華狐の嫁入り ~離婚を申し出た途端に旦那様が現れました~



 ……それが、ちょうど一年前の今日のこと。
 あれよあれよと芹香は屋敷へと招き入れられ、予想だにしていないほどの歓待を受けた。
 上等な部屋を当てがわれ、上等な絹の着物や装飾品に加え毎日の食事も豪奢なもので、これまで貧しい暮らしを強いられてきた芹香は戸惑うばかり。

 その日にわかったのは、屋敷に暮らしているのは出迎えてくれた二人と子狐一匹だけで、少年は世津(せつ)、女性は葉奈(はな)、子狐は紫苑(しおん)ということ。人間かと思った二人の頭には、三角形のふさふさな狐の耳が生えていて、御身替わりした霊狐に仕えている身なのだという。

 さらに、村では霊狐の一族は妖狐と呼ばれて凶悪な妖として認識されていたが、それは大きな間違いだった。
 彼らからは、歪んだ気など微塵も感じさせないどころか清廉で高貴な気しか感じない。聞けば霊狐の一族は妖などではなく、神に近い神聖なる存在だと葉奈から教えられた。

 そしてその神聖なる存在の霊狐の嫁が芹香なのだと告げられたから驚きだ。
 だが、肝心の霊狐の姿はどこにもなかった。
 どこにいるのか、いつ会えるのかと聞いても二人とも言葉を濁すばかりで埒があかないため、芹香は途中から霊狐のことは頭から消し去って、ここでの暮らしを満喫することに決めたのだった。
 畑仕事をしたり、季節の手仕事をしたり。溌剌な世津と母のように穏やかで優しい葉奈と、芹香によく懐いてくれた子狐の紫苑との暮らしはこの上なく平和で幸せだった。

 ──ずっとここで暮らせたらどれほど幸せか。

 そう思うのに、時間はかからなかった。そして、時を重ねるに連れて、その思いは強くなる一方で、自覚する度に芹香の心は暗く沈んでいく。
 なぜなら、自分には彼らにこんな風によくしてもらう道理がないから。
 自分は、彼らになに一つ返せていなければ、もてなしを受ける価値もない。そんな現状に甘んじていていいはずがなかった。
 だから芹香は、聞いていた約束の一年だけと心に決めて日々を暮らしてきた。
 そして明日で約束の一年が終わる今日、芹香はとうとう離縁を申し出たのだ。

 祠に向かって叫んでも霊狐に届くかどうかなんてわからない。
 だけど叫ばずにはいられなかった。

「霊狐さま! 今日でちょうどお約束の一年となります。 明日までにお姿をお見せ下さらないようでしたら、わたくし芹香は離縁させて頂きとうございます!」
「──それは困る」

 突然降ってきた聞いたことのない男性の声に、万感の思いで振り向いた芹香はきょとんと目を丸くする。
 確かに後ろから聞こえてきたはずなのに、そこには見知った世津と葉奈、そして紫苑しかいない。

「い、今……声が、したわよね……?」

 尋ねるが、二人は気まずそうに目くばせするだけで煮え切らない。
 そんな二人の態度にも、芹香は腹の底から沸々と怒りのような熱を持った感情が沸いてくるのを感じた。

 もう一年……、そう、もう一年だ。

 子狐だった紫苑はいつの間にか芹香の背丈まで成長した。それだけの月日が流れたのだ。
 なのに未だに姿を見せない霊狐にも、なに一つ教えてくれない二人にもやるせない思いで一杯だった。

 ぐっと拳を握りしめた時、「ここだ」ともう一度声がした。
 今度ははっきりと耳に届いた声を辿った先は──……
 
「紫苑……?」と芹香は目を(しばたた)かせる。

 そんな芹香を紫苑はまっすぐ見つめていた。その美しい顔をこちらに向けて。ゆらゆらと輝く琥珀色の瞳に吸い込まれそうになった時、紫苑の姿が消えた。

「えっ」

 否、姿が変わったのだ。それも一瞬で。さっきまで狐の紫苑がいた場所には、世津と葉奈と同じ狐耳のついた人の姿の美青年がいた。白金の長髪と琥珀色の瞳は、紫苑のそれと全く同じで。

「えっ……し、紫苑? 人の姿になれたの……? それに言葉も……」

 今聞かなくてはいけないことは、もっと別のことなのに、芹香の口からはそんなどうでもいい質問しか出てこない。

 ま、まさか。
 いや、まさかまさか、そんな……。

 戸惑う芹香に数歩近づいた紫苑は、「俺が代替わりした霊狐だ。名乗りはしなかったが、ずっと芹香のそばにいた」だから離縁はできないと、とても真面目な顔で言い放った。

「紫苑が……霊狐さま……?」

 あまりの衝撃に、芹香は眩暈がした。
 あの日、鳥居をくぐった先で子狐の紫苑に出会ってこの方、ずっと一緒に過ごしてきたのだ。

 ──そう、寝所さえも共にしていた。

 今日の朝も、紫苑のぬくもりを感じながら目を覚ました。そのぬくもりが今日で最後になるかもしれないと思い、昨夜は芹香から紫苑の体に腕を巻きつけて抱きしめるようにして眠った。
 それだけじゃない。

 暇さえあれば膝に乗ってくる子狐を撫で、毛づくろいをし、そして抱きしめた。そのふさふさの毛並みと温かさにどれほど癒されたか。徐々に大きくなってもそれは変わらなかった。
 すり寄ってくれば受け入れ、抱きしめてふさふさの毛並みを撫でてやった。芹香が落ち込んでいる時には静かに隣にいて、手を伸ばせば嫌がらずに触らせてくれた。時には慰めるように、手を、そして顔をぺろりと舐められたこともある。
 その凛とした美しい顔に、自分から頬を摺り寄せることもしばしばあった。

 なのに、紫苑が自分と同じか、もしくは年上の異性で、さらに自分の伴侶である霊狐だったなんて──。
 お願いだから、誰か嘘だと言って。

「な……なんて、こと……」

 忘れるほどには時間の経っていない記憶の数々が脳裡を過ぎていき、込み上げる羞恥に耐えきれなくなった芹香は、いよいよその場に膝から頽れそうになった。

「芹香っ──」

 それを紫苑が手を伸ばして己の胸に抱える。遠くなる意識の中、ふんわりと香った陽だまりの香りは狐だった紫苑のそれと全く同じで。

 ──あぁ、この青年が間違いなくあの紫苑なのだと、芹香は理解した。




 目が覚めた芹香は、見慣れた板張りの天井に安堵の息を吐く。
 それも束の間、さっきまでの出来事を思い出して勢いよく起き上がった。

「芹香!」
「ひゃあっ!」

 人の姿をした紫苑がすぐそばにいて、芹香は悲鳴をあげてすぐさま布団に潜り込んだ。頭まですっぽりと覆ってうずくまる。恥ずかしさで顔が沸騰しそうだった。

 紫苑は、出会ってから喋ることもせずずっと狐だった。世津と葉奈から、霊狐の一族にはこのように狐の姿のままのものもいるのだと教えられていた。だから芹香は特に疑うこともなく、そばを離れない懐っこい紫苑をそれはそれは可愛がってきた。

 芹香が座っていると膝の上に乗り、どこかへ行けば後をついてきて。
 当然のように眠る時も一緒だった。

 だけど、それはあくまでも可愛い飼い猫──ならぬ飼い狐のような扱いであって……。

 ──信じられない……!

 これまでのあれこれを、狐ではなく人の姿の霊狐で想像してしまい、芹香は叫びたくなった。

「──芹香さま! 今の悲鳴はなにごとですか⁉」

 部屋の襖が無遠慮に開き、世津が駆けてきた。その後に、ゆっくりとした動作で葉奈が盆を手に入ってきた。

「世津、そんなに大声を立てては芹香さまのお耳に障りますよ。霊狐さまがご一緒なんですから、大丈夫に決まっているでしょう?」

 布団越しに聞こえる二人のやり取りに、心がほんの少し冷静さを取り戻すも、芹香は布団からは出ようとしない。恥ずかしすぎて、どんな顔で相対すればいいのかまったくもってわからない。

「霊狐さま、これは一体どういう状況です?」

 こんもりとした布団の山を見て、世津が紫苑に問いかけた。

「世津、芹香さまにもいろいろと思うところがおありなんですよ」

 問われた紫苑の代わりに答えたのは葉奈。紫苑は布団の山をただじっと見つめることしかできずにいた。するとその中からくぐもった声で芹香が叫ぶ。

「も、もうっ、紫苑の顔なんか見たくない! 出て行って!」
「……せ、芹香」

 聞こえてきた紫苑の声音に動揺の色を感じ取り、芹香の胸がきしむ。
 本心だけど、本心じゃない。
 だけど今はとてもじゃないけど、紫苑と顔を合わせたくなかったし、冷静に話を聞ける状態でもなかった芹香は、紫苑を拒絶した。

「──ということなので、霊狐さまはご退室願います。世津も」
「えぇー! どうしてぼくまで? 出てけって言われたのは霊狐さまだけだよ?」

 芹香に拒まれた事実を世津から追い打ちをかけられて気落ちした紫苑は、肩をがっくりと落としてしぶしぶ部屋から出ていく。

「世津は霊狐さまのお付きなんですから、ちゃんと役目を果たしなさい」
「ちぇ」

 ややしてトンと襖の閉まる音がして静かになり、芹香はそろりそろりと布団から顔を覗かせた。部屋に葉奈しかいないのを確認すると、芹香は布団を剥いで居住まいをただした。少し眉を下げて微笑む葉奈に少しだけ申し訳なさを感じつつも、芹香は口を真一文字に結ぶ。すると葉奈は、深々と頭を下げた。

「芹香さまを騙すような真似をして申し訳ございませんでした」
「やだ、頭を上げて、葉奈」

 そばに近寄り、葉奈の手を取って頭を上げさせる。
 謝ってほしいわけじゃない。
 葉奈も世津も……紫苑も、理由もなしにこんなことをするような人だとは思えなかった。ただ、ちゃんと納得できる理由を話してほしい、とは思う。
 芹香は、葉奈の言葉を待った。

「紫苑さまが霊狐さまだと黙っていたことは弁解の余地もございませんが……、この一年間、芹香さまと過ごした日々と私たちの気持ちに嘘偽りはありません。どうかそれだけはご理解くださいませんか」
「それは、理解してるつもりよ……。で、でも……っ、葉奈ならわかってくれるでしょ⁉ 私ずっと……ずーっと紫苑と一緒だったのよ⁉」

 気持ちがまた高ぶり、ずっとよ!と何度も繰り返して強調せずにはいられない。

「あぁ! 私もうお嫁にいけない!」

 顔を両手で覆った芹香に、「芹香さまはもう嫁がれているので大丈夫ですよ」と葉奈が苦笑する。

「あ、そうだった。……って葉奈、冷静な突っ込みはやめて」

 冷めた目で葉奈を見遣るが、葉奈は気にも留めない様子で言葉をつなぐ。

「芹香さまのお気持ちはお察ししますが……霊狐さまは、疚しいお気持ちで芹香さまのおそばにいたわけでは決してありません、ということだけはお伝えしておきます。黙っていた理由については、霊狐さまご本人の口から直接お聞きになるのがよろしいかと」
「うん……、わかった。そうする」
「ありがとうございます。──お腹が空いているんじゃありませんか? 去年仕込んだ梅で粥を作ってきたんですよ。冷めないうちに召し上がってください」

 傍らに置いてあった盆をすっと差し出し、土鍋の蓋が開けられる。梅干しの酸味と米の甘い匂いがふわりと鼻をかすめていった。去年の春の終わり、庭の梅の木から取れた梅の実は、半分は梅シロップにして残りの半分を梅干しにしたのだ。
 つまようじで一粒一粒へたを取り除き、丁寧に洗って漬けたそれは真っ赤でしわしわで美味しい梅干しになってくれた。
 酸味に刺激され、じゅわりと唾が滲みでる。

「美味しそう!」
「一緒に漬けた赤紫蘇も入れてありますよ」

 お盆ごと膝の上に乗せて、芹香は匙を手に取り粥を口に運ぶ。適度な塩気と酸味とに食欲を刺激され、食べる手が止まらなくなる。

「うーん、美味しい。この赤紫蘇がまた癖になるしょっぱさ」

 気付けば気分はすっかり上を向いていて、我ながら単純だなと呆れる芹香だった。


 翌朝、朝餉を済ませてようやく自室から出た芹香は、縁側に腰かけて空を見上げていた。
 そうすれば、きっと紫苑が姿を現すだろうと思って。

「──座ったらどうですか、霊狐さま?」

 案の定どこからともなく視界の端に映ったその人に、芹香は振り向かずに声をかけると、おずおずと近づいて芹香の隣に腰を下ろした。ひだまりの風がふわりとそよいだ。その馴染みのある香りは、落ち着くような胸を騒がせるような、なんとも言いがたい心地を芹香に与えた。

 隣に座った青年を芹香は見上げる。惜しげもなく風に靡く白金の髪は、最高級の絹糸のように細く艶やかに輝いていてとても眩しい。少し上を向いた目尻は狐姿の時のキリっとした美しさを滲ませていて、どこからどう見てもあの狐の紫苑だと芹香は腹落ちする。
 芹香の言葉を受けた紫苑は、ゆっくりとその琥珀色の瞳に芹香を映すと口を開いた。

「ずっと黙っていて、すまなかった」

 紫苑の端正な顔が苦し気に歪む。

「代替わりしたばかりの霊狐は、先代から受け継いだ力が強すぎて姿が一時的に子どもに戻るんだが、その力を自身に馴染ませて元の姿に戻るためには、(つがい)である華狐の持つ強い霊力が必要なんだ」
「霊力……」

 初耳ばかりの情報に頭が追い付かない。そもそも華狐にそんな役割や霊力なんてものがあることを、芹香はというより村の誰しも知らなかった。それどころか、華狐はそもそも生贄として認識されていたのだから、昔からの伝承がいかに当てにならないかがよくわかる。

「俺も例外なく子狐になり、華狐である芹香を迎えるにあたって、最初は一年だけ芹香の助けを借りて、力が安定したら芹香は村に帰そうと思っていた」

 だから子狐が霊狐であることも、華狐の役割についても話さなかったのだと言った。世津と葉奈に口留めしたのもすべては自分の決めたことだから、彼らを責めないで欲しいとも。
 芹香は、手元に視線を落とす紫苑の横顔をじっと見つめている。

「だけど、芹香のそばで過ごす日々は心地よくて、離れがたくなってしまった」

 それは自分も同じだと、芹香は胸の裡でつぶやく。

「かと言って、どう切り出せばいいのかわからなくなって……、今更本当のことを言ったら芹香が呆れて帰ってしまうのではと、情けなくも今の今まで言い出せずにいたんだ」

 紫苑の視線が、芹香に向けられる。
 なにもかもを見通すような琥珀色をした瞳に見つめられて、芹香の胸は高鳴った。これまで毎日のように見てきた紫苑の瞳なのに、こんなに苦し気に揺れる瞳は知らない。

 まるで、紫苑が自分にいなくなってほしくないと、そばにいて欲しいと言っているように聞こえて、芹香は着物の衿合わせに指先をひっかけるようにして胸元を握りしめた。
 もう片方の手に、紫苑の手がそっと触れる。線は細いが大きな手は男性のそれで、芹香の身体がびくりと跳ねた。
 紫苑は芹香の反応に一瞬身を固くしたが、そのまま芹香の手を取りまっすぐ見つめる。

 中庭では、木々に止まった鳥たちのさえずりが響いて時折風が葉を揺らす音がするくらいで他に音はない。この場所で、狐の紫苑と過ごす穏やかな時間は芹香の大好きなひと時でもあった。それらの時間がつぎつぎと浮かんできて、触れてくる紫苑を拒めないでいた。

「どうか、俺のそばにいてほしい」

 愛の告白のようにも取れる懇願に、体温が上がっていき顔が火照った。
 しかし、

「霊狐の華狐として……、正式に俺と番になってほしい」

 ──霊狐の華狐として。

 その言葉を聞いた瞬間、昇り詰めていた熱が瞬時に冷めていく。
 紫苑は霊狐として華狐の力が必要だと言っているのだと、芹香は冷静に受け止める。

 お前なんかいらないと言われなくてよかったと安堵しているのに、心の底に流れる冷たい空気はなんだろう。
 考えてもわからない芹香は、見て見ぬふりをして蓋をした。
 どうせ村に帰ったところで、自分を待ってくれている人も歓迎してくれる人もいないのだから、自分を必要としてくれる紫苑のそばにいたい。それはまぎれもない自分の願望だ。
 芹香は、紫苑を見てゆっくりと頷く。

「わかりました。華狐としての役目を果たします」




 芹香が首を縦に振ったその日には、正式な婚儀の日取りが決められて世津も葉奈もなんだか忙しそうな日が続いた。
 そして、屋敷には霊狐の一族だという里の者たちが入れ替わり立ち代わりお祝いにやってきては、芹香と紫苑に捧げ物を置いていった。この一年、世津と葉奈と紫苑以外の狐を見たことなど一度たりともなかったというのに。
 驚きを隠せない芹香に、紫苑は「屋敷には近づくなと命じていたんだ」と気まずそうな顔をした。
 どこまでも用意周到なそれには、温厚な芹香もさすがに呆れてしまった。

 突然華狐として見知らぬところに連れてこられる人間を慮っての行動とわかった今でも、もうちょっと違うやり方があったのではと思わずにはいられない。後の祭りだが。

「世津、もう門を閉めてくれ」

 昼を少し過ぎたころ、紫苑が世津にそう命じた。

「え? でもまだ空は明るいですよ」と世津は首をかしげる。
「こうひっきりなしに来客があると少しも気が休まらない。芹香も疲れてしまうだろ」
「私なら大丈夫よ、紫苑。みんなとお話するのはとっても楽しいもの」

 芹香は目を細めて微笑んだ。挨拶に訪れる狐たちはみんな気さくで、突然あらわれた新参者の芹香にもとても優しくしてくれる。それに中には芹香の知らない紫苑のことも話してくれる狐もいて、楽しいのは本当だった。

「違うのですよ芹香さま。霊狐さまは、芹香さまとゆっくり過ごされたいのです」
「え? そう、なの?」

 確認の意を込めて紫苑を見遣ると、しぶしぶといった態度で「そうだ」と肯定の言葉が返ってきた。世津も葉奈も、そんな紫苑の姿に笑いが止まらないらしく肩を震わせていた。なんだか言わせてしまった感が否めなかったが、芹香は紫苑のその心遣いが嬉しくて「じゃぁ、午後は紫苑の毛づくろいしてあげるわ」と笑った。

 一時は紫苑を霊狐さまと呼び敬語を使った芹香だったが、紫苑からこれまで通りに話してほしいと頼まれて狐の紫苑の時と同じ言葉遣いで接している。正直、まだ人の姿の紫苑には慣れなくて、不意に触れられたりするとドキッとする。
 でも、怖いとか嫌いとか嫌悪感を抱くことはない。これまで、同年代の男性と接する機会がからっきしなかったのもあり、どう接していいのか戸惑いの方が大きい。

 そんな時は、紫苑に狐になってもらうのが一番簡単で気楽だった。

 芹香は、縁側に寝そべる紫苑の背中をイノシシの毛で作った紫苑専用のブラシで梳かしていく。他の狐たちと会って気付いたことは、紫苑の毛並みは特別だということだった。
 狐にしては細く長めの毛だと思っていたが、比べてみれば歴然の差だった。
 他の狐たちは割と太めの毛で短めで体の線がはっきりしているが、紫苑のそれはどちらかというとふわふわしているせいで輪郭は曖昧だ。それがまた高貴な雰囲気を醸し出して紫苑を美しく魅せている。

 優しく、絡まないように、芹香が丁寧にブラシを頭から首を通り背中まで撫でつけるように何度も梳いていると、紫苑は気持ちよさそうに目を閉じて床に顎をぴたりとつけて寝てしまった。

「あらあら、お疲れだったのは霊狐さまの方だったみたいですね」

 様子を見に来た葉奈と一緒にくすりと笑う。

「霊狐さまったら、芹香さまが居ないとよく眠れないと愚痴っていたんですよ」
「そ、それは……」

 思いもよらぬ所を突かれて、芹香はたじろぐ。それを言われれば、芹香だってそうだった。今まであったぬくもりが突然なくなったのだから、当然寂しさはある。だけど、それとこれとはまったくの別問題。
 紫苑が青年だと知ってしまった今、いくら狐の姿で寝ると言われても今度は芹香が眠れなくなってしまうのは目に見えている。

「まぁ、それももう少しの辛抱ですよって言っているんですけどね……」
「もう少しの辛抱……?」

 意味が分からずに聞き返すと、葉奈は「まぁまぁ」と口に手をやった。葉奈はとても育ちがよさそうだと芹香は前から思っていた。それとなく聞いてもいつもはぐらかされてしまう所も、淑女にしか見えない。

「婚儀を終えれば正式な番になるのですから、寝所を共にするのは当然では?」
「し、寝所!」

 石のように固まる芹香を尻目に、葉奈は気持ちよさそうに眠る紫苑を見て「それにしてもよく眠っていらっしゃるわ」としみじみとつぶやいた。

「よほど芹香さまのおそばが心地いいんでしょうね」
「そうなのかなぁ……」

 紫苑は、華狐なら誰でもいいんじゃないのだろうか……。
 自分以外の誰かが華狐に選ばれたとしても、紫苑はきっとその人のそばを心地よく感じるような気がして気分が暗くなった。そんなこと、たらればの話しでしかないのに。

「そうですよ。でなければ、芹香さまはきっと今頃村にお帰りになっていたことでしょう」

 実のところ、そうならずに済んでよかったと一番安堵しているのは他ならぬ自分ではないだろうか、と芹香は思う。
 あのまま紫苑が姿を見せなければ、きっと自分は用済みだと九宝嶽を下りて村に帰っていただろう。
 だけどどうだろうか。
 あの村に、自分の居場所などない。両親が生きていた頃は幸せで、芹香の周りはとても明るかったが、両親の死を境に全てが一転してしまい、いい思い出など一つもなかった。叔父夫婦が本家の当主に成り代わり、村の人たちも叔父夫婦の顔色を伺って芹香には冷たい視線と態度をとるようになってしまったから。

 あの村での辛い出来事を思い出し、もしまた帰ることになっていたら自分はどうなっていたのかと考えただけで身体が震えた。
 すると、いつの間にか目を覚ました紫苑が正座する芹香の肩に顎を乗せてきた。ふわふわな毛が、首や頬をくすぐる。その紫苑の狐姿の向こうで葉奈が一礼してどこかに去っていくのを視界に捉えつつ、そのこそばゆさに抗えずに首をすくめた。

「なにか、辛いことでもあったのか」
「し、おん?」
「芹香の霊力が不安定だ」

 そんなことまでわかるのか、と芹香は内心で驚くも、肩に乗った紫苑の首にそっと腕をまわした。

「ちょっと、昔のことを思い出してしまっただけ」

 モフモフを堪能していると、逆立った心があっという間に凪いで行く。

「抱きしめても、いいだろうか」
「え? ……えぇえっ⁉」

 一瞬にして触れていたモフモフは、上質な絹の羽織へと代わり、自分が腕に紫苑を抱いていたはずなのにいつの間にか紫苑の腕の中にすっぽりと包み込まれていた。
 いいなんて一言も言っていないのに。
 突然の出来事に、芹香の胸が騒ぎ始める。
 今自分を抱きしめているのは、紫苑だけど芹香の知る狐の紫苑じゃない。
 そのことが、芹香を落ち着かない気持ちにさせるのだ。

「し、紫苑……」

 顔に熱が集まり、たまらず両手で紫苑の胸を押し返したが、びくともしなかった。それどころか、背中にまわった腕に力が増してしまう。

「心の色は霊力に現れるから、芹香の心が時折苦しんでることは気付いていた」
「……そうなの……。紫苑には隠し事ができないわね」
「気付いても、そばにいることしか出来ないのがやるせなかったが、これからは遠慮なく抱きしめられる」

 確かに、ここに来てからも、両親の死や村での辛い出来事を思い出して、悲しみに暮れていたことは何度かあった。思い返せば、そんな時には決まって紫苑がそばにいてくれた。
 紫苑がそれに気付いて寄り添ってくれていたと知って、胸に温かなものが広がっていく。

「気持ちは嬉しいけど……まだ人の姿の紫苑に慣れてないのよ私」

 だからお手柔らかにお願いね、と言えば「いやだ」と駄々っ子のような言葉が返ってきた。

「妻を慰めるのは夫の努めだ。悲しいときや辛いときは、どうか俺を頼ってほしい」

 夫の優しさを、どうして拒めようか。
 例えそれが、義務感からくる優しさだとしても構わない。
 芹香は紫苑の腕の中で、こくりと頷いた。




 とても平和な日々が続いていた。
 出禁が解かれた今、霊狐の屋敷にはちらほらと人の、狐の出入りがあり、芹香も顔見知りが増えて交流を持っている。山菜をおすそ分けしてくれたり、煮物やお菓子を作ったからと包んでくれる人たちもいて、以前よりにぎやかになった。

「芹香、それはなんだ?」
「あ、紫苑。これはこしあぶらっていう山菜よ。てんぷらにするととっても美味しいの」

 つい今しがたもらった山菜の籠を紫苑が覗き込んで目を眇めた。

「また弥助か」
「そうよ。弥助さんは山菜採り名人ね」

 籠一杯の山菜を、惜しげもなく分けてくれる弥助は、紫苑よりも年若く屈託のない笑顔が好印象の気のいい少年だ。
 親からの言い付けで山菜を採りに行っており、たくさん採れるとわざわざ屋敷に届けにきてくれる。この前はわらび、その前はフキノトウだった。

「わっ」

 急に後ろから紫苑が芹香を抱きしめてきて、持っていた籠を落としそうになる。頭に紫苑が頬ずりすると、いつものひだまりの香りに包まれた。

「……面白くない」

 あれから──一年が経って紫苑が霊狐だと知った日から、紫苑の芹香への態度がなんだか甘い。まぁ、狐姿の時には一緒の布団で寝ていたのを思えば、なにも変わらないのかもしれないが、それでも芹香はどう反応していいのか困ってしまう。
 一週間後の婚儀を済ませれば、名実ともに芹香は紫苑と夫婦になり、寝所もまた同じになるのだろう。そして、おそらく、初夜を迎える。
 考えただけで、頬が熱くなる。
 婚儀が近づくにつれてどきどきは酷くなる一方だ。
 そこに加えて紫苑の甘い態度ときて、芹香は困惑を隠せない。
 こうして抱きしめてきたり、じっと見つめてきたり、頬に触れてきたり……特に二人きりの時はことさら甘い。
 芹香が恥ずかしいと言っても「夫婦になるのだから」と引いてくれない。
 芹香も、華狐として紫苑のそばにいることを了承した手前、それを引き合いに出されてしまえば強くは出れないので甘んじていた。

 それに、やはり人のぬくもりというのは、心も温かくしてくれる。

 両親亡き後、誰一人として芹香に優しい言葉をかけてくれた人は居らず、人のぬくもりとは無縁の環境にいた芹香にとって、葉奈や世津、そして紫苑との触れあいはこの上ない幸福をもたらしてくれた。

「面白くないって、なにが?」
「弥助は、どうも芹香に会いに来ている気がする」
「そんなことは……」
「芹香は、俺の華狐なのに」

 まるでやきもちを焼いているように聞こえて、喜びを感じそうになる自分を芹香は内心で窘めた。
 紫苑は、芹香のそばが落ち着けると言ってくれたが、それだけだ。きっと、それ以下でもそれ以上でもない。
 芹香はなんとなく、霊狐にとって華狐という存在がもともとそう(・・)なのではないかと思い始めていた。
 これまで華狐に選ばれた娘が帰ってきたことはないと言われているのも、つまりはそういうことなのだろう。端から霊力の相性がよい娘が選ばれて、番うように仕向けられている気がしてならない。

 ──だって、自分には紫苑にそう感じてもらえるような特別なものをなに一つ持っていないから。

 だから、紫苑が自分といて心地よいと感じるのは、いわば自然の摂理のようなもので、芹香だから(・・・・・)ではないと、勘違いをしてはならないと自分に言い聞かせていた。

「違うわ紫苑。みんな、私が紫苑の華狐だからよくしてくれるの。みんなと話してると、紫苑が慕われてるのがよくわかる」

 会いにきた狐たちは、口々に紫苑のことを褒めちぎっていた。
 さっき来た弥助も、きょろきょろと紫苑の姿を探していたし、結局最後まで会えなかったため肩を落として帰っていった。

「……慕われてるのは、俺が先代の霊狐の息子だからだろうな」

 ふいに、紫苑の声音が暗くなり、芹香は振り向いた。至近距離に見えた紫苑の顔は、俯いていてどこか物思いにふけっているのか焦点の定まらない目をしていた。

「芹香の言葉を借りるなら、それこそ、俺だからではないんだ。先代の息子だから慕ってくれているんだ」

 かける言葉が見つからない。芹香はここのことをまだよく知らないから、紫苑の言うことが事実なのかそうじゃないのかまで判断がつかない。いい加減なことを言っても、紫苑の慰めにすらならないと思った。
 それくらい、紫苑の表情は暗かった。今までに見たことがないほどに。

「紫苑……」
「……ん」

 名前を呼ぶと、ようやく視線が芹香を捉えた。

「……わ、私は……、先代の霊狐さまのことは知らないけど……、紫苑の華狐になれて、その、嬉しいと思ってるよ」
「芹香」

 悲しいとも苦しいともつかない瞳が、徐々に色を取り戻していくのが見て取れてホッとしたのも束の間、美しい紫苑の顔が近づいてきた。

「あ! も、もうこんな時間! お昼の支度しなくちゃ! これ葉奈に届けてくるわねっ」

 視界一杯に紫苑が映り、それがなにを意味するのかに気付かないほど子どもでもなかった芹香は、慌てて紫苑の腕の中から逃げ出したのだった。


手紙

 婚儀まであと三日となった日の午後。
 葉奈は仕上がった打掛を取りに出かけ、紫苑は用事があると昼過ぎに出ていき、屋敷には世津と芹香しかいなかった。
 二人はいつものように縁側に腰かけて、春の暖かな陽気の中雑談に花を咲かせていた。
 そして、世津が夕飯の支度をしに台所に立った後もしばらくそこに座って美しい中庭を眺めていると、草の踏まれる音がして来客を知る。
 いつもなら、玄関で声がかかり葉奈か世津が気付いて対応するのだが、世津は台所にいるから聞こえなかったのだろう。
 おずおずとこちらを伺う人影に、芹香は「こんにちは」と声をかけた。

「は、華狐さま」

 これまで見たことのない女性だった。
 狐の耳をつけているから里のものなんだろう。芹香は笑顔で彼女を出迎える。

「あの、こ、これをお読みくださいっ」

 早足で近づいてきたと思えば、折りたたまれた簡素な紙を突き付けられるようにして渡された。芹香は、それを受け取り、中を見て息を呑んだ。

「こ、この手紙は誰から⁉」

 パッと顔を上げて聞いた芹香だったが、そこには誰もいなかった。
 さっきの女性は、一体。
 芹香はもう一度手紙に視線を落とし、一言一句違えぬように見た。

『親の死の真相が知りたければ、一人で屋敷に来い』

 書かれた言葉に、芹香の胸は異様なまでに早鐘を鳴らし始める。
 そして、気付いた時にはその手紙を握りしめ、駆けだしていた。


 芹香は無我夢中で走り、祠がある所までやってきた。
 華狐は、鳥居をくぐれば自由にこちらとあちらを行き来できると紫苑に教えられていた。
 その時には、用もなければいい思い出もない村に自分が行くことはないと思っていたから聞き流していたけれど、まさかこの鳥居をくぐる日が訪れるとは思わなかった。

 両親は、不慮の事故で死んだ。
 村の外で、妖怪の群れに出くわしてしまい、命を落とした。霊峰・九宝嶽から流れてくる霊気により守られている村の近くには、妖怪が現れることはまずなかった。だから、運が悪かった(・・・・・・)と不慮の事故とされていた。
 だが、芹香はあれが事故だとはとても思えなかった。

 ──もし、それが故意だとしたら……?

 たとえそうだとしても、真相を知ったとしても、両親は帰ってこない。衝動的に駆けだしてきてしまった芹香だったが、鳥居を前にして無駄なことだ、と理性が働き足が止まる。
 それでもやはり、知りたいと強く願う自分に背中を押されて芹香は鳥居をくぐり村へ向かうために山を下りた。

 一年ぶりの鳥居の外の九宝嶽は、相変わらず岩肌しかない殺風景だった。本来の九宝嶽は霊狐たちが住まう緑豊かな霊峰で、その自然豊かな霊狐たちの聖域を守るために結界を張り、周りからは緑もなにもない岩肌の山に見せているのだと言っていた。
 慣れない山道を駆け足で下りていくこと数刻。息も切れて汗だくの状態で芹香は村に入る。すると、芹香の姿を見た村人たちが、みな一様に目を見開き「芹香が帰ってきた……!」と驚いた。
 どういうことだ、と話しかける者もいたが芹香はかまわず走り、叔父夫婦たちの住む自身の屋敷にたどり着くと門を叩いた。まるで待っていたかのように、間を置かずに門が開いて中から叔父の亮二(りょうじ)が姿を現した。

「叔父さま、この手紙は一体……」
「……本当に生きていたとは」
「い、痛いっ」

 目の前の芹香を見て亮二は瞠目するも、すぐに険しい顔になり芹香の腕を引っ張って門の中へと引き入れた。ほぼ引きずられるようにして、連れていかれたのは客間。

「叔父さま……こ、これは……」

 部屋に入った瞬間に、床の間の壁がおかしいことに気付いた。文字の書かれた札が四方に貼られたそこは、ぐにゃりと空間が歪んでいる。なにかとてつもなくまがまがしい空気を感じて全身に鳥肌が立った。

「ついてこい」
「い、いやっ、やめてください!」

 亮二は躊躇うことなく、その歪んだ空間めがけて突き進んだ。腕を掴まれたまま、芹香も否応なく連れていかれる。そこを潜った瞬間視界が歪み平衡感覚を失う。あまりの恐ろしさと気持ち悪さに目を閉じた。
 時間にすれば、ほんの数秒。身体がずんと重みを取り戻して目を開けると、目の前には全く違う景色が広がっていた。とても広い洞窟のような場所で、頭上の一角に開いた大きな穴から日の光が差し込んでいるため中は薄暗い。慣れてきた目に写った光景に、芹香は息を呑んだ。

「ひっ」

 芹香は、洞窟の中で見たこともない妖怪に取り囲まれていた。顔は猿のように真っ赤で、虎のような手足だが尻尾はまるで蛇という不気味な恰好の妖怪たちが、芹香を見て舌なめずりする。

「いい匂いがする!」
「こりゃ美味そうだなあ」

 聞こえてきた言葉は聞き取れたが、とても人間の声とは思えない音をしていた。妖怪たちは、明らかに芹香を獲物として認識していて、あまりの恐ろしさにその場にへたり込んだ。

「──やっと来たか、華狐」

 低く、酷くしゃがれた声が洞窟に響く。
 妖怪の中から、着物を着た一人の男が現れた。その男から、さっき床の間で感じたのと同じまがまがしさを感じて身体がすくむ。
 とても、よくないもの。
 芹香は直感的にそう認識した。
 その男が芹香に近づいてきた時、亮二が間に入りそれを遮った。

「約束は守ってもらう」
「……手を煩わせおって。──連れてこい」

 しばらくして、妖怪に連れてこられたのは、叔母の道代とその娘の加代だった。その顔は酷く憔悴し、亮二の姿を見て目に涙を浮かべた。

「あなた!」
「お父さまぁっ」
「道代、加代! もう大丈夫だ。さぁ、家に帰ろう」

 そう言って二人の肩を抱いて踵を返した亮二の背中に、「まぁ待て人間」と男の声がかかる。笑いを含んだ声だが、とても低く冷ややかで亮二の足がぴたりと止まった。先ほど通ってきた歪みの前に妖怪達が立ちふさがり、亮二たちの行く手は塞がれてしまった。

「や、約束通り華狐を連れてきたのだから、もう私たちに用はないはずだ! 継ぎ人との契約を破ったらどうなるか忘れていないだろうな!」
「そんなことはわかっているさ。せっかくの縁じゃないか、最後まで見届けていくがいい」

 亮二の言葉で、芹香は状況を理解した。亮二は、この妖怪たちに妻と娘を人質に取られ、華狐の芹香を連れてくるよう命じられていたのだ。どうやってあの手紙を狐に渡すよう頼んだのかまではわからないが、なんらかの伝手を使ったのだろう。あの手紙に書かれていた文字は確かに亮二のものだったから。
 あの屋敷を出てもなお、この人たちは自分を道具として使うのかと芹香は愕然とした。

「くくく、見てみろ華狐の絶望した顔を。血のつながった叔父に売られた気持ちはどんなものだ?」

 男の鋭い視線が向けられて、芹香は身体をびくつかせる。寒気に見舞われて、自分の身体を抱きしめた。山を駆け下りてかいた汗が、洞窟の冷気と恐怖で一気に冷えたようだ。その様子を見て、男は喉を鳴らす。

 芹香の前に片膝をつき、そこで初めて男の顔がはっきりと見えた。目はまるで蛇のように瞳孔が細く、鼻は豚のようにつぶれて上を向き、口からは犬歯のような鋭い歯が覗いていた。毛に覆われた猿のような顔は、周りを囲う妖怪と同じだ。

「いい顔だ、その顔がもっと歪むさまが見たくなった。お前、霊狐の所にいればよかったものを、わざわざ自ら山を下りてくるほど親の死が気になるのか」

 その言葉に、芹香は目を見開く。さっきの話で、あの手紙は叔父が自分をおびき出すために書いた嘘だと思ったが、男は両親の死についてなにか知っているように聞こえた。

「なに、を……知っているというの……」

 これまで感じたことのないほどの恐怖や不安で、体中の血液がどくどくと波打ち、全身を駆け巡る。なのに、手足からは熱が失われて感覚がない程に冷たくなり、ますます震えが止まらない。

「俺たちは(ぬえ)という妖の一族で、霊力の高い生き物の血が好物でな」
「ぬえ……」
「美味い餌を手に入れるために、人間の願いを叶えてやることも多々あるのだ」
「餌……?」

 思考が追い付かない芹香は、鵺の言葉を繰り返すことしかできない。

「あの時も世話になったなぁ。──お前の叔父には」

 なにを、言っているのか……。
 芹香は賢明に鵺の言葉の意味を咀嚼していく。芹香が理解するよりも先に鵺は言葉を続けた。

「お前の村に、霊力の強い人間──お前と両親が居ることは知っていたが、村自体が九宝嶽から流れる霊狐の霊気で守られていて、なかなか俺たちのような下級の妖は近づけないんだ。どうしたものかと様子を伺ってたら、なんとお前の叔父から話を持ち掛けられた。お前たち家族を殺してくれ、とな」

 言葉を失っている芹香を見て、鵺は声をあげて笑った。

「お前の両親は実に美味だった。そして、あの二人よりも遥かに霊力の強いお前が早く熟れるのを今か今かと待っていたのに霊狐なぞに横取りされおって……なんと忌々しい」

 ちっと嫌悪感を露わに舌打ちをする。

「まぁよい。またこうしてお前を手に入れたのだからよしとするが」
「……う、うそ……」
「嘘ではないよなぁ、人間」

 鵺が亮二を見た。芹香もそれにつられるように叔父たちを振り返る。

「嘘ですよね? 両親を殺すために鵺と手を組んだなど、でたらめですよね⁉」

 三人は身を寄せ合い、鵺から、芹香から視線を逸らすように俯いていた。

「叔父さま、叔母さま? 嘘だと……嘘だと言ってください!!」

 洞窟内に芹香の悲痛な叫びが響き渡った。

「嘘だなんて言えないよなぁ。血の盟約を交わした以上、こいつらは俺の前で嘘はつけないんだ」

 無言を貫く亮二たちに、芹香は鵺の言葉を認めざるを得ないことを知る。
 愛する両親が事故ではなく、叔父によって鵺に差し出されたという事実がずっしりと芹香の中にのしかかった。昔から叔父たちが自分たち家族をいい風に見ていないのは感じていた。だけどまさか、殺すほど憎んでいたとは……。

「そ、んなぁ……あぁ……ああぁ……」

 ぽたり、ぽたり。
 薄暗い地面に涙が落ちて弾け、岩にしみ込んでいく。
 いくつもの黒いシミが重なり、どんどん広がっていった。

 両親は、実の弟夫婦に殺された。なんて惨い仕打ちだろうか。
 憎い。
 叔父たちが、憎くてたまらない。

 地面の黒いシミのように、芹香の心の中で憎悪が膨れていく。
 それを助長するかのように鵺が口を開いた。

「あやつは、如月の当主になりたかったんだとよ。お前の両親は、そんなことのために俺たち鵺に食われたんだ」

 ──可哀そうになぁ。

 しゃがれた声の囁きを聞いた瞬間、芹香の中でぷつりとなにかが切れた音がした。

「あああああああああぁぁぁ!」

 突如叫んだ芹香は怒りに支配され、正気を失っていた。
 芹香の体の周りを、黒い靄が覆う。
 鵺は「ほう」と目を見張り、面白そうに目を眇める。
 亮二たちはその覇気に震え、後ずさる。

 洞窟内に転がっていた無数の石ころや岩が浮き上がり、芹香の頭上で一つに集まり大きな塊を作っていく。

「ひぃっ!」
「せ、芹香! お、落ち着くんだ、私が悪かった!」

 芹香の目は曇り、虚ろに宙を見つめているだけで、亮二の声は届かない。その間にも頭上の塊は大きくなっていく。すでに芹香の体よりも大きな岩となっていた。

「華狐の霊力がこれほどとは……」

 膨れ上がる岩を見上げる鵺の顔は、歓喜に満ちていた。

「いいぞ、華狐。両親の敵を己の力で討て!」
「……ゆる……さない……!」
「──芹香!」

 塊が亮二たちめがけ動き出したとき、芹香の名を呼ぶ声が辺りに響き、意識が引き戻された。

「っ、……え?」

 自分は今、なにをしようとしていたのか、疑問が頭に浮かんだ瞬間、芹香と亮二たちの間に大量の石や岩がけたたましい音を立てて落ちてきた。

「きゃっ」
「うわぁ」

 地面に落ちて弾んだ石が亮二達にぶつかる。幸いにも芹香の方が距離があり足元に転がっただけで済んだが、それを自分が作り、亮二たちにぶつけようと……殺そうとした自分の恐ろしさに、芹香はその場に(くずお)れた。
 それを、鵺が近寄り腕に抱き抱え、声のした方へ睨みを効かせる。周りにいた他の鵺も一様に同じ方へと向き直り犬歯をむき出しにして威嚇を始めた。

「これはこれは! 九宝嶽の気高き霊獣、霊狐さまではございませんか」

 仰々しいセリフを吐き、鵺が紫苑に(こうべ)を垂れる。その腕に腰を抱かれた芹香は、どうにか顔をもたげ、紫苑を視界に捉えた。白金の髪を後ろで結んで、いつもきちんとしている着物はところどころよれて乱れていた。
 黙っていなくなった自分を探し、助けに来てくれたのだろう。
 まだ呆然とする思考の中で嬉しさと申し訳なさとが混ざりあう。

「しお……ん……、ああっ!」
「芹香!」

 首に刺さるような痛みが走った。鵺が芹香の首に噛みついたのだ。
 どくどくと脈がうねる。血が、吸われている。そう気付き、そのおぞましさに芹香の目から涙が溢れる。

「い、いやあっ」

 しかしそれも一瞬で、鵺は芹香を抱えたまま飛びのいて後退した。鵺の居た場所は、衝撃を受けたように地面がえぐれていた。紫苑が鵺に向けて攻撃したようだ。
 ずきずきと痛む首に添えた手は、血で真っ赤に濡れた。
 ふと、体の中にあったものがないことに芹香は気付く。力がわかず、鵺の腕の中で項垂れ、静かに涙を流しているしかできなかった。

「なんと、美味い血だ……! ほんの少し吸っただけで力が泉のようにみなぎってくる!」

 鵺の高笑いが響き、紫苑の眉間に深い皺が刻まれる。

「許さん!」
「おっと、それ以上なにかするなら、華狐のこの首をへし折りますよ」

 言いながら、鵺は芹香の首に腕をかける。顎に腕が食い込んで、息ができず芹香の顔が苦しさに歪んだ。

「こちらは死んでも血が吸えれば満足ですからね。──それに、この華狐が死んだところで、霊狐さまが望めば新たな華狐が生まれるのだから一人くらい譲ってくれたって構わないでしょう?」

 鵺の話を聞いて、芹香は「そうなのか」と切なくも安堵した。ここに連れてこられてから、漠然と死を覚悟していた芹香は、華狐としての役目を全うできなかったことだけが心残りに感じていたからだ。紫苑を始め、葉奈や世津、一族のみんなに対して申し訳ない気持ちで一杯だった。
 だけど、自分が死んでも代わりがいるのなら……。
 霊狐の華狐は自分である必要がないのだから、紫苑たちが困ることはないだろう。

「鵺よ、よく見てみろ。芹香に霊力はもう残っていないぞ」

 鵺が、腕の中でぐったりとする芹香を見て、「ど、どういうことだ……」と動揺した。

「先ほどの怒りによる暴走で大半の霊力を放出したのだろう。わずかな残りもお前に吸われてしまった」

 やはり、さっきなにかがなくなったと感じたのは間違いではなかったのだ、と芹香は理解する。
 霊力を失った自分は、もはや華狐として使い物にならないではないか。

「……鵺……私を、殺して……」

 苦痛に歪んだ芹香の目から、涙が零れる。
 これ以上、自分のことで紫苑たちの手を煩わせるわけにはいかないと思った。

「芹香……な、ぜ……」

 驚愕に目を瞠る紫苑の顔は、薄暗がりの中では芹香には見えなかった。

「芹香は俺の華狐だ、死なせはしない!」
「だって……、霊力のない華狐なんて役に立てないから……」

 紫苑はあの日、芹香に華狐として(・・・・・)そばにいてほしいと言った。ならば、その“資格”を失った自分は、紫苑の隣にはいられない。あの、ひだまりのようなあたたかな場所に帰れないのなら、自分にはもう生きていく意味もないと、芹香は絶望する。

「紫苑が新しい華狐を迎えるためにも、私がいたら困るでしょう」

 もういっそのこと鵺の餌になり、両親と同じ道を辿ればいい。
 そうすれば、楽になれる……。これ以上、大切なものを失わずに済む。

 唯一のよりどころだった華狐としての力もなくし、帰る場所も失った芹香は、せめて最期くらい誰の迷惑にもならずに逝きたいと考えた。

「ほかの華狐など要らない! 俺は、芹香を迎えにきた」
「っ……紫苑……」

 紫苑の言葉に、これ以上ないほどの喜びが胸の裡に込み上げてくるのを抑えられない。嬉しさに、芹香の目からはとめどなく涙が溢れて頬を伝った。

 だめなのに。
 私じゃ、もう紫苑の力になれないのに。
 これ以上、優しさを与えないでほしい……。
 縋ってしまいたくなる。

「──やあっ」

 突如、芹香の身体が宙高く放り投げられて放物線を描いた。

「芹香!」

 瞬時に反応した紫苑が、空を駆ける。
 その隙に、鵺が「走れ!」と叫び、洞窟内にいた鵺たちが一目散に頭上に開いた穴を目指して岩肌を駆けのぼっていく。
 芹香を投げた鵺も、人から妖怪の姿に変えて群れに紛れてしまった。

「んっ」

 ぼふっと、芹香は無事に紫苑に受け止められ、苦しいほどにきつく抱きしめられた。芹香、芹香、と何度も名前を呼ぶ紫苑の声が、芹香の胸を痛いくらいに締め付ける。
 それと同時に、大好きなひだまりの香りがして、張りつめていた心がほぐれていく。応えるように、芹香も紫苑の名を呼びその首ったけに腕を回してしがみついた。
 もう二度と触れられないと思ったぬくもりが腕の中にある。ただそのことに安堵して、ぬくもりを噛みしめた。

「首を見せてくれ。痛むか? ほかに怪我は?」

 ゆっくりと地面に降り立ち、しがみつく芹香を優しく下ろすと、噛まれた傷跡に触れる。うっ血したそこは見るからに痛々しく、首を反っただけで引きつるような痛みが走った。

「すまなかった、芹香。もっと早く助けていればこんな……」
「私は、大丈夫……。黙って村に行った私が全部悪いの……ごめんなさい。──それより鵺が」
「気にするな、洞窟の外で俺の配下たちに取り囲まれているはずだ」
「紫苑、ごめんなさい……私……華狐なのに、霊力が……」
「話は後にしよう。それより先に傷の手当だ。里に帰る」

 紫苑の言葉に頷くと、体がひょいと浮いた。再び紫苑の腕に抱きかかえられたのだ。

「し、紫苑、私歩けるわ」
「飛んで帰る、行くぞ」
「──ま、待ってくれ!」

 二人の背中に亮二の声が届く。振り向けば、少し離れたところに三人の姿があった。
 怒涛の展開に、その存在をすっかり忘れていた芹香は息を呑む。言いようのない怒りがまた込み上げてくるのを必死で抑えた。
 紫苑の声がもう少し遅かったら、芹香はこの三人を殺すところだった。自分の中に、こんなにも誰かを憎く思う醜い心があることを、知らなかった。我を失い、怒りに支配されて人の命を奪おうとした自分が怖い。

「ここがどこだか知らないんだ。私たちも連れて行ってくれ」

 亮二たちの後ろに目を向けると、来た時の歪みはいつの間にかなくなっていた。鵺がいなくなったせいだろうか。この期に及んでそんな頼みをしてくる亮二たちの気が知れなかった。

「連れていく義理などない」と紫苑が冷たく言い放つ。その場の温度が一瞬で下がった。しかし亮二は立ち上がり、こちらに近寄る。

「そ、そんな! 霊狐さまというのは慈悲深い霊獣のはず!」
「妖と手を組み人を死に追いやるなどあるまじき所業。そのような者にかける慈悲など持ち合わせておらん」
「せめて娘だけでもっ! 芹香の霊力がなくなったのなら、我が娘の加代を華狐にいかがです? 娘も少しなら霊力があると鵺が言っておりましたし、芹香などより器量も、」
「黙れ! 誠に業が深い、深すぎる。そもそも、華狐は霊力の強さだけで選ばれるものではない。たとえ芹香より高い霊力を持っていたとしても、お前の娘は華狐にはなれない」

 絶句する亮二に紫苑は畳みかけるように言った。

「此度の顛末、私から村の長に伝える故、沙汰を待つのだな。──まぁ、無事に村に帰れたらの話だが」

 言い終える前に紫苑の体は芹香を抱えたまま浮遊する。洞窟内に響く亮二たちの悲痛な叫びから逃れたい一心で芹香は、ぎゅっと目を瞑り紫苑の胸に顔を寄せた。ひだまりの香りと紫苑のぬくもりに包まれ安堵した瞬間、とてつもない疲労感に襲われ気を失うように眠りについた。





 芹香は暗がりを走っていた。
 はぁはぁと息を切らしながら、家から漏れるかすかな灯りと勘を頼りに目的の場所を目指す。途中何度も足がもつれて体が地を滑り、膝や手や顔から血が滲むのも気にせず立ち上がって走った。
 村の外れにある集会所に着くと、人だかりができていた。その端にいた村人が芹香に気付くと、痛まし気に眉をしかめて首を横に振った。それが意味するところを理解した芹香は全身から血の気が引いていくのを感じて立ちすくむ。それでも、芹香は自身を奮い立たせて、その人だかりに突っ込んでいった。

『芹香だめだ! 見ない方がいい!』
『子どもがみるもんじゃねえ』

 そこにいた顔見知りの村人たちが芹香の体を抑え込む。泣きじゃくり暴れて抵抗するものだから、そのうち羽交い絞めにされてとうとう身動きが取れなくなってしまった。

『いやあっ! 離して! お父さま! お母さまぁぁ!』

 自分の目で確かめるまで、信じられるわけがなかった。信じたくなかった。
 両親が妖怪に襲われて死んだなど。

 だって、両親はほんの数刻前まで、自分と共にいたのだ。
 なのになぜ。

 その日の夕刻、いつの間にか居眠りをしていた芹香は、血相をかいた村人により揺すり起こされ、両親が村の外で遺体で見つかったと聞かされたのだった。

 駆け付けた集会所で両親の姿を見ることは叶わなかったが、その翌日火葬する前に対面が許された。おしろいを塗られて肌の色を整えられ、人形のように眠る二人に縋りついて芹香は泣き叫んだ。村人に引き剥がされて、両親との別れの儀式を終えた。

 唯一の家族だった。
 穏やかで、いつも笑顔の絶えない幸せな家族だった。

 愛する人を、愛してくれる人を失った芹香の胸にはぽっかりと穴が開き、目に映るすべてがどうでもよくなってしまった。
 両親の死も、単なる事故で運が悪かっただけ。
 悲しみは、時が癒してくれるだろうと、芹香は日々を淡々と過ごしていた。

 ──なのに、両親の死は、叔父によって謀られたものだった。

 腹の底で、黒い感情がとぐろを巻く。
 いつの間にか、芹香はあの鵺の洞窟にいた。
 そして、目の前には石の山があり、その下から人間の腕が見えた。その着物は、叔父のものと同じだった。そして、次第に赤黒い血の海がじわじわと広がっていく。

『いや……』
『──お前が殺したんだ』

 しゃがれた鵺の声が耳元で囁く。

『わ……わたしが……?』
『そうだ。これでお前も同じだ。お前の両親を殺したあいつ達と同じ、人殺しだ──』
『い……いやあぁぁぁぁぁぁ!』

「……──芹香、しっかりしろ、芹香!」

 ハッと目を開けた芹香は、とっさに辺りを見回した。
 さっきまでとは違う、明るい室内とすぐそばに紫苑の姿を認め、体から力が抜けていく。けれども、体中脂汗をかき、呼吸はひどく乱れて起き上がる気力はない。

「紫苑……」
「もう大丈夫だ」

 布団の中にいる芹香を紫苑が覗き込んで、額や頬についた玉のような汗を手拭いで優しく拭いてくれた。

「私……」

 瞼が焼けるように熱くなって、目尻から涙が零れていく。

「私、怖い……、人を……人を殺すところだったっ」

 紫苑が来てくれなかったら、自分は間違いなくあの岩の塊を亮二たちにぶつけていた。あの時込み上げてきた憎しみは、確かに殺意となって芹香を動かした。

「芹香は誰ひとり殺してなどいない」
「でもっ」

 恐ろしさに震える身体を、紫苑がかき抱いた。上半身を半ば強引に起こされて、芹香の身体は紫苑の腕の中に閉じ込められる。

「両親の仇なのだから、芹香があの者たちを殺したいほど憎むのは当然のこと。憎しみは、誰の心にもあるのだから、芹香が気に病む必要はない。問題は、心に生まれた憎しみに身をゆだねてしまうこと。だが、芹香は自分の意思で岩を止めた。──それが全てだ」

 あの時止めたのが、自分の意思なのかは芹香にもわからない。だけど、力強く放たれた紫苑の言葉は、不思議と説得力を伴って芹香の中に溶けていく。

「ううっ……うう……うあぁぁ」

 殺さずに済んでよかった。
 そう、心から思えた自分に安堵して、芹香は思い切り泣いた。





 叔父と鵺の起こした事件から十日が経った。
 婚儀は芹香の心身の回復を優先して延期されていた。

 芹香は、葉奈と世津に甲斐甲斐しく世話をされて順調に回復していき、噛まれた首の傷も塞がって痛みももうない。
 芹香が療養している間も、紫苑は事件のことで忙しく屋敷を空けることが多かった。一日の中で顔を合わせるのは、朝食の時間だけという日が続いていた。

 そんなある日、久しぶりに夕食を共にした後「話がある」と言われ、芹香は紫苑を自室に招いた。座敷に向かい合って座る二人の間には、少しだけ重苦しい空気が漂っていた。
 毎日必ず朝食は一緒に取って顔を合わせていたが、こうして二人きりで話すのは久しぶりで、ほんの少し緊張しているせいだ。身の置き場がなく、視線を彷徨わせていると、紫苑が先に口を開いた。

「芹香の叔父たちと鵺の処遇が決まった」

 久しぶりに耳にしたその言葉に、芹香の体が強張る。それを見て「聞きたくなければ、無理には話さない」と紫苑が優しく言う。少し考えた後、芹香は「聞かせてほしい」と紫苑をまっすぐ見つめた。

 本当は、もう二度と考えたくなかった。だけど、両親の死を受け止めるためにも、きっと自分は聞かなければならない。自分で自分を奮い立たせ、膝の上で手を握りしめて紫苑の言葉に耳を傾けた。

 捕まえた鵺たちは、もう二度と人を襲わないよう血の盟約を交わさせて解放となった。血の盟約とは、お互いの血を以て交わす約束のことで、反故にすると死よりも苦しい制裁がその身に降りかかるものだという。
 亮二たちはというと、帰路の途中で妖怪に襲われて深手を負いながらもどうにか村にたどり着いたが、妖と手を組んで血縁者を殺した罪で亮二と道代は島流しとなり、娘の加代は商家の下働きに出された。
 そう紫苑から聞かされた時、芹香の心には彼らに対してなんの感情も浮かばなかった。然るべき罰を受けたなら、それ以上芹香が願うことはなにもない。

「継ぎ人の行方までは掴めなかった」

 継ぎ人、とは人と妖の間を取り持つ者のことだと教わった。国中を放ろうする商人の中にまぎれ、妖に願いを叶えてもらいたい人間と、願いを叶える代わりに対価を得たい妖の仲介をする者だという。

 五年前、亮二に鵺を紹介したのがその継ぎ人だった。さらに、霊狐の里にいる芹香に亮二からの手紙を渡した狐も、継ぎ人が関わっていた可能性が高いという。
 配下を使って継ぎ人の足取りを追っているが、まだ見つかっていないと紫苑は悔しそうに眉をしかめた。芹香は「いいの」と首を横に振る。これ以上、自分たちのような被害者が増えないことを願うばかりだ。

「いろいろと、ありがとう紫苑」

 感謝の気持ちを言葉にして伝える。芹香の思いを受け取り、紫苑は深く頷いた。

 紫苑には、感謝してもしきれない。
 紫苑は事件の後始末に奔走しながらも、芹香のことも気にかけてくれて、毎朝庭で摘んだ花を贈ってくれた。そのさりげない心遣いが、とても愛しく感じる。
 芹香はそれを栞にするために一輪ずつとって押し花にしている。

 それだけじゃない。
 霊狐として名乗る前の一年間、思えば紫苑はずっと芹香のそばにいてくれた。
 両親のことを思い出して一人悲しみに暮れているときも紫苑は静かにそばにいて、芹香が手を伸ばせばその身を摺り寄せて慰めてくれた。
 たとえそれが、受け継いだ霊力を馴染ませるためだとしても、結果として芹香の支えになったことは間違いないのだ。

「すまない芹香、辛いことを思い出させてしまったな……」

 紫苑が、申し訳なさそうに言った。それは芹香の頬を濡らす涙のせいだろう。
 芹香は、頬を伝う涙を手でごしごしと拭いながら「違うの……そうじゃないの……」と続ける。

「私……華狐として、紫苑の役にたてなくなっちゃって……ごめんなさい……」

 自分には、もう華狐としての資格がない。
 憎しみに支配されて、霊力を使い切ってしまった己の愚かさを謝った。

「だから、」
「──誰がなんと言おうが、俺の華狐は芹香しかいない」

 芹香の言葉を言わんとすることを察したように、厳しい顔つきで紫苑が言う。

「でも、私にはもう力が……」

 目の前の紫苑は、その整った顔を苦し気に歪めた。まるで傷ついたような顔をしていた。

「芹香は……ここに……俺のそばにいるのが嫌か?」

 嫌なはずがない。
 ここには、芹香が失ったものがあった。
 家族のように温かい紫苑たちと、絶えない笑顔と優しさ。同じ時を過ごす内に、いつしか彼らは芹香にとって失いたくないと思える、代えのきかない存在になっていた。

 しかし、それを素直に口にだすことはどうしても憚られた。

 浮かんでくるのは、屋敷に訪れた霊狐の一族の人たちの顔。
 みんな一心に、「霊狐を支えてくれ」と華狐の芹香(・・・・・)に願っていた。霊力を失った今、自分には紫苑を支えることはきっとできないだろう。それをわかった上で己の望みを口にするのは、裏切りではないだろうか。

 逡巡して言葉が出ないでいると、紫苑の手が伸びてきて芹香の手を包む。するりと触れる肌は滑らかで温かくて、思わず握り返したくなる。
 涙の溜まった目で見上げると、琥珀色の瞳と視線が合わさった。ふるふると揺れる視界の中でも、その瞳に悲痛な色が見て取れて苦しさが増す。
 紫苑を傷つけてしまった。

「俺の華狐は、もう芹香にしか務まらない」
「それは、どういうこと」
「霊力の高さは、二の次でしかない。一番大切なのは、霊狐と華狐が互いに心を交わすこと」
「心を、交わす……」
「想い想われ、互いに心を明け渡して初めて番が成立する。だから、いくら霊力が高い女子(おなご)がほかにいても、俺の華狐にはなれない」

 そこで、紫苑は自分を落ち着かせるように息を吐く。そして、まっすぐな瞳が芹香を射貫いた。

「なぜなら、俺の心は、もうずっと前から芹香のものだから」
「──っ」

 告げられた愛の告白に、芹香は息を呑んだ。
 洞窟で、紫苑が亮二に「お前の娘は華狐にはなれない」と言っていた理由はこれだったのだ。紫苑の想いに、芹香の胸には歓喜が込み上げてくる。

 芹香は、紫苑が霊狐だと知り、華狐としてそばにいて欲しいと乞われてから、ずっと考えていた。

 自分にとって、紫苑はどのような存在なのかと。

 鳥居をくぐって、初めて会った紫苑は小さくて可愛い子狐で、飼い猫みたいなそんな存在だった。
 あの頃の紫苑は、霊力が不安定で人の姿にはなりたくてもなれなかったんだと、後で伝えられた。葉奈と世津には、頭の中に直接話しかける念思という方法で会話ができていたみたいだけど、芹香はそれを聞くことができなかった。

 どんどん大きくなってからは、なんというか、守られてるような安心感があった。

 紫苑がいるから、安心できて温かかった。
 もちろん、葉奈と世津の存在も大きかった。
 それでも、紫苑のおかげで芹香は寂しい夜も一人にはならずに済んだ。

 離縁を申し出た日、紫苑が霊狐だと知らされた時は、驚いたし正直腹立たしさもあった。
 華狐として(・・・・・)そばにいてほしいと言われたときは、胸がずきりと痛んだ。

 けれども……、そんなことはどうでもよくなるくらい、紫苑と過ごす時間は芹香にとって大切で……芹香の心は、紫苑がそばにいるだけで満ち足りていた。

 たとえ、紫苑が望むのが自分ではなく華狐であっても、そばにいられるのなら構わないと思っていた。なのに、叔父に騙され鵺に力を吸われ、それすらも失ってしまったとき、芹香を襲ったのは、死を望んでしまうほどの絶望。

 紫苑のそばに、温かいみんなの元に帰れないのなら、いっそのこと死んでしまいたい。

 鵺に殺してと願ったのは、本心だった。

 だけど、

『ほかの華狐など要らない! 俺は、芹香を迎えにきた』

 紫苑の優しさは、いとも簡単に絶望を喜びに塗り替えてしまう。
 あのとき芹香は、自分にとって紫苑がどれほど大きな存在になっていたかを思い知ったのだ。

 あの絶望を知り、紫苑に心を明け渡された今、手にした存在を失うことなど芹香は考えられなかった。

 自分も、思いを伝えなければと思うのに、上手く言葉が出ない芹香に紫苑は優しいまなざしを向ける。

「俺の知る芹香は、いつもひたむきで、葉奈や世津たちにも優しく、感謝の気持ちを忘れない誠実で綺麗な心を持っていて……そんな芹香のそばは、霊狐の俺にいつも心の安らぎを与えてくれた」

 瞬きと共に、溜まっていた涙が落ちていく。濡れた頬を、紫苑の指がそっと拭う。細められた瞳から悲し気な色は消え、とても穏やかな表情をしていた。

「芹香が華狐だからじゃない。芹香だからそばにいたいし、そばにいてほしい」

 まっすぐな紫苑の思いは、ずたずたに傷つき疲れ果てた芹香の心を真綿のように優しく包み込んでいく。

「芹香じゃないと、だめなんだ。……──だから、俺のそばにいてくれるか?」

 穏やかに、けれども熱を孕んだ懇願に芹香は頷き、言葉を紡ぐ。

「私も、紫苑じゃなきゃ、だめ。紫苑と家族になりたい」
「芹香」

 重ねられていた紫苑の手を握り返した。途端に、もう片方の手が重なり、挟まれるようにぎゅっと閉じ込められる。
 恥ずかしさに耐えながら見上げた先には、優しさを宿した紫苑の顔があった。琥珀色の瞳に愛おし気にみつめられる。芹香のことが大切で仕方がないと訴えているのがその表情から見て取れて、胸が高鳴る。

 紫苑が自分に言葉を尽くして思いを伝えてくれたように、自分の思いを言葉でちゃんと伝えたかった。

「紫苑のことがすき。私の心も、とっくに紫苑のものだよ」

 大切なものを失う恐怖を芹香は知っていた。
 手に入れてしまえば、失う恐怖と隣り合わせになるとわかっていた。
 わかった上で、手に入れたいと思えるものが、今、この手の中にある。壊したくないから触れないのではなく、触れたいほど大切だから手を伸ばすのだ。その勇気を、芹香は紫苑からもらった。

「私を、選んでくれてありがとう、紫苑」

 笑顔でなんとか言い切ったけど、細まった目尻からは堪えきれずに涙が零れ落ちた。
 つぎの瞬間には、手を引かれて紫苑に抱きしめられ、甘く名前を呼ばれる。

「し、紫苑、苦しいよ」

 恥ずかしさを紛らすように苦笑しながら抗議する芹香の耳元で、紫苑が愛を囁いた。

 ──愛している、と。

 固まる芹香に、紫苑は何度も言葉を重ねる。

「愛しい俺のつま。もう二度と、離縁するなど言わないでくれ」

 抱きしめていた腕を緩めて、紫苑が芹香を下から覗き込む。紫苑の膝の上に半ば膝立ちの恰好になり、芹香が紫苑を見下ろす体勢になった。冗談半分、本気半分のその声音に、芹香は目を丸くして堪らず噴き出してしまう。

「笑いごとじゃない。約束してくれ、もう俺のそばから決して離れないと」

 真剣なまなざしに、胸が打たれる。

「約束するわ。この先、なにがあっても紫苑のそばから離れない。──紫苑のほうこそ覚悟して? 離縁してくれって頼まれても泣きつかれても、絶対離縁してやらないんだから」

 ふふんと茶目っ気に言うと、頬を両手で包みこまれた。まっすぐに見つめられて、芹香も見つめ返す。

「大丈夫だ。そんな日は、永遠に訪れない」

 琥珀色の瞳に見惚れているうちに芹香の視界は紫苑で一杯になり、どちらからともなく瞼を閉じると唇が重ねられた。
 甘く優しい口づけに、とてつもない幸福感が込み上げ、閉じたままの芹香の眦からは幸せの涙が溢れた。





ー終ー

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