翌日。

「はーい、じゃあ今からさっき取った番号の席に各自移動しろー」

今は席替えの真っ只中。

「うわー、俺一番前なんだけど。最悪」

「きゃ、遠藤くんの隣だ……!」

教室がガヤガヤと騒がしくなり、あちらこちらから文句や喜びの言葉が聞こえてくる。
そんなわたしはというと……

「おっ、美桜の隣じゃん。ラッキー」

なんのイタズラなのか櫂と隣の席になってしまった。
また窓際でなおかつ一番後ろの席なんてラッキーすぎる!と喜んでいたのも束の間、黒板に書かれたわたしの名前の横に“三春”という文字が書かれた時、ドキリと悪い意味で心臓が跳ねた。
櫂とまた関わることを選んだのはわたしだけれど、席まで隣になるなんて聞いてないよ。
いや……決して嫌とかそういうことじゃなくて、ただ隣に櫂がいると、こんな至近距離で彼が視界に入ると、授業に集中することができないのが目に見えているから困る。
どんなに意識しないように心掛けても、好きな人を見るとやっぱり意識しちゃうものだ。

「櫂の隣だと目立つから寝れないじゃん」

「いや、寝る前提で話すなよ」

「授業聞いてたら眠くなるんだから仕方ない。ていうか、櫂の方が起きてる確率低くない?」

わたしは知ってるんだからね。
櫂の以前の席は、前から二列目の真ん中だったこともあり、わたしの席からだと普通に授業を受けていても否が応でも視界に入ってきていた。そして彼は大体、顔を伏せて眠っていた。
まあ、櫂って勉強得意じゃないし。

「げっ……気づかれてたかー」

櫂は顔をしかめて、わたしの隣の椅子に腰を下ろす。

「そりゃあ、わたしの方が後ろの席だったから」

「でも、今は隣だから美桜が寝てたら俺が起こしてやるよ」

「わたしが起こす側になりそう……」

「うわー、信用ねえな」

なんて、ケタケタと楽しそうに笑っている櫂を見ているとこちらも自然と頬が緩む。

「あれ?二人ってそんなに仲良かったっけ?」

頭上から降ってきたのは疑問に満ちた櫂の幼なじみである杉藤さんの声だった。

「あー、俺ら昨日運命的な出会いをしたから。な?」

「あ、うん。運命的かどうかはわからないけど」

同意を求めてわたしの方を横目で見てくるから運命的な出会いというのは否定し、それ以外はとりあえず合わせて返事をする。
杉藤さんはずっと櫂のことが好きだったと思う。彼女の視線はいつも櫂に向いていたことにわたしは気づいていた。
でも、わたしと付き合ったから身を引いてくれたのだと思う。
今度はわたしが身を引く番かな。杉藤さんとだったら、櫂も幸せになれるだろうし。

「へえー、そうなんだ。櫂が昨日、朝から探し回ってた子って小芝さんだったもんね」

そう言いながら櫂の前の席に腰を下ろす。

あ、席替えで櫂の前になったんだ。
これから何かと話すことが増えるかもしれない、と直感的に思った。

「おー、そうだぞ。美桜はすっげぇいいやつだからお前も驚くぞ」

「櫂がそこまで言うなんて珍しいじゃん」

「そんなことねえよ」

二人が話しているところを見ていると胸がぎゅっと苦しくなって耐えきれなくなったわたしは窓の外へと目を向けた。
こんなんで辛くなってどうするのよ。これからもっともっと苦しい思いをするのは目に見えているのに。

「……だから言ったのに」

前から声が聞こえてきてそちらに視線を向けると、またもや感情の読めない表情で西神がこちらを見ていた。
そういえば、前の席は西神か……。
とんでもない席になってしまったなぁ、と心の中でため息をついた。

「別にこれくらい想定内だよ」

「傷ついたって顔してるけど」

「気のせいじゃない?」

ムスッとした顔で見つめると西神は「まあ、別に俺には関係ないけど」と呆れたように鼻で笑って前を向いた。
コイツ……わたしの恋をバカにしやがって。なんか腹立つなあ。
そう思いながら、えいっ!と、わたしは後ろからシャーペンで西神の背中をつついた。

「いてぇな、なにすんだよ」

「ふふっ。あんたがバカにして笑うから」

「はあ?お前がバカみたいなことするとかいうからだろ」

西神はわたしの目的を全部知っている。わたしの記憶をなくした櫂に今度こそ相応しい相手を見つけるという計画を。

「バカって言わないでよ。わたしの一世一代を掛けた大勝負なんだから」

そう。絶対に失敗できないことなんだ。君が幸せでいてくれるのならわたしはどれだけ傷ついたっていい。
この恋がもう二度と叶わないとわかっている。きっと、何度も君を想って苦しくなって泣いてしまうとわかっているけれど、それでもわたしはやり通さねばならない。苦しむのは、わたしだけで十分だから。

「……はあ、それを見守る側の気持ちも少しは考えろよ」

「あんたには悪いって思ってるけど、あとちょっとだけ協力してよ」

「はいはい」

基本的に塩対応な西神だけど、本当はいい奴なのを知っている。
そうじゃないと、いくら彼にも事情があるとは言ってもわたしのことなんて見守ってくれないだろうし。だから、いつもこうしてついつい頼ってしまう。

「お前らって仲良いの?」

わたしと西神がいつものように話していると、右側から不思議そうな声が聞こえてきた。

「うーん、まあ……?」

幼なじみではないし、昔から仲がよかったわけではない。ただ、わたしが君に隠していることを全て知っている人物であるというだけ。

「ふーん」

「なんか不満そうだけど」

自分だってさっきまで杉藤さんと仲良さげに話してたくせに。いや、それでいいんだけれど……どうしても見たくないと思ってしまうのは恋心というものだから仕方ないと目を瞑ってほしい。

「いや、何でもねえけど。そういえば美桜、数学の教科書持ってきた?」

「持ってるけど……」

「俺、忘れちゃったから次の授業一緒に見せてよ」

そんなことだろうと思った。隣で「頼む!」と手を合わせてお願いしている彼を見ていると、仕方ないなあという気持ちになって断れない。そこが彼の魅力的な部分でもあるんだけど。

「今日だけだからね」

「ありがとう!」

呆れたように言ったわたしとは反対に、彼は、ぱあっと花が咲いたように笑った。
この、人たらしめ。その笑顔と素直さで一体、何人の女の子の心を奪ってきたのやら。まあ、わたしもその一人だけど。
すっかり櫂に絆されてしまっていたわたしは、杉藤さんがなんとも言えないような表情でこの様子を見つめていたことなんて知りもしなかった。

***

キーンコーンカーンコーン、と聞き飽きたチャイムの音が鳴り響き、数学の授業が始まった。すると、早々に隣の彼が手を挙げた。

「なんだ、三春」

「俺、教科書忘れちゃったんで小芝さんに見せてもらいまーす」

そう言うと、先生の返答も待たずにせっせとわたしの机に自分の机を引っ付けてきた。思っていたよりも近い距離に鼓動が早鐘を打ち始める。

「お前なぁ、復学してきてもう一週間経つんだぞ。次忘れてきたら成績下げるからな」

「それだけはご勘弁を!ただでさえ数学は崖っぷちなんで!俺には先生しかいないんですよ〜」

櫂の陽気な回答に教室がどっと笑いに包まれた。

「はぁ、ほんとにお前ってやつは。小芝に感謝しろよ」

「はい!」

先生は呆れた表情で櫂を見ながらも「今日は因数分解をするからなー」と、授業を始めた。視界の端に艶のいい黒髪が映って、妙にソワソワとしてしまう。付き合っていた頃は今の距離よりも、もっと近い距離にいたのに好きな人の隣にいるのはいつになっても慣れない。わたしの全神経が隣の彼に集中してしまっていて先生が話す授業の内容なんて何一つ頭に入ってこない。
ダメだ……全然集中できない。
ちらりと隣の彼を盗み見る。さっそく脳がシャットダウンしているのかこっくりこっくりと頭がゆっくり上下に動き、居眠りをしていた。
ほら、言わんこっちゃない。でも、こういうところが可愛いんだよね。
そんな彼を見ているとくすりと小さな笑みがこぼれた。
机の中から綴った文章をまとめているノートを取り出し、ペンケースから付箋を取り出して先生に見つからないようにカリカリとペンを走らせる。

―――

うつらうつらと船を漕ぎ
癖のない黒髪がさらりと揺れる
長いまつ毛がぴくりと動いて瞼が開くその時
君の瞳に一番最初に映るのはわたしがいい

―――

頭の中でふと思いついた文章を好きなように組み立てる。
君が目を覚ます時、その澄んだ瞳に一番最初に映すのはいつもわたしであってほしい。
許されるのなら、「おはよう。寝すぎだよ」なんて言いながら笑って起こすのはわたしがいい。
そんな叶いもしない願いを込めて綴ったけれど、読み返すとなんだか虚しくなってくる。このノートには櫂への想いが詰まった文章がいくつも綴られている。言わば、日記のようなものだった。毎日ではないけれど、彼と過ごす日々を文字にしていた。頬杖をついて、ペラペラとページを捲り、思い出を読み返す。

―――

「おはよう」と「おやすみ」
毎日、どちらともなく交わす言葉
何気なく繰り返される君との日常
この幸せが、温もりが、
この手からこぼれ落ちないよう
必死に抱きしめて今夜も眠りにつく

―――

付き合っていた頃に綴った幸せに満ちた文章が目に入り、手を止めた。この時はこんなふうになるだなんてちっとも思ってもなかった。
当たり前にメッセージで、朝起きたらどちらともなく「おはよう」から始まり、夜眠るときは「おやすみ」で一日が終わって、そんなありふれた日常を繰り返せることがすごく幸せだった。なくならないように、どこにもいかないように必死に抱きしめていたはずなのに、その幸せはこの手から簡単にこぼれ落ちていってしまったのだ。メッセージじゃなくていつか、直接言い合えることを夢見ていたのに、それは夢のまま終わってしまった。わたしが、悪かった。今更、思い返して後悔したってもう遅いのに、わたしはまだ君との恋にすがりついてしまっている。
戻ってはこない昔を思い出して、ぼんやりとした頭でノートを見つめる。けれど、ノートを捲るにつれて、ポエムが段々少なくなっていくことに気づく。
これが当時のわたしの馬鹿だったところだ。どうしてもっと早く気づけなかったのかなあ。
そんなことを考えていると、ふいに右腕をツンとつつかれて弾けたように視線をそちらに向けると、櫂が不思議そうな顔をわたしに向けていた。
い、いつの間に起きてたの……!?
一人の世界に入り込んでしまっていたから授業なんてまったく聞いてなかっただけでなく、櫂が起きていることにすら気づいていなかった。

「ご、ごめん……何ページだっけ?」

慌てて、適当に開いていた教科書をパラパラと捲る。

「いや、違うくて。それ、見せてよ」

彼が指さしたのは、先程までわたしが見ていたノートだった。

「え、これは、あの、ちょっと……」

この前の付箋ならまだしも、このノート自体を見られるのは顔から火が出るくらい恥ずかしい。しかも、ほぼ櫂との恋を綴ったものだからなおさら見られるのは抵抗がある。

「もっと美桜の文章がみたい」

曇りのない真っ直ぐな瞳でそう言われると、抵抗していた気持ちが不思議なくらいに、するりするりと解けていく。

「仕方ないなぁ」

単純にわたしは櫂に弱い。いや、好きな人に弱いのかもしれない。好きな人のためだと何でもしてあげたい、叶えられることなら叶えてあげたい、と思ってしまう。ダメってわかっているんだけどね。

「さんきゅー!」

櫂はわたしからノートを受け取ると、宝石のように瞳をキラキラと輝かせながら短文を一つ一つじっくりと読んでいるようだった。
先生にバレないようにしないと……。まあ、先生から見たら数学のノートを見せてあげているようにも見えるから注意はされないと思うけれど。
ふいに視界の端にいる櫂の動きが止まった、ような気がした。どうしたのかと思い、隣に目を向けると、彼はノートの一点だけをじっと見つめていた。
なんか好きなのとかあったのかな……?

「……美桜って、好きなやつとかいんの?」

ふいに尋ねられた言葉に心臓がドキリと大きく跳ね上がった。
まさか……自分のことが書かれていることに気づかれた?いや、そんなことはない。だって、彼にはわたしの記憶はないのだから。そのノートに櫂のことが明確にわかることなんて書いていないはずだ。

「え、なんでいきなりそんなこと……」

そこまで言ってわたしは言葉を詰まらせた。
いや、待って。そのページって、まさか。

「だって、これ」

彼が指さしたのはわたしの計画が書かれたページだった。
やらかした。見られてしまった。完全に迂闊だった。
動揺から心臓がばくばくとうるさく音を立てていく。

①君に話しかけて仲良くなる
②君に幸せになってもらう
③君の夢への背中を押す

ノートにはそう書かれていてどうやって誤魔化そうかと頭をフル回転させる。
どうしよう。なんて答えるのが一番怪しまれないだろうか。ここは素直に好きな人がいると答えるのが自然かもしれない。

「あ、それはー……うん、好きな人がいて。それで書いた」

さすがにそれが櫂だということは口が裂けても言えないけれど。
わたしの返答を聞いて少しの沈黙の後、彼が「そっか」とぽつりと小さく呟いた。俯いているため、櫂がどんな表情をしているのかわたしには見えない。ただ、耳に届いた声はとても弱々しいものだった。

「ここ、テストに出るからなー」

数学の授業が始まってから数十分、やっと内容が頭に入ってきたような気がする。櫂はあれ以降、黙り込んでしまって何も話しかけてこない。授業中だから静かなのは当たり前だけど、今のわたしと櫂の間に流れる時間はどこかぎこちなく感じた。
何か気に障ることしちゃったかな……?やっぱり、自分のことが書かれていると気づいちゃったとか?
わたしがどうしようもない自己嫌悪に陥っていると、隣にいる彼が小さな声で問いかけてきた。

「美桜の好きな人って……このクラスにいる?」

「え、あ、うん」

質問が突然すぎて思わず、口から言葉がこぼれ出ていた。
いや、ここは違うクラスなの!とか言っておくべきだったでしょ。何やってんのよ、わたし。

「ふーん……そうなんだ」

そう言いながら、視線をわたしの前の席に座っている西神の背中へと向ける。
もしかしてだけど、わたしの好きな人は西神だと思ってる?君にバレずにやり過ごせると思いと嬉しい勘違いだけど、この恋がずっと迷子になってしまうと思うと悲しい勘違いのような気もする。

「……櫂は?」

「え?」

「櫂は、好きな人とかいないの?」

今しかないと思った。自分が傷つく、傷つかないは別として、櫂の好きな人を知ることはわたしの計画を実行する上でも、必要なことになって、知っておくに越したことはないから。

「うーん」

彼はわたしの問いに対して考え込むようにして頬杖をついた。なんて返ってくるんだろう。
“いない”と返ってくればそれは嬉しい反面、今後計画を進めていくうえで好きな人を見つけてもらえるようにしないといけないし、仮に“いる”と返ってくれば計画はスムーズに進むかもしれないけれど、彼に片想いしている身としては少し複雑な気持ちになる。
はあ、恋って本当に面倒な感情だ。君の反応一つで、飛び上がるほど嬉しくなったり、イライラして怒ったり、涙が出るほど哀しくなったり、心が躍るほど楽しくなったり、感情が大忙しになる。だけど、それが恋であろうが何だろうが誰かを想うということに喜怒哀楽は付き物で、その時間や感情も含めてまるごとその人を大切に想っているという証なのだと思う。

「……気になる人は、いるかな」

しばらくして返ってきた答えに、息が止まるかと思った。
ちゃんと気になる人がいるのはよかったことだけれど、やっぱり少し複雑だ。きゅっと胸を絞ったように悲しみが沸くのは見ないフリをする。

「そっか」

ちなみに誰?と尋ねる勇気は今のわたしにはなかった。杉藤さんのことだろうか。二人は幼馴染だから好き同士でもおかしくはない。付き合う前の櫂の気持ちをわたしは知らなかったから。
この気持ちは押し殺して櫂の幸せのために頑張ると決心したはずなのにわたしはいつまで経っても臆病のまま。そんな自分が情けなくなる。二人の間から会話が消えて、先生の声だけが耳に届く。
何か言わなくっちゃ。ここは応援してる、とか言っておくべきなのかな。

「櫂はわたしから見てもすっごくいい男だから自信持ちなよ、応援してるから!」

怪しまれないように、この隠している気持ちがバレないように、できるだけ明るい口調で言い、笑みを貼り付けて櫂の背中を軽く叩いた。本当は悲しくて、切なくて、胸の辺りがキュッと酸っぱく痛んでいるけれどそれを必死に押し殺す。
絶対にバレてはいけない。この気持ちだけは。応援している、なんてよく言えたもんだ。本当は応援なんてしたくないくせに。今すぐに好きだと伝えて前みたいに二人並んで歩きたいと思っているくせに。わたしにもう一度、君の彼女になる権利なんてどこにもないのに心は言うことを素直に聞いてはくれない。

「え、あー……うん。美桜に応援してもらったらなんか叶いそうだわ」

「わたし、恋の女神って言われてるから」

「いや、なんだそれ」

「わたしが恋のキューピットになった人達はみんな幸せそうに今も笑ってるんだよ!だから恋の女神」

なんかよくわからないけれど、よく人の恋愛の仲介役になることが多かったわたしは双方の意見も聞きつつ、上手い具合に引き寄せて成功を収めてきたのだ。まあ、別に自慢できるようなことかと言われればそうじゃないけれど。

「じゃあ……俺の恋も叶えてくれんの?」

頬杖をついて、コテンと首を傾げて柔らかく口元を綻ばせて少し物悲しげに微笑んだ。
きっと、杉藤さんと櫂は両想いだからわたしが何かしようとしなくても上手くいくよ。

「もちろん!任せなさい!」

「ほんとかよ」

もう一度、おとぎ話に出てくるプリンセスにはなれそうにないからわたしは魔法使いにでもなろう。君の恋を叶える魔法使いに。

「ほんとだって」

全然信じていない様子の櫂にムッとした顔を向けると、くすりと小さく笑われた。
どうせ、ムキになっているって思われてるんだろうなあ。


「あ、そうだ。グループから連絡先追加していい?」

ふと、思い出したかのようにそう言った櫂。今は授業中だからスマホは出せないけど、スマホが入っているであろう自分のポケットをポンポンと叩いている。