高校生活も二年目になると、誰だってこなれ感は出てくる。
そして入学したての一年生でもなければ、受験を控えた三年生でもない中間学年は、とても気楽なものだ。
だからなのか、新しいクラスになってまだひと月だというのに、教室内で聞こえてくる会話は桃色であることが多い。
ようは、恋バナだ。
何組の誰それがかわいい。誰それがかっこいい。新入生にイケメンがいた。彼女ほしい。
もちろん他の話題で盛り上がっているグループもあるのだろうが、如月佑絃が属する三人グループは、もっぱら恋やそれにまつわる下世話な話ばかりしている。まあ、男子高校生なら『普通』の会話なのだろうが。
昼休みに教室で昼食をとったあとも、やはり話題に上るのはそんな話だった。
「六月に修学旅行あんじゃん? 俺、それまでには彼女ほしい」
「え? おまえ好きな子いたっけ?」
「いないけど! それまでにはつくるから!」
グループの中で一番お調子者でおバカな颯人が、蓮のツッコミにやはりおバカな回答を返している。
「佑絃だって欲しいよな!? 彼女!」
「あー、僕は……」
「なんだよ、おまえも俺をバカにすんの?」
「してないだろ、誰もバカになんて」
「でも思ってるよねー。好きな子いないのに彼女ってって」
「やめろ蓮。ややこしくなるから……」
「ほら思ってんじゃん! ほらほらぁ!」
佑絃はため息をついた。
井手颯人という男は、中学の頃からこんな感じで賑やかな奴だ。一人で勝手に盛り上がってくれることも多いので、特にトークに自信があるわけじゃない佑絃でも付き合いやすい友人である。
対して蓮――藤崎蓮は、高校に進学してからできた友人だ。一年のときに同じクラスになって、互いにローテンションで生きているからか波長が合い、進級しても同じ文系クラスになったことから友人関係も続行中である。
この二人と一緒にいるのは、佑絃にとって嫌なことではない。
おバカな颯人がバカなことをして、それをケラケラと笑う蓮と自分。蓮は人を揶揄う癖があるため、蓮に揶揄われて助けを求めてくる颯人を慰めるのが佑絃の役目。
けれど、一つだけ、どうしても彼らと一緒に盛り上がれない話題がある。
「つーかさ、むしろ修学旅行で告白を企む奴のが多いんじゃないの? ほら、なんかジンクスみたいなのあっただろ。だからそれまでに好きな子つくって、修学旅行で告って、三日目の自由行動のとき一緒に回ったら?」
「蓮、おまえっ……おまえー! なんて頭のいい奴なんだ! よしそれでいこう」
「うん、わかってたけどやっぱバカだよな、颯人って。あと単純」
「フッ、今は何を言われても平気だぜ。なぜなら俺には希望が見えたから! てことで、俺、三日目の自由行動いないからよろしく」
なんとも気が早い颯人に蓮が突っ込む。佑絃も苦笑しながら内心で同意した。
「あ。でも俺もいないかも、三日目。優愛に絶対一緒に回ろって言われてんだよな。佑絃どうする?」
「佑絃も彼女つくろうぜ! せっかくの修学旅行なんだしさ」
せっかくの修学旅行だから彼女をつくる、という文脈は全く理解できなかったが、颯人にとって彼女がいることは幸せなこと、楽しいこと、という意味で脳内にインプットされているらしく、よくイベント事と絡めてそう言われる。
そういうとき、佑絃は必ず返事に詰まる。
なるべく空気を壊さないよう曖昧に笑って誤魔化すけれど、おそらくそろそろ蓮あたりにはバレそうだ。佑絃がこの手の話題を苦手としていることを。
実際、バスケ部の先輩に颯人が呼ばれて二人きりになったところを見計らって、蓮が真面目な顔で「あのさ」と伺いを立ててきた。
「あー、センシティブな話だから、答えたくなかったらいいんだけど。なんつーか、佑絃ってもしかして……」
「同性愛者ではない」
「――あ、そうなの? つかよくわかったな」
「この時代だしな。中学で似たようなこと言われたこともあったから」
「そうなんだ。ふうん?」
蓮が不思議そうに首を捻っている。
「じゃあ、単純にまだ恋愛に興味がないってだけか。そういうのは人それぞれだし、好きな子できたら教えてよ。応援するからさ」
「……ん。できたらな」
それから颯人が戻ってくるまで、蓮の彼女の話をしていた。
というより、蓮が彼女の愚痴という名の惚気話をしていた。颯人がいるところでそういう話をすると、確実に拗ね出すので、蓮はここぞとばかりに発散している。
他人の話をただ聞くだけなら、佑絃も別に気まずくはならない。
佑絃が気まずい思いをするのは、自分にも恋愛話が振られそうな匂いのするときだ。そして実際に振られたとき。
これまで誰かを好きになったことはない。
誰にもそういう意味で興味を持ったことがない。
告白されたこともあるけれど、たまに耳にする『お試し』で付き合うことも無理だと思った。
微塵も興味の沸かない相手と、お試しですら付き合う時間がもったいない。そう思ってしまったからだ。
最初はそんな自分の心情を、特に気にしてはいなかった。まだ小学生だったこともある。
ただ、中学生になり、周りはどんどん誰かを好きになって、そういう話題で盛り上がって……となってくると、さすがの佑絃も居心地の悪さを感じ始めた。
高校生になって、ついに自分と周囲との違いを認識し始める。
そうして最近では、大多数の中に入れない自分のほうがおかしいのではないかと思うようになっていた。
佑絃からすれば、異性愛者も同性愛者も両性愛者も変わらない。同じように誰かを好きになれる。誰かを『好きになる』という『普通』のことができる。それが羨ましい。
そしてできない自分が、そういう話題を振られるたびに「おまえは普通じゃない」と言われているような気がして、それが『悩み』になるのは当然の流れだった。
放課後、どの部活動にも所属していない佑絃は、颯人とも蓮とも別れて、一人帰宅の途につく。
まだ騒がしい教室をさっと出て行き、下駄箱で靴を履き替え、裏門の近くにある駐輪場まで行く。
自転車通学の生徒は、この裏門から帰る人がほとんどだ。
けれど、部活動に所属する生徒が多いため、この時間はまだ人通りが少ない。
だからか、この時間に帰るときにたまに目撃するのは、他人の告白現場だ。
裏門は駐輪場以外に大きな白樫の木が一本そびえ立っている。その木陰が告白場所としてよく利用されているのは、知る人ぞ知ることだ。
特にこの時間は、部活動が始まるまでのちょっとした空き時間にもなっているため、佑絃が少し遠い場所から告白現場を目撃したのは、一年のときから数えてもう十回ほど。
驚きなのは、その十回の中で六回も登場した人物がいることだ。
――久我悠生。
同学年の、さらにはクラスメイトの男。
大学生にも見える大人びた風貌で、明るい髪色と柔和な笑顔が色気のある、同級生にも上級生にも人気のイケメン。この春に入学した新一年生にも、おそらく人気が出そうな男である。
噂では結構な頻度で彼女が変わっているらしく、佑絃からすればチャラそうなイメージしかない。
けれど、ここで目撃した彼が相手の告白に頷いていたのは、一年生の初秋の頃までだった。それ以降は断っているようだ。
何か心境の変化でもあったのだろうかと思うものの、そんなことをわざわざ本人に訊くほど好奇心旺盛でもなければ、久我と友人関係にあるわけでもない。
本日、十一回目となる告白現場は、まさにその久我が告白されていた。本当にモテる男だ。
今までと同じようにそれを横目に通り過ぎようとしたとき、誰かに「如月!」と呼び止められた。
ちょうど門を越えようとしたところだったので、反射的にブレーキをかける。
ちょっとだけ息を乱して駆け寄ってきたのは、まさかの久我だ。
佑絃は思わず白樫の木と久我を交互に見やった。白樫の木陰には、先ほどまでいた女の子がいつのまにかいなくなっている。
「今帰り?」
「え、ああ。そうだけど……」
言外に告白はいいのかと問う。
久我は空気の読める男のようで、佑絃の疑問に正確に答えてくれた。
「告白なら断ったよ。それでなんだけど、如月って今日ヒマ?」
「ヒマと言えば、まあ、ヒマだけど」
返答が曖昧な感じになったのは、単純にびっくりしたからだ。
クラスメイトと言っても、これまで久我と仲良く話したことはない。そもそも久我はカースト上位に位置するような目立つ男であり、勉学以外は何においても平凡な佑絃とは交わることがない。
なのに、そんな久我から時間の有無を訊ねられるなんて、青天の霹靂もいいところだ。もしここで一緒にカラオケにでも行こうなんて誘われたら、逆に何かを怪しみたくなるくらいには予想外のことが起きている。
「じゃあさ、俺とどっか行かない? カラオケでもファミレスでもいいけど」
うわ、マジか。佑絃は内心でビビる。本当にカラオケに誘われた。今までほとんど関わったことのない相手から。
「あのさ、一応、確認していいか?」
「なに?」
「僕とおまえって、二年になって初めて会ったよな?」
「そうだね」
「これまで仲良く会話したことなかったよな?」
「そうだね」
「なのにカラオケ?」
「ファミレスでもいいよ」
「なんで?」
「話したいから」
「は?」
「俺が如月と話したいから。訊きたいことがあるんだよね」
「あ、そういう……」
納得した佑絃は、サドルから下りると両手で自転車を引いた。久我は電車通学なのか徒歩通学なのかわからないけれど、そのまま佑絃についてこようとしたので、二人揃って裏門を出る。
「駅前ならカラオケもファミレスもあるけど、如月はどっちがいい?」
「ファミレス。歌は自信ない」
「ふはっ。歌うためじゃないから別にいいけど、じゃあファミレスにしよっか。なんか食いたいし」
そうしてイタリアンがメインのファミレスへやって来ると、奥の二人掛けの席へ案内され、向かい合って座った。
教室では久我のほうが後ろの席にいるため、あまりまじまじと彼を見たことはない。でも対面に座る今、初めてその整った顔をしっかりと見た気がする。
男らしく出っ張っている喉仏も、高く通った鼻筋も、切れ長の目も、同じ男から見ても羨ましいくらいにかっこいい。
ここまで整っていると近寄りがたいイメージをもたれそうだが、久我はいつ見てもだいたい笑っている。口調も柔らかく、分け隔てなく人付き合いをしているようで、それが親しみやすい印象をつくっているのだろう。
「俺ドリンクバーとハンバーグ頼むけど、如月は?」
「僕はドリンクバーだけでいい。というか、ハンバーグなんか食べて大丈夫か? 夕飯ちゃんと入るのか?」
「母親みたいなこと言うじゃん。大丈夫、俺大食いだから。ハンバーグのあとは締めのパフェも食べたい」
「うわ……」
純粋にドン引きしたら、久我が拗ねたように唇を尖らせた。
こういうところがやはり親しみやすい男なのだろうと思う。イケメンなのに気取ってなくて、久我の友人に接するように接してくれる。相手を見て態度を変えない。
互いにドリンクバーで飲み物を調達すると、佑絃はさっそく切り出した。
「それで、訊きたいことって?」
「あー……うん。実はさ、今日の昼休みに如月たちが話してる内容、聞こえてきてさ」
煮え切らないような態度に小首を傾げながら相槌を打つ。
しかし、すぐに「あ」と思った。
昼休みの会話といえば、修学旅行の話と、同性愛者かどうかの確認をされた。
前者なら久我がここまで気まずそうにはしないだろう。おそらく後者だと瞬時に察して、佑絃は久我の方へ顔を近づけて言った。
「もし勘違いしてるなら申し訳ないが、僕は同性愛者じゃない」
「え? ああ、違うよ。訊きたいのはそれじゃなくて」
「違うのか?」
だったら心当たりはない。大人しく久我の言葉を待つ。
「本当は話っていうか、そのときの如月の様子でもしかしてって思ったというか……如月って、今好きな人いる?」
「? いないけど」
「じゃあ過去には?」
「……いない。まさか訊きたいことってそんなことか? 悪いがそういう話はあんまり好きじゃないんだ」
「うん、俺も」
久我から返ってきた共感に、佑絃は一瞬自分の耳を疑った。
というより、予想だにしなかった返答だったような気がしてならない。
「今なんて言った?」
「『うん、俺も』って言った」
「俺も? つまりどういうことだ?」
「だから、俺も好きじゃない、恋愛の話するの。てか俺、アロマンティックなんだよね」
「あろ……アロマ?」
「ははっ。合ってるけど、たぶん如月が思ってるものと意味は違うかな」
久我がストローでアイスティーを意味もなくかき混ぜる。
一口吸って、おそらく続きを話そうとしたとき、注文していたハンバーグが運ばれてきた。
佑絃はハンバーグならご飯を一緒に食べたくなるタイプだが、久我はハンバーグ単体しか注文しなかったので、店員が伝票を置いていく。
久我がナイフとフォークを手に取って、さっそく切り分けて口に運んだ。
「おい、アロマがなんだよ。中途半端にハンバーグにいくなよ」
「あ、ごめん」
一口目を咀嚼して飲み込んだ久我は、フォークに角切りのポテトを刺しながら続けた。
「アロマンティックね。いわゆる恋愛におけるマイノリティの一つだよ。誰かに恋愛感情を抱かないセクシュアリティのこと。俺、これなんだ。誰も好きになれたことないんだよ。それで、教室で如月たちが話してるの聞こえてさ。そのときの如月が俺みたいだったから、もしかしてお仲間かなって思って確かめてみたくなったんだ」
そう言って、久我はフォークに刺したポテトを頬張った。あつっ、と眉を顰めている。
出来立てなんだからそりゃそうだろ、と脳内で突っ込む自分がいる一方で、心臓は早鐘を打っていた。
久我の言葉を内心で繰り返す。
誰かに恋愛感情を抱かないセクシュアリティ。
(そんなのが、あるのか……?)
多種多様な人々を認めていこうという動きがあるこの世の中で、同性愛者だけでなく、他人に恋愛感情を抱けないことにも、そうやって名前がついているのか。
「……久我」
「ふぁに?」
佑絃が呆然としていた間、久我は遠慮なくハンバーグを味わっていたらしい。そういうところは佑絃にとって好ましかった。変に気を遣われないぶん、自分も気を遣わなくて済むからだ。
「もう一回言ってくれ。アロマ……」
「アロマンティック。言っとくけど、アロマセラピーとかのアロマじゃないからね」
「さすがにそれはわかる。……ちょっと調べてみてもいいか?」
「どうぞどうぞ」
スマホを取り出して、今覚えたばかりの言葉を検索してみた。
久我に教えてもらったことと同じことが様々な記事に書かれている。他者に対して恋愛感情を抱かない性的指向。
他にも、恋愛感情だけでなく性的欲求も持たないことをアロマンティック・アセクシュアルと言う、との記載も見かけた。
「……恋愛感情とか、性的欲求とか、そういうのを抱かない人もいるのか……」
「いるよ。さっきも言ったけど、俺がそうだしね。俺は性別に関係なく、誰も愛せない」
ハンバーグを完食した久我が、紙ナプキンで口元を拭きながら答えた。
けれど、その少しだけ伏せた瞳には、憂いの色が滲んでいた。
「俺がそれを自認したのは、高一の秋ぐらいだったかな。もともと違和感は持ってたんだ。でもアロマンティックって言葉を知って、ああ俺、たぶんこれだって思ったんだよ」
佑絃は意外な思いで久我を見つめる。
彼はとにかくモテる。しかも彼女を取っ替え引っ替えしている噂だってあった。
(いや、でも確か、昨年の秋くらいから告白断ってた、な?)
そう。噂では相変わらず女たらしのレッテルを貼られているけれど、佑絃が実際に目撃した久我はその頃から女子の告白に頷いているところを見たことがない。
「もしかして久我、だから告白断るようになったのか?」
「あ、やっぱり見てた? たまに如月が帰るところ見えたけど、おまえと目が合ったことなかったからさ。ちょっと気になってたんだよね」
久我がくしゃりと笑う。女子曰く、この笑顔が真剣な表情とのギャップがあってかわいいらしい。
けれど同性の佑絃にとっては、特にときめくものではない。
「俺、中学の頃から告白されること多くて、最初は付き合ってるうちに俺も好きになれるかなって思ってOKしてたんだよね。てか、お試しでいいから付き合ってって、向こうから頼まれることが多くてさ。でも結局好きになれなくて、彼女のほうがそれに耐えられなくなっちゃって、それで別れるの繰り返し。次こそはって思っても、なんかだめだったんだよね~。俺ってもしかしてゲイか? って悩んだこともあったけど、残念ながら男もピンとこなくて。色々調べてるうちに見つけたのがアロマンティックってやつ」
いつのまにかコップの中のアイスティーを飲み干したことに気づいたのか、久我が話の途中だというのにドリンクバーに行ってしまう。さすがに自由すぎる。
呆れ目で久我の姿を追いながら、佑絃は内心で彼の話を咀嚼した。
少しだけ話についていけていない自分を自覚している。
アロマンティックがどういうものかは理解した。正直に言うと、そういう概念が存在すると知ったとき、佑絃の心の中に広がったのは嬉しさと安堵だ。
だってもしかして、もしかして、自分も――。
あるいはそれは、期待なのかもしれない。自分のモヤッとした悩みを、はっきりさせることができるかもしれない期待。
人は、わからないものほど恐れる傾向にある。
昔の人が雷を神の怒りだと言って恐れたことが良い例だ。雷がどういうものか解明できなかった時代、人はわからないままでいることを忌避し、神の怒りだと考えるようになった。そうしてわからないものを無理やりにでもわかったことにして、安心していたのだ。
それと似たような心情が、佑絃の中にも広がっている。
漠然とした『なんで人を好きになれないんだろう』『なんで自分だけそうなんだ』という恐怖にも似た悩みが、おまえはそういうセクシュアリティだからと言ってもらえただけで無性にほっとした。
それはきっと『病気だったわけじゃない』『自分は人として何かが欠けているわけでもなかった』ということがわかったからだ。
「ごめんごめん、お待たせ~」
「本当だよ。話の途中で行きやがって」
「あはっ。顔怖いよ如月ぃ~。でもおかげで整理できたんじゃない?」
きょとんと久我を見つめた。そしてすぐに眉根を寄せる。
久我は案外人を見ているらしい。
「さて、じゃあ期待に応えて続けるけど。その前に、俺の話聞いてどう思った?」
「どうって?」
「身に覚えがあるなとか、もしかしてとか、あとはそうだね……安心したとか?」
なぜか得意げな顔でニヤつく久我に、佑絃はほとんど飲めていなかったコーラに逃げた。ストローを口に含み、甘くて刺激の強い液体を喉に流し込んでいく。
その間に久我が諦めてくれないかと思ったけれど、彼はじっと佑絃を見つめたまま視線を離さなかった。
まるで、逃げないでくれと縋られているようだ。
(どうする、言うのか? 思ったことをそのまま? でもこれマイノリティなんだろ? それに、僕もこれだって決まったわけじゃ――)
そこまで思って、佑絃はふと気づく。
そう、僕『も』なのだ。アロマンティックのことを教えてくれた久我『も』、人を好きになれないことを悩んでいた。
それを理解したとき、佑絃の口は自然と開いていた。
「……白状すると、僕もずっと悩んでたんだ。人を好きになれない自分を。もしかして心のどこかがおかしいんじゃないか、人としてやばいんじゃないかって、恋愛の話を振られるたびに思ってた」
「うん」
「でも空気を壊したくなくて、適当に話を合わせてたんだ。好きな子ができたら教えてって言われるたび、困る自分が嫌だった」
「うん、わかるよ」
「だからたぶん、嬉しかった。ほっとした、と思う」
「俺の話を聞いて?」
「そうだよ。僕だけじゃないんだって知れたのが、一番嬉しかった。久我もそうなんだって、それが、一番、安心した」
正直に答えたら、久我が優しく目を細めた。
「うん、俺もだよ。俺、こうだからさ、良い意味でも悪い意味でも恋愛系の話には敏感になってて。教室で如月たちが話し始めたときも、無意識に耳を傾けちゃってたんだ。苦手なら聞かなきゃいいのにね。でも如月が自分に重なって見えたとき、正直興奮した。もしかして同じ奴がいるのかって」
その気持ちは痛いほど理解できる。もしこれが逆の立場だったら、佑絃も興奮したはずだ。
ずっと悩んできて、恋愛が当たり前とされる集合体の中で、その当たり前に対して同じように生きづらさを感じている仲間がいるとわかれば、たとえそれまで会話をしたことのなかった相手でも思わず話しかけてしまうだろう。
教室で久我が話しかけてこなかったのは、おそらく人目を気にしてだ。その理性はあった彼に感謝するべきか。
「ね、締めのパフェ頼んでいい?」
「唐突だな」
「いやだって! 一応これでも不安だったんだよ。お仲間かと思ったのに違ってたら辛いじゃん。でもその不安が解消されたのと、仲間を見つけたお祝いに。いい?」
「おまえの金なんだから好きにしたら」
「ありがと。俺が食べ終わるまでいてね。もっと話したい」
無邪気にメニュー表を広げる久我に、つい笑ってしまった。まさかそのための時間稼ぎとしてデザートを追加したんじゃないだろうなと思って。
もしそうなら、このイケメンが女子の言うように少しだけかわいく見えた。
「そうだ。如月のこと、佑絃って呼んでもいい?」
「別にいいけど。急に距離縮めてくるな?」
「うん。だって俺、本当に嬉しくて。相手を好きになれない虚しさばっかり感じてて、なのに誰にも理解してもらえなくてさ。そういうことを相談しても『まだ本命に出会ってないだけじゃねぇの』とか『贅沢なこと言ってんな』とか、誰も真剣に取り合ってくれないんだよね。なんか果てには女たらしとか噂されるし、マジで勘弁してって思ってたから」
「あ、それは悪い。僕もそうだと思ってた……」
「佑絃も!? えー、酷いなぁ」
「でも今は思ってない。自認してから告白断ってるんだろ? さっき久我、自分のことアロマンティックだって言ったよな。性的欲求がないわけじゃないのに、自分に告白してくる子を利用しないのは偉いと思う」
「佑絃……。俺、おまえと出会えてマジで嬉しい。やばい、ちょっと泣きそう」
「いや、大げさだろ」
「じゃないよ。自分のこと理解してくれる人がいるのって、こんなに嬉しいもんなんだね」
佑絃は気恥ずかしげに頬を掻いた。
佑絃にとっても久我は理解者だ。漠然と悩んでいたことに答えをくれた相手。
確かにその存在は、嬉しくもあり、頼もしくもある。
「な、連絡先交換しよ。あとこれから学校でも話しかけていい? 昼も一緒に食べたい……けど、食べれないか、さすがに。佑絃いつも一緒にいる奴らいるよな」
「いるけどちょっと待て、一気に喋るな。なんかおまえのイメージだいぶ変わったんだけど」
「そ? ちなみに今はどんな?」
「なんか、大型犬っぽい?」
そう言ったら、久我が思いきり噴き出した。
その日から、久我は本当に学校でもよく話しかけてくるようになった。
最初はカーストクラスの違う二人が交わり始めたことにみんなが驚きを隠さなかったけれど、周囲に何を言われても久我が忠犬のごとく尻尾を振って佑絃に絡むことをやめなかったので、いつしかそれが日常になっていた。
といっても、それぞれに友人はいるため、普段は各々のグループで過ごしている。
代わりというわけではないけれど、二人とも部活動に入っていない放課後は教室に残ってだべったり、ファミレスに行ったり、バッティングセンターに行ったりと、二人で遊ぶことが多い。
そうして久我との仲を深めながら気づいたのは、久我が結構周りを気にしないということと、意外と情に厚い奴だということだ。
佑絃の友人である颯人や蓮が変な心配をして「たらしに佑絃は渡さん!」と――特に颯人が――目の敵にしたときは「はは、でもごめんね~。俺には佑絃しかいないから」と軽く躱し、自分の友人に「なんであんなクソ真面目そうな奴とつるみ出したん?」と訊かれたときは「俺の勝手でしょ」と笑いながら怒っていた。
怒ったのは、おそらく彼らが佑絃をバカにするように鼻で笑ったからだ。
「なあ、久我」
「待って。今俺集中してる」
そう言った久我の手元には黄色いボタンが二つある。彼は真剣な眼差しを前方にやっており、そこにはガラス越しに大量の猫のぬいぐるみキーホルダーが山積みされていた。
小さなクレーンゲームだが、ゲームセンターの前を通ったときに久我が突然足を止めて「やりたい」と言い出し、今に至るわけである。
本当は今日は、これからファミレスに行って勉強する予定だったのだが。
「――お、おっ、わー! 取れた!」
あくびを噛み殺していた佑絃は、久我の歓声につられてクレーンゲームに視線を移した。
取出し口から景品を取り出した久我が、無邪気に歯を覗かせる。
「見てよ佑絃! かわいくない!?」
久我の手の中には、まるで中年のオッサンが寝そべってだらんとしたような格好のブサい猫がいる。その表情もなんとも微妙で、偉そうというか、気怠げというか。
「かわいいか? ぶっさいくな猫にしか見えないんだけど」
「えー、これ佑絃に似てると思ったのになぁ」
「ちょっと待て」
それは聞き捨てならない。誰が中年のオッサンだ。
「久我は本気で眼下に行くべきだと思う。いや、脳外科かも」
「なんでだよ。俺の美的センスは俺のものだからいいの。俺にはこいつがかわいく見える」
「嘘だろ……」
久我はそのキーホルダーを鞄に付けた。佑絃がもう一度「嘘だろ」と呟いたのは仕方ないと思う。
やっとお馴染みのファミレスに到着すると、ドリンクバーと軽食を頼んだ二人は、さっそくテーブルの上に勉強道具を広げた。
来月には修学旅行を控えているが、その前に別のビッグイベントが待ち構えている。中間テストだ。
そこで久我から提案があり、二人で一緒に勉強することにした。テストの範囲はすでに全部出ているので、今日は一番範囲の広い数学をやろうと二人で決めている。
「小林先生マジで鬼じゃない? 一年の復習も入れてくるとかさ~。俺、一年のときに勉強したことは進級と共に置いてきたんだけど」
「置いてくるなよ。そういえば久我ってどれくらいなんだ?」
「何が?」
「期末とか。学年順位」
「あー、だいたい六十位以内にはいる感じかな。佑絃は?」
「十五位以内」
「マジで。さっすが佑絃! じゃあよろしくお願いしまーす、佑絃先生!」
「誰が先生だよっ。調子いいな、おまえ」
ははっ、と久我が楽しそうに笑う。
さすがにこれだけ一緒にいると、久我の綺麗すぎる顔にも慣れてきた。最初の頃は少しだけ戸惑っていたのだが、今では久我の笑顔を見ると落ち着く自分がいる。
なんでだろうと、ふと疑問に思う。
「あ。そういえばさっき、なんだった? あとで聞こうと思って忘れてたけど」
「さっき?」
「ゲーセンで俺に話しかけてくれたよね?」
「ああ、別に大したことじゃ……――いや、大したことだった。思い出した。おまえに言いたいことあるんだけど」
「うわなに、怖いよ」
「おまえさ、もうちょっと取り繕ったら?」
直球で用件だけ言ってしまったからか、久我が不思議そうに首を傾けた。
佑絃は順を追って伝える。
「だから、僕のことバカにした奴らに、真正面から喧嘩売るなって言ってるんだよ。おまえ、そのせいか最近あいつらと一緒にいないだろ?」
たとえば小休憩のとき。たとえば移動教室のとき。久我が一人でいるところばかり目にするようになった。最近は昼休みもいつものグループとは一緒にいなくて、彼はすぐに教室を出て行ってしまう。
「さすがに僕も責任感じる」
「別に佑絃が責任感じることないよ。もともとあいつらは俺のおこぼれ目当てだったし、特に失って痛い関係じゃない」
「おこぼれ?」
「俺に寄ってくる女の子目当てってこと」
「ああ……」
なるほど、と頷く。
「あいつらといるとさ、そうやって俺を餌にされて、行きたくもないところに連れ回されて、恋愛目的の女の子の相手もしてって、無駄に労力使うから疲れるんだよね」
「イケメンも大変なんだな……」
思わず突いて出た言葉に、久我がフッと自嘲の笑みをこぼした。
「イケメンか……。それってさ、結局のところ俺じゃなくて周りの主観でしょ? その主観で勝手に餌にされるのは、そりゃあ面白くないよね」
「た、確かに。逆によく今まで一緒にいたな? そんな奴らと」
「ねー。対立するのも面倒だったからさぁ」
数学のノートも教科書も開いているのに、二人ともまだ一問も解いていない。
タイミング良く運ばれてきたフライドポテトを、テーブルの端に寄せた。
「じゃあさ、僕らのところに来るか? 颯人も蓮も、もうおまえのこと誤解してないし」
「……いいの?」
「当然だろ。おまえが一人でいるのはなんか見たくない」
「ふはっ。それどういう感情なの」
知らない、と答えたら久我がまた吹き出した。
まだ知り合って間もないはずなのに、やはり久我の笑った顔にほっとする。
その理由が判明したのは、中間テストが無事に終わったあとのことだった。
テストは数日かけて行われ、その間の部活動は全学年が休止となる。それは最終日まで続き、テストから解放されて部活動も休みということもあって、颯人がみんなで一緒にカラオケに行こうと言い出した。
それ自体に否やはない。
颯人も蓮も、そしてあの日から放課後以外も行動を共にするようになった久我も、佑絃が歌を歌うのが苦手なことは知っている。
だから、彼らとカラオケに行くとき、佑絃はもっぱら聞き役だ。人の歌声を聞くのは好きだし、一緒になって盛り上がるのも好きだ。彼らなら歌うことを強要もしてこないので、気楽に誘いに乗れる。
しかし、この日は違った。
修学旅行で彼女ゲット大作戦を実行中の颯人が、いつのまにか女子も誘っていたのだ。
しかも、今では久我が佑絃たちと一緒にいることが知れ渡っているため、颯人の想定以上の女子が集まってしまったらしい。
颯人にそんな意図がなかったことはわかっている。
わかっているけれど、誰も好きになれないと悩んでいた久我を、久我の元友人たちと同じように餌にしてしまったような気がして、腹の底にモヤモヤとした気持ちが凝っていく。
颯人は良い意味でも悪い意味でも単純なので、たくさん集まった女子を前にしてただただ喜んでいた。
騙し討ちのように女子を連れてきたのもモヤッとしていたのに、呑気に喜んでいる颯人にどうしても怒りが沸々と迫り上がってくる。
メンバーが全員揃い、颯人が喜々として店内に入っていこうとするのを止めようとしたとき、逆に佑絃が誰かに手を掴まれた。
「蓮……」
「どうした、佑絃。顔怖いぞ」
「だってこんなの聞いてなかった。女子も来るなんて」
「あー、まあそれはな。俺も彼女いんだけど、颯人の奴、絶対気にしてないだろうからなぁ。でもあいつがそうなの、いつものことだろ?」
ぐっと喉に言葉が詰まる。確かに蓮の言うとおりだ。
颯人がお調子者で、思い立ったが吉日のごとく行動するのはいつものことだった。
その尻拭いや被害を受けるのも、いつものことだ。注意こそすれども、今さら本気で怒るようなことではない。
それでも、今日のはどうしてか許せなかった。
蓮の隣で心配そうに自分を見つめてくる久我と目が合ったとき、溜め込んでいた思いが堰を切ったように口から出ていく。
「そうだ、いつものことだよ。だから僕らのことはいい。でも今日は違うだろ。久我がいるのに。久我が女たらしじゃないって、蓮も颯人ももう知ってるはずだ。言い寄られるのに困ってることも知ってるはずだ。なのに騙し討ちみたいなこれは酷いだろっ」
久我が目を瞠る。
蓮も佑絃がそんなに怒っていることを信じられないような目で見てきた。
佑絃自身も、これほど怒りを覚えたのは久しぶりだと自分で自分に驚いている。
「久我はっ……だって、久我は……っ」
誰も好きになれない。愛せない。そう言ったときの彼の寂しげな表情を、今も思い出せる。
好きになれない自分に悩んでいたと、だから同じ奴と出会えて嬉しかったと、そう打ち明けてくれたときの屈託のない笑顔をすぐに思い出せる。
でも、今ここで他人のセクシュアリティを話すわけにはいかない。
自分のセクシュアリティを話すにしても、心の準備ができていない。
これが単なる八つ当たりだということを、佑絃自身理解していた。
収拾がつけられなくなっていたとき、急に頭に重みを感じる。なんだと思って見上げてみれば、ちょっとだけ眉を下げて笑う久我がいた。
その久我に、わしゃわしゃと髪をかき混ぜられる。
「ごめん、藤崎。俺と佑絃抜けるわ。みんなには体調崩した俺を佑絃が送っていったって言っといてくれない?」
「……わかった。こっちこそなんか悪かったな。颯人にはちゃんと説教しとくから」
「ははっ。気にしなくていいよ」
久我に腕を引かれて、賑やかな集団から離れていく。
駅前なので人が多く、人の間を縫うように久我は進んでいった。
ある程度雑多な雰囲気から遠ざかると、立ち止まっても迷惑にならなそうなビルの陰で久我が足を止める。
振り返ってきた彼は、佑絃の心配をよそに今にも笑い転げそうなほど身を震わせていた。
「……いや、笑うとこか?」
「だって、ふふ、佑絃があんな、んんっ、怒るなんて」
「それで笑う意味がわからないんだけど。というか! さっきのは僕よりおまえが怒る場面だったからな!? 前嫌って言ってただろ! ああいうふうに利用されるの!」
「言ったけど、俺より佑絃が怒るからさぁ。なんか怒るタイミング逃したっていうか。そもそも、俺も佑絃の忠告を守って取り繕ってみたんだけど?」
「うっ……あ、あれは……」
確かにそんな助言をした覚えはあるが、あれは久我の置かれていた状況を知らずに言ってしまったことだ。
知った今となっては、あんなこと、二度と言うつもりもない。
「それにさ、あいつらと違って井手も藤崎も佑絃の大事な友だちでしょ? 俺のせいで壊せないって」
ピク、と佑絃のこめかみが反応する。
その言い方ではまるで久我は違うと思われているような気がした。
いや、実際に久我はそう思っているのだろう。自分だけ後から輪に加わったからという、そんな理由で。
この腹立たしさを伝えるように久我のお腹に軽いパンチを入れる。
「僕は久我も大事な友人だと思ってるけど、おまえは違うわけ? 仲間なんじゃないの、僕とおまえは。それとも、そう思ってたのは僕だけ――」
「ううん! 俺も! 俺も思ってる!」
途端に犬の耳と尻尾の幻覚を見せてくる久我に、佑絃は一拍置いてから吹き出した。
やはり彼は大型犬のようだ。
「うわ~、めっちゃ嬉しい。佑絃がそんなに俺のこと思ってくれてたなんて」
照れたように久我がはにかむ。
その顔を見て、佑絃はようやく理解した。なぜ久我の笑った顔を見て安心するのか。
(自分と同じ奴が笑ってると、大丈夫だって、一人じゃないって、寂しくないって、心強くなるからなんだな)
先ほどのお返しとばかりに、今度は佑絃が久我の髪をくしゃくしゃになるまで撫で回す。
されるがまま大人しくしていた久我に、また笑った。
*
あの一件以来、颯人が女子を誘うことはなくなった。
正確には、女子がいるときはちゃんとその旨を伝えてくれるようになった。
どうやら相当蓮に説教されたようで、涙目で謝ってきたときには逆に佑絃が申し訳なさを感じたほどだ。
そうして迎えた修学旅行当日。
三泊四日の旅程は、基本的には前もってクラスで決めた男女混合グループで行動することになっている。
グループの組み合わせは自由で、男女各二~三人の、最大六名で組むようにと担任に言われたため、佑絃たちは二人ずつで分かれた。
久我と組むことになった佑絃は、それはもう女子から引く手数多だった。チラチラと視線を寄越してくる女子グループもいて、久我がどれだけ注目されているのかがわかる。
これは誰の手を取っても喧嘩になるのではないかと危惧したとき、久我がすたすたと教室の端まで歩いていき、隅っこでその惨状にドン引きしていた二人の女子の手を取った。
『ね、俺たちと一緒のグループにならない?』
久我が自ら手を取ったことと、近くで嘆く女子の悲鳴のどちらにもびっくりする。
佑絃にも確認を取ってきた久我に呆然と頷くと、その女子二人も問題ないと承諾してくれた。まあ、でもあれは、あの惨状を憐れんでOKしてくれたような気がするけれど。
そんな経緯があって、佑絃はこの修学旅行中、久我と、メンバーの桜川依乃里と相沢芽衣の四人で行動することが決まった。
なお、例の自由行動がある三日目は、佑絃は当然のように久我と一緒に観光する予定だ。そこに颯人が交ざるか否かは、颯人の告白の結果次第である。
人生初の飛行機を堪能して、佑絃たちは北の大地に降り立った。
初夏といえども、今日は風があってちょっとだけ肌寒い。相沢はブレザーをスーツケースの中に入れてしまったらしく、寒そうにシャツだけの腕をさすっている。
(さすがに東京とは気温が違うもんな)
見かねた佑絃は、自分のブレザーを差し出した。
「必要なかったらいいんだけど、修学旅行中に風邪引くのも嫌だろ?」
「でも如月くんは?」
「僕は大丈夫。男だから代謝いいし」
「ほ、本当にいいの?」
「ああ」
佑絃の手からおずおずとブレザーを受け取る相沢の横で、なぜか桜川が興奮気味に相沢の背中をばしばしと叩いている。
二人とはあまり接点はないけれど、同じグループになったことで以前より会話の機会は増えた。
桜川は活発的な性格だが、相沢はどちらかというと大人しい。タイプの異なる二人を不思議に思っていたら、なんと二人が幼なじみであることを知った。
そんな二人と組めて良かったと思った一番の理由は、二人とも久我に興味がないところだ。
おかげで久我が余計な神経をすり減らす必要もなく、班別研修でやりたいこともスムーズに決まった。なので、佑絃たちのグループは、二日目にパンとジャム作り体験をすることになっている。
ちなみに、初日の今日はクラスごとにファーム体験だ。
「佑絃、みんないる? 点呼だって」
「ああ、いるよ」
この修学旅行中の点呼は全て班ごとで行われるので、リーダーとなった久我が四人揃っているか確認に来た。
そのとき佑絃がシャツ一枚になっていることに気づき、久我が首を捻る。
「まさかブレザー、飛行機の中に忘れたの?」
「そんなわけあるか。相沢が寒そうだったから貸しただけ」
「はーい、借りてまーす」
久我が相沢たちに視線を移すと、なぜか借りた本人ではなく桜川が返事をする。
相沢は借りた罪悪感でもあるのか、恥ずかしそうに顔を伏せていた。
「……へぇ」
「久我? どうした。点呼、伝えに行かなくていいのか?」
「あ、うん。行ってくる。みんなここにいてね」
クラス委員長に全員が揃ったことを伝えに行く久我の後ろ姿を見送っていると、クラスの別の男子がこそこそと耳打ちしてくる。
「おまえ、実は相沢狙いだったのかよ」
「は?」
「ブレザー。わざわざ貸してやるなんて気になってる女子にしかしないだろ、普通」
最後の言葉が脳内で反響する。
普通。普通ってなんだ、と言い返したくなる。
佑絃にとっての普通は、寒そうにしている知人には上着を貸すことだ。特に自分が寒くなかったから、必要そうな人に貸しただけ。持ちつ持たれつ。それ以上の感情なんてない。
最近はずっと久我と一緒にいたから、こういう展開とは無縁だった。あの一件以来、颯人も蓮もあまり恋愛系の話をしてこなくなったのもある。
だから苛立つことも、疎外感を覚えることもなかった。
そのせいで免疫が弱くなっているのだろうか。佑絃だけじゃなく相沢にも失礼なその話題に、耐えかねて反論しようとしたとき。
「佑絃、寒そうだから俺の上着貸すよ」
戻ってきた久我が脱いだ自分のブレザーを肩にかけてくれる。
「おいおい久我、おまえせっかくなら女子に貸してやれよ。今フリーなんだろ? それ貸せばイチコロだぞ」
「知らないよ、そんなこと。俺は寒そうにしてた友人を助けたくて貸しただけだよ。下心で優しくしようとする誰かとは違うから、口出ししないでくれる?」
「はっ? 俺はっ――」
「は~い佑絃、この辺空気悪いからあっち行こうか。相沢さんと桜川さんも」
ぽかんとしていた佑絃たち三人の背中を押して、久我は強引にこの場を離れようとする。
戸惑う気持ちもあるけれど、これはきっと自分のためなのだろうと思ったら、佑絃はブレザーを必要ないと返すこともできなかった。
「あの、如月くん。寒いならブレザー、返したほうがいいよね?」
「え? いや……」
「大丈夫だよ、相沢さん。それは佑絃の純粋な厚意だから、甘えてあげて。俺がブレザー貸したのは単純にあいつへの仕返しだから」
「し、仕返し?」
「ね、佑絃?」
イケメンはウインクも様になるようで、綺麗に片目を瞑った久我に思わず笑ってしまう。
「ああ。僕もありがたく借りるよ。寒くはないけど」
「佑絃って暑がりだもんね~」
「逆におまえが大丈夫なのか? 寒がりじゃなかったっけ」
「……そこはほら、格好つけたいから今だけ忘れといて。あと、できれば三分後に返してくれると嬉しい」
「ぷ、あははっ!」
お腹を抱える。久我のこういう飾らないところが人として好きだ。
以前彼が佑絃と出会えて本当に良かったとこぼしたが、佑絃からしても久我と出会えたのは本当に幸運だと思っている。
同じ悩みを共有している者同士だからこそ、ああいうとき、助け合える。独りじゃない安心感に包まれる。
佑絃にとって出会ってたったの数か月の相手なのに、久我の存在が今では必要不可欠になっていた。
理解者がいれば、別に恋なんて知らないままでも構わないとさえ思える。
(久我も、同じように思ってくれてたら嬉しいな……)
腕を通したブレザーの袖が、自分のより長くてちょっと複雑だったのは秘密だ。
*
ファームで羊やアルパカなどに触れ、乳搾り体験もさせてもらって充実な一日目を過ごした高校生たちは、二日目はそれぞれの班で選択したアクティビティに挑戦している。
佑絃たちの班が選んだのは、パンとジャムづくり体験だ。他にはラフティングだったり、サイクリングだったり、キーホルダーの作成だったりと、色々あるらしい。
体験場には当然佑絃たち以外の班もいる。
班ごとにまとまってパンとジャムづくりに勤しんでいたけれど、無事に体験を終えて出来立てのパンにジャムを付けて食べていたとき、チラチラと耳に聞こえてきたのは今夜のことだった。
修学旅行二日目の夜は、この高校に伝わるジンクスの夜でもある。
恋愛の話に興味のない佑絃だが、逆に興味のある颯人から聞かされたので内容は知っていた。
佑絃が通う高校は、毎年必ず修学旅行の二日目の夜にナイトウォークを実施する。二人以上四人までで自由に組み、決まったコースをただ歩くだけのイベントだ。
イベントの目的としては、普段なかなか目にできない壮大な星空を体感する、ということらしい。
しかし生徒たちの間では、好きな人をナイトウォークに誘って告白して付き合えるようになると、ずっと幸せでいられるというジンクスのほうがよく知られているという。
颯人もこのジンクスに賭けている一人だが、聞こえてくる会話から、佑絃の予想以上にそのジンクスにかこつけて告白を考えている生徒が多いようだった。
ちなみに佑絃は、まだ久我にどうするか訊けていない。
久我は――本人の感情に関係なく――大変人気なので、実は女子たちから牽制されたのだ。久我の三日目の自由行動を奪ったのだから、せめてナイトウォークの時間は奪わないでほしいと。
人を好きになれそうにない佑絃だけれど、だからといって人を好きになれる人を嫌っているわけでも、恨んでいるわけでもない。切実に頼み込んでくる女子たちの潤む瞳に、佑絃は頷いてしまった。
ただし、条件は付けさせてもらったが。
そのため、佑絃からは誘わないけれど、もし久我が誘ってきた場合は断らないと明言している。
それは佑絃が久我のセクシュアリティを知っているからこそ出した条件だ。
告白されて断るのも実は辛いのだと打ち明けられたことがあったから、久我がこの絶好の告白タイムを避けたいというのなら、佑絃は仲間として壁になる覚悟をしていた。
(でも杞憂だったな。ここまできても誘われないってことは、たぶん女子の誘いを受けたんだろうし。そういうとこ、意外と律儀だからなぁ、久我って)
自分たちでつくったパンを全て腹の中に収めると、乾いた喉を潤すように水を流し込む。
つくったジャムは瓶詰めにして持ち帰ることも可能なため、佑絃は持ち帰る用の瓶をもらってこようと立ち上がった。
「まとめて僕が瓶もらってこようと思うけど、みんな持ち帰るでいいんだっけ?」
「うん、ありがと如月~」
「助かるよ佑絃」
「あ、それなら私も一緒に……」
「いいのか? ありがとう、相沢」
立ち上がった相沢と並んで歩く。
彼女のことは大人しい子というイメージで、実際そうでもあったが、他にも気配り上手な子でもあるのだとは修学旅行中に知ったことだ。
今まであまり接点がなかったことを残念に思うくらいには、良い子だと思っている。
(でも、修学旅行が終わったら気をつけないとな)
これは佑絃が中学生の頃から気をつけていることだが、女子との距離感を間違えると、多感な時期の同級生たちはすぐに男女の関係を持ち出して、あることないこと噂し始めるのだ。
初日のブレザーの件が良い例である。
佑絃自身も困るし、相手の女子にも申し訳ない。
だから佑絃は、なるべく特定の女子と仲良くなりすぎないように気を配る日々を送っていた。
そしてそういうとき、生きづらさを感じる。
(なんでみんな全部恋愛に結びつけたがるんだろ。恋愛ってそんなに重要か?)
佑絃にはわからない。浮気されただの振られただの騙されただの、恋は楽しくなさそうなことも耳にする。
それでも、人は恋をやめない。
(傷ついてもみんなは恋をするのに、できない僕らって、やっぱり……)
こういうとき、無性に久我の笑った顔を見たくなる。
久我の嬉しそうな、あるいは幸せそうな顔を見ると、自然と肩の力が抜けて安堵する。自分だけじゃないという安心感を求めたくなる。
前までは一人でも平気だったのに。久我という仲間を見つけてからは、一人で抱えていたときのことをもう思い出せない。
――きっとこれは、傷の舐め合いに近い関係だ。
(わかってる、そんなこと。わかってても、縋りたくなるんだよ。これは自然な心理だ)
自分にそう言い聞かせていたとき。
「――くん、如月くん!」
「っ、ごめん、なに?」
「大丈夫? なんか顔、辛そうだったけど」
「えっ。あー、うん、大丈夫。ちょっと考え事してただけだから」
「そっか。ならいいんだけど……。そ、それで、どうかな?」
(『どうかな』?)
内心で相沢の言葉を繰り返し、頭上にクエスチョンマークを浮かべた。何が「どうかな」なのだろうか。
(やばい、完全に聞いてなかった)
訊き返すのも失礼かと悩んだけれど、聞いていたフリのほうがもっと失礼だなと考え直し、正直に謝った。
「ごめん、もう一度最初から話してもらってもいい? その、考え事してたせいで、聞いてなくて……」
「あっ、そっか、そうだよね! え~と、あのね、ナ、ナイトウォーク、私と一緒にどうかなって、お誘い、だったんだけど」
「え!? 僕!?」
「う、うん」
「久我じゃなくて? 間違えてない?」
「間違えないよ、さすがにっ」
「そ、そうだよな。さすがにな」
相沢の頬が赤く染まっている。これは冗談でも揶揄われているわけでもなさそうだ。
となると、一回で聞き取らなかった自分を殴りたくなった。
久我からは誘われてないし、この罪悪感もあって、佑絃はおずおずと了承した。
そんな二人を厳しい眼差しで見つめる存在には、ついぞ気づかずに。
日がとっぷりと闇の中に浸かり、空に綺麗な星々が瞬く頃。
ナイトウォークは、夕食のあとに開催される。
よってホテルの食堂で夕食をとっている間、生徒たちの話題はナイトウォークのことで持ちきりだった。誰が誰に告白するらしいとか、誰が誰に誘われたらしいとか。
その中には何組の女子が久我を誘ったという声もあった。
すると、別の場所からも同じく久我を誘った女子の話が出てきて、佑絃は内心で首を傾げた。
件のモテ男はちょうど隣にいたので、肘で彼の腕をつつく。
気づいた久我に、小声で話しかけた。
「おまえ、何人に誘われて、何人と一緒に行くことにしたんだ?」
「? ナイトウォークのこと?」
「そう。なんか聞こえてくる話におまえが二回登場してるんだけど」
「んー、誘われたのは五人だよ。でも上限あるから、先着三人だけOKした」
「三人!?」
仰天の声は案外周囲のざわめきで掻き消された。
「おま、マジか」
「だってナイトウォークに誘ってくるってことは、そういうことでしょ? 誰とも付き合う気ないし、まとめてごめんなさいしようと思って」
「おま、マジか……」
佑絃からすればなかなかありえない状況だが、久我曰く、女子たちも久我がモテることを知っているからか、それでも構わないと答えたという。
「佑絃は相沢さんに誘われてたね」
「えっ」
「昼のアクティビティ、戻ってきた二人の様子でなんとなく察した。俺、勘は鋭いほうでさ」
「トテモ有能ナ勘デスネ」
今まで一度も告白されたことがないわけじゃないけれど、告白されることなんて滅多にない佑絃としては、実はすでに緊張している。
告白される側のくせに緊張するのもおかしな話だが、そわそわと落ち着かない心を自覚していた。
ただそれは、告白されることに舞い上がって、という理由なんかではない。
落ち着きのない佑絃を久我が宥めるように背中をさすってくれる。
「ま、佑絃も断るんでしょ? だったらもっと気楽にいけばいいよ」
「気楽にって……。僕はおまえと違って慣れてないんだけど。てか、このシステム本当嫌だな。ナイトウォークに誘われただけなのに、ジンクスのせいで変に気を張る。告白じゃない可能性もあるのにさ」
「それはないでしょ。遠目に見えたけど、あのときの相沢さん、顔真っ赤だったし。あれで単に散歩だけのお誘いだったら、俺は明日から相沢さんを魔性の女子って呼ぶよ」
「ははっ、なんだそれ」
久我の言いたいことは理解できる。佑絃も同じ感想を抱いた。あの緊張感と頬の熱は、告白を予告するようなものだった。
「なんか、久我の言ってたこと、今なら少し解る気がする」
「? どれ」
「断るのも辛いって話」
「ああ。……辛い?」
「……かも。でもさ、相手からしたら何言ってんだって話だよな。辛いのはきっと、自分の想いを拒絶されるほうだから。断る側が辛いなんてどの口が言ってんだってなるよな」
「そうかもね。いや、大多数は、そうなんだろうね」
食堂は華やかな声で溢れているのに、自分と久我の周りだけ切り取られた別世界にいるように静かな空気が流れている。
「だから俺ね、断るの辛いって、佑絃にしか言ったことないんだよ。他の誰に言っても、きっと傲慢だって怒られる気しかしないから」
「うん。僕もそんな気がする。だから、久我にしか言えない」
断るのが辛いのは、包み隠さず言えば相手に同情するからだ。こんな自分を好きにならなければ君が傷つく可能性はもっと低かったかもしれないのに、と。
どうしたって応えられないことに、罪悪感のようなものが生まれる。
――ああ、なんて、傲慢な感情だろう。
「ねぇ、佑絃」
「ん?」
「ナイトウォークのあとさ、井手や藤崎と集まる予定だったじゃん? あれ、キャンセルしない? 俺、佑絃と二人でのんびりしたい」
「のんびりって、オッサンかよ」
小さく吹き出しながらも、佑絃は考えるより先に頷いていた。
「僕も、久我とゆっくりしたいかも」
「ふふっ。のんびりもゆっくりも変わんないよ。オジサンだね、俺ら」
「やめろよ。悲しくなってくるだろ」
二人で笑い合う。こんな他愛のない時間が好きだ。理解者と二人、誰も自分たちを傷つけるものはない。傷つけられる気配に無意識にも怯えなくていい時間。
やがてナイトウォーク本番がやってきて、佑絃は佑絃以上に緊張している相沢と懐中電灯を持ってスタートした。
星空を眺めることが目的のイベントなので、一応、空を仰いでみる。そこには東京の区内では絶対に拝めないだろう光景が広がっていた。空にはこんなにもたくさんの煌めきが存在していたのかと密かに感動する。
「綺麗だね、星」
「だな。小学校の頃にプラネタリウムに行ったことはあったけど、それとはまた違う感動があるかも。まあ、残念ながらそのとき教えられた星座はちんぷんかんぷんだけど」
「ふふ。六月なら何かな……夏の大三角とか?」
「相沢、星座詳しいの?」
「え、ううんっ。知ってるの言っただけで、この中から見つけるのは無理かも……」
「わかる。星がありすぎてどれがどれとか全然だよな」
意外と星の話で盛り上がったおかげで、二人とも良い意味で緊張が解れてくる。
このナイトウォークのコースは、短くはないけれど、長くもない。このまま雑談で終わってしまうのはまずいと焦りを見せたのは、やはり相沢だった。
「あの、ね。これに誘ったから、もう、わかってるとは、思うんだけど」
相沢が切り出す。その瞬間、心臓がドッと暴れ出した。
歩を止めれば後続の生徒と合流してしまうため、意識的に足を動かす。
「私、如月くんのこと、す、きで。もっ、もしよければ、お付き合い、してもらえたら嬉しいなって……!」
闇の中でもわかるほど相沢の顔が茹で上がっている。
相当覚悟を決めて告白してくれているのだろうと胸の奥がツキンと痛んだ。
だからだろうか。きっぱり断るつもりだったのに、つい、訊いてしまった。
「相沢はなんで、僕を好きになってくれたんだ? 今までそんなに接点なかったと思うから、不思議で」
「……うん、確かに接点は、なかったかな。あっ、でも一目惚れとかじゃなくてっ。って、そんなこと言ったら失礼かな!? 顔だけじゃないよって言いたかっただけなんだけどっ。つまりその、如月くんの性格が好きだよってことでっ……ああああ、もしかして私、変なこと言ってる!?」
「お、落ち着け相沢っ。別に変なこと言ってないから!」
「ほ、ほんとっ?」
潤んだ瞳で見上げられてドキッとした。これが恋のときめきだったなら、きっと誰にとってもハッピーエンドだったのだろう。
でも、違う。泣かれる寸前だと気づいて、ただ焦った心の反応だった。冷めてるな、と自分で思って嫌になる。
「実は私、一年の頃から如月くんのこと知ってて。体育祭のとき助けてもらったんだ」
「え、そうだっけ?」
「やっぱり覚えてなかったんだね。でも、いいの。それくらい、如月くんにとっては人に優しくすることが当たり前ってことだから」
佑絃は思い出せなかったが、昨年の体育祭で、どうやら熱中症のせいで気分が悪くなって座り込んでいたところを、通りがかった佑絃が救急用のテントまで運んだそうだ。
昨年は例年にない暑さの中での体育祭だったから、実は佑絃が運んだ生徒は他にもう一人いる。あのどちらかだったのかと、内心で思う。
「それから如月くんのこと意識するようになって、目で追ってたら、やっぱり優しい人だなって思うことが何度もあって、気づいたら好きになってたの。二年で同じクラスになれて、本当はもっと話してみたかったんだけど、私、こんな性格だし、なかなか勇気が出なくて……。修学旅行の班決めも、依乃里ちゃんに背中押されて、本当は誘ってみるつもりだったんだ」
「そうなの?」
「だけど久我くんが一緒だったから、他の女子がすごくて……」
「ああ、あれはな、うん」
当時のことを思い出して佑絃も遠い目になる。だから教室の端に桜川と二人、避難していたのだろう。
「でもその久我くんのおかげで、こうして同じ班になれたから、久我くんには勝手に感謝してるんだ」
彼女が花を綻ばせるように微笑む。
久我にそのつもりは一切なかっただろうが、結果的にそうなったのは事実だ。
期待と不安の混じった瞳で見つめられて、佑絃は眉間にしわを寄せそうになってしまった。
けどそんなあからさまに困ったような顔を見せるわけにはいかないと、ぐっと表情筋に力を入れる。
もうすぐゴールだ。
意を決して口を開いた。
「――ごめん。僕なんかを好きになってくれたのに、その気持ちは受け取れない」
「…………彼女、いるとか?」
「いや、いないよ」
「じゃ、じゃあ、好きな人とか」
「それもいない」
相沢がくしゃりと泣きそうな顔になった。
視界に映るその反応に、佑絃の胸もじくりと痛み出す。
「それでも、だめなんだね……」
「……ごめん」
そっか、とか細い声で相沢は呟くと、しかし急に笑顔をつくって明るく言った。
「でもそうだよね。如月くんにとっては、まだ知り合って間もない相手だしね。だ、だから……だから、もうちょっとだけ、頑張ってみてもいいかなっ?」
「え?」
その笑顔が彼女なりの強がりだということは、見ていて痛々しいほど伝わってきた。
「もうちょっとだけ、好きでいても、いい?」
「それは……」
返事に窮する。もし彼女がその先を期待しているのなら、佑絃は頷けない。頷くべきじゃない。
(好きになれる保証なんて、全くないんだから)
相沢に対して罪悪感しか芽生えない時点で、自分の気持ちはわかりきっている。
ただ、特に相沢がその先の進展を期待しているわけではなく、佑絃を忘れるための時間が欲しいというのなら、それを佑絃が拒絶する資格なんてないだろう。
どう答えればいいのかわからないまま、二人はゴールに辿り着いてしまった。
到着地点には当然のように生徒がたくさんいて、続きを話せるような雰囲気ではない。
そのまま自然と相沢とは別れる形になり、心の底にモヤモヤが溜まる。
「佑絃、お疲れ様。大丈夫だった?」
そのとき、先にナイトウォークを終えていた久我が佑絃の肩に手を置いた。
その手に導かれるようにして久我を振り仰いだとき、彼が大きく目を見開く。
「……終わった人は各自部屋に戻っていいんだって。行こ」
腕を引かれるままついて行くと、部屋に辿り着く前に人気の少ない場所で久我が足を止めた。
「なんかあった?」
「いや……久我は? どうだった」
「俺? 俺はいつもどおり断って終わったよ。三人同時だったからね、みんな結果は薄々わかってたみたい」
「そっか」
我知らず俯くと、それを許さないとばかりに久我の両手が頬を挟み込んで上向かせてくる。
「で、佑絃はなんでそうなってるの? 相沢さんになんか言われた? 告白されたんだよね?」
「告白は、された。断った」
そう言ったとき、久我の胸がほっと撫で下ろされるところが視界に映った。
「断ったの、だいぶ精神にきてる感じ?」
「違う。それも確かに申し訳なかったけど、断ったあと、まだ好きでいてもいいかって訊かれて」
そのとき感じた気持ちを、久我には正直に全部話した。久我になら言えた。彼なら自分を頭ごなしに否定しない確証があったから。
全て聞き終えたあと、なぜか久我は少しだけ怒ったような顔になっていた。
「佑絃、先に部屋行っててくれる?」
「なんで?」
「ちょっと担任に確認したいことあって」
「? わかった。じゃあ部屋で待ってるな」
このとき素直に別れたことを、佑絃は数十分後に後悔することになる。
***
佑絃と別れた久我は、その足で来た道を引き返していた。
目当ての人物がまだ部屋に帰っていないことを祈りながら、大勢の生徒の間を視線で行き来する。
間もなく見つけた相手は、彼女の幼なじみだという桜川依乃里と一緒にいた。
向かう方向からして、ちょうど一緒に部屋へ戻るところだったのだろう。
「相沢さん、ちょっといい?」
「……久我くん?」
目を丸くする二人に構わず、有無を言わせない笑みを顔に乗せる。
何を予想したのか、桜川はこの呼出しにわずかに興奮していた。
けれど、相沢のほうは不安げに瞳を揺らしている。この先の展開を考えれば、彼女のほうが正しい反応だ。
彼女を人気のない場所まで連れて行くと、すぐに本題に入った。
「先に謝っておくけど、ナイトウォークで君と佑絃の間にあったことは、俺が口出ししていいことじゃないってわかった上で話をするよ」
「う、うん」
「佑絃のことはきっぱりと諦めて。まだ好きでいてもいいかなんて、佑絃に答えを求めないで」
そうだ。求めないでほしい。「いいよ」なんて言葉を、期待して訊ねないでほしい。
(それがどれだけ俺たちを苦しめるのか、何も知らないくせに)
彼女が悪いわけでもないことは、十分承知している。
ただ自分は、佑絃の困った顔を見たくないだけだ。同じ辛さや痛みを知っているからこそ、佑絃にそんな思いをさせたくない。
(どうせ、ほとんどの奴らが彼女の味方をする。俺はそれを経験してきた。だったら俺だけでも、佑絃の味方をしたっていいでしょ)
彼女へ放つ言葉が彼女を傷つけるとしても、自分くらいは、佑絃を守ってもいいだろう。
「困るんだよ、そういうの。振られたなら大人しく諦めてよ」
相沢の瞳に雫が溜まっていく。
ここに佑絃がいなくて良かったと心底安堵した。告白を断ることに慣れていない優しい彼には、この状況は耐えられない。想いに応えられないことをまた悩んで、悔やんで、自分を責めてしまうだろう。
そんな佑絃は見たくない。
「……っんで? なんで、久我くんに、そんなこと言われなきゃいけないのっ?」
「うん。当然の怒りだと思うよ。だから恨むなら俺を恨んでいい。佑絃は俺がこんなことしてるの知らない。俺が勝手にやってるだけだから」
「なんで、そこまで……」
それは純粋な疑問だったのだろう。
だから、先ほどまでの怒りも忘れて、久我は眉尻を垂れ下げた。
「わかんないだろうね、君たちには。俺の痛みも、佑絃の苦しみも。……それでも、もしかしたら――」
相沢さんは、と静かに訊ねる。
「今まで、好きでもない奴に告白されたことある?」
「え? えっと、ない、けど」
「じゃあ、されたとき、もしかしたら少しは解るかもね。君も罪悪感を覚えやすそうな人だから」
「どういう意味?」
「そのままの意味。好きでもない奴に告白されて、断っても縋られるの、平気な奴と、平気じゃない奴がいるってこと。君はきっと後者だろうね」
「…………如月くん、は」
「わかるでしょ。佑絃のことが好きなら」
ようやく自分のしたことの残酷さに気づいてくれたのか、相沢の顔色がどんどん悪くなっていく。
それでも、相沢は意外と肝が据わっていたようだ。恐る恐る口を開く。
「もしかして、久我くんって、如月くんのこと……」
その先の言葉が容易に想像できて、鼻で笑ってしまった。
「違うよ。なんで君たちはなんでもかんでも恋愛に結びつけたがるんだろうね。……違うよ。俺と佑絃はそんなんじゃない。そんなものよりずっと、互いに互いを必要としてる」
簡単によそ見をして、浮気して、喧嘩して、別れるような関係じゃない。
たとえこの先喧嘩することがあったとしても、別れることはない。
それは漠然とした勘だけれど、外れないと確信のある勘でもある。
「たぶん、他人が俺たちを知ったら、傷の舐め合いだとか面倒なことを言うんだろうね。でもそれがなに? 君たちの味方はたくさんいるけど、俺と佑絃の味方はお互いしかいないんだ。俺はただ佑絃に傷ついてほしくないだけだよ」
ここまで言えばさすがに諦めてくれるだろうと、息を吐き出した。
心をガリガリと削られるような感覚は、今だけは無視しよう。
そう思っていたとき、目の前にいる相沢が急にハッと息を呑んだ。
「きさ、らぎくん」
勢いよく振り返る。そこには瞠目する佑絃がいた。その反応だけで会話を聞かれていたことを悟った。
胸の中にじわりと焦りが生じる。さすがに佑絃に告白した相手に牽制しているところを見られるとは思っていなかった。
「う、いと……」
「久我、おまえ……」
互いの間に気まずい空気が流れる。
しかしそれを先に破ったのは佑絃だった。
「相沢」
「は、はいっ」
「僕は最後のほうしか聞いてないけど、久我がごめん」
「え、っと、ううん! 気にしないでっ。私も……わ、私もっ、如月くんに余計なこと言った! ごめんねっ。最後のあれ、やっぱり聞かなかったことにしてくれるかな?」
「……相沢がそれでいいなら」
「うん、大丈夫っ」
気丈に振る舞う姿は、大勢の庇護欲をそそるのだろう。
「本当にごめん。それと、ありがとな」
「……ううん。こちらこそ、ありがとう」
それじゃ、と言って彼女が足早に立ち去っていく。
二人残されると、佑絃の手が久我の腕を掴み、さっきと立場が逆転した状態で部屋へと向かう。
間違いなく怒られるだろうなとこの先の展開を予測した久我は、佑絃に気づかれないようごくりと唾を飲み込んだ。
***
部屋に戻ると、佑絃は無言でベッドの縁に腰掛けるよう久我を促す。
ホテルの部屋は基本的にツインの二人部屋で、部屋によっては三人部屋があるらしいが、佑絃は久我との二人部屋だ。
本当はこのあと颯人と蓮の部屋に行って四人で遊ぶ予定だったのを、すでに二人には断りの連絡を入れていた。
入れていて良かった、と思う。
久我は部屋に着いてからずっと、まるで浮気現場を見られて問い詰められる直前の男のように黙り込んでいる。
その久我の目の前まで行き、片膝をついた。
「僕、怒ってるんだけど、なんでかわかる?」
下から覗くようにして久我のブラウンの瞳を見つめると、その瞳が怯えたように揺れる。
久我は一度口を開きかけて、でも結局何も言わずに唇を嚙んだ。
「言っとくけど、おまえが僕の立場でも怒ると思うぞ。あんなの、だめだろ」
「……っ、ごめん佑絃。勝手に暴走した。ごめん……っ」
「全くだ。あれじゃあおまえが悪者じゃないか。ふざけるなよ」
「……え?」
「僕が困ってたから助けようとしてくれたんだろうけど、久我が悪者になって僕が喜ぶと思ってるのか? 確かに困ってたよ。普通に恋ができない自分に嫌気が差してた。でもあのまま僕のせいで、僕の知らないところで久我が恨まれることになってたら、僕はもっと自分を嫌いになってた! 勝手に守るな! あほ! 僕らは対等だろ!? なら隣にいろよっ。勝手に突っ走って先になんて行くなよ……! あーもうっ、マジで腹立つ!」
「ちょっ、佑絃っ。いたっ……いだだだだっ」
久我の頬は脂肪が少ないから、引っ張れば痛みも相当だろう。反省しろとの意味も込めて遠慮なくつねる。
ぱっと手を放すと、久我は涙目だった。
「反省した?」
「……しました。ごめんなさい」
「じゃあこれから久我はどうするべきだと思う?」
「もう二度と暴走しません」
「それだけ?」
にっこりと笑って圧をかけてやると、久我が大げさに首を横に振る。
「隣にいる。佑絃の隣に」
「よし。絶対だからな? おまえが嘘ついて相沢のとこ行ったのも、地味に怒ってるから」
「もう二度と嘘もつきません!」
「よく言った」
すると、久我が痛みに疼く頬をさすりながら、恐る恐る視線を合わせてきた。
目は口ほどにものを言うとはよく言ったもので、その瞳は何か言いたげだ。
聞く態勢に入って見返すと、「代わりに」と久我が言う。
「佑絃も、俺の隣にいてね」
「? 当たり前だろ」
逆に隣にいないほうが無理な話のような気がして、即答する。でもたぶん、久我が言っているのはそういう物理的な話ではないのだろう。
佑絃はそんな久我の心配を微笑ましく思いながら、少しだけ瞼を伏せた。
「大丈夫。おまえも言ってただろ。僕らは互いに互いを必要としてる。だから隣にいないと困るし、隣にいさせてくれないと泣くぞ。わかったか?」
冗談っぽく口にしてみたけれど、それがどれくらい本気かは久我にも伝わったようだ。満面の笑みになる彼を、佑絃は満足げに眺めた。
他人から何を言われようと、どんな目で見られようと、お互いがいればそれで十分だと、ようやく本当の意味で実感した気がする。
この先もきっと〝恋愛〟で悩むことはたくさんあるだろう。疎外感を覚えることもあるだろう。困ることも、嫌になることも。
でもそのとき、久我が隣にいて、こうして笑い合えるなら、何が起きても大丈夫だ。
だって実際、さっきまで感じていた困惑も嫌気も悲痛も、何もかもがすうっと消えているのだから。
それは久我が理解者だからというだけでなく、久我が久我であるからこそ、佑絃の気持ちが晴れたのだろうと感じていた。
久我が、佑絃の思うよりも、佑絃を大切に思ってくれていることがわかったから。
「なあ、久我」
「なに?」
仲直りでテンションの上がった二人は、同じベッドで横たわっていた。
右に顔を傾ければ、最初のイメージよりも随分と情に厚い男の整った顔がある。
「これからもよろしくな。おまえと出会って、色々と教えてもらって、自分のことを早い段階で知れたの、本当に良かったと思ってるから」
「アロマンティックのこと?」
「ああ。わからなかったモヤモヤに名前が付いただけなのに、びっくりするくらい安心したの、今でも思い出せるよ」
「あー、ね。ちなみに、なんでアロマンティックって言うか知ってる?」
そこは知らない。佑絃は首を小さく振った。
アロマンティックが恋愛感情を抱かない人のことを差すことは調べて知ったけれど、語源にまで関心はいかなかった。
「もともと恋愛って意味のロマンティックに、『A』――英語で『無』を意味する接頭辞を付けて『アロマンティック』なんだって。だから『エイロマンティック』とも言うらしいよ」
「へぇ。英語の『A』の威力すごいな。たった一語なのに」
「あとねー、アロマンティックのシンボルなんてものもあるんだよ」
「シンボル?」
好奇心のままに訊ね返す。こうやって人目を気にせず自分たちのことを深く話せるのは、ゆりかごに揺られるような心地好さがあった。
さすがにまだ人前で堂々と話せるほど度胸がついたわけじゃない。それはどちらかの家に場所を移しても同じだ。まだ家族に打ち明けられるほどの勇気はなく、家で気楽にそんな話はできない。
けれど――。
「アロマンティックの人はさ、左手の中指に白い指輪をつけるんだって。もちろん左手の中指に白い指輪をつけてる人全員がそうとは限らないけど、なんかいいよね。それをお守り代わりにしてる人もいるみたいだし」
「そうなんだ。でも確かに、他にも白い指輪をつけてる仲間がどこかにいるんだって思うと、なんかいいな」
久我が上半身を起こして、佑絃の左手をとる。
「いつかここ、つけてみる?」
きょとんとした。「ここ」と言って差されたのは、話の流れと同じ中指だ。
喉奥で「うーん」と唸りながら左下に目線を持っていく。
そう間を空けず、佑絃は久我に視線を戻してニヤリと口角を上げた。
「いいな。じゃあお揃いのつける?」
「ふはっ。もうそれ結婚指輪じゃん」
「いや、中指に結婚指輪つけてる奴いたら間抜けすぎるだろ」
「それはそう」
はははっ、と顔を見合わせて声を上げる。
ふざけて本当に白い指輪をネットで探し始めた二人は、消灯時間が過ぎてもこっそりと起きていた。
気負わなくていい時間がこんなに楽しいなんて、久我と出会えていなければ知ることもなかっただろう。
たとえ、これからどんどん自分たちを取り巻く環境が変わっていっても、きっとこの夜の思い出が支えになってくれる。
そんな予感がして、佑絃はベッドの中に入ってもしばらく興奮して眠ることができなかった。
高二の春。
これが、佑絃の人生にとっての、かけがえのない春となった。