『なあ、美桜。トランプやろうよ』

春休みが目の前に迫った放課後。
生徒がいなくなって二人きりになった教室でトランプが入っているケースを持ち上げながら櫂が言った。

『いいよ。今日も勝つけど大丈夫?』
『いや、今日は俺が勝つ!』

得意げに笑っているけれど、この男はババ抜きがめちゃくちゃ弱い。
理由は簡単。すべて顔に出てるからだ。
わたしがジョーカーを引きそうになると本人は気づいていないだろうけど口角が上がっていて、逆にジョーカー以外を引きそうになると唇を引き結んで困ったような表情をする。
だから、毎回わたしは勝っている。たまに可哀想だから負けてあげたりしていたけれど最近はしていない。

『何連続負けてると思ってるの?この前で5連続だよ』
『言わなくていいって!つーか、俺がわざと負けてやってるんだよ!』
『はいはい。わかったよ。トランプシャッフルするから貸して』

櫂からトランプを受け取って、適当にトランプを切る。
なんで毎回ほぼ勝つことが分かっているのにわたしが櫂とトランプをしているかというと、好きな人の可愛いところがたくさん見れるからだ。
初めて話したあの日からわたしたちは急速に仲を深めていて、放課後にこうしてよく一緒にいることが多くなった。
そして、わたしは櫂に片想いをしている。

『負けた方は罰ゲームとして相手に秘密にしていることを白状するっていうことにしようぜ』

シャッフルしたトランプをそれぞれの前に交互に置いていく。

『うわ、櫂の秘密知れちゃうんだ』

わたしたちはトランプをするたびに罰ゲームを課すことにしていて、罰ゲームの内容は毎回変えている。
よくやる罰ゲームはアイスやジュースを奢るとか自分にできる最大限の変顔をするとかいう可愛いものばかり。
まあ、そのほとんどの罰ゲームは櫂が実行しているけど。

『なんでもう俺が負けること確定なんだよ!』
『だって、櫂弱いじゃん』
『うるせえ。ほら、勝負だ、勝負』

ちょうど配り終わったトランプを持ってさっそく同じ数字のカードがないか確認している。
そんな櫂をみてクスリと笑いながら自分の手札を確認して揃っているカードを机の上に出す。
わたしの手札にジョーカーがあるということは今きっと櫂はニヤニヤと嬉しさを隠しきれずに下唇を噛んでいるはずだ。
そう思いながら顔を上げると、予想通り下唇を噛んで喜びを堪えている。

『ふふ、ジョーカーが手元にないからって油断してたら引いちゃうよ』
『油断してねえよ!今日は負けねえぞ』

そう言いながらどちらから先に引くか決めるために『じゃんけんぽん!』とじゃんけんをした。
その結果、わたしが先に引くことになり、

『これにしよっと』

引いたカードはスペードの3で手札にあったダイヤの3と一緒に机の上に出した。

『よし、次は俺だな』

その言葉を聞いて彼がトランプを引きやすいように前に持っていくと、わたしの顔をじっと見つめながら一枚一枚カードの上を触っていく。
そんな櫂は真剣そのものでつい噴き出してしまいそうになるのを必死に堪える。

『おい、笑うなよ』

堪えきれずに肩が揺れてしまっていたことに気づいた櫂がぴゅと唇を尖らせて拗ねている。

『ごめんごめん。あんまりにも真剣だったから』
『今日の俺はジョーカーなんて引かねえんだよ』

そう言いながら自信満々に引いた一枚のカード。
それを自分の手元に戻してカードをみた瞬間、櫂はため息をついてわかりやすく肩を落とした。

『さっそく引いてるじゃん』

開始1分も経たないうちにわたしの元にあったジョーカーは彼のところへと行ってしまった。
自信満々にジョーカーを引いてしまうあたり、櫂らしくて自然と笑顔がこぼれる。
そういう真っ直ぐで純粋なところに惹かれたんだ。

『最後にジョーカー持ってなかったらいいだけだし。勝負はここからだ!』

なんて言っていたのに、数十分後には目の前で机に伏せて『なんで毎回負けるんだよ~』と嘆いている櫂。
そう、勝負はまたわたしが勝った。
あれからジョーカーがわたしの手元に来ることはなく、勝負は終わりを迎えたのだ。

『櫂がわかりやすすぎるからだよ』

慰めるようにそう言い、ふわふわの黒髪をそっと撫でる。

―――好きだなあ。櫂のこと。

心の声が洩れてしまわないように意識するけれど、自然と頬が緩んでいくのが自分でもわかる。

『うるせえな』
『で、櫂がわたしに秘密にしてることってなんなの?』

何を言われるんだろう。
櫂がわたしに言えない事。まったく想像がつかない。
彼がむくりと体を起こして、真っ直ぐにわたしを見つめた。
その表情はどこか緊張しているような気がする。
そんなに言いにくいことなのかな、とわたしも少し身構えて彼の言葉を待っていると、覚悟を決めたような顔をして形のいい唇がゆっくりと開いた。

『俺、美桜のことが好きだ』
『……え?』

突然の言葉にわたしは思わず呼吸を止めた。
今、なんて……?

『友達としてじゃなくて恋人としてこの先もずっと美桜と一緒にいたい』
『……っ』
『って、思ってること美桜には秘密にしてた。俺はバカだけど美桜のこと幸せにしたい気持ちは絶対誰にも負けないから俺と付き合ってくれませんか?』

そう言い切ると、頭を下げてわたしの前に右手を差し出してきた。
今どき、手まで差し出して告白してくる人がいるんだと頭の片隅で余計なことを考えながらもドクンドクンと高鳴る鼓動が鼓膜を揺らす。
ずっとわたしの片想いだと思っていた。実らない想いを抱えながら君の隣で過ごしていたんだ。
それがまさか両想いだったなんて。
嬉しくて幸せな気持ちで胸がいっぱいになり、それが涙に変わる。

『……わたしも櫂が好き、大好きだよ。よろしくお願いします』

涙を拭いながら、差し出された手を取ると、弾けたように彼が頭を上げた。
そして、涙で潤んだ瞳が柔らかく孤を描いた。

『まじで嬉しい。今、俺が世界で一番幸せだわ』
『ふふっ、わたしも』

お互い、喜びを隠しきれず照れくさそうに笑う。
そんなわたしたちを窓から射し込んだ夕暮れの光が暖かく照らしてくれる。
大好きな人と同じ気持ちだということがわかり、幸せな感情が心の底から湧き上がってきて真っ直ぐに櫂を見つめることができない。
だけど、

『美桜、大好きだ』

そんな言葉と共に彼の綺麗な顔が段々と近づいてくる。
やがて、二つの影が重なって甘く愛おしい時間が流れた。


***


「美桜ちゃん!起きて!次、移動教室だよ!」

そんな声が遠くの方から聞こえてきてハッと瞼を開いた。ぱちぱちと数回、瞬きをしたあと視界に飛び込んできたのはこちらを心配そうに見つめている佑香ちゃんと櫂、西神の姿だった。
授業が終わって、いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。
さっきのは夢というよりわたしの記憶。中学3年の時、櫂に告白されて付き合った日の甘く幸せな記憶だ。
なんでこんなときに思い出してしまったんだろう。
今でもわたしはあの幸せに縋りついてしまっているのだろうか。
あの時は冗談なんかじゃなく、本気でずっと一緒にいられると思っていた。
でも、その幸せを自ら手放したのはわたしなのだ。
今更、こんな夢を見たってどうにもならない。わたしが生きる現実は変わらない。時間を巻き戻すことなんて不可能なのだから。

「ごめん、寝てた」

教科書とノートを机の中から取り出して、机の上に置きっぱなしにしていたペンケースも忘れずに持って急いで椅子から立ち上がる。

「珍しいね、美桜ちゃんが寝るなんて。櫂はいっつも寝てるから珍しくもなんともないけど」

移動先の教室へと歩き出してすぐに佑香ちゃんがわたしの顔を覗き込んで、視線を櫂へと向けながら言った。
わたしたちの前を歩く櫂と西神。
4人で遊びに行った日からわたしたちの距離は少しずつ縮まってきているように思える。

「おい、俺だって起きてるときあるわ」

佑香ちゃんの言葉に櫂が気に食わないとでも言いたげな表情を浮かべながら振り返った。

「いや、櫂はいつも寝てるでしょ」
「教科書見てたら眠くなるじゃん」
「それ認めてるのと同じだよ」
「佑香と同じで鋭いねぇ、美桜は。助けてくれよ、西神」

そう言いながら櫂は西神の肩をトントンと叩く。

「……俺に助ける義務はない」
「うわー、お前が一番ひどいわ。俺、泣いちゃうよ?」
「お前はよく泣くからな」

そんな二人のやり取りを後ろから見ながら、クスリと笑いが洩れた。
さすが、櫂。
あの西神にも何の遠慮もなしに話しかけている。
西神に君たち二人のコンビ好きだけどなあって言ったらきっと嫌そうに眉をひそめて「アイツと一緒にするな」って否定してくるんだろうな。

「ね、あの二人いつの間にか仲良くなってるよ」

耳元でこっそりと囁かれた佑香ちゃんの言葉にわたしは深く頷いた。
佑香ちゃんは仲良くなってみると、すごくいい子で安心して櫂を任せることができるなと改めて思っている。
なんて、上から目線みたいになってしまうけれど。

「ほんとだね。櫂ってすぐ誰とでも仲良くなるからすごいよね」
「まあ、櫂は昔っから人見知りとかしなかったから」

西神と戯れている櫂の背中を優しい眼差しで見つめながら言った佑香ちゃん。
その顔はまさに恋する女の子の顔だった。
ズキンと痛んだ胸の痛みには気づかなかったフリをした。

「そうなんだ」
「うん。コミュ力お化けなんだよ」
「確かに」

余計なボロを出さないように気を付けながら会話をする。
彼はコミュ力お化けで明るいからきっと彼の夢である世界中へいつか飛び立っても色々な人に助けてもらいながらも生きていくんだろうな。
なんか、想像できるよ。

「あ、そうだ。美桜ちゃんって西神くんとどういう関係なの?」
「え、ただの友達だよ」
「ふーん。そうなんだぁ」

疑うような瞳でニヤニヤと頬を緩ませている彼女はどこか楽しそうだ。

「佑香ちゃんこそ、どうなの」

そう言いながらチラリと視線を櫂のほうへ向ける。
すると、彼女は慌てたように「違う違う!何にもないから!」と小声で言った。
そのリアクションをみたら”櫂のことが好きなんだろうな”という疑惑がわたしの中で確信に変わった。

「それ逆に怪しいよ」

クスクスと肩を揺らして笑っていると、タイミング悪く櫂が振り向いた。

「何が怪しいんだよー」
「いや、聞こえてたの?地獄耳すぎない?」

わたしが言うと、櫂はますます眉間にシワを寄せて疑いの眼差しで見つめてくる。

「誰が地獄耳だよ」
「櫂しかいない」

わたしと櫂で話しているけれど、ここは佑香ちゃんに会話をパスしないといけない、と頭の中で考える。

「お前なー」
「ね、佑香ちゃんもそう思うでしょ?」

だから、わたしは櫂が何か言う前に隣を歩いている佑香ちゃんに会話を投げかけた。
これでいい。わたしにできることなんてこれくらいしかないのだから。
わたしは西神のことを好きだという演技をするのだ。
それが今のわたしの役目。この気持ちは最後まで押し殺すって決めたんだ。

「うん、普段はバカなんだけどね」
「佑香に言われるとなんかムカつくな」
「なによそれ、どういう意味?」

さすがは幼馴染。言い合いの息もピッタリ合っている。

「あ、西神。今日の授業ってこのページって言ってた?」

そんな二人の邪魔をしないように西神に声をかけて、自分の隣に招く。
すると、廊下に広がらないように歩いているから必然的に櫂と佑香ちゃんが並んで歩くことになる。
映画を観に行った日と同じ。
わたしが櫂の隣を堂々と歩くことなんて許されない。
チリリと焦げるように痛む心を無視してこれでいい、と何度も、何度も繰り返して自分に言い聞かせる。

「顔に”辛いです”って書いてあるぞ」
「……気のせいだよ」

前を向けば、視界に入ってくるのは自分ではない人と並んで楽しそうに笑い合いながら少し先を歩く大好きでたまらない人の姿。
誰が見てもお似合いの二人が付き合うのは時間の問題なのかもしれない。
君がもし他の誰かと無事に付き合えた時はちゃんと「おめでとう」と伝えられるように頑張るから。

「相変わらず、バカなやつだな」
「ちょっとは慰めてくれてもいいのに。冷たいヤツだなあ」
「俺は忙しいからお前に構っていられないだけだ」

今日もわたしの知らないどこかで彼は自分に課せられた使命をこなしているのだろう。
忙しいはずなのに、わたしに時間を割いてくれているところに彼のぶっきらぼうな優しさを感じる。
まあ、彼は自分のことを優しいだなんて微塵も思っていないだろうけど。

「はいはい。どうせわたしは暇ですよーだ」
「こんなことして意味なんてあるはずがないのに」

不貞腐れているわたしに、追い打ちをかけるように西神が嫌味を言ってきた。

「意味はあるよ。幸せになってほしいんだもん」

そのためにわたしはここにいるのだから。
自分の気持ちも押し殺すのは彼の幸せを笑顔を守るため。

「……三春が一番幸せそうに笑っているのは決まってお前と一緒にいる時なのに。まあ、それはお前にも言えるが」

西神は表情を変えず、小さな声でぽつりと何かを呟くとわたしを置いて先に歩いて行ってしまう。

「あ、ちょっと待って!今なんて言ったの!ごめん!先行くね!」

西神は櫂と佑香ちゃんを抜かして先へ行ってしまったから驚いたようにこちらを見つめている二人に声をかけて急いで彼の後を追った。
西神が心配だったからじゃない。西神がいなくなったあの三人の空間にとてもじゃないけれど、わたしの心が耐えられる気がしなかったからだ。
彼の新しい恋を見守る覚悟なんてできていたはずなのにお似合いの二人を見ていると、苦しくて張り裂けそうなほど胸が痛んだ。
君とわたしの想いが交わることなんてない。
二つの風船が綺麗に膨らんだハート形の風船が両想いだとするならば、今のわたしは片方だけ君への想いで膨らんだハート形ともいえない何とも不格好な風船だ。
いつかしぼんでしまうわけでもなく、ただ膨らみ続けるだけのわたしの虚しい恋の形。


***


放課後になり、わたしは一人教室でノートを広げてザーザーと降りしきる雨に容赦なく打たれる桜の木を見つめていた。
今日見た夢のせいかすぐに家に帰る気にはなれなかったのだ。

「もう、散ってる」

数週間前まであれだけ綺麗に花を咲かせていた桜の花は連日降った雨のせいで、もう散ってしまっていて緑の葉へと姿を変えていた。
もう少し見ていたかったなあ、と名残惜しんでいるとガラッとドアが開く音がした。
弾けたようにそちらに視線を向けると、そこにはスクールバッグを肩にかけた櫂が立っていた。

「え」
「美桜?」

思わず、洩れた声。
彼もわたしを見るなり、びっくりしたように目を丸くしてわたしの名前を呼んだ。
そして、にいっとチャームポイントの八重歯を覗かせながらこちらに向かって歩いてきた。
どうしてこんなところに櫂が……?
佑香ちゃんと一緒に帰ったんじゃないの……?

「なんでここに……」
「それ俺のセリフな。ちなみに俺は図書室で遅れた分の勉強でも取り戻そうと思ったんだけどたまには気分を変えて教室でもいいかなーって思ってきたらまさかの、美桜がいた」

わたしの席の前、つまり西神の席の椅子を引いてわたしの方を向いたまま腰を下ろした。

「そうなんだ。じゃあ、わたし帰ろうかな。邪魔になるだろうし」

もしかしたら佑香ちゃんも後から来るのかもしれない。
だったら、わたしはここから一秒でも早く立ち去るのが正解だ。
佑香ちゃんがここにきたらわたしと櫂の3人。
本音を言えば、自分が地獄のような空間にいたくない。
だから、一刻も早くここから立ち去りたくて持っていたシャーペンをペンケースにしまおうと手を伸ばした瞬間、がしっと目の前の彼に手を掴まれた。

「な、なに?」

いきなりのことに動揺しながら彼を見る。
彼は何とも言えないような顔をしていてその瞳は切なげに揺れていた。

「帰んなよ。俺、まだ美桜と一緒にいたい」

トクン、と胸が甘く弾けた。
ああ、本当に君はズルい人だ。なんでそんなに素直に言葉にしてくるんだろう。
真っ直ぐにぶつけられるからこそ、冷たい態度をとることができない。

「……」
「ほら、座って。俺の相手してよ」

諭すようにそう言われ、わたしは言われた通りに再び椅子に腰を下ろした。

「素直でよろしい」

頬杖をついてにっこりと満足げに微笑む。

「わたしはいつでも素直だし」
「はいはい」
「何よ。っていうか部活は?」

彼は写真部に入っているのだから放課後は部活があるはず。
確か月水金の週3日で今日は水曜日だから今日も部活を行っている。

「今日はオフ。まあ、基本自由参加でOKって感じだし文化祭とかの行事に出す写真さえちゃんと提出してればいいんだ」
「へえ。結構緩いんだね」

そういえば、最近進路について悩んでいるような感じだったな。
もしかしたら写真を撮ることから距離を置いてるのかもしれない。
カメラは肌身離さず持っているからカメラが嫌いになったとかではないんだろう。
わたしは彼には夢を叶えてほしいとは思っているけれど、それを彼に押し付けるのは違う。
見守って時に背中を押してあげることしかできない。

「そーそー。だからここで勉強しようかなって」
「じゃあ、早く自分の席に座って勉強したら?」
「美桜と一緒に勉強しよっと」

そう言いながら椅子から立ち上がって西神の机を動かしてわたしの机にピタリと向かい合わせになるようにくっつけた。
そしてスクールバッグから必要なテキストやペンケースを取り出し、バッグを自分の机の上にポンッと置くと何食わぬ顔でまたわたしの前に座った。

「なんでくっつける必要があるの」
「この方が青春って感じがしない?」
「なにそれ」
「教室に居残りっていうのも俺的には青春だけど」

なぜか嬉しそうに笑いながら机の上にテキストを広げる。
青春ね。わたしの青春は間違いなく櫂だよ。
中学生の時に二人で教室に残ってトランプや黒板を使って絵しりとりしたこと、高校生になって放課後にカラオケに行ったこと、コンクール用の写真を撮るために二人で色んなところに行ったこと、満開の桜の木の下でお花見をしたこと、寒いねってお互いがプレゼントし合ったマフラーを首に巻いて手を繋いで帰った帰り道。
一つ一つが胸に刻み込まれていて、そのどれもを鮮明に覚えている。
出会って2年間。
わたしの中でも、櫂の中でも、きっとお互いがどうしようもないほど大切な存在だったのだ。

「櫂の青春ってミーハーだね」
「うるせえ。ここわかんないから教えてよ」

テキストを開いてまだ5分も経っていないのにさっそくわからないところを聞いてくるのが何とも櫂らしい。

「ほんと櫂って英語しかできないよね」

少し呆れ気味に言うと、櫂はきょとんと目を丸くしていた。
その顔を見てわたしはすぐに自分の失態に気が付いた。
やばい。また仲良くなってから櫂の口から英語が得意だなんて聞いたことがなかった。
それなのにあたかも知っていたかのように話してしまった。

「なんで俺が英語得意って知ってんの?」

不思議そうな顔を浮かべた櫂と目が合う。

「ゆ、佑香ちゃんに聞いたの!だから知ってた!」

何とか上手い嘘をついて誤魔化そうと頑張る。
どうか、騙されてくれますように。

「あ、佑香ね。俺が英語得意って意外だったろ」

櫂はふむふむと納得したように頷きながら言った。

「確かに。おバカさんのイメージがあるから」

無事に騙されてくれたことにほっと胸をなでおろして微笑む。
君が何のために英語を頑張って勉強しているかわたしは知っているよ。
夢のためだ。
彼の夢は世界中を旅して様々な景色や人々を撮影することでそのためには英語やその地域の言葉をなるべく話せた方がいいということで彼は必死に夢に向かって努力している。

「英語だけは自信あるんだ。世界中を旅した時に役に立つかなって思ってさ。最近はフランス語やドイツ語もちょっと勉強してる」
「すごいじゃん。でも他の教科も頑張らないと卒業できないぞー」
「うっ。痛いところ突いてくるな。あ、じゃあ俺が卒業できるように美桜が俺に勉強教えてよ」
「やだよ」
「なんで即答なんだよ」

無理だからだよ。
わたしはもうすでに守ることのできない約束を交わしてしまっているのだ。
これ以上、守れない約束はするべきじゃない。

「櫂、飲み込み悪そうで大変そうだから」
「うわ。俺、今ので傷ついたからもうやる気なくなった」

そう言いながら拗ねたような表情をして顔を机に伏せた。
本当に困った人だ。
それでもわたしは君が好きだという感情を消すことができない。
上書き保存だってできない。
一生、更新されることのないたった一人の大好きな人なのだ。
どうやったって櫂以上に好きになれる人なんて現れない。
わたしの中では昔も今も、これから先も櫂が一番大好きな人だから。
でも、君はどうかわたしのことは思い出さないでほしい。
わたしのことは全部忘れたまま、一番好きだと思う人を大切にして生きていってほしいから。

「こらー、拗ねないで。ここの問題教えてあげるから」

少し前かがみになって、わたしは目の前で伏せている黒い頭をポンポンと優しく撫でる。
あの時と変わらないふわふわの髪。
今日は雨が降っていて憂鬱な気分だったのに君と過ごしているうちに心の中を覆っている灰色の雲が消えて、優しい太陽の光が射し込むみたいに晴れやかな気分になっていく。
きっと、わたしは何年経っても君を忘れられないだろう。
この恋を忘れたくない。
心がそう必死に叫んでいる。
その瞬間、勢いよく櫂が頭を上げた。
もう少しで額がくっついてしまいそうな距離で、必然的に絡み合う視線。
ばくばくと心臓が早鐘を打ち始め、その音が鼓膜を揺らす。

硝子玉のように澄んだ瞳
くっきりとした二重の目
ニキビなんて一つもない羨ましいほど綺麗な肌
形のいい薄い唇

そのどれもがわたしの鼓動を高鳴らせる材料になっている。
まるで金縛りにあっているみたいにその体勢から動けなくて二人だけの時間が流れていく。
どのくらい見つめ合っていたのだろう。
きっと時間にすれば数秒だ。
それでもわたしには何分にも何十分にも思えるくらいだった。

「あ、ごめん。思ったよりも近かった」

やっと、身体を動かして慌てて彼から離れると、視線を外へと向ける。
こんなの直視できるはずがない。
尋常じゃないくらい心臓の音がうるさくて心の中で何度も静まれ、と唱える。
それなのにあの日のキスが脳内に蘇ってきて徐々に顔が熱を帯びていく。
もう戻れないことなんてわかっているのに。

「いや……俺も急にごめん。美桜の顔が綺麗すぎて見とれてた」

ほんのりと頬を赤らめて視線を彷徨わせながら歯の浮くような言葉を吐いた櫂。
こういう自分の気持ちに正直で真っ直ぐなところにわたしは惹かれたのだ。

「イケメン櫂くんに褒めてもらえるなんて光栄です」

まだ鳴りやまない鼓動の音を隠して冷静を装う。
君への好きが溢れたこの音が、どうか君には聞こえていませんように。

「バカにしてるだろ」
「してないよ」

本気でその辺の芸能人よりもかっこいいと思っているよ、なんて言葉は声にはならなかった。
きっと言ったって信じてもらえないだろうし。

「なあ」
「ん?」

首を傾げながら彼を見ると、吸い込まれそうなほど綺麗な瞳と視線がぶつかる。

「……どうしてあんな計画を立てたんだ?」
「え?」

思ってもいなかったことを聞かれて、驚きの声が洩れた。

「好きな人と付き合いたいなら別にあんな計画を立てなくてもいいだろ」

続けて言った櫂の言葉にわたしは「そうだね」と返す。

「それなら……」
「たとえそばにいるのがわたしじゃなくても彼に幸せになってほしいから」

わたしじゃ、ダメなんだよ。
わたしでは君を幸せにすることはできなかった。
だから、他の人に任せることにしたのだ。

「好きなら付き合いたいって思うのが普通だろ?」

まだ疑問符のついた表情でわたしを見る彼の言葉通りきっと好きな人がいる人ならみんなが思うことだろう。
わたしだって、できるならそうしたい。

「わたしもそう思ってるよ。でもそれができないからあんな計画を立てたんだよ」

そう、わたしだってまた櫂と付き合えたらどれだけ幸せなのだろうと考えないわけがない。
だけど、できないから計画を立てて今だって西神のことが好きだと勘違いしている君への誤解もといていない。

「……ふーん。好きな人ってどんな人?」

納得していないと顔に書いてあるのにそれを飲み込んだ櫂。
次に投げかけられた質問もわたしにとっては何とも答えにくい質問だ。
どうしてそんなにわたしの好きな人が気になるのだろう。

「うーん。言葉で表すのは難しいけど、わたしの世界を照らしてくれる太陽みたいな人かな。どうしようもなく好きなんだよね」

一人ぼっちになって暗闇を彷徨っていたわたしを見つけてくれて、光のある方へ連れていくのではなく、わたしの手を引っ張って一緒に暗闇を歩き続け、その中で優しい愛情を注ぎ続けてくれる人。

“それは君だよ”

とたった一言いえたならどれだけよかったのだろう。
もし、言えたなら君は驚いた顔をした後、困ったように眉を下げて『ごめん』と振ってくれるのだろうか。
きっと、振る時も櫂は相手の顔を目をきちんと見て失礼のないようにその子の恋に終わりを告げるのだろう。
彼は誰よりも優しくて真っ直ぐな人だから。
でも、この先彼に選ばれた女の子は彼に「好きだよ」「可愛い」「ずっと一緒にいたい」とかこれ以上ないほどに温かい愛情を注いでもらえるんだろうな。
わたしに何度も言ってくれた言葉を他の女の子にも言う日がくるのだと考えてしまったら胸がチクリと痛んだから考えるのをやめた。

「……」
「こんなに好きになれる人なんてこの先きっと現れないって本気で思っちゃうくらい好きなんだ」

好きで、好きで。
たまらなく好きなんだ。
どこが好きなんて分からないけれど、そばにいて欲しいのは決まって君で、たまらなく愛おしく想うのも君。
まだ17歳の子供なのにきっとこの先出会う誰よりも輝いて見えてどうしようもないほど恋焦がれるのは君だけなのだと本気で思ってしまうのだ。
それなのにわたしの恋はもう一生叶うことはない。
だけど、後悔はしていない。
いや、違う。嘘だ。
たとえ自分が後悔したとしても、君を守れるのならよかった。
後悔してもいいと思えるくらいわたしの中で君が大切だった。
こんなに好きになっていつか傷つくくらいなら出会わなければよかったってみんなは言うけれど、わたしは不思議とそう思ったことはない。
だって、幸せだったから。
櫂に片想いしていた頃のわたしも、櫂の彼女だった頃のわたしも、毎日がすごく幸せで満ちていて、明日が、君に会える日が待ち遠しくてたまらなかったから。

「そこまで美桜に想われてる奴は幸せ者だな」

どこか寂しそうに力なく笑った。
その幸せ者が自分だなんてことは一ミリも思っていないんだろうな、と彼の浮かべる表情から感じ取れる。

「まあね。そういう櫂は最近どうなの?」

佑香ちゃんと今日も仲良さげに話していたから上手くいっているようにわたしには見えたけど。

「え、俺?俺は全然ダメ。まったく俺のこと意識してくれてないと思う」
「そうかな?意外と意識してると思うけど」

幼馴染同士だからそう見えてしまうものなのかな。
第三者から見たらお互い良い雰囲気だと思うんだけど。
だからこそ、わたしの邪魔な恋心が痛いと叫ぶのだ。

「いやー、まじで叶う気がしないけど気長に頑張るわ」
「お似合いだし応援してるね」

心臓を鷲掴みにされているみたいに胸が痛むけれど、それを隠して彼にできるだけ明るい笑顔を向ける。

本当は誰のものにもならないで―――。

なんて、わたしが言える資格はない。

「俺の好きな人、美桜は知らないだろ」
「うーん、なんとなくでわかるよ。ていうか、それを言うならわたしの好きな人も櫂は知らないじゃん」
「俺もなんとなくでわかってんの」
「たぶん間違ってるよ」

たぶんじゃない。確実に不正解だ。
なぜなら、わたしの好きな人は目の前にいるのだから。

「いーや、俺はこういうの当たったちゃうタイプなんだよな」
「ほんとかな」

小さく笑って視線を何気なく外に向けると、視界に入った景色に目を奪われた。
わたしの視線の先を追って櫂も視線を外に向け「……虹だ」とぽつりと呟いた。
いつの間にか雨が止んで、空には大きな七色の橋が架かっていた。
雲間から射し込む光がなんだか希望の光みたいに見えて、しばらく景色に見とれていると隣から「カシャ」とシャッター音が聞こえてきた。
ふと、そちらに視線を向けるとキラキラと表情を輝かせながら櫂が虹にカメラを向けていた。
そんな彼の姿に思わず笑みがこぼれる。
最近、悩んでいると言っていたし櫂が写真を撮る姿をしばらく見ていなかったからホッと胸をなでおろした。
あんなに眩しいくらいの表情をしているんだから櫂が心の底から写真が好きだということが伝わってくる。

「ねえ、知ってる?アイルランドでは“虹のふもとに妖精が金貨を隠していて、そこへ行けばお金持ちになれる!”っていう言い伝えがあるらしいよ」

椅子から立ち上がり、虹を見つめながら窓の縁に手を置いた。
本当に虹にふもとがあるのかは知らない。妖精がいるのかも知らない。
だけど、聞くだけで少しワクワクした気持ちになるからわたしはそういう話が好きだ。
言い伝えだけじゃなくて、宝石言葉とか花言葉、お菓子言葉。
そのどれも知るたびに面白いなと思う。

「まじで?俺今から虹のふもとまで行ってこようかな」
「ほんと単純だね」
「お金持ちになれるは魅力的だろ」

多くの人がお金持ちになりたいという願望を抱いたことがあるように、彼もそう思っているのだろう。
わたしもお金持ちになりたいと思ったことがあるし。

「まあ、確かに」
「でもさ、たとえお金持ちになれなくてもこんなに綺麗な虹が見れるなら十分に思えるわ」

柔らかく目を細めて七色のアーチを見つめるその横顔は、思わず見とれてしまうほど綺麗で鼓動が騒がしく音を立て始める。

「お金では買えないものだってあるもんね」

どれだけお金持ちになっても、今を流れる時間や誰かの心や優しさ、愛情はお金では買えない。手に入らない。
欲しいと縋っても、手を伸ばしても簡単には届かないのだ。
わたしだって今はお金持ちになりたいわけじゃない。
ただ、大好きな君の隣でずっと同じ景色を眺めて同じ未来を描いていけるのならそれだけでわたしの心は満たされる。
だけど、君がいればわたしの人生は幸せで溢れていることを君が知ることはきっとないし、それは叶わないことだ。

「そういうものを大事にしていきたいよなー」
「そうだね。大人になっていくと段々、そういうことにも気づけなくなっていくだろうし」

櫂は大人になってもきっとお金では買えないようなものをこれからもずっと大切にしていくのだろう。
そんな姿がわたしの頭の中にはっきりと浮かんでくるよ。

「大人になるって難しいなあ」

大人になりたくなくても年を重ねると否が応でも世間では“大人”として扱われる。
子供のわたしたちには背負わなくてもよかった責任が重くのしかかってくるのだろう。
日常を生きるのに必死で小さな幸せを見過ごしている人たちにいつか櫂の撮ったあたたかい写真が届いて、あの頃のわたしのようにとりあえず明日も頑張って生きてみようと思って救われる人が少しでもいてくれたらいいな、と思う。

「……桜の花言葉ってどんなのだっけ」

しばらくの沈黙のあと、櫂がすっかり緑になってしまった桜の木を見つめながら小さな声で櫂が言った。
そういえば、櫂は花言葉とかそういうのに疎かったなと思い出した。
だけど、わたしが教えてあげると目を輝かせて花が咲いたような笑顔を浮かべていたっけ。

「日本では“精神の美”とか“純潔”、“優美な女性”とか結構色々あるらしいよ」
「へえ!なんか美桜にピッタリだな」

そう言いながら、薄い唇が弧を描く。

「別にそんなことないよ。ちなみに海外での桜の花言葉はまた違った意味があるんだって」
「え、日本と海外で違うの?」

櫂が驚いたように目を丸くしてこちらを見る。
わたしも初めて知った時は櫂みたいに驚いた。
てっきり、どこの花言葉も一緒だと思っていたからだ。

「うん」
「例えばどんなのがあんの?」
「それは自分で調べなよ」

今のわたしが君にその花言葉を伝えてしまうと心の奥で頑丈に鍵をかけて閉じ込めている気持ちが溢れてしまいそうだから口にしたくない。

「えー、教えてくれてもいいじゃん」
「自分で調べるから意味があるの」

きっと、君は調べないだろうけれど。
それがわかっているから言わない。

「ま、いつか調べてみよっと」
「そのいつかが来る頃には櫂の頭は白くなってんじゃない?」
「おい、おじいさんになるまでって言いたいのか」
「だって、ほんとのことだもん」

クスクスと小さく笑いながら窓から離れて、自分の席に腰を下ろした。
すると、櫂も「俺だってやる時はやるんだよ」と文句を垂れながら前の席に座ってカメラをケースの中になおす。

「櫂のせいで全然勉強進まなかったじゃん」
「まあまあ、これも青春の醍醐味ってことで」
「全部、青春って言えば許されると思ってるでしょ」
「あ、バレた?」

わたしの言葉におどけたように笑う櫂。

「ほんとにもう」

呆れたようにため息をこぼしながらも、櫂の笑い声につられてわたしも笑ってしまった。
大好きな人が自分の視界の中でお日様のような優しい笑顔を浮かべていてくれていることが、その笑顔を向けられているのが自分だということが、どれだけ幸せで、どれだけ特別な事なのかわたしは今になって感じている。
どうかこの先も君が変わらない笑顔で、たくさんの世界をその瞳に映すことができますように。

―――たとえ、もう戻れなくてもわたしは君だけを想い続ける。