―――半年後。
美桜がいなくなって初めて俺たちが好きだった暖かい風吹く春が訪れた。
半年前の文化祭の日……小芝美桜は、死んだ。
あの日、教室を飛び出した美桜を追いかけたけれど、俺が次に見た彼女はもう息をしていなかったのだ。
俺は間に合わなかった。何もできなかった。
できたことと言えば、ただ、忘れたくないと強く願うことしかできず、いるかもわからない神様とやらに記憶だけは奪わないでくれ、と必死で懇願することくらい。
俺から美桜を奪ったのに、その記憶まで奪われるなんて耐えられなかった。
そして、俺の祈りが通じたのかどうかわからないけれど俺は美桜が死んでからも彼女のことをはっきりと覚えていた。まさしく、奇跡が起こったのだ。
ただ、佑香は彼女のことは覚えておらず、彼女と西神の存在は完全にこの世から消え去っていた。
これも彼が言っていた契約に関係しているのだろう。
美桜がいなくなってしばらくは生きているのか死んでいるのか分からないようだったけれど、
美桜と夢を叶えると約束した手前、叶えられずに今世を終えてしまったら来世で合わせる顔がないな、と思い、何とか前を向いて生きている。
「えーっと、確か“図書室の2列目の棚の端”って言ってたな」
そう小さな声で独り言をいいながら図書室のゆっくりとドアを開けた。
図書室に入ると紙やインクの独特な匂いが鼻いっぱいに広がる。
放課後の図書室は誰もおらず、静寂に包まれる中でチクタクと時計の秒針の音だけが俺を出迎えてくれた。
それもそのはず。もうすぐ春休みに突入することもあり、委員会もなく、よっぽど用がない限りあまり人は来ないからだ。
まあ、そのほうが俺的には好都合なんだけど。
そんなことを頭の片隅で考えながら歩き出して辺りをきょろきょろと見渡す。
「2列目ってどっち本棚の2列目だよ」
もう会うことはできない西神への文句がつい洩れた。
俺の目には左側と右側にずらりと本棚が並んでいるのが見える。
それぞれ本の種類によって分類されており、わかりやすいようにラミネートされた紙が本棚の側面に貼られている。
美桜が俺に遺したかったものというのは一体何なのだろう。
どくんどくん、と緊張感を募らせながら右側の本棚の2列目まで歩いて端を見る。
そこにはただ本がぎっしりと収納されているだけで、西神の言っていたようなモノは置いていなかった。
「はあ……」
思わず、肩を落とすと同時にため息がこぼれ出た。
フェイントかよ。無駄に緊張してしまっただろ。
ということは、左側か……?
ゆっくりと左側の本棚へと歩き出して視線を端へと向けた。
すると、明らかに一冊だけ学校で貸し出している本ではない薄い正方形の本が本棚に並べられていた。
他の本は背表紙にラベルが貼られているけれど、この本だけは何も貼られていないのだ。
これだ……!美桜が俺に遺したかったものは……!
俺は震える手でその本を本棚から抜き取った。
彼女が俺に遺したかったものは正方形の数十ページくらいの本だった。
きっとこれはアルバムのようなものかもしれない。
だって、表紙は中学の頃に俺が撮った街中にある桜並木の写真でその少し下にタイトルであろう【Nem'oubliez pas】という文字が印字されていた。
フランス語……?
どういう意味なんだろう。
今すぐ意味を調べたいけど、アルバムの中も気になるからあとにしよう。
そう思い、表紙をめくる。
目に飛び込んできたものに俺は驚きを隠せなかった。
「これって……」
それは教室の机に雑に散らばったトランプの写真だ。
きっと俺が撮ったのだろう。
そして写真のすぐ隣に黒い文字で短文が印字されていた。
―――
君の好きなことの話を聞いたり
意味の無いことをして笑い合ったり
しょうもないことで喧嘩したり
なんだかんだあの時間が幸せだった
―――
他にもアイスクリームを食べている俺の写真。
―――
アイスクリームは溶けてなくなるけど
わたしの愛はなくならないよって言ったら
なんだよそれって君が笑った夏
耳まで赤くなってたの 気づいてたよ
―――
コーンスープを両手で持って白いマフラーに顔を埋めている美桜の写真。
―――
君とベンチで白い息を吐きながら
肩を寄せ合って飲んだコーンスープは
今まで一番優しい味がした
―――
俺と美桜が離れないようにしっかりと手を繋いでいる写真。
―――
小さな幸せを積み重ねて
それが二人の道になってゆくのなら
いつかその道の先で君という名の愛に辿り着きたい
―――
これは俺と美桜の思い出が詰まったアルバムだ。
俺はこのアルバムに載っているほとんどの写真の出来事をまったく覚えていないのになぜか心に懐かしいという感情が湧き上がってくる。写真は美桜が撮ったものも混ざっていたけれど、主に俺が撮ったものばかりで、その隣には必ず美桜が考えたであろう短文が綴られていた。
いつか俺が言っていたことを美桜は覚えてくれていたのかもしれない。
嬉しかった。でも、同時にどうしようもなく寂しい気持ちになってしまう。
俺はこんなに多くの大切な思い出を何も覚えていないなんて。
美桜は一体、どんな気持ちでこれを作ったのだろう。
きっと、苦しかったはずだ。しんどかっただろう。
それでも思い出を残してくれたのだ。たとえ、俺に渡すつもりじゃなかったとしても。
胸がぎゅっと締め付けられながらも俺は何度もページを捲っていく。
最後のページは俺と美桜が見つめ合い、微笑んでいる写真だった。
―――
愛しい君と重ねた思い出に
名前をつけるなら、それは「宝物」
―――
「美桜……っ」
涙腺が崩壊したように次々と涙がこぼれ落ちてくる。
美桜はずっと密かに俺を想ってくれていたのだ。
その想いが俺にバレないように、見つからないように隠し続けてくれていた。
きっと、自分が死ぬことをわかっていたから。
そんな彼女の深い愛情に胸が痛いくらいに締め付けられる。
美桜に会いたい、会いたいよ。
会って強く抱きしめたい。
もうどこにも行かないようにこの腕の中に閉じ込めていたい。
思い返せば、君は一度も俺に“好き”も“忘れないで”とも言わなかった。
言ってしまえば、たとえ記憶がなくなるとわかっていても一時的に俺を縛りつけてしまうと思ったのだろう。
どこまでも優しい君のことだから、最後まで“忘れて”と言っていた。
果たしてそれは君の本音だったのだろうか。
君の本音はこのアルバムに詰まっていると思ってもいい?
君の好きな人は、俺だって。
世界で一番美桜に愛してもらっていたのはこの俺なんだって。
そう、思っていてもいいかな。
俺は図書室の椅子に座って感傷に浸りながらしばらくアルバムを見返していた。
そしてふと、このアルバムのタイトルの意味が気になった。
そういえば調べていなかった。
別に意味なんてないのかもしれないけれど、なんでわざわざフランス語なんだろう。
英語ならまだしもあまり馴染みのないフランス語を選んだのが気になったのだ。
俺はポケットからスマホを取り出して検索エンジンを開いた。
“Nem'oubliez pas”
ぽちぽち、と文字を打ち込んで虫眼鏡の検索ボタンをクリックする。
すぐに画面が切り替わって検索結果が表示された。
【Nem'oubliez pasはフランスでの桜の花言葉です】
「桜の、花言葉……?」
───ちなみに海外での桜の花言葉はまた違った意味があるんだって。
そういえば、海外でも違った桜の花言葉があるのだといつか美桜が言っていたことを思い出した。
「意味は……」
ばくんばくん、と緊張で高鳴る鼓動。
震える指先で画面をすっ、とスクロールする。
そして、飛び込んできた文字を読んで俺は呼吸を止めた。
【わたしを忘れないで】
視界がじわりと滲んで文字がぼやけてくる。
その刹那、ぽたり、と瞳から溢れ出た涙がスマホの画面に落っこちた。
これが、俺に最後まで言わなかった彼女の本音。
そしてその本音をこのアルバムに込めたのだ。
本当は誰にも忘れ去られたくなんてなかったはず。
それでも、彼女は俺のために。
「美桜……っ、好きだ……っ」
もうここにはいない彼女を想って俺はアルバムを胸の前でぎゅっと強く抱きしめた。
俺は何度でも君を好きになる。
もし、来世で出逢えたとして、たとえ君が俺より年上だろうが何だろうがきっと君を見つける。
そして今度こそ、二人でずっと一緒に巡る季節を過ごそう。
***
校舎から出ると、今年も綺麗な薄紅色の花を咲かせた桜の木が出迎えてくれた。
最初に美桜を見かけたのもここだった。
俺は君に惹きつけられるみたいに目が離せなかったのははっきりと覚えている。
『春になったら一緒に桜を見よう』
その約束が叶うことはもう、ない。
でも、俺たちが交わした約束がなかったことにならなくてよかった。
俺たちの大切な日々は確かに存在したのだ。
「────俺はこれからも忘れないよ。美桜」
桜の木にそう呟き、カメラを構えてシャッターを押した。
それに返事をするかのようにふわりと風が吹き、小さな花びらがひらひらと舞うように俺の手のひらに落ちてきた。
俺は脳内に愛おしい君を思い浮かべてその花びらにそっと自分の唇を重ねた。
きっと、これからも桜が舞う季節になるたびに俺は君を思い出すだろう。
どうしようもなく君に会いたくなって、想い焦がれるのだろう。
たとえ、他の誰かと恋に落ちたとしても俺はこの先もずっと君を忘れられないだろう。
他の誰かを抱きしめたなら、君の温もりをを思い出して一人泣く夜があるだろう。
だけど、俺はこの奇跡に感謝している。
今の俺に君と過ごした日々の記憶があることを美桜が知ったら、
どうして忘れてないの!って、きっと、君に怒られるだろうけれど
―――それでも俺は忘れたくなかった。
こんな俺のために自分の未来を捧げ、なおかつ自分の存在を忘れて、これからを生きてほしいと願った誰よりも優しい君という人をずっと、ずっと覚えていたかった。
たとえ、もう愛おしい顔を見ることがなくても、天使のような声が聴けなくても、その小さな体を抱きしめることができなくても、大切な君を一生このカメラにおさめることができないとしても、春の陽だまりのようなあたたかな優しさで溢れた記憶の中で、俺の世界の中心である君をずっと、ずっと変わらずに愛すから。
君の愛した世界を、俺は今日も全部抱きしめて生きていく。
Fin.