右肩に薄く積もった雪を払って、自動ドアを通り抜ける。広すぎるホールにも、迷ってしまうほどに分岐した通路にも自然と慣れてしまった僕は、たったひとつの部屋への行き道を辿って進む。
 手摺に身を委ねながら歩く人、待合席で退屈そうな表情をしている子供、面会室から聞こえる弾んだ言葉達と声。異様に清潔な空間と、無機質な匂いに嫌な懐かしさを感じる。
 重々しい雰囲気を漂わせている真っ白な扉を開けた先には、その重苦しさを全て取り払ったような千春が待っていた。

「いつも通り、文弥が私のお見舞い一番乗りだね!」

 僕の存在に気がついた彼女はベッドの少し傾いた背もたれに身を預けたまま、それでも少し身体を起こし僕に向かってまっすぐ上に立てた人差し指を突き出す。
 表情は疑ってしまうほどに晴れていて、その彼女の変わらない様子に五月蝿く鳴っていた動悸が静まっていくのを感じる。

「一ヶ月ぶりに会うから心配してたけど、千春が相変わらずで安心したよ」

「私は良くも悪くも変わらないよ? それに、文弥が来てくれるって看護師さんから教えてもらって今日は朝から気分もいいんだ」

 一ヶ月前の夜。普段なら考えられない時間に、彼女からの通話がかかってきた。
 異常なほどの静寂が漂う深夜三時。僕の耳を伝ったのは、彼女の弱々しく途切れてしまいそうなほどに掠れた声だった。
 なにがあったのかという僕の問いに彼女はただ一言『もしかしたら、話せるの最後かも』と言い残し、そのまま彼女の言葉を追求する隙すら与えられずに通話が途切れた。
 そんな声とは結びつかないほどの生気に満ちた彼女が今、僕の前にいる。
 あの夜の彼女からの言葉が『千春との最期』かもしれないと覚悟していた僕には、彼女が表情の一つを動かす瞬間すら奇跡のように思えてしまう。

「でも文弥も心配性だよね、看護師さんに対して通話越しに私の状態を質問責めしちゃうなんてさ」

「あんな言葉で通話が切れて気が気じゃなかったんだよ」

「私だって、あの通話がその時にできる最大限の伝え方だったんだよ? 本当になにも言えないで死んじゃうなんて嫌だったからさ。でもいいじゃん? 事実、今こうやって話せてるわけだし!」

 どこか呑気な声色で、彼女は僕を(なだ)めるように笑いかける。
 笑い方は何も変わらない、うっすら頬にできる笑窪(えくぼ)も上がった口角の隙間から覗ける八重歯も柔らかく下がっていく目尻も全て。僕が十八年間みてきた彼女の笑顔は、何ひとつ変わっていない。
 それでも目線を移した先の白い肌は青白さを増していて、華奢な身体の関節部分はこころなしか少し以前より骨ばってみえた。
 頼りない、そんな言葉が似合ってしまうような姿をしていることに改めて気づいてしまう。

「文弥」

「なに」

「心配しすぎちゃダメだよ」

「千春にそんなこと言われなくても、僕は平気だよ」

「隠すのが下手だね『心配でたまらないです』って、言葉にされなくても伝わってくるような表情してるよ?」

 衰弱していく彼女をみることに、僕はきっとよくない慣れ方をしている。
 きっとそう思っていないと、彼女が変わっていってしまう姿をみることを恐れて今の距離感でいることを避けてしまうような気がするから。だから彼女の顔色が極端に悪い日も、新たな治療法に身体が追いつかずにやつれている日も、その様子に僕はできる限り動じないことを心がけてきた。
 そんな僕が今、初めて彼女の変わりゆく姿に怖さを感じている。
 今までに感じたことのない強さで、彼女に対する危機感を抱いている。
 彼女がこのまま消えてしまうと、その笑う顔をみても僕の中には不安が溢れていく。

「千春」

「どうしたの」

「千春」

「だからどうしたの」

「大丈夫だからね、千春は絶対大丈夫だから」

「そんなこと言われたら私まで私のこと大丈夫か疑うようになっちゃうよ」

「言い聞かせることって大事でしょ、もし千春の中に不安があるなら少しでも軽くしてあげたいから」

「大丈夫! 私は今ちゃんと生きてるから。それに文弥が一番わかってるでしょ? 私はなかなか病気に負けないって、だから大丈夫ってことくらいわかってるよ」

 否定する隙を与えないように、彼女は僕へ言葉を向ける。そしてそれは紛れもない事実。
 彼女を蝕み続ける病の名前。

 __ 大脳圧迫腫瘍

 この世界の全てを包み込んでしまえそうなほどの笑顔をみせる彼女は、五年間この病を抱えながら息をしている。
 僕より小さな身体で、負けないように、折れないように生きている。

 *
 
 中学一年の冬、異変に気づいたきっかけは本当に些細なことだった。
 登下校中の彼女が頻繁になにもないところで(つまず)くようになったこと。会話中、言葉に詰まる場面が多くみられたこと。体調を崩すことがほとんどない彼女が自ら頭痛を訴えたこと。
 僕が心配するような素振りをみせる度に、大袈裟だよと彼女は笑った。
 彼女はその違和感を『偶然』と言って片付けたけれど、僕にはその違和感を見過ごすことができなかった。

「私が病気なんてありえないよ、文弥が心配性なだけ」

 僕の勧めに折れ、半ば強制的に受診を受け入れた彼女は受診前日、僕を揶揄うようにそう言った。
 いつもと何も変わらない中学校からの帰り道。彼女自身の身体に異常などなく、いたって健康だと主張するように軽快なステップを踏みながら彼女は僕にはにかんだ表情をみせている。
 その笑顔に嘘がないことはわかっている、それでもなお彼女の身体に安心しきれていない僕がいた。
 身体に異常があるかもしれないという緊張感のある事案を前にも、彼女は『笑う』という表情以外知らないとでも言うように上がった口角を崩さない。

「千春」

「なに、どうしたの」

「明日の病院、一人で大丈夫?」

「大丈夫! 私は文弥の心配性を安心させるために、仕方なく病院に行くだけだから! どうせ『ほら! 健康だったでしょ?』で済む話になるよ」

 そうだった、彼女は僕の心配性を安心に変える証明のために病院へ行く。
 彼女の身体に対して抱いている恐怖も不安も、そこから想像してしまっている最悪の結果も全て僕の妄想。きっと明日、それが証明される。どうか、そうであってほしい。
 
 翌日、診察が終わった後に登校すると言っていた彼女の姿を学校でみることはなかった。
 それがなにを表しているのか、わかってしまっていた僕の都合の悪い賢さを抑えつけるように、僕は最終下校時刻を迎えるまで誰もいなくなった教室に居続けた。彼女が廊下を騒がしく駆けてくる足音を待っていた。
 しばらくして(カバン)の奥底からスマートフォンの着信が聞こえた。
 着信元は他でもない『卯月(うづき)千春(ちはる)』、僕が待っている彼女だった。
 応答する瞬間、指先が震えた。彼女の声を聴いて安心したいはずなのに、ただ僕の心配性だったと思いたいはずなのに、彼女からの着信を受けた瞬間にその全てが変わってしまいそうで怖かった。

「千春、病院お疲れ様。今日は疲れてるだろうからゆっくり__」

「文弥、ごめんね」

 通話相手である彼女からの言葉を聴かないように隙間なく言葉を詰めた僕を、彼女の一言が遮った。
 たったの一言でしかない。確信するには早すぎる瞬間的な言葉には、核心をつくには充分すぎるほどの重さがあるように感じた。

「ごめんって、なんのこと? 千春、悪いことなんてしてないじゃん」

「……文弥の心配性、安心に変えれなかった。だから、ごめん」

 深刻さを含んだ彼女の声を、僕は初めて聴いた。
 僕の都合の悪い賢さも、冴えてしまった勘も、彼女の一言から感じ取った重さも、間違っていなかった。
 間違いであってほしい、心からそう思った。
 彼女の言葉へ返す言葉もみつからないまま、僕は通話を切ってしまった。
 五年前の冬。僕の心配性から、彼女の闘病は始まった。

 *

「文弥」

「どうしたの」

「ちょっと伝えないといけないことがあるの、聴いてくれる?」

「改まって言われると怖いよ、でもちゃんと聴かせて」

 ベッドの背にもたれていた彼女は、自身の腕を支えにして身体を起こす。
 そして深く息を吸って、溜め込まれた緊張感を溢すようにその息を吐く。彼女自身に何かを問い掛け、頷き、僕へ視線を移す。
 彼女に似合わない冷静さを含んだ視線に僕自身も息を呑む。

「今日から、私の人生四度目の入院生活が始まる」

「そうだね、僕は今日その連絡を受けてここに来たんだけど……」

「きっと、この入院が私の人生最後の入院になる」

「……人生最後」

「そうだよ、人生最後。そしてもう一つ伝えておかないといけないことは、私の病気が治ることはないってこと」

「それって、千春が……でも、治るかどうかなんて誰にも本当のことはわからないよ」

「腫瘍が大きくなってたんだって」

「え……」

「治療を続けてきたけど、腫瘍が大きくなって私の脳を前よりも圧迫してる」

 彼女の口調は奇妙なほどに穏やかで、自身の状態を受け入れているような余裕すら感じた。
 彼女の本心を確かめたかったけれど、そこに触れるほどの勇気と心の余白を今の僕は持ち合わせていない。それよりも遥かに僕自身の動揺を隠し通すことに必死になっている。

「千春は___」

「え?」

「千春は、大丈夫だよ。千春はここまで強く生きてきたんだから、今もこれから先も大丈夫に決まってる」

「大丈夫って言えたらいいんだけどね。私は文弥に嘘をつくことのほうが嫌だから、思ってもない大丈夫は言いたくないんだ。だから本当に思ってることを伝えたいんだけど、それはきっと文弥を傷つけちゃうと思う」

「受け止めるよ、傷ついたっていい。だから聴かせてほしい」

「文弥が『大丈夫』って言ってくれることは心強いよ、信じたいとも思う。でもね私自身、大丈夫かはわからない。今の私には言い切れない。それでも、私は生きるよ」

「そっか、それが千春の大丈夫への答えなんだね」

「でもごめん、ひとつだけ伝えておくね」

「……なに」

「私はきっと長くない。文弥より、きっと遥かに早く死んじゃう」

 彼女の引き攣った表情が僕の内側を抉る。
 わかっていたはずのことを、彼女が誰よりも悔やんでいるはずのことを、僕は知らないふりをして改めて彼女に言葉として口に出させてしまった。それが、どうしようもなく不甲斐なかった。僕からの大丈夫なんて言葉で、その残酷は拭えない。
 彼女から告げられた否定することのできない事実に、僕自身が酷く無力に思えた。

「だから、一緒にいてほしいの」

「……僕に?」

「最後までひとりなんて、いくら仲の良い看護師さんがいっぱいいても寂しいよ。幼馴染として、最後まで私の隣で笑ってて! これが私が文弥に伝えたかったこと」

 彼女の現状を悲観しているのは、僕だけなのかもしれない。
 引き攣っていた表情は気づいたら解れていて、彼女によく似合う全ての恐怖を取り払ったような、光に溢れたような表情をしている。
 彼女からのお願いを受け入れる以外の選択肢は、僕の中にない。
 そして僕は、僕よりも早く命を使い切ってしまう彼女へ最後まで片想いのままでいることを決めた。

 *

 七年前の春、当時小学五年生の僕は彼女への恋を自覚した。
 僕より少し背が高くて、運動神経のいい、誰とでもすぐに友達になって、常に笑顔が眩しい。幼馴染でありながら僕とは正反対の彼女に密かに惹かれている僕がいた。
 家の近い僕達は毎年どちらかの家で誕生日パーティーを開いていたけれど、彼女を幼馴染とは違う意味で意識してしまっていた僕は何事もなかったように、その恒例を無くそうとしていた。
 普通の友達より少し距離感が近いだけだと思っていた彼女を好きになっているかもしれないという違和感に、僕自身の幼さが邪魔をして追いつけずにいた。そしてきっと僕と同じ気持ちを、彼女は僕に対して抱いていない。何かの手違いでこの気持ちが伝わってしまった時に彼女との距離感が崩れてしまうことが怖かった。
 近づきたいはずなのに、近くにいることが怖い。それが、僕が彼女に抱いていた感覚。

「文弥!」

「……千春、急にどうしたの」

「今年の誕生日パーティーどうする?私の家は当日誰もいないから、文弥の家の……」

「今年はいいよ、別に誕生日パーティーなんてやっても意味ないし」

 誕生日前日、彼女からの誘いを断った僕は僕自身の冷たさに言葉を口にした瞬間から後悔した。
 四月二十日は彼女の、二十一日は僕の誕生日。その二日間は僕達にとって欠かすことのない特別がある日だったはずなのに、僕はそれを身勝手な気持ちから拒絶してしまった。
 彼女は少し返答に困った後、大袈裟に頷き口を開いた。

「そっか、わかった! でも文弥の誕生日はお祝いしたいから当日『おめでとう』ってちゃんと言わせて、それじゃあ!」

 そうして彼女は数メートル先で待つクラスメイトの元へ駆けていった。それも、冷たく拒んだ僕へ手を振りながら。
 どこまでもまっすぐで、底なしに明るい。それを改めて感じ取った瞬間、僕は幼いながらに彼女には敵わないと思った。
 きっと彼女は誕生日当日、僕とのパーティーがなくなってもたくさんの友達に囲まれながら特別な日を過ごすに違いない。数え切れないほどの『おめでとう』に心から『ありがとう』を返していく日になる。
 ただそんな僕の安直な想像は、彼女の素敵さによって塗り替えられる。
 彼女の誕生日当日、帰り道。

「……千春?」

「文弥! まだ帰ってなかったんだ、偶然会っちゃったね」

 学校までの坂道を導くように並ぶ桜道で、彼女はひとり立っていた。
 手にはなにも持っておらず、ただまっすぐ桜をみていた彼女の瞳が僕へ向く。

「なにしてるの、千春、今日誕生日なのに」

「誕生日だからだよ」

「どういう意味?」

「文弥にとっては意味のないパーティーだったのかもしれないけど、私は結構好きだったからさ」

「なんで」

「だって奇跡じゃない? ほぼ隣の家で、日付まで隣で同じ世界に生まれてきたんだよ、私達」

「そんなの偶然だよ」

「偶然だとしてもすごいことだよ。それに私達、偶然だけじゃないことだってあるんだよ?」

「偶然だけじゃないこと?」

「赤ちゃんの頃からずっと仲良しなこと、これって偶然だけを理由にするのは難しいと思わない?」

 騒がしく手を動かしながら、彼女は無邪気にそして必死に僕へ『ふたりの偶然にあるすごさ』を説得する。
 僕が(まばた)きをする間にも変わっていくほどに多様な表情で、彼女はあるだけの言葉を並べていく。
 そんな健気な彼女をみていると、素直になれずに彼女を突き放そうとしている僕が惨めなほどに幼く思えてきてしまった。

「ねぇ」

「ごめん! 私、話しすぎたよね、文弥の話も聴かないまま……」

「なんでパーティーが無くなったからって桜を観にきたの?千春、花なんて興味なかったじゃん」

「桜はね、四月二十一日の誕生花なんだよ」

「え……」

「文弥の誕生花が桜なの、だからちょっとでも一緒にいる気分……一緒にパーティーして誕生日お祝いしあってる気分になれるかなって思ったんだよね」

 彼女の考えていることはどこまでも素直でまっすぐだった。
 そしてそれを隠すことなく、少しだけ恥じらいながら僕へ伝えてくれている。
 僕が彼女にしてあげられること、きっと気の利いたことなんて一つもできないけれど僕が考えられるだけの何かを渡したい。

「桜___」

 偶然という言葉では片付けたくないけれど、これは確かな偶然だと思う。僕達がほぼ隣の家で、日付まで隣で同じ世界に生まれてきたことと同じような意味のある偶然。
 彼女だけをみつめていた僕の視界の端に、目を奪われてしまうほどに綺麗な桜の花びらが映った。桃色の欠片。
 桜を見上げている彼女と僕の間を舞い落ちていく桜の中で、ただひとつだけ他とは違う美しさを放っている桜をみつけた。それが彼女のようだった、他の誰とも違う美しさを持つ様子が僕の中の彼女と重なった。
 スローモーションで落ちていく。僕は手を伸ばした。掴まえようなんて気はなく、ただ触れてみたかった。その感覚もまた、彼女と重なった。彼女を好きな人として特別と思いきれない僕が、幼馴染として離れたくないという曖昧な距離感の中で抱いた感覚と似ている。
 そしてその桜が僕の掌に乗った時、僕の中の何かが突き動かされた。

「千春、これ」
 
「なに」

「ちゃんとした理由はわからないけど、千春に似合うから、だからあげる」

 僕の掌に舞い落ちてきた桜を、僕は彼女の(てのひら)に乗せた。
 たった一枚の花びらを手渡して僕が手を離した時、彼女との間に数秒の沈黙が生まれた。
 彼女が大切に思っていたものを無くして、埋め合わせるように手渡した行為に嫌われてしまっても仕方がないと僕自身に言い聞かせる。

「いいの……? こんな綺麗な桜、文弥にしかみつけられないよ」

「喜んでくれてるの……?」

「喜んでるなんて言葉じゃ足りないよ……私、文弥に嫌われちゃったのかと思ってたから……だからこの桜は文弥からの誕生日プレゼントみたいに感じちゃってさ、今すごく安心してる」

 少しだけ目を潤ませながら、彼女の丸い瞳が細くなっていくのがわかる。
 その花びらの端を人差し指と親指で摘んで、まだ散っていない桜の隙間から差す光に照らす。まっすぐに伸びた彼女の腕と、綺麗と呟いて微笑み続ける横顔が綺麗で僕は目を奪われてしまった。
 彼女の指先で摘まれた桜は確かに綺麗だけれど、僕にはそれより遥かに彼女を美しいと思った。桜より、千春の方が幾分も綺麗に咲いている。
 そして僕の中で確信する。
 僕はこの笑顔の虜になっていて、整った言葉では表せないけれど彼女の素敵さに惹かれている。
 この曖昧な感覚がきっと、誰かを好きになるということなのだと知った。
 七年前の彼女の誕生日。
 僕はその日、初恋と出逢った。

 *

 当時は僕の中の恥ずかしさが邪魔をして、抱いた気持ちを伝えられずにいるだけだった。
 同じクラスになった小学校最後の一年も、隣の席になった中学校最初の一年も、僕の言葉によって彼女との距離ができてしまうことを恐れて言えないままだった。
 そして彼女の闘病生活が始まってからの僕は、彼女への好意を隠すことを決めた。
 慣れない入院生活に、負担の大きい薬物療法。僕の身勝手な好意を伝えてしまうことで、彼女を壊してしまうことが怖かった。
 きっと優しい彼女は、僕の好意を拒絶しないから。きっと僕のことをどう思っていたとしても『ありがとう』と笑ってくれるから、僕は彼女からの信頼を裏切らないために好意を隠すことを選んだ。
 それが、幼馴染の僕がやるべきことだと思った。
 僕が彼女を異性として意識していることに彼女が窮屈な思いを抱いてしまったら、彼女はきっと無意識のうちに僕に本当をみせなくなっていくと思う。弱っている姿を隠して、僕が描いている彼女を想像しながら過ごしてしまう。唯一全てを話せる仲であったはずの僕に心を閉ざしてしまう、そうしたらきっと彼女の心が壊れてしまう。
 だからこれからも、僕が彼女を好きでいることも、それを秘密にしていくことも変わらない。
 彼女にとっての僕はただの幼馴染、僕にとっての彼女は幼馴染であり好きな人。
 その差に寂しさを覚えてしまうこともあるけれど、全て彼女のためだと考えてしまえば僕は好意を隠すことを苦だと感じない。
 それに今、この瞬間も彼女と誰よりも近くで言葉を交わして、時間を共にしているのは紛れもない僕だ。
 七年間抱き続けた好意を秘めたまま、僕は誰よりも近くで彼女を支えることを選んだのだから。

「文弥も忙しいと思うし、付きっきりで一緒にいてなんてことは言わないよ。ただ、たまにでいいから今日みたいに来てくれたら嬉しいなって思って」

「いや、そんなことしないよ」

「やっぱり難しいよね……我儘(わがまま)言って困らせちゃった」

「違くて、忙しいなんて言わないよ。千春の体調も考えながらだけど、会える日は毎日でも会いにくる」

「それなら私は最期まで笑って過ごせちゃいそうだね。本当に、素敵な幼馴染を持ったよ」

 照れ隠しのように笑う、どこか寂しそうに、隠していた不安の欠片が隙間からみえたような気がした。
 彼女にはあるだけの時間、残された時間、叶うのならずっと心から笑っていてほしい。きっとそれが彼女に一番似合う表情だから。
 そしてその笑顔のために僕にできることがあるのならば、躊躇わずに手を差し伸べたい。

「薬のケース、ここの棚にしまっていいよね」

「そこにお願い、もし既に私物が入ってたら私に渡してほしい」
 
 ベッド横の背の低い棚の扉を開ける、記憶を辿っていくように僕は彼女の荷物をしまう。
 入院生活初日、僕と彼女にとって四度目の病室整理。
 最初の頃は入院に必要なものから収納場所まで手探りだったけれど、今はお互いにその作業にも慣れてきた。
 放課後に彼女から頼まれた日用品を買ってきたり、こっそりお菓子を持ち込んだり。この慣れはそんな密かな楽しみを積み重ねて日々を超えてきたふたりの証拠だと思っている。

「ねぇ、文弥」

「なに?」

「私、もうこの病室にはお世話にならないって思ってたよ」

「……それは、確かに千春からしたら戻ってきたくない場所だもんね」

「一ヶ月前、体調が急に悪くなる前までは調子も良かったし。もしかしたらこのまま普通の生活に戻れるかもしれないって思ってたんだけどね」

 彼女が珍しく弱音を溢す、その声色から表情を察する。
 僕は彼女の顔をみないように彼女に背を向けて、それが不自然だと思われないように、整えた棚にしまった物の配列を繰り返す。
 彼女の気持ちの全てを僕がわかることはできないけれど、彼女が普通の生活を取り戻すことを願っている僕としても今回の再入院は胸が苦しくなるところがある。
 だからこそ、僕は僕のままでいる。彼女が望んでいる普通の生活に近づけるように、僕は僕のまま飾らない幼馴染で居続けることは今日ここに来るまでに僕自身の心に誓ってきた。

「私、守れないのかな。文弥との約束」

 背後(うしろ)で、彼女が力のない声で呟く。
 僕は振り向かずに、その呟きへ返す言葉を探す。ただの呟きなら言葉を探す必要なんてない、でもこの呟きはきっと彼女なりに僕からの答えを待っているような意図が込められているような気がする。
 僕はそんな彼女の小さな期待に、時間の許す限り応え続けたい。

「約束、千春なら守ってくれるよ。僕と千春なら守れるさ」

「中学二年生の時だっけ、素敵な約束を文弥が私にしてくれた。私が守れなかったら……」

「千春が守れないなんてことない、必ず、守ってもらわないと」

「私だって、ちゃんと守りたいよ。そんなのそうに決まってるじゃん」

 その後に続く言葉を呑み込むように、彼女は口を(つぐ)んだ。
 少しだけ顔を横に向けて覗いた彼女は俯いていて、それでも何かを言い聞かせるように彼女自身の手を強く握りしめていた。気づかれないうちに視線を戻す、返す言葉は見当たらなかった。
 約束を守ってほしい。それは、彼女に生きていてほしいということと同じ意味の言葉になるのだから。

 *

 中学二年、春。
 僕と彼女にとって、十四度目の春の日。
 病名を告げられて一ヶ月と少し、彼女にとって初めての入院期間。僕は躊躇いながら、下校途中に彼女のいる病院を訪れた。
 そして昨晩、通話越しの彼女に言われた通りの通路を辿り中庭へ出る。
 無邪気に駆ける子供も、車椅子に腰掛ける患者と目線を合わせながら言葉を交わす看護師も、ベンチで文庫本を開く女性も。そこには忙しい院内とはかけ離れた温和な空間が広がっていた。
 その中でも一際目を惹く桜の木が、暖かい春の光と耳に馴染む自然の音に包まれるように立っている。
 そしてその桜の下に、僕が探していた姿があった。

「千春」

 僕が名前を呼ぶ声に、彼女は柔らかい雰囲気を(まと)って振り向いた。
 見慣れない病衣に身を包んだ彼女は僕がよく知っている表情(かお)をしている、春の光にも負けないほどの明るい表情。
 穏やかな空の色とは結びつかない風に、桜が散って、舞っていく。
 彼女は降りてくる桜を掴もうと腕を伸ばすけれど、やがてその腕を下ろして落ちていく桜を見送っていた。
 少し遠くからみている僕の頭の中で、散っていく桜と彼女の姿が重なっていく。

「文弥」

 彼女の声に、意識が引き戻される。
 彼女は僕に手を振った後、小さく手招きをして微笑む。
 相変わらず整った容姿に目を奪われて、消えてしまいそうな雰囲気から不安に駆られ、僕の頭の中が彼女で埋め尽くされていく。

「昨日の夜いきなり来てって言ったのに来てくれるなんて、文弥はやっぱり私の幼馴染だね。いつも誰よりも近くにいてくれる、それが『桜庭(さくらば) 文弥(ふみや)』私の唯一の幼馴染」

「改まって僕の名前を呼ぶなんて不自然だよ、それも誰かに紹介するみたいに」

「映画のワンシーンみたいじゃない? こんなに綺麗な桜を幼馴染と一緒に観てるの、それも片方は病気を患ってる。感動系の映画のワンシーンによくあるじゃん?」

「嫌だよ、そんなワンシーンにはさせたくない」

「どうして?私は素敵だと思うけどな……」

「死んじゃうから」

「え?」

「素敵な映画になるのかもしれないけど、そういう映画って……ヒロインが死んじゃうこと、多いから」

「そうだね、そこまで私達にピッタリ重なっちゃうね」

「千春は嫌じゃないの?」

「なにが?」

「死ぬこと、怖いとか嫌だなって思わないの?」

「私だって死にたくないよ、でもいつ死んじゃうかわからないからさ。余命すら断定できないって言われちゃったし、もしかしたら今年で文弥の隣で桜を観るの最後かもね」

 笑えない想定を彼女は揶揄うような口調で並べていく。その全て、冗談で済んでしまえばいい。
 こんなことを言っている今を数十年後に思い出して、笑い話にできればいい。
 そんな未来が来ないことは、僕が、彼女が一番よくわかっている。
 それでも僕は、彼女が僕の隣からいなくなってしまうことを受け入れられないままでいる。

「だから最後くらい、綺麗な映画のワンシーンみたいに桜を観てみたかったんだ。だから文弥をここに呼び出したの」

「千春にとっての春は、今日が最後なの?」

「どうだろうね、まだ続いてほしいけど……私の身体、きっと言うこと聴いてくれないからさ」

 何かを諦めたように言葉を吐いた後、彼女は自身の頭を指で触れる。
 物心ついた頃から、気づいたら隣で笑い合っていた彼女が僕の前からいなくなる。
 その事実を受け入れているような言葉ばかりが彼女の口から伝って僕の耳へ届く。耳を塞ぎたくなってしまうほど、僕はその言葉が怖かった。受け入れなければいけない事実なのに、僕にはあまりに単純すぎるその事実を呑み込めない。

「でも文弥、ひとつだけ覚えててほしいんだ」

「なに?」

「私は私が死ぬことを受け入れてるし、仕方のないことだって思ってるけど……でも本当は、まだ生きていたいって思ってるから」

「そんなこと、言われる前からわかってるよ」

「そっか、それなら私の心配性だったね。忘れないでね、そのことだけは」

 まるで明日にでもいなくなってしまうような、彼女の言葉にはそんな危うさが添えられている。
 大丈夫、彼女はまだ僕が知っている彼女のままだから。
 その陶器のように白い肌も、可愛らしく薄い桃色に色付いている頬も、少しだけ冷たさを感じる睫毛(まつげ)と視線も、言葉を紡ぐ度に小さく動く艶のある唇も。
 僕が隣で見続けてきた彼女がそこにはいて、その全てに僕は相変わらず見惚れてしまっている。
 僕達の春は、きっとここでは終わらない。終わらせたくない。

「千春」

「ん?」

「僕は、千春に生きていてほしい」

「今ちゃんと生きてるじゃん」

「そうだけど、違うよ」

「どういう意味?」

「何年後の春も、一緒に生きていてほしいって思ってる」

「それはどうかな……ちょっと自信ないよ」

 僕の願いを、彼女は震えた声で柔らかく拒む。
 受け入れてほしかった。いつもと変わらない明るさで『もちろん』なんて単純な言葉で、僕の根拠のない願い事すら受け入れてほしかった。

「僕とひとつ、約束してくれないかな」

「約束?」

「二人が十八歳が終わる春、一緒に桜を観に行こう」

「十八歳、どうして十八歳なの?」

「ほぼ隣の家で、日付まで隣で同じ世界に生まれてきた僕達が高校を卒業して大人になる春だから。そんな特別な季節を千春と一緒に観てみたいんだよ」

 まっすぐに、彼女の目をみつめて僕は言葉を口にした。
 『十九歳が始まる春』と言わなかったのは、ひとつの『終わり』を区切りとしたほうが途方のない未来を考えるより彼女にとって生きることを望みやすいと思ったから。
 彼女は少しはにかみながら頷いて、そして僕の手を取った。
 少し冷たいその手が僕だけには暖かいように感じて、潤んだ瞳で僕をみつめながら彼女は僕に向かって言葉を紡ぐ。
 僕達が生きる約束を交わしたほんの数分の春の隙間だった。

 *

「諦めるなんて千春らしくないよ。いつどうなるかわからないから、だからこそ僕達は僕達のままでいたい」

「今、思い出したでしょ? 約束したあの日のこと」

「え……どうして」

「私も思い出したから、あの瞬間(とき)の文弥が私にとってどれだけ心強かったか」

「そんなこと……覚えててくれたんだね、ちょっと照れるけどありがと」

「あんなに大切なこと忘れるわけないでしょ。私はあの日の約束、死ぬまで忘れてあげないから」

 やけに強気な口調で、彼女は僕に微笑みかける。
 可愛らしく挑発的な視線で、まっすぐ立てた小指を僕の前へ突き出す。その小指に僕の少し弱々しい小指を交える。
『約束』それは、僕達が生きていくために欠かせないこと。
 きっとただの口約束に過ぎないけれど、その言葉の中に僕は僕の、彼女は彼女の覚悟を宿している。
 人生最後の入院生活、僕達は僕達の時間を重ねていく。
 たとえ本当に彼女の最期が訪れたとしても、その最後に遺す言葉と抱く感情は彼女の全てを表しているような、光のようなものであってほしい。

「私、生きるからね」

 この小指を結んだまま、明日も彼女が生きていくことを誓う。
 そして解いた僕の小指には、彼女の感触と温度が残っている。
 今を生きている彼女の証明、ひとつも取りこぼさないように僕はその感覚を隠している好意と同じ場所へしまった。