。ちなみに、誰にやられたか覚えてる?」
「…………ト」
「ト?」
「……クラス、メイト」
その翌日は中学のクラスメイト、昨日は高校の……今のクラスメイト。
追い打ちをかけるように、登場人物が違うだけの同じ悪夢にうなされた。
「それって……俺も、含まれてる?」
こくりと小さく頷くと、彼の顔が真っ青になり、頭を抱え込み始めた。
「集団いじめって最悪すぎだろ……。マジごめん」
「いや! 変な夢見た私が悪いから! 手島くんはただ笑ってただけで何も言ってないから大丈夫だよ」
「はぁ⁉ 俺笑ってたの⁉ 主犯格よりもたち悪いじゃん……」
慌ててフォローするも、逆に追い詰める結果に。
あぁもう私ってば。心配を取り除くどころか罪悪感を植えつけてどうするの。たとえ夢でも、自分が加害者だって言われたら誰だっていい気分はしないのに。
「他には誰がいた? 千葉? 乃木? まさか、仁田さんと山谷さん⁉」
「え、ええっと……」
ガシッと両肩を掴まれてしまった。よっぽど許せなかったのか、血眼になっている。
どうしよう、何て答えたらいいんだ。
千葉さん達の名前が出たけど、夢に出てきたのは男子だけだったから女子は関係ないんだよね。
でも、そのまま伝えたら乃木くんに飛び火が移りそうだし……。
「おーい、そこのお2人さーん」
渡り廊下のど真ん中で考えていると、野太い声が響き渡った。急いで彼と距離を取り、近寄ってくる人物に体を向ける。
「都丸先生! お疲れ様です! どうしたんですかー?」
「ちょっと忘れ物しちゃってな。教室に取りに行ってたんだよ」
あっはっは〜と豪快な笑い声。右手には新任の頃から愛用しているという紺色のペンケースが握られている。
「そっちは、学校の見回りか?」
「はい。ちょうど今から南館のチェックに行くところです」
「おー、そうかそうか。暑い中お疲れ様。水分補給、ちゃんとするんだぞ」
肩をポンポンと叩いて労った先生。いつもなら立ち話するところだけど、今日はここでお別れ。「お先に失礼します」と会釈して南館へ足を運ぶ。
……だいぶ疲れてたな。一見元気そうだったけど、今朝と比べて表情が硬かった。
それもそうだ。日中は授業で放課後は部活動、朝は挨拶当番もあるもんね。
夏休みも部活動や新学期の準備で忙しいだろうし、今度来た時アイスでもサービスしようかな。
「あ、そうだ。皆吉さんのこと、あまりからかうんじゃないぞ〜」
なんて考えていたら、後ろから注意喚起が飛んできた。振り向くと、都丸先生がドアからひょっこり顔を出している。
からかうって、もしかしてさっきの……。
「……見られてたみたいだね」
静まり返った渡り廊下に手島くんの呟く声が響いた。
「さっきは迫ってごめんね。詮索されてないかって、俺も人のこと言えないよな」
「ううん。私こそ、不快な気分にさせちゃってごめんなさい」
お互いに深々と頭を下げ合い、一件落着。止まっていた足を動かして見回りを再開する。
「あのさ、しつこいかもだけど、何か困ったことがあったら言ってね」
洗い場の状態をチェックする隣から、優しく気遣う声が聞こえてくる。
「俺で良ければいつでも仲介役になるから! あ、でも全部はいいからね? 男子には言いにくい話もあるだろうし」
へへへっと照れたように笑った手島くん。その瞬間、強張っていた心が緩んで、じんわりと温かさが広がった。
あぁ、私はなんて失礼なことをしたんだろう。
タイプが違うグループに急遽参加することになった私を、無理していないか、苦労していないかと気にかけてくれただけなのに。
雰囲気が似ているからと、1度でも平井くんと重ねた自分が恥ずかしい。
「ありがとう」と伝えた後、「ごめんなさい」と心の中で謝罪した。
*
急ぎ足で校舎を回り、全フロアの確認が終わった。
「ちょっとトイレ行ってきていい?」
「いいよ。先に戻ってるね」
トイレに行った手島くんを見送り、チェックシートの感想欄にボールペンを走らせる。
目立った汚れやゴミはなく、綺麗に掃除されていました。窓の鍵のかけ忘れに注意! ……っと。
もう少し細かく書きたいけど、手島くんの書くことがなくなるからこのくらいにしておくか。
北館へ続く渡り廊下を歩きながら、記入漏れがないか入念に確認していた、その時。
「お食事中のところ、邪魔してごめんね」
中庭のほうから女子の声が聞こえた。ふと目を向けたが、慌てて近くの木に身を隠した。
「時間、大丈夫?」
「はい。この時間のバスはもう行ってしまいましたから」
そっと顔だけを出して、彫刻のように美しい横顔を盗み見する。
どうして……昇降口前で別れたはずじゃ……。小腹が空いたから食堂か購買にでも寄ってたとか?
「私、バスの中で助けてもらった時から、ずっと乃木くんのことが気になってて……」
赤らんだ顔で話を切り出した彼女を観察する。
青いリボン……2年生か。可愛い先輩だなぁ。
おめめパッチリで、小顔で、華奢で。今どきのアイドルみたいな可愛らしい雰囲気。女の子が羨む要素を兼ね揃えている。
「もし良かったら……私と、付き合ってくれませんか?」
沈黙を挟んだのち、敬語と上目遣いで手を差し出した。
通学中に助けてもらったのをきっかけに恋に落ちる。いかにも少女漫画っぽい展開だが、彼の容姿なら充分起こりうる。
こんな美少女に告白されたら、ほとんどの人はその場でオッケーするか、まずはお友達からと返すのだろう。
「ごめんなさい」
だけど、乃木くんは迷うことなく、直角なお辞儀で断った。
「どうしても、ダメ?」
「はい」
「お試しでも?」
「はい」
差し出した手がゆっくりと下がる。
一貫した短い返事。初めて告白現場に遭遇した中1の頃から一切変わっていなかった。
この様子だと、恐らく理由は──。
「僕、好きな人がいるんです」
えっ。
のどから出そうになったのを寸前のところで抑えた。
好きな人……⁉ こないだまでは、『誰とも付き合う気はない』って……。
「……そっか」
「本当に、ごめんなさい」
完全に振られたのを確認し、幹に背をつける。
前回見かけた時が先月の中旬だったから、ここ1ヶ月の間でということか。
だよね。乃木くんも私達と同じ高校生。面倒くさがり屋だからって恋愛に興味がないとは限らない。
私が密かに片想いしているように、彼も人知れず誰かを想っていても……。
「返事してくれてありがとう。最後に1つ聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「はい。どうぞ」
「その好きな人って、どんな人?」
去ろうとしていた足がピタッと止まる。
「……気になるんですか?」
「そりゃあ、乃木くん、かっこいいし優しいし。校内1のモテ男子だよ? 気になるに決まってるじゃん」
ほら、早く行かなきゃ。先生が待ってる。
そう頭の中で急かすけれど、意識は完全に2人の会話に持っていかれていて。
「実は、1年の時のクラスメイトが、先週乃木くんに告白したそうなの。だけど……『誰とも付き合う気はない』って振られたんだって」
コツッとローファーの音が鳴った。覗いてみると、彼女が乃木くんの顔を覗き込んでいる。
「不思議だよね。中学の頃からずっと同じ理由だったのに」
「知ってるんですか?」
「友達の妹が乃木くんと同級生でね。教えてもらったの。みやびちゃんって子なんだけど」
その瞬間、全身が金縛りに遭ったように固まった。
みやびちゃんは、私と乃木くんのクラスメイトで、成績学年首位の美人優等生。生徒会長も務めていたため、校内では才色兼備だと謳われていた。
「3年間一緒だったのに情け容赦もなかったらしいね。卒業式の後、ショックで丸3日寝込んだって言ってたよ」
「……僕が嘘をついてるって言いたいんですか」
「やだなぁ。私はただ、突然変えた理由が知りたいだけ」
先輩の顔に不敵な笑みが現れた。
「本当なら、証明してみせてよ」
わかるよ。先週と言ってることが違うなら、疑問を抱くのも当然。でも、このやり方は卑怯すぎる。
いくら振られて悔しかったからって、腹いせに追い詰めるなんて。こんなの先輩の立場を悪用したパワハラだ。
本音を言うと、少し複雑。
だけど……今ここで見て見ぬふりしたら、夢の中の彼らと同じ。
好きな人が窮地に立たされているんだ。──助けなきゃ。
「できないなら、ここで土下座するか、私と付き合うか。大丈夫、他の子には内緒にしておいてあげ──」
「特徴を言えばいいんですよね?」
名前を呼ぼうと口を開きかけたその時、低い声が彼女の声を遮った。
「強くてたくましくて、かっこいい性格をしています。見た目は黒髪で大人っぽいですね。清楚系美人って言葉が似合う綺麗なお顔をしています」
口を挟む余地を与えず、早口で話し始めた。
特徴1つ1つが明確で……彼女への想いが本物であると伝わってくるほどに。
「皆吉さんっ!」
立ち尽くしていると、手島くんが戻ってきた。
「遅くなってごめん! なんか水の流れが悪くてさ、格闘してた。これ書いといたほうがいいよな」
「そう、だね。ごめん、用事思い出したから先に帰るね」
チェックシートを彼に押しつけ、脇目も振らず昇降口に向かう。
端から釣り合うわけないってわかってた。
だからせめて、困った時に寄り添うことができる、頼れる良きクラスメイトになれたらって。
なのに。
『……相当惚れ込んでるんだね』
『はい。来週のお祭りで告白しようと思っているので』
胸を突き刺す光景から逃げるように、無我夢中で自転車を走らせた。