長いようで短かった夏休みが終わり、今週から新学期に突入していた。
あれだけ毎日蝉の鳴き声で騒がしかったのに今ではかなり静かになって季節の流れる速さを感じる。
今日は新学期になってさっそく進路についての二者面談が開かれることになっていた。

「小芝の現時点での進路は大学進学だな」

進路指導室のぽつんと置かれた綺麗な机に担任の先生と向かい合わせに座り、聞かれたことに「はい」と答える。

「よし、わかった。この成績だと現状を維持できれば合格できるから気を抜かずに頑張ろう」
「わかりました」

そう返事をしたけれど、進路希望の用紙に書いた大学の名前なんて適当だ。
本気でその大学に進学するつもりはないし、できない。
最初から行くつもりもないけれど、とりあえず形だけでも何か書いておいたほうがいいと思って書いただけ。

「教室に戻っていいぞ」
「失礼しました」

先生の指示に従い、進路指導室から出た。
ちょっと寄り道してから教室に帰ろうかな。
そう思い、屋上に行くまでの間にぼんやりとした頭で彼のことを考える。
櫂は一体どんな進路を選択するのだろう。
本当は夏休みに二人で花火なんてするつもりはなかったのになあ。
西神と佑香ちゃんも誘って、櫂と佑香ちゃんの距離を縮める作戦を立てていたのにわたしは自分の誘惑に負けたのだ。
好きな人から二人で会いたいと言われたら、どうしても断れなかった。
わたしは全てにおいて中途半端だな、と反省する。
屋上の古びた扉を開けると、ギィと軋む音が耳に届く。
今ではすっかり聞き慣れた音だ。

「はあ~~~やっぱりここはいいなあ」

ここは風を全身で感じることができる。
九月の生ぬるい風がわたしの頬をそっと撫でた。
順番的に櫂はまだ先生とは話してないかな。
出席番号が結構後ろだもんなぁ。
そういえば、西神はこの面談をどう乗り切るつもりなんだろう。
わたしと一緒かな。なんて、考えながら乾いた地面にゆっくりと腰を下ろした。
サボってるのがバレたら怒られそうだけど、たまにはいいよね。
そっと、目を閉じた。
もう十七歳か。あっという間だったな。
ついこの間までランドセルを背負っていたような気がするのにもうセーラー服も脱いで今ではブレザーは着て、高校生活を送っているなんて時の流れの速さに驚いてしまう。
今まではこんなに感傷に浸ることなんてなかったのに終わりが近づいていることを知っていると人って普段考えないようなことも色々と考えてしまうんだな、と思う。

―――バンッ!

ものおもいにふけっていると後ろから勢いよく扉が開く音がした。
反射的にそちらに視線を向けると、息を切らして肩を揺らした櫂が立っていた。
その瞳はどこかおぼろげで、いつもとは違っていて何かあったことくらい聞かなくてもわかるほどだった。

「……どうしたの?」
「……美桜?」

今にも消え入りそうな掠れた声でわたしの名前を呼んだ櫂。
無我夢中で走ってここまで来て、わたしの存在にも気づかないくらい何かを考えていたんだろう。

「まあ、こっちに来てここ座りなよ」

二者面談で何かがあったんだろう。
それくらい今のわたしにだって容易に予想できた。
じゃないと、あの聖人君主みたいな櫂がこんなにも取り乱したりすることなんてない。
彼は言われた通り、わたしの隣に静かに座った。
ただ何も言わない。二人の間に沈黙が流れるだけ。
わたしはただ静かに風を感じていた。
わたしから何かを聞いたところできっと彼は大丈夫だと言うだろう。
だから、彼から話し始めるまで待つことしかわたしにはできない。
櫂はそういう人だということを知っているから。

「……難しいんじゃないかって言われた」

しばらくの沈黙の後、彼が蚊の鳴くような声でそう呟いた。

「写真家として生きていくのは簡単な事じゃないからって」

その少し震えた声には悔しさが滲んでいた。
きっと先生に現実的なことを言われたのだろう。
大人はわたしたちよりも長く生きているから夢を叶えるという大変さをよく知っているんだと思う。
先生だって、完全に否定したいわけじゃないはずだ。でも彼の夢はあまりにも狭き門だから思うところがあるのかもしれない。

「……そっか」
「昨日、親にも相談したら『写真は趣味なんでしょ?趣味や好きな事で生きていけるほど世の中は甘くないの。現実を見なさい』って言われてさ。悔しくて、でも言い返せなくて。どっかで自分もわかってたからかな。黙って自分の部屋に籠ることしかできなかった」

何も、言えなかった。
きっとご両親も大切な息子の将来を心配しての言葉なんだと思う。
でも、彼にとっては一番応援してほしい人に認めてもらえなかった苦しみがあるのかもしれない。
わたしは悔しそうに唇を噛みしめて、視線を落とす彼に何というのが正解なのかわからなかった。
すると、彼は続けて「情けねえよな」と自嘲気味に笑った。
今の自分に一体何ができるというのだろう。一丁前に君の夢への背中を押すと決めていたはずなのに、いざそれを目の前にすると、なんて声を掛けていいのかさっぱりわからない。
わたしには夢なんてキラキラした眩しいものは持っていないから。

「悪い。こんな暗い話して」

今にも泣きそうな顔で、苦しみが滲んだ笑顔を向けられる。
そんな顔がみたかったわけじゃない。
わたしは君にずっとお日様のような笑顔でいてほしいんだよ。
わたしには夢はないけれど、諦めきれないものはある。
昔からわたしは人に流されやすい性格でこれになりたい、といくつかの夢を抱いても全て周りの人の【それはしんどいよ】【大変だよ】などという言葉を信じて、それならいいやとすんなり諦めて生きてきた。
所詮、それくらいの気持ちでしかなかったから。
でも……そんなわたしにもどうしても諦められない人がいる。

それは櫂―――君だよ。

君だけはどう頑張ったってどう自分に言い聞かせたって諦めきれなかった。
わたしの言葉がどこまで君に響くか、届くかはわからないけれどわたしは君の夢を全力で応援したい。
櫂は写真を撮っている時が一番輝いていることをわたしは知っている。
誰よりも写真に対しての情熱があることも。
だから、わたしは覚悟を決めるように小さく息を吸ってゆっくりと口を開いた。

「夢って好きや憧れが詰まってて響きも聞こえもいいけどさ、実際はそれだけじゃなくて叶えるまでに何度も苦しんで、たくさん悩んでたくさん泣いて。それでもみんながみんな叶うわけじゃないでしょ」

突然、話し始めたわたしに櫂は一瞬目を大きく見開いた。
だけど、すぐに真剣味を帯びた眼差しでこちらをじっと見つめる。

「辛い事だって上手くいかないことだってこれからたくさんあると思うし、頑張って努力してもそれが報われるとは限らない。それでもいつか叶うって信じて追い続けなきゃ叶うものの叶わないんじゃない?」

諦めたらそこで試合終了という大人気漫画のセリフでもあるように、その人が諦めてしまったらそこでその人の夢は終わってしまう。二度と叶わなくなってしまう。
だけど、こんなことを言っておきながらわたしは諦めないことがすべてだとは思っていない。
諦めることも人生には時に必要だと思うから。
でも。

「もし、叶わなくても必死で夢に対して向き合ったその時間や経験は決して無駄じゃないし、いつか自分の人生の財産になると思う」

たとえ、途中で夢に破れたとしてもその夢を叶える為に必死に頑張った努力はきっといつかの自分の役に立つとわたしは信じている。
無駄な努力なんてこの世には存在しない。今は無駄に思えても数年後、数十年後に当時の自分に感謝したくなる時が来るはずだ。

「まあ、夢を諦めることも追い続けることも難しいことだと思うから簡単には決められないよね」

そう言いながら何だか恥ずかしくなってきて後ろに体重をかけ、乾いた地面にごろんと寝転んだ。
目の前にどこまでも青く澄んだ空とペンキで雑に塗られたような雲が広がっている。
櫂の未来だって、この空みたいに無限に広がっているのに。
その可能性を捨てないでほしい、と身勝手だけど思ってしまう。人間、好きな何かを諦めるのってすごく勇気のいることだ。
それは夢だけじゃなくて人だってそう。たとえば人を好きになって、どんなに想っても報われなくて、傷つけられて、周りからやめといたほうがいいよとか、もっといい人がいるって言われたって簡単に諦めることなんて無理なんだ。
だって、好きになっちゃったから。わたしは大丈夫ってどこかで信じていて心の中で淡い期待を抱いて。
たとえ、それで傷つけられたとしても好きだという不思議なフィルターがかかっているから自分にはこの人しかいないって思っちゃうものなんだよ。
誰かに言われて、それくらいで諦められるのならもうとっくに諦めている。
数々の夢を抱いてすぐに諦めたわたしのように。
でも、そんなわたしでも君のことだけはどうしても諦めきれなかった。
手放せなかった。いや、手放したくなかった。
自分の人生を捧げたとても、君の未来を諦めたくなかったんだ。
先程から一言も言葉を発さない彼の方をちらりと盗み見る。
その瞳は迷いと不安で満ちており、小さく揺れていた。
そんな瞳をどうにかしたくて必死に今自分が伝えられるだけの想いを言葉に詰め込むように声にする。

「人の夢を笑う人はきっと素直に自分の夢を追い続けられる人が羨ましいんだよ。それに人の努力を笑うような人は一生夢なんて叶えられない」

人は簡単に嫉妬心を抱くものだ。
それはどれだけ善良な人間でも持っている心だと思う。
でも、別にそれはおかしいことじゃない。
ただ、嫉妬心を抱いて人の夢や努力を笑うようなやつには自分の思い通りにはいつまで経っても生きられない。
焦っても、羨ましくても、努力し続けた人だけが思い描いた未来を生きられるのだ。

「……俺は才能もないしさ、不安なんだよ」

やっと口を開いた彼から出た言葉は、とても弱々しいものだった。
正直、何の夢もないわたしには彼の不安の本質は理解できないし、わからない感情だ。
それでもわたしは言わなきゃいけない。
いつか無責任だと思われてもいい。罵られても構わない。
“今”彼の背中を押すことができるのはこのわたししかいないのだから。

「まだ挑戦もしてないのにもう弱気になってんの?櫂の写真に対する思いを先生とご両親に全部ぶつけてからでも遅くないんじゃない?わたしは応援してるから」
「美桜……」

にっこりと白い歯を見せると、不安げな瞳と目が合った。
まるで太陽が重たい雲で隠されているかのように光の見えないひどく暗い表情だ。
見ていられなくなって、思わず目を逸らした。
ずきん、と胸が痛む。
わたしが怖気づいてどうするの。しっかりしなきゃダメだ。櫂は今きっと不安で仕方なくて誰かが背中を押してあげなきゃいけない。
ゆっくりと一度瞬きをしてから彼に視線を向けながら「色々偉そうに言っちゃったけどさー」と言葉を続けた。

「これだけは胸を張って言える。わたしは櫂の撮る写真がすごく好きだよ。未来の自分が後悔しないように生きて」

色々と言ったけど結局わたしが伝えたかったのはこれだ。
すると、彼の不安げな瞳が大きく見開いて、一粒の透明な雫がぽろりと乾いた地面に落っこちた。
どうか、未来の自分が人生を振り返った時に君が後悔することがないように生きていてほしい。
その時にはもうわたしが隣にいないとしても。
数年経って、君の夢が叶っていないとしてもそれでもいいから、今ここで諦めないでほしい。
今ここで諦めたら君はきっと後悔する。それだけは嫌なの。
自分が納得するまで追いかければいい。歩き疲れたなら休めばいい。
だから、どうか今は諦めないで。

「ずっと不安だったんだ……あんなにでっかい夢を語ったくせに本当に自分に叶えられるのか自信がなかった。でも、親と先生から無理だって言われて、ムカついて……俺、自分で思ってる以上に夢をこんなに大事にしてたんだなって気づいて……。
だから美桜の言葉聞いて、絶対に今諦めたらいつまでも後悔すると思うから諦めたくないって思った……っ。やれるところまで頑張りたい……っ!」

いくつもの涙が彼の乾いた頬を濡らす。
その表情は先程とは打って変わり、迷いの吹っ切れた清々しい表情をしていた。
もう大丈夫。なんとなくそう感じた。

「その気持ち、ちゃんとみんなに伝えな。きっとわかってくれるから」

櫂のご両親は優しいから彼の本気の気持ちを理解して応援してくれると思う。
彼の底なしの優しさはきっとご両親譲りだから。

「うん……っ!ありがとな、美桜」

屈託のない笑顔を向けられ「どういたしまして」とわたしの笑みを返した。

「まあー!たくさん努力して頑張って、それでもダメだったら神様なんてぶん殴ってやろうよ」

へらりと笑いながらそう言って、体を起こした。

「おー、美桜って見かけによらず、結構怖いこと言うのな」
「わたしは本気だからね」

そう言いながらグッと拳を櫂の方へ向ける。

「そりゃあ、心強いわ」

にっこりと微笑んだ櫂にもう迷いはなかった。

「よし、じゃあ相談料としてコンビニでアイスおごりね」

君に幸せになってもらうために頑張らないといけないのに未だに君との思い出に縋りついているわたしは気づけばそんなことを言っていた。
またわたしの口は勝手に余計なことを言ってしまっている。
ほんとに困ったやつだなあ、と自分で呆れてしまう。
わたしは櫂とコンビニで買ったスイーツやお菓子、飲み物をビニール袋に入れて片方ずつ持って他愛もない会話をしながらフラフラと歩く時間が好きだった。どちらかが持つんじゃなくて二人で持つことで重さを分かち合える気がしてなんだか嬉しかったんだ。あの頃みたいにもう重さを分かち合うことはできないけれど、あと少し、あと少しだけそばにいさせて。

「え、そんなんあんの」
「うん!てことで、放課後行くからよろしく!」

いつの間にか逞しくなった背中をポンッと軽く叩いた。
わたしはちゃんと君の背中を押すことができたかな?
今のわたしにはそれだけしかできない。願うことしかできない自分がもどかしい。
だって、その未来にわたしはどうやっても辿り着けないから。

―――どうか、君が生きる未来が明るくあたたかな愛情と優しさで溢れたものでありますように。