《文化祭の1日目、話したいことがあるから15時に写真部の展示会に来てほしい》

櫂からそのメッセージが来たのはついこの間のこと。
じっとスマホの画面と睨めっこしていたら「行ってやればいいだろう」と隣に座っている西神が呆れたように言った。

「いやー、話したい事って何?佑香ちゃんとのことは誤解だったって話?それは佑香ちゃんから聞いたじゃん」

中庭のベンチに座って、うなだれながらスマホの画面を落とした。
返事はしていない。既読はしちゃったけど。だって、話すのが気まずい。
櫂は勘違いされたままだと思っているし。
まあ、先走って勘違いしちゃったのはわたしなんだけど。
あれから佑香ちゃんに『櫂に振られちゃった~~!パフェ食べに行くの付き合ってよ!』と連れ出されて彼女の口からあの日の出来事をすべて聞いたのだ。
彼女は笑っていたけれど、その笑顔は空元気って感じだったからきっとわたしの前だから気丈に振舞ってくれたんだろうな。
でも一つ新たな疑問が生まれた。
櫂の好きな人って誰なんだろう。
この疑問が解けることなく、わたしは死ぬ。わたしに残された時間はもうない。
結局、あれだけ意気込んでいたのにわたしは彼の幸せを見届けることはできなかった。
それどころか楽しくて幸せな思い出が増えただけだった。

「お前は三春に後悔させたまま、死ぬつもりなのか。あれだけ幸せがどうのこうのって言ってたのに」
「だってさー」
「記憶がなくなるからか?覚えていないからか?そんなの関係ないだろ。ちゃんと今の三春と向き合ってやれ」

きっぱりと言い放った西神にわたしは目を丸くして驚いた。

「なんか西神、変わったね。前より雰囲気が柔らかくなった」

死神だから雰囲気が柔らかくなったら困るんだろうけど、前よりも人間らしくなった気がする。

「……お前たちのせいだ」
「え?」
「お前に出会って俺は感情を知ったんだ。お前たちを見ていると、誰かを想うってことがこういうことなんだと分かった気がする。今は人間の想いは素晴らしいと思うよ」

前かがみになってじっと遠くを見つめながら、穏やかな表情で口許を綻ばせた。
西神は死神だけど、きっと優しいのだ。
どういう経緯で死神になったのか、最初から死神として生を受けたのかは知らないけれど、わたしにとってはもう大切な仲間だ。
初めて会った時は一生恨んでやると思っていたけど、今はそんな感情なんてこれっぽっちもない。
むしろ、感謝している。ここまでわたしはそばで支え続けてくれたことを。

「わたしに感謝してよね」

だけど、あいにくわたしは素直じゃないから言えない。
そんなわたしに西神はまたしても呆れた視線を向ける。

「とんだ営業妨害だ」
「はは、確かに」

人の命を奪うのが死神の務めなのに人に感情移入してしまっては仕事に支障をきたすかもしれない。
だけど、西神は本気で迷惑そうな顔はしていない。
彼はいつもめんどくさそうにするのになんだかんだわたしのことを見守ってくれていた。

「コレ、本当に渡さなくていいのか」

そう言って彼が取り出したのはわたしがこの前、西神に渡したものだった。
いつか櫂が言っていたことを思い出してなんとなくスマホで作ってみたもの。
だけど、本人に渡すことなんてできず、かといって捨てることもできなくて西神に捨てておいてと頼んだのだ。
全部、忘れてしまう君にわたしとの痕跡なんて何もいらない。

「うん。わたしが死んだら捨ててね」
「最後まで面倒なことを俺に押し付けやがって」
「ごめんって。このお礼はあの世からするからさ」
「ったく、調子のいいやつだ」

なんて、言いながらもちゃんと頼まれてくれるんだ。

「ねえ、西神」
「なんだ」
「ありがとう」

今なら言えると思って感謝の言葉を口にすると、西神は驚いたように目を見開いて、すっと視線を逸らした。

「……別に俺は何もしてない」
「ううん。わたしのワガママな計画に付き合ってくれたでしょ」
「仕事だからだ」
「はいはい。それでもありがとね」

西神ってば、本当に素直じゃないんだから。
わたしから目を逸らしたのも恥ずかしいからなんでしょ。
西神という名前もわたしの見張り役として一緒に高校生活を送るというのでわたしがつけた名前だ。
いつか、西神が“死神”という役目から解放されて人として生まれ変わった時、どうか幸せな人生がそこに待っていますように。

***

文化祭当日。
1日目の今日は在校生のみでの行われることになっている。

「2年A組はメイド喫茶でーす。どうですか~~?」
「みて!あそこはお化け屋敷だよ!」

教室を出ると、呼び込みの声や文化祭を楽しむ生徒たちの声があちこちから聞こえてくる。
いつもとは違う雰囲気の校内。いつもとは違う景色。
すれ違うみんなの表情はキラキラと輝いていて今のわたしには目を背けたくなるほど眩しかった。
みんな楽しそうだ。本当ならわたしもあんなふうに笑っていたんだろうな。
ダメだ。ここにいるとどんどん気落ちしてしまう。
わたしは一人になりたくて屋上へと歩を進めた。

―――ギィィ。

屋上の扉の錆びれた音も今ではすっかり聞き慣れてしまった。
それくらい屋上に来てるってことかな。
外に出た瞬間、ふわりと風が吹いて頬を撫でた。
ちょっと肌寒いな、と思いながら両手で腕をさする。
あんなに暑かった夏が去り、季節が秋に変わろうとしているなんて。
時の流れが早すぎて、瞬きしている間にあっさりと置いて行かれそうだ。

「あー……どうしよう」

誰もいないのをいいことに口からこぼれ落ちた言葉。
わたしは本当に写真部の展示会に行くかどうかまだ決められていない。
行くべきなのか、行かないべきなのか。
どちらが正解なのかがわからずに今日を迎えてしまった。
西神はちゃんと向き合えって言ってたけど、向き合ったところですべてが今日で終わってしまうのだから意味なんてあるのかな。ちなみにわたしのクラスの出し物は宝探しのスタンプラリーだから別に当番とかがあるわけじゃない。わたしは一人で悶々としているけど、クラスのみんなは高校生活二回目の文化祭を楽しんでるんだろうな。わたしも去年は櫂と一緒にワーワー言いながら回ったっけ。
楽しかったなあ。わたしの人生は櫂に出会ってから変わった。
毎日が輝いて、生きることが楽しみになって明日が来るのが憂鬱じゃなくなった。
例え、喧嘩をして泣いたとしても彼と出会う前よりもずいぶんと楽しくて心がじわりと温かくなるほど優しい日々だった。
なんて懐かしい思い出に浸りながらわたしはぼんやりとした頭で、初めて西神……死神に会った日のことを脳内で思い返していた。

***

今から半年前の3月10日。
その日はわたしと櫂が付き合って一年になる日だった。
わたしはそんな特別な日に彼氏である櫂と大喧嘩をした。
きっかけは本当に些細なことで、記念日デートを約束していたのに櫂が一時間も遅刻して来たからだった。

『遅くなってごめん!寝坊しちゃって』

待ち合わせ場所にようやくやって来て開口一番に彼はわたしに謝罪の言葉を述べた。

『楽しみにしてたのに……!』

寝坊だと言った櫂に向かってわたしは怒りの感情と涙が込み上げてきて心の中がぐちゃぐちゃになっていた。
ずっと、楽しみにしてプレゼントも用意していたのに寝坊なんてありえない。
櫂はわたしとのデートは楽しみじゃなかったの?

『ほんとにごめん。でも俺も楽しみにしててさ……』
『……帰る』

わたしは櫂の言葉を遮って、鋭い視線で彼を睨みつけた。

『え?』

今日ばかりは許せなかったのだ。
櫂は優しいから他の女の子からも人気があって話しかけられると無視とかできないから話してしまう。
そこまでは仕方ないからいいけれど、いつも楽しそうに話すのだ。
理解しているつもりでもわたしの心の中は徐々にどろどろとした黒い感情が蓄積されていた。
それが今回の遅刻で耐えきれなくなって爆発してしまったのだ。
こんなに好きなのはわたしだけなんだって。普段は好きとかあんまり言わないし、言わなくてもわかるかなって雰囲気になってしまっているけれど、今日くらいは恋人らしい雰囲気で楽しみたかったのに。

『帰るって……』
『櫂のことなんて大嫌い!もう帰る!』
『ちょっと待って!美桜!』

怒って感情のままに思ってもいないことを口にしたわたしは引き止める櫂の腕を振り払い、呼び止める声も無視して歩き出した。
ちょうど、信号が変わってあとを追いかけてきていた櫂と離れたけれど、家までの道のりを歩いている時も、涙は止まってはくれなかった。
わたしは、不安だったのだ。最近は夜に連絡が返ってないことも多くて、櫂はわたしのことを本当に好きでいてくれているのかなという不安が消えなかった。
最初は言葉で伝えていたものが段々とお互いから消えていくのが怖かった。
一緒にいるときはすごく楽しいし、不安も消え去るのに、離れていると他の女の子と話している櫂の姿が頭に浮かんできて、不安に押し潰されそうになる。
面倒くさいと思われるかもしれないけど、それくらいわたしにとって櫂は大切な存在なのだ。
でも、あのとき帰らなきゃよかった。
寝坊するなんて疲れてたんだねって許してあげればよかった。
そしたら、櫂はあんな目に遭わなくて済んだのに。
わたしが家に着いてもずっとスマホは鳴っていて、櫂からの着信が何度も来ていたけど、すべて無視していた。
出る勇気がなかったのだ。出たらまた余計なことを言って櫂のことを傷つけてしまうような気がして。
だけど、それがしばらくすると着信がピタリと止まった。
諦めたのかな。嫌になって帰っちゃったのかな。
まあ、こんなことで記念日に怒って帰る彼女なんて面倒くさくて嫌になっちゃうよね。

『はあ……』

ぼすん、とベッドに倒れ込んで枕に顔を埋める。
頭の中でぐるぐると自分の言動を思い返して一人で反省会を開く。
どうせ後々めそめそするくせにどうしてあの時、素直に悲しかったって言えなかったのかな。
どうしてあんな思ってもない事を言っちゃったんだろう。
つくづく、自分の器の小ささに嫌気が差す。
それから一時間ほどが経ってわたしはベッドからむくりと起き上がった。
やっぱり……謝って今からでも会おう。せっかくの記念日なんだから。
そう思い、机の上に無造作に置いていたスマホに手を伸ばそうとした瞬間、再びスマホがブーブーと震えて着信を知らせた。
だけど、今までと決定的に違ったのは表示されていた電話番号が知らない番号だったこと。
なぜか嫌な予感がする。
ざわざわと妙な胸騒ぎを感じながらわたしは画面をスライドしてそっとスマホを耳に当てた。

『もしもし……』
『あ……美桜ちゃん……?櫂の母です。突然ごめんね。実は櫂が事故に遭って、今とても危ない状態なの……っ』

その言葉を聞いた瞬間、持っていたスマホがするりと手から滑り落ちた。
嘘だよね……? 櫂が事故に遭ったなんて……悪い夢だよね?
そんな……嘘だ。信じられなかった。
さっきまで一緒にいたのに、さっきまでわたしに電話をかけてきてくれていたのに、この一時間程で事故に遭って危険な状態だなんて……信じたくない。このまま会えなくなるなんて嫌だよ。神様は、またわたしから大切な人を奪うの?

『大嫌い』

醜い嫉妬にまみれた気持ちから咄嗟にそう言ってしまった自分を心底恨んだ。
大嫌いなんて思っていないくせに。本当は大好きなくせに。
わたしは居ても立っても居られなくなって床に落ちたスマホを拾い、櫂のお母さんに櫂が搬送された病院を聞くと、すぐに家を飛び出して病院に向かった。
櫂がいなくなるかもしれない、と思うと言葉では表せないほどの恐怖が容赦なくわたしに襲いかかってくる。
お願い、どうか死なないで。わたしから櫂を奪わないで。
それだけを祈ってわたしは周りの目を気にすることもせず、ただひたすらに走った。
看護師さんに案内されて急いで入った病室。
そこで目にした光景は、胸をえぐられるような衝撃的なものだった。
おばさんとおじさんがベッドで呼吸器をつけて眠っている櫂を声を押し殺して泣きながら見つめている。

『……おばさん、おじさん』

わたしの声に反応した二人の視線がゆっくりとこちらに向けられる。

『美桜ちゃん……来てくれてありがとう』

おばさんが苦しいはずなのに小さな笑みを浮かべる。

『とんでもないです……すみません。こんなことになって……』
『ううん、美桜ちゃんのせいじゃないわ。櫂のそばにいてあげて』
『……ありがとうございます』

おばさんとおじさんに頭を下げてからわたしは一歩ずつ、自分の足で櫂の方に進んでいく。
きっと、何かの間違いだ。悪い夢だ。わたしは夢でも見ているんだ。
ここに来るまで、わたしは心の中でどこかでそう願っていた。
信じられなかったし、信じたくなかったからだ。
でも、ここに来たら否が応でも彼が事故に遭ったのだという残酷な現実を突きつけられる。
ベッドに横たわっていた櫂はわたしが先程まで会っていた彼とはまるで別人のようだったからだ。
呼吸器をつけ、身体中に色んな管が繋がれていて、頭には包帯が巻かれ、整った綺麗な顔は所々にガーゼが貼られていた。
どうしてこんなことに……。
思わず、そっと握りしめた手はまだ温かくて彼が生きているのだと教えてくれる。
だけど、その手も痛々しい傷がいくつもあって胸が鋭利な刃物で切り裂かれたようにズキリと痛む。

『美桜ちゃん……櫂ね、あともって数日らしいの……っ』

おばさんがハンカチで目を抑えながら震えた声で言う。

『そんな……』

頭の中が一瞬にして白く溶け落ちるような衝撃が走る。
嘘だと言ってほしい。
あと数日で櫂は死んでしまうかもしれないなんて。もうあの大好きな笑顔には会えないなんて。
そんなの、あんまりだ。

『信号無視した車からね、小さい子を助けるために事故に……っ』

―――小さい子を助けた。

その言葉を聞いて、わたしは事故現場を見ていないのに脳内で彼が小さい子を守って車に轢かれるところが想像できた。
それくらい、その行動はどこまでも優しさに溢れた君らしいと思ったのだ。

『櫂……っ、か、い……っ』

何度も、何度も、縋りつくように愛おしい君の名前を呼ぶけれど返事はない。
どうしてわたしはあのとき帰ってしまったんだろう。
大嫌いなんて言わなきゃよかった。もっと、素直になって櫂を許してあげればよかった。
後悔したってもう遅いのに我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出てきていくつもの透明な雫が頬を伝う。

『これ、この子……ずっと握りしめてたんだって……きっと美桜ちゃんにあげるつもりだったんでしょうね。毎日夜遅くまで短期のバイト頑張ってたから』

そう言って、涙を流すおばさんがわたしに差し出してくれたのは所々破れてボロボロになってしまったピンクの紙袋だった。
バイトって……?
初めて聞く事実にわたしは驚きが隠せなかった。
最近、夜に連絡が返ってこなかったのはそれが理由だったの?

『これを……櫂が?』
『売り切れる前に買うんだって早めに出て行ってちゃんと買えたのに渡す前に事故に遭うなんてね……』
『え?』

早めに出てってどういうこと……?
わたしとの約束の時間は13時だったんだよ?
寝坊したんじゃないの?

『あの子、はりきってオシャレして出かけて行ったのに……っ』
『そんな……っ』

じゃあ、櫂はプレゼントを買うために遅れたの?
わたしは突然、明かされた秘密に動揺の色を隠すことができずに何も言えなった。
それから、あとは家族の時間を過ごしてほしいと思い、おばさんとおじさんに深々とお辞儀をしてから病室を出た。
病院を出てからのことはほとんど覚えていないけれど、機能していない頭でなんとか家に辿り着いたらしい。
部屋の電気もつけず、薄暗い中でぼぅっと紙袋を見つめる。
なんでバイトのこと、言ってくれなかったんだろう。でも、櫂のことだからサプライズにしたかったんだろうな。
そう思いながらボロボロになったピンク紙袋の中から綺麗な包装紙で包まれたプレゼントを取り出す。
包装紙は汚れてはいないけれど、プレゼントは事故の衝撃で箱が少し潰れていた。
その状態からどれほどの衝撃が彼の身体を襲ったのかがわかって心臓が握り潰されているかのように痛んで、苦しくなる。
恐る恐る、潰れた箱を開けるとそこにはピンクのケースが入っていた。
もしかして、と思いケースをパカッと開くと、わたしが欲しいと言っていた茶色い革ベルトの腕時計が入っていた。
そういえば、発売日は今日だった。人気のデザインで値段も決して安くはないから諦めていたのに……。
櫂は何気なくわたしが欲しいと言ったものを覚えてくれていて、これを買うためにバイトまでしてくれていたんだ。
それなのにわたしは……。
“大嫌い“なんて言ってしまった。
最低だ。自分のことが許せなくて、爪が食い込むほど強く拳を握る。
そして、紙袋の中に白い封筒が入っていることに気がついて封筒を開けると一枚の写真と二つに折りたたまれたメッセージカードが入っていた。
写真は中学の卒業式の時に撮った写真で、桜の木の下であどけない笑みを浮かべているわたしと櫂。
思わず、懐かしさで胸がぎゅうっと締め付けられる。
櫂のご両親に撮ってもらうのもよかったけれど、二人で撮りたかったわたしたちは三脚を立て、そこに櫂のカメラを設置してからタイマーを10秒に設定して撮ったのだ。
ああでもない、こうでもないと言いながら撮影した。もう戻れない大切な青春の1ページ。
続いてわたしはメッセージカードを手に取った。
どくんどくん、と自分のせわしない鼓動の音が鼓膜を揺らす。
ゆっくりと目を閉じて小さく息を吸ってから恐る恐るメッセージカードを開いた。
すると、そこには櫂からのわたしに対する深い愛が綴られていた。

―――

祝!今日は俺と美桜が付き合って
1年の記念日です。

おめでとう、俺たち!

これから先、どれだけ歳を重ねても
美桜と一緒にこの日を
祝えたらいいなって思ってるよ。

きっと美桜はどんどん綺麗になっていくだろうし、
そんな美桜をずっと守っていけるような男になるからさ
どうか、これからも
俺と一緒にいてほしい。

そんで、色んな美桜を
一番近くで撮らせて下さい。

こんな俺を好きになってくれて、
付き合ってくれて、幸せをくれて、
本当にありがとう。

俺の世界の中心は
これからもずっと美桜だ。

だいすきだよ、美桜。

―――

『うぅ……っ、か、い……っ』

わたしは、両手で顔を抑え、ただひたすら涙を流した。
泣いても、泣いても、心の痛みはとれなくてむしろ増すばかりだった。
いつからわたしは櫂のことをちゃんと見ていなかったのだろう。
見ていた気になっていたのだろう。
最初はみんないつまでも仲良しでラブラブでいたいと思っているはずだ。
それが、時が経つにつれて君の存在が、例えると毎日歯を磨くのと同じように生活の一部になってしまっていて、わたしは君の存在の大切さや大きさに気づけなかった。
付き合う前や付き合った頃はもっとちゃんと櫂のことを見て、聞いて、知りたいと思って毎日心を弾ませていたはずなのにいつからか櫂が隣にいる生活が当たり前になっていたのだ。
その当たり前が日常に溶け込んで、会話が減り、指を絡ませ手を繋ぐことも、ぎゅっと抱きしめ合うことも、唇を重ねることも、好きだと口にすることも、少なくなって、一緒にいられることの大切さや櫂の優しさに目を向けることがなくなっていた。そんなことよりも自分のことで頭がいっぱいだったのだ。
わたしばかりって勝手に思い込んで、櫂のことをちゃんと見ていなかった。
あの時の櫂はどんな気持ちだったんだろうか。
寂しくはなかったかな。辛かったのかな。
失ってから気づいたってもう遅いということは分かっているけれど、わたしはずっと彼が与えてくれる優しさに甘えていただけだったのだ。
言わなくてもわかる、だとか、触れ合わなくても伝わってる、だとかなんの根拠もないかっこ悪い思い込みで櫂との大切な時間を、彼の大切な気持ちを踏みにじった。
他人の考えていることなんて自分の言葉にして伝えないと分からないし、触れ合うのだって恋人として二人の仲を深めるために必要な印だったのかもしれない。
わたしは大馬鹿者だ。なんでこんな大切なこと今更になって気づくの。
櫂はいつだってわたしのことを見てくれていたのに。
その優しさで包み込んで守ってくれていたというのに。
わたしは彼を傷つけることしか出来なかった。
そこにある当たり前に慣れて、1番大切にしたい人の気持ちを蔑ろにしてしまっていたなんて最低だ。
そのまま何をする気にもなれず、気づけば外は暗くなって頼りない月明かりが部屋をほのかに照らしていた。
わたしは夜になっても櫂を想って泣いて、完全に心ここに在らずという状態だった。
何をしていても何を食べても頭の中に浮かぶのは櫂のことばかりで、なにも手につかなかった。
部屋の中で膝を抱え、蹲り、何度も何度も君を想って泣いていた。
どうして櫂があんな目に……?
できることならわたしが代わってあげたい。
櫂はわたしの生きる希望だった。何もないわたしに“何か”をくれた人だから。

『お願い……っ、神様がいるのなら櫂を助けて……っ』

何か起こるわけでもないのにそんな祈りが口からこぼれ落ちた。
そんなとき、部屋の中が目を開けていられないほどピカッと眩しく光った。
な、なに……!?
何が起こったのかわからず、恐る恐る瞼を開くと目の前に知らない20代くらいの男性が立っていた。

『だ、誰?!』

なんで部屋の中に入れているの!?
戸締りはちゃんとしたはずだ。
わたしが驚いているのに顔色一つ変えずに『俺は死神だ』と当然のように言い放った。

『えっ!?』

し、死神……!?
わたしのイメージしていた死神はもっと細くて骸骨みたいで、マントのようなものを頭から被っているものだったから目の前の死神とはかけ離れているけれど、実際はこんな感じなんだろうか。
いや、そもそも現実世界に死神なんているわけない。
これは夢だ。わたしが現実を受け入れたくないあまり、都合のいい夢を見てしまっているのだ。

『嘘じゃない。時間が無い。お前だろ?俺をここに呼んだのは』

質のいい高級そうな漆黒のスーツに黒い革靴を履き、律儀にハットまで被っている黒ずくめの男性は少々焦り気味に話し出した。

『どういうこと……?』
『お前の願いを叶えてやる』

その言葉に嘘は感じられなかった。
もうこの際、夢だろうが現実だろうがどうでもいい。

『本当に……!?』

それなら櫂を……っ!
きっとわたしの祈りが神様に届いたんだ。
いや、来たのは神様じゃなくて死神だったけれど。
こんなのバカだと笑われるかもしれない。
だけど、今のわたしには目の前に突然現れた死神と名乗る彼を信じて縋りつくことしか残された道がなかった。

『ああ。ただし……条件がある』
『条件……?』

死神の口から出た言葉にドキリと心臓が跳ねた。
確かに何にもなしで願いを聞いてもらおうなんて図々しいにも程があるか。

『そうだ。それを呑めばお前の願いを聞いてやる』
『その条件って?』
『お前の願いの大きさによるな。願い事と相応のリスクを背負うことになる』

それは……大きな願い事をすればするほどわたしの身が危険に晒されるということなのかな?

『……じゃあ……櫂を助けてって言ったら?』

そう言葉にした声は自分でも情けなるほど震えていた。
どう返答が返ってくるのか、気になる。
だけど、それと同時にどうしようもない恐怖も感じてしまったのだ。
残酷な答えだったらどうしよう……と考えてしまうから。

『お前が半年後、三春櫂の代わりに死ぬ』
『え……?』

半年後……?
わたしは思わずゴクリと乾いた喉を鳴らした。
だって……半年後に自分が死ぬなんて考えられない。

『さあ、どうするんだ?別にわざわざお前が犠牲になる必要はない。最後に決めるのはお前だ』

ドクンドクンと心臓が大きく音を立てながら動いているのがはっきりと分かる。
半年後……この音が止まってしまうと思うと正直震えあがるほどに怖い。
それでも……わたしにはどうしても守りたいものがある。

『お願いです、櫂を助けてください……っ。彼は……わたしにとって世界で一番大事な人だからっ……』

両親を亡くしてからどこか埋まらない寂しさを抱えて毎日、特に変わったこともなくなんとなく過ぎていく日々。
そんな中で、君と出会い、恋に落ちてわたしの世界は変わった。世界の美しさを知ったんだ。
わたしは幼い頃から、喉から手が出るほど何かを欲しいと思ったことはなかった。
みんなが欲しがるようなおもちゃもゲームも、特段ほしいと思ったことはなくてわたしには物欲がないのだと思っていた。
だけど、彼だけは違った。どうしても欲しくて、誰にも渡したくなかった。

わたしの寂しさを温かい愛情で満たしてくれた人。
わたしが何よりも大切にしたい人。
ずっとそばにいてほしいと本気で思った人。
誰よりも幸せになってほしいと願える人。

―――それが櫂だった。

暗闇の中を歩いていた私の手を取って、光の射す方へと導いてくれた底なしに優しい人なのだ。
だから……だから……。

『お願い……っ、助けてぇ……』

わたしはみっともなく死神の足に泣きつくように必死に頼んだ。
櫂だけは、わたしから奪わないで。
どんな終わりになったとしても彼だけは、生きていてほしい。
例え、もう君と一緒には生きられなくてもわたしは君が生きてくれててくれるならそれでいい。

『……分かった。叶えてやろう。その決断をしたのはお前が初めてだよ』
『え?』
『みんな、自分の命を優先する。人間は結局自分のために生きる人間かと思っていたけどそうじゃない人もいるんだな』
『そっか……でも、本当に大好きなの。ただそれだけだよ』

他にどんなに理由を探したって最後の最後に行き着くのは“彼が好き”だということだった。

『好きだけでこんな決断をするとはな』
『愛って深いんだよ。人を愛することで強くも弱くもなれる。その中で、こんなにも好きな人に会えたことがなんの取り柄もないわたしにとっては人生で一番の誇りなんだ』

人のことなんて好きになれないと思っていた。
荒れ果てた世界でたった一人、君に出会った。
真っ直ぐで努力を惜しまない、そんな君に惹かれていた。
わたしの人生は君と出会わなければもっと平凡で面白くもない人生だったと思う。
わたしはこの恋を忘れたくない。

『あともう一つ条件がある』
『なに?』
『三春櫂が目を覚ましてもお前のことは覚えていない。周りの記憶も改ざんさせてもらう。付き合っていたということは誰も知らないことになる』

櫂はわたしのことを忘れてしまっている。
だったら、わたしは半年間、彼に近づかない方がいいのかもしれない。

『そして、お前が代わりに死ぬまでの半年間で三春櫂に近づけば近づく程、お前が事故で亡くなった後、三春櫂の中でお前の存在は薄いものとなっていき、記憶が消される』
『え……?』

近づけば近づくほど……半年間の記憶まで消えてしまうのか。
なんて残酷なんだろう。だけど、人の命や運命を変えるということはそれだけ大きなものなのだろうな。

『例えば、半年間でお前が三春櫂と特に関わらずにただのクラスメイトで終えたとするなら彼の記憶の中でお前はただのクラスメイトだったということになるが、深く関わって友達や恋人で終えたら彼の中でお前の記憶は全てなかったことになる。思い出すこともない。もちろん、周りの人間の記憶も一緒に改ざんする』

きっぱりと冷たく言い放った死神の言葉がグサリと心に刺さって呼吸が止まる。
思い出すこともない、か。
わたしが半年間で彼と親密な関係になればなるほど、わたしがいなくなった後、櫂の中でわたしの存在は完全になかったことになってしまうということだ。
それどころかわたしが生きていたという証は誰の心の中にも残らない。すべて消えてしまう。

『……それでも本当にいいのか』

何も言わないわたしに死神が今度はそっと問いかける。

『うん、それでいい。どうせ忘れちゃうなら櫂に幸せになってもらうために半年間、頑張るよ』

好きな人を作ってもらって、わたしがいなくなっても楽しく生きていけるように。
将来の夢を全力で応援して、背中を押すことでいつか君の夢が叶うように。

『わかった。これで契約成立だ』

わたしはこの時に人生最後の瞬間まで、君に捧ぐことに決めたのだ。

***

あれからもう半年が経ったなんて早いなあ。
この半年間でわたしは櫂にどれだけの恩返しができただろうか。
まだまだ足りていない気がするけれど、もうお別れだ。
櫂は展示会にどんな写真を出品しているんだろう。
ふと気になった。風景写真かな。それとも人物写真だろうか。
どちらにしてもやっぱり最後にこの目に焼き付けておきたいな。

「……最後くらい西神の言うことも聞いてあげるか」

何度もわたしの言うことを聞いてくれた西神。
きっと、わたしと櫂のことを想って言ってくれたのだろう。
その気持ちを無駄にしちゃダメだよね。
まあ……ただ、わたしが櫂の写真を見たいだけなんだけど。
大丈夫。わたしなら、きっとちゃんとさよならできるから。
心の中で自分を励ましながらわたしはひっそりと覚悟を決めて屋上を後にした。

午後14時半過ぎ。
約束の時間より少し早く展示会場の多目的室に着いた。
入口には“写真部 展示会へようこそ”と書かれた手作りの看板が置かれていてワクワクと妙な緊張が入り混じった気持ちを抱えながら部屋へと足を踏み入れた。
部屋の中はいつもは何もないただの教室なのに今日は等間隔でパーテンションがいくつも立てられており、そこに額縁に入った作品たちがタイトルと一緒に飾られていた。
時間が中途半端な時間だからなのかわたし以外の人はいない。
せっかくだからみんなの写真も見て回ろうかな。そう思い、わたしはゆっくりと室内を歩き出した。

道端で休憩している猫、
友達と笑い合っている人、
黄昏時の空、
夜空を飾る色とりどりの花火、
真っ直ぐに凛と咲く向日葵。

その人が切り取ったその人だけの世界をじっくりと見て回る。
そして、わたしは部屋の一番奥のパーテンションに引き寄せられるように歩みを進め、そこに飾られている作品が視界に映った瞬間、呼吸を止めた。
なんで……どうして……?

「……っ」

今までずっと隠し続けていた彼への叶うことのない想いが胸の奥から一気に込み上げてきて、それが涙となってわたしの頬を幾度となく伝う。
こんなの、ズルいよ。わたしの決意が揺らいじゃうようなことしないで。
全部、全部、覚えていないのに。忘れちゃっているのに。

そこに飾られていたのは―――満開の桜の木を見上げて微笑んでいるわたしだった。

きっと、初めて話した日に勝手に撮ってしまったといっていた写真だ。
視線を写真から下にずらして、彼がつけたこの写真のタイトルを見る。

「うぅ……っ」

その刹那、思わず堪えていた嗚咽が洩れた。


【僕の世界の中心 / 三春櫂】


ひしひしと伝わってくる君からの想いに胸が張り裂けそうなほど、痛くて、息ができなくなるみたいに苦しかった。
もう、終わってしまうというのに。
わたしと君が幸せに生きる世界も、同じ未来を生きていける世界も、もうどこにも存在しないというのに。
次々に溢れ出てくるわたしの涙は、伝えられない君への想いのように思えた。
ダメだ。やっぱり櫂には会えない。帰ろう。

「美桜」

ふと、後ろから名前を呼ばれ反射的に振り返った。
そこに立っていたのは一番会いたくなかった人……櫂だった。
会いたくなかったのに。どうして上手くいかないのかな。

「ええ!?なんで泣いてんの!?」

まさかわたしが泣いているなんて思ってもいなかったのか慌てたようにそう言って、頬を伝う涙を親指でそっと拭ってくれる。
このあたたかい手が好きだった。そのさりげない優しさが好きだった。
ほら、櫂に会うとわたしもダメになっちゃうんだよ。
どうしようもない感情が湧いて出てくるから困っちゃう。

「……なんでも、ない」

わたしのことを展示してくれたことが嬉しくて切なくて泣いた、なんて言えるわけがない。

「ごめんな。勝手に展示しちゃって」

なんでもないわけがないのに、そこは深く追求しようとはしないところにも彼の優しさを感じてまた泣けてくる。

「ううん、大丈夫」
「あのさ、美桜」
「なに?」

硝子玉のような澄んだ瞳がじっとわたしを見つめる。
わたしたちの間に妙な緊張感が流れ、それに便乗するようにわたしの鼓動がどんどん加速していく。

「―――好きだ」

彼の口から飛び出した言葉をすぐには理解できなかった。
いや、その言葉の意味を理解したくないだけ。
本当はさっきの写真を見た時から薄々感じていた。
だけど、見なかったことにしようとしたのだ。
だって、それはわたしが向けられていい感情じゃないから。

「美桜のことが好きなんだ。だから……」
「ごめんなさい。わたし好きな人がいるし、櫂の気持ちには応えられない」

何か言われる前にわたしは櫂の言葉を遮った。
これ以上、真っ直ぐな気持ちを向けられるのが耐えられなかったからだ。
わたしは西神を好きな設定になってるし、これでいい。
もうすぐ、すべてなかったことになるのだから。

「……俺は、美桜に死んでほしくない」
「え?」

ぽつりと小さな声でこぼされた言葉。
今……美桜に死んでほしくないって聞こえたような気がする。
まさか、櫂はわたしの命がもう長くないことも知っているの?

「な、なに言って……」
「俺は美桜に生きていてほしい」

不純物なんて一つも含んでいない澄んだ瞳で真っ直ぐ見つめられると、途端に何も言えなくなってしまう。
叶うのなら、ずっと、ずっとこの幸せの中にいたかった。
許されるなら、ずっと、ずっと一緒にいたかった。

「ごめんね」

言葉を発した瞬間、鼻の奥がツンと痛み、目の縁から涙が染み出てきて視界が歪む。

「一緒に桜見れなくてごめんっ……約束守れなくて……っ」

涙で震える声で何度も謝罪の言葉を口にする。
せっかく約束してくれたのに破ってごめんね。
最初から守れないこともわかっていたのに嘘をついてごめんね。

「なにいってんだよ……そんなの……」

悲痛に満ちた表情を浮かべている櫂の瞳からぽたりと透明な雫が乾いた床に虚しくこぼれ落ちた。

「……ごめんね」

そんな彼にわたしは謝ることしかできなかった。
こんなことをしてもわたしが彼に近づいた時点で彼が苦しむことは避けられないってわかっていた。
それでもわたしは君に幸せになってほしかったんだ。
それはお前のエゴだと言われても、何でもいい。何を言われたって痛くもかゆくもない。
だって、君が明日も変わらずに生きて、この先も美しい世界をその目で見続けることができるのだから。
そして、わたしのことは綺麗さっぱり忘れて自分の人生を生きていけるのだ。

「謝んな。何かお前が生きられる道があるかもしれねえだろ!」

声を荒げて必死にわたしの手を握る彼の手は微かに震えていた。
わたしのことを想って彼の目からこぼれ落ちる涙さえも愛おしく思えてくるなんてわたしはかなり重症なくらい櫂のことが好きなんだなあ。
全部、全部、大好きでいいところも悪いところもまるごと愛していた。
ううん、愛している。

「ないよ。わたしは死ぬの。櫂との思い出は全部わたしが持っていくから櫂は安心してわたしのことを忘れてね」

大丈夫だよ。
君と過ごした時間も思い出もわたしが忘れずにあの世に持って行くから。
だから、櫂はもう忘れていいんだよ。そういう契約だから。
君はわたしが消えた後は苦しまないでどうかお日様みたいに優しく笑っていて。
だけどね、本当はわたしも君と一緒にまた二人が大好きな春に淡いピンクが咲き乱れる満開の桜を見たかったんだよ。
でも、もう時間切れ。明日の朝にはみんなの中からわたしという存在は消えてなくなっている。
誰も覚えていない。それでいい。わたしは君のために消える。
全ては君のために、愛する君のために、決めた道だった。
だけど、君との別れは辛くて苦しくて心臓がえぐられるみたいにズキズキと痛んでどうしようもないほどの悲しみが湧いてくる。
それでも、限られた時の中でわたしは君に恋して、愛することができて本当に幸せだったよ。
君を好きになっても楽しいことばかりじゃなかった。
醜い嫉妬もしたし、たくさん泣いた。でも、その分たくさん笑い合った。
数えきれない思い出たちがわたしの胸の中でキラキラと宝石のように輝いているのだからやっぱりわたしは君に恋してよかったと心の底から思っている。
だからお願い、わたしのことは記憶から消し去って。
そして、いつか出会う大好きな人と愛し合って世界中の誰よりも君が幸せであることを願ってわたしは逝くよ。

「いやだ。俺は美桜と一緒にいたい……!」
「無理なんだってば……っ!わたしはもうすぐ……いなくなるから!」
「好きなんだよ!何回だって言ってやる!俺は美桜が好きだ!大好きだ……っ!」

切なげに表情を歪ませて、ぽろぽろと大きな瞳から透明な雫をいくつも零しながら言う。
ふわり、と身体があたたかいものに包まれ、彼はぎゅっと強く、強くわたしを抱きしめた。
ほっとしてしまうくらいあたたかくて懐かしい体温にじわりと視界が滲んで涙の膜が張る。

―――ずっと、この人に触れたかった。

あぁ、このまま時が止まればいいのに……と叶いもしない願いを何度も心の中で願ってしまう。

「なんでまた好きになっちゃうかなあ……っ」

わたしだって、許されるのであれば“好き”だと言葉にしたい。
でも、ダメだから。
言葉にできない代わりにつぅっと頬を伝う涙は君への想いが詰まった雫。
君を幸せにするために自分の気持ちを殺して、計画だって立てたのに。
どうせ、わたしとの記憶も消えてしまうなら他の人と結ばれて幸せに生きてほしいと思ったのに、どうしてまたわたしを好きになっちゃうのかな。
神様は意地悪だ。だけど、どれだけ残酷なさよならになろうともあの日、すべてを決断した自分の選択を後悔はしてない。
だって、櫂がここにいて、わたしを抱きしめて、生きてくれているから。

「美桜……」
「わたしの方が先にあの世に行くから、今度生まれ変わって会う時はきっとわたしの方が櫂よりお姉さんだね」

人は自分が生きた年数分は絶対にあの世で過ごさないといけないらしい。
だから、君より先に死んでしまうわたしは生まれ変わって生を受けるのも君よりも早いと思う。
たとえ、生まれ変わったとしてもまた君と出会える確率なんて数パーセントだろう。
もしかしたらそれよりも低いかもしれない。
それでも、もし出会えたとしたらわたしは年が離れていようときっと君を好きになる。

「嫌だ……っ、俺は生まれ変わりなんかじゃなくて今を生きて……三春櫂として小芝美桜だけを愛したいっ……」
「泣かないで。櫂が泣いてたらわたし安心して死ねないよ」

君には笑っていてほしいから。

「死なないでくれ……!」

どういう意図があったのか知らないけれどわたしの秘密を教えたのはきっと西神だろう。
だけど、わたしが櫂の身代わりで死ぬことは教えていないみたいでよかった。

「ごめんね。たくさん傷つけて、たくさん泣かせて。でも、わたしに数え切れないくらいの思い出をくれて本当にありがとう。叶うなら永遠に櫂といたかった」

一緒に他愛のないことで笑い合ったり、時にはぶつかり合って喧嘩したり。
そんな何気ない日々をこれからも二人一緒に歩んでいきたかった。

「美桜……っ」
「最後に一つだけ、わがまま言ってもいい?」

――――本当は忘れて欲しくなんてない。わたしはあなたの中で生き続けたい。

なんて、欲にまみれた言葉は声に出来なかった。
だって、言ってしまえば君をもっと苦しめることになるとわかっていたからだ。

「それでわたしの写真、撮って」

そう言ってわたしは櫂が首からかけていた愛用のカメラを指さした。
櫂は一瞬、驚いた顔をしたけどすぐに首を上下に振って距離をとるために後ろに下がる。
その様子を見ていたわたしは彼の作品の横に立って、これ以上ないくらい微笑んで見せた。
すると、櫂が腕で涙を拭ってカメラをかまえた。

「はい、チーズ……っ」

―――カシャ。
わたしが聞くのは最後になるであろうシャッター音が室内に切なく響いた。
わたしも、櫂も、顔が涙でぐしゃぐしゃだった。

「ふふ、ありがとう。これで満足だよ」

悔いなく、死ぬことができる。
その刹那、心臓がドクンと大きな音を立てた。
もうタイムリミットが迫ってきていることに気づいたわたしは「櫂、わたしの分まで生きて。幸せになるんだよ。じゃあね!」と告げてから教室を飛び出した。
櫂の前では死ねない。死にたくない。せめて誰もいないところで。
そう思うのに段々と息が苦しくなってきて少し走った先の廊下の壁に背を向けてズルズルと座り込んだ。

「はあはあ……っ」

苦しくて、息が乱れる。
大きく肩を揺らしながら胸元をぎゅっと強く握りしめた。

「ちゃんと話せたか」

そこに現れたのは初めて出会った時と同じ服装をした死神だった。

「お、かげ、さまで……っ」

わたしの言葉に死神が「そうか。ならよかった」と言って切なさを孕んだ目を細めた。

「櫂が、こない……うちに……っ」

あの世へ連れて行って。
櫂が来たら本当に諦めがつかなくなるから。

「そうだな。さあ、小芝美桜。そっと目を閉じろ」

わたしは言われるがまま、瞼を閉じた。
すると、息苦しさが消えて段々と意識が遠のいていく。
君の生きていくこの先の世界にもうわたしはいない。
思い出すこともない。永遠に忘れたまま。
だけど、それでいい。
君が苦しんで生きていくのはわたしの望むことではないから。
君との思い出はわたしが全部、覚えている。
何年経っても、何百年が経とうとも忘れはしない。
君に恋をしたことを、二人だけのかけがえのない時間があったことを、二人が想い合った日々があったことを忘れたくない。
だって、わたしが忘れてしまったら誰があの日々を思い出して大切にするの?
幸せだった日々を思い出して泣くのは簡単。だけど、その日々を大切に思うことは難しい。
君にとってわたしはどんな存在だった?
わたしにとって君は世界で誰よりも幸せに生きていて欲しくて、何にも変え難い、大切な存在だったよ。
君にとって、わたしもそうだと嬉しいな。

わたしに歩幅合わせて歩いてくれるところとか
さりげなく車道側を歩いてくれるところとか
いつもそっと優しく頭を撫でてくれるところとか
感動系の映画を観たら絶対わたしより泣いてるところとか
写真撮るのは上手いくせに撮られるのには
慣れてなくて真顔になっちゃうところとか
ちょっと字が汚いところとか
君のなにもかもが大好きで、愛おしくて好きが溢れてくる。
想えば、想うほど心が君で溢れていく。

大好き。愛してる。もうそんな言葉では表しきれないほどに。
でも、もう君には言えないから。
メッセージを送信する為に“か”と打つと変換のところに一番最初に出てくるのは“櫂”という君の名前で、それを押すと次に変換のところに出てくるのは“好きだよ”の四文字だった。
当たり前のように伝えられていた想いはいつの間にか伝えられなくなっていた。
たった、四文字が伝えられない。それがどんなにもどかしかったか。
好きで好きでたまらなくてどうしようもなくらい君を想っても叶わないことくらいわかっていた。
そして、この想いが叶ってはいけないことも。
毎日来る君からのメッセージが嬉しくて待ち遠しくて、ついつい夜更かししちゃって次の日が眠くても幸せだなって思えちゃうくらい君が好きだった。
すぐに返したら気持ち悪いかなって思ってもちょっとでも多く会話したくて結局すぐにトーク画面を開いてメッセージを送っちゃっていたり、何をするにも君を優先してしまって周りの人にちょっと怒られちゃったり、わたしの世界は君を中心に回っていた。
わたしがこんなことをしていたって知ったら、なんで自分を犠牲にしたんだって、きっと、君は怒るだろうけれど、それでもわたしは君にありふれた幸せをあげたかった。
世界で一番幸せになってほしいと思ったから。
自分を犠牲にしてもいいと思えるくらい大切で大好きな人だから。
櫂、好きだよ。大好き。
だから、どうか幸せになってね。

―――美桜、ありがとう。俺は絶対に君を忘れないから。

消えゆく意識の中で、わたしの世界の中心である誰よりも愛おしい君の声が聞えた気がした。