「文弥、こっち向いてよ」
ふたりきりの病室、僕が振り向いた先で彼女がカメラを構えていた。
僕へ『笑って』と訴えかけるように口角を上げながら、その細い人差し指でシャッターを切る。撮れた写真を目を細めながらみつめ、その画面を僕へ向ける。
彼女の笑顔とはかけ離れた、ぎこちなく笑う僕が写っていた。
「どうして急に写真? 僕の写真なんて撮ってどうするの?」
「その制服、あと数える程しか着れないでしょ? だから制服姿の文弥をみれなくなる前に写真に残しておこうと思ってね」
高校三年生の僕達は、一週間後に卒業式を控えている。
三年間、ほぼ毎日着続けて袖の辺りが少しくたびれている僕の制服とは対照的な真新しい様子の制服が、クローゼットへ彼女の私服の隣にさりげなく掛けられている。
「写真に残すべきは千春が制服を着た姿のような気がするけど……僕の制服姿なんて見飽きるくらいにみてきたでしょ?」
「それはたくさんみてきたけど……でもちゃんと写真っていう形に残すって大事なことだと思うんだよね。それに、私はもう次に制服を着る予定ができてるから」
「次に制服を着る予定?」
「卒業式、特別に外出許可が出たんだよね」
「え……それって」
「そうだよ、文弥と一緒に卒業式に出席できる! 高校生活最後、最高の思い出になると思わない?」
少し前のめりになりながら、彼女は僕へ得意げな顔をしてみせる。
彼女ともう一度校内を歩きたい、同じ制服を着たい、彼女の制服姿がみたい、お互いの卒業証書をみせあって高校生活が過ぎたことを確かめ合いたい。それらは僕が密かに、彼女との思い出として願っていたこと。
叶わないことだと諦めていた僕の思い描く青春が叶おうとしている。
「久しぶりにクラスの子に会えるね。久しぶりが最後になっちゃうのはちょっと寂しいけど」
「卒業しても会えるよ、千春のことを待ってる人はたくさんいる」
「そっか、本当にそうだったら嬉しいな……友達って自信持って呼べるほど仲良くなれなかったのが私の高校生活で一番の心残りかも」
彼女は口角を上げながらも、どこか不安の残る表情で呟く。
数秒前まで目を輝かせてみつめていた制服から目を逸らし、少し俯いて自身が纏っている病衣の袖を小さく揺らしている。
高校入学前から持病を抱えている彼女にとっての三年間は、常に治療の都合を軸として在るものだった。
唯一出席できた行事は入学式のみ。体育祭も文化祭も彼女にとっては現実感のないイベントなまま。僕にとって退屈な授業を彼女は退屈という感覚すら感じられないまま、高校生の日常すら日常と感じられないまま終わりを迎えようとしている。
「何回かしか会ったことないけど、誰か一人でも私のこと覚えててくれてたらいいな」
「覚えてるよ、少なくとも一人はね」
「文弥が覚えててくれることは私の中で当たり前だよ、文弥以外の子の話」
「忘れてるのは案外千春なのかもよ」
「どういう意味?」
「千春が登校した日にみんな嬉しそうに千春が座る席の周り囲んでたこととか、一緒に移動教室に行ったこととか、中庭でお弁当食べてたこととか。千春はちゃんと高校生活の楽しさも経験してるってこと」
「忘れるわけないでしょ、そんな大切なこと。忘れたくない」
三年間での彼女の登校日数は数えられるほどしかなかったけれど、彼女はその中で感じられる限りの青春を感じて、触れられる限りの高校生らしさに触れてきた。
僕はそれを遠くから見守っていた。クラスメイトに無邪気な笑顔をみせている彼女の姿が小学生の頃の姿と重なって僕はそれがすごく懐かしく、そして嬉しかった。
彼女のためにつくられたと言っても不思議ではないほどにセーラー服が似合う彼女を、僕は何も言わず気づかれないようにみつめていた。それがいつの日か、みつめるに留まらなくなる。
教室の窓の外をみつめる彼女の普段とは違う感情を含んだ瞳、教科書を抱えながら廊下を歩いている後ろ姿、問題集へ向ける難しそうな横顔。僕は彼女の学校での瞬間にシャッターを切り続けた。
それが今日、ふたりの手によって形になる。
「ねぇ、昨日文弥が言ってた『みせたい物』って何?」
「なんだと思う? きっと千春が少し恥ずかしがる物だと思うよ」
答えさせる気などない僕の曖昧すぎるヒントから、彼女は真剣に答えを探している。
眉間に皺を寄せながら、今までで一番難しそうな顔をしながら、それでも最後には開き直った声で『わかんない!』と笑った。
その彼女らしい声と言葉を期待していた僕がいる、彼女の可愛らしさを再確認する。
「写真だよ、千春が学校に来た日に僕が撮り溜めた写真を現像してきたんだ」
「文弥が撮った……私ってこと⁉︎ 全然気づいてなかったよ」
「運がいいことに僕の席から撮りやすい位置に千春の席があったからね、全部で何枚になるだろう」
僕の言葉に彼女はわかりやすく頬を赤ながら、左右に首を振る。
思っていた通りの反応だけれど、僕が思っていたよりもその反応が可愛かった。
この瞬間すら写真に収めてしまいたいけれど、きっと今は僕の目に焼き付ることの方が遥かに可愛く記憶に残しておける。
「その写真使って何するの……? 目的によっては今後の付き合い方を考え直しちゃう……」
「不審がる必要はない、僕がそんないやらしい目的で千春の写真を撮るわけないからね」
「じゃあなんのため? いくら幼馴染だからって私の写真を何枚も撮る必要なんてないよ?」
「卒業アルバム」
「え?」
「千春だけの、僕達だけの卒業アルバムを作りたくて。だからずっと学校に来た日の千春を写真に撮ってた」
先日配られた卒業アルバムに、彼女の姿が映った写真は個人撮影の写真以外一枚も載っていなかった。
唯一の個人撮影の写真は確かに綺麗だった。彼女の整った顔立ちがプロの手によって切り抜かれるのだから、素人の僕が趣味程度で撮る写真とは比にならないほど美しい写真だということは間違いない。
それでも僕は、彼女の気取らない、時間が流れるままに映っている彼女の高校生活が残っていないことに寂しさを感じた。
確かにそこにいたのに。制限された登校日数の中で誰かと笑う、女子高校生らしく騒ぐ、普通の女子高校生と何も変わらない彼女がそこにいたのに、その存在を証明する形が残っていないことへの違和感に僕は目を瞑ることができなかった。
最初はただ好きな人を撮りたいという一心だった。病によって変わっていってしまう彼女の姿を、写真を撮るという行為で離さずにみていたいという好き故の動機だったと思う。
だからこそ僕がみた彼女を形に残せたら、ただ撮りたいという欲に沿っていた僕が純粋に映し出した彼女を繋ぎ合わせていったら、彼女が高校三年間を生き抜いたことを証明できるような気がした。
『卯月 千春の卒業アルバム』は、きっと彼女が僕の隣で生きていた証になる。
「そのために写真、撮っててくれてたの?」
「最初の理由は不純だったけどね、でも最終的にはそういうことだよ」
「そっか、その答えの方が文弥らしくて安心するよ」
立派なカメラを持っているわけでもなく、彼女の写真は全て空き容量の少ない僕のスマートフォンで撮影してきた。
撮る度に埋まっていく僕の空き容量分、彼女が生きてくれたらいいなんて空想めいたことを願いながら僕はシャッターを切り続けた。気づかれないように、離れた場所から彼女への隙間をたどるように彼女をとらえ続けた。
「自分の写真をみるなんてちょっと恥ずかしいけど、せっかく文弥が撮ってくれたんだもん。みせてほしいな」
「ところどころブレてるのもあるけど、これ全部僕が撮った千春だよ」
数十枚の写真を僕が封筒から取り出してベッドに取り付けられた机上へ乗せる。
その写真の量に驚きながらも、彼女の細い指先が一番上の写真へ伸びていく。入学式に立て看板の前で撮った彼女の一番最初の写真。
律儀に膝まで整えられたスカート丈と掌の半分あたりまで掛かった袖からあどけない当時の雰囲気が記憶に蘇る。きっとこの写真を撮っている僕も、彼女と同じ三年を経ての変化がある。
同じ時間を過ごしてきたことを、僕は数十枚ある写真のたった最初の一枚で深く感じてしまっている。
「入学式か……懐かしい、というか幼い。今と全然違うじゃん!」
「今の千春みると本当に大人っぽくなったってわかるよね、その変化もこの中の写真でわかるさ」
「もしかして時間が進むように並べ替えたりしてくれてる?」
「現像する順番がそうだったからね、一年生から順番に並んでるはずだよ」
彼女の口角が左右非対称に上がっていく。意図してつくられた表情じゃない、自然と溢れ出ていくような、そんな笑い方。
一枚ずつ、彼女は僕が切り取った思い出を捲っていく。僕はそれを何も言わずに目で追っている。
ただの写真なのに、彼女は小説を読んでいるかのように、切り取られた日常を撫でるようにみつめていく。
「この写真、よく撮ってくれてたね」
彼女が差し出した写真は、いつかの休み時間に彼女がクラスメイトの肩にふざけてもたれているところをとらえた写真だった。
偶然にもそれは僕にとっても印象深い一枚。わかりやすく言うのなら、病を抱える前の彼女の無邪気さに最も近しい雰囲気を放っている一枚。
「この写真、僕も結構好きなんだよね」
「そうなの?」
「千春が一番千春らしいから」
「その理由文弥らしいね、変なの」
照れ隠しのように笑いながら、彼女は再びその写真をみた。
何度もその写真をみては隠しきれない笑みを溢して、そして何故か少しだけ目を潤ませている姿を前に、変なの、は彼女の方だとすら思ってしまう。
そんな気持ちを隠しながら、僕は彼女の手から離れた写真達をアルバムのページに留めていく。時間の経過がわかるように、その瞬間を生きている彼女を溢さないように、彼女の好きな桜色のマスキングテープで思い出を閉じ込めていく。
「写真貼っててくれてるの?」
「まだ仮止めの状態だけどね、順番が入れ替わらないように。最後に固定する作業は一緒にしよっか」
「いいね、思い出せる限りのことは言葉にして写真の横に添えて書き残したりしたいな」
彼女は少し見切れているクラスメイトの姿を指でなぞる。たった数日間しか顔を合わせていないクラスメイトも、彼女の記憶の中には大切に保管されている。弱っていく身体の内側に、彼女の大切が重なっている。
そんな彼女は写真の隣にどんな言葉を添えていくのだろう、きっと彼女の心がそのまま映し出されたような澄んだ言葉が並んでいく。僕が撮った写真の隣に、彼女の心が添えられる。
彼女の手に乗った残り数枚の写真が捲られていく感覚はどこか寂しくて、まだまだ彼女を撮っていればよかったと充分すぎるほどの枚数の写真を前に思ってしまう。
「私ってこんなふうに笑ってるんだね、なんか不思議」
「不思議?」
「よく笑う子だねって言われるけどさ、自分の笑ってる顔とかみないじゃん? だから文弥の写真で初めて知った、私が笑った顔」
「そう言ってもらえると撮った甲斐があったって思えるよ。千春だけの卒業アルバム、千春の表情は一冊の収まりきらないだろうけど特別な一冊になるだろうね」
「私だけの卒業アルバムね、みんなの卒業アルバムもみてみたかったよ。文弥、みんなの卒業アルバムの感想教えてよ」
「感想って言われても難しいけど……僕が撮った写真とは比べ物にならないくらい綺麗だったよ、プロが撮った写真だったし……僕達生徒も、撮られるってわかって表情意識してる部分があるからアルバムとして完成してる雰囲気はあるかな」
「アルバムとして完成してる雰囲気か……実物をみてない私にはやっぱりよくわからないかも」
「行事とか……修学旅行、体育祭、文化祭、普段以上に思い出を残そうとする瞬間が切り取られてるって言ったらちょっとは千春にも伝わるかな」
彼女が望んでも叶わなかった瞬間が切り取られていることを、僕は改めて言葉にしてしまった。
修学旅行の一ヶ月前からスーツケースに荷造りをしていた姿も、買ったままのジャージが開封されずに卒業を迎えようとしていることも、文化祭のクラスムービーを一人病室でみていたことも。彼女が何かを楽しみにするたびに諦める選択を受け入れてきた事実を、誰よりも知っているはずなのに。僕はそれを改めて彼女に突きつけてしまった。数秒前の後悔が襲う。
「特別なんてないんだろうね、きっと普通の高校生からみたら文弥が撮ってくれた日常って特別でもなんでもない日常なんだろうね」
「千春ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないんだよ」
「えっ、なんで文弥が謝るの?」
彼女からの問いは妙に軽く弾んでいて、心の底から僕が謝っている理由をわかっていないようだった。
少し首を傾げながら、勘の鋭い彼女が僕の謝罪へ純粋な疑問を抱いている。わからないままでいてほしい、答えを告げてしまったら彼女はきっと笑って許すことしかしてくれないから。
わからないまま、僕の謝罪ごとなかったことにしてほしい。
「特別じゃないことを特別に感じられる方が日常は幸せなはずでしょ?」
彼女の問いへ答えも言えぬまま不甲斐なく目を逸らしていた僕に、彼女は日常への正解を言い渡した。
何ひとつ疑うことなく『これ以外の答えなんてあるの?』と訴えかけるような視線が真っ直ぐ僕へ向けられる。
そしてもう一度机上に広げられた写真を見渡して頷く、彼女の口元が緩んで目尻が柔らかく下がっていく。その姿をみて僕は、彼女の問いが僕達の日常へのたったひとつの答えなのだと確信した。
「私全部特別だって言えるよ。きっといつか忘れちゃうことなんだろうけどさ、でも今の私にとっての特別だったことに変わりはないからね!」
自信に満ちたその声で、彼女は僕の手元に置かれたアルバムに写真を留めていく。
写真の左右の端を両手の指先で丁寧に持って慎重に貼っていく、彼女がたまにみせる生真面目さが滲み出ている。
時々僕が既に写真を貼り合わせたページを遡りながら、彼女の思い出が形になる過程を辿っていく。彼女の写真をこれから先も撮り続ければ、彼女は僕と同じだけの時間を生きられるのかもしれない。そんなことが本当に起きてしまえばいい。
そんな魔法のような妄想をしている僕の前で、彼女がベッドから身を乗り出し不安定な姿勢をとっているのがみえた。片手で自身を支えながら、もう片方の手で何かを手繰り寄せているような動きを繰り返している。
「……千春、なにしてるの?」
「あ……ごめん、びっくりさせちゃったよね。マスキングテープが落ちちゃってさ、拾おうと思って」
「落ちたなら教えてくれればいいのに、いくら位置が低くてもベッドから千春が落ちたら危ないよ」
「自分でできそうなことはしておきたいんだよね、まだまだ生きてるって私自身が実感できるから」
そう言いながら身体を捻り、床に手をついて支えながら落ちたマスキングテープを拾う。
彼女の身体が酷く痩せ細っていることを改めて痛感させられる。首の細さも、折れそうな手首の頼りなさも、ただでさえ軽い彼女自身の重さが掛かり震えている床についた指先も。普段の様子から彼女が病に抱えているを忘れそうになってしまうけれど、どうしても彼女の身体だけはその勘違いを僕にさせてくれない。
病名を告げられて五年、彼女は絶えることなく生きてきたけれど、今この瞬間僕の頭に彼女のいない明日が過ぎってしまった。
「私また廊下走れるかな」
「どこだって走れるさ、ここまで生きてきた千春にできないことなんてないよ」
「文弥もやっぱりそう思う? それなら間違いないね、だって私が私自身と同じくらい信じてる人が言ってくれたことだもん」
明日彼女が僕の前からいなくなっても、きっと僕が思い出すのは彼女の笑った顔だと思う。
だから僕は床に落ちたものを拾うだけで少し息が上がっている彼女だけれど、最後まで心配よりも信頼を強く持っていたいと思った。
彼女が最後に思い出す僕の顔も不安げな顔でも心配そうな顔でもない、なんの憂いもないような笑顔であってほしいから。
「ねぇ文弥、この子って中学校から一緒だった子だっけ」
「その子は……三年生で初めて仲良くなった子だよ。ほら、千春と席が隣だった子」
「席……そうだったっけ。あんまり喋ったことない子かな、一緒に写真に映ってたから気になっちゃった」
「そうなのかな、千春と結構仲良いイメージだったけど」
「それじゃあ私の勘違いか、確かに仲良くしてたかもね!」
彼女が誤魔化したように笑う。限られた登校日を思い出しながら、ひとつずつを思い出すように並べていく。
彼女にとって瞬間的に過ぎ去っていった学校内での時間は、写真でも映し出せないほど色濃いものだったのだろう。ところどころ途切れている彼女の記憶が、その情報量の多さを表している。
「この写真好きだから言葉でも残しておきたいな、なんて書こう……」
「その写真、ブレてるじゃん。それなのに言葉で残しておきたいほど好きなの?」
「ブレてるからいいんだよ? このアルバムに唯一足りないものが、この写真にはちゃんと入ってる」
「唯一足りないもの?」
「笑ってる顔も走ってる私もクラスの子との姿も映ってるこの一見完璧なアルバムの、唯一足りないもの。なにかわかる?」
強く確信を持った瞳で僕へ問う。
彼女の言う通り、僕は彼女の笑う顔も気の抜けた顔も撮ってきたし、クラスメイトとの姿も収められるだけ形にしてきた。それが詰まったアルバムに足りないもの、きっと僕がどれだけ考えても彼女の頭の中にある答えには辿り着けない。
正解を求めるように彼女をみつめる、言葉を発することなくみつめ続ける僕へ彼女は仕方ないなと言うように息をつき、そしてまっすぐに僕を指差した。
「文弥、このアルバムには文弥の姿がないんだよ」
「僕……それは僕が撮影者なんだから映ってないのが普通だよ」
「私もそれはわかってるよ? だからこのブレた写真が好きなの。ちゃんと文弥がいるってわかるからね」
「僕の指が写り込んでるとか?」
「違うよ。ブレてるってことは、文弥がこの写真を撮った瞬間に動いてたってことでしょ? それってどんなにピントの合った綺麗な写真よりも二人が同じ空間で生きてたことを証明してるように思えない?」
僕の思った通りだった。こんなにも素敵な答え、僕には何年考えても辿り着けない。
それをさも当然かのように、そしてなんの疑いもなく言葉にしてしまう彼女がどこか遠くの存在のように思えた。
特別の感じ方も、日常の切り抜き方も、生きていたことを証明する形の捉え方も、彼女は同じ年数を生きてきた僕よりも遥かに大人びた考えを持っている。普段みせる無邪気すぎる笑顔とは結びつかない言葉が不意に彼女の口から溢れる時、僕はそのみえない彼女との距離に怯えてしまいそうになる。
気恥ずかしさから隠していた一枚の写真を僕は鞄から取り出す。彼女とのみえない距離感を埋めたいと、せめて形だけでも彼女の隣にいたことを形だけでも証明したくなった。
「実はさ、一枚まだ千春にみせてない写真があるんだよね」
「え、なにそれすごい気になるんだけど」
「これ、隣の席の子が撮っててくれてさ。ちょっとみせるの躊躇ってたけど、やっぱりみせたくて」
現像すらせず僕のスマートフォンに眠ったままの写真、僕にとって高校生活のどの瞬間よりも大切な一瞬を切り取った写真。
僕の席に来た彼女が、机の端を持ちながら僕を無邪気に突いている瞬間。揶揄うように、それでいて可愛らしさに溢れた表情の彼女に同じように笑っている僕の顔。
ふたりが確かに同じ時間を、隣で過ごしてことを証明してくれる。
僕にとってはこれが高校生活で唯一、好きな人の隣で映っている写真。
「これ、いつ撮られたんだろうね。本当に楽しそうに笑ってる、文弥の顔すごい笑ってる」
「千春も負けてないよ、すごく楽しそうにしてる」
「なんとなくさ、小学生の頃のこと思い出さない? なにも余計なことなんて考えずに休み時間喋ってた時のこと」
彼女の言葉で気がついた、僕がこの写真を異様に好んでいる理由。
小学生の頃の記憶と重なるから、僕が彼女への好意を覚えた時の様子と重なるから僕はこの写真を手放せずにいる。
彼女の病気がみつかってからずっと思っていたこと。それは病気がみつかる前の彼女にもう一度戻ってほしい、そしてなんの憂いもなく隣で笑ってみたいということ。僕は知らぬ間に、そんな叶うはずもない願い事の半分を叶えてしまっていた。
「文弥、この写真は現像してないの?」
「……してない、ちょっと僕が映ってる写真を現像するのは恥ずかしくてさ」
「これこそ現像してよ! 一緒に映ってる写真なんて私のアルバムには必要不可欠なんだから!」
「ごめん……! でも、もうこの写真を貼るページは残ってないよ」
「それならちょうどいい、この写真を表紙にしよう! これは勝手に写真を撮られた私からのお願いだからね? 拒否権なんて与えてあげない!」
彼女がスマートフォンの画面を指差しながら僕へ訴える。そして『約束してくれないとスマホ返してあげないから!』という見事な力技で僕との表紙を決定事項へと持ち込んだ。
きっとこの少し強引なところにすら、僕は特別な好意を抱いているのだと思う。
「でもありがと、こうやって形に残してくれたら未来の私もきっと困らないね」
「千春、それどういう意味?」
「ちょっと最近忘れっぽくってさ、ちょっと前のこととか思い出せないことが多いんだよね」
「忘れっぽい……久しぶりの入院だったからストレスとか溜まってるのかな」
「というより……病気のせいだと思う。脳の病気だからさ、頭の中のことは私には詳しくわからないけどそんな気がするんだ」
その名残惜しそうに写真をみる目から、彼女があれほど僕との表紙にこだわった理由がわかった気がする。
十八年間隣にいた僕との写真が表紙なら、きっと彼女の記憶から消えることはなくなるから。そうして消えていってしまうものを形に残していくことが、彼女なりの準備なのかもしれない。
彼女の記憶が、身体が、いつ消えてしまうか。それは僕にも彼女にもわからない。
彼女がひとつずつ準備をしていくことと同じように、僕は彼女のことを時間の許す限り知っていきたい。彼女との日々を更新していきたい。そんな思いに駆られ、僕はアルバムを作っている最中、何度も呑み込んできた問いを彼女へ向ける。
「千春はさ、三年間の高校生活……どう感じたの」
「ちゃんとした感想言えるほど高校生活送れなかったからね、なんて答えるのが正解なんだろう」
「高校生としてじゃなくていいよ。三年間、千春がひとつの節目を迎えるまで生きた感想を聴かせてほしいんだ」
「そっか、私三年間生きたんだもんね。そんなこと気に留める隙がないことの連続だったけど、強いて感想として言葉にするなら……」
斜め上をみながら彼女は三年間を表すに相応しい言葉を探す。
高校入学当時から今まで、もっと遡るのなら物心ついてから今まで、僕は誰よりも彼女の近くにいた。その中でくだらない話は数えきれないほどしてきたけれど、思い返せば彼女から改まった言葉を聴いたことは一度もなかった。
数秒後、彼女から告げられる言葉は僕にとって生まれて初めて聴く彼女からの言葉になる。
明日を迎えられる可能性を手繰り寄せ続けた彼女は、三年間の最後にどんな言葉を残すのだろう。
「ずっと今、かな。それが私の三年間」
「ずっと今……?」
「明日どころか数分後、私の身体がどうなってるかわからないような時期もあったからね。最初はそれがすごく怖かったけど、でもその怖さに怯える前に心から笑えてる今を生きたいって思えるようになった三年間だったから」
「だからずっと千春は千春のままだったの?」
「そうなのかもね。ずっと言ってなかったけど、病気だってわかった時に私自身に誓ったひとつのことがあるんだ」
「千春自身に誓ったこと? 教えてもらってもいいかな」
「私が私でい続けること。私はよく笑う子だし、誰かとふざけることも大好きだし、美味しいものは美味しいまま食べたいし、楽しいことを心から楽しめる人でいたいって思ってるの。だから病気になってもそこは曲げない、ずっと千春のままでいる! それが私が完治しない病気に唯一勝つ方法だと思ったから」
「それなら、千春はこの三年間で病気に勝ったね」
「これから先も負けることなんてないよ、ずっとずっと私が勝ち続けるんだから」
彼女が生き抜いた三年間、それは彼女が勝ち抜いた三年間。
ずっと今。彼女は未来を望みながらまっすぐに今を感じ続けた。隣で過ごす人との時間を抱えながら、そして感じられるだけの感情と思い出の全てを繋ぎ合わせて最終的に今の彼女がつくられている。
「文弥の三年間も言葉にして教えてよ」
「僕はそんな綺麗にまとめられるような三年間にできなかったよ、考えたこともなかったからね」
「綺麗な言葉なんか要らないよ、直感でいいからさ。私みたいに、初めて聴くような言葉でもいい」
「それなら……ずっと未来、になっちゃうかも」
可笑しそうに、それでもどこか納得したように笑う。
明日の朝、彼女から連絡が来ていたらいい。来週こそは彼女の席に彼女の姿があったらいい。来月には外出許可が出て一緒に外を散歩できたらいい。来年には彼女の病状が少しでも軽くなっていればいい。僕にとっての三年間は今をみつめる彼女とは対照的な、ずっと彼女との未来を見続けた時間だった。
「でも可笑しいね、やっぱり文弥はちょっと変だよ」
「なにが変だって言うの?」
「ずっと未来をみてきたのに、こうやってずっと私の『今』を撮ってきたでしょ?」
「それは……」
「だから文弥の三年間は『ずっと未来』でも『ずっと今』でもない『ずっと千春』が正しいんじゃない?」
揶揄うように、彼女は僕へそんな言葉を投げる。
間違いない。彼女の冗談めいた言葉が、僕にとっての三年間を表すに相応しい言葉の正解だった。その言葉が正解だということは絶対に言えないけれど。
三年間撮り続けた今と願い続けた未来、そのどちらにも当てはまることは彼女を追いかけていたということだと思うから。
「そうだ! 三年間の最後に文弥に確かめておきたいことがあったんだ」
「確かめたいこと、いいけどなに?」
「文弥さ、好きな人とかいないの?」
「三年間の最後がそんな質問でいいの? それともなにか企んでる?」
「違うよ、この質問がいいの。嘘つくの禁止だから! 正直に答えてよね」
彼女のことが好きだと、言えてしまえたらいいのに。
僕が彼女のように、確かに生きている今をみて生きられる人間だったらこの気持ちも隠さずに告げられていたはずなのに。
どうしても僕には、僕の気持ちを受け取った彼女が本当の気持ちを抑えて微笑みながら僕の気持ちを聞き入れる未来がみえてしまう。きっと僕の気持ちが一方通行であることがわかった次の日からも、変わらず彼女は僕へ接してくれる。何事もなかったように、僕を傷つけないように、僕の好意を受け入れてくれる。そんな彼女の自身の脆さを自覚せずに抱え込むような優しさが、僕の本心の邪魔をしている。
「いないよ、好きな人。三年かけても僕にはできなかった」
「嘘っぽい……それなりに高校生活を満喫してそうな文弥には好きな人がいると思う」
「いないよ。好きな人どころか気になってる人すら思い当たらない」
僕の答えへ彼女は不信感を少し残しつつ、それでも受け入れたように小刻みに頷いた。
隠していたはずの動揺が伝わって僕の本当の答えが彼女に見透かされしまっているかもしれない。気づかないフリをして頷いているのかはわからないけれど、余計な弁解は余計な怪しさを加えてしまうような気がして僕はただ彼女からの相槌の後の返事を待つ。
「安心した、教えてくれてありがとね」
「え?」
「三年間ほぼ毎日私に付きっきりだったでしょう?もし文弥に好きな人がいたら、その人と過ごす時間を私が奪っちゃってたことになるからさ」
「そんなこと心配する必要ないよ、僕は千春のそばにいたくて一緒にい続けたんだから」
「文弥は優しいからさ、たまに心配になるんだよね。でもそんな心配もないみたい、やっぱり文弥は『ずっと千春』だね」
冗談混じりで言い切った後の彼女の表情は和やかで、安心感に満ちたような柔らかさを含んでいた。
優しさと冗談を半分ずつ取り込んだ気の利いた言葉をかけてあげたいけれど、僕にはなにひとつその条件を満たす言葉が思い浮かばなかった。ただ沈黙を避けるように、そうなのかもねと笑うだけ。
普通の女子高校生になりたいと呟いた三年前の彼女の姿を、彼女の手によって完成に近づけられるアルバムをみつめて不意に思い出した。きっと思い描くような普通を辿れなかった彼女へ僕が最後にできること、僕は彼女を追いかけ続けた三年間の最後に、彼女に訪れるはずだった普通を渡したい。
「千春、そのアルバムちょっと預かってもいい?」
「いいけど……どうして?」
「それは内緒、卒業式の前日に返しにくるよ。だからその日まで楽しみに待ってて」
彼女から手渡されたアルバムは綴じた写真で厚くなっていて、その感覚に少し微笑ましくなった。
本来ならアルバムを作ることなんてしない。彼女が病気を抱えていない普通の女子高校生だったら、学校で同じアルバムを開きながら行事ごとの思い出を振り返っている頃だと思う。それでもその形に当てはまれなかった彼女は、僕が収められただけの思い出を形にすることを選んだ。
だから最後に僕がその特別に普通を添えて彼女へ手渡す。僕が意図的に空けていた最後の一ページは、そんな普通を詰め込むための一ページになる。
「文弥、ちょっとお願いしたいことがあるんだけどいい?」
「いいよ、僕にできることならなんでも」
「そのアルバムを渡しにきてくれる卒業式前日までに、便箋と封筒を二組買ってきてほしいんだ」
「便箋と封筒……わかった、けどどうして?」
「三年間お世話になった担任の先生とずっと診てくれてる主治医の先生に卒業の節目に手紙を書きたくて」
よかった、彼女も普通の女子高校生と同じくらい卒業を実感できている。
寂しさはあまり感じられていないのかもしれないけれど、誰かに感謝を伝える節目として卒業をとらえている彼女の気持ちが垣間見れて少し安心した。
そんな頼み事とアルバムを抱えて、僕は病室を出る。
*
卒業式前日、彼女の病室へ向かう。
数日前彼女から預かったアルバムの最後の一ページはクラス全員分からの寄せ書きで埋まっている。
これが僕から最後に彼女に感じさせることのできる普通。きっと満足に友人関係を築くには時間が少なすぎたけれど、そんな中でも写真の中のクラスメイトを楽しげにみつめる彼女にとって、この一ページ分の言葉が無駄になることはないと思う。
そして僕が制服を着て彼女の病室を訪れることは、今日で最後。
「千春、今日の調子はどう?」
扉を閉めて、視線の先にはいつもと変わらない彼女の姿がある。
僕もいつも通りの場所に荷物を置いて、少しだけ窓を開ける。いつもなら彼女から始まる僕達の会話が今日は始まる気配がない、妙に静かで、どこか緊張感すら感じてしまう。
そこにいるのは、いつもとなにも変わらない彼女のはずなのに。
「千春、なにかあった?」
そう問う僕へ、彼女は首を傾げたまま言葉を発しない。
初めてみる反応に困惑してしまいそうになる、返す言葉を探している。
そんな彼女は僕をみる度に不思議そうに視線を動かす。そして怯えるように小さく唇を動かして一言呟く。
「……誰?」
卒業式前日、十八年間隣で時間を重ねた彼女と僕は『初めまして』に戻った。
ふたりきりの病室、僕が振り向いた先で彼女がカメラを構えていた。
僕へ『笑って』と訴えかけるように口角を上げながら、その細い人差し指でシャッターを切る。撮れた写真を目を細めながらみつめ、その画面を僕へ向ける。
彼女の笑顔とはかけ離れた、ぎこちなく笑う僕が写っていた。
「どうして急に写真? 僕の写真なんて撮ってどうするの?」
「その制服、あと数える程しか着れないでしょ? だから制服姿の文弥をみれなくなる前に写真に残しておこうと思ってね」
高校三年生の僕達は、一週間後に卒業式を控えている。
三年間、ほぼ毎日着続けて袖の辺りが少しくたびれている僕の制服とは対照的な真新しい様子の制服が、クローゼットへ彼女の私服の隣にさりげなく掛けられている。
「写真に残すべきは千春が制服を着た姿のような気がするけど……僕の制服姿なんて見飽きるくらいにみてきたでしょ?」
「それはたくさんみてきたけど……でもちゃんと写真っていう形に残すって大事なことだと思うんだよね。それに、私はもう次に制服を着る予定ができてるから」
「次に制服を着る予定?」
「卒業式、特別に外出許可が出たんだよね」
「え……それって」
「そうだよ、文弥と一緒に卒業式に出席できる! 高校生活最後、最高の思い出になると思わない?」
少し前のめりになりながら、彼女は僕へ得意げな顔をしてみせる。
彼女ともう一度校内を歩きたい、同じ制服を着たい、彼女の制服姿がみたい、お互いの卒業証書をみせあって高校生活が過ぎたことを確かめ合いたい。それらは僕が密かに、彼女との思い出として願っていたこと。
叶わないことだと諦めていた僕の思い描く青春が叶おうとしている。
「久しぶりにクラスの子に会えるね。久しぶりが最後になっちゃうのはちょっと寂しいけど」
「卒業しても会えるよ、千春のことを待ってる人はたくさんいる」
「そっか、本当にそうだったら嬉しいな……友達って自信持って呼べるほど仲良くなれなかったのが私の高校生活で一番の心残りかも」
彼女は口角を上げながらも、どこか不安の残る表情で呟く。
数秒前まで目を輝かせてみつめていた制服から目を逸らし、少し俯いて自身が纏っている病衣の袖を小さく揺らしている。
高校入学前から持病を抱えている彼女にとっての三年間は、常に治療の都合を軸として在るものだった。
唯一出席できた行事は入学式のみ。体育祭も文化祭も彼女にとっては現実感のないイベントなまま。僕にとって退屈な授業を彼女は退屈という感覚すら感じられないまま、高校生の日常すら日常と感じられないまま終わりを迎えようとしている。
「何回かしか会ったことないけど、誰か一人でも私のこと覚えててくれてたらいいな」
「覚えてるよ、少なくとも一人はね」
「文弥が覚えててくれることは私の中で当たり前だよ、文弥以外の子の話」
「忘れてるのは案外千春なのかもよ」
「どういう意味?」
「千春が登校した日にみんな嬉しそうに千春が座る席の周り囲んでたこととか、一緒に移動教室に行ったこととか、中庭でお弁当食べてたこととか。千春はちゃんと高校生活の楽しさも経験してるってこと」
「忘れるわけないでしょ、そんな大切なこと。忘れたくない」
三年間での彼女の登校日数は数えられるほどしかなかったけれど、彼女はその中で感じられる限りの青春を感じて、触れられる限りの高校生らしさに触れてきた。
僕はそれを遠くから見守っていた。クラスメイトに無邪気な笑顔をみせている彼女の姿が小学生の頃の姿と重なって僕はそれがすごく懐かしく、そして嬉しかった。
彼女のためにつくられたと言っても不思議ではないほどにセーラー服が似合う彼女を、僕は何も言わず気づかれないようにみつめていた。それがいつの日か、みつめるに留まらなくなる。
教室の窓の外をみつめる彼女の普段とは違う感情を含んだ瞳、教科書を抱えながら廊下を歩いている後ろ姿、問題集へ向ける難しそうな横顔。僕は彼女の学校での瞬間にシャッターを切り続けた。
それが今日、ふたりの手によって形になる。
「ねぇ、昨日文弥が言ってた『みせたい物』って何?」
「なんだと思う? きっと千春が少し恥ずかしがる物だと思うよ」
答えさせる気などない僕の曖昧すぎるヒントから、彼女は真剣に答えを探している。
眉間に皺を寄せながら、今までで一番難しそうな顔をしながら、それでも最後には開き直った声で『わかんない!』と笑った。
その彼女らしい声と言葉を期待していた僕がいる、彼女の可愛らしさを再確認する。
「写真だよ、千春が学校に来た日に僕が撮り溜めた写真を現像してきたんだ」
「文弥が撮った……私ってこと⁉︎ 全然気づいてなかったよ」
「運がいいことに僕の席から撮りやすい位置に千春の席があったからね、全部で何枚になるだろう」
僕の言葉に彼女はわかりやすく頬を赤ながら、左右に首を振る。
思っていた通りの反応だけれど、僕が思っていたよりもその反応が可愛かった。
この瞬間すら写真に収めてしまいたいけれど、きっと今は僕の目に焼き付ることの方が遥かに可愛く記憶に残しておける。
「その写真使って何するの……? 目的によっては今後の付き合い方を考え直しちゃう……」
「不審がる必要はない、僕がそんないやらしい目的で千春の写真を撮るわけないからね」
「じゃあなんのため? いくら幼馴染だからって私の写真を何枚も撮る必要なんてないよ?」
「卒業アルバム」
「え?」
「千春だけの、僕達だけの卒業アルバムを作りたくて。だからずっと学校に来た日の千春を写真に撮ってた」
先日配られた卒業アルバムに、彼女の姿が映った写真は個人撮影の写真以外一枚も載っていなかった。
唯一の個人撮影の写真は確かに綺麗だった。彼女の整った顔立ちがプロの手によって切り抜かれるのだから、素人の僕が趣味程度で撮る写真とは比にならないほど美しい写真だということは間違いない。
それでも僕は、彼女の気取らない、時間が流れるままに映っている彼女の高校生活が残っていないことに寂しさを感じた。
確かにそこにいたのに。制限された登校日数の中で誰かと笑う、女子高校生らしく騒ぐ、普通の女子高校生と何も変わらない彼女がそこにいたのに、その存在を証明する形が残っていないことへの違和感に僕は目を瞑ることができなかった。
最初はただ好きな人を撮りたいという一心だった。病によって変わっていってしまう彼女の姿を、写真を撮るという行為で離さずにみていたいという好き故の動機だったと思う。
だからこそ僕がみた彼女を形に残せたら、ただ撮りたいという欲に沿っていた僕が純粋に映し出した彼女を繋ぎ合わせていったら、彼女が高校三年間を生き抜いたことを証明できるような気がした。
『卯月 千春の卒業アルバム』は、きっと彼女が僕の隣で生きていた証になる。
「そのために写真、撮っててくれてたの?」
「最初の理由は不純だったけどね、でも最終的にはそういうことだよ」
「そっか、その答えの方が文弥らしくて安心するよ」
立派なカメラを持っているわけでもなく、彼女の写真は全て空き容量の少ない僕のスマートフォンで撮影してきた。
撮る度に埋まっていく僕の空き容量分、彼女が生きてくれたらいいなんて空想めいたことを願いながら僕はシャッターを切り続けた。気づかれないように、離れた場所から彼女への隙間をたどるように彼女をとらえ続けた。
「自分の写真をみるなんてちょっと恥ずかしいけど、せっかく文弥が撮ってくれたんだもん。みせてほしいな」
「ところどころブレてるのもあるけど、これ全部僕が撮った千春だよ」
数十枚の写真を僕が封筒から取り出してベッドに取り付けられた机上へ乗せる。
その写真の量に驚きながらも、彼女の細い指先が一番上の写真へ伸びていく。入学式に立て看板の前で撮った彼女の一番最初の写真。
律儀に膝まで整えられたスカート丈と掌の半分あたりまで掛かった袖からあどけない当時の雰囲気が記憶に蘇る。きっとこの写真を撮っている僕も、彼女と同じ三年を経ての変化がある。
同じ時間を過ごしてきたことを、僕は数十枚ある写真のたった最初の一枚で深く感じてしまっている。
「入学式か……懐かしい、というか幼い。今と全然違うじゃん!」
「今の千春みると本当に大人っぽくなったってわかるよね、その変化もこの中の写真でわかるさ」
「もしかして時間が進むように並べ替えたりしてくれてる?」
「現像する順番がそうだったからね、一年生から順番に並んでるはずだよ」
彼女の口角が左右非対称に上がっていく。意図してつくられた表情じゃない、自然と溢れ出ていくような、そんな笑い方。
一枚ずつ、彼女は僕が切り取った思い出を捲っていく。僕はそれを何も言わずに目で追っている。
ただの写真なのに、彼女は小説を読んでいるかのように、切り取られた日常を撫でるようにみつめていく。
「この写真、よく撮ってくれてたね」
彼女が差し出した写真は、いつかの休み時間に彼女がクラスメイトの肩にふざけてもたれているところをとらえた写真だった。
偶然にもそれは僕にとっても印象深い一枚。わかりやすく言うのなら、病を抱える前の彼女の無邪気さに最も近しい雰囲気を放っている一枚。
「この写真、僕も結構好きなんだよね」
「そうなの?」
「千春が一番千春らしいから」
「その理由文弥らしいね、変なの」
照れ隠しのように笑いながら、彼女は再びその写真をみた。
何度もその写真をみては隠しきれない笑みを溢して、そして何故か少しだけ目を潤ませている姿を前に、変なの、は彼女の方だとすら思ってしまう。
そんな気持ちを隠しながら、僕は彼女の手から離れた写真達をアルバムのページに留めていく。時間の経過がわかるように、その瞬間を生きている彼女を溢さないように、彼女の好きな桜色のマスキングテープで思い出を閉じ込めていく。
「写真貼っててくれてるの?」
「まだ仮止めの状態だけどね、順番が入れ替わらないように。最後に固定する作業は一緒にしよっか」
「いいね、思い出せる限りのことは言葉にして写真の横に添えて書き残したりしたいな」
彼女は少し見切れているクラスメイトの姿を指でなぞる。たった数日間しか顔を合わせていないクラスメイトも、彼女の記憶の中には大切に保管されている。弱っていく身体の内側に、彼女の大切が重なっている。
そんな彼女は写真の隣にどんな言葉を添えていくのだろう、きっと彼女の心がそのまま映し出されたような澄んだ言葉が並んでいく。僕が撮った写真の隣に、彼女の心が添えられる。
彼女の手に乗った残り数枚の写真が捲られていく感覚はどこか寂しくて、まだまだ彼女を撮っていればよかったと充分すぎるほどの枚数の写真を前に思ってしまう。
「私ってこんなふうに笑ってるんだね、なんか不思議」
「不思議?」
「よく笑う子だねって言われるけどさ、自分の笑ってる顔とかみないじゃん? だから文弥の写真で初めて知った、私が笑った顔」
「そう言ってもらえると撮った甲斐があったって思えるよ。千春だけの卒業アルバム、千春の表情は一冊の収まりきらないだろうけど特別な一冊になるだろうね」
「私だけの卒業アルバムね、みんなの卒業アルバムもみてみたかったよ。文弥、みんなの卒業アルバムの感想教えてよ」
「感想って言われても難しいけど……僕が撮った写真とは比べ物にならないくらい綺麗だったよ、プロが撮った写真だったし……僕達生徒も、撮られるってわかって表情意識してる部分があるからアルバムとして完成してる雰囲気はあるかな」
「アルバムとして完成してる雰囲気か……実物をみてない私にはやっぱりよくわからないかも」
「行事とか……修学旅行、体育祭、文化祭、普段以上に思い出を残そうとする瞬間が切り取られてるって言ったらちょっとは千春にも伝わるかな」
彼女が望んでも叶わなかった瞬間が切り取られていることを、僕は改めて言葉にしてしまった。
修学旅行の一ヶ月前からスーツケースに荷造りをしていた姿も、買ったままのジャージが開封されずに卒業を迎えようとしていることも、文化祭のクラスムービーを一人病室でみていたことも。彼女が何かを楽しみにするたびに諦める選択を受け入れてきた事実を、誰よりも知っているはずなのに。僕はそれを改めて彼女に突きつけてしまった。数秒前の後悔が襲う。
「特別なんてないんだろうね、きっと普通の高校生からみたら文弥が撮ってくれた日常って特別でもなんでもない日常なんだろうね」
「千春ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないんだよ」
「えっ、なんで文弥が謝るの?」
彼女からの問いは妙に軽く弾んでいて、心の底から僕が謝っている理由をわかっていないようだった。
少し首を傾げながら、勘の鋭い彼女が僕の謝罪へ純粋な疑問を抱いている。わからないままでいてほしい、答えを告げてしまったら彼女はきっと笑って許すことしかしてくれないから。
わからないまま、僕の謝罪ごとなかったことにしてほしい。
「特別じゃないことを特別に感じられる方が日常は幸せなはずでしょ?」
彼女の問いへ答えも言えぬまま不甲斐なく目を逸らしていた僕に、彼女は日常への正解を言い渡した。
何ひとつ疑うことなく『これ以外の答えなんてあるの?』と訴えかけるような視線が真っ直ぐ僕へ向けられる。
そしてもう一度机上に広げられた写真を見渡して頷く、彼女の口元が緩んで目尻が柔らかく下がっていく。その姿をみて僕は、彼女の問いが僕達の日常へのたったひとつの答えなのだと確信した。
「私全部特別だって言えるよ。きっといつか忘れちゃうことなんだろうけどさ、でも今の私にとっての特別だったことに変わりはないからね!」
自信に満ちたその声で、彼女は僕の手元に置かれたアルバムに写真を留めていく。
写真の左右の端を両手の指先で丁寧に持って慎重に貼っていく、彼女がたまにみせる生真面目さが滲み出ている。
時々僕が既に写真を貼り合わせたページを遡りながら、彼女の思い出が形になる過程を辿っていく。彼女の写真をこれから先も撮り続ければ、彼女は僕と同じだけの時間を生きられるのかもしれない。そんなことが本当に起きてしまえばいい。
そんな魔法のような妄想をしている僕の前で、彼女がベッドから身を乗り出し不安定な姿勢をとっているのがみえた。片手で自身を支えながら、もう片方の手で何かを手繰り寄せているような動きを繰り返している。
「……千春、なにしてるの?」
「あ……ごめん、びっくりさせちゃったよね。マスキングテープが落ちちゃってさ、拾おうと思って」
「落ちたなら教えてくれればいいのに、いくら位置が低くてもベッドから千春が落ちたら危ないよ」
「自分でできそうなことはしておきたいんだよね、まだまだ生きてるって私自身が実感できるから」
そう言いながら身体を捻り、床に手をついて支えながら落ちたマスキングテープを拾う。
彼女の身体が酷く痩せ細っていることを改めて痛感させられる。首の細さも、折れそうな手首の頼りなさも、ただでさえ軽い彼女自身の重さが掛かり震えている床についた指先も。普段の様子から彼女が病に抱えているを忘れそうになってしまうけれど、どうしても彼女の身体だけはその勘違いを僕にさせてくれない。
病名を告げられて五年、彼女は絶えることなく生きてきたけれど、今この瞬間僕の頭に彼女のいない明日が過ぎってしまった。
「私また廊下走れるかな」
「どこだって走れるさ、ここまで生きてきた千春にできないことなんてないよ」
「文弥もやっぱりそう思う? それなら間違いないね、だって私が私自身と同じくらい信じてる人が言ってくれたことだもん」
明日彼女が僕の前からいなくなっても、きっと僕が思い出すのは彼女の笑った顔だと思う。
だから僕は床に落ちたものを拾うだけで少し息が上がっている彼女だけれど、最後まで心配よりも信頼を強く持っていたいと思った。
彼女が最後に思い出す僕の顔も不安げな顔でも心配そうな顔でもない、なんの憂いもないような笑顔であってほしいから。
「ねぇ文弥、この子って中学校から一緒だった子だっけ」
「その子は……三年生で初めて仲良くなった子だよ。ほら、千春と席が隣だった子」
「席……そうだったっけ。あんまり喋ったことない子かな、一緒に写真に映ってたから気になっちゃった」
「そうなのかな、千春と結構仲良いイメージだったけど」
「それじゃあ私の勘違いか、確かに仲良くしてたかもね!」
彼女が誤魔化したように笑う。限られた登校日を思い出しながら、ひとつずつを思い出すように並べていく。
彼女にとって瞬間的に過ぎ去っていった学校内での時間は、写真でも映し出せないほど色濃いものだったのだろう。ところどころ途切れている彼女の記憶が、その情報量の多さを表している。
「この写真好きだから言葉でも残しておきたいな、なんて書こう……」
「その写真、ブレてるじゃん。それなのに言葉で残しておきたいほど好きなの?」
「ブレてるからいいんだよ? このアルバムに唯一足りないものが、この写真にはちゃんと入ってる」
「唯一足りないもの?」
「笑ってる顔も走ってる私もクラスの子との姿も映ってるこの一見完璧なアルバムの、唯一足りないもの。なにかわかる?」
強く確信を持った瞳で僕へ問う。
彼女の言う通り、僕は彼女の笑う顔も気の抜けた顔も撮ってきたし、クラスメイトとの姿も収められるだけ形にしてきた。それが詰まったアルバムに足りないもの、きっと僕がどれだけ考えても彼女の頭の中にある答えには辿り着けない。
正解を求めるように彼女をみつめる、言葉を発することなくみつめ続ける僕へ彼女は仕方ないなと言うように息をつき、そしてまっすぐに僕を指差した。
「文弥、このアルバムには文弥の姿がないんだよ」
「僕……それは僕が撮影者なんだから映ってないのが普通だよ」
「私もそれはわかってるよ? だからこのブレた写真が好きなの。ちゃんと文弥がいるってわかるからね」
「僕の指が写り込んでるとか?」
「違うよ。ブレてるってことは、文弥がこの写真を撮った瞬間に動いてたってことでしょ? それってどんなにピントの合った綺麗な写真よりも二人が同じ空間で生きてたことを証明してるように思えない?」
僕の思った通りだった。こんなにも素敵な答え、僕には何年考えても辿り着けない。
それをさも当然かのように、そしてなんの疑いもなく言葉にしてしまう彼女がどこか遠くの存在のように思えた。
特別の感じ方も、日常の切り抜き方も、生きていたことを証明する形の捉え方も、彼女は同じ年数を生きてきた僕よりも遥かに大人びた考えを持っている。普段みせる無邪気すぎる笑顔とは結びつかない言葉が不意に彼女の口から溢れる時、僕はそのみえない彼女との距離に怯えてしまいそうになる。
気恥ずかしさから隠していた一枚の写真を僕は鞄から取り出す。彼女とのみえない距離感を埋めたいと、せめて形だけでも彼女の隣にいたことを形だけでも証明したくなった。
「実はさ、一枚まだ千春にみせてない写真があるんだよね」
「え、なにそれすごい気になるんだけど」
「これ、隣の席の子が撮っててくれてさ。ちょっとみせるの躊躇ってたけど、やっぱりみせたくて」
現像すらせず僕のスマートフォンに眠ったままの写真、僕にとって高校生活のどの瞬間よりも大切な一瞬を切り取った写真。
僕の席に来た彼女が、机の端を持ちながら僕を無邪気に突いている瞬間。揶揄うように、それでいて可愛らしさに溢れた表情の彼女に同じように笑っている僕の顔。
ふたりが確かに同じ時間を、隣で過ごしてことを証明してくれる。
僕にとってはこれが高校生活で唯一、好きな人の隣で映っている写真。
「これ、いつ撮られたんだろうね。本当に楽しそうに笑ってる、文弥の顔すごい笑ってる」
「千春も負けてないよ、すごく楽しそうにしてる」
「なんとなくさ、小学生の頃のこと思い出さない? なにも余計なことなんて考えずに休み時間喋ってた時のこと」
彼女の言葉で気がついた、僕がこの写真を異様に好んでいる理由。
小学生の頃の記憶と重なるから、僕が彼女への好意を覚えた時の様子と重なるから僕はこの写真を手放せずにいる。
彼女の病気がみつかってからずっと思っていたこと。それは病気がみつかる前の彼女にもう一度戻ってほしい、そしてなんの憂いもなく隣で笑ってみたいということ。僕は知らぬ間に、そんな叶うはずもない願い事の半分を叶えてしまっていた。
「文弥、この写真は現像してないの?」
「……してない、ちょっと僕が映ってる写真を現像するのは恥ずかしくてさ」
「これこそ現像してよ! 一緒に映ってる写真なんて私のアルバムには必要不可欠なんだから!」
「ごめん……! でも、もうこの写真を貼るページは残ってないよ」
「それならちょうどいい、この写真を表紙にしよう! これは勝手に写真を撮られた私からのお願いだからね? 拒否権なんて与えてあげない!」
彼女がスマートフォンの画面を指差しながら僕へ訴える。そして『約束してくれないとスマホ返してあげないから!』という見事な力技で僕との表紙を決定事項へと持ち込んだ。
きっとこの少し強引なところにすら、僕は特別な好意を抱いているのだと思う。
「でもありがと、こうやって形に残してくれたら未来の私もきっと困らないね」
「千春、それどういう意味?」
「ちょっと最近忘れっぽくってさ、ちょっと前のこととか思い出せないことが多いんだよね」
「忘れっぽい……久しぶりの入院だったからストレスとか溜まってるのかな」
「というより……病気のせいだと思う。脳の病気だからさ、頭の中のことは私には詳しくわからないけどそんな気がするんだ」
その名残惜しそうに写真をみる目から、彼女があれほど僕との表紙にこだわった理由がわかった気がする。
十八年間隣にいた僕との写真が表紙なら、きっと彼女の記憶から消えることはなくなるから。そうして消えていってしまうものを形に残していくことが、彼女なりの準備なのかもしれない。
彼女の記憶が、身体が、いつ消えてしまうか。それは僕にも彼女にもわからない。
彼女がひとつずつ準備をしていくことと同じように、僕は彼女のことを時間の許す限り知っていきたい。彼女との日々を更新していきたい。そんな思いに駆られ、僕はアルバムを作っている最中、何度も呑み込んできた問いを彼女へ向ける。
「千春はさ、三年間の高校生活……どう感じたの」
「ちゃんとした感想言えるほど高校生活送れなかったからね、なんて答えるのが正解なんだろう」
「高校生としてじゃなくていいよ。三年間、千春がひとつの節目を迎えるまで生きた感想を聴かせてほしいんだ」
「そっか、私三年間生きたんだもんね。そんなこと気に留める隙がないことの連続だったけど、強いて感想として言葉にするなら……」
斜め上をみながら彼女は三年間を表すに相応しい言葉を探す。
高校入学当時から今まで、もっと遡るのなら物心ついてから今まで、僕は誰よりも彼女の近くにいた。その中でくだらない話は数えきれないほどしてきたけれど、思い返せば彼女から改まった言葉を聴いたことは一度もなかった。
数秒後、彼女から告げられる言葉は僕にとって生まれて初めて聴く彼女からの言葉になる。
明日を迎えられる可能性を手繰り寄せ続けた彼女は、三年間の最後にどんな言葉を残すのだろう。
「ずっと今、かな。それが私の三年間」
「ずっと今……?」
「明日どころか数分後、私の身体がどうなってるかわからないような時期もあったからね。最初はそれがすごく怖かったけど、でもその怖さに怯える前に心から笑えてる今を生きたいって思えるようになった三年間だったから」
「だからずっと千春は千春のままだったの?」
「そうなのかもね。ずっと言ってなかったけど、病気だってわかった時に私自身に誓ったひとつのことがあるんだ」
「千春自身に誓ったこと? 教えてもらってもいいかな」
「私が私でい続けること。私はよく笑う子だし、誰かとふざけることも大好きだし、美味しいものは美味しいまま食べたいし、楽しいことを心から楽しめる人でいたいって思ってるの。だから病気になってもそこは曲げない、ずっと千春のままでいる! それが私が完治しない病気に唯一勝つ方法だと思ったから」
「それなら、千春はこの三年間で病気に勝ったね」
「これから先も負けることなんてないよ、ずっとずっと私が勝ち続けるんだから」
彼女が生き抜いた三年間、それは彼女が勝ち抜いた三年間。
ずっと今。彼女は未来を望みながらまっすぐに今を感じ続けた。隣で過ごす人との時間を抱えながら、そして感じられるだけの感情と思い出の全てを繋ぎ合わせて最終的に今の彼女がつくられている。
「文弥の三年間も言葉にして教えてよ」
「僕はそんな綺麗にまとめられるような三年間にできなかったよ、考えたこともなかったからね」
「綺麗な言葉なんか要らないよ、直感でいいからさ。私みたいに、初めて聴くような言葉でもいい」
「それなら……ずっと未来、になっちゃうかも」
可笑しそうに、それでもどこか納得したように笑う。
明日の朝、彼女から連絡が来ていたらいい。来週こそは彼女の席に彼女の姿があったらいい。来月には外出許可が出て一緒に外を散歩できたらいい。来年には彼女の病状が少しでも軽くなっていればいい。僕にとっての三年間は今をみつめる彼女とは対照的な、ずっと彼女との未来を見続けた時間だった。
「でも可笑しいね、やっぱり文弥はちょっと変だよ」
「なにが変だって言うの?」
「ずっと未来をみてきたのに、こうやってずっと私の『今』を撮ってきたでしょ?」
「それは……」
「だから文弥の三年間は『ずっと未来』でも『ずっと今』でもない『ずっと千春』が正しいんじゃない?」
揶揄うように、彼女は僕へそんな言葉を投げる。
間違いない。彼女の冗談めいた言葉が、僕にとっての三年間を表すに相応しい言葉の正解だった。その言葉が正解だということは絶対に言えないけれど。
三年間撮り続けた今と願い続けた未来、そのどちらにも当てはまることは彼女を追いかけていたということだと思うから。
「そうだ! 三年間の最後に文弥に確かめておきたいことがあったんだ」
「確かめたいこと、いいけどなに?」
「文弥さ、好きな人とかいないの?」
「三年間の最後がそんな質問でいいの? それともなにか企んでる?」
「違うよ、この質問がいいの。嘘つくの禁止だから! 正直に答えてよね」
彼女のことが好きだと、言えてしまえたらいいのに。
僕が彼女のように、確かに生きている今をみて生きられる人間だったらこの気持ちも隠さずに告げられていたはずなのに。
どうしても僕には、僕の気持ちを受け取った彼女が本当の気持ちを抑えて微笑みながら僕の気持ちを聞き入れる未来がみえてしまう。きっと僕の気持ちが一方通行であることがわかった次の日からも、変わらず彼女は僕へ接してくれる。何事もなかったように、僕を傷つけないように、僕の好意を受け入れてくれる。そんな彼女の自身の脆さを自覚せずに抱え込むような優しさが、僕の本心の邪魔をしている。
「いないよ、好きな人。三年かけても僕にはできなかった」
「嘘っぽい……それなりに高校生活を満喫してそうな文弥には好きな人がいると思う」
「いないよ。好きな人どころか気になってる人すら思い当たらない」
僕の答えへ彼女は不信感を少し残しつつ、それでも受け入れたように小刻みに頷いた。
隠していたはずの動揺が伝わって僕の本当の答えが彼女に見透かされしまっているかもしれない。気づかないフリをして頷いているのかはわからないけれど、余計な弁解は余計な怪しさを加えてしまうような気がして僕はただ彼女からの相槌の後の返事を待つ。
「安心した、教えてくれてありがとね」
「え?」
「三年間ほぼ毎日私に付きっきりだったでしょう?もし文弥に好きな人がいたら、その人と過ごす時間を私が奪っちゃってたことになるからさ」
「そんなこと心配する必要ないよ、僕は千春のそばにいたくて一緒にい続けたんだから」
「文弥は優しいからさ、たまに心配になるんだよね。でもそんな心配もないみたい、やっぱり文弥は『ずっと千春』だね」
冗談混じりで言い切った後の彼女の表情は和やかで、安心感に満ちたような柔らかさを含んでいた。
優しさと冗談を半分ずつ取り込んだ気の利いた言葉をかけてあげたいけれど、僕にはなにひとつその条件を満たす言葉が思い浮かばなかった。ただ沈黙を避けるように、そうなのかもねと笑うだけ。
普通の女子高校生になりたいと呟いた三年前の彼女の姿を、彼女の手によって完成に近づけられるアルバムをみつめて不意に思い出した。きっと思い描くような普通を辿れなかった彼女へ僕が最後にできること、僕は彼女を追いかけ続けた三年間の最後に、彼女に訪れるはずだった普通を渡したい。
「千春、そのアルバムちょっと預かってもいい?」
「いいけど……どうして?」
「それは内緒、卒業式の前日に返しにくるよ。だからその日まで楽しみに待ってて」
彼女から手渡されたアルバムは綴じた写真で厚くなっていて、その感覚に少し微笑ましくなった。
本来ならアルバムを作ることなんてしない。彼女が病気を抱えていない普通の女子高校生だったら、学校で同じアルバムを開きながら行事ごとの思い出を振り返っている頃だと思う。それでもその形に当てはまれなかった彼女は、僕が収められただけの思い出を形にすることを選んだ。
だから最後に僕がその特別に普通を添えて彼女へ手渡す。僕が意図的に空けていた最後の一ページは、そんな普通を詰め込むための一ページになる。
「文弥、ちょっとお願いしたいことがあるんだけどいい?」
「いいよ、僕にできることならなんでも」
「そのアルバムを渡しにきてくれる卒業式前日までに、便箋と封筒を二組買ってきてほしいんだ」
「便箋と封筒……わかった、けどどうして?」
「三年間お世話になった担任の先生とずっと診てくれてる主治医の先生に卒業の節目に手紙を書きたくて」
よかった、彼女も普通の女子高校生と同じくらい卒業を実感できている。
寂しさはあまり感じられていないのかもしれないけれど、誰かに感謝を伝える節目として卒業をとらえている彼女の気持ちが垣間見れて少し安心した。
そんな頼み事とアルバムを抱えて、僕は病室を出る。
*
卒業式前日、彼女の病室へ向かう。
数日前彼女から預かったアルバムの最後の一ページはクラス全員分からの寄せ書きで埋まっている。
これが僕から最後に彼女に感じさせることのできる普通。きっと満足に友人関係を築くには時間が少なすぎたけれど、そんな中でも写真の中のクラスメイトを楽しげにみつめる彼女にとって、この一ページ分の言葉が無駄になることはないと思う。
そして僕が制服を着て彼女の病室を訪れることは、今日で最後。
「千春、今日の調子はどう?」
扉を閉めて、視線の先にはいつもと変わらない彼女の姿がある。
僕もいつも通りの場所に荷物を置いて、少しだけ窓を開ける。いつもなら彼女から始まる僕達の会話が今日は始まる気配がない、妙に静かで、どこか緊張感すら感じてしまう。
そこにいるのは、いつもとなにも変わらない彼女のはずなのに。
「千春、なにかあった?」
そう問う僕へ、彼女は首を傾げたまま言葉を発しない。
初めてみる反応に困惑してしまいそうになる、返す言葉を探している。
そんな彼女は僕をみる度に不思議そうに視線を動かす。そして怯えるように小さく唇を動かして一言呟く。
「……誰?」
卒業式前日、十八年間隣で時間を重ねた彼女と僕は『初めまして』に戻った。