卒業式。僕はクラスメイトとも、担任教師とも違う意味を持つ涙を流して終わりを迎えた。
 車椅子を使わずに歩こうとした彼女が転倒したと、僕は昨晩病院から連絡を受けていた。彼女が僕に伝えるよう看護師に頼み込んだらしい。正直『転倒』という情報だけで僕が想像できることには限りがあったけれど、僕は曖昧にも彼女の最悪の場合を考えてしまって『わかりました』としか返すことができなかった。
 彼女がいない一日にこんなにも不安を覚えたことは初めてだった。そして今までにないほどの虚しさを抱いたのは『卒業式』の場に彼女の姿があることを期待している僕がいたからだった。
 式典後、家が近いからという理由で彼女の分の卒業記念品を受け取り、僕はいつも通りひとりで最後の通学路を歩いた。

「ただいま」

 先に帰宅していた家族と親戚の賑やかな声を浴びて、取り繕えるだけの笑顔で『ありがとう』と応えた。その時、昨日の彼女がぎこちなく笑っている時の気持ちが少しだけわかった気がした。誰かが創り出す雰囲気に合わせて、笑うという方法でしかやり過ごすことができないことの苦しさが痛いほどわかった。
 ある程度の言葉を交わした後、自室へ入った僕は気が抜けたように崩れ落ちてしまった。
 彼女のいない学校なんて慣れていたはずなのに、ひとりだけの通学路が日常だったはずなのに、一緒に卒業式へ出席できるという希望が絶たれた衝撃を僕はまだ器用に消化しきれていない。
 卒業記念品に刻まれた彼女の名前を指でなぞる、彼女に触れたくなった。記憶から消されてしまった僕が彼女に触れることはきっともうないけれど、それでももう一度だけ僕は彼女の温度を感じたいと思った。
 
「ん……?」

 ポケットの奥底からスマートフォンの振動が伝う。
 通話に応じる気分にもなれずそのまま相手が切るのを待とうと無視していたけれど、その着信はなかなか途切れる気配がない。後から折り返して掛け直す手間を考えても今済ませてしまった方がいい。
 僕はポケットからしつこく振動するそれを取り出し、背を向けていた画面を裏返す。

「……千春?」

 僕はその名前を二度見した、そして一呼吸ついて音の出る場所を耳に当てる。
 彼女の声が聴こえるまでの沈黙が異様に長く感じた。

「看護師さんから『本当なら今日が卒業式だったんだよ』って聞いたんだ。文弥君、式も終わった頃かなと思って……高校生活最後の一日はどうだった?」

「最後の一日……そうだね、あんまり高校生活が終わるっていう実感は持てないままだったかな」

「そっかそっか、やっぱりそういうものなのかな。それでも泣いちゃったりした?」

「そうだね、ちょっと堪えきれない部分はあったよ」

「素直でいいね、その涙もきっといい思い出になるよ。私もそういう気持ち、その場所で味わってみたかったな」

 どこか他人事のような口調で彼女はそう呟いた。
 泣いてしまったかという問いに、僕は違和感を持ちながら答えられるままの言葉を返した。嘘ではない、高校生活の最後に彼女と時間を共にできなかった事実に耐えられなかったのだから。
 そもそも一緒に卒業の日を迎えることすら、諦めていたはずだった。だから今日、彼女が生きていること自体に喜ぶことが僕の抱くべき正しい感情。それなのに僕はいつの間にか彼女に対して欲張りになっている。

「文弥君」

「どうしたの?」

「私からひとつお願いしたいことがあるって言ったら、聴いてくれる?」

「聴くよ、僕にできることだったらいくらでも叶えさせてよ」

「やっぱり優しい、私はその優しさに甘えさせてもらうね。幼馴染の特権として」

 不意に口に出る揶揄うような口調も、器用な甘え方も僕が知っている彼女と重なる。
 幼馴染の特権、その言葉を彼女はあと何度僕に使えるだろう。

「明日、私の病室に来てほしいんだ。そしてその時に、ふたりで過ごした過去がわかるようなものを持ってきて欲しいの」

「過去がわかるようなもの……いいけど、それをみて千春はどうするの」

「忘れちゃったことは、もう思い出せないから……だから、新しく知りたいんだ。私と文弥君がどんな時間を過ごしてきたか、時間はかかるかもしれないけどちゃんと知っていきたいの」

 通話越しにも意思の強さが伝わってくる、彼女は今を生きながら誰よりも未来をみて過去を知ろうとしている。
 彼女が書き残してきた言葉以上のことを伝えられるなにかを、僕はみせたい。失った記憶を辿るように、僕の隣にいた彼女を思い出せるような瞬間を捉えたものを今を生きる彼女に届けたい。
 だからこの彼女からの『お願い』を、僕が断る理由はない。

「わかった、それじゃあ明日僕が伝えられる限りの過去を持って千春の病室に行くね」

「ありがとう、楽しみに待ってるよ」

 その言葉で通話が切れる、音のしない向こう側にいる彼女の笑っている顔が想像できてしまう。
 その顔を僕が崩すわけにはいかない。
 僕はしばらく開けていなかったベッドの下の引き出しからみつけられるだけの思い出を探す、明日の僕と彼女が少しでも過去に触れられるように。

 *

 言われた通り、僕は鞄に過去を詰め込んで家を出た。
 幸いなことに一昨日の転倒による怪我や身体への影響はなっかたらしい。それでも彼女の体調面を考慮し、病院から許可が降りた面会時間は一時間。彼女はそのすぐにでも過ぎ去ってしまうような時間を『一緒にいられる時間があるだけで嬉しい』と捉えた。そんな一面に励まされている僕がいる。
 病室の扉を開ける。すぐにみえた時計から予定より三十分以上早く着いてしまったことに気づく。

「千春、少し早く着きすぎちゃったけど大丈夫?」

「大丈夫! 私はいつでも迎え入れる準備ができてる!」

 心なしか二日前より、彼女の表情に嘘がないような気がする。嘘がないというより、僕が知っている彼女に近いと言った方が正しいのかもしれない。
 整えられた髪や律儀に用意されていた椅子から僕がここへ来ることを早くから待っていたことが伝わる。彼女がどう捉えたとしても、僕の中での一時間へ覚える感覚は変わらない。本当ならもっと長く一緒にいたいというわがままが残ってしまう時間、だからこそ僕は彼女と早く話がしたい。

「ちゃんと持ってきてくれたよね? 私と文弥の過去が知れるもの」

「もちろん、十分すぎるくらいには持ってきたよ」

 数日前まで教科書を詰め込んでいた鞄から四冊のアルバムを取り出す。
 生まれてから数年間で僕と彼女の両親が撮った写真で創られた一冊、幼稚園、小学校、中学校がそれぞれ一冊ずつ。目立った劣化も見当たらず、僕達の思い出が最も綺麗に残っているものとしては最適だと思った。それに、彼女が書き残している言葉と写真を重ね合わせればより鮮明に過去を映し出せると思う。
 彼女が目を輝かせながら一冊目のアルバムを手に取る。開いて一番最初の写真は、生まれたての僕と彼女の写真。四月二十日に生まれた彼女と、二十一日に生まれた僕。紅い頬を膨らませたふたりの写真の横にはそれぞれの名前に込められた想いが母の字で綴られていた。千度もの春を迎えられるほど(たくま)しく、そして美しい人で在れるように、それが彼女の名前『千春』。

「私、逞しく生きるために生まれてきたんだね、きっと。そしてその目的を果たせるように素敵な人に出逢い続けてる」

「どうしてそう思うの?」

「身体はきっと人より脆いけど、それでも生きていたいって願っちゃうのは一緒にいてくれる人のおかげだと思うんだ。だから私の心は逞しく生きてる、ちょっと傲慢なくらいね」

「傲慢か……逞しさと傲慢、言われてみたら重なる部分もあるのかもね」

「でもその傲慢さも私は大事にしたいの。もしもいつか私が私自身のことを忘れちゃってわからなくなった時が来たら、この逞しさは忘れた先の私を助けてくれると思うんだよね。こんな身体になっても生きたがってる私がいた! って思い出せるでしょ? だから私が千春でいるために、この逞しさも傲慢さも捨てたくないの」

 彼女の珍しく真面目な声のトーンに胸の奥を掴まれたまま離されないような感覚を覚えた。
 何度も呼んできたその名前の意味を改めて知った今日、その名前がいかに彼女を象徴しているかわかった。
 春は始まりの季節で、僕達はきっと十八年間で数えきれないほどの始まりを迎えてきた。入学式はいつだって彼女が隣にいて、一番初めの入院も病室には僕がいた。ここまでの人生においての大切な始まりには間違いなくお互いがいる。
 物心ついた頃から一緒にいた僕は、彼女と初めて会った日の記憶を持ち合わせていないけれど、それはきっと数日前に交わした『初めまして』が追体験させてくれていたのだと思う。
 同じ春に生まれ、何度もふたりにとっての春を迎えてきた。彼女が病気へ負けることなく生きている逞しさも、絶えることなく笑ってきた強さも僕はよく知っている。慣れない治療で衰弱している彼女の元へ僕が行くと必ず『文弥は元気?』と問う優しさは、彼女の美しさだと思う。そしてその綺麗に整った容姿も彼女の美しさ。
 変な表現になってしまうけれど『千春』は、彼女そのものだと思う。

「千春は千春だよ、誰よりもね」

「そう、私は私だよ。誰よりも逞しく、美しく生きてあげなきゃ」

 真面目な話なんて似合わないね、と笑いながら彼女は再びアルバムへ視線を戻す。
 そんなことない素敵だよ、と彼女へ伝えようとした言葉を呑み込む。できるなら今は彼女が思うままに過去に触れてほしい。(さかのぼ)っていく中で自然と溢れる彼女からの言葉を聴いていたい、彼女の創り出すペースで僕達の時間をなぞってほしい。

「赤ちゃんの頃の写真多いね。さすがにこの頃の記憶は文弥君もないでしょ?」

「そうだね、僕も思い出すことすら難しいくらい遠い記憶だよ」

「それじゃあ一緒だね、知っていこう、私達がこれくらい小さかった頃のこと」

 ページを捲っても、そこに残されている写真に大した変化はない。
 僕か彼女が眠っているか、何かを食べているか、泣いているか、笑っているかの四択。変わり映えのしない顔が同じ動作を繰り返している瞬間が切り取られて残されている。
 それでもその変わらなさが愛おしくて、僕達が生きてきた時間を証明してくれているような気がして気を惹かれてしまっていた。彼女が言葉も発さずにページを捲る理由が僕と同じだったらどれだけ素敵なのだろうと身勝手な妄想をしてみる。

「千春、ここまでの写真をみてなにを思った?」

「同じことを繰り返してる、って思った。寝て、泣いて、食べて、笑っての繰り返しだね」

「そうだよね、それなのにこの写真の数だよ」

「生きてきたんだよ私達。写真に撮った同じような時間を繰り返しながら」

 身勝手な妄想が叶った。彼女が見惚れている理由は僕の頭の中と重なっていた。
 たったの一冊目、時間に直したら数分間で僕は過去に触れては少し感傷的になる予感すら感じている。彼女の記憶から僕が消えても、生きていたという事実が残っているという当たり前に感動している僕がいる。

「そろそろ二冊目に行こうかな。ここから先はきっと文弥君の記憶に残ってる場面もあるだろうから、私はそれを教えてもらいながら写真と重ねていきたいな」

「わかった、千春に教えられるだけの過去を教えていくよ」

 僕にとっては懐かしい、彼女にとっては初めて目にする幼稚園の制服姿がそこには並べられている。
 可愛らしい形に型どられた名札と、服に着せられていると言っても過言ではないように余白のある制服。当時は彼女の方が高く伸びていた背、当時と変わらない彼女の自信に満ちた利き手のピース。
 幼稚園という言葉通り、その姿はどちらも幼い。

「ちっちゃい……! 文弥君、私より身長小さい!」

「千春は周りの子の中でも背が高い方だったからね、僕は逆に小さい方だったから当時は結構差があったんだよ」

「可愛い! でも雰囲気は今の文弥君のままだね、目元の柔らかい感じとか全然変わってないよ」

 今の僕と写真を見比べて無邪気に笑う彼女をみていると、記憶を失っているという前提を忘れてしまいそうになる。ただ十数年前の写真を懐かしんでいるだけの会話のようにすら思えてしまう。
 彼女の物分かりの良さと能天気さ、僕の『そうであってほしい』という強すぎる理想がきっとそう思わせているのだと思う。

「バス通園だった? 一緒に歩いて行ってた?」

「そうそうバス通園だったよ、何ヶ所か幼稚園バスが迎えにきてくれる場所があったからそこまでは一緒に歩いて通ってたよ」

「そっかそっか、私のことだからずっとバスの席は文弥君の隣だったんだろうなぁ。私の予想、合ってる?」

「びっくりするくらい合ってる、正解! ずっと僕の袖を離してくれなかったくらいだよ」

「やっぱりそうだったんだ! 私一回『これは大丈夫』って思った物とか人のことをなかなか手放せないの。だからきっとそうなんだろうなって思ったんだ」

 彼女の言葉で思い出した、彼女との通園中のバスでの雰囲気。
 毎朝起きることが苦手な彼女を玄関まで迎えに行って、泣いた跡の残った顔をして部屋の奥から歩いてくる姿が脳裏をよぎる。そして僕の袖を掴んで離さず、身長差の大きさもあり彼女が低すぎる僕の袖を掴みづらそうにしていたことまで。
 バスに乗ってからは一緒に窓の外をみて散歩中の犬に手を振ったり、前日に作って鞄から出し忘れた折り紙で遊んだりして彼女の気を晴らしていた。彼女の素直さはきっとその頃から変わっていない。

「文弥君、もしかして運動苦手?」

「僕が苦手だっていうこともあるけど……それ以上に千春が極端に得意だからさ、追いつこうとしても追いつけなくて」

「だからか! 屋外で走ったあととかの写真に写ってる文弥君、ずっと大変そうな顔してるからさ」

 確かに彼女は運動が異様に得意で、僕は人より苦手だった。屋外で撮られた正反対の表情をするふたりの写真が、それを逃すことなくとらえていた。数年間、入退院を繰り返す彼女の姿をみてきた僕だからこそ忘れかけていた彼女の幼少期に触れている。
 過ぎてしまえば思い出すことなんてなかったはずの一瞬が今、僕達を繋ぎ止めようとしている。
 彼女の手が三冊目のアルバムへ伸びる、集合写真を凝視する。難しそうな表情で、三十数名の顔を指で追う。

「文弥君、この子でしょ! たぶんだけど、私の勘が合ってたらこの子!」

「え……正解! どうしてわかったの? 小学校入学当初の写真だし、今とかなり顔も変わってると思うけど」

「笑い方だよ、笑った時の口の形。文弥君が笑う時って左の口角が右よりも上がるんだよね、気づいた時『可愛いなぁ』って思って」

「そんな小さなことでわかったの?」

「文弥君本人は無意識だろうから言っても難しいかもしれないけど印象的だったんだよね、この頃から変わってないみたいだし。そういう面影があるって素敵だよ」

 数日前に知った僕と、今初めてみる僕を見比べて彼女はそんな言葉を呟く。
 小学生の記憶は僕にとって割と鮮明に残っているもので、その残り方が彼女を傷つけてしまわないか怖かった。
 僕が無意識のうちに懐かしさに浸ってしまうことに彼女が追いつけず『記憶を失った』ことへの引け目を感じてしまうのではないかと。そんな僕の心配を奪い去るように彼女は彼女らしい表情を僕にみせてくれる。これは僕の勘違いかもしれないけれど今の僕と彼女は同じ懐かしい感覚を抱いていて、その感覚に喜びを覚えているのだとすら思った。

「この辺りから身長が同じくらいになってきたね、小学……六年生くらいかな?」

「そうだね、ここから僕の背がよく伸びるようになってさ。千春に身長を教える度に『私だってまだ伸びてるから!』って意地になってるのが可愛かったんだよ」

「そんなところで競ってたなんて可笑しいね、でもいい思い出になってる。こうやってみていくと写真に残ってることが嬉しく思えてくるね」

 彼女からみた小学六年生の頃に撮られた写真は、きっと普通の幼馴染同士の写真にみえている。それ以前のふたりと変わらない距離感で幼いままのふたりが写っている写真。
 ただ僕からみた写真には、彼女を意識しているからこそ抱くぎこちなさが写っているようにみえる。好意を自覚した彼女への接し方を、小学六年生という幼さの中で探っていたことがよくわかる。
 触れようとして引っ込めたであろうランドセルへ伸びる指先、少しそっけないような視線をしているツーショット、それでも不意を撮られた写真には『一緒にいれて楽しい』という気持ちが溢れたような笑顔が映っている。僕の当時の心情が、時を経て蘇ってくる。彼女へ好意を伝えられない理由が純粋な気恥ずかしさだった頃の記憶が溢れてくる。楽しかった、それが僕の中の素直な気持ち。
 彼女の指先が四冊目のアルバムに触れても僕はまだ、閉じられた三冊目の表紙を眺めている。
 小学校の卒業式のツーショットが貼り付けられた表紙。カメラすらみずに彼女へ視線を向けている僕をみて改めて強く感じる、この頃から僕は彼女のことが大好きだったんだ。

「中学校……早いね、もうここまで来ちゃったよ。入学式、この私の隣にいるのが文弥君だね」

「すぐわかってくれたね、そうだよ。誕生日の順に並んでたからね、だから僕と隣だったんだ」

「すごいね。生まれたばっかりの写真も隣で、十数年経った写真でまた隣に並んでる」

「感動的なことを言うね。千春が言う通り僕達は隣にいることが多いよ、偶然なのかもしれないけどさ」

「偶然なんかじゃないと思うよ? 確かに生まれた場所とか日は偶然だけど、でもずっと仲良くい続けられてるのは私達の力だと思う」

「千春、その言葉__」

「私、なにか変なこと言っちゃった?」

 それは、僕が初恋と出逢った彼女の誕生日に告げられた言葉。
 僕が冷たく突き放したふたりの『偶然』を、意味のある『偶然』へと塗り替えた彼女の言葉が七年越しに僕の耳を伝った。そんなことに気づいているはずがない彼女は、動揺を隠しきれない僕を不思議そうにみつめるている。
 覚えていないはず、彼女が『忘れているフリ』なんてするはずがないからこそ、僕はその言葉が彼女の心の奥底から生まれたものだと確信した。そしてそれが、言葉にできないほど嬉しかった。

「なんでもないよ。ただ、僕はその言葉……偶然を偶然のままにしない千春の考え方が好きだなって思ってね」

「だって本当のことだからね、私と文弥君はきっとただの偶然なんかじゃない」

 偶然なんて言葉では終わらせない、それは僕の中にある意地。
 彼女の言葉の奥深さに浸っている僕とは正反対に、彼女は何事もなかったような様子でアルバムを見続ける。あの日、その言葉を口にした後の彼女がそのまま桜を見続けた時と同じ雰囲気を纏っている。
 僕には到底思い付かないような言葉を、さも当然のように呟く。そんな彼女の言葉を、僕は永遠に記憶していたい。
 そして何年後かに思い出して、僕がその言葉に浸って、彼女が変わらない様子でいる未来が訪れてほしい。

「中学生の頃の写真にもなると今と顔とか雰囲気が似てるね。私は背も越されちゃってるし、ふたりの後ろ姿なんて今とほとんど変わらないんじゃないかな」

「そうなのかもね、確かに今にかなり近いよ。それでももう五年も前の話になることが不思議だよね」

「そっか、五年前か……中学一年生の冬頃まではこんな身体になるなんて思ってもなかっただろうなぁ」

 中学一年生、彼女が最後に登校した日の日付の下にふたりと当時の担任教師が一緒に写った写真が三枚留められている。そこで、アルバムの写真は途切れた。まっさらなページを寂しそうに彼女が撫でる、僕はそれをなにもできずにみつめている。
 その写真から数週間後、彼女の入院が決まった。
 最後に留められた写真の中の彼女は相変わらず無邪気に笑っていて、自らの異変の重大さに欠片も気づいていないような表情をしている。

「この先生、私の記憶が間違ってなかったら体育専門の先生だったよね。優しくてすごく好きだったからまた会いたい気持ちはあるけど……今の私のままだったら情けなくて会えないよ」

 彼女の言う通り、当時の担任教師は体育を専門的に指導する人で僕達生徒には事あるごとに『健やかでいること!』と口にしていた。同級生の誰かが深夜徘徊で補導を受けた翌日の朝会でも、雨でグラウンドが使えなくなった授業日でも、僕達へ向けた話の最後には必ずと言っていいほどその言葉が付けられていた。
 そして当時運動能力の高さから人数の足りない運動部のサポートメンバーとして参加していた彼女へは『千春は僕の言う健やかの象徴のような生徒だ!』と練習中によく伝えていたらしく、彼女はそのことを嬉しそうに僕へ教えてくれた。

「会えるよ、会うまでに時間が掛かってもいい。会うために、千春が『健やか』になればいいんだよ」

「そんな不可能に近いこと……それに私は、先生のこともいつか忘れちゃうかもしれない」

「忘れたらまた知っていけばいいよ。ここまで頑張ってきた千春が今更なにかを諦める選択肢なんて考える必要ないんだから」

 再入院期間が始まった頃から気になっていたことが僕の中で確信に変わった。彼女に対して抱いていた違和感、特に僕との記憶を失ってからの彼女へ感じていたこと。
 それは、こうしてたまに弱気になること。
 以前が極端に楽観的すぎたのかもしれない。何があっても全て笑ってやり過ごしてしまうような人だったから、大丈夫という言葉で乗り切ってしまうような人だったからこそ、彼女のみせる少しだけ後ろ向きな脆さが最近は目立つ。だからこそ、僕はこのアルバムを彼女にみせることを少しだけ躊躇う気持ちがあった。新たに過去を知る、それは忘れてしまったという現状を受け入れるということ。それが、これから僕以外の誰かを忘れてしまう可能性を彼女に強く感じさせてしまうかもしれないと思ったから。
 それでも彼女が知ることを望んでいるのならと、その躊躇いを僕の行き過ぎた心配性だろうと片付けて今日ここへ来たけれど、目の前にある彼女の表情をみて少しだけ持ってきたことを後悔してしまいそうになっている。
 笑顔の似合う彼女が、切り取られた過去を前に切なさで潰れてしまいそうな表情をしているのだから。

「文弥君が覚えててね、私の分まで」

「え……」

「このアルバムをみたいって言ったのは私だし、知りたかったことは本当だけど、それでもやっぱり『この人のことも忘れちゃうのかな』って思う度に寂しくなっちゃう気持ちもあるんだよね」

「ごめん、僕、一緒にアルバムをみたら千春が知りたい過去を知れるって思って……だから寂しくなったりすることより先に『知ってほしい』っていう思いが強くなちゃって」

「いいの、だから私は文弥君に覚えててほしいって言ったから」

「僕が覚えていたとしても、千春が思う寂しさを埋めることはできないよ」

「そうだよ、埋めることなんてできない。でもそれは、私が忘れちゃう限り抱えていかないといけないからしょうがないことなんだよ」

「それなら__」

 言葉を呑んだ。もしかしたらこの言葉が、僕の考えが彼女を傷つけてしまうかもしれないと思ったから。
 一度忘れてしまったことなら、忘れたままでいればいい。僕は彼女の寂しさを埋める唯一の方法にそんなことを思いついた。
 思い出そうとするから苦しくて、また思い出さなければいけないことが増えてしまう未来に寂しさを覚えるのなら、彼女の中から忘れられた人の存在をなくしてしまえばいい。残酷なほどに単純な話。

「忘れたままでいれば寂しくなることもないって、そんなこと私だってわかってるよ」

 口を(つぐ)んだ僕へ、彼女が呟く。そしてアルバムを閉じる。
 微笑んでいる彼女の口角は少し苦しくて、それでもいつも通りの柔らかい優しさが感じられる。僕の頭で考えていたことを、彼女の声で聴いてしまったことに胸の内側が締め付けられるような感覚に陥る。返す言葉がみつからない。彼女の言葉を肯定することは僕にとってあまりに酷で、それでも否定する理由に相応しい言葉を今の僕には並べられない。

「もし僕が、その忘れたままでいれば寂しくないっていう言葉を肯定したら、千春はなにを思うの?」

 口をついたのは、あまりに卑怯な問いだった。
 その答えによって、僕の返答を決められるように。
 これは、彼女を傷つけない言葉を選ぶために必要な問い。

「仮に文弥君から『そうだね、僕も忘れたままでいたほうがいいと思う』って言葉をかけられたら、きっと『覚えていて』なんてお願いをすることはなくなると思う」

「それは、そうだよね」

「それでも、私は思い出したいって我儘(わがまま)をなくせないままでいると思うんだよね」

「……どうして?」

「その人を思い出せずに残りの人生を生きていくことは、私にとって思い出す中で抱く寂しさとは比べものにならないくらいの寂しさを感じることだと思うから」

 記憶が消えていくということは、彼女の中からその人の存在自体が消えてしまうということ。
 その事実を誰よりも深く知っているはずの僕が見失いかけていた。

「一度忘れちゃったとしても、私の人生の最後までその人には消えないで一緒にいてほしいって思っちゃうから」

 その一言が、彼女の本心だと思う。
 記憶から消えてしまった人との過去を振り返らない彼女の人生はきっと『忘れてしまった』という喪失感に触れることのない時間となる。思い出せないことの寂しさを感じる必要もなくて、記憶の中に残っている人との時間を精一杯楽しんで過ごすことができる。
 ただそれを繰り返していく中で彼女の中に、知らぬ間に誰かを失っていく時間が積み重なっていく。その失った人の存在に気付いた時、彼女はきっと僕の想像を遥かに超えるほど忘れてしまったことを寂しく思い、そして忘れたことに気づけなかった事実に傷つく。
 彼女が失くした過去を知る理由は、本当の意味でその人を失わないためだと知った。

「消えさせないよ、だから僕がいるんだから。これから先で千春が何人のことを忘れても、僕が全部教えるよ」

「本当に頼もしい幼馴染だね。まぁ私も、忘れないって気持ちだけは十分すぎるほどあるから!」

 頼もしい幼馴染、という言葉はきっと僕に似合わない。
 彼女の笑う顔をみてもなお『忘れたままでいればいい』なんて考えが頭に浮かんでしまった僕自身を許せないでいる。返す言葉すら、彼女の答えを聴いてから口に出した卑怯さに落胆している。
 彼女が前を向いて生きているから、僕は僕でいることができている。
 忘れていくことを彼女自身が受け入れているのか、それとも忘れないでいることを諦めているのか僕にはその微妙な気持ちの差を知ることはできないけれど『一緒にいてほしい』という揺らがない願いを彼女の言葉で聴いた時、僕に覚悟が宿された。
 彼女にとって『頼もしい幼馴染』の僕は、『脆さ故の逞しさを持つ幼馴染』の彼女によって成り立っている。

「千春が生きている最後の最後まで、僕は頼もしくいられるのかな」

「そういてもらわないと困るよ、文弥君は頼もしい。これは私が感じたことだからね、揺らがないでいてほしい」

 四冊のアルバムで過去に触れた彼女は、きっと新たな記憶と共に忘れてしまうことへの覚悟を抱いたのだとその表情をみて思った。
 笑っているのに、どこか晴れきれないような表情。新たに知ることができても、思い出すことができないということを実感したような表情。彼女は必死に震えそうな声を抑えている、そして僕に言葉を向ける。

「私、先が長くなくてよかったのかもね」

 その言葉が彼女から発されたものだということが、僕には一瞬受け入れられなかった。
 受け入れられなかった、というより受け入れたくなかった。彼女には長く生きていくことを望んでいてほしかったから。

「どうして、どうしてそう思うの」

「先が長くないってことは、きっと忘れちゃう人もそんなに多くならなくて済むと思うんだ。最近は毎朝目が覚める度に『今日はここの調子が悪い』って思うような身体にもなっちゃったし、そう考えたらさ私に残された時間が長く生きないことも都合よく思えてくる気がしてね」

 彼女が僕の前でここまでわかりやすい弱音を吐いたことは初めてだったけれど、もしかしたらこれはずっと言えないまま隠していた彼女の本心なのかもしれない。
 記憶をなくす前の彼女からみた僕には言えなかったことを、記憶をなくして新たに出逢った『頼もしい幼馴染』である僕に溢しているようにも思える。不意に彼女が自身の死を受け入れるような言葉を口にしたことが、過去に一度だけあることを思い出した。
 
 *

「だから最後くらい、綺麗な映画のワンシーンみたいに桜を観てみたかったんだ」

「千春にとっての春は、今日が最後なの?」

「どうだろうね、まだ続いてほしいけど……私の身体、きっと言うこと聴いてくれないからさ」

 *

 あの日、僕達が生きる約束を交わした日のこと。
 僕が『十八歳が終わる春』への約束を口にした最終的なきっかけは、彼女が生きることを諦めてしまいそうな危うさを感じたからだった。彼女と生きていたかったから、これから先も好きな人を失いたくなかったから、その理由の奥底には『千春に生きたいと思いながら生きていてほしい』なんて願いがあった。それが叶わないような気がして、僕は咄嗟(とっさ)少しだけ身勝手な約束を彼女へ提案した。
 そして僕はもう一度、彼女との約束を交わしたくなった。
 彼女が、生きることを望みながら残された時間を生きられるように。

「千春」

「どうしたの? 文弥君、急に真剣な顔されちゃうと怖いよ」

「僕からもうひとつだけ、知ってほしいことがあるんだ」

「知ってほしいこと……わかった、アルバムの何冊目を開けばいい?」

「アルバムは、開かなくていいよ。これは千春と僕の口約束だから」

「口約束……?」

 僕と彼女がなくさないように守り続けてきた約束は、ただの口約束に過ぎない。
 それを証明できるものがあるわけでもなく、ただ記憶の中で想い続けてきたこと。彼女がそれを忘れてしまった今、僕はその約束の中でさえも片想いをしている。

「僕達が中学二年生の時にね、ふたりでした約束があるんだけど__」

 あの日のことを彼女へ伝えれば、僕達はまた同じ未来を抱えられる。
 約束という形で、彼女を繋ぎ止めることができる。ただそれは記憶を失くした今の彼女にとって、数日前に知った人と過去に交わしていたらしい約束を覚えるだけのことになってしまう。

「……千春、今から言うことは僕の気持ちの押し付けになっちゃうかもしれない」

「それでもいいよ。私が忘れちゃった約束、きっと忘れる前の私にとっても大事なことだったと思うから、だから教えて?」

 彼女が僕からの続きの言葉を待っている。
 まっすぐみつめて、決して急かさないような穏やかな雰囲気で僕を待つ。
 きっと彼女なら受け入れてくれる。

「千春の病気がみつかった中学二年生の春、ここの病院の中庭で一緒に桜を観たんだよ」

「そんなことがあったんだ、確かにここの桜綺麗だもんね。一緒に観たくなる気持ちもわかる」

「その時にね、僕が千春に言ったんだ」

「その言ってくれたことが、文弥君がさっき言ってた約束?」

「そうだよ、僕と千春の間の約束」

 ふたりの間に緊張感が生まれている。
 彼女が身構えるように、もたれていたベッドの背から離して身体を起こす。僕は無意識に力が入って握りしめていた手の力を抜く。
 そして彼女の名前を呼ぶ『聴かせて』と答えが返ってくる。そんな単純なやりとりに心が静まっていく、約束を口にする準備ができた。

「二人の十八歳が終わる春、一緒に桜を観に行こう」

「桜……それに、どうして十八歳?」

「ほぼ隣の家で、日付まで隣で同じ世界に生まれた僕達が高校を卒業してひとつ大人になる春だから。そんな特別な季節を千春と一緒に観てみたいって思ったんだ」

 台本なんてないのに、僕はあの日、あの瞬間と同じことを迷う隙もなく言えてしまった。
 彼女が僕へ向けた問いも、僕の記憶が間違っていなければ全くと言っていいほど同じことだった。

「文弥君、なかなかにロマンチックなこと言うね。果たそうよふたりで、その約束。そしたら十九度目の春の始まりも一緒にいられることになる」

 少し揶揄うように笑いながらも、その瞳は潤んでいた。
 あの日の彼女と重なる。僕の手を取って、なにも言わずに頷いた彼女の表情が頭に浮かぶ。
 病室の窓から覗ける桜の木の花は、まだ一輪も咲いていない。この木に桜の色が宿される時間を一緒に生きられたら、その色を隣でみることができたら、僕と彼女はひとつの約束を果たしたことになる。
 それがきっと、僕が生きている中で唯一叶う両想いになるのかもしれない。

「文弥君が勇気を出して言葉を、約束をくれたから……私からもひとついいかな」

「なんでも聴かせてよ、叶えられることなら叶えたい」

「私ね、ひとつだけ高校生活に心残りがあるんだ。それが、このアルバムをみてもっと強くなっちゃったの」

「心残り?」

「学校に思うように行けなかったことでも、行事に参加できなかったことでもないんだ。私が少しだけ期待してたこと、それでもその期待が叶わなかったことがあってね」

 彼女が高校生活への心残りと言ってしまうほど期待していたこと。
 彼女へ伝えた通り『叶えられることなら叶えたい』それが僕の本心、それでも既に卒業生である僕にできることはかなり限られているような気がした。
 僕はなにも言わずに彼女の言葉の続きを待つ、言葉にすることを躊躇う彼女を急かさないようにと不器用に目を逸らしてしまう。

「……卒業式」

「え?」

「私、卒業式に出席したかったんだ。高校生活、ろくに登校もできなかったけど……だからこそ最後の日くらいちゃんと『普通の高校生』になってみたかったんだよね」

 申し訳なさそうに彼女は僕へそう告げた。
 卒業式へ出席したかったという希望を彼女は『心残り』という言葉にしたけれど、死を受け入れながら生きている彼女にとってそれはきっと大きな『未練』として残ってしまう。
 僕は彼女に最期、そんな酷なものを背負わせたくない。

「それにね、さっきも言ったけどアルバムをみてたらより強く思ったんだ」

「それは、どうして?」

「文弥君から溢れちゃうくらいの過去を教えてもらった。それを私がちゃんと覚えた時に、きっと初めて『思い出』になれると思うんだよね」

「そうだね、いつかはそうなっていけるよ」

「その思い出も素敵だけど、でも私は自分で感じたままの思い出も欲しくなっちゃったんだ」

「自分で感じたままの思い出……?」

「誰かから教わる記憶じゃなくて、私自身がその時に感じたことで記憶を重ねたいの。だから高校の卒業式に出席にして、文弥君と『今』の記憶をつくりたいって思ったんだ」

 心の奥底で膨らんだ願いを口にした彼女の表情は、少しだけ晴れているようにみえる。
 卒業式に出たかった彼女。偶然か必然か、僕も卒業式への未練を抱えたままだった。
 晴れているようにみえていた表情に不安が掛かっているようにみえた。その表情をみた僕は呆れてしまうくらい単純に、彼女の願いを叶えなければいけないという使命感に駆られた。

「こんな身体じゃ難しいことはわかってるよ、よくわかってる。移動には車椅子が欠かせなくなっちゃったし、きっと外出許可なんて出ない……それでも『私はこんなこと思ってるよ』って伝えたかったの! 文弥君なら受け入れてくれる、聴いてくれるって思ったから」

 彼女は違和感を詰め合わせたような笑顔をつくってみせる。
 本当は叶えたくてしかたがないのに、伝えただけで満足するはずがないのに。仮に彼女が本当に僕へ打ち明けるだけで心残りがなくなったとして、僕の中に卒業式への心残りがあることは変わらない。

「千春」

「なに?」

「諦めないでいて、その心残りを晴らさないまま持っててほしい」

「そんなこと言われたら私、期待しちゃうよ?」

 面談終了時刻、彼女の言葉に頷いて病室を出た。
 最後の彼女の疑問符の語尾は少しだけ寂しくて、それでいてなにか確信を持てる僕からの言葉を待っているようだった。病室にひとりになった彼女が今、僕にみせない表情をしていることは容易に想像がつく。だからこそ僕は、その願いを叶えたい。
 彼女が僕の前でどんなに笑おうと、大丈夫なふりをしようと、僕が取る行動は変わらない。
 きっとこのふたりの中の心残りを晴らして初めて、僕は彼女に取っての『頼もしい幼馴染』になれる。