数日後の放課後。
あれから運悪くすぐに席替えをすることになり、美桜とも離れてしまい、なんとか話しかけようとしてもぎこちない笑みを返されて誤解もとけていない。
そんな勘違いをされたままの状態の日々が続いていた。
このままじゃいけない、そう思うのに俺の頭の中もぐちゃぐちゃになっていて何も整理ができていない。
今日はあいにくの雨でただでさえ憂鬱なのにどんよりとした灰色の重たい雲を見ていると、もっと憂鬱な気持ちになる。
すっきりしない気持ちを抱えたままでぼうっとしていると、気が付いたら教室にいるのは残り数人となっていた。
はあ、そろそろ帰ろう。こんなところにいても、もう美桜は帰ってしまったからどうすることもできないし。

「三春、ちょっといいか」

帰ろうと席を立った瞬間、珍しく西神に話しかけられた。

「え、あ、うん」

まさか西神から話しかけてくるなんて思ってもいなかったから動揺が丸出しの返事になってしまった。
それでも西神の表情はぴくりとも崩れることはなかった。
一体なんの話をされるのだろうと一瞬考えたけれど、その答えに俺はすぐに辿り着いた。
きっと美桜のことだろうな、となんとなく想像がついたからだ。
それ以外に西神が俺に話しかけてくることなんてないだろうし。
西神は美桜のことが好きなのだろうか。この前に、好きな人はいないと言っていたのは彼なりの気遣いだったのだろうか。
あの時……西神は、どんな気持ちで美桜の涙を見ていたのだろう。

「教室に人がいなくなったら話がある」

人がいたら話しづらいってことか。それか人に聞かれたらまずい話とか。
俺は西神の言葉に「わかった」と返す。
すると、西神は何も言わずに自席へと戻ってクラスメイトが帰るまで本を読み始めた。
俺はこんなに不安でいっぱいだというのにアイツは至って普通そうで少し腹が立つ。
まあ、西神が取り乱しているところなんて想像はできないけどさ。
することもない俺はスマホを取り出して暇つぶしにSNSを開いた。
しばらく経ってからぐるりと教室を見渡す。
誰もいない。俺と西神の二人だけとなった。
あまりにも静かな教室内はザーザーと降りしきる雨音がやけに大きく教室に響いて聴こえる。
諦めろ、とか言われんのかな。
どっちにしてもいい内容じゃない気がするな。

「話ってなんだよ」

重たい沈黙に耐えられなくなった俺はそう話しかけた。
その言葉に西神が立ち上がってふう、と息を吹き出す。
そして、覚悟を決めたようにゆっくりと瞬きをした。
長い前髪の間から覗く彼の双眸にはやっぱり光は宿っていない。それにその瞳に見つめられると途端に身体が金縛りにあっているかのように動かなくなってしまう。でも、俺はなぜだか目が逸らすことはできなかった。
何を言われるのだろう。少し身構えてしまう。
そんな張り詰めた空気の中で西神が口を開いた。

「小芝美桜のことが好きなのか?」
「え?」

思ってもいなかった質問に拍子抜けした声が洩れた。
それが聞きたくて呼び止めたとか?
西神の考えていることはいつもわからないけれど、今日はとくにわからない。

「どうなんだ」
「好きだけど、それがどうしたんだよ」

やけくそのように言ってしまった自分の心の狭さに呆れてしまう。
これじゃあ、まるで小学生のガキみたいじゃねえか。

「全部、忘れても小芝美桜のこと好きになるんだからお前たちの愛は本物だな」

その刹那、西神はふっ、と口唇を緩めた。
今まで見たことがない優しいその微笑みに俺は目を見開いて驚いた。
そんな顔して笑えるのにどうしていつもはあんなに無表情なんだろうか。
そう思ったけれど、すぐに違う疑問に思考が支配された。
彼が今言った言葉の意味が俺には理解できなかったのだ。
全部忘れても?俺たちの愛が本物って?
どういうことなんだろう。
西神は何か知っているのだろうか。
それにさっきからなんで美桜のことをフルネームで呼ぶんだろう。

「……どういうことなんだ?」
「本当は契約のことは誰にも話さないのが決まりだが、あまりにもお前たちが不憫だから教えてやろう」
「契約……?」

なんなんだ、それは。
俺たちが不憫って……?
一体、西神は何者なんだ。
色々な疑問が次から次へと頭の中に溢れてくるのにどれも声にはならない。

「俺の正体は西神という人間ではなく、死神だ」
「し……に、がみ?」

突然のことに頭がついていかず、言葉が途切れ途切れになる。
西神は人間ではないということなのか?
そもそも、死神って俺が知っている死神なんだろうか。
命を奪いに来るというあの死神?

「そうだ。信じられなくても当然だろうが、これは事実だ」

そう言うと、西神は中指と親指でパチンと音を鳴らした。
すると、目の前にいたはずの西神がいつの間にか黒いスーツを着た成人男性へと姿を変えていた。
これが死神なんだろうか。本来の西神の姿なのか……?
信じたくなくてもこうも目の前で見せつけられると、彼は死神なのだと信じざる得ない。
だけど、死神と美桜が一体なんの関係があるんだよ。

「わ、わかったから……」
「もうすぐ、小芝美桜は死ぬ」

心臓がどくん、と嫌な音を立て、背筋が凍りつく。

「は?」

美桜との関係性を聞く前に西神……死神は表情を一つも変えることなく、さらりと言い放った。
頭から水を浴びたように何も考えられなくなって頭の中が真っ白になり、全身の力が抜けてガクリと膝から崩れ落ちた。
美桜が……死ぬ?
ありえない。今日だって元気に生きていたのに。
そんなの嘘だ。信じらない。信じたくない。
美桜がいなくなるなんて……そんなの、耐えられない。

「安心しろ。たとえ小芝美桜が死んでもお前は彼女の存在を覚えてはいない。苦しむこともない」
「……は?なんだよ、それ。さっきから何の冗談なんだよ」

頼むから、悪い冗談はやめてくれ。
美桜が死んでも美桜の存在を俺は覚えていないだなんて。
それもさっき言っていた“契約”に関係しているだろうか。

「そういう契約だからな。現にお前は小芝美桜との関係性を何も覚えていないだろう」
「関係性って……俺たちは最近仲良くなって……」

すっと俺の前に差し出された一枚の写真を見て、俺は言葉を失った。
そこに映っていたのは桜の木をバックにして弾けるような笑顔を浮かべている俺と……美桜だった。
俺は学ランで美桜はセーラー服。
手に黒い筒を持っていることから卒業式の写真だと思う。
だけど、俺にはこんな写真を撮った記憶はない。というより、美桜と同じ中学だったなんて知らなかった。
そこに映っている俺たちは仲睦まじい姿で笑い合っていて、まるで恋人同士のように見える。

「―――お前たちは、恋人“だった”」

その言葉を聞いた瞬間、頭を鈍器で思い切り殴られたような強い衝撃が走る。
俺たちが恋人だった……?
信じられないはずなのに、何かの嘘だと言いたいのに、死神の言う通り俺たちが恋人だったと仮定すると自分の中で散らばっていた点と点が繋がっていくような気がしたのだ。

―――わたしね、映画館で流れる予告を観るも好きなんだ。
―――え、なんで?
―――スマホやテレビで観るのとでは当然聞こえ方も観え方も違う。それって映画館でしか味わえないから特別な気がしない?
―――まあ、俺は――と観る映画だったら何でも特別だけど。

初めて4人で映画を観たときに脳内で流れた会話も。
あの時、聞き取れなかった名前も。

―――うわー!どれにするか迷うなあ!ホイップドーナツもチョコクランチドーナツもいいなあ。アップルパイも捨てがたい……どうしよう。ねえ、櫂はどれにする?
―――俺は――が迷ってるアップルパイにしようかな。半分食べていいよ
―――え、いいの!?ありがとう!

甘い物が好きじゃない俺が無意識にアップルパイを選んでいたことも。
誰かの記憶でも、夢でもなくて、君と俺が過ごした紛れもない大切な日々の一部だったのだ。
身体に沁みついていた癖も、それほど君を大切にしていたという証。
事故から目覚めてから心にぽっかりと空いた穴の正体は、美桜だった。
俺がずっと探していたのはやっぱり美桜だったのだ。
どうして俺が美桜を忘れてしまったのかはわからない。
事故の後遺症なのかもしれない。美桜が俺に真実を話さなかったのは知ってしまったら俺が混乱するかもしれないという優しさだったのかな。それなのに俺は何にも知らずにまた君を好きになった。
全ての記憶がある君はどんな気持ちで俺と話してくれていたんだろう。
どんな気持ちで俺と一緒にいてくれたんだろう。
少しの気まずさも見せずに気丈に振舞ってくれていたんだろうな。

―――ああ、もうどうしようもなく君が好きで愛おしい。

色々な感情がこみ上げてきてそれが涙となり、頬をつぅっと伝う。

「どうして俺だけが忘れてるんだ……っ。どうして……っ」
「それは言えない。契約内容までは話せないからな」
「本当に美桜は死ぬのか……っ?また俺は美桜を忘れてしまうのか……っ?なあ……っ!ふざけんな……!」

俺は死神の胸ぐらを掴み、涙で震えた声で叫んだ。
どうして自分だけが彼女を忘れてしまうのか。
彼女はそのことを知っているのだろうか。
俺は大切な人と過ごしたかけがえない時間はおろか、大切な人を忘れていることすら覚えていないなんて。
どこまでも情けない自分に腹が立って仕方がない。

「小芝美桜は死ぬ。そしてお前は彼女のことは忘れてしまう。本人もそれは知っている」

胸ぐらを掴んでいた手からふっと力が抜けた。抑揚のない死神の声が今の俺の心には突き刺さるように痛い。
美桜も知っているのか……。自分が死ぬことがわかっているなんてあまりにも辛すぎるだろ。

「美桜が死なない方法はないのか?なあ、お願いだよ。助けてくれ……見逃してくれ……それか代わりに俺が……だからどうか……彼女だけは……」

死神に縋りついたって無駄だってわかってる。
けれど、どうしても現実を受け入れられなかった。
いつか美桜がこの世からいなくなることも。美桜という大切な存在を忘れてしまうことも。
何もできずにただ泣くことしかできない自分が無力で、情けない。

「残念だが、お前にできることは……最後の日まで小芝美桜のそばにいてやることしかない。それが彼女が決めた運命だから」

そんなのあんまりだ。
どうか、時間が永遠に止まってほしい。ずっと美桜が生きていられるのならそれでいい。

「俺は忘れたくない。美桜のことを二回も忘れてしまうなんて嫌だ……!」

またこうして君を好きになれたのに。新しい思い出だってたくさん作れたのに。
それなのに……すべてなかったことになるなんて。

「運命は変えられないんだ。諦めろ」
「……俺は絶対に美桜を忘れない」

ぽつり、とこぼれ落ちた言葉。その声はまだ震えていた。
そんな俺を何も言わずにじっと見つめる死神。
頬を伝う涙を制服の裾でごしごしと拭い、小さく息を吸って俺はもう一度、口を開いた。

「忘れないよ。絶対」

絶対、絶対に。
契約だろうが何だろうが俺は君を忘れない。
定められた運命かなんだか知らないけど、運命なんてものは俺が変えてみせる。

「……そうか。もし、お前がその日を迎えてもなお小芝美桜のことを覚えていられたのならお前たちが好きだという春になってから図書室の2列目の棚の端を探せ。そこに小芝美桜がお前に遺したかったもの……彼女が生きた証を置いておく」
「なんで……なんでそこまでするんだよ」

美桜の命を奪うのは目の前にいる死神だというのにどうしてそこまで肩入れするんだろう。
俺の言葉を聞いて、死神は目に悲しい影を浮かべながらやるせなさそうに口許を緩めた。

「賭けだよ。俺は小芝美桜から奪うことしかできない。何かを与えてやることはできないんだ。だから、せめてアイツの想いくらいはお前に届けてやりたいと思ってな。お前が忘れてしまったらアイツの想いはもう誰にも届かない。永遠に見つかることはない。だから……どうか、どうか忘れないでやってくれ」

そう言った死神の言葉に嘘は一つも感じられない。
ただ、死神としての使命を果たさなくてはならない無念のようなものも同時に伝わってきた。
きっと、死神もずっとそばで見守ってきた美桜のことを大切に想っているはずだ。
そんな人をあの世へ連れていなければならないなんて。
心の中で必死で葛藤しているのかもしれない。
だからこそ、自分にできる最大限のこととして俺に話してくれたんだろう。
やっぱり、西神は悪い奴じゃない。
優しいやつだ。俺の目に狂いはなかった。

「わかった。話してくれてありがとう。お前はやっぱりいいやつだよ、西神。さすが俺の友よ!」

俺がそう言って笑うと、目の前の彼は大きく目を見開いてから呆れたように微笑んだ。

「友……か。お前はどこまでも変わらないな。お前が人から好かれる理由がなんとなくわかる気がするよ」

お前は前に人のことを想うなんてできないと言っていたけど、それは違うよ。
お前はもう人のことを想ってる。死神だとかそんなの関係ない。
西神は俺の大切な友達だから。

「俺、美桜にちゃんと気持ち伝える。好きだって言いたい」

美桜が死ぬということを受け入れたわけじゃない。
そんなの受け入れられるはずがない。
でも、ちゃんと好きだってことを愛しい君に伝えたい。
誰かに想いを伝えるって簡単なことのように思えて難しいものだ。
自分の気持ちをさらけ出すのは勇気がいる。
失敗したらどうしようって考えたら言葉が出てこない。
それでも、伝えてみないと始まらないことだってある。
たとえ失敗したとしても伝えられずになかったことになっていくよりはマシだ。

「そうか。俺には何もできないが、きっとお前の想いは小芝美桜に伝わるさ」

そう言いながら何を思ったのか西神は窓際まで歩いていく。
立ち止まった場所は美桜の席だ。
そして何を思ったのかカーテンを開けて裾を持ち上げた。
瞬間、カーテンで隠れていた窓が晒され、何かの文字が見えた。
誰かが湿気で曇った窓に落書きをしていたらしい。
恐る恐る近づいてぼんやりとしていた文字がはっきりと読めたとき、胸がぎゅっと苦しくなるほど締め付けられた。

「こ、これって……」
「奇跡を起こせ。三春櫂」

―――相合傘の絵の中に美桜/櫂と書かれていた。

胸いっぱいに君への想いがどこまでも続く海のように広がっていく。
この落書きはもうすぐ消えてしまうだろう。
それでも俺の気持ちは消えない。
美桜、君はずっと俺のことを想ってくれていたんだな。
何も知らなくてごめん。
きっとたくさん泣いてたくさん傷つけただろう。
昔の写真を見返した時に黒い靄になっていたのはたぶん美桜だったんだろう。
俺たちは数えきれない思い出を作って、大切な日々を過ごしていたんだな。
そんなかけがえのない時間を俺も心のどこかで覚えていたんだろうか。
美桜、好きだ。大好きだ。
ほら、君を想うとこんなにも心が温かくなる。
俺はまた、君に恋をして、君を好きになれてよかった。


―――たとえ、君との出会いが運命じゃないとしても俺は最後まで君を想い続ける。