僕たちは二人で、薄曇りの日を選んで、蔓薔薇《つるばら》レースの日傘を持って、短い距離を出掛けてみた。空からはあの卑劣な音は聞こえない。どうやら僕の作戦は概ね成功したようだった。何度かそれを繰り返したが、砲台に気付かれた様子はなかった。そうして、晴れの日に外に出ることに、彼女も前向きになっていった。

 晴れた日曜日。ついにその日が来た。僕はあまりに空が青いものだから、なんとも情けないことに「やっぱりやめよう」とLINEで切り出したのだが、彼女の気持ちは変わらなかった。

 僕のデートプランは都会での遊びだった。自転車やウォーキングなどの健康的なデートは出来ない。日傘が使えないから。そして観光でも田舎の方より都会の方が遮蔽物《しゃへいぶつ》が多い分、レーザーを気にしなくて済む。空が鳴りだしたら、すぐさま隠れればいいのだから。

 駅で待ち合わせて、向かってくる空科《そらしな》さんを一目見て僕の体中の細胞は例外なく沸騰《ふっとう》した。彼女の髪は辺りの光を吸収してより黒く。反して肌はより白く映えた。日傘を差しているから影にはなっているけれど、やはり雨や曇りの日に見る彼女とは、一段違って見えたのだ。月並みだが、輝いていると言う形容が一番似合う女性だと思えた。

「お待たせ」

 呆《ほう》けてしまって返せなかった。

「どうしたの?」
「きれいだ」
「え?」

 僕は彼女のオニキス色の瞳をじっと見つめていた。自分がなにを言っているのかもわからずに。そうして彼女の頬がほんのり染まり、視線が逸らされてから、ようやく自分の言った言葉を理解する。

「あ、え、い、……行こうか」

 取り繕《つくろ》うことも出来ず、改札へ向かった。

 地元の駅から電車に乗って目的の駅に着くまでは問題なかった。問題はそこからだ。
 人、人、人、人の群れ。アスファルトの濁流に流されてしまいそうになる。そんな中の日傘は、相当邪魔だ。
 行き交う人々が彼女の傘を邪魔くさそうに避けて、舌打ちをする。睨まれたり、「危ねえだろ!」と怒号を吐かれたりした。僕はただ「すみません」と謝るしか出来なかった。

 わかるよ。邪魔で危ないのは。でもさ、日傘を差してないとレーザーに焼き殺されてしまうんだよ。一人ずつ言って回って、彼女が日傘を差す了承を得たいけれど、実際そんなことは出来ない。

 僕は彼女と手を繋いで肩を寄せて、小さな声で謝った。すると彼女は清らかな髪を左右に振って、丁寧に光を反射させた。

「わたしは良いの。でも、本当に邪魔になっているから、出来ればもう少し人のいないところに行きたい」

 繁華街から遠ざかる道を選んで歩いた。
 目的のお店は近かったけれど、人込みを突っ切ることになるのでそれはやめた。

「ごめんね。こんなところに誘っちゃって」
「ううん。空多《くうた》君は色々考えてくれてここを選んだんだってわかっているから」

 目的の店に、反対側から回っていけないかと思いながら歩みを進める。

「そう言えば、僕が傘を忘れた日にさ、凄く身を寄せてくれたよね」
「うん」
「そうしないと空科さんがレーザーに狙われてしまうからって言うのはわかったんだけれど、逆に君がしっかりと傘に収まるようにして、僕が肩を濡らすのではいけなかったの? 要は、空科さんさえ見えなければいいんだよね?」
「中途半端に見えたりすると捕捉されるかも知れないと思ったし、それに」

 彼女の唇がしなる。それはまさに赤い下弦の月。

「あなたが勝手に濡れるのはいいけれど、わたしのせいで濡れるのは嫌だから」
「そういうもんかな」
「そういうものよ。どうして残念そうなの?」
「君が僕のことを好きならいいのにと思って」

 するすると出て来るこの言葉は、本当に僕のものだろうか。駅前で出会ったときからおかしい。晴れとは、そう言う天気なのだろうか。

 彼女は頬を染めて眉を困らせる。

「空多君って、変な人よね」
「そうかな」

 横断歩道。信号機の青を待つ。手前、白線のスタートラインの上に立つ。

「そうよ。だってわたしに声掛けてくれたのも、わたしのために色々考えてくれたのも、プレゼントを買ってくれたのもあなたが初めてだもの。晴れの日に出掛けてくれたのも。どうしてそこまでしてくれるの?」

 ポッポー、ポッポー。青になった。彼女は先に一歩踏み出す。

「そりゃ——」

 そこへ信号無視の自転車が

「きゃっ!」

 ぶつかって来た。

 彼女は転んでしまう。

「空科さん!」

 走り寄る刹那。

 ——ゴゴゴォ。

 あの音だ。太陽の奥に下卑た笑いをひた隠しにした卑劣な青空が、空科さんを狙う音。
 僕は彼女の手を取り走り出す。一番近い遮蔽物。銀行のひさし。

「あっ」

 蔓薔薇の日傘が彼女の手を滑ってポーンと投げ出される。彼女がそれを追うために踏ん張ったことで、今度は僕の手の中を彼女の手が滑っていく。

 ——ピピピピピピピピピ……

 まずい。間に合え。今。ここだ。僕の脚は。手は。目は。耳は。すべてこのときのために用意されて来た。そうだろう八多又《はたまた》空多。僕は彼女を守るために使わされた。レーザーに狙われる系女子を助ける系男子だ。間に合え間に合え間に合え間に合え!

 ——ドンッ。

 ——ピィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!!

 彼女の肩を押した感触はあった。が、すぐに眩《まばゆ》い光と甲高い音に包まれて、なにもかもわからなくなった。


 *****


 暴力的な光に、僕は無意識的に目を瞑っていたようだ。へばりついたように重たい瞼を無理矢理こじ開ける。
 チカチカして見辛かったが、それよりなにより彼女の無事を……その前になんで僕は生きているんだ?
 しかしその疑問はすぐに吹き飛んだ。目の前で空科さんが倒れている。

 嘘だろ!? 間に合わなかった!?

「空科さん!」

 僕の呼びかけに応えるそぶりはなく、ぐったりとしたままだ。彼女の服は破れて、肩が爛《ただ》れていた。

「なんでぇえええ! なんでだよおおおお!」

 役目を終えた空はバカみたいに無音で、無機質で。それは声を潜めた嘲笑のようで。それはみんなで決めた無視のようで。ともあれ空は、青《あお》く蒼《あお》く碧《あお》く、澄ました顔をしていた。
 まるでなにごともなかったかのようにして。