*
とても平和な日々が続いていた。
出禁が解かれた今、霊狐の屋敷にはちらほらと人の、狐の出入りがあり、芹香も顔見知りが増えて交流を持っている。山菜をおすそ分けしてくれたり、煮物やお菓子を作ったからと包んでくれる人たちもいて、以前よりにぎやかになった。
「芹香、それはなんだ?」
「あ、紫苑。これはこしあぶらっていう山菜よ。てんぷらにするととっても美味しいの」
つい今しがたもらった山菜の籠を紫苑が覗き込んで目を眇めた。
「また弥助か」
「そうよ。弥助さんは山菜採り名人ね」
籠一杯の山菜を、惜しげもなく分けてくれる弥助は、紫苑よりも年若く屈託のない笑顔が好印象の気のいい少年だ。
親からの言い付けで山菜を採りに行っており、たくさん採れるとわざわざ屋敷に届けにきてくれる。この前はわらび、その前はフキノトウだった。
「わっ」
急に後ろから紫苑が芹香を抱きしめてきて、持っていた籠を落としそうになる。頭に紫苑が頬ずりすると、いつものひだまりの香りに包まれた。
「……面白くない」
あれから──一年が経って紫苑が霊狐だと知った日から、紫苑の芹香への態度がなんだか甘い。まぁ、狐姿の時には一緒の布団で寝ていたのを思えば、なにも変わらないのかもしれないが、それでも芹香はどう反応していいのか困ってしまう。
一週間後の婚儀を済ませれば、名実ともに芹香は紫苑と夫婦になり、寝所もまた同じになるのだろう。そして、おそらく、初夜を迎える。
考えただけで、頬が熱くなる。
婚儀が近づくにつれてどきどきは酷くなる一方だ。
そこに加えて紫苑の甘い態度ときて、芹香は困惑を隠せない。
こうして抱きしめてきたり、じっと見つめてきたり、頬に触れてきたり……特に二人きりの時はことさら甘い。
芹香が恥ずかしいと言っても「夫婦になるのだから」と引いてくれない。
芹香も、華狐として紫苑のそばにいることを了承した手前、それを引き合いに出されてしまえば強くは出れないので甘んじていた。
それに、やはり人のぬくもりというのは、心も温かくしてくれる。
両親亡き後、誰一人として芹香に優しい言葉をかけてくれた人は居らず、人のぬくもりとは無縁の環境にいた芹香にとって、葉奈や世津、そして紫苑との触れあいはこの上ない幸福をもたらしてくれた。
「面白くないって、なにが?」
「弥助は、どうも芹香に会いに来ている気がする」
「そんなことは……」
「芹香は、俺の華狐なのに」
まるでやきもちを焼いているように聞こえて、喜びを感じそうになる自分を芹香は内心で窘めた。
紫苑は、芹香のそばが落ち着けると言ってくれたが、それだけだ。きっと、それ以下でもそれ以上でもない。
芹香はなんとなく、霊狐にとって華狐という存在がもともとそうなのではないかと思い始めていた。
これまで華狐に選ばれた娘が帰ってきたことはないと言われているのも、つまりはそういうことなのだろう。端から霊力の相性がよい娘が選ばれて、番うように仕向けられている気がしてならない。
──だって、自分には紫苑にそう感じてもらえるような特別なものをなに一つ持っていないから。
だから、紫苑が自分といて心地よいと感じるのは、いわば自然の摂理のようなもので、芹香だからではないと、勘違いをしてはならないと自分に言い聞かせていた。
「違うわ紫苑。みんな、私が紫苑の華狐だからよくしてくれるの。みんなと話してると、紫苑が慕われてるのがよくわかる」
会いにきた狐たちは、口々に紫苑のことを褒めちぎっていた。
さっき来た弥助も、きょろきょろと紫苑の姿を探していたし、結局最後まで会えなかったため肩を落として帰っていった。
「……慕われてるのは、俺が先代の霊狐の息子だからだろうな」
ふいに、紫苑の声音が暗くなり、芹香は振り向いた。至近距離に見えた紫苑の顔は、俯いていてどこか物思いにふけっているのか焦点の定まらない目をしていた。
「芹香の言葉を借りるなら、それこそ、俺だからではないんだ。先代の息子だから慕ってくれているんだ」
かける言葉が見つからない。芹香はここのことをまだよく知らないから、紫苑の言うことが事実なのかそうじゃないのかまで判断がつかない。いい加減なことを言っても、紫苑の慰めにすらならないと思った。
それくらい、紫苑の表情は暗かった。今までに見たことがないほどに。
「紫苑……」
「……ん」
名前を呼ぶと、ようやく視線が芹香を捉えた。
「……わ、私は……、先代の霊狐さまのことは知らないけど……、紫苑の華狐になれて、その、嬉しいと思ってるよ」
「芹香」
悲しいとも苦しいともつかない瞳が、徐々に色を取り戻していくのが見て取れてホッとしたのも束の間、美しい紫苑の顔が近づいてきた。
「あ! も、もうこんな時間! お昼の支度しなくちゃ! これ葉奈に届けてくるわねっ」
視界一杯に紫苑が映り、それがなにを意味するのかに気付かないほど子どもでもなかった芹香は、慌てて紫苑の腕の中から逃げ出したのだった。
手紙
婚儀まであと三日となった日の午後。
葉奈は仕上がった打掛を取りに出かけ、紫苑は用事があると昼過ぎに出ていき、屋敷には世津と芹香しかいなかった。
二人はいつものように縁側に腰かけて、春の暖かな陽気の中雑談に花を咲かせていた。
そして、世津が夕飯の支度をしに台所に立った後もしばらくそこに座って美しい中庭を眺めていると、草の踏まれる音がして来客を知る。
いつもなら、玄関で声がかかり葉奈か世津が気付いて対応するのだが、世津は台所にいるから聞こえなかったのだろう。
おずおずとこちらを伺う人影に、芹香は「こんにちは」と声をかけた。
「は、華狐さま」
これまで見たことのない女性だった。
狐の耳をつけているから里のものなんだろう。芹香は笑顔で彼女を出迎える。
「あの、こ、これをお読みくださいっ」
早足で近づいてきたと思えば、折りたたまれた簡素な紙を突き付けられるようにして渡された。芹香は、それを受け取り、中を見て息を呑んだ。
「こ、この手紙は誰から⁉」
パッと顔を上げて聞いた芹香だったが、そこには誰もいなかった。
さっきの女性は、一体。
芹香はもう一度手紙に視線を落とし、一言一句違えぬように見た。
『親の死の真相が知りたければ、一人で屋敷に来い』
書かれた言葉に、芹香の胸は異様なまでに早鐘を鳴らし始める。
そして、気付いた時にはその手紙を握りしめ、駆けだしていた。
芹香は無我夢中で走り、祠がある所までやってきた。
華狐は、鳥居をくぐれば自由にこちらとあちらを行き来できると紫苑に教えられていた。
その時には、用もなければいい思い出もない村に自分が行くことはないと思っていたから聞き流していたけれど、まさかこの鳥居をくぐる日が訪れるとは思わなかった。
両親は、不慮の事故で死んだ。
村の外で、妖怪の群れに出くわしてしまい、命を落とした。霊峰・九宝嶽から流れてくる霊気により守られている村の近くには、妖怪が現れることはまずなかった。だから、運が悪かったと不慮の事故とされていた。
だが、芹香はあれが事故だとはとても思えなかった。
──もし、それが故意だとしたら……?
たとえそうだとしても、真相を知ったとしても、両親は帰ってこない。衝動的に駆けだしてきてしまった芹香だったが、鳥居を前にして無駄なことだ、と理性が働き足が止まる。
それでもやはり、知りたいと強く願う自分に背中を押されて芹香は鳥居をくぐり村へ向かうために山を下りた。
一年ぶりの鳥居の外の九宝嶽は、相変わらず岩肌しかない殺風景だった。本来の九宝嶽は霊狐たちが住まう緑豊かな霊峰で、その自然豊かな霊狐たちの聖域を守るために結界を張り、周りからは緑もなにもない岩肌の山に見せているのだと言っていた。
慣れない山道を駆け足で下りていくこと数刻。息も切れて汗だくの状態で芹香は村に入る。すると、芹香の姿を見た村人たちが、みな一様に目を見開き「芹香が帰ってきた……!」と驚いた。
どういうことだ、と話しかける者もいたが芹香はかまわず走り、叔父夫婦たちの住む自身の屋敷にたどり着くと門を叩いた。まるで待っていたかのように、間を置かずに門が開いて中から叔父の亮二が姿を現した。
「叔父さま、この手紙は一体……」
「……本当に生きていたとは」
「い、痛いっ」
目の前の芹香を見て亮二は瞠目するも、すぐに険しい顔になり芹香の腕を引っ張って門の中へと引き入れた。ほぼ引きずられるようにして、連れていかれたのは客間。
「叔父さま……こ、これは……」
部屋に入った瞬間に、床の間の壁がおかしいことに気付いた。文字の書かれた札が四方に貼られたそこは、ぐにゃりと空間が歪んでいる。なにかとてつもなくまがまがしい空気を感じて全身に鳥肌が立った。
「ついてこい」
「い、いやっ、やめてください!」
亮二は躊躇うことなく、その歪んだ空間めがけて突き進んだ。腕を掴まれたまま、芹香も否応なく連れていかれる。そこを潜った瞬間視界が歪み平衡感覚を失う。あまりの恐ろしさと気持ち悪さに目を閉じた。
時間にすれば、ほんの数秒。身体がずんと重みを取り戻して目を開けると、目の前には全く違う景色が広がっていた。とても広い洞窟のような場所で、頭上の一角に開いた大きな穴から日の光が差し込んでいるため中は薄暗い。慣れてきた目に写った光景に、芹香は息を呑んだ。
「ひっ」
芹香は、洞窟の中で見たこともない妖怪に取り囲まれていた。顔は猿のように真っ赤で、虎のような手足だが尻尾はまるで蛇という不気味な恰好の妖怪たちが、芹香を見て舌なめずりする。
「いい匂いがする!」
「こりゃ美味そうだなあ」
聞こえてきた言葉は聞き取れたが、とても人間の声とは思えない音をしていた。妖怪たちは、明らかに芹香を獲物として認識していて、あまりの恐ろしさにその場にへたり込んだ。
「──やっと来たか、華狐」
低く、酷くしゃがれた声が洞窟に響く。
妖怪の中から、着物を着た一人の男が現れた。その男から、さっき床の間で感じたのと同じまがまがしさを感じて身体がすくむ。
とても、よくないもの。
芹香は直感的にそう認識した。
その男が芹香に近づいてきた時、亮二が間に入りそれを遮った。
「約束は守ってもらう」
「……手を煩わせおって。──連れてこい」
しばらくして、妖怪に連れてこられたのは、叔母の道代とその娘の加代だった。その顔は酷く憔悴し、亮二の姿を見て目に涙を浮かべた。
「あなた!」
「お父さまぁっ」
「道代、加代! もう大丈夫だ。さぁ、家に帰ろう」
そう言って二人の肩を抱いて踵を返した亮二の背中に、「まぁ待て人間」と男の声がかかる。笑いを含んだ声だが、とても低く冷ややかで亮二の足がぴたりと止まった。先ほど通ってきた歪みの前に妖怪達が立ちふさがり、亮二たちの行く手は塞がれてしまった。
「や、約束通り華狐を連れてきたのだから、もう私たちに用はないはずだ! 継ぎ人との契約を破ったらどうなるか忘れていないだろうな!」
「そんなことはわかっているさ。せっかくの縁じゃないか、最後まで見届けていくがいい」
亮二の言葉で、芹香は状況を理解した。亮二は、この妖怪たちに妻と娘を人質に取られ、華狐の芹香を連れてくるよう命じられていたのだ。どうやってあの手紙を狐に渡すよう頼んだのかまではわからないが、なんらかの伝手を使ったのだろう。あの手紙に書かれていた文字は確かに亮二のものだったから。
あの屋敷を出てもなお、この人たちは自分を道具として使うのかと芹香は愕然とした。
「くくく、見てみろ華狐の絶望した顔を。血のつながった叔父に売られた気持ちはどんなものだ?」
男の鋭い視線が向けられて、芹香は身体をびくつかせる。寒気に見舞われて、自分の身体を抱きしめた。山を駆け下りてかいた汗が、洞窟の冷気と恐怖で一気に冷えたようだ。その様子を見て、男は喉を鳴らす。
芹香の前に片膝をつき、そこで初めて男の顔がはっきりと見えた。目はまるで蛇のように瞳孔が細く、鼻は豚のようにつぶれて上を向き、口からは犬歯のような鋭い歯が覗いていた。毛に覆われた猿のような顔は、周りを囲う妖怪と同じだ。
「いい顔だ、その顔がもっと歪むさまが見たくなった。お前、霊狐の所にいればよかったものを、わざわざ自ら山を下りてくるほど親の死が気になるのか」
その言葉に、芹香は目を見開く。さっきの話で、あの手紙は叔父が自分をおびき出すために書いた嘘だと思ったが、男は両親の死についてなにか知っているように聞こえた。
「なに、を……知っているというの……」
これまで感じたことのないほどの恐怖や不安で、体中の血液がどくどくと波打ち、全身を駆け巡る。なのに、手足からは熱が失われて感覚がない程に冷たくなり、ますます震えが止まらない。
「俺たちは鵺という妖の一族で、霊力の高い生き物の血が好物でな」
「ぬえ……」
「美味い餌を手に入れるために、人間の願いを叶えてやることも多々あるのだ」
「餌……?」
思考が追い付かない芹香は、鵺の言葉を繰り返すことしかできない。
「あの時も世話になったなぁ。──お前の叔父には」
なにを、言っているのか……。
芹香は賢明に鵺の言葉の意味を咀嚼していく。芹香が理解するよりも先に鵺は言葉を続けた。
「お前の村に、霊力の強い人間──お前と両親が居ることは知っていたが、村自体が九宝嶽から流れる霊狐の霊気で守られていて、なかなか俺たちのような下級の妖は近づけないんだ。どうしたものかと様子を伺ってたら、なんとお前の叔父から話を持ち掛けられた。お前たち家族を殺してくれ、とな」
言葉を失っている芹香を見て、鵺は声をあげて笑った。
「お前の両親は実に美味だった。そして、あの二人よりも遥かに霊力の強いお前が早く熟れるのを今か今かと待っていたのに霊狐なぞに横取りされおって……なんと忌々しい」
ちっと嫌悪感を露わに舌打ちをする。
「まぁよい。またこうしてお前を手に入れたのだからよしとするが」
「……う、うそ……」
「嘘ではないよなぁ、人間」
鵺が亮二を見た。芹香もそれにつられるように叔父たちを振り返る。
「嘘ですよね? 両親を殺すために鵺と手を組んだなど、でたらめですよね⁉」
三人は身を寄せ合い、鵺から、芹香から視線を逸らすように俯いていた。
「叔父さま、叔母さま? 嘘だと……嘘だと言ってください!!」
洞窟内に芹香の悲痛な叫びが響き渡った。
「嘘だなんて言えないよなぁ。血の盟約を交わした以上、こいつらは俺の前で嘘はつけないんだ」
無言を貫く亮二たちに、芹香は鵺の言葉を認めざるを得ないことを知る。
愛する両親が事故ではなく、叔父によって鵺に差し出されたという事実がずっしりと芹香の中にのしかかった。昔から叔父たちが自分たち家族をいい風に見ていないのは感じていた。だけどまさか、殺すほど憎んでいたとは……。
「そ、んなぁ……あぁ……ああぁ……」
ぽたり、ぽたり。
薄暗い地面に涙が落ちて弾け、岩にしみ込んでいく。
いくつもの黒いシミが重なり、どんどん広がっていった。
両親は、実の弟夫婦に殺された。なんて惨い仕打ちだろうか。
憎い。
叔父たちが、憎くてたまらない。
地面の黒いシミのように、芹香の心の中で憎悪が膨れていく。
それを助長するかのように鵺が口を開いた。
「あやつは、如月の当主になりたかったんだとよ。お前の両親は、そんなことのために俺たち鵺に食われたんだ」
──可哀そうになぁ。
しゃがれた声の囁きを聞いた瞬間、芹香の中でぷつりとなにかが切れた音がした。
「あああああああああぁぁぁ!」
突如叫んだ芹香は怒りに支配され、正気を失っていた。
芹香の体の周りを、黒い靄が覆う。
鵺は「ほう」と目を見張り、面白そうに目を眇める。
亮二たちはその覇気に震え、後ずさる。
洞窟内に転がっていた無数の石ころや岩が浮き上がり、芹香の頭上で一つに集まり大きな塊を作っていく。
「ひぃっ!」
「せ、芹香! お、落ち着くんだ、私が悪かった!」
芹香の目は曇り、虚ろに宙を見つめているだけで、亮二の声は届かない。その間にも頭上の塊は大きくなっていく。すでに芹香の体よりも大きな岩となっていた。
「華狐の霊力がこれほどとは……」
膨れ上がる岩を見上げる鵺の顔は、歓喜に満ちていた。
「いいぞ、華狐。両親の敵を己の力で討て!」
「……ゆる……さない……!」
「──芹香!」
塊が亮二たちめがけ動き出したとき、芹香の名を呼ぶ声が辺りに響き、意識が引き戻された。
「っ、……え?」
自分は今、なにをしようとしていたのか、疑問が頭に浮かんだ瞬間、芹香と亮二たちの間に大量の石や岩がけたたましい音を立てて落ちてきた。
「きゃっ」
「うわぁ」
地面に落ちて弾んだ石が亮二達にぶつかる。幸いにも芹香の方が距離があり足元に転がっただけで済んだが、それを自分が作り、亮二たちにぶつけようと……殺そうとした自分の恐ろしさに、芹香はその場に頽れた。
それを、鵺が近寄り腕に抱き抱え、声のした方へ睨みを効かせる。周りにいた他の鵺も一様に同じ方へと向き直り犬歯をむき出しにして威嚇を始めた。
「これはこれは! 九宝嶽の気高き霊獣、霊狐さまではございませんか」
仰々しいセリフを吐き、鵺が紫苑に頭を垂れる。その腕に腰を抱かれた芹香は、どうにか顔をもたげ、紫苑を視界に捉えた。白金の髪を後ろで結んで、いつもきちんとしている着物はところどころよれて乱れていた。
黙っていなくなった自分を探し、助けに来てくれたのだろう。
まだ呆然とする思考の中で嬉しさと申し訳なさとが混ざりあう。
「しお……ん……、ああっ!」
「芹香!」
首に刺さるような痛みが走った。鵺が芹香の首に噛みついたのだ。
どくどくと脈がうねる。血が、吸われている。そう気付き、そのおぞましさに芹香の目から涙が溢れる。
「い、いやあっ」
しかしそれも一瞬で、鵺は芹香を抱えたまま飛びのいて後退した。鵺の居た場所は、衝撃を受けたように地面がえぐれていた。紫苑が鵺に向けて攻撃したようだ。
ずきずきと痛む首に添えた手は、血で真っ赤に濡れた。
ふと、体の中にあったものがないことに芹香は気付く。力がわかず、鵺の腕の中で項垂れ、静かに涙を流しているしかできなかった。
「なんと、美味い血だ……! ほんの少し吸っただけで力が泉のようにみなぎってくる!」
鵺の高笑いが響き、紫苑の眉間に深い皺が刻まれる。
「許さん!」
「おっと、それ以上なにかするなら、華狐のこの首をへし折りますよ」
言いながら、鵺は芹香の首に腕をかける。顎に腕が食い込んで、息ができず芹香の顔が苦しさに歪んだ。
「こちらは死んでも血が吸えれば満足ですからね。──それに、この華狐が死んだところで、霊狐さまが望めば新たな華狐が生まれるのだから一人くらい譲ってくれたって構わないでしょう?」
鵺の話を聞いて、芹香は「そうなのか」と切なくも安堵した。ここに連れてこられてから、漠然と死を覚悟していた芹香は、華狐としての役目を全うできなかったことだけが心残りに感じていたからだ。紫苑を始め、葉奈や世津、一族のみんなに対して申し訳ない気持ちで一杯だった。
だけど、自分が死んでも代わりがいるのなら……。
霊狐の華狐は自分である必要がないのだから、紫苑たちが困ることはないだろう。
「鵺よ、よく見てみろ。芹香に霊力はもう残っていないぞ」
鵺が、腕の中でぐったりとする芹香を見て、「ど、どういうことだ……」と動揺した。
「先ほどの怒りによる暴走で大半の霊力を放出したのだろう。わずかな残りもお前に吸われてしまった」
やはり、さっきなにかがなくなったと感じたのは間違いではなかったのだ、と芹香は理解する。
霊力を失った自分は、もはや華狐として使い物にならないではないか。
「……鵺……私を、殺して……」
苦痛に歪んだ芹香の目から、涙が零れる。
これ以上、自分のことで紫苑たちの手を煩わせるわけにはいかないと思った。
「芹香……な、ぜ……」
驚愕に目を瞠る紫苑の顔は、薄暗がりの中では芹香には見えなかった。
「芹香は俺の華狐だ、死なせはしない!」
「だって……、霊力のない華狐なんて役に立てないから……」
紫苑はあの日、芹香に華狐としてそばにいてほしいと言った。ならば、その“資格”を失った自分は、紫苑の隣にはいられない。あの、ひだまりのようなあたたかな場所に帰れないのなら、自分にはもう生きていく意味もないと、芹香は絶望する。
「紫苑が新しい華狐を迎えるためにも、私がいたら困るでしょう」
もういっそのこと鵺の餌になり、両親と同じ道を辿ればいい。
そうすれば、楽になれる……。これ以上、大切なものを失わずに済む。
唯一のよりどころだった華狐としての力もなくし、帰る場所も失った芹香は、せめて最期くらい誰の迷惑にもならずに逝きたいと考えた。
「ほかの華狐など要らない! 俺は、芹香を迎えにきた」
「っ……紫苑……」
紫苑の言葉に、これ以上ないほどの喜びが胸の裡に込み上げてくるのを抑えられない。嬉しさに、芹香の目からはとめどなく涙が溢れて頬を伝った。
だめなのに。
私じゃ、もう紫苑の力になれないのに。
これ以上、優しさを与えないでほしい……。
縋ってしまいたくなる。
「──やあっ」
突如、芹香の身体が宙高く放り投げられて放物線を描いた。
「芹香!」
瞬時に反応した紫苑が、空を駆ける。
その隙に、鵺が「走れ!」と叫び、洞窟内にいた鵺たちが一目散に頭上に開いた穴を目指して岩肌を駆けのぼっていく。
芹香を投げた鵺も、人から妖怪の姿に変えて群れに紛れてしまった。
「んっ」
ぼふっと、芹香は無事に紫苑に受け止められ、苦しいほどにきつく抱きしめられた。芹香、芹香、と何度も名前を呼ぶ紫苑の声が、芹香の胸を痛いくらいに締め付ける。
それと同時に、大好きなひだまりの香りがして、張りつめていた心がほぐれていく。応えるように、芹香も紫苑の名を呼びその首ったけに腕を回してしがみついた。
もう二度と触れられないと思ったぬくもりが腕の中にある。ただそのことに安堵して、ぬくもりを噛みしめた。
「首を見せてくれ。痛むか? ほかに怪我は?」
ゆっくりと地面に降り立ち、しがみつく芹香を優しく下ろすと、噛まれた傷跡に触れる。うっ血したそこは見るからに痛々しく、首を反っただけで引きつるような痛みが走った。
「すまなかった、芹香。もっと早く助けていればこんな……」
「私は、大丈夫……。黙って村に行った私が全部悪いの……ごめんなさい。──それより鵺が」
「気にするな、洞窟の外で俺の配下たちに取り囲まれているはずだ」
「紫苑、ごめんなさい……私……華狐なのに、霊力が……」
「話は後にしよう。それより先に傷の手当だ。里に帰る」
紫苑の言葉に頷くと、体がひょいと浮いた。再び紫苑の腕に抱きかかえられたのだ。
「し、紫苑、私歩けるわ」
「飛んで帰る、行くぞ」
「──ま、待ってくれ!」
二人の背中に亮二の声が届く。振り向けば、少し離れたところに三人の姿があった。
怒涛の展開に、その存在をすっかり忘れていた芹香は息を呑む。言いようのない怒りがまた込み上げてくるのを必死で抑えた。
紫苑の声がもう少し遅かったら、芹香はこの三人を殺すところだった。自分の中に、こんなにも誰かを憎く思う醜い心があることを、知らなかった。我を失い、怒りに支配されて人の命を奪おうとした自分が怖い。
「ここがどこだか知らないんだ。私たちも連れて行ってくれ」
亮二たちの後ろに目を向けると、来た時の歪みはいつの間にかなくなっていた。鵺がいなくなったせいだろうか。この期に及んでそんな頼みをしてくる亮二たちの気が知れなかった。
「連れていく義理などない」と紫苑が冷たく言い放つ。その場の温度が一瞬で下がった。しかし亮二は立ち上がり、こちらに近寄る。
「そ、そんな! 霊狐さまというのは慈悲深い霊獣のはず!」
「妖と手を組み人を死に追いやるなどあるまじき所業。そのような者にかける慈悲など持ち合わせておらん」
「せめて娘だけでもっ! 芹香の霊力がなくなったのなら、我が娘の加代を華狐にいかがです? 娘も少しなら霊力があると鵺が言っておりましたし、芹香などより器量も、」
「黙れ! 誠に業が深い、深すぎる。そもそも、華狐は霊力の強さだけで選ばれるものではない。たとえ芹香より高い霊力を持っていたとしても、お前の娘は華狐にはなれない」
絶句する亮二に紫苑は畳みかけるように言った。
「此度の顛末、私から村の長に伝える故、沙汰を待つのだな。──まぁ、無事に村に帰れたらの話だが」
言い終える前に紫苑の体は芹香を抱えたまま浮遊する。洞窟内に響く亮二たちの悲痛な叫びから逃れたい一心で芹香は、ぎゅっと目を瞑り紫苑の胸に顔を寄せた。ひだまりの香りと紫苑のぬくもりに包まれ安堵した瞬間、とてつもない疲労感に襲われ気を失うように眠りについた。
とても平和な日々が続いていた。
出禁が解かれた今、霊狐の屋敷にはちらほらと人の、狐の出入りがあり、芹香も顔見知りが増えて交流を持っている。山菜をおすそ分けしてくれたり、煮物やお菓子を作ったからと包んでくれる人たちもいて、以前よりにぎやかになった。
「芹香、それはなんだ?」
「あ、紫苑。これはこしあぶらっていう山菜よ。てんぷらにするととっても美味しいの」
つい今しがたもらった山菜の籠を紫苑が覗き込んで目を眇めた。
「また弥助か」
「そうよ。弥助さんは山菜採り名人ね」
籠一杯の山菜を、惜しげもなく分けてくれる弥助は、紫苑よりも年若く屈託のない笑顔が好印象の気のいい少年だ。
親からの言い付けで山菜を採りに行っており、たくさん採れるとわざわざ屋敷に届けにきてくれる。この前はわらび、その前はフキノトウだった。
「わっ」
急に後ろから紫苑が芹香を抱きしめてきて、持っていた籠を落としそうになる。頭に紫苑が頬ずりすると、いつものひだまりの香りに包まれた。
「……面白くない」
あれから──一年が経って紫苑が霊狐だと知った日から、紫苑の芹香への態度がなんだか甘い。まぁ、狐姿の時には一緒の布団で寝ていたのを思えば、なにも変わらないのかもしれないが、それでも芹香はどう反応していいのか困ってしまう。
一週間後の婚儀を済ませれば、名実ともに芹香は紫苑と夫婦になり、寝所もまた同じになるのだろう。そして、おそらく、初夜を迎える。
考えただけで、頬が熱くなる。
婚儀が近づくにつれてどきどきは酷くなる一方だ。
そこに加えて紫苑の甘い態度ときて、芹香は困惑を隠せない。
こうして抱きしめてきたり、じっと見つめてきたり、頬に触れてきたり……特に二人きりの時はことさら甘い。
芹香が恥ずかしいと言っても「夫婦になるのだから」と引いてくれない。
芹香も、華狐として紫苑のそばにいることを了承した手前、それを引き合いに出されてしまえば強くは出れないので甘んじていた。
それに、やはり人のぬくもりというのは、心も温かくしてくれる。
両親亡き後、誰一人として芹香に優しい言葉をかけてくれた人は居らず、人のぬくもりとは無縁の環境にいた芹香にとって、葉奈や世津、そして紫苑との触れあいはこの上ない幸福をもたらしてくれた。
「面白くないって、なにが?」
「弥助は、どうも芹香に会いに来ている気がする」
「そんなことは……」
「芹香は、俺の華狐なのに」
まるでやきもちを焼いているように聞こえて、喜びを感じそうになる自分を芹香は内心で窘めた。
紫苑は、芹香のそばが落ち着けると言ってくれたが、それだけだ。きっと、それ以下でもそれ以上でもない。
芹香はなんとなく、霊狐にとって華狐という存在がもともとそうなのではないかと思い始めていた。
これまで華狐に選ばれた娘が帰ってきたことはないと言われているのも、つまりはそういうことなのだろう。端から霊力の相性がよい娘が選ばれて、番うように仕向けられている気がしてならない。
──だって、自分には紫苑にそう感じてもらえるような特別なものをなに一つ持っていないから。
だから、紫苑が自分といて心地よいと感じるのは、いわば自然の摂理のようなもので、芹香だからではないと、勘違いをしてはならないと自分に言い聞かせていた。
「違うわ紫苑。みんな、私が紫苑の華狐だからよくしてくれるの。みんなと話してると、紫苑が慕われてるのがよくわかる」
会いにきた狐たちは、口々に紫苑のことを褒めちぎっていた。
さっき来た弥助も、きょろきょろと紫苑の姿を探していたし、結局最後まで会えなかったため肩を落として帰っていった。
「……慕われてるのは、俺が先代の霊狐の息子だからだろうな」
ふいに、紫苑の声音が暗くなり、芹香は振り向いた。至近距離に見えた紫苑の顔は、俯いていてどこか物思いにふけっているのか焦点の定まらない目をしていた。
「芹香の言葉を借りるなら、それこそ、俺だからではないんだ。先代の息子だから慕ってくれているんだ」
かける言葉が見つからない。芹香はここのことをまだよく知らないから、紫苑の言うことが事実なのかそうじゃないのかまで判断がつかない。いい加減なことを言っても、紫苑の慰めにすらならないと思った。
それくらい、紫苑の表情は暗かった。今までに見たことがないほどに。
「紫苑……」
「……ん」
名前を呼ぶと、ようやく視線が芹香を捉えた。
「……わ、私は……、先代の霊狐さまのことは知らないけど……、紫苑の華狐になれて、その、嬉しいと思ってるよ」
「芹香」
悲しいとも苦しいともつかない瞳が、徐々に色を取り戻していくのが見て取れてホッとしたのも束の間、美しい紫苑の顔が近づいてきた。
「あ! も、もうこんな時間! お昼の支度しなくちゃ! これ葉奈に届けてくるわねっ」
視界一杯に紫苑が映り、それがなにを意味するのかに気付かないほど子どもでもなかった芹香は、慌てて紫苑の腕の中から逃げ出したのだった。
手紙
婚儀まであと三日となった日の午後。
葉奈は仕上がった打掛を取りに出かけ、紫苑は用事があると昼過ぎに出ていき、屋敷には世津と芹香しかいなかった。
二人はいつものように縁側に腰かけて、春の暖かな陽気の中雑談に花を咲かせていた。
そして、世津が夕飯の支度をしに台所に立った後もしばらくそこに座って美しい中庭を眺めていると、草の踏まれる音がして来客を知る。
いつもなら、玄関で声がかかり葉奈か世津が気付いて対応するのだが、世津は台所にいるから聞こえなかったのだろう。
おずおずとこちらを伺う人影に、芹香は「こんにちは」と声をかけた。
「は、華狐さま」
これまで見たことのない女性だった。
狐の耳をつけているから里のものなんだろう。芹香は笑顔で彼女を出迎える。
「あの、こ、これをお読みくださいっ」
早足で近づいてきたと思えば、折りたたまれた簡素な紙を突き付けられるようにして渡された。芹香は、それを受け取り、中を見て息を呑んだ。
「こ、この手紙は誰から⁉」
パッと顔を上げて聞いた芹香だったが、そこには誰もいなかった。
さっきの女性は、一体。
芹香はもう一度手紙に視線を落とし、一言一句違えぬように見た。
『親の死の真相が知りたければ、一人で屋敷に来い』
書かれた言葉に、芹香の胸は異様なまでに早鐘を鳴らし始める。
そして、気付いた時にはその手紙を握りしめ、駆けだしていた。
芹香は無我夢中で走り、祠がある所までやってきた。
華狐は、鳥居をくぐれば自由にこちらとあちらを行き来できると紫苑に教えられていた。
その時には、用もなければいい思い出もない村に自分が行くことはないと思っていたから聞き流していたけれど、まさかこの鳥居をくぐる日が訪れるとは思わなかった。
両親は、不慮の事故で死んだ。
村の外で、妖怪の群れに出くわしてしまい、命を落とした。霊峰・九宝嶽から流れてくる霊気により守られている村の近くには、妖怪が現れることはまずなかった。だから、運が悪かったと不慮の事故とされていた。
だが、芹香はあれが事故だとはとても思えなかった。
──もし、それが故意だとしたら……?
たとえそうだとしても、真相を知ったとしても、両親は帰ってこない。衝動的に駆けだしてきてしまった芹香だったが、鳥居を前にして無駄なことだ、と理性が働き足が止まる。
それでもやはり、知りたいと強く願う自分に背中を押されて芹香は鳥居をくぐり村へ向かうために山を下りた。
一年ぶりの鳥居の外の九宝嶽は、相変わらず岩肌しかない殺風景だった。本来の九宝嶽は霊狐たちが住まう緑豊かな霊峰で、その自然豊かな霊狐たちの聖域を守るために結界を張り、周りからは緑もなにもない岩肌の山に見せているのだと言っていた。
慣れない山道を駆け足で下りていくこと数刻。息も切れて汗だくの状態で芹香は村に入る。すると、芹香の姿を見た村人たちが、みな一様に目を見開き「芹香が帰ってきた……!」と驚いた。
どういうことだ、と話しかける者もいたが芹香はかまわず走り、叔父夫婦たちの住む自身の屋敷にたどり着くと門を叩いた。まるで待っていたかのように、間を置かずに門が開いて中から叔父の亮二が姿を現した。
「叔父さま、この手紙は一体……」
「……本当に生きていたとは」
「い、痛いっ」
目の前の芹香を見て亮二は瞠目するも、すぐに険しい顔になり芹香の腕を引っ張って門の中へと引き入れた。ほぼ引きずられるようにして、連れていかれたのは客間。
「叔父さま……こ、これは……」
部屋に入った瞬間に、床の間の壁がおかしいことに気付いた。文字の書かれた札が四方に貼られたそこは、ぐにゃりと空間が歪んでいる。なにかとてつもなくまがまがしい空気を感じて全身に鳥肌が立った。
「ついてこい」
「い、いやっ、やめてください!」
亮二は躊躇うことなく、その歪んだ空間めがけて突き進んだ。腕を掴まれたまま、芹香も否応なく連れていかれる。そこを潜った瞬間視界が歪み平衡感覚を失う。あまりの恐ろしさと気持ち悪さに目を閉じた。
時間にすれば、ほんの数秒。身体がずんと重みを取り戻して目を開けると、目の前には全く違う景色が広がっていた。とても広い洞窟のような場所で、頭上の一角に開いた大きな穴から日の光が差し込んでいるため中は薄暗い。慣れてきた目に写った光景に、芹香は息を呑んだ。
「ひっ」
芹香は、洞窟の中で見たこともない妖怪に取り囲まれていた。顔は猿のように真っ赤で、虎のような手足だが尻尾はまるで蛇という不気味な恰好の妖怪たちが、芹香を見て舌なめずりする。
「いい匂いがする!」
「こりゃ美味そうだなあ」
聞こえてきた言葉は聞き取れたが、とても人間の声とは思えない音をしていた。妖怪たちは、明らかに芹香を獲物として認識していて、あまりの恐ろしさにその場にへたり込んだ。
「──やっと来たか、華狐」
低く、酷くしゃがれた声が洞窟に響く。
妖怪の中から、着物を着た一人の男が現れた。その男から、さっき床の間で感じたのと同じまがまがしさを感じて身体がすくむ。
とても、よくないもの。
芹香は直感的にそう認識した。
その男が芹香に近づいてきた時、亮二が間に入りそれを遮った。
「約束は守ってもらう」
「……手を煩わせおって。──連れてこい」
しばらくして、妖怪に連れてこられたのは、叔母の道代とその娘の加代だった。その顔は酷く憔悴し、亮二の姿を見て目に涙を浮かべた。
「あなた!」
「お父さまぁっ」
「道代、加代! もう大丈夫だ。さぁ、家に帰ろう」
そう言って二人の肩を抱いて踵を返した亮二の背中に、「まぁ待て人間」と男の声がかかる。笑いを含んだ声だが、とても低く冷ややかで亮二の足がぴたりと止まった。先ほど通ってきた歪みの前に妖怪達が立ちふさがり、亮二たちの行く手は塞がれてしまった。
「や、約束通り華狐を連れてきたのだから、もう私たちに用はないはずだ! 継ぎ人との契約を破ったらどうなるか忘れていないだろうな!」
「そんなことはわかっているさ。せっかくの縁じゃないか、最後まで見届けていくがいい」
亮二の言葉で、芹香は状況を理解した。亮二は、この妖怪たちに妻と娘を人質に取られ、華狐の芹香を連れてくるよう命じられていたのだ。どうやってあの手紙を狐に渡すよう頼んだのかまではわからないが、なんらかの伝手を使ったのだろう。あの手紙に書かれていた文字は確かに亮二のものだったから。
あの屋敷を出てもなお、この人たちは自分を道具として使うのかと芹香は愕然とした。
「くくく、見てみろ華狐の絶望した顔を。血のつながった叔父に売られた気持ちはどんなものだ?」
男の鋭い視線が向けられて、芹香は身体をびくつかせる。寒気に見舞われて、自分の身体を抱きしめた。山を駆け下りてかいた汗が、洞窟の冷気と恐怖で一気に冷えたようだ。その様子を見て、男は喉を鳴らす。
芹香の前に片膝をつき、そこで初めて男の顔がはっきりと見えた。目はまるで蛇のように瞳孔が細く、鼻は豚のようにつぶれて上を向き、口からは犬歯のような鋭い歯が覗いていた。毛に覆われた猿のような顔は、周りを囲う妖怪と同じだ。
「いい顔だ、その顔がもっと歪むさまが見たくなった。お前、霊狐の所にいればよかったものを、わざわざ自ら山を下りてくるほど親の死が気になるのか」
その言葉に、芹香は目を見開く。さっきの話で、あの手紙は叔父が自分をおびき出すために書いた嘘だと思ったが、男は両親の死についてなにか知っているように聞こえた。
「なに、を……知っているというの……」
これまで感じたことのないほどの恐怖や不安で、体中の血液がどくどくと波打ち、全身を駆け巡る。なのに、手足からは熱が失われて感覚がない程に冷たくなり、ますます震えが止まらない。
「俺たちは鵺という妖の一族で、霊力の高い生き物の血が好物でな」
「ぬえ……」
「美味い餌を手に入れるために、人間の願いを叶えてやることも多々あるのだ」
「餌……?」
思考が追い付かない芹香は、鵺の言葉を繰り返すことしかできない。
「あの時も世話になったなぁ。──お前の叔父には」
なにを、言っているのか……。
芹香は賢明に鵺の言葉の意味を咀嚼していく。芹香が理解するよりも先に鵺は言葉を続けた。
「お前の村に、霊力の強い人間──お前と両親が居ることは知っていたが、村自体が九宝嶽から流れる霊狐の霊気で守られていて、なかなか俺たちのような下級の妖は近づけないんだ。どうしたものかと様子を伺ってたら、なんとお前の叔父から話を持ち掛けられた。お前たち家族を殺してくれ、とな」
言葉を失っている芹香を見て、鵺は声をあげて笑った。
「お前の両親は実に美味だった。そして、あの二人よりも遥かに霊力の強いお前が早く熟れるのを今か今かと待っていたのに霊狐なぞに横取りされおって……なんと忌々しい」
ちっと嫌悪感を露わに舌打ちをする。
「まぁよい。またこうしてお前を手に入れたのだからよしとするが」
「……う、うそ……」
「嘘ではないよなぁ、人間」
鵺が亮二を見た。芹香もそれにつられるように叔父たちを振り返る。
「嘘ですよね? 両親を殺すために鵺と手を組んだなど、でたらめですよね⁉」
三人は身を寄せ合い、鵺から、芹香から視線を逸らすように俯いていた。
「叔父さま、叔母さま? 嘘だと……嘘だと言ってください!!」
洞窟内に芹香の悲痛な叫びが響き渡った。
「嘘だなんて言えないよなぁ。血の盟約を交わした以上、こいつらは俺の前で嘘はつけないんだ」
無言を貫く亮二たちに、芹香は鵺の言葉を認めざるを得ないことを知る。
愛する両親が事故ではなく、叔父によって鵺に差し出されたという事実がずっしりと芹香の中にのしかかった。昔から叔父たちが自分たち家族をいい風に見ていないのは感じていた。だけどまさか、殺すほど憎んでいたとは……。
「そ、んなぁ……あぁ……ああぁ……」
ぽたり、ぽたり。
薄暗い地面に涙が落ちて弾け、岩にしみ込んでいく。
いくつもの黒いシミが重なり、どんどん広がっていった。
両親は、実の弟夫婦に殺された。なんて惨い仕打ちだろうか。
憎い。
叔父たちが、憎くてたまらない。
地面の黒いシミのように、芹香の心の中で憎悪が膨れていく。
それを助長するかのように鵺が口を開いた。
「あやつは、如月の当主になりたかったんだとよ。お前の両親は、そんなことのために俺たち鵺に食われたんだ」
──可哀そうになぁ。
しゃがれた声の囁きを聞いた瞬間、芹香の中でぷつりとなにかが切れた音がした。
「あああああああああぁぁぁ!」
突如叫んだ芹香は怒りに支配され、正気を失っていた。
芹香の体の周りを、黒い靄が覆う。
鵺は「ほう」と目を見張り、面白そうに目を眇める。
亮二たちはその覇気に震え、後ずさる。
洞窟内に転がっていた無数の石ころや岩が浮き上がり、芹香の頭上で一つに集まり大きな塊を作っていく。
「ひぃっ!」
「せ、芹香! お、落ち着くんだ、私が悪かった!」
芹香の目は曇り、虚ろに宙を見つめているだけで、亮二の声は届かない。その間にも頭上の塊は大きくなっていく。すでに芹香の体よりも大きな岩となっていた。
「華狐の霊力がこれほどとは……」
膨れ上がる岩を見上げる鵺の顔は、歓喜に満ちていた。
「いいぞ、華狐。両親の敵を己の力で討て!」
「……ゆる……さない……!」
「──芹香!」
塊が亮二たちめがけ動き出したとき、芹香の名を呼ぶ声が辺りに響き、意識が引き戻された。
「っ、……え?」
自分は今、なにをしようとしていたのか、疑問が頭に浮かんだ瞬間、芹香と亮二たちの間に大量の石や岩がけたたましい音を立てて落ちてきた。
「きゃっ」
「うわぁ」
地面に落ちて弾んだ石が亮二達にぶつかる。幸いにも芹香の方が距離があり足元に転がっただけで済んだが、それを自分が作り、亮二たちにぶつけようと……殺そうとした自分の恐ろしさに、芹香はその場に頽れた。
それを、鵺が近寄り腕に抱き抱え、声のした方へ睨みを効かせる。周りにいた他の鵺も一様に同じ方へと向き直り犬歯をむき出しにして威嚇を始めた。
「これはこれは! 九宝嶽の気高き霊獣、霊狐さまではございませんか」
仰々しいセリフを吐き、鵺が紫苑に頭を垂れる。その腕に腰を抱かれた芹香は、どうにか顔をもたげ、紫苑を視界に捉えた。白金の髪を後ろで結んで、いつもきちんとしている着物はところどころよれて乱れていた。
黙っていなくなった自分を探し、助けに来てくれたのだろう。
まだ呆然とする思考の中で嬉しさと申し訳なさとが混ざりあう。
「しお……ん……、ああっ!」
「芹香!」
首に刺さるような痛みが走った。鵺が芹香の首に噛みついたのだ。
どくどくと脈がうねる。血が、吸われている。そう気付き、そのおぞましさに芹香の目から涙が溢れる。
「い、いやあっ」
しかしそれも一瞬で、鵺は芹香を抱えたまま飛びのいて後退した。鵺の居た場所は、衝撃を受けたように地面がえぐれていた。紫苑が鵺に向けて攻撃したようだ。
ずきずきと痛む首に添えた手は、血で真っ赤に濡れた。
ふと、体の中にあったものがないことに芹香は気付く。力がわかず、鵺の腕の中で項垂れ、静かに涙を流しているしかできなかった。
「なんと、美味い血だ……! ほんの少し吸っただけで力が泉のようにみなぎってくる!」
鵺の高笑いが響き、紫苑の眉間に深い皺が刻まれる。
「許さん!」
「おっと、それ以上なにかするなら、華狐のこの首をへし折りますよ」
言いながら、鵺は芹香の首に腕をかける。顎に腕が食い込んで、息ができず芹香の顔が苦しさに歪んだ。
「こちらは死んでも血が吸えれば満足ですからね。──それに、この華狐が死んだところで、霊狐さまが望めば新たな華狐が生まれるのだから一人くらい譲ってくれたって構わないでしょう?」
鵺の話を聞いて、芹香は「そうなのか」と切なくも安堵した。ここに連れてこられてから、漠然と死を覚悟していた芹香は、華狐としての役目を全うできなかったことだけが心残りに感じていたからだ。紫苑を始め、葉奈や世津、一族のみんなに対して申し訳ない気持ちで一杯だった。
だけど、自分が死んでも代わりがいるのなら……。
霊狐の華狐は自分である必要がないのだから、紫苑たちが困ることはないだろう。
「鵺よ、よく見てみろ。芹香に霊力はもう残っていないぞ」
鵺が、腕の中でぐったりとする芹香を見て、「ど、どういうことだ……」と動揺した。
「先ほどの怒りによる暴走で大半の霊力を放出したのだろう。わずかな残りもお前に吸われてしまった」
やはり、さっきなにかがなくなったと感じたのは間違いではなかったのだ、と芹香は理解する。
霊力を失った自分は、もはや華狐として使い物にならないではないか。
「……鵺……私を、殺して……」
苦痛に歪んだ芹香の目から、涙が零れる。
これ以上、自分のことで紫苑たちの手を煩わせるわけにはいかないと思った。
「芹香……な、ぜ……」
驚愕に目を瞠る紫苑の顔は、薄暗がりの中では芹香には見えなかった。
「芹香は俺の華狐だ、死なせはしない!」
「だって……、霊力のない華狐なんて役に立てないから……」
紫苑はあの日、芹香に華狐としてそばにいてほしいと言った。ならば、その“資格”を失った自分は、紫苑の隣にはいられない。あの、ひだまりのようなあたたかな場所に帰れないのなら、自分にはもう生きていく意味もないと、芹香は絶望する。
「紫苑が新しい華狐を迎えるためにも、私がいたら困るでしょう」
もういっそのこと鵺の餌になり、両親と同じ道を辿ればいい。
そうすれば、楽になれる……。これ以上、大切なものを失わずに済む。
唯一のよりどころだった華狐としての力もなくし、帰る場所も失った芹香は、せめて最期くらい誰の迷惑にもならずに逝きたいと考えた。
「ほかの華狐など要らない! 俺は、芹香を迎えにきた」
「っ……紫苑……」
紫苑の言葉に、これ以上ないほどの喜びが胸の裡に込み上げてくるのを抑えられない。嬉しさに、芹香の目からはとめどなく涙が溢れて頬を伝った。
だめなのに。
私じゃ、もう紫苑の力になれないのに。
これ以上、優しさを与えないでほしい……。
縋ってしまいたくなる。
「──やあっ」
突如、芹香の身体が宙高く放り投げられて放物線を描いた。
「芹香!」
瞬時に反応した紫苑が、空を駆ける。
その隙に、鵺が「走れ!」と叫び、洞窟内にいた鵺たちが一目散に頭上に開いた穴を目指して岩肌を駆けのぼっていく。
芹香を投げた鵺も、人から妖怪の姿に変えて群れに紛れてしまった。
「んっ」
ぼふっと、芹香は無事に紫苑に受け止められ、苦しいほどにきつく抱きしめられた。芹香、芹香、と何度も名前を呼ぶ紫苑の声が、芹香の胸を痛いくらいに締め付ける。
それと同時に、大好きなひだまりの香りがして、張りつめていた心がほぐれていく。応えるように、芹香も紫苑の名を呼びその首ったけに腕を回してしがみついた。
もう二度と触れられないと思ったぬくもりが腕の中にある。ただそのことに安堵して、ぬくもりを噛みしめた。
「首を見せてくれ。痛むか? ほかに怪我は?」
ゆっくりと地面に降り立ち、しがみつく芹香を優しく下ろすと、噛まれた傷跡に触れる。うっ血したそこは見るからに痛々しく、首を反っただけで引きつるような痛みが走った。
「すまなかった、芹香。もっと早く助けていればこんな……」
「私は、大丈夫……。黙って村に行った私が全部悪いの……ごめんなさい。──それより鵺が」
「気にするな、洞窟の外で俺の配下たちに取り囲まれているはずだ」
「紫苑、ごめんなさい……私……華狐なのに、霊力が……」
「話は後にしよう。それより先に傷の手当だ。里に帰る」
紫苑の言葉に頷くと、体がひょいと浮いた。再び紫苑の腕に抱きかかえられたのだ。
「し、紫苑、私歩けるわ」
「飛んで帰る、行くぞ」
「──ま、待ってくれ!」
二人の背中に亮二の声が届く。振り向けば、少し離れたところに三人の姿があった。
怒涛の展開に、その存在をすっかり忘れていた芹香は息を呑む。言いようのない怒りがまた込み上げてくるのを必死で抑えた。
紫苑の声がもう少し遅かったら、芹香はこの三人を殺すところだった。自分の中に、こんなにも誰かを憎く思う醜い心があることを、知らなかった。我を失い、怒りに支配されて人の命を奪おうとした自分が怖い。
「ここがどこだか知らないんだ。私たちも連れて行ってくれ」
亮二たちの後ろに目を向けると、来た時の歪みはいつの間にかなくなっていた。鵺がいなくなったせいだろうか。この期に及んでそんな頼みをしてくる亮二たちの気が知れなかった。
「連れていく義理などない」と紫苑が冷たく言い放つ。その場の温度が一瞬で下がった。しかし亮二は立ち上がり、こちらに近寄る。
「そ、そんな! 霊狐さまというのは慈悲深い霊獣のはず!」
「妖と手を組み人を死に追いやるなどあるまじき所業。そのような者にかける慈悲など持ち合わせておらん」
「せめて娘だけでもっ! 芹香の霊力がなくなったのなら、我が娘の加代を華狐にいかがです? 娘も少しなら霊力があると鵺が言っておりましたし、芹香などより器量も、」
「黙れ! 誠に業が深い、深すぎる。そもそも、華狐は霊力の強さだけで選ばれるものではない。たとえ芹香より高い霊力を持っていたとしても、お前の娘は華狐にはなれない」
絶句する亮二に紫苑は畳みかけるように言った。
「此度の顛末、私から村の長に伝える故、沙汰を待つのだな。──まぁ、無事に村に帰れたらの話だが」
言い終える前に紫苑の体は芹香を抱えたまま浮遊する。洞窟内に響く亮二たちの悲痛な叫びから逃れたい一心で芹香は、ぎゅっと目を瞑り紫苑の胸に顔を寄せた。ひだまりの香りと紫苑のぬくもりに包まれ安堵した瞬間、とてつもない疲労感に襲われ気を失うように眠りについた。