だけど、そのときの私は思わず聞いてしまった。
「悪いなんてもんじゃねーの。サボるし、ほぼオールで赤点。それであの態度なんだからほんとに困ってんだよ……。」
頭を抱える先生に、日頃から悩まされているんだろうと察し、苦笑いが落ちる。
「でも美雲が教えてやってるって聞いて安心した。ありがとうな」
屈託の無い、信じきった笑顔が向けられて、私の罪悪感は途端に大きなものに広がり、胸がズキリと痛む。
ーあれは、彼が適当に言っただけで。
そう真実を伝えることだって出来るはずだったのに、私は苦笑いでその感謝を受け取ってしまった。
悪い癖だった。
感謝されると嫌とは言えない。都合よく使われているときだって、それを知った上で引き受けてしまうんだから。
そんな私が、こんな真正面からの感謝を無碍にできるはずがなかった。
妙なことに巻き込まれた。
ため息をつきたい内心は、ギリギリのところで保たれる。
気は進まないけれど、先生の手前もあるし一度声をかけてみよう……。
最低限赤点回避までは力になれるだろう。
私にそんな義理はないけれど、彼のために必要なことは確かなのだから少し力になるのも悪くない。
「美雲……?」
必死で納得させる理由を浮かべ、薄ら笑いを浮かべる私を、雨宮くんが心配そうに見つめていた。
⋆*
「相楽くん、今日の放課後残れる?」
気持ちは憂鬱なままだった。
彼はどうしてこんなにも人気者なのだろう。
一斉に集まった視線に、顰めそうになる顔を引き締める。
「え?なに?美雲からお誘いなんて、俺ドキドキしちゃう」
軽々しい冗談が投げかけられ、片方だけくいっと上がった口角。
整った顔をしている彼のその表情は、人によってはさぞ魅力的に見えるのだろう。
しかし、私は頭を抱えたい衝動に駆られていた。
そんなつもりは毛頭無いし、こちらからもお断りなのだ。それでも、彼の周りにいた女の子たちからは不満げな視線が突き刺さり、居心地の悪さを助長する。
「相楽くんが言ったんだよ。私に勉強を教えてもらうって。先生にも頼まれちゃったし」
妙な疑いを払拭するように、分かりやすく説明する。
相楽くんは、隣にいた音坂くんと顔を合わせ、パッと笑顔を向けた。
「あーあれ?冗談だって!本気にしちゃうなんて可愛いね〜!」
「美雲って、そんな純粋な感じなんだ。なんかちょっと、いいね」
音坂くんもにこりとこちらに微笑む。
相楽くんとは少し違う、含みのある穏やかな笑顔に、私は何故か恐怖に似た感覚を抱いた。
彼らの揶揄う口調は直ぐに周りにも伝染する。
「やめなよー、美雲さん本気にしちゃうよ?」
「ごめんね、乗せるの超上手だからさ!」
私は、馬鹿にされているような空気に顔を熱くさせた。
ああ、上手くいかない……。
先生の期待を裏切れなかったつい数分前の行動を、私は凄まじく後悔していた。
⋆*
放課後、予想通りではあったけれど、彼は残らなかった。
「あっ、ねえ、相楽くん!」
「ごめんね、先約があるんだ」
罪悪感なんて全く持っていなさそうに、親しそうな男女の団体で教室を出ていく彼。
元々気乗りはしていなかったのだけれど、先生の手前、状況くらいは確認したかったのだ。
少ない勇気を振り絞ったのにも関わらず、見事に空振りに終わった現実に、私は肩を落とす。
見送ることしか出来ず、廊下を見つめて立ち尽くした私に、声をかけたのは雨宮くんだった。
「相楽になんの用だったの?美雲、あいつらのこと苦手でしょ」
今日はもう真っ直ぐ帰るのだろうか、リュックを背負った状態で現れた彼を私はゆっくりと見上げた。
「え……あ、苦手なんて言ってたっけ……あはは」
心の中ではその通りだと頷く私だった。
だけど、少なくともお似合いだと囁かれ、なんとなく異性として意識している相手の前で人の悪口は言いたくない。
取るに足らない見栄を張り、下手くそな誤魔化しを精一杯にぶつけると、雨宮くんは呆れたような笑いをこぼした。
「分かるよ。美雲、意外と分かりやすいし」
その温かな瞳に、私の心は浄化される。
苦手だとか、理解できないだとか、酷いことを思う心すら受け止めてくれるような、寛大な心を匂わせる瞳は、やっぱり私を安心させた。
「相楽くん、成績結構まずいみたいで。様子見てくれないかーって頼まれたんだよね」
彼は、不思議そうだった。確かに事の詳細を知らなければ、不可解なことだろう。
だけど、あの日の出来事を詳細に話すことは、何故か出来ず、私は曖昧に首を振る。
「何それ、そんなの俺に頼めばいいのに……。俺から先生に言っておこうか?」
困っている人を見かければ、必ず手を差し伸べる。
優しい雨宮くんに甘えてしまいたい気持ちもあったけど、妙な責任感が邪魔をして私は首を振った。
「ううん、大丈夫。ありがとう」
こういうところが、可愛げがない部分だと思う。内心は今すぐにでも解放されてしまいたいのに。
だけど、周りを頼りにして生きるような甘えたな人間にはなりたくないという些細なプライドが邪魔をした。
それに、中途半端に知ってしまった相楽くんを放っておけない。
凝り固まった正義感は私を妙に積極的にさせていた。
⋆*
「わり、ちょっと抜ける」
「えー!?櫂晴ー!?」
お昼休み。
賑やかだった教室後方の集団から、相楽くんが出ていく声が聞こえた。
「行ってらっしゃい」
音坂くんが、彼を追おうとする女の子を足止めするように、目配せをする。
人気者の彼がひとりになる、本当に珍しい瞬間を目撃した。
これは、千載一遇のチャンスかもしれない。
私は慌ててひと口かじったコロッケをお弁当箱に戻し、蓋をする。
「え、華梛?」
「ごめん!ちょっと行ってくる!」
まだコロッケの残る口元を手で隠しながらそう告げた私に、一緒にお昼を食べていた七星も友人も皆驚いていた。
噛むのもそこそこに教室を出て後を追う。
慌ただしい足音に目敏く気付いた彼は、思いのほか早く振り返った。
「なに?俺に何か用?」
おどけたように腰を屈め、私と視線を合わせる彼。
分かっているくせに適当に誤魔化す彼は、今日もまともに取り合ってはくれないようだ。
「相楽くんは冗談だって言ってたけど。私、テスト問題の予想も得意だし、赤点回避くらいなら本当に力になれるよって……思って……」
はっきりと発声したはずなのに、語尾が弱くなったのは、彼の鋭い視線に驚いたからだった。
「美雲はさ」
ずっとへらへらとかわされていた。
そんな人から急に真っ直ぐ見つめられるのは、想像よりもずっと落ち着かない気持ちだった。
「なんで、そんなに親切なの?」
「え……?」
もう一度顔を上げると、彼はいつものようにへらりと笑っていた。
ただ「親切」と言いながら、表情は少し迷惑そうだった。読み取れてしまったその感情に私は口をとざす。
「普通放っておくでしょ。美雲には関係ないし。先生に言われたから?」
黙っている私を追い詰めるような問いだった。
声は柔らかなのに、確かに感じる威圧感に慄いた私は直ぐには応えられなかった。
「だって……このままだと困るのは相楽くんなんだよ。先生だって心配してるから私にも頼んで……」
やっとの思いで口にしたその場しのぎの理由は、あっという間に言い返された。
「だとしたら、俺、困らないから。入試受かんなくてもぜんっぜん困んねーの。だからそれ、間違い。俺のためなら必要ないから。」
「かーいせい!ちょっと圧強いかもよー」
後ろから聞こえたそんな賑やかしが、私たちを取り巻く重たい空気を取り払った。
「楽久」
「ん?」
ふんわりと笑った音坂くんがそこにはいた。
お揃いのピアスが光り、相楽くんも笑顔を見せる。
彼らの笑顔はその場の空気を和ませて、私はほっと肩の力を抜いた。
だけど、納得できないのは変わらなかった。
困らないわけがない。
この先の人生がかかってるのに、今の自堕落で将来までダメにしてしまって本当にいいと思っているのだろうか。
「心配してくれてありがとうね!」
そう言って再び背を向けた彼らを、私は思わず引き止めていた。
「待って」
声だけが廊下に響き、振り返った彼らとの間に沈黙が広がる。
先走った呼び止めに、私は自分でも驚き、次いで後悔の念に襲われた。
どうして呼び止めてしまったんだろう。これもまた、中途半端な正義感、なんだろうか。
「美雲、今日の放課後一緒にどう?」
私のせいで生まれた不自然な沈黙を壊したのは、音坂くんだった。
不敵に笑った彼に、私も相楽くんも彼を見つめ固まる。
意図なんて、読めるはずがなかった。
「分かった」
純粋に気になっていた。
「困らない、必要ない」と言い切った彼が、強がりを言っているようには見えなかった。
それどころか、その瞳の奥には何か強い意志があるようにすら感じた。
だとしたら、それは何なのだろう。
もし、それを知れたら、私は少しでも彼を理解できるのだろうか。
頷いた私を、相楽くんは意外そうに見つめていた。
⋆*
ガタン。ゴトン。
聞きなれない大きな音が響く室内で私は身体を固くして座っていた。
身動きが取りにくい重たいシューズを履き、慣れない賑やかな空間で空気に飲まれる。
「ふぅー!!ストライクー!!」
多くの友人とハイタッチをしながら帰ってきた相楽くんは、私の前にも両手を向けた。
鞄を抱えたまま、頑なに手を出さない私に「いぇーい」と両肩を叩き隣にドサッと腰を下ろす。
ぎゅうぎゅうに詰まった椅子では、彼との距離は当然のように肩と肩は重なり合うほどに近い。
慣れない距離に、私は静かに周りの様子を伺うことしかできなかった。
⋆*
「美雲、行くぞ」
放課後になって、片付け終えた鞄を持ち固まっていた。
そんな私に声をかけたのは、音坂くんだった。
「う、うん」
心の中の30%くらい。冗談だったというオチを想像していた。その全てを取り払い覚悟を決めたように立ち上がる。
「え?美雲さん?どういうこと?」
「櫂晴?なんか聞いてる?」
「……さあ?」
居心地の悪い会話が聞こえる集団へ入るのは、憂鬱どころの騒ぎではないのだけれど。
覚悟を決めた私は、ぎゅっと唇を噛んで、音坂くんの後に続いた。
⋆*
そして、行き着いた先は、ボーリングだった訳だけど。
初めて来たボーリング場は、思ったよりもずっと大きな音が響いていて、騒がしい場所だった。
「次、美雲ちゃんだよ〜!投げて投げて!」
「えっ、いや私は……」
「何でだよ!せっかく来たんだからほら!」
数える程しか会話をしたことがないクラスメイトに、流されるままに席を立たされる。
ただ、彼女たちは思いの外、友好的だった。
よく分からない奴がひとり迷い込んできた。その時点で嫌煙されて当たり前のはずだけれど、固まっている私を放置する訳でもなく、輪に入れようと話しかけてくれていた。
その感じが賑やかすぎて、得意じゃないのは確かだ。
だけども、彼女たちから嫌な気持ちは伝わってこず、一方的に強く苦手意識を持っていたのは私の方で、彼女たち自体は悪い子ではなかったのだと思う。
皆の真似をして、カラフルなボールが並ぶレーンへと歩いていった。
「お!!次?ボールどれでも使っていいからね!うちらフリースタイルだから!」
行った先にいた女の子に、そんな風に声をかけられ曖昧に笑う。
……色が違うだけ?どれでもいいのかな……。
種類の違いも分からなくて、ただ目の前にあった黄色いボールに横から手を添えると、まるで大岩のような重量で全く持ち上がらなかった。
えっ、ボーリングの球ってこんなに重いんだ。
平気で持っている女の子のことを信じられない気持ちになりながら、力いっぱい持ち上げようと試みる。
少し浮き上がっても、持ち上げるには至りそうもない重さに私は戸惑っていた。
「女の子は紫くらいがいいと思うよー」
後ろから、助けるような相楽くんの声が響いた。
彼は、席で音坂くんと楽しそうに話していたはずだったけど、気付けばこちらに目を向け立ち上がっていた。
言われた通りに紫のボールを手に取ると、程よくずっしりとした重みが加わる。
なるほど、重さが違うんだ……。
これなら投げられるかも。
心の中で気合を入れて、レーンへ進む。
そして、両手で抱えて投げようとした私に、後ろから笑い声が響いた。
「え、待って待って投げ方やばいから!」
「あはは!美雲っちまじー!?可愛い〜!!」
また恥ずかしくなり、私は今すぐにも逃げたい気持ちだった。
ボーリング初めてだから、分からないんだって……。
友好的で、楽しませてくれようとしている気持ちだけは伝わっている。
けれど、なれない賑やかさと盛り上げ方は、やはり苦手だったし、本っ当に違う世界のようだった。
彼らのことを知りたいと思ったのは事実だけれど、やはり来たのは、間違いだったかもしれない。
「三本の指で、こう持ってみなよ」
俯く私の隣に現れたのは、相楽くんだった。
別の色のボールを慣れたように片手で持ち上げた彼を見て、見よう見まねでボールを持つ。
「そうそうそう、それで、」
レーンまで背中を押され、ボールを持つ右手首を優しく支えられた。
背中にくっつくように、後ろから教えてくれる声に、私は無駄にドキドキし、身体を固くする。
「あいつまたやってるよ」
「ほんっと、天然たらし」
呆れたような女の子達の声が聞こえ、頭は納得する。
そうだよね、これが彼の普通なんだ。特別なことじゃない。
「こう。」
だけど、気持ちの方は、そんな風に賢く噛み砕いてはくれなかった。
優しく体に触れ、投げ方を教えてくれたけど、正直何も入ってこない。
結局、真っ白な頭で小さく投げたボールは、ドンっと真下に落ちた。
そして、ピンまでたどり着かないんじゃないかと思うくらいゆっくりな速度で滑っていき、全てのピンを倒していった。
「えー!?なんだ今の!!」
「そんなことある!?美雲ちゃんやばー!」
後ろからの驚きの声が聞こえ、私もレーンから視線を戻した。
「えっ、あはは!美雲お前すっげえな!」
隣でぱあっと顔を明るくさせ、勢いよく両手を上げた彼に、小さく手のひらを向ける。
嬉しそうに笑い声を上げ、ちょうど良い強さで打ち付けられた手のひらは、骨ばって大きくて熱い、男の子の手のひらだった。
笑顔の皆が走ってきて勢いよく囲まれる。
好意を感じる明るい笑顔は、私には新鮮な世界だったけど、やっぱり少し落ち着かなかった。
⋆*
結局、そのゲームが終わるまで滞在した私は、皆に「お邪魔してすみません」と頭を下げその場を後にした。
「えー?華梛もう帰るの??」
「またおいでー、今度はカラオケいこ!」
本当に印象が変わってしまった女の子に流されるように笑顔を向ける。
賑やかな世界の人たちは社交的で人と距離を詰めるのが早いらしい。
気付けば、美雲から華梛に呼び名まで変わっていた。
私は1度も名前を呼べなかったのが、なんだか申し訳ない。
靴を履き替えていたら、どこかから戻ってきた音坂くんとすれ違う。
「あれ、もう帰んの?楽しくなかった?」
相楽くんのような満面の笑顔では無い。クールで中身の見えない彼の瞳を私は怖いと思ったけど、きっと彼にもそういう意図はなかった。
友人と過ごす彼の様子を見て、きっとこの人は所謂クールな人なのだと理解した。
昼休みと比べるとずっと話しやすい彼に、私は返す。
「ううん。新鮮だった。私の周りとはかなり違うから」
「そう」
静かに受け止めて、彼はいまだ盛り上がる集団に目を向けた。その瞳が何を思っているのかは、やっぱり読めなかったけど。
「……音坂くんは、今日なんで私を誘ったの?」
結局、音坂くんが、どういうつもりで私を誘ったのかは分からないままだった。
なんだか柔らかい雰囲気の彼に、答えが聞けるのではないかと期待する。
「んー……。化学反応?」
答えのようなそうでないような……。
そんなひと言を落とし、緩やかにに口角を上げた彼は、ひらひらと手を振って集団へと入っていった。
「それはきっと……期待には添えなかったなあ」
私が今日来たことで、何かの化学反応が起こったとは到底思えない。
どんな変化を期待していたかは知らないけど、私が抜けても変わりなく楽しむ集団を遠目にそんなことを思った。