塾の帰りにコンビニ寄ったら、お化けの中身とすれ違った。
背丈と体格、髪の長さなどの色々合ってる他に、側面を砂利で擦ったような革靴を履いていた。間違いない。ヘッドフォンマンだ。
酷く疲れた顔をしていた。あの夜の獣染みたヤバさはない。通報されたのがよほどショックだったのかな。まあそりゃショックか。あの日以来ずっとこんな世界の終わりみたいな表情で居たのだと思うと、なんかちょっと申し訳ない。
『顔は覚えられてないんだな?』
仁一の声が蘇る。そう。だからすれ違っても向こうは気付いていない。このまま知られないで居た方が良さそうだ。
しかし、すぐさま話を変えた仁一のほどけた笑顔と、大袈裟に心配しておきながら多分今日も呑気に配信をするだろう表子の笑顔が浮かぶ。
なんだろう、この、放っておかれた感じは。
「あの」
気付いたら私は、ヘッドフォンマンに声を掛けていた。
三桜公園のベンチに座ってヘッドフォンマンからコーヒーを受け取った。彼は宵軒《よいのき》十思郎《としろう》という名前だった。
ヘッドフォンの人ですかと声を掛けたら、バツの悪い顔をしながらもあっさり認めてくれた。猛り狂っていた彼からは想像出来ない、優しい顔と優しい声だった。
「それで、僕に聞きたいことってなに?」
「元気なさそうだなって思って」
彼はコーヒーに口を付けたまま、住宅地の麓の方に視線を移した。カーテンからはみ出した灯りと外灯の光が、ポンポンポンと綺麗に並んでいる。
「最近見てなかったし、あれが関係あるのかなって」
宵軒さんは苦笑いをする。
「そうだねえ。あれはストレス解消だから。でも」
一息を吐いて、口の横に縦皺を作った。
「もとはと言えばストレスが溜まるのが元気のない原因だよねえ」
まるで他人事みたいに、長閑な声色だった。
「なんかすごいストレス溜まる職場なの?」
「ううん。会社が悪いんじゃあないよ。朝撫《あさなで》さんは中学生だよね。夢とかあるの?」
「うーん。なんとなくオフィスで働くのかなーって思ってる。なるべくまともな企業に入れるようにって大学は行くことにしてるんだけど」
「僕も中学の頃はそんな感じだったよ。でも高校のときになんかよくわかんないんだけど急に人生に違和感を覚えて、それで焦ったりしてね。本当にこのままでいいのかなあなんて思って。別に親にレールを敷かれていたわけではないし、なにをするにも不自由はなかったよ。でもどういうわけだか違和感はなくなってくれなくて、気付いたら音楽をやってた」
「音楽?」
「ギターをね。でも、そもそもわけがわかんない気持ちで始めたやつだし、覚悟があるわけでもないから、中途半端な気持ちで高校時代を過ごしたわけ。それでも弾けたら周りは褒めてくれたし、居心地が良くってね。それで、そのぬるま湯に浸かっていたらあーっという間に受験シーズン。大学入試は諦めたよ。でもさ、なんて言うか、やり始めちゃった音楽をやっぱり辞めます、適当なところに就職しますっていうのも負けた気がして」
「なにに?」
「なにかに」
まあわからなくもない。3時までおやつは待とうと思っていて2時半に食べたら、なんか負けた気になるし。なにかに。
「意地になって専門学校に通ってみたんだけど、そこに行く人ってみんなガチだからさ。置いてけぼりくらった感じで。でもやっぱりそう言う場所には僕と同じような人も居るんだよね。で、結局そう言う人たちと2年間つるんでおしまい」
「プロに成れなかったんだ」
「成れなかったもなにも、成るためのステージに上がろうとすらしなかった」
夜景に過去を見る彼の横顔は、とても寂しげだった。
「結局適当なところに就職したよ。だけど、あの頃の違和感はまだ払拭できない。真摯に向き合わなかったからだろうね。恵まれた環境を不意にして、時々顔を出す違和感も見て見ぬふり。全部自分が悪いから誰も憎めないのに、なにかが憎いしなにかのせいにしたいんだ。そう言う自分勝手な衝動が湧きたって気が付いたら、僕はヘッドフォンを装着して暴れ回っていた」
顔を傾けて外灯を見上げる。蛾がバタバタと忙しなく羽ばたいている。
「暗くて、音楽でなにも聞こえない。まるで、夜を飛んでいるような気分になるんだよ」
ハシヴィー全開だった。シュートをスポスポ入れながら、仁一《じんいち》は口も手を止めなった。相当お気に召した配信だったらしい。何度話を変えてもすぐにまた戻ってきてしまって、ペラペラスポスポと喋りながら入れていく。もういい加減にして欲しかったし、シュートも外して欲しかった。そしたらハシヴィーのことばっかり考えてるからバスケが下手になるんですよーって言ってやれるのに。
「なんかまるで、ハシヴィーのこと好きみたいだね」
「前から言ってんじゃん」
「そうじゃなくて、女性として」
「好きだよ」
放たれたボールが空中で静止する。なにを言っているのかわからなかった。この、私のことを好きなはずの男子がなにを言っているのか、全然わからなかった。
「バカみたいじゃん」
声がしぼんでいくのがわかった。
仁一はゴール下で弾み続けるバスケットボールに手を掛けて、ダンッダンッとドリブルをしながら帰ってくる。
「なんで?」
「だって声しか聞こえないんだよ?」
「人柄が滲み出てくるんだよ。本気で驚いたりして純粋だし、ゲームも上手いから気も合いそう」
「そう言う人が居るから、大人の人に襲われたりとかして事件になるんじゃん。軽率だよ」
「そうか? でも相手が誰であっても俺は構わないよ。マジで。結婚したいと思ってる」
心臓が一度だけドクンと跳ねて、あとはそのまま死んだみたいに動くのをやめた。
「誰でも?」
「ああ」
なんで。なんでなんで。ずっと私と話してるじゃん。学校の中で誰よりも長く居るじゃん。仁一が試合のときは応援に行くしさ、お母さんだってお嫁さんに来ればって言ってくれてたじゃん。そしたら顔真っ赤にしてそっぽ向いて「うるせーなー!」って怒ったじゃん。試合に負けたときは慰めてあげたし、水切りしたあと橋の下で頭撫ぜてあげたじゃん。「わりぃ」と「ありがとう」を一番聞いているのは私。努力と横顔を見続けて来たのも私。それに薦めてくれたゲームもやったよ? 毎回おんなじところで死ぬのが意味わかんなかったし、一面もクリアしてないのにクリアしたよって嘘吐いちゃったうしろめたさみたいなものはあるけどさ。それでもやったよ? それともたまたまやってるゲームが同じだったってだけの人がいいの? そんなことに運命感じちゃうの? いいよわかった教えてあげるよ。現実は仁一よりもバカみたいに残酷だってことを。
「ハシヴィーの正体は表子! 同じクラスの組基表子だよ!」
ボールがリリースされた。ゆっくりと、放物線を描きだす。
彼の横顔にはいつもの鷹が居なかった。ただ口を開けている間抜け面。そりゃそうだよね。男子の評価がめちゃ低いのを私は知ってる。みんな口を揃えて「組基はねえわ」って言ってたのを知ってる。そのときに仁一が居たのも知ってる。だからね、絶対なしなんだよ。わかった? 顔が見えてないってこういうことなんだよ。
「マジか」
——ガァンッ。
ボールがリングに弾かれて、盛大な細やかさでバックボードが震えた。
どうしよう。やってしまった。ついつい頭に血が上って言ってしまった。でもあれは仁一が悪いよ。ハシヴィーハシヴィーうるさいし、現実を見ようとしなかったから。ってそんなの表子には関係ないよね。私のことを唯一気の置けない友達として、秘密を告白してきたんだから。誰にも言わない約束なのに、破ってしまった。ヘドロのように不細工な嫉妬心で。
きっと友達の多い仁一のことだ。もうすでに何人かには噂が広まっているだろう。
すぐ内緒にしておいてねって言えば良かったのに、そんな気を回すことも出来なかった。
結局私はいつも通り表子と適当なおしゃべりをして過ごした。でもさすがに帰宅まで一緒にする気にはなれなくて、「忘れ物したから先に帰っててー」なんて適当な言い訳をして、時差下校することにした。
15分くらいあとに教室を出た。階段を下りて行く途中、階段裏のデッドスペースから物音がした。
「あの、組基さん」
仁一?
「好きです。付き合ってください……!」
昼間に聞いたバックボードの振動音が、頭の中でボーンと響く。
ガシャンと音がしたのは、多分驚いた表子が掃除道具入れを蹴ってしまったのだろう。
「あ、あああ、あの、え、どどどうして?」
「実は、朝撫に聞いたんだ。組基さんがハシヴィーだって」
「うぇええ!?」
「安心して。誰にも言ってないから」
ふー、ふー、と荒い息が聞こえてくる。元々気の弱い表子だ。こんな驚きの連続に、過呼吸になってもおかしくはない。なんて冷静に聞いていた。なんかまるで私がここに居ないみたいな感覚だった。
「ずっとハシヴィーの配信見てたんだ。カワイイ声や笑えるリアクションを見る度にどんどん引き込まれて行った。ただ単に楽しいだけじゃあなくて、心が落ち着いていくこともわかってさ。バスケの試合の前日は絶対に配信見ることにしてる。次の日いいプレイができるんだ」
「でも、三笠火君が好きなのってハシヴィーであって私じゃあないんじゃあない? 私、こんなだし」
少しだけ沈黙が流れた。
「正直言うと俺は組基さんを見た目で判断して、内側まで見ようと思ってなかった。それはマジでごめん。でも、ハシヴィーの正体が組基さんだって知っても好きな気持ちは変わらなかったし、寧ろ組基さんのことをもっと知りたいって思った」
こんなの、落ちちゃうじゃん。表子もきっとまんざらでもない。
「あの、三笠火君の気持ちは嬉しいんだけど、その」
——え。
「ダメかな?」
「未来香《みらか》ちゃんはこのこと知ってるのかなって思って」
なんで私が?
「朝撫?」
「いつも一緒に居るでしょ? 付き合ってるんじゃないの?」
そういうことか。
「ないない! ただの友達! 俺は二股かけるような不埒な男じゃあないから」
純粋、だもんね。
「未来香ちゃんの気持ちは聞いたことが有るの?」
「なんで聞かなきゃいけないの?」
「三笠火君の話をするとき、とても楽しそうで嬉しそうで……きっと未来香ちゃんは三笠火君のことが好きなんだと思う。だから、抜け駆けするような真似はしたくない。未来香ちゃんは私なんかにも優しくしてくれる最高に素敵な人なの……!」
目頭が熱くなった。感動したわけじゃあない。情けなくなった。自分が。正直見下していた。そんな相手に同情されて。でもそこにはまったくバカにする気持ちなんてなくて。ただただ純粋に友達思いなだけなんだ。そんな子を、見下していた自分が情けない。
「そのことなら大丈夫。だって俺がハシヴィーと結婚したいって言ったら正体は組基さんだって教えてくれたんだから。俺のこと好きなら教えないでしょ?」
それは仁一の気持ちを見くびっていただけだよ。
でも……いや、だからもう、いいよ。私なんてそもそも仁一と釣り合い取れてなかったんだよ。誰よりも友達思いの表子が、付き合う権利を持っていると思うよ。
沈黙が流れている。遠くで野球部の声がする。
あ、でも、もしも表子に仁一を好きな気持ちが1ミリもないんなら、私にチャンスをください。仁一のことを見くびっていた自分と表子のことを見下していた自分をちゃんと裁いて、二人に向かい合えるように頑張るから。だから待っ——
「よろしくお願いします」
それからどうやって帰ったのかは覚えていない。というか驚きなのは、ちゃんと塾へ行ったことだよね。気付いたら夜だった。
遮断機の点滅が右左右左って、なんか心臓みたいだなって思って、だったらこいつも生きてるんじゃないかなってめちゃ適当なことを考えて、電車が通過していくのを待っていた。
こういうちょっと待つって瞬間は、本当に良くないよね。一日のことを振り返っちゃうから。
髪の毛を乱暴に掻き混ぜた無責任な風は、四角い特急にへばりついて過ぎ去っていった。
バーが上がり始める。そこでなんかこのままじゃダメだって気がした。よくわかんないモヤモヤした気持ちが、ぶわああーって心臓から漏れ出していくようなイメージで、肘とか太ももとかが意味もなく痙攣した。
自分の視線をバーが通過した瞬間に、全部わかった。ああそうだ、これ、この衝動は——爆発だ。
ニューバランスがアスファルトを削って火を噴く。私は一陣の風になった。ぬめりけのある風が腹から胸に蠢いて、制服のリボンがビロンビロン揺れる。それをガッと後ろに回して、ぬめりに胸をまさぐられないように全力疾走した。本気で走れば風もふざけないことを知っている。
付いた先は公園だった。
なんでこんなところに居るんだろう。って思ってたら、宵軒さんが現れた。
「なんでここに?」
私が尋ねると、宵軒さんは微笑を湛える。
「君の涙の音が聞こえたから」
え。ええ? 頬を撫ぜるとビショという感覚が指先に伝わった。マジかよ。泣いてたのかよ。誰か言ってよ。誰も言えねーか。
「と言うか実は君の叫び声が聞こえただけなんだけどね」
「叫んでたの?」
「身に覚えがないようだけど、叫んでたよ」
恥っず。
「なにかあった?」
「ありまくりなんだけど。でも、言ったら余計に恥ずかしくなるパターンの奴。考えて見たら、全部私が悪いよねっていう感じの」
宵軒さんは手に持っていたヘッドフォンを渡してきた。
「じゃあ飛ぶ?」
いやその前にちょっと気になるのは、
「なんで持ってるの?」
宵軒さんは笑って肩を竦める。
「人には役割があるんだよ。僕は君が泣いていても頭を撫ぜたり抱きしめたりはできない。彼氏ではないからね。でも、君がとてつもなく言いようのないなにかに追われて公園に逃げ込んだってのは理解できたし、そんな君にしてあげられることが有るとすればこれくらいしかないんだよ」
「でも、通報されちゃうんじゃない?」
「僕が傍で見ている。そのために僕が居るんだよ」
私はヘッドフォンを装着した。やり方はわからないけど、爆発したいって衝動はまだある。
宵軒さんは隣でスマフォをいじった。
——プツッ。という電子音。
——ピィァーという熱で溶けたホイッスルの音みたいなものが聴こえたと思ったら鼓膜がドコドコドコドコドコドコドコッと揺さぶられてヴォーカルの叫びが私の髪を引っ掴んでブオンブオンと振って来た。されるままに頭を振る。ヘッドフォンを落とさないように押さえた。ニューバランスが砂利を巻き上げながら右に左に。でもドラムの音が私の振動を司っていて痙攣みたいな縦ノリがやめられない。そのやめられなさが嫌ではなくむしろ心地良かった。音が耳から入ってきて、それがつま先や指先から抜けて行く感覚。滞留していたものが流れ出すような。ダムの決壊にも似ているしバスタブの排水栓を抜いたときにも似ている。電気のようなものが流れているようにも思えるしそれは自分の体がただ痙攣しているだけのような気もする。酸素を吸っているのか吐いているのかわからないけどどっちでもいいやって気分でもあって自分が自分じゃなくなっていく感覚がある。
胸に詰まっていたすべてのものが吐き出されていって風を切る度に清々しさだけが滲んで纏わり付く。知らない間に溢れていた涙を両手で押さえて——ヴォーカルが一際大きく叫んだときにその手を広げて涙を弾き飛ばした。私は口を大きく開けて夜空を見つめていた。
ああ、月が近い星が近い私は——
ヘッドフォンで夜を飛んだんだ。