その日、わたくしと透矢様は一通の書状を挟んで向かい合っておりました。正確には向かい合っていたとは言い難いかもしれません。わたくしは元来より人と目を合わせるのがたいそう苦手なのです。それは主人である透矢様に対してであっても、例外はございませんでした。
ここは透矢様が暮らす郊外の別宅で、純和風の日本家屋です。茶室の畳張りの床の上、わたくしも透矢様も正座で坐しております。格子を嵌め込んだ円い硝子窓の向こうでは、真っ赤な紅葉がはらはらと静かに舞い落ちておりました。
「離縁させてくださいまし」
わたくしは真のお辞儀をしてそう申し上げました。対する透矢様は微動だにせず、ただ問い返します。
「唐突だな。美墨、何故そんなことを言う?」
目を合わせられないわたくしは、居住まいを正してなお顔を上げることができず、透矢様の和装の帯のあたりを見つめていました。視界の端には、透矢様の白銀の毛先が見えます。お母様は不安定な国勢を理由に亡命してきた芬蘭土の貴族だと聞きました。その血を色濃く受け継いだ透矢様は、お母様譲りの銀髪なのです。比較的外国人の多い帝都でさえこの髪色は目立つので、郊外ともなれば透矢様の顔と名前が一致しない人は居ないでしょう。
如何にして離縁を申し出ることになったのか――経緯をお話ししましょう。
わたくしは美墨と申します。華族の家柄に名を連ねる者で、結婚もほとんど親同士によって定められたものでした。最終的に鷹司透矢様のもとへ嫁ぐことになったのは、わたくしの意思ではなかったのです。そうは言っても、わたくしはかなり恵まれた環境に置かれていました。
女学校を卒業後、わたくしは幸いなことに働かせてもらえることになりました。世間を知らぬまま殿方のもとへ嫁ぎ、甲斐甲斐しく世話を焼く一生を過ごすのはこのうえない苦痛のように思えたからです。両親も家柄のわりに大らかな気質の人たちでしたから、好きな職に就いて自分の時間を過ごす猶予を与えてくれました。
わたくしの勤め先は、帝都の大きな百貨店でした。書道家の家系の者だったので、自ずと文具部へと配属になりました。せっかく技術があるのだからと勧められ、たびたび文具の実演販売もさせていただきました。
「美墨さんがいらっしゃる日は万年筆がよく売れるわ」
先輩もしきりに褒めてくださいました。わたくしがさらさらとカリグラフィーを実演してみせると、万年筆と洋墨が売れました。しかし、わたくしの本領は万年筆ではございません。幼いころから慣れ親しんできた毛筆こそが特技なのです。ですが、流行は西洋風でしたから万年筆の隣に並ぶ筆と硯には見向きもされませんでした。
残念に思っていると、あるとき好機が訪れました。万年筆と洋墨の欠品です。あまりにも売れすぎたために生産が追いつかず、次の入荷は七日後とのことでした。一週間も売り場を空けておくわけにはいきません。わたくしは欠品中の万年筆売り場に一旦筆を広げることにしました。
「あら? 万年筆の売り場はどこかしら?」
「申し訳ございません、ただいま品切れでして……」
「やだわ、それを目当てに来たっていうのに。筆なんか時代遅れよ」
お客様にがっかりされるのは悲しいことです。それに万年筆が売り場にないと文具部は閑散としていて淋しい様子でした。ですから、わたくしはとある試みに出ました。
「筆もなかなかよいものですよ。ほら、こんなふうに……」
試し書き用の紙をとり、わたくしは墨を磨って図案を描き始めました。大食堂の壁に掲げられた舶来品の広告画を思い浮かべます。あれは確か、アール・ヌーヴォーという様式でした。人物は輪郭が際立つように太筆で力強く、周囲の花々は小筆で繊細に……と、筆の太さを使い分けながら描いてゆきます。どうせ暇だから……と始めたのですが、いつの間にかわたくしの周りには人だかりができていました。
「おい、すごいことやってるぞ。こっちにきて見てみろよ」
「まぁ、なんて素敵な図案なのかしら」
「これぞ和洋折衷の心ですね」
「私もぜひ描いてみたいわ。この人が使っているのと同じ筆を頂戴」
あれよあれよという間に毛筆の道具が売れていくではありませんか。会計係の方は嬉しい悲鳴をあげておりました。
「少しよろしいか」
たくさんのお客様を勘定場へ誘導し終えたところで、わたくしを呼び止める声がありました。
「はい? わたくしですか?」
振り向くとそこに立っていたのは、見目麗しい殿方でした。とても背の高い方です。一八〇糎は優に超えているでしょう。小袖に二重廻しを合わせたハイカラな彼は山高帽を取って会釈しました。黒い帽子の下に隠れていた白銀の髪は、売り場を煌煌と照らす照明を浴びて輝きます。
「そうだ」
銀髪の彼はずんずんとわたくしに近づき、目の前までやってきました。こう間近に立たれると、流石に威圧感を覚えます。目を合わせられないわたくしは、いかにも相手をきちんと見ているようなふりをして、彼の眉間のあたりに視線を送りました。わたくしは一四五糎しか背丈がありませんから、少し首が痛いです。そうしていると、彼はおもむろにわたくしの両手を取りました。
「いけません、まだ墨がついているので……」
驚きながら咄嗟にそう申し上げました。しかし、彼は怯みません。
「構うものか。貴女の芸術作品、その美しさが俺の心を射抜いたのだ。そして、素晴らしい芸術を生み出す貴女の心を一等近くで見てみたい。俺の妻になってくれ」
突然すぎる求婚に、わたくしは呆気にとられました。その気の緩みから、普段なら見られないはずの目を……彼の目を見ていました。銀髪の彼の瞳は、宝石のような青色でした。
後から分かったことでしたが、彼はかの有名な華族・鷹司家の当主――鷹司透矢様でした。何の前触れもなく舞い込んだ縁談でしたが、両親はたいへん喜びました。愛する娘の晴れ姿をぜひとも見たいとはしゃぐ両親を前に、まだ決めかねていますとは言えませんでした。透矢様のご両親も納得しているというので退路がありません。わたくしにしては珍しく流される形で、透矢様との結婚は決まりました。せっかくだから憧れの洋装で、と西洋趣味の母が言うので、ドレスを仕立てていただいて式に臨みました。結婚式の最中、わたくしは「こんな真っ白な格好では筆は取れないですわね」などと思いを馳せてうわの空でした。
「白い服では墨を使えない、と思っているのだろう?」
頭上から低い声が降ってきて、わたくしは反射的に身震いしました。隣に立つ透矢様は背が高いので、わたくしには上から声が降ってくるように感じるのです。そして彼の言葉はわたくしの心を見抜いていました。
「……どうして分かるのですか?」
そう訊ねると、透矢様は眉ひとつ動かさずに答えます。
「人と目を合わせると相手の心が読めるのだ」
「えっ?」
「妖術の一つだ。俺の場合は学んで身につけた技術ではなく、先天的なものだが。一般的には『読心』というらしい」
――どうしてそういうことを先に言わないのでしょう! 分かっていたのなら、もう少し慎重にこの縁談を検討しましたのに。その後わたくしは一度も透矢様と目を合わせずに式を済ませたのでした。
始まった結婚生活は、身構えていたよりも当初順調でした。実家から連れてきた使用人が居たのであまり緊張せずに済みましたし、透矢様にもわたくしは人と目を合わせるのが苦手だと先に申し上げておきましたので特に咎められはしませんでした。
販売員のお仕事は充実したものでしたが、結婚を機に退職しました。人と目を合わせられないという悩みは思ったよりも深刻なものだと世間に出て気づかされたからです。代わりに始めたのが図案関係の仕事でした。本の装画や挿絵に始まり、単に飾るためだけの墨絵なども手掛けるようになりました。
様々な仕事の中で最も評判がよかったのは「恋文手本書」でした。愛を伝える詩に浪漫的な筆絵を添える構成の恋文がわたくしの手本書から広まり、大衆の――特にうら若き乙女たちによく真似していただきました。
「素晴らしい発明だ」
透矢様も恋文手本書を読んで褒めてくださいました。そのときわたくしは、ああこの人と結婚してよかったと思ったりしたものです。
「だが美墨、これだけの恋文を書けるのに俺は――」
透矢様は少し難しい顔をしてそう言いかけましたが、続きは打ち切られてしまいました。
「――いや。なんでもない」
「透矢様?」
「それよりも美墨、お前には妖術の心得はないのか?」
「はい?」
急に全く違う話題が始まったのかと思い、わたくしは首を傾げました。妖術というのはなにも摩訶不思議な未知の術ではありません。遺伝で体質的に発現することもごく稀にありますが、立派な学問です。だからこそ難しく、相当賢く優秀な方でなければ身に着けることはできない代物です。わたくしは残念ながら学術的に妖術を学ぶ機会は得られませんでした。
「妖術に関しては全くの素人でして……」
「ふむ。だがお前には素質がありそうだ。体質的に妖術を扱うのに向いている」
「分かるものなのですか?」
「微かに漂うんだ、妖気が。体質的な妖術使いなら察することができる」
「そうなのですね……透矢様が教えてくださるのでしょうか?」
「話が早いな」
わたくしは日々の暮らしの中で時間を見つけては透矢様から妖術の手ほどきを受けました。
「美墨は筋がいい。こんなに早く上達するとは」
「お褒めに預かり光栄です。ときに透矢様、なぜわたくしに妖術を学ばせようと考えたのですか?」
「お前の描く墨絵の図案だが――どこか神秘的だろう。それを呪いに活かせないかと思ってな」
「呪いですか。具体的には?」
「お前の描いた墨絵に、妖術の『気』を込める。すると、それは護符――いわゆる『お守り』に成るだろう。作ってみないか? 美墨の才能を最も発揮できる分野になると思うんだが……」
透矢様は先進的な考えの持ち主でした。嫁に入ったからには家庭を守れ、女子が働く必要はないと強要する男性も多いと聞きます。けれど透矢様は、変わらずわたくしの誉れのことを考えてくださっていたのです。その心遣いに胸をうたれ、妖術の修行に励み、護符を作り上げました。
初めて作った護符は勿論透矢様へ贈りました。透矢様は護符をしげしげと眺め、愛おしげにそっと撫でてから小結界で包みました。
「け、結界……」
「大事なものを入れるためにはこれが一番だろう」
透矢様を妖魔の手から守るために作った護符そのものが、透矢様の結界に守られてしまいました。その過保護な様子になんだかおかしくなってしまって、わたくしは思わず笑みをこぼしていたのでした。
幸せな時間は、唐突に終わるものです。
わたくしが巷で評判の護符職人として知られるようになった頃、透矢様は急に別居すると言い出しました。わたくしと結婚するより以前、透矢様は将校として務めを果たしていたようですが、現在の彼の職業は私立探偵です。組織の人間とそりが合わなかった透矢様は前職を退き、探偵事務所を開業していたのでした。人と目を合わせることで相手の心を見通す『読心の才』を用いた捜査で次々に成果を上げ、毎日依頼が舞い込んで大忙しになっておりました。仕事に専念したいとのことで、透矢様は閑静とした郊外に別宅を構えて一人暮らしすることに決めたそうです。
「急な話ですわね……」
「すまない、美墨。しばらく本邸を留守にするが、くれぐれも健やかに暮らしてくれ。お前は手に職もあるし、護符がお前自身を守ってくれるはずだ。片がつくまで淋しくさせるが、待っていてほしい」
目を合わせられないわたくしは、透矢様の横顔を見上げるのが常となっておりました。その真剣な眼差しを見てしまっては、行かないでとは言い出せませんでした。
その頃にはすっかり透矢様を好きになってしまっていたわたくしは、淋しいどころの話ではありませんでした。毎日彼が恋しくて、夕方になると自室の窓から玄関の方を眺めたものでした。勿論透矢様が帰ってくるはずもありませんでした。
「意外でした。お嬢様がこんなに透矢様にお熱になるなんて」
そう言ったのは女中の凛です。彼女はわたくしが自ら選んで実家から連れてきた信頼する使用人です。少し砕けた物言いをしますが、明るくてはっきりとした性格がたいへん好ましいです。嫁いでから知り合った鷹司家の使用人たちはわたくしを奥様と呼びますが、慣れ親しんだお嬢様という呼び方も悪くないものです。
「凛にもそう見えますかしら?」
「誰の目にも明らかかと……。まぁ、夫婦が仲睦まじいのはよいことなんじゃないですか?」
「それは、そうですわね……」
仲睦まじいだなんて言われると照れてしまいます。ぽっと火照った頬に手を当てると、墨の香りが鼻腔をくすぐりました。仕事の手を止めていたことを思い出し、続きに取り掛かります。
わたくしは毎日墨と向き合う暮らしになっていましたから、服装も黒で統一したものになっておりました。昔ながらの和装も趣深くて好きなのですが、かさばる袖は書き物に向いていないため普段は着なくなっていました。セーラーの襟まで真っ黒で統一されたワンピースが仕事向きであり、似たような洋装を何着も用意しました。どうやら同年代の女子と比べてわたくしの顔立ちは少々あどけないらしく、このような格好をしているとたまの来客に女学生と間違われることもありました。
「失礼な人たちでしたね! お嬢様を子ども扱いするなんて」
護符の噂を聞きつけた印刷会社の方との商談を終えると、凛は頬を膨らませて怒っていました。どちらかというと凛の方がよっぽど子供っぽい怒り方をしますが、それもまた愛らしいです。
「まあまあ。若く見積もられる分にはよいではないですか。この後も予定がありますから、すぐに茶器を整えてくださいな」
「むむ……お嬢様が気にしないならいいんですけど……」
やや不服そうな顔をしながら、凛はしぶしぶ茶器を片付け始めました。次にお見えになる方との約束の時間まではいくらか余裕がありましたから、わたくしは机の上に便箋を広げました。少し文面を考えてから、筆を執ります。
『拝啓 紅葉の色づく今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
透矢様が本邸を離れて早いもので、季節がひと巡りしましたね。
美墨は変わらずつつがなく暮らしております。
仕事や人とのご縁にも恵まれ、毎日それなりに充実した日々です。
しかし透矢様がいらっしゃらないと、やはり淋しいものです。
大きな事件を追うと言って出て行ってからなんの便りもございませんが、
透矢様は無事過ごせていますか? 美墨は心配です。
貴方もたいがい無理をなさる人ですから、どうか心身を大事にしてくださいませ。
お忙しいかと思いますが、元気であるならその旨お返事いただけると
美墨はたいへん安心します。
透矢様のご帰宅を待ち侘びております。
敬具』
そこまでひといきに書き上げ、わたくしは筆を置いてため息をつきました。
透矢様へは毎日手紙を出しております。鬱陶しいと思われているかもしれませんが、手慰みにちょうどよかったのです。
返事が来たことは一度もありません。
透矢様はもとより筆まめな方ではありませんでしたから、単にそういう性分なのかもしれません。便りがないのはよい便り、という言葉もありますし、案外向こうで楽しく暮らしているのかもしれません。
ただ、一度も返事がないとなると不安を感じずにはいられませんでした。
やはり毎日手紙が送られてくるのは重たかったでしょうか。
それとも、暮らす距離が離れたことで、心の距離も離れてしまったのでしょうか。
そもそも透矢様はわたくしの作る芸術が好きだと言っていましたが、わたくし自身の性格などは結婚してから初めて知ったようなものです。想像していた人柄と違った、好みではなかったと後から思われていてもなんら不思議ではありません。
自分の仕事ぶりには自信があります。けれど、わたくし自身の魅力にはあまり自信がありませんでした。
人と目を合わせられない性格は、余所余所しく無礼と捉えられてもおかしくありません。透矢様は気にしていないといった態度を取っておられましたが、それは建前だったかもしれません。
透矢様の寛容さに甘えていたのではないか、という考えがよぎりました。そしてその考えを一度持ってしまうと、やはりそうだったのだろう、という確信めいた気分になってくるのです。
透矢様はわたくしとの結婚を後悔しているのではないでしょうか?
もっと社交的で魅力的な女性などたくさん居ることでしょう。探偵事務所には多くの人々が出入りするはずです。その中から、わたくしよりも素敵な方を見つけるかもしれません。透矢様から離縁を切り出されたらどうしよう――そんなことを妄想しては、焦燥感にかられるのです。
「……ああ、少し肌寒いですわね」
秋空は高く澄み渡ります。吹き抜ける風に侘しさを感じながら、わたくしは上着を一枚羽織りました。短い秋が終われば、冬の足音が近づいてきます。寒がりなわたくしの苦手な季節です。
「お嬢様、また手紙を書いてたんですか? 窓を開けっぱなしにするのは危ないですよ、近頃は物騒なんですから」
不意に凛がやってきてわたくしに声をかけました。
「ええ、まあ。返事が来たことはないのですけれど……」
「透矢様も冷たい方ですよね! お嬢様がこんなに一生懸命毎日毎日手紙を送っているというのにただのひとつも返事を寄越さないなんて! 何のために腕が生えていると思っているんでしょうか、もぎ取ってやった方がいいですか?」
「凛は大袈裟すぎますわ。でも、そういう冗談を言ってくれるとわたくしの心も和みます」
「えっ、冗談のつもりじゃなかったんですけど……というかこれで和むお嬢様もいい性格してますよね……」
「そうでしょうか? それから凛、物騒とは? なにか事件でもありましたかしら」
「知らないんですかお嬢様? 新聞はちゃんと読まなきゃ駄目ですよ! 巷では『怪奇! 人々謎ノ石化ヲ遂ゲル!』って話題で持ちきりなんです。使用人たちも気味悪がって噂してますよ」
「石化……?」
「まあその話はまた後で。伏見様がお見えですよ」
確かに約束の時間になっていました。透矢様への手紙を書いていると、つい時の流れを忘れてしまいます。少し速足で茶室へ向かい、既に着席しているお客様へご挨拶を申し上げました。
「お待たせしてしまって申し訳ございません、清慈郎さん」
清慈郎さんは穏やかな微笑みを浮かべて手をひらひらと振ります。
「こんにちは美墨さん。どうぞお気になさらず、今しがた来たところですから。これは手土産です、変わり映えしなくて悪いけれど」
「まぁ、カステラ。わたくしこれ大好きなんです、どうもありがとう。凛、紅茶のご用意を」
「はい」
凛がお茶の用意をしている間、わたくしと清慈郎さんは向かい合って座って世間話を始めました。
「清慈郎さんのお仕事は順調でして?」
「ぼちぼちですよ。美墨さんこそ順風満帆なようで。ご活躍の噂は耳にします」
伏見清慈郎さんは出版社に勤めていらっしゃる親戚のお兄さんです。幼い頃からたびたびお会いしていたので気さくな仲です。わたくしがもっと小さかった頃は、よく家庭教師のようなことをしてくれました。今わたくしが恋文手本書などの本を出版できているのは、彼の取り計らいによるところが大きく、恩義を感じています。
「順風満帆……まあ、ありがたいことにお仕事の方はそうですわね……」
「失礼いたします。紅茶のご準備が整いました」
わたくしが言葉を濁していると、凛がティーセットを持ってきました。まだ一般的にはそれほど浸透していない紅茶という舶来のお茶ですが、以前清慈郎さんからの手土産でいただいてから気に入ってしまい、今では自ら購入するようになりました。白磁のポットから注がれる紅玉色の紅茶を見つめます。木々が赤く色づく秋に相応しい飲み物だと思われました。
凛が退出してからしばらくカップの上に立ちのぼる湯気を眺めていると、清慈郎さんの方から話の続きが切り出されました。
「『お仕事の方は』……ね。結婚生活は上手くいっていない様な言い方だ」
流石に分かりやすすぎたのか、見抜かれてしまいました。
「ええ……わたくしが勝手に不安になっているだけなのかもしれないのですが……」
透矢様と長らく別居生活をしていること、一度も手紙の返事が来ないことをかいつまんで清慈郎さんにお話ししました。
「成程ね。男には譲れない仕事があるといっても、それは中々薄情だ。こんなに可愛いお嫁さんを淋しがらせるなんて」
「清慈郎さんはお上手ですね。では本題に入りましょうか。次の本のお話なのですが……」
清慈郎さんとの打ち合わせを終えて彼をお見送りした後、わたくしはぬるくなった紅茶の残りを飲んでいました。凛は後片付けをしてくれています。
「あたし、伏見様ってちょっと苦手なんですよね」
「忌憚のない意見ですわね。どうしてかしら?」
「……なんとなく?」
「あらそう?」
「女の勘ってやつかもしれないですけど。いつもへら~っとして何考えてるか分からないっていうか……ま、伏見様が持ってくるお菓子は美味しいんですけどね」
わたくしが後から凛にも食べさせているので味を覚えたようです。持ってくる人のことは気に入らないけれどお菓子は好きだなんて、難儀なことでしょうに。
「ところで先ほど言いかけていた話って何ですの? 『石化』……だったかしら?」
「ああ、はい。これがその新聞なんですけど……」
凛は新聞をさし出します。書いてあることを要約すると、巷で人々が石像のような状態で発見されるといった怪現象が連続しているとのことでした。一般常識では人間の石化など考えられません。
「もしかして妖魔……?」
わたくしはすぐに思い至りました。人智を超えた存在であれば、石化の術を持っているかもしれません。
「透矢様が追っている事件って、このことなんでしょうか……」
憶測にすぎませんが、そうであれば辻褄が合うような気がしました。けれどそれを確かめる手段は……手紙では駄目でしょう。
「凛、車を手配してちょうだい」
「車ですか? どちらへ……」
「透矢様のところへ乗り込んでやりましょう」
わたくしは荷物と今日書いた手紙を持ち、出かける支度をしました。
***
――これがこの場に至るまでのあらましです。
透矢様は突然の離婚願いにたいそう驚いていらっしゃいます。
「わたくしが直接ここへやってきたのには二つの理由があります。一つ目はこの離婚願をお渡しするためです」
「なぜそうなる」
「わたくしに一度も手紙の返事をくださらなかったのは透矢様です。毎日送られてくるのは迷惑だったかもしれませんが、一年間も離れて暮らしていて一度も返事をくださらないのはおかしいでしょう。透矢様は本当はわたくしのことが好きではないのでは?」
「待て美墨――」
「いくら忙しいからといって、そんなのあんまりですわ。わたくしは毎日毎日透矢様が恋しくて淋しかったのにひどいですわ。そんなに放っておかれては……透矢様からの愛情を感じることができませんもの……」
自分で申し上げておきながら、胸が詰まるような思いでした。悲しくなってしまって、最後の方は泣いて声が震えてしまいました。
「――おい!」
透矢様はわたくしが続きを言うのを遮るように声を放ち、そして――わたくしを思いきり抱きしめました。
唐突な出来事に、わたくしは一瞬なにが起こったのか理解できませんでした。
「……透矢様……?」
驚いてそれだけ聞き返すと、透矢様は抱きしめる腕の力を一層強くして答えます。
「お前に愛情を感じていないなど……そのようなことは断じてない」
「では、どうして別居を?」
「お前を事件に巻き込みたくなかった」
「そんなに大きな事件なのですか?」
「そうだ。美墨は石化事件を知っているか?」
「ええ、ちょうど新聞で読んだところで……」
「新聞で取り上げられるようになったのは最近だからな。俺はずっと以前からその事件を追っていたんだ。被害者には若い女性が多いし、美墨になにかあっては困る」
「そう、でしたの……。それにしたって、一回も手紙の返事をくださらないのは悲しくてよ」
「それなんだが。俺は毎日返事を送っている」
「………………えっ?」
思考が追いつかず、わたくしは静止します。透矢様はわたくしに毎日手紙を送ってくださっている? 本当に?
「で、でも、わたくしのところには何も届いておりませんわ……いったいどういうことですの?」
すっ、と透矢様は抱きしめる腕を離し、わたくしの両肩に手を置いて話を続けます。訝しげな顔をしていました。
「……妙だな。そんなはずはないんだが……」
配達の不備、ということもないでしょう。一度や二度ならまだしも、三六五日一度も届かない不備などあり得ません。
「……もしかして、誰かが意図的に手紙を妨害している……?」
――わたくしが透矢様のもとを訪れた二つ目の理由。それは、透矢様が今追っている事件がなんであるか確かめるためでした。透矢様が石化事件を追い始めた時期と、透矢様からの手紙が届かなかった時期は完全に一致しています。
「――手紙が届かない理由は、石化事件と関連性がある――?」
わたくしがそう呟くと、透矢様は妖術を展開しました。
「美墨、これは俺が返事の手紙を書くために使っていた筆だ。この筆に、俺と一緒に妖術の気を念じてみてくれ。手紙の行き先を追跡する」
「そんなことが……分かりました、やってみますわ」
透矢様に言われるがまま、わたくしは自らの妖気を筆に念じます。すると真っ黒な墨が煙のように吹き出し、するすると空中を滑らかに伸びてゆきます。
「美墨、追うぞ!」
「はい!」
得物である弓を携えた透矢様と共に飛び出し、墨の道しるべを辿って追いかけます。
「この先に事件の犯人が?」
「間違いない。ほら、もう背中が見えたぞ!」
墨の道しるべの指す方へ一心不乱に走り続け――そして、わたくしの足はぴたりと止まりました。
「美墨?」
透矢様は怪訝な顔をしますが、わたくしはそれどころではありませんでした。
「そんな……まさか貴方が犯人なのですか……?」
その人物はわたくしの声に振り返り、微笑みます。
辿り着いた先は、わたくしが暮らす本邸の庭でした。真っ赤な紅葉の葉が、はらはらと舞っています。
――赤く色づいた木の下に立っていたのは、清慈郎さんでした。
「……おや、もう気づかれてしまったのかい。仕方ないな、まだ練習中だったのだけれど」
清慈郎さんは穏やかな表情を崩さずにそう言います。淡々とした物言いは、かえって恐ろしく感じられました。
「僕の苗字は伏見――というのだけれど、昔は『伏巳』……巳という字を使っていたらしい。蛇の妖術使い――一家みなそうだ。僕にもその才は遺伝している」
「蛇の妖術……?」
わたくしが訊き返すと、清慈郎さんは続けます。
「そう。目を合わせた人を石に変えてしまう妖術さ」
清慈郎さんの視線の先を追うと、先ほどまであんなに元気だった凛が変わり果てた石像の姿になってその場で固まっていました。
「凛――!」
「美墨、落ち着け!」
取り乱しそうになるわたくしを、透矢様が止めます。
「美墨さんはいつも僕の目を見てくれなかったよね。悲しいなぁ」
「何が言いたいんですの……?」
「僕が本当に石にしてしまいたいのは君なんだよ、美墨さん。嗚呼、小さい頃から僕がずっと見守ってきたのに! 僕が君をお嫁さんにするつもりだったのに、ぽっと出の男に横取りされるなんて! そんなの許せない! 今日こそ僕のものになってもらうよ、美墨さん……!」
襲い掛かる清慈郎さんに、わたくしの足はもつれそうになります。透矢様は素早くわたくしを抱きかかえ、飛び退ってその攻撃を躱してくださいました。
「わ、わたくし、清慈郎さんのものになった覚えはありませんわ……! わたくしは鷹司透矢の妻ですもの!」
逃げ出したくなる気持ちを抑えてわたくしはそう申し上げました。清慈郎さんは頭をかきむしって悶絶します。
「忌まわしい……! 僕のものにならない美墨さんなんて、そんなの美墨さんじゃない!」
清慈郎さんはわたくしの言葉に耳を傾けてくれそうもありません。透矢様に抱えられ、わたくしたちは一旦建物の陰に隠れました。
「美墨。好機はそうない、一度で仕留めるぞ」
「仕留めるだなんて透矢様、そんな……」
いくらなんでも命まで奪ってしまうのは、と反対するわたくしに、透矢様は弓矢を見せます。
「これは破魔矢だ。人体に害はない。妖術を祓うための矢だ。ここに美墨の護符を結んでくれ」
「……分かりました……透矢様、どうか気を付けて……!」
わたくしは懐に忍ばせていた護符に念を込めながら破魔矢へ結びました。透矢様は建物の陰から狙いを定め、清慈郎さんへ向かって矢を放ちます。
「正気に戻れ!」
透矢様の言葉よりも早く矢は飛んでゆき、清慈郎さんの胸を貫きます。
「――!」
見事命中した破魔矢は清慈郎さんを覆っていた邪悪な妖気を祓い、泡のように溶けてゆきます。その場に倒れ伏す清慈郎さんの呼吸を確かめるように、透矢様は一歩二歩と近づきました。透矢様が清慈郎さんの様子を伺うように覗き込んだ瞬間――、突然清慈郎さんは起き上がって透矢様に短刀を刺しました。
「妖術がなくても、僕はお前を殺せる、鷹司透矢!」
「透矢様っ!」
わたくしは陰から飛び出し、透矢さんへ駆け寄ります。しかしわたくしがその場に辿り着くよりも先に、胸を刺し貫かれたはずの透矢様は清慈郎さんの首を叩き、気絶させたのです。
「寝言は寝て言え」
清慈郎さんは今度こそ気を失って倒れました。
「と、透矢様、傷口の手当をしないと……!」
「案ずるな、美墨。これを見ろ」
透矢様は胸元を開いて見せます。清慈郎さんが向けた刃は――透矢様が懐に忍ばせていた、護符に阻まれて止まっていました。わたくしが初めて作った護符。透矢様へ贈った護符。透矢様が大事そうに小結界で覆った護符――。
「……これで分かっただろう? 美墨、俺はお前を忘れたことなど一瞬たりともない。いついかなるときも、お前を愛しているのだ」
「……はい……」
もう、疑う余地はございませんでした。わたくしは意を決して、透矢様を見上げます。青い両の目に、嘘偽りの色はありませんでした。
「わたくしは人と目を合わせることが苦手ですから……こうして透矢様の目を見つめるのは、貴重なことなんですのよ?」
「……勇気を出してくれたんだな、美墨」
透矢様は愛おしそうな目でわたくしを見つめ返します。きっとわたくしがどんなに透矢様をお慕い申し上げているかは、読心でお見通しでしょう。
少し照れが混じりますが、思い切って伝えてしまうことにしました。
「だけど透矢様。わたくしの心を読むよりも、わたくしの恋文を読んでくださいまし」
心そのものも大事です。けれどわたくしは、「表現して伝えようとする心意気」を見てほしいのです。
***
こうして石化事件は幕を下ろしました。
清慈郎さんは警察に連行され、余罪がないか今も取り調べを受けているとのことです。やはり透矢様の手紙を妨害しているのは清慈郎さんでした。人々の石化は解かれ、凛も元気になりました。
わたくしが書いた離縁願いはさっさと焼却処分してしまいました。もうわたくしたち夫婦には、必要のないものです。
透矢様は本邸へ帰宅し、今は毎日寄り添って暮らしております。
わたくしも透矢様の探偵稼業の手伝いをすることになりました。忙しさは増しましたが、満ち足りた日々です。
「美墨、一緒に暮らしているのだから手紙でなくても……」
「やだ、透矢様。本当はわたくしから恋文が届くのが嬉しいくせに。天才書道家のわたくしの書き下ろしだなんて、どれだけ希少価値があることか……」
「近頃自信をつけたな、美墨……」
「はい。わたくし、透矢様に愛されておりますから!」
透矢様は苦笑いしましたが、満更でもなさそうでした。
「俺も美墨宛の恋文をしたためてきたんだ」
差し出された透矢様の恋文は、両手でも持ち切れないほどの厚みでした。一体何頁に渡るのでしょう……。
「すごい、文字通り愛が重いですわ」
「しかと受け取ってくれ」
「これ、読み終わるまでに何日かかるのでしょうか……」
「何日でもかけて読んでくれ。読み終わったら、内容について二人で語り合おう」
「まったく、透矢様は淋しがり屋なんですから」
そうしてわたくしと透矢様はお互いを見つめ合って、笑いました。
ここは透矢様が暮らす郊外の別宅で、純和風の日本家屋です。茶室の畳張りの床の上、わたくしも透矢様も正座で坐しております。格子を嵌め込んだ円い硝子窓の向こうでは、真っ赤な紅葉がはらはらと静かに舞い落ちておりました。
「離縁させてくださいまし」
わたくしは真のお辞儀をしてそう申し上げました。対する透矢様は微動だにせず、ただ問い返します。
「唐突だな。美墨、何故そんなことを言う?」
目を合わせられないわたくしは、居住まいを正してなお顔を上げることができず、透矢様の和装の帯のあたりを見つめていました。視界の端には、透矢様の白銀の毛先が見えます。お母様は不安定な国勢を理由に亡命してきた芬蘭土の貴族だと聞きました。その血を色濃く受け継いだ透矢様は、お母様譲りの銀髪なのです。比較的外国人の多い帝都でさえこの髪色は目立つので、郊外ともなれば透矢様の顔と名前が一致しない人は居ないでしょう。
如何にして離縁を申し出ることになったのか――経緯をお話ししましょう。
わたくしは美墨と申します。華族の家柄に名を連ねる者で、結婚もほとんど親同士によって定められたものでした。最終的に鷹司透矢様のもとへ嫁ぐことになったのは、わたくしの意思ではなかったのです。そうは言っても、わたくしはかなり恵まれた環境に置かれていました。
女学校を卒業後、わたくしは幸いなことに働かせてもらえることになりました。世間を知らぬまま殿方のもとへ嫁ぎ、甲斐甲斐しく世話を焼く一生を過ごすのはこのうえない苦痛のように思えたからです。両親も家柄のわりに大らかな気質の人たちでしたから、好きな職に就いて自分の時間を過ごす猶予を与えてくれました。
わたくしの勤め先は、帝都の大きな百貨店でした。書道家の家系の者だったので、自ずと文具部へと配属になりました。せっかく技術があるのだからと勧められ、たびたび文具の実演販売もさせていただきました。
「美墨さんがいらっしゃる日は万年筆がよく売れるわ」
先輩もしきりに褒めてくださいました。わたくしがさらさらとカリグラフィーを実演してみせると、万年筆と洋墨が売れました。しかし、わたくしの本領は万年筆ではございません。幼いころから慣れ親しんできた毛筆こそが特技なのです。ですが、流行は西洋風でしたから万年筆の隣に並ぶ筆と硯には見向きもされませんでした。
残念に思っていると、あるとき好機が訪れました。万年筆と洋墨の欠品です。あまりにも売れすぎたために生産が追いつかず、次の入荷は七日後とのことでした。一週間も売り場を空けておくわけにはいきません。わたくしは欠品中の万年筆売り場に一旦筆を広げることにしました。
「あら? 万年筆の売り場はどこかしら?」
「申し訳ございません、ただいま品切れでして……」
「やだわ、それを目当てに来たっていうのに。筆なんか時代遅れよ」
お客様にがっかりされるのは悲しいことです。それに万年筆が売り場にないと文具部は閑散としていて淋しい様子でした。ですから、わたくしはとある試みに出ました。
「筆もなかなかよいものですよ。ほら、こんなふうに……」
試し書き用の紙をとり、わたくしは墨を磨って図案を描き始めました。大食堂の壁に掲げられた舶来品の広告画を思い浮かべます。あれは確か、アール・ヌーヴォーという様式でした。人物は輪郭が際立つように太筆で力強く、周囲の花々は小筆で繊細に……と、筆の太さを使い分けながら描いてゆきます。どうせ暇だから……と始めたのですが、いつの間にかわたくしの周りには人だかりができていました。
「おい、すごいことやってるぞ。こっちにきて見てみろよ」
「まぁ、なんて素敵な図案なのかしら」
「これぞ和洋折衷の心ですね」
「私もぜひ描いてみたいわ。この人が使っているのと同じ筆を頂戴」
あれよあれよという間に毛筆の道具が売れていくではありませんか。会計係の方は嬉しい悲鳴をあげておりました。
「少しよろしいか」
たくさんのお客様を勘定場へ誘導し終えたところで、わたくしを呼び止める声がありました。
「はい? わたくしですか?」
振り向くとそこに立っていたのは、見目麗しい殿方でした。とても背の高い方です。一八〇糎は優に超えているでしょう。小袖に二重廻しを合わせたハイカラな彼は山高帽を取って会釈しました。黒い帽子の下に隠れていた白銀の髪は、売り場を煌煌と照らす照明を浴びて輝きます。
「そうだ」
銀髪の彼はずんずんとわたくしに近づき、目の前までやってきました。こう間近に立たれると、流石に威圧感を覚えます。目を合わせられないわたくしは、いかにも相手をきちんと見ているようなふりをして、彼の眉間のあたりに視線を送りました。わたくしは一四五糎しか背丈がありませんから、少し首が痛いです。そうしていると、彼はおもむろにわたくしの両手を取りました。
「いけません、まだ墨がついているので……」
驚きながら咄嗟にそう申し上げました。しかし、彼は怯みません。
「構うものか。貴女の芸術作品、その美しさが俺の心を射抜いたのだ。そして、素晴らしい芸術を生み出す貴女の心を一等近くで見てみたい。俺の妻になってくれ」
突然すぎる求婚に、わたくしは呆気にとられました。その気の緩みから、普段なら見られないはずの目を……彼の目を見ていました。銀髪の彼の瞳は、宝石のような青色でした。
後から分かったことでしたが、彼はかの有名な華族・鷹司家の当主――鷹司透矢様でした。何の前触れもなく舞い込んだ縁談でしたが、両親はたいへん喜びました。愛する娘の晴れ姿をぜひとも見たいとはしゃぐ両親を前に、まだ決めかねていますとは言えませんでした。透矢様のご両親も納得しているというので退路がありません。わたくしにしては珍しく流される形で、透矢様との結婚は決まりました。せっかくだから憧れの洋装で、と西洋趣味の母が言うので、ドレスを仕立てていただいて式に臨みました。結婚式の最中、わたくしは「こんな真っ白な格好では筆は取れないですわね」などと思いを馳せてうわの空でした。
「白い服では墨を使えない、と思っているのだろう?」
頭上から低い声が降ってきて、わたくしは反射的に身震いしました。隣に立つ透矢様は背が高いので、わたくしには上から声が降ってくるように感じるのです。そして彼の言葉はわたくしの心を見抜いていました。
「……どうして分かるのですか?」
そう訊ねると、透矢様は眉ひとつ動かさずに答えます。
「人と目を合わせると相手の心が読めるのだ」
「えっ?」
「妖術の一つだ。俺の場合は学んで身につけた技術ではなく、先天的なものだが。一般的には『読心』というらしい」
――どうしてそういうことを先に言わないのでしょう! 分かっていたのなら、もう少し慎重にこの縁談を検討しましたのに。その後わたくしは一度も透矢様と目を合わせずに式を済ませたのでした。
始まった結婚生活は、身構えていたよりも当初順調でした。実家から連れてきた使用人が居たのであまり緊張せずに済みましたし、透矢様にもわたくしは人と目を合わせるのが苦手だと先に申し上げておきましたので特に咎められはしませんでした。
販売員のお仕事は充実したものでしたが、結婚を機に退職しました。人と目を合わせられないという悩みは思ったよりも深刻なものだと世間に出て気づかされたからです。代わりに始めたのが図案関係の仕事でした。本の装画や挿絵に始まり、単に飾るためだけの墨絵なども手掛けるようになりました。
様々な仕事の中で最も評判がよかったのは「恋文手本書」でした。愛を伝える詩に浪漫的な筆絵を添える構成の恋文がわたくしの手本書から広まり、大衆の――特にうら若き乙女たちによく真似していただきました。
「素晴らしい発明だ」
透矢様も恋文手本書を読んで褒めてくださいました。そのときわたくしは、ああこの人と結婚してよかったと思ったりしたものです。
「だが美墨、これだけの恋文を書けるのに俺は――」
透矢様は少し難しい顔をしてそう言いかけましたが、続きは打ち切られてしまいました。
「――いや。なんでもない」
「透矢様?」
「それよりも美墨、お前には妖術の心得はないのか?」
「はい?」
急に全く違う話題が始まったのかと思い、わたくしは首を傾げました。妖術というのはなにも摩訶不思議な未知の術ではありません。遺伝で体質的に発現することもごく稀にありますが、立派な学問です。だからこそ難しく、相当賢く優秀な方でなければ身に着けることはできない代物です。わたくしは残念ながら学術的に妖術を学ぶ機会は得られませんでした。
「妖術に関しては全くの素人でして……」
「ふむ。だがお前には素質がありそうだ。体質的に妖術を扱うのに向いている」
「分かるものなのですか?」
「微かに漂うんだ、妖気が。体質的な妖術使いなら察することができる」
「そうなのですね……透矢様が教えてくださるのでしょうか?」
「話が早いな」
わたくしは日々の暮らしの中で時間を見つけては透矢様から妖術の手ほどきを受けました。
「美墨は筋がいい。こんなに早く上達するとは」
「お褒めに預かり光栄です。ときに透矢様、なぜわたくしに妖術を学ばせようと考えたのですか?」
「お前の描く墨絵の図案だが――どこか神秘的だろう。それを呪いに活かせないかと思ってな」
「呪いですか。具体的には?」
「お前の描いた墨絵に、妖術の『気』を込める。すると、それは護符――いわゆる『お守り』に成るだろう。作ってみないか? 美墨の才能を最も発揮できる分野になると思うんだが……」
透矢様は先進的な考えの持ち主でした。嫁に入ったからには家庭を守れ、女子が働く必要はないと強要する男性も多いと聞きます。けれど透矢様は、変わらずわたくしの誉れのことを考えてくださっていたのです。その心遣いに胸をうたれ、妖術の修行に励み、護符を作り上げました。
初めて作った護符は勿論透矢様へ贈りました。透矢様は護符をしげしげと眺め、愛おしげにそっと撫でてから小結界で包みました。
「け、結界……」
「大事なものを入れるためにはこれが一番だろう」
透矢様を妖魔の手から守るために作った護符そのものが、透矢様の結界に守られてしまいました。その過保護な様子になんだかおかしくなってしまって、わたくしは思わず笑みをこぼしていたのでした。
幸せな時間は、唐突に終わるものです。
わたくしが巷で評判の護符職人として知られるようになった頃、透矢様は急に別居すると言い出しました。わたくしと結婚するより以前、透矢様は将校として務めを果たしていたようですが、現在の彼の職業は私立探偵です。組織の人間とそりが合わなかった透矢様は前職を退き、探偵事務所を開業していたのでした。人と目を合わせることで相手の心を見通す『読心の才』を用いた捜査で次々に成果を上げ、毎日依頼が舞い込んで大忙しになっておりました。仕事に専念したいとのことで、透矢様は閑静とした郊外に別宅を構えて一人暮らしすることに決めたそうです。
「急な話ですわね……」
「すまない、美墨。しばらく本邸を留守にするが、くれぐれも健やかに暮らしてくれ。お前は手に職もあるし、護符がお前自身を守ってくれるはずだ。片がつくまで淋しくさせるが、待っていてほしい」
目を合わせられないわたくしは、透矢様の横顔を見上げるのが常となっておりました。その真剣な眼差しを見てしまっては、行かないでとは言い出せませんでした。
その頃にはすっかり透矢様を好きになってしまっていたわたくしは、淋しいどころの話ではありませんでした。毎日彼が恋しくて、夕方になると自室の窓から玄関の方を眺めたものでした。勿論透矢様が帰ってくるはずもありませんでした。
「意外でした。お嬢様がこんなに透矢様にお熱になるなんて」
そう言ったのは女中の凛です。彼女はわたくしが自ら選んで実家から連れてきた信頼する使用人です。少し砕けた物言いをしますが、明るくてはっきりとした性格がたいへん好ましいです。嫁いでから知り合った鷹司家の使用人たちはわたくしを奥様と呼びますが、慣れ親しんだお嬢様という呼び方も悪くないものです。
「凛にもそう見えますかしら?」
「誰の目にも明らかかと……。まぁ、夫婦が仲睦まじいのはよいことなんじゃないですか?」
「それは、そうですわね……」
仲睦まじいだなんて言われると照れてしまいます。ぽっと火照った頬に手を当てると、墨の香りが鼻腔をくすぐりました。仕事の手を止めていたことを思い出し、続きに取り掛かります。
わたくしは毎日墨と向き合う暮らしになっていましたから、服装も黒で統一したものになっておりました。昔ながらの和装も趣深くて好きなのですが、かさばる袖は書き物に向いていないため普段は着なくなっていました。セーラーの襟まで真っ黒で統一されたワンピースが仕事向きであり、似たような洋装を何着も用意しました。どうやら同年代の女子と比べてわたくしの顔立ちは少々あどけないらしく、このような格好をしているとたまの来客に女学生と間違われることもありました。
「失礼な人たちでしたね! お嬢様を子ども扱いするなんて」
護符の噂を聞きつけた印刷会社の方との商談を終えると、凛は頬を膨らませて怒っていました。どちらかというと凛の方がよっぽど子供っぽい怒り方をしますが、それもまた愛らしいです。
「まあまあ。若く見積もられる分にはよいではないですか。この後も予定がありますから、すぐに茶器を整えてくださいな」
「むむ……お嬢様が気にしないならいいんですけど……」
やや不服そうな顔をしながら、凛はしぶしぶ茶器を片付け始めました。次にお見えになる方との約束の時間まではいくらか余裕がありましたから、わたくしは机の上に便箋を広げました。少し文面を考えてから、筆を執ります。
『拝啓 紅葉の色づく今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
透矢様が本邸を離れて早いもので、季節がひと巡りしましたね。
美墨は変わらずつつがなく暮らしております。
仕事や人とのご縁にも恵まれ、毎日それなりに充実した日々です。
しかし透矢様がいらっしゃらないと、やはり淋しいものです。
大きな事件を追うと言って出て行ってからなんの便りもございませんが、
透矢様は無事過ごせていますか? 美墨は心配です。
貴方もたいがい無理をなさる人ですから、どうか心身を大事にしてくださいませ。
お忙しいかと思いますが、元気であるならその旨お返事いただけると
美墨はたいへん安心します。
透矢様のご帰宅を待ち侘びております。
敬具』
そこまでひといきに書き上げ、わたくしは筆を置いてため息をつきました。
透矢様へは毎日手紙を出しております。鬱陶しいと思われているかもしれませんが、手慰みにちょうどよかったのです。
返事が来たことは一度もありません。
透矢様はもとより筆まめな方ではありませんでしたから、単にそういう性分なのかもしれません。便りがないのはよい便り、という言葉もありますし、案外向こうで楽しく暮らしているのかもしれません。
ただ、一度も返事がないとなると不安を感じずにはいられませんでした。
やはり毎日手紙が送られてくるのは重たかったでしょうか。
それとも、暮らす距離が離れたことで、心の距離も離れてしまったのでしょうか。
そもそも透矢様はわたくしの作る芸術が好きだと言っていましたが、わたくし自身の性格などは結婚してから初めて知ったようなものです。想像していた人柄と違った、好みではなかったと後から思われていてもなんら不思議ではありません。
自分の仕事ぶりには自信があります。けれど、わたくし自身の魅力にはあまり自信がありませんでした。
人と目を合わせられない性格は、余所余所しく無礼と捉えられてもおかしくありません。透矢様は気にしていないといった態度を取っておられましたが、それは建前だったかもしれません。
透矢様の寛容さに甘えていたのではないか、という考えがよぎりました。そしてその考えを一度持ってしまうと、やはりそうだったのだろう、という確信めいた気分になってくるのです。
透矢様はわたくしとの結婚を後悔しているのではないでしょうか?
もっと社交的で魅力的な女性などたくさん居ることでしょう。探偵事務所には多くの人々が出入りするはずです。その中から、わたくしよりも素敵な方を見つけるかもしれません。透矢様から離縁を切り出されたらどうしよう――そんなことを妄想しては、焦燥感にかられるのです。
「……ああ、少し肌寒いですわね」
秋空は高く澄み渡ります。吹き抜ける風に侘しさを感じながら、わたくしは上着を一枚羽織りました。短い秋が終われば、冬の足音が近づいてきます。寒がりなわたくしの苦手な季節です。
「お嬢様、また手紙を書いてたんですか? 窓を開けっぱなしにするのは危ないですよ、近頃は物騒なんですから」
不意に凛がやってきてわたくしに声をかけました。
「ええ、まあ。返事が来たことはないのですけれど……」
「透矢様も冷たい方ですよね! お嬢様がこんなに一生懸命毎日毎日手紙を送っているというのにただのひとつも返事を寄越さないなんて! 何のために腕が生えていると思っているんでしょうか、もぎ取ってやった方がいいですか?」
「凛は大袈裟すぎますわ。でも、そういう冗談を言ってくれるとわたくしの心も和みます」
「えっ、冗談のつもりじゃなかったんですけど……というかこれで和むお嬢様もいい性格してますよね……」
「そうでしょうか? それから凛、物騒とは? なにか事件でもありましたかしら」
「知らないんですかお嬢様? 新聞はちゃんと読まなきゃ駄目ですよ! 巷では『怪奇! 人々謎ノ石化ヲ遂ゲル!』って話題で持ちきりなんです。使用人たちも気味悪がって噂してますよ」
「石化……?」
「まあその話はまた後で。伏見様がお見えですよ」
確かに約束の時間になっていました。透矢様への手紙を書いていると、つい時の流れを忘れてしまいます。少し速足で茶室へ向かい、既に着席しているお客様へご挨拶を申し上げました。
「お待たせしてしまって申し訳ございません、清慈郎さん」
清慈郎さんは穏やかな微笑みを浮かべて手をひらひらと振ります。
「こんにちは美墨さん。どうぞお気になさらず、今しがた来たところですから。これは手土産です、変わり映えしなくて悪いけれど」
「まぁ、カステラ。わたくしこれ大好きなんです、どうもありがとう。凛、紅茶のご用意を」
「はい」
凛がお茶の用意をしている間、わたくしと清慈郎さんは向かい合って座って世間話を始めました。
「清慈郎さんのお仕事は順調でして?」
「ぼちぼちですよ。美墨さんこそ順風満帆なようで。ご活躍の噂は耳にします」
伏見清慈郎さんは出版社に勤めていらっしゃる親戚のお兄さんです。幼い頃からたびたびお会いしていたので気さくな仲です。わたくしがもっと小さかった頃は、よく家庭教師のようなことをしてくれました。今わたくしが恋文手本書などの本を出版できているのは、彼の取り計らいによるところが大きく、恩義を感じています。
「順風満帆……まあ、ありがたいことにお仕事の方はそうですわね……」
「失礼いたします。紅茶のご準備が整いました」
わたくしが言葉を濁していると、凛がティーセットを持ってきました。まだ一般的にはそれほど浸透していない紅茶という舶来のお茶ですが、以前清慈郎さんからの手土産でいただいてから気に入ってしまい、今では自ら購入するようになりました。白磁のポットから注がれる紅玉色の紅茶を見つめます。木々が赤く色づく秋に相応しい飲み物だと思われました。
凛が退出してからしばらくカップの上に立ちのぼる湯気を眺めていると、清慈郎さんの方から話の続きが切り出されました。
「『お仕事の方は』……ね。結婚生活は上手くいっていない様な言い方だ」
流石に分かりやすすぎたのか、見抜かれてしまいました。
「ええ……わたくしが勝手に不安になっているだけなのかもしれないのですが……」
透矢様と長らく別居生活をしていること、一度も手紙の返事が来ないことをかいつまんで清慈郎さんにお話ししました。
「成程ね。男には譲れない仕事があるといっても、それは中々薄情だ。こんなに可愛いお嫁さんを淋しがらせるなんて」
「清慈郎さんはお上手ですね。では本題に入りましょうか。次の本のお話なのですが……」
清慈郎さんとの打ち合わせを終えて彼をお見送りした後、わたくしはぬるくなった紅茶の残りを飲んでいました。凛は後片付けをしてくれています。
「あたし、伏見様ってちょっと苦手なんですよね」
「忌憚のない意見ですわね。どうしてかしら?」
「……なんとなく?」
「あらそう?」
「女の勘ってやつかもしれないですけど。いつもへら~っとして何考えてるか分からないっていうか……ま、伏見様が持ってくるお菓子は美味しいんですけどね」
わたくしが後から凛にも食べさせているので味を覚えたようです。持ってくる人のことは気に入らないけれどお菓子は好きだなんて、難儀なことでしょうに。
「ところで先ほど言いかけていた話って何ですの? 『石化』……だったかしら?」
「ああ、はい。これがその新聞なんですけど……」
凛は新聞をさし出します。書いてあることを要約すると、巷で人々が石像のような状態で発見されるといった怪現象が連続しているとのことでした。一般常識では人間の石化など考えられません。
「もしかして妖魔……?」
わたくしはすぐに思い至りました。人智を超えた存在であれば、石化の術を持っているかもしれません。
「透矢様が追っている事件って、このことなんでしょうか……」
憶測にすぎませんが、そうであれば辻褄が合うような気がしました。けれどそれを確かめる手段は……手紙では駄目でしょう。
「凛、車を手配してちょうだい」
「車ですか? どちらへ……」
「透矢様のところへ乗り込んでやりましょう」
わたくしは荷物と今日書いた手紙を持ち、出かける支度をしました。
***
――これがこの場に至るまでのあらましです。
透矢様は突然の離婚願いにたいそう驚いていらっしゃいます。
「わたくしが直接ここへやってきたのには二つの理由があります。一つ目はこの離婚願をお渡しするためです」
「なぜそうなる」
「わたくしに一度も手紙の返事をくださらなかったのは透矢様です。毎日送られてくるのは迷惑だったかもしれませんが、一年間も離れて暮らしていて一度も返事をくださらないのはおかしいでしょう。透矢様は本当はわたくしのことが好きではないのでは?」
「待て美墨――」
「いくら忙しいからといって、そんなのあんまりですわ。わたくしは毎日毎日透矢様が恋しくて淋しかったのにひどいですわ。そんなに放っておかれては……透矢様からの愛情を感じることができませんもの……」
自分で申し上げておきながら、胸が詰まるような思いでした。悲しくなってしまって、最後の方は泣いて声が震えてしまいました。
「――おい!」
透矢様はわたくしが続きを言うのを遮るように声を放ち、そして――わたくしを思いきり抱きしめました。
唐突な出来事に、わたくしは一瞬なにが起こったのか理解できませんでした。
「……透矢様……?」
驚いてそれだけ聞き返すと、透矢様は抱きしめる腕の力を一層強くして答えます。
「お前に愛情を感じていないなど……そのようなことは断じてない」
「では、どうして別居を?」
「お前を事件に巻き込みたくなかった」
「そんなに大きな事件なのですか?」
「そうだ。美墨は石化事件を知っているか?」
「ええ、ちょうど新聞で読んだところで……」
「新聞で取り上げられるようになったのは最近だからな。俺はずっと以前からその事件を追っていたんだ。被害者には若い女性が多いし、美墨になにかあっては困る」
「そう、でしたの……。それにしたって、一回も手紙の返事をくださらないのは悲しくてよ」
「それなんだが。俺は毎日返事を送っている」
「………………えっ?」
思考が追いつかず、わたくしは静止します。透矢様はわたくしに毎日手紙を送ってくださっている? 本当に?
「で、でも、わたくしのところには何も届いておりませんわ……いったいどういうことですの?」
すっ、と透矢様は抱きしめる腕を離し、わたくしの両肩に手を置いて話を続けます。訝しげな顔をしていました。
「……妙だな。そんなはずはないんだが……」
配達の不備、ということもないでしょう。一度や二度ならまだしも、三六五日一度も届かない不備などあり得ません。
「……もしかして、誰かが意図的に手紙を妨害している……?」
――わたくしが透矢様のもとを訪れた二つ目の理由。それは、透矢様が今追っている事件がなんであるか確かめるためでした。透矢様が石化事件を追い始めた時期と、透矢様からの手紙が届かなかった時期は完全に一致しています。
「――手紙が届かない理由は、石化事件と関連性がある――?」
わたくしがそう呟くと、透矢様は妖術を展開しました。
「美墨、これは俺が返事の手紙を書くために使っていた筆だ。この筆に、俺と一緒に妖術の気を念じてみてくれ。手紙の行き先を追跡する」
「そんなことが……分かりました、やってみますわ」
透矢様に言われるがまま、わたくしは自らの妖気を筆に念じます。すると真っ黒な墨が煙のように吹き出し、するすると空中を滑らかに伸びてゆきます。
「美墨、追うぞ!」
「はい!」
得物である弓を携えた透矢様と共に飛び出し、墨の道しるべを辿って追いかけます。
「この先に事件の犯人が?」
「間違いない。ほら、もう背中が見えたぞ!」
墨の道しるべの指す方へ一心不乱に走り続け――そして、わたくしの足はぴたりと止まりました。
「美墨?」
透矢様は怪訝な顔をしますが、わたくしはそれどころではありませんでした。
「そんな……まさか貴方が犯人なのですか……?」
その人物はわたくしの声に振り返り、微笑みます。
辿り着いた先は、わたくしが暮らす本邸の庭でした。真っ赤な紅葉の葉が、はらはらと舞っています。
――赤く色づいた木の下に立っていたのは、清慈郎さんでした。
「……おや、もう気づかれてしまったのかい。仕方ないな、まだ練習中だったのだけれど」
清慈郎さんは穏やかな表情を崩さずにそう言います。淡々とした物言いは、かえって恐ろしく感じられました。
「僕の苗字は伏見――というのだけれど、昔は『伏巳』……巳という字を使っていたらしい。蛇の妖術使い――一家みなそうだ。僕にもその才は遺伝している」
「蛇の妖術……?」
わたくしが訊き返すと、清慈郎さんは続けます。
「そう。目を合わせた人を石に変えてしまう妖術さ」
清慈郎さんの視線の先を追うと、先ほどまであんなに元気だった凛が変わり果てた石像の姿になってその場で固まっていました。
「凛――!」
「美墨、落ち着け!」
取り乱しそうになるわたくしを、透矢様が止めます。
「美墨さんはいつも僕の目を見てくれなかったよね。悲しいなぁ」
「何が言いたいんですの……?」
「僕が本当に石にしてしまいたいのは君なんだよ、美墨さん。嗚呼、小さい頃から僕がずっと見守ってきたのに! 僕が君をお嫁さんにするつもりだったのに、ぽっと出の男に横取りされるなんて! そんなの許せない! 今日こそ僕のものになってもらうよ、美墨さん……!」
襲い掛かる清慈郎さんに、わたくしの足はもつれそうになります。透矢様は素早くわたくしを抱きかかえ、飛び退ってその攻撃を躱してくださいました。
「わ、わたくし、清慈郎さんのものになった覚えはありませんわ……! わたくしは鷹司透矢の妻ですもの!」
逃げ出したくなる気持ちを抑えてわたくしはそう申し上げました。清慈郎さんは頭をかきむしって悶絶します。
「忌まわしい……! 僕のものにならない美墨さんなんて、そんなの美墨さんじゃない!」
清慈郎さんはわたくしの言葉に耳を傾けてくれそうもありません。透矢様に抱えられ、わたくしたちは一旦建物の陰に隠れました。
「美墨。好機はそうない、一度で仕留めるぞ」
「仕留めるだなんて透矢様、そんな……」
いくらなんでも命まで奪ってしまうのは、と反対するわたくしに、透矢様は弓矢を見せます。
「これは破魔矢だ。人体に害はない。妖術を祓うための矢だ。ここに美墨の護符を結んでくれ」
「……分かりました……透矢様、どうか気を付けて……!」
わたくしは懐に忍ばせていた護符に念を込めながら破魔矢へ結びました。透矢様は建物の陰から狙いを定め、清慈郎さんへ向かって矢を放ちます。
「正気に戻れ!」
透矢様の言葉よりも早く矢は飛んでゆき、清慈郎さんの胸を貫きます。
「――!」
見事命中した破魔矢は清慈郎さんを覆っていた邪悪な妖気を祓い、泡のように溶けてゆきます。その場に倒れ伏す清慈郎さんの呼吸を確かめるように、透矢様は一歩二歩と近づきました。透矢様が清慈郎さんの様子を伺うように覗き込んだ瞬間――、突然清慈郎さんは起き上がって透矢様に短刀を刺しました。
「妖術がなくても、僕はお前を殺せる、鷹司透矢!」
「透矢様っ!」
わたくしは陰から飛び出し、透矢さんへ駆け寄ります。しかしわたくしがその場に辿り着くよりも先に、胸を刺し貫かれたはずの透矢様は清慈郎さんの首を叩き、気絶させたのです。
「寝言は寝て言え」
清慈郎さんは今度こそ気を失って倒れました。
「と、透矢様、傷口の手当をしないと……!」
「案ずるな、美墨。これを見ろ」
透矢様は胸元を開いて見せます。清慈郎さんが向けた刃は――透矢様が懐に忍ばせていた、護符に阻まれて止まっていました。わたくしが初めて作った護符。透矢様へ贈った護符。透矢様が大事そうに小結界で覆った護符――。
「……これで分かっただろう? 美墨、俺はお前を忘れたことなど一瞬たりともない。いついかなるときも、お前を愛しているのだ」
「……はい……」
もう、疑う余地はございませんでした。わたくしは意を決して、透矢様を見上げます。青い両の目に、嘘偽りの色はありませんでした。
「わたくしは人と目を合わせることが苦手ですから……こうして透矢様の目を見つめるのは、貴重なことなんですのよ?」
「……勇気を出してくれたんだな、美墨」
透矢様は愛おしそうな目でわたくしを見つめ返します。きっとわたくしがどんなに透矢様をお慕い申し上げているかは、読心でお見通しでしょう。
少し照れが混じりますが、思い切って伝えてしまうことにしました。
「だけど透矢様。わたくしの心を読むよりも、わたくしの恋文を読んでくださいまし」
心そのものも大事です。けれどわたくしは、「表現して伝えようとする心意気」を見てほしいのです。
***
こうして石化事件は幕を下ろしました。
清慈郎さんは警察に連行され、余罪がないか今も取り調べを受けているとのことです。やはり透矢様の手紙を妨害しているのは清慈郎さんでした。人々の石化は解かれ、凛も元気になりました。
わたくしが書いた離縁願いはさっさと焼却処分してしまいました。もうわたくしたち夫婦には、必要のないものです。
透矢様は本邸へ帰宅し、今は毎日寄り添って暮らしております。
わたくしも透矢様の探偵稼業の手伝いをすることになりました。忙しさは増しましたが、満ち足りた日々です。
「美墨、一緒に暮らしているのだから手紙でなくても……」
「やだ、透矢様。本当はわたくしから恋文が届くのが嬉しいくせに。天才書道家のわたくしの書き下ろしだなんて、どれだけ希少価値があることか……」
「近頃自信をつけたな、美墨……」
「はい。わたくし、透矢様に愛されておりますから!」
透矢様は苦笑いしましたが、満更でもなさそうでした。
「俺も美墨宛の恋文をしたためてきたんだ」
差し出された透矢様の恋文は、両手でも持ち切れないほどの厚みでした。一体何頁に渡るのでしょう……。
「すごい、文字通り愛が重いですわ」
「しかと受け取ってくれ」
「これ、読み終わるまでに何日かかるのでしょうか……」
「何日でもかけて読んでくれ。読み終わったら、内容について二人で語り合おう」
「まったく、透矢様は淋しがり屋なんですから」
そうしてわたくしと透矢様はお互いを見つめ合って、笑いました。