凍えるような寒い冬が終わり、春が訪れ、わたし、小芝美桜は高校二年生になった。
春は四季の中でわたしが一番好きな季節だ。
気温も暖かくて過ごしやすいし、何よりも世界を飾る景色がとても美しく、目を奪われるほど綺麗に思えるから。
今だって、春独特の生温かい風がふわり、と吹いて校庭に咲き誇る桜のにおいを含んで彷徨い、見上げた視線の先で小さな薄紅色の花びらがひらりひらりと舞っている。
この桜を見ると今年も春が来たのだと実感できるからわたしは毎朝この桜の木を見上げるのをやめられない。
この儚く脆い美しい景色を存分に味わって、少しでも目に焼き付けておきたいから。

「おはよー」
「おはよ」

クラスメイトに挨拶を返しながら教室に入ると何やらいつもとは雰囲気が違い、やけに室内がざわついていて騒がしい。
何かあったのかな?
なんて、不思議に思いながらも特に深くは考えず、机の間をすり抜けて、後ろから二番目の窓際にある自分の席までたどり着くと、椅子を引いてそのまま腰を下ろした。
カバンから必要な教科書やペンケース等を取り出してからカバンを横のフックにかけ、先程も見たばかりの校庭に咲いている満開の桜の木に視線を向けた。
今年も綺麗に咲いたなぁ。
ここから見るのと間近で見ることではまた景色が違って見えて面白いんだよね。
来年はもっと綺麗に花を咲かせるのかな。
ぼんやりとした頭でそんなことを考えていると、突然わたしの前に人影が現れ「小芝さん!」と懐かしい声がわたしの名前を呼んだ。
その声に思わず、ハッと弾けたように視線をそちらに向けると、にこっと八重歯を口から覗かせ、眩しい笑顔を浮かべて立っていたのは、クラスメイトの三春櫂(みはるかい)だった。
スラリとした長身、パッチリとした二重の大きな瞳、スッと整った鼻筋、どこか中性的な顔立ちでお日様のような笑顔が良く似合う彼は誰が見ても目を惹く美男子だ。
彼は高一の春休みに交通事故に遭い、最近復学してきたばかり。
そして、わたしの好きな人であり、元恋人である。ただ、彼はわたしと付き合っていたことを全く覚えてはいない。
事故の影響で一部記憶を無くしてしまっており、わたしのことはただのクラスメイトかそれ以下だと思われているのだ。
だから、わたしと彼はただのクラスメイトとして今ここで初めて会話するということになるわけで、決して動揺の色など彼に見せてはいけない。『小芝さん』という慣れない名前で呼ばれて少しむずがゆい気持ちになっていることをバレないように心の奥にそっと隠した。
彼には今度こそ、可愛い女の子と幸せになってほしいから。

「えっと……何かな?」

彼が復学して一週間が経っているけれど、今まで話しかけてくれたことなんて一度もなかった。彼の中でわたしという存在が消えたという事実を嫌でも突き付けられてしまって胸がえぐられるような思いになっていたのは秘密だ。

「ここに桜って書いてくれない?」
「え?」

突然の言葉に思わず驚きの声が洩れた。
そんなわたしの様子を気にも留めずに彼がウキウキと心を躍らせながら差し出してきたのは白い紙とボールペンだった。
そこにはすでにたくさんの筆跡の“桜”という字がずらりと並んでいて頭の中が疑問符でいっぱいになる。
なに、これ……?
朝から教室が騒がしかったのってこれが原因なのかな?

「ごめん、小芝さん。コイツ、なんか昨日見つけた物の持ち主を探してて朝からみんなに“桜”って字を書いてもらってんのよ」

すぐ近くから申し訳なさそうに言ってきたのは彼と仲のいい友達の濱田だ。
やっぱり朝から教室が騒がしかったのは彼のせいだったのだと心の中で納得をする。

「そうなんだ」

一体、何を見つけたんだろう。
確かに好奇心旺盛で真っ直ぐな心を持っている彼のことだから何か思うことがあってその人を探しているんだろうけれど。

「お願い!小芝さん!」

きゅるん、とした子犬のような瞳でお願いをされると断れない。わたしは彼のこの顔にものすごく弱いと自覚している。

「わかったからちょっと待ってよ」

まるでどこかのおとぎ話みたいだな、と頭の片隅で考えながらボールペンを手に取って“桜”という書き慣れた字を書く。

「はい、書けたよ」

そう言いながら、紙とボールペンを彼に返す。

「ありがとう」

彼はお礼を言うと、何やらポケットから一枚のピンク色の付箋を取り出して、先程わたしが渡したばかりの紙と付箋を真剣な眼差しで凝視して、見比べている。
何をしてるんだろう?
付箋になにか持ち主のヒントがあるのだろうか。
彼をじっと見つめていると、その表情は徐々にぱあっと花が咲いたような明るいものへと変わった。
そして、少年のように澄んだ瞳をまるで宝石を見つけた時のようにキラキラと輝かせながらわたしの両手をがしっ、と掴んだ。

「え、なに。どうしたの?」

突然のことにわたしは驚きの声を上げた。
なんでわたしは彼に手を掴まれているんだろう。全然、理解が追いついていないのに目の前にいる彼の笑顔が眩しすぎて全てがどうでもよくなってしまいそうになる。
いや、どうでもよくなっちゃダメなんだけれど。

「俺はずっと君のことを探していたんだ……!」

本当におとぎ話のようなセリフが彼の口から出た瞬間、驚きのあまり呼吸を止めた。
だって、まさか現実の世界でそんなセリフを聞くことなんてないと思っていたからだ。
あまりに非現実的というか……ね?
所詮は女の子が夢見る甘いロマンと欲が詰め込まれた世界の話で、現実世界ではありえないことだとこの歳になってしみじみと感じていたのに。
わたしの手を掴んでいる彼の手が、わたしを包み込んでいる手が、泣きたくなるほどあたたかくて鼓動が早鐘を打ち始める。久しぶりに触れた懐かしい体温にずっと触れていたいと思ってしまうほど。
だけど、その手を離したのはわたしだから。
この手にもう一度、すがってはいけない。
何とか彼が手を離してくれそうな話題を振らなきゃ。
そう思い、

「探してたってどういうこと?」

気になっていたことを素直に口にすると、彼はぱっとわたしの手を離した。
……あ、離してくれた。
これでよかったんだと思うのに離れてしまったことを寂しく思ってしまって胸にヒビが入ったかのようにズキズキと痛むのはきっとまだわたしが君のことを好きだからだろう。

「これ!小芝さんが書いたんだよね」

そう言って見せられたのは先程、彼が見比べていた付箋でそれを見た瞬間、わたしの心臓がドクン、と嫌な音を立てた。どこにでも売っているような付箋だからさっきは気づかなかったけれど、わたしはこの付箋を知っている。
わたしが考えたポエムが書かれている付箋だから。
なんで、なんで彼が持っているの?しかもよりにもよってなんで櫂が……?

「ち……違うよ!」

慌てて否定しても、わたしを見つめる彼の瞳はちっとも揺るがない。

「だって、字が同じじゃん。人それぞれ字には癖とか特徴があるもんだからさ」

付箋の“桜”と先程わたしが書いた“桜”という文字を交互に指さしている。ぐうの音も出ないとはまさにこのこと。
これ以上、否定しても無駄な気がするから早く認めた方がいいのかもしれない。
わたしの目に映っている文字はどう見ても一緒の字体。
当たり前だ。この付箋はわたしが書いたものなのだから。
よりもよって櫂の手に渡ってしまうなんてわたしって本当にツイてないなあ。

「そうだよ……わたしが書いた。でも、これってどこで拾ったの?」
「昨日、図書室でたまたま落ちてたのを拾ったらすげえいいことが書かれてたから絶対に持ち主を探したくてさ。ごめん、強引なことして」

昨日、図書館で思いついた言葉を付箋に書いてちゃんと貼り付けたはずだったのに、力が弱かったのかはたまた貼るのを忘れていたのか、どちらにせよちゃんとノートに貼り付けてられていなかったんだ。
なにやってんのよ……わたし。まあ、彼は何も覚えていないから見られてまずいものでもないからいいか。
目の前でこちらが申し訳なくなるくらい深く頭を下げている彼の肩をそっと叩いた。

「ううん。大丈夫だから。それ、捨てといていいよ」

別にまた思いついたら書けばいいだけの話だし、わざわざ返してもらおうだとかそんなことは思っていない。でも、このまま彼に持っておかれるのもなんだか嫌なので捨てておいてほしい。
それなのに彼はわたしの言葉に弾けるように顔を上げて、

「いや!それは無理!」

と、何故だか焦ったように声を上げた。

「なんで無理なの?別に捨てても呪われやしないよ」

こんなのどこにでも売っているようなただの付箋だし。呪いなんてかかってないから安心して。

「そうじゃなくて!俺、ずっと君を探してた気がするんだ。君の言葉を見たときになんつーか、心が満たされたっていうか、心を鷲掴みにされて君のポエムに一目惚れしたんだよ」

さらりとした前髪の間からぎらぎらと熱意の篭った双眸を覗かせて、興奮気味に畳みかけてくる彼に少々圧倒されてしまい、しばらく言葉が出てこなくて押し黙る。思っていたよりも熱意が相当すごくて目が丸くなってしまう。
だけど……ずっと探していたとか一目惚れしたとかそんなことを簡単に言わないでほしい、と心の中で文句を言う。
君はなんとも思っていなくたって、わたしの鼓動は嫌でも反応してしまって、さっきから心臓の音がうるさくて仕方ないんだから。

「そ、それはありがたいけどさ。別に趣味で綴っただけだから……」

やっと、声に出せたのは自分でもよく分からない弁解だった。しかも、さっきからクラスメイトの視線が痛いくらいに突き刺さっていて耐えられない。
早く会話を終わらせてしまいたい。注目されるのは慣れていないし、嫌だ。せっかく、彼と話すことができて心が躍るほど嬉しいはずなのに。
まあ、朝から騒がしく探し回っていた人物が見つかったとなれば注目を集めてしまうのも仕方ないか。相手は女子から大人気の三春櫂だし。
そんなわたしとは正反対で、みんなからの視線を気にする素振りもなく、彼は薄い唇をゆっくりと開いた。

「俺、小芝さんの綴るポエムがすごく気に入ったんだ。よかったら友達になってくれない?」

柔らかく目を細めて、わたしの前に迷いなくすっと手を差し出した。
何を言い出すのやらと最初は思ったけれど、これはチャンスかもしれない。君の幸せを見届けるための、神様がくれた最後のチャンスなんだ。それなら、わたしは目の前に差し出された、わたしの手よりもひと回り大きくて細くて長い指をした綺麗なこの手を取るしか選択肢は残されていない。

「ありがとう。よろしくね」
「お前、よかったな!探してた人が見つかって!まあ、それが小芝さんだったっていうのがビックリだけど」

濱田が櫂の肩に腕を回して、ニコニコと愉快に笑って嬉しそうに言った。

「うん、まじでよかった」

櫂は濱田にほっとしたような安堵の表情を向け、わたしからどんどんと離れていく。これで話は終わりかな、と思い小さくなっていく背中を何とも言えない寂しさを感じながら見つめていると、何を思ったのか急に彼が振り向いて、

「放課後、屋上で待ってる」

と、だけ一方的に告げると再び友達の輪の中に戻っていってしまった。
そんな一方的な約束なんて押し付けてきて、わたしに予定があったらどうするのよ。本当にそういうところ、変わってないよね。真っ直ぐで、自分の気持ちに羨ましいくらい素直で、それでいて、まるでポケットティッシュを配るみたいに優しさを人に与えることが当たり前にできる。そんな彼が人から好かれないわけがなかった。現に彼の周りにはいつも温かい愛と優しさで溢れている。
そんな誰もが羨むような優しい彼と付き合えていたわたしはずっと彼が自慢だった。何もないわたしが唯一自慢できたのが彼の存在で、すごく、すごく好きだった。どうしようもなく好きで、溢れそうになる好きを一滴足りともこぼさないように必死で抱えていたのだ。

「ねえ、美桜!すごいじゃん!あの三春くんとアタックされるなんて!友達になろうって!」

彼が去った後、一部始終を見ていた友達がすぐにわたしの元へ駆けつけてきて興奮気味に話しかけてくる。

「わたしもビックリした!でも、まあどのみち友達にはなろうと思ってたからよかった!」

彼の幸せを見届けるためには友達になることが必要だった。
だから、これはラッキーだよ。神様がわたしに味方をしてくれているのかもしれない。

「そっかぁ。でも三春くんだとライバル多そうだよね。大丈夫?」

心配そうに眉をへにゃりと八の字に下げながらわたしの顔を覗き込んで尋ねてくる。

「全然大丈夫だから心配しないで!ていうか、そういうつもりじゃないし!」

彼女に心配をかけさせたくないわたしはそう言い、精一杯の笑顔を作る。

「そっか。なんかあったらすぐ言ってね!」
「うん、ありがとう」

彼と友達になるのは二度目。そのことを知っているのはクラスメイトの西神だけ。誰も知らない。知られちゃいけない。正直、辛くないと言えば嘘になる。本当はもう一度誰よりも一番近くて、大好きな君をいつまでも見ていたい。だけど、わたしにはできない。わたしと君では難しいことが多すぎるみたいだから。先程から特に視線を感じていた方を見ると、西神が感情の読めない表情で、じっとわたしのことを見ていた。“なに”と口パクで伝えると、顔色ひとつ変えずに“別に”と口パクで返ってきた。
なんなのよ、アイツ……。
それから数分後、一日が始まるチャイムが鳴った。
何故だかいつもよりも授業内容が鮮明に耳に届いて、眠たくなる授業だって一度も眠ることなくやる気満々で過ごせたのはきっと君と過ごす放課後が楽しみでたまらなくて目が冴えてしまっていたからだ。

***

放課後。
所々ペンキの剥げた屋上の古びたドアを開けると、ギィィと錆び付いて軋む嫌な音がした。だけど、一歩外に足を踏み出すと、ふわりと吹いた春風が腰まで伸びたわたしの髪をゆらりと優しく揺らす。

「ほんとに来るのかな」

つい、不安が口からこぼれ落ちた。櫂は約束を破るような人ではないことはわかっているけれど、初めて話したようなやつといきなり二人きりになんてなる?わたしならありえないけれど、櫂だからこそありえる話だ。彼はそういう世間体や周りの目は何も気にせずに仲良くなりたいと思ったら直球で来るタイプだから。
でも、来なかったらどうしよう。それはそれでちょっとメンタルやられるかも……って違う違う。わたしのこの恋は押し殺さないとダメなんだから。来なかったらそれでよかった、となるだけでショックを受ける必要なんてどこにもない。
ていうか、何を話そう。わたしたちっていつもなんの会話してたっけ。
頭の中から過去の記憶を引っ張り出してきても、数学の先生がイケメンで筋肉がムキムキだ、とか、物理の先生の言葉の語尾は絶対に「~だからねーって」だとか、どうでもいいような、くだらない会話しかしていなかったような気がする。だけど、それがすごく幸せだったんだよね。ありふれた日常の一部を大好きでたまらない君と共有できているような気がして胸がいっぱいで小さな幸せを感じていた。なんて、もう二度と戻らない時間に想いを馳せながら屋上の真ん中に立って両手を上げ、踵を地面から離して、ぐーっと思い切り伸びをする。

「んー、はあ。気持ちいい」

頬を撫でる風が心地よくて、ふっと笑みがこぼれた。
グラウンドで汗をかいて練習している運動部の生徒たちの声や吹奏楽部が各自で楽器を奏でているのかトランペットやトロンボーンなど様々な音が耳に入ってくる。
なんか日常って感じがしていいな。
屋上から見渡す淡い赤黄色に染まった世界はちっぽけに見えて、でもそれがどこか綺麗だった。

「ごめん。待った?」

後ろから声がして振り返ると、いつの間にか櫂が今朝と変わらない笑顔を浮かべて立っていた。

「全然。わたしも今来たところだよ」
「それならよかった。うわー、ここは風が気持ちいいな」
「そうだね。春っていいよね」

屋上の真ん中にゆっくりと座り込んで、なんとなく空を見上げた。茜色をした細長い雲が色づいた春の空が目の前に広がっている。
綺麗だなぁ。ずっと見ていたくなるくらいだ。
すると、彼も同じようにわたしの隣に腰を下ろして、

「俺、季節の中で春が好きなんだ」

と、真綿のように柔らかい声でそう言った。その彼の横顔はとても穏やかで意図せずトクンと鼓動が高鳴った。
知っているよ。君が好きな季節をわたしも好きになったんだから。

「わたしも春が一番好き」

君が春の素晴らしさを教えてくれたんだよ。春だけでなく、世界には色んな美しい景色で溢れていることに気づかせてくれた。

───君は覚えていないだろうけれど。

「おっ、一緒だな。桜が綺麗なだけじゃなくて道端に咲いてるタンポポとかつくしとか彩りが綺麗で、毎日ワクワクするんだよなぁ。おまけに気候もあったかいし、こうして新しい出会いもあるさ」
「新しい出会い?」

一度聞いたことがある春が好きな理由に新しい出会いという言葉が加わっていて疑問がそのまま口からぽろりと洩れた。

「そう。今、俺と小芝さんが話してるのって新しい出会いじゃん」
「まあ……去年も同じクラスだったけど話したこと無かったもんね」

屈託のない笑みを浮かべて話す彼にわたしは平然と嘘をついた。話したことがなかったなんて、真っ赤な嘘だった。だけど、去年同じクラスになって、そこから付き合って1年近かったんだよ、なんて言ったって君には通じないから仕方ない。

「こんなことならもっと早く話しかけとけばよかった」
「なんで?」
「小芝さんといるとなんかわかんねえけど居心地よくてさ。これからもっと仲良くなれそうだから」
「なにそれ」

呆れたように笑ってみせたけれど、わたしの心臓はばくばくと騒がしく音を立てていた。
わたしだって、櫂と一緒にいると居心地がいい。“あの日”までずっと一緒にいたんだもん。彼も無意識にわたしのことを覚えていてくれたりするのかな。いや、そんなことに期待したってどうせ無駄に終わるんだからやめておこう。

「俺、小芝さんのこともっと知りたい」

硝子玉のように澄んだ瞳が真っ直ぐにわたしを捉える。

「知ってどうするの?」
「そ、それは……今後に活かす!」
「それ、活かすところある?」

彼の言葉にくすり、と小さく笑う。
やっぱり、櫂は変わらないなぁ。ずっと、わたしの好きな櫂のままだ。いつまでも君らしく、そのままでいてほしい。

「ある!だから教えて!」
「しょうがないなあ」

わたしがそう言えば、にいっと無邪気に微笑みながら「よっしゃ!」と、ガッツポーズをして喜んでいる。

「喜びすぎだよ」
「そりゃあ、喜ぶだろ。つーか、コレ捨てないからな」

そう言って見せてきたのは今朝のピンク色の付箋だった。

「まだ持ってたの?捨てていいって言ったのに」
「だーかーらー、捨てれるわけねえだろ」

眉間にシワを寄せ、ムッとした顔で少し不貞腐れたように言う。
そんな顔したいのはわたしの方なんだけどな。

「別にこんなのただの付箋じゃん」

何をそんなに大事にしないといけないの。今朝も気に入ったとか言ってくれたのは嬉しかったけどさ。

「うららかな風吹く春の日、僕は君を見つけた。
世界を染めるあたたかい春色がそっと君を照らす。
桜のように消えゆく僕は、
君を包む春になりたい──」
「っ、」

思わず、息を呑んだ。まるで春風のように優しく穏やかな声で紡がれた言葉は昨日わたしが考えて付箋に書いた言葉たちだったから。

「これ、書いた人のこと天才かと思った。心にすぅって入ってきて胸がぎゅって苦しくなるくらいなんか感動して訳わかんないくらい涙が出てきたんだ。だから、どうしてもその人が誰なのか知りたくて朝からずっと探してた」
「……」

真剣味を帯びた瞳で、真っ直ぐに伝えられる想いに胸からグッと熱いものが込み上げてくる。風が吹いて彼の艶のいい黒髪がふわり、と揺れた。

「俺ね、小芝さんの紡ぐ言葉が涙が出るくらい好きだ」

色素の薄い瞳がまろく弧を描いてお日様のように微笑む。その笑顔を目に映した瞬間ドクン、と心臓が甘く跳ねた。彼からわたしの言葉が好きだと言われるのは初めてではない。付き合った頃も言ってくれていたから。でも、またこうして好きだと言われるなんて思ってもいなかったから正直叫び出したいくらい嬉しい気持ちでいっぱいになる。

「……ありがとう」

つい緩みそうになる頬を抑えながら何とか絞り出した言葉はたった5文字だった。感じ悪いだとか思われてないかな?と少し不安になるけれど、

「そうだ。小芝さんって文芸部とか入ってんの?」

彼はわたしの態度なんて気にする素振りもなく、会話を続ける。

「いや……小説とかは書けないし、入ってないよ。わたしは好きなことや感じたことを文章にするのが好きなんだよね。趣味みたいなもんだよ」

昔から本を読むのが好きで、自分も何かを書いてみたいと思ったのがきっかけだった。何気なく過ごす日々の中で感じたことや好きだと思ったことをポエムのような短い文章にするのが好きだったけれど、それを誰かに打ち明けたことはなかった。理由は簡単で誰かに否定されたり、バカにされるのが怖かったから。わたしが書いていたものは恋愛的なものが多かったし。だけど、初めて櫂にわたしが書いた言葉たちを見せた時も今みたいにお日様みたいに笑って『すごいなぁ。俺、美桜の綴る文章が好きだよ』と優しく頭を撫でて言ってくれたんだ。
単純に嬉しかった。なんの取り柄もなかった自分が誰かに少しだけ必要とされて認められたように思えたから。それからわたしはコソコソと隠すのをやめて、好きなものを好きなだけ綴ることに決めたのだ。
昔の櫂のおかげでもう一度、今の櫂と話すことができているということになる。人生、本当に何があるかなんてわからないなぁ。

「そっか、いい趣味だな」
「三春くんは?写真撮るの、好きなの?」

彼の首にかかっている立派なカメラを指さしながら言った。本当は答えを知っているけれど、そんなこと櫂は知らないから。“三春くん”と慣れない名前で呼んだことも。

「うん、好きだよ。俺、写真部なんだ」
「そうなんだ。意外だね」

できるだけ、不自然にならないように会話に気をつける。

「それよく言われる。そんな身なりなのに写真部なんだとか」

苦笑いを浮かべてそう言いながら彼は耳を飾っているシルバーのピアスを触る。そのピアスの穴はわたしが開けたんだよ。当時、二人でいる時にわたしが会話の中でピアスをつけている人っていいよね、と何気なく言ったことを覚えていたのか次の日にピアッサーを手に持って、

『これ!開けて!美桜に俺のこともっと好きになってほしいから!』

と、本人は至って真剣な表情で言ってきてわたしが何度も説得したのに全く聞く耳を持たなかったから仕方なく開けたのだ。あの時、痛みを緩和させるために耳を保冷剤で冷やしていたけれど、ガチャン、というピアッサーの音が想像していたよりも大きくてそれに驚いてしまった櫂とわたしは半泣きになっていて、それが何故だか無性に面白くて二人で腹を抱えて笑ったっけ。懐かしいな。色褪せないわたしだけの思い出。

「見た目なんて関係ないけど、それ外さないの?」

もうわたしとの思い出なんて覚えていないのだから別に外すことだってできるのにどうして彼は未だにピアスをつけたままなんだろう。

「んー、なんか外したくないんだよな。何がきっかけで開けたとか覚えてねえけど、大事な思い出だった気がして」

息が止まるかと思った。
何も覚えていないはずなのに、大事な思い出だと記憶の中にしまい込んでいたのはわたしだけだと思っていたのに……そうじゃなかったんだ。

「そうなんだ……でも、三春くんが撮る写真、きっと素敵なんだろうなあ」

動揺を顔に出さないために話を逸らすような話題を口にしたけれど、実際わたしは彼が撮る写真がとても好きで、今だってスマホにデータが残っているくらいだ。

「自分じゃわかんないんだけどさ、俺は自分が好きだって今だって思った瞬間にシャッターを切りたいんだ。だから写真を撮りに行ってもそう思わなかったら何にも撮らないで帰ってきちゃう時とかあるんだよなあ」

一緒に行った人によく怒られる、とおどけたように笑う。
わたしもよく一緒に撮りに行ったなぁ。ある時は大自然を撮りたいと言い出して、二人で電車とバスを乗り継いで田舎の方の山を登って、またある時は海が撮りたいと言い出したから自転車で2ケツして行ったっけ。それだけでなく、ただの日常も彼はカメラに収めている。
どこまでも青く澄んだ空、今にも雨が降り出しそうな厚ぼったい灰色の雲、休憩しているのか電線に止まって一列に並んでいる雀、街中にあるちょっとオシャレなカフェの看板、その辺に生えている草に降りた一滴の朝露、どこかの小学生が授業で育てた美しい朝顔、中庭の花壇に植えられた色とりどりのチューリップ。
そのどれもが美しく、彼が切り取る世界がわたしは大好きなのだ。

「その分、撮れた写真は三春くんの好きが詰まってるように見えて素敵じゃん」

一秒、一秒を逃さずに、自分が撮りたいと思った瞬間にシャッターを押すんだから必然的にそれは彼が好きだと思った瞬間になる。写真を撮っている時の櫂は真剣な顔をしているのにどこか楽しそうに目を輝かせているから本当に心から写真が好きなんだな、と感じていた。わたしの写真は残っていないだろうけれど、いつも嬉しそうに頬を緩ませ、わたしにカメラを向けてシャッターを切っていたのを思い出す。あの時は何も気にしていなかったけれど、今の話を聞いてから改めて思い返すと彼の中でわたしのことを好きだと思う瞬間が、シャッターを切りたいと思う瞬間が、たくさんあったということになる。
わたしって、自分が思っていたよりも櫂に愛されてたんだよね。今、気づいたってもう遅いというのに。

「そうだなあ。実は今朝も無意識に撮っちゃったんだ」
「何を撮ったの?」
「怒らないでね。小芝さんのこと撮った」
「え?」

少し恥ずかしそうに目を伏せて言った彼。今は関係ないことだけど、彼は睫毛が長かったことをふと思い出した。
というか、いつの間に撮ってたの?
怒るも何も驚きの方が勝ってしまっていて、怒りの感情がまるで湧いてこない。いや、怒るつもりもないんだけれど。

「小芝さんが桜の木を見つめてるのがあんまりにも綺麗で気づいたらシャッター切ってたんだ。勝手に撮ってごめん」
「いや、ちょっとびっくりしただけで別にいいよ」

どんなふうに撮れたのかは少し気になるけれど。見せてっていうのもなんか恥ずかしくて言えない。

「よかったぁ。俺もしかしたら怒鳴られるかもと思ってヒヤヒヤしてたんだよねー」
「わたしのこと鬼か何かだと思ってる?」

ムッとした顔で見ると、彼はクスクスと笑って肩を震わせた。
なんで笑うの!わたしのこと、鬼みたいなやつだとか思われてたら結構ショックなんですけど。

「小芝さんって話しやすいよね。なんか今日初めて話した気がしない」

そんな言葉にドキリと心臓が小さく跳ねた。
櫂にとっては初めてでも、わたしにとっては違う。何度も、何度も会話を重ねてきた関係だから。櫂はわたしを思い出すことなんてないってわかっているのに、そういうことを言われるたびに心のどこかでは思い出してくれるんじゃないか、とか記憶はなくても覚えてくれているんじゃないか、と淡い期待を嫌でも抱いてしまう。もう一度、彼に近づいたらこういう思いをすることくらいわかっていたけれど、思っていた以上に苦しくて辛い。

「三春くんほどフレンドリーじゃないけどね」
「俺ってそんなふうに見えてんの」
「うん。誰にでも好かれるタイプ」
「ふーん、自分じゃわかんねえから。俺ってみんなからそう思われてんのかあ」
「そうだよ」

グラウンドを眺めているその横顔を見ていると「好き」だと口からこぼれ落ちそうになる。
彼の隣でこうして笑い合えるのはわたしの特権だったのにそれを誰かに譲らなくてはいけないなんて。心臓が握り潰されたみたいに痛むけれど、君の幸せの為にはそれが一番いいことだから我慢するしかない。

「なあ」

グラウンドからこちらへと視線を移して、曇りのない瞳がわたしを真っ直ぐに見つめる。

「ん?」
「美桜……って呼んでもいい?」

遠慮がちに呟かれた言葉が耳に届き、ただ名前を呼ばれただけなのにドッドッドッと鼓動が早鐘を打ち始める。久しぶりに名前を呼ばれてこんなにドキドキしてしまっているなんて、この先が思いやられるよ。

「……いいよ」

どうせ、ダメだって言ったって何か理由をつけて意地でも呼んでくるんでしょ。意外と櫂って頑固なところがあるし。

「まじ?やったね」

わたしの返事に、声を弾ませ、ずいぶんと嬉しそうに顔を綻ばせて喜んでいる。そんなに喜ばれたらなんかわたしまで恥ずかしくなってくるじゃん。

「あ、そうだ。俺のことも櫂って呼んで」
「え?」
「いや、俺だけ下の名前で呼んで、美桜だけ“三春くん”ってなんか距離あるくね?」
「まあ、それはそうだけど……」
「だから、これから三春くんは禁止な」

口の前で、指で×を作ると、悪戯っぽく微笑んだ。そんな彼を見て、あー、本当にどうしようもなく好きだな、と心の中で独り言ちる。

「わかったよ、櫂」

そう言うと、彼は少し照れくさそうにはにかんだ。

「ありがとう、美桜」

また、君の名前を声に出せるということに舞い上がってしまいそうになる気持ちを必死に抑えて、わたしも彼に笑顔を返した。

「なあ、美桜」
「なあに?」
「来年……一緒に桜を見ようよ。そしたら今度こそちゃんと美桜の前で俺がシャッター切るからさ」

ほんのりと頬を赤らめて視線を左右に彷徨わせながら言った櫂の言葉に胸が切なく疼いた。
来年……か。一緒に見れたら嬉しいなぁ。
君の隣で、何も変わらない日々の中で、できればわたしのことを撮ってほしいけれど、それは叶わない。だけど、嘘でもわたしは君と約束したかった。

「ふふっ、楽しみにしてるね」
「約束だぞ」
「わかったよ。ほら、指切りげんまん!」

わたしたちは、お互いの小指と小指を絡め「嘘ついたら針千本のーます!ゆびきった!」と笑い合って当たり前にあるはずの未来に約束を交わした。

―――君との二度目の始まりはまるでおとぎ話のようだった。