メリルは本日もキッチンで、一人木の椅子に座っている。
 チラリと背後を振り返れば、そこには扉がある。ドアノブがついている、どこからどう見ても大きな扉だ。後ろ側に回ると、ドアノブがない平べったい板上の表面が見える。左右の幅は細い。蝶番が片側にだけついている。

「扉だよね?」

 キッチンの簡素な四人がけの木のテーブルと壁の間に、扉だけが独立して存在している。扉は床から生えるようにして、そこに存在している。

「本当、扉としか言いようがないよね……」

 メリルは目を眇め、右手で頬杖をついた。彼女の、フワフワの巻き毛は金色で、首を傾げた結果、綺麗なその髪が静かに揺れた。肌は白く、頬だけが少し桃色で、アーモンド型の目は、長い睫毛で縁取られている。瞳の色は、アメジストのような紫色だ。その瞳には、諦観したような光が宿っている。

 続いてメリルは、両肘をテーブルにつき、それぞれの掌を頬に添えた。
 そして僅かに唇を尖らせる。

「どうして私の家のキッチンに、宝物庫の扉があるの!?」

 ついに声を上げたのは、亡くなった祖父の言葉を思い出したからだ。

『メリルよ。この扉は、王家の秘宝が安置されている宝物庫に繋がる扉なんじゃ。儂らは、この扉を守る〝番人の一族〟なんじゃ。宝物庫の扉を開けられる者が来るまで、儂らはきちんとこの扉を見守らなければならぬ』

 正直、胡散臭いと今では思う。
 だが幼少時から言われ続け、さらには厳格だった祖父が嘘をつくとも思えない。
 両親が不慮の事故で没した後、メリルをずっと育ててくれたのは、祖父のファーレンだ。しかしメリルの祖父は、昨年 流行病(はやりやまい)で亡くなった。当初は寂しさに襲われ、メリルは大泣きした。声を上げて号泣した。だがそれが二週間も続く頃には、メリルは涙をしまうことにした。そして――キッチンで、それまで祖父が見守っていた扉を、番人の仕事を引き継いで、自分が代わりに見守ることに決めたのである。

 本当にこの不可思議な扉の先に、王家の秘宝が安置されているのかは分からない。
 何故ならば、番人の一族は、扉を開けられる者に誘われた場合を除き、扉を開けてはならないという決まりがあるからだ。そもそも、ドアノブを握っても開かない。メリルは中を確かめようと、何度かドアノブを握ったが、扉はうんともすんとも言わなかった。よく見れば、鍵穴らしきものもあった。だが鍵は、この家には存在しない。

 けれど、扉の向こうにある〝秘宝〟は、番人の一族がそばにいないと、消えて無くなるという伝承を、繰り返し祖父は語っていた。扉の先の宝物庫が何処にあるのかは不明だが、この扉を挟んで、秘宝と番人はセットでいる必要があるらしい。

 そのため番人の一族の中で、見守る者は、可能なかぎりキッチンから出てはならないという掟がある。キッチンで扉のそばにいること。それが見守るということだった。ただ、それでは生活が困難だからと、家の中は許可された、村の中までは許可された、と、メリルが目を通した古文書には、途中から範囲が付け足されていた。中には、『どこまで扉から離れても問題は無いか検証した。村の敷地内が限度だ。ただし村に出かける場合だっても、家を半日以上空けると問題が生じる』といった、どのように確認したのか不明だが、そういった覚え書きまで存在していた。

 祖父も、幼いメリルを連れて、村に買い物へと出ることはあった。
 大体毎週木曜日に、祖父は店舗が並ぶ通りへと、メリルを伴い、食材や衣類などを会に出かけたものである。メリルもまたそれに倣って、毎週木曜日には、買い物に出かけている。この国の暦は、十二の月があり、一ヵ月は三十日前後の日で、さらに週として七日間がある。土曜と日曜日は、安息日をされていて、様々なことがお休みだ。

 この安息日は、ここプログレッソ王国で広く信仰されている、【プログレッソ創造神話】の教えからきている。どんな神話かといえば、創造神であるプログレッソが、悪しき精霊王を封印し、この王国を建国して、始祖王となったというお話だ。今でも王族は、創造神の血――即ち、神の血を引いていると言われている。

 ――しかし、暇だ。

「はぁ……」

 メリルは深々と溜息をついた。祖父亡き今、一人暮らしの彼女は、家の中に独りも話し相手がいない。だが、家の中のキッチンにいる事が仕事だ。生活費は、両親と祖父が遺してくれた土地や畑を村の人に貸して、そのレンタル料を貰いまかなっている。

 かといって、村に出たら退屈ではなくなるかといえば、それは不明だ。
 非常に小さな村であり、同年代の者がいない。
 もっとずっと年下の子供か、自分よりかなり年上の人物ばかりだ。話が合うかと言われると分からない上、日々キッチンにいるだけのメリルは、会話のネタも持たない。

 けれど――退屈でたまらない。
 古の言葉に、退屈は猫をも殺す、というフレーズがあったが、今のメリルは猫の気持ちがよく分かる。何もせず、誰とも話さず、日々ぼんやりしている、退屈な日常。これは死んでいるのと代わらない気がする。

「なにか楽しいこと、ないかなぁ……うーん。けど、そういうのって、自分で努力しないと、どうにもならない気がするけど」

 ブツブツとメリルは呟いた。ここのところ、ずっと考えてはいるのだが、いざ実行しようにも、何をすればいいかは思いつかない。うんうんと唸ってみるが、頭の中には何も浮かんでこない。祖父がいた頃は、こうではなかった気がした。それだけ、祖父の存在は、偉大だったのかもしれない。その祖父が頑なに守ると決めていた扉。それをメリルは、再び振り返って視界に捉えた。

「私が、見守る。うん。それは絶対かわらないよ、お祖父(じい)ちゃん」

 祖父を懐かしんで微笑を浮かべた後、メリルは楽しいことを考えると決めた。
 ゆっくりと瞬きをしてから、メリルは両手の指を組んで、肘をテーブルにつく。

 ――その時のことだった。

 チリリーン、リーン、チリリーン。

 玄関の扉の鐘の音が、キッチンまで響いてきた。

「誰だろう?」

 畑の賃料を払いにくるとしたら、来月のはずだ。今はまだ、作物の収穫が終わりきらない秋の初めだ。残暑も厳しい。だが他に、この家に来る者も思いつかない。村長が村のなにか一大事を知らせに来る場合はある。首を傾げつつ、メリルは立ち上がった。そして木の床を進み、玄関へと向かう。

「はーい」

 歩きながら声をかけた。すると扉が閉まる音がして、その正面に身知らぬ青年が立っているのが見えた。膝の辺りから、上に向かって視線を動かす。そこにいたのは、茶色い髪に、ぱっちりとした目の端整な顔立ちの青年だった。彼は緑色の瞳を、真っ直ぐにメリルに向けている。見るからに、好青年という印象だ。

「どちら様ですか?」

 見惚れそうになったメリルだが、それは堪えて、必要なことを訊ねた。

「僕はギルベルトと申します。こちらに、王家の秘宝が安置されている宝物庫の扉があると、王宮の王族のみが閲覧可能な、王家の古文書に記載されており、それを根拠に、国王陛下が僕に、その扉と秘宝を確認してくるようにと、王宮側が所持していた鍵を預かって、ここへと来ました。率直に伺いますが、扉は確かにここに存在しますか?」 

 その言葉に、メリルは呆気にとられて目を見開いた。
 扉に鍵穴があったことを思い出す。

「無いのか?」

 虚をつかれて沈黙していたメリルに向かい、困ったように片眉を下げて、ギルベルトが小首を傾げた。

「い、いえ! あります。あります!!」

 大きな声で、メリルは告げた。すると今度は、ギルベルトの方が目をこれでもかと見開く。ギルベルトは一歩前に出て、メリルに詰め寄るように、少し屈んで彼女の顔を覗き込んだ。

「何処にある?」
「キッチンです」
「――え?」
「キッチンです!」

 真剣な眼差しと低い声に、正直に答えたメリルだったが、ギルベルトがぽかんとしたように気の抜けた声を上げたため、思わず強い語調で繰り返した。

「キッチン……? そこの壁についているということか? 増改築をしたとか」
「いいえ、扉は扉で、独立して立ってます」
「どういう状況だ……?」
「古の言葉で、百聞は一見にしかずと言いますよね。見ます?」
「あ、ああ。よければ……元々、それが目的だからな」

 頭に疑問符を浮かべているような、戸惑っているような声音を発したギルベルトを、メリルは家の中へと促す。そして正面のキッチンまで、静かに歩いたが、古い床板は自然と軋んだ音を立てた。

「こちらです。ここが我が家のキッチンで、扉はそこに立っているでしょう?」

 メリルが右手を扉に向ける。
 唖然とした様子で、ギルベルトは扉を凝視していた。

 この時はまだ、二人の出会いとこの扉が、今後起きる旅路と悪しき精霊にまつわる一連の事象の契機となるとは、メリルもギルベルトも、そして誰も、気づいてはいなかった。