翌朝。日傘や手持ち扇風機で暑さをしのぐ生徒達にまぎれて、1人汗だくで自転車を押して歩く。

「おはよう」
「おはようございますっ」

 校門に立つ先生に挨拶を返し、額の汗を拭う。

 やっと雨続きの日々から解放されたと思ったら、次は汗続きの日々って。まだ8時なのに。

 まぁ、こんな炎天下の中、20分近くも自転車漕いでたら暑くなるのは当然なんだけど。

「皆吉さん、おはよう!」

 ため息をついていたら、一際大きい声が飛んできた。顔を向けると、頭に赤いタオルを巻いた男の先生が手を振っている。

「おはようございます。……都丸先生ですか?」
「ピンポーン! 帽子を洗うのを忘れちゃってな。急遽タオルで代用したんだよ」

 あっはっはと豪快に笑い始めた。

 濃いめの顔と筋肉質な体型が印象的な都丸先生。
 担当教科は体育で、剣道部の顧問を務めている。

「他の先生からラーメン作ってそうって言われたんだけど、皆吉さんはどう見える?」
「うーん、大工さんですかね。情熱的な職人ってかんじがします」
「職人⁉ 嬉しいなぁ」

 気分を良くした先生が再び豪快に笑う。

 実は都丸先生、うちの店の常連さん。父いわく10年以上の付き合いなんだとか。

 小さい頃からの顔見知りというのもあって、バッタリ会った時はこんなふうに立ち話している。

「にしても暑いねぇ。そっちはしっかり守られてて羨ましいよ」
「いや、そうでもないですよ。確かに頭皮は守られてますけど、通気性がないので……」

 汗が背中を伝うのを感じ、苦笑いで返した。

 今日の天気は快晴。予想最高気温は34度らしい。

 他の先生達は帽子を被ったりアームカバーを付けているが、私の場合、防備しているのは頭だけで手足はむき出し。

 日焼け止め塗ってきたけど、もう落ちてるだろうな。腕にじんわり汗が浮かんでるもん。

「じゃあまた2時間目に!」
「はい。お先に失礼します」

 生徒が増えてきたため、速歩きで駐輪場へ。自転車を停めてヘルメットを脱ぎ、周りに人がいないかを確認する。

 早く涼みたいけど、このまま教室に入るのはちょっとあれだから、せめて上半身だけでも綺麗にしておこう。

 シャツのボタンを外し、タオルで汗を拭き取る。

「皆吉さーん!」

 すると、突然駐輪場に私の名前が響いた。

「おはよー!」

 恐る恐る振り向いた先には、笑顔で手を振るフランス人形くんの姿が。慌ててシャツのボタンを留める。

 なんでここに……自転車通学じゃないよね? 暑くて涼みに来たとか? でもそれなら真っ先に冷房が効いている教室に行くはず……。

 もしかして、私のことを見かけて追いかけてきた……?

「おはよう。どうしたの? 何か用事でもあった?」

 駆け寄ってきた彼に平然を装って尋ねる。

「さっき都丸先生に、『少しフラついてたから様子見てきてくれない?』って言われて。どこか具合悪いの?」

 顔を覗き込まれ、至近距離で目が合った。体が硬直すると同時に心臓が大きく鳴り始める。

「ううん。汗かきすぎて疲れただけ。もう大丈夫」
「そう? 良かったー」

 柔らかな笑顔を向けられて、今度は顔が熱くなっていく。

 私ってば、なにドキドキしてるの。乃木くんは先生に言われて来ただけなのに。

 そもそもよく考えたら、校内トップレベルのイケメンが、校内ワーストレベルの地味女に用事なんてあるわけないじゃない。

「暑い時は途中で休憩挟んだほうがいいよ。皆吉さん、暇さえあればいつも勉強してるからさ。せっかく登校しても、悪化して授業休むってなったら、それこそ辛いだろうし」

 強く言い聞かせるも、胸の高鳴りは収まらず。

 勉強してること、知ってたんだ。寝てばっかりでクラスメイトと全然つるまないから、あまり人に興味がないのかなと思ってた。

 面倒くさがり屋さんだけど、意外と周りを観察しているタイプだったり?

 ……それとも、実は寝てるふりしててこっそり見てたとか?

「あっ、ごめん。バス通学の人間が偉そうに……」
「ううん! こっちこそ心配かけてごめんね。次からは気をつけるね」

 いや、さすがにそれは考えすぎか。

 隙間時間に勉強する習慣は小学生の頃からで、今に始まったことではない。

 乃木くんとは3年間同じクラスだったし、多分教室で何回か見かけるうちに印象に残っただけだろう。

 早口で言葉を並べて、湧き上がってきた考えを消し去った。


「あの、乃木くん。昨日の、別れ際のことなんだけど」

 昇降口に向かいながら話を切り出す。

「結局あれって、どういう意味だったの?」
「あれ? 食べかすのこと?」
「いや、お祭りのこと。皆吉さんが行くなら行こうかなって言ってたよね? なんで、私なのかなぁ……って」

 ずっと気になっていた、お祭りに行く理由。

 本当は涼しい室内で聞きたいのだが、クラスメイトの目があるため、少々話しかけづらい。

 休み時間は寝てるから無理だし、放課後もバスの時間があるから引き止められない。

 校内の中で人目が少ない場所といったら、せいぜい裏門付近か校舎裏。チャンスは今しかない。

「もしかして、罰ゲームで……?」
「違うよ! 決めたのは俺の意思! 本心だから!」

 なかなか口を開かなかったので、まさか誰かに脅されて……? 思ったけれど、杞憂だった。

「その……手島達と俺らって、学区違うじゃん? もしどっちかが行かなかったら、帰り道寂しくなりそうだよなって」

 理由を聞き、美男美女軍団の顔を思い浮かべる。

 手島くんと千葉さんはバス通学で、ゆまと山谷さんは電車通学。

 会場との距離を考えると、おそらく全員、通学の時と同じ交通手段。

 解散した後、自分だけ1人で帰る……うん、寂しいな。

「俺んちの周り、自然に囲まれててさ。街灯がなくて真っ暗だから……」
「それは心細いね。もしかしてそれで親に送ってもらってたとか?」
「そうそう。冬限定でね」

 なぜ車通学なのかがようやく腑に落ちた。

 自然に囲まれた地域は、私が住んでいるところよりもうんと先。自転車通学なら私以上に時間がかかってしまう。

 乃木くんのことだから、時間短縮と体力温存のためにバスで通ってるのかも。

「皆吉さんのところは夜道暗くない?」
「街灯があるからそこまでは。自転車のライトも点いてるし。……さすがに当日は乗れないけど」

 ポソッと返すと、乃木くんの目が丸くなった。

「えっ、当日って……」
「うん。お祭り、行けることになったんだ」

 大きく開かれた目を見つめてハッキリと伝えた。

 昨夜、両親に相談したら、『たまには息抜きしておいで』と丸1日お休みをもらったのだ。

 ちなみに会場まではお父さんの車で行く予定。もちろん帰りも同じく。といっても、運転するのはお母さんだけど。

「良かったね! でも、お店大変じゃない? この時間帯ってお客さん多そうだけど……」
「大丈夫。毎年この時期は……」

 ハッと我に返り、口をつぐむ。

「えっと、夏祭りに行く人が多いから、休日でも少ない人数で回せるの。ほら、屋台って色んな食べ物売ってるじゃない? そっちでご飯買う人が多いというか……」
「なるほど。そういや手島も、屋台でご飯済ませるって言ってたな」

 話をつなげることに成功し、胸を撫で下ろす。

 危なかった。流れに任せて話すところだった。

「皆吉さんは何食べるか決めてる?」
「たこ焼きとかお好み焼きかな。あまり屋台で買い物しないから、メジャーな物しか知らないんだよね」
「あー、ずっとお店の手伝いしてたんだっけ。お祭りにあまり行かないなら無理もないか」

 安心はそう長くは続かず。汗を拭うふりをして顔を背ける。

 乃木くんは何も悪くない。ただ思ったことを言っただけ。

 別に、全部打ち明けなければってわけでもないから、このまま隠し通すこともできる。

 しかし、家庭の事情を教えてしまった以上、今は良くてもいずれ限界が来るだろう。

 話すの、怖いな。でも、隠し続ければ続けるほど、精神的にどんどん辛くなる。

 ちゃんと話せるよう、夏祭りの日までに心の準備をしておかないと。

 視線を落としたまま歩いていると、「乃木くーん!」と後ろで大きな声が響いた。

「おっはよー! 今日も朝から眩しい頭してますね〜。この色男っ!」
「はいはいどうも。そっちも朝から騒がしいですね」
「わー、つめたー。あっ、皆吉さんも一緒だったんだ。おはよ!」
「お、おはようっ」

 乱入してきた手島くんにぎこちなく挨拶を返した。トートバッグから見えるユニフォームと濡れた前髪から、朝練終わりということがうかがえる。

 この時期に外で練習なんて、疲れ切ってるはずなのに。さすがシャトルラン120回超え。

 私も人より少し体力はあるほうだけど、やっぱり運動部には敵わないや。

「なぁなぁ、都丸先生見た? 頭にタオル巻いてんの」
「見た。焼きそば職人みたいですねって言ったらめちゃくちゃニコニコしてた」
「乃木は焼きそばかぁ。俺はたこ焼き屋の店長かな。秒でひっくり返してそうじゃね?」

 昇降口が近づいてくるにつれて、生徒の数も増えてきた。歩幅を小さくし、並んで歩く彼らの斜め後ろに移動する。

 ……綺麗だなぁ。

 日光に照らされて繊細な輝きを放つミルクティーベージュ。

 もう何百回と見てきている光景だけど、目が釘付けになってしまう。

「うわっ、なに今の子。めちゃくちゃイケメンじゃなかった⁉」
「やばいよね! 芸能人かと思った!」
「あの髪色羨ましい。地毛なのかなぁ」

 昇降口に入った途端、女子達の視線が前方の彼に集まっていく。

 あぁ、やっぱり今日も……。

 入学式の時点で既に、『かっこいい男の子がいる』って噂されてたもんな。

 そのせいか、どこへ行ってもどこにいても、常にみんなの注目の的。

 入学から3ヶ月経った今、教室で騒がれることはなくなったものの、一歩外に出ればこの有り様。早いうちに距離を取っておいて正解だった。

「皆吉さんはどうだった?」

 靴を履き替えていると、手島くんに呼ばれてパッと顔を上げた。

「ごめん、聞いてなかった。何?」
「お祭りに行ける許可下りた?」
「うん。相談したら丸1日お休みもらったから」
「マジ⁉ 皆吉さんも⁉」
「そうだよ。みんな来てくれて良かったね」

 喜びを噛みしめる手島くんの肩を乃木くんがポンポンと叩く。

 柔らかい口調に優しげな眼差し。だけど……若干口元が引きつっているような。私の気にしすぎ……?

「今年の夏は過去最高に楽しい夏になりそうだ……」
「くれぐれも羽目外すなよ」
「大丈夫だって! 先生達見回りに来るし。それよりさ、なんでオッケーしてくれたの?」

 ドキッと心臓が揺れたのを感じた。

 了承したけど、理由までは話してなかったみたい。

「何か心境の変化でもあった?」
「別に。夏休み部活三昧で彼女もいない手島くんが可哀想だなと思っただけ」
「同情にしてはだいぶ刺々しいな。そういうお前も彼女いねーだろ」
「まぁね。あと、あの個性つよつよ軍団の中でお前1人はきついだろうなって」

 怯むことなく淡々と答えている。

 ……だよね。正直に言ったらますます騒ぎそうだし。言えるわけないか。

 ただ、あまりにも堂々と話すもんだから、ちょっとビックリしている。

 これも理由のうち、なのかな……?

「ふーん、なんだかんだ俺のためを思って考えてくれたわけね」
「そういうこと。でも、浴衣美女に目移りしたら別行動だからな。チラ見もダメだぞ」
「うわぁ、鬼畜ぅー。さっきの感動返せよぉー」

 口を尖らせた手島くん。プイッとそっぽを向いて先に行ってしまった。

「ごめん皆吉さん。さっき、校舎裏で話したこと、みんなには……」

 その背中を見送ると、残された彼がおもむろに口を開いた。

 困ったような笑顔、口に当てている人差し指。そして、キーワードの校舎裏。

 何を内緒にしてほしいのかを察した私は、親指と人差し指で丸を作り、静かに頷いた。