運命の相手がいるとしよう。
その相手が、一目見ただけでわかったらどうだろう。
これまで付き合っていた恋人のことも忘れ、ただ運命の相手にぞっこんになったとしたら。
しかも、相手のほうは自分が運命の相手だと気づかなければ。
それはもう呪いではないだろうか。
この世界にはそんな一目惚れの体質が数十万人に一人いると言われている。
無事相手と恋を成就できたらどれだけ幸せだろうが、もしその恋が実らなかったら…
この日、冬子は最悪の気分だった。
冬子は上級生の女子たちから目をつけられていた。
派手な髪にまあまあ目鼻の整った顔が許せないんだと。
それはいつものことだ。
小学生のころから、一部の女子と、とくに上級生とは折り合いが悪かった。
問題は、現在冬子が付き合っている男だ。
そいつは、冬子が女子たちに囲まれているのを横目に、何もしないでそのまま去っていったのだ。
別にかっこよく守ってほしいとかそういうことを求めていたわけではないけど、まさか見て見ぬふりをされるとは。
いじめっこ達には、冬子の彼氏が去っていく背中をみて、大笑いしていた。
そこからは、冬子のことを殴る、蹴るとやりたい放題だった。
冬子には抵抗する気力もなかった。
ようやく解放されて、今は家へ帰宅途中。
雨の中、口の中に血の味を感じながら冬子は思う。
隣のクラスだし、たまに顔をあわすことがあるかもしれないが、もう話すことはないだろう。
付き合って3か月くらいか。
特別好きなわけではなかったが、決して嫌いではなかった。
ただ、友達もいない冬子にとって、告白されたときはすごく嬉しかったし、学校で唯一だ寄れる存在だったのも事実だった。
その分、いざという時に助けてくれなかった失望は大きかった。
そんなどうしようもない元カレのことをもやもや考えていた時、背後から視線を感じた。
またあの男だ。
帰り道でじっと、冬子を見ている男がいた。
ここ何日も毎日だ。
細身の長身に長い黒髪を後ろでまとめている。
黒いレザーのジャケットに、やぶれたジーズン。
耳にはシルバーのピアス。
サングラスをかけているときもあれば、そうでないときもある。
顔は悪くない。冬子の好みだ。
雨なので今日は黒い傘をさしていた。
ストーカーか?
いや、そう思うのは自意識過剰かもしれない。
などと考えて元カレ以外に相談はしていなかった。
今まではあんな男でも一緒にいたのでそこまで心配もしていなかったが、今日からはひとりだ。
あんな男でもいるだけでも存在価値はあったのだと気づいた。
冬子は急に不安になって、足を速める。
思った通りストーカー男はついてきた。
今日は一人だからなめられているのか。
放課後に上級生に絡まれたせいで、もう遅い時間だし、この辺りは歩いている人は少ない。
いっそ走るか。
駅まで行けば人通りも増えるだろう。
そう考えて冬子は走り出すも、ふいに、持ってる傘が後ろから引っ張られた。
後ろを振り向くと、ストーカー男が冬子の傘をつかんでいた。
冬子は傘を手放して逃げようとするも、腕を大きな手につかまれた。
「はなしてよ」
そう言って手を離す不審者はいないだろうと思いながらも、冬子は叫んだ。
男は腕をつかんだまま、何も言わずじっと冬子を見ていた。
二人の間に無言の時間が過ぎる。
冬子は男の行動が謎だった。
襲ってくるわけでもないし、いったい冬子になんの用だろう。
「いたっ」
力強く握られていた腕にじんじんと痛みが出てきた。
「…悪い」
男は手を離した。
握られたところが少し赤くなってひりひりした。
こんなにあっさりと離してくれるとは思ってもいなかったので冬子は驚いた。
男の目的がますますわからない。
「あなた何の用なの?」
傘を差しなおして冬子は言う。
頭から肩までびっしょり濡れていた。
「それより、あの男とはどうなった?いつも一緒に歩いていた」
男は開口一番そんなことを聞いてきた。
冬子の元カレのことか。
「あの男って海斗のこと?もう別れたわ」
正確には冬子が勝手にそう思っているだけなのだが、復縁するつもりがない以上おなじことだ。
「そうか」
男は明らかにうれしそうな顔をした。
「あいつがどうしたのよ」
冬子をより付け狙いやすくなったってことか?
そこまで考えて、しまったと思った。
今日はたまたま別々に帰っていると言えばよかった。
正直者の自分が恨めしい。
「いや、あの男はどうもしないよ。もう用はなくなった」
目の前の男は冬子に手を回し、身体ひきつけた。
「これで遠慮なく俺のものにできる」
バシンッ。
男が言い終わるや否や、大きな音が響いた。
冬子が男の頬に思いっきりビンタをしたのだ。
男の頬が、冬子の腕よりも赤く腫れあがる。
それでも、男は笑顔を浮かべたままだったので冬子はドン引きした。
二人はファミレスに場所を移した。
冬子は本当はいち早く家に帰って着替えをしたかったが、目の前の男が許してくれそうになかった。
幸い、上着を脱いで髪をタオルで拭けば問題はなさそうだった。
寒かったのでホットコーヒーを注文する。
男は冷たいココアを頼んだ。
「俺は薫」
男は名乗った。
見た目と違ってかわいらしい名前だった。
「そう、私は冬子よ」
「冬子、さっそくだけど、運命病って知ってるか?」
知っている。
ただ、いきなり男がその病気のことを口に出してくるとは思わなかった。
名前こそ有名な病気だが、患者の数も少なく、詳しく知っている人はほとんどいない。
別名、一目惚れ現象。
ただの一目惚れじゃなく、顔を見た瞬間、まるで運命の相手のように、すべてをなげうってでもその相手を好きになってしまう現象だ。
冬子は兄の一人がその病にかかっていたためどんなものかはわかるが、兄も多くは語らないため詳しくは知らない。
持って生まれた性質で、どの相手の惚れてしまうのかは顔を合わすまではわからない。
それに、同性に惚れてしまう可能性もある。
「知ってるわ。あなた、まさか、私に惚れてるなんて言うんじゃないでしょうね」
「そう。で、相手はお前」
冬子は頭を抱えたくなった。
運命病は病にかかった本人も大変だけど、惚れられた相手も大変なのだ。
「俺も自分が運命病にかかっていることは知ってたけど、本当にその相手に出会うことになるとは思ってなかった。でも、冬子を見かけたときに運命の相手だって気づいて、どうしたものかずっと考えてた。男連れてたしさ」
それで、数か月ものあいだ、私のことを見張っていたのか。
「で、どうしたいわけ?」
「付き合ってほしい」
「断るわ」
見知らぬ男に突然告白されて喜ぶのはナンパ待ちの女くらいだろう。
「なんで?」
「運命病なんて迷信だっていう人もいるけど、私は信じるわ。身内にその病にかかっているのがいるからね。でも、あなたがそうだっていう証拠はないじゃない」
それに、と冬子は続ける。
「あなたが運命病だったとして、私があなたに惚れるとは限らないしね」
薫は自分をみる。
「そりゃそうか」
少し間があく。
「ちなみに、冬子の男のタイプは?」
「あなたのことは嫌いじゃないわ」
薫は少し笑った。
なら、十分勝機はあるなどと考えているのか。
女に苦労したことはなさそうだし。
「前の男は?なんで付き合ったの?」
「告白されたから」
「俺だって今、告白してるじゃん」
そうだけどさ。
「海斗のことは、一応同学年で、どんな人かなんとなく知ってたし。少なくとも、あなたみたいに全く素性の知らない人ではなかったわ」
「なら、俺のことを知ってもらったらいいわけだ」
薫に諦めるつもりはないらしい。
これであきらめるなら、病気などとは呼ばれてない。
薫が本当に運命病なら、惚れられたら負け。
「じゃあ、お互いのことを話そうよ。俺も、冬子のこといろいろ知りたいし」
薫は自分のことを語りだした。
21歳、中卒。
小さなバイクショップで働いているらしい。
ボロアパートで一人暮らし。両親は小さい時に離婚して今は絶縁状態。
なかなか壮絶な人生だ。
「俺は気楽で気に入ってるけどな」
優しい両親と兄弟に囲まれ、普通の生活を送っている冬子には想像もつかなかった。
「家族とか兄弟とかがいる生活は俺には想像できないな。彼女はいたことはあるけど、どの子も長続きしなかったし」
「なんで?」
「冷たいってさ。でも、冬子には冷たくできる自信はないから」
その笑顔が逆に怖い。
「雨も上がったし、もう帰るよ」
冬子は窓の外をみて、席を立った。
頼んだコーヒーはとっくに空になっていた。
「送っていくよ」
冬子は断った。
どうしてもという薫に連絡先は渡した。
「さて、どうしようかな」
冬子はいずれは薫と付き合うことになるだろう思っていた。
病気でなければ、薫が冬子に惚れる理由がわからない。
わかっていながら、冬子は悩んでいるふりをした。
翌日、冬子は元カレの海斗に詰められていた。。
私はいつも誰かともめているなと冬子はため息をついた。
「昨日誰と一緒にいたんだよ」
昨日ファミレスで薫と一緒にいたところを誰かが見ていて、彼に告げ口したらしい。
どうせ、昨日ちょっかいをかけてきた女たちの誰かだろう。
「海斗に関係ないでしょ、私たちもう別れたし」
「俺は別れたつもりはないって」
昨日のことなど忘れたように、海斗は冬子に詰め寄ってくる。
「じゃあ、なんで昨日私を見捨てたわけ?あれで、完全に冷めたんだけど」
「だって、お前がなんかやらかしたんだろ。そうじゃなきゃ、あんなに上級生に囲まれないだろ」
なんで、勝手に私がやらかしたことになってるんだ。
昨日の女子たちは、前々から、髪の色が派手だとか、男にこびているとか適当ないちゃもんを付けてくる上級生たちだ。
普段顔を合わせないように気を付けているが、たまたま廊下で見つかって校舎裏までひぱって来られたのだ。
「海斗、あの上級生の女子たちが怖いなら、もう私に関わんないほうがいいよ。私と付き合ってるってだけで、いつ、海斗に矛先がいくかわかんないからね」
海斗の表情が固まって、一歩後ろにさがった。
「さすがに、男に喧嘩売ったりしないだろ」
昨日逃げたくせに、どこからそんな自信がくるんだ。
「そんなわけないじゃん。昨日海斗がこそこそ逃げていくの、あいつら、ばっちり見てたからね。年下の、自分たちより弱いってわかったら、男だろうと容赦しないよ」
昨日の女子たちのことを思い出してびびっているのだろう。
所詮、その程度の男だ。
「じゃあね、もう私と関わんないほうがいいよ」
「冬子、昨日の男と付き合うのか?」
「かもね」
それだけ言って、冬子は海斗に背を向ける。
海斗ももう何も言ってこなかった。
海斗に告白されたときはうれしくて舞い上がったりしたが、今となってはどこがよかったのかさっぱりわからない。
同じ状況なら、薫はどうするだろう。
冬子のことを守ってくれるだろうか。
「でも、喧嘩は弱そうだな。がりがりだし」
一緒にやられてしまうかもしれない。
けど、ひとり置いて行かれるよりはずっとましだ。
痛みには慣れっこだし、後で、痛かったねなんて言って笑ってやったらいい。
「冬子がいじめられたら?そんなやつ、工具で頭をかち割ってやるよ」
バイクに乗りながら、さらりと怖いことを言われた。
冬子は薫が豹変して、振り落とされたらと不安になり、薫の腰に回す手の力を強める。
喧嘩に弱いなんてありえなかった。
薫に喧嘩を挑む人がいれば、容赦なくそのあたりの道具を使って叩きのめすのだろう。
「仕事柄工具はいつも身に着けてるしな」
怒らせないようにしないと…。
数時間前。
学校が終わると、なぜか校門の前に立って冬子を待っていた。
サングラスをかけて、立っているとまあ目立つ。
校門を通っていく生徒全員がじろじろ見て、噂をしながら速足で去っていく。
怪しすぎて誰も関わりたくないのだ。
本人は全く気にしてない様子だが。
遠くからでも薫の姿を見つけた冬子は、知らんふりをしたかったので裏門から出ようかなどと考えたが、余計に連絡が来るだろうと思ってやめた。
昨日から薫に鬼電されているのだ。
全部無視してるが。
「何やってるのよ。あんた、目立ってんのよ」
「あっ、冬子やっと出て来た。迎えに来た。これからデートしよう」
薫がサングラスを上げて、冬子に笑顔を向ける。
薫の顔を見た女子たちはかっこいいなどとつぶやくのが聞こえた。
正直、気分は悪くない。
「デートって、どこに行くのよ」
「冬子の行きたいとこ。店に戻ればバイクあるし、どこでも行ける」
「店に戻ればって…仕事はどうしたのよ」
「暇だし、抜け出したって文句はいわれないって。仕事より冬子のほうが大事だし」
社会人としてあるまじき発言だ。
「…クビになるわよ」
学歴もなく、貯金もなさそうなのに大丈夫か?
世渡りはうまそうな気はするけど。
冬子よりもよっぽど。
「行きたいとこって言われても急には…、あっ、海行きたい。せっかくバイクあるなら」
「海って、ここ内陸だからけっこう遠いよ」
「なによ、行けないの?」
「いや、遠いところのほうが長い時間冬子といられると思って」
いちいち嬉しいことを言ってくれる。
二人は薫の職場のバイクショップに戻り、店長の目を盗んで薫のバイクを持ち出した。
いかにも地元の店って感じの、こじんまりした店だった。
店長は奥にいるらしい。
冬子は薫にヘルメットをかぶせてもらい、後ろにまたがった。
バイクに乗るのは初めてだ。
振り落とされないか不安だったけど、ゆっくり走ってくれたおかげで、周りの景色を楽しむ余裕もでてきた。
「バイクって便利でいいわね。私も免許取ろうかしら」
風の音で声が通りづらいので、自然と声が大きくなる。
「えぇ」
前から不満そうな声が聞こえてくる。
「なによ」
「だって、冬子を後ろに乗せれないし」
薫のすねた顔が想像できておかしかった。
「別に私が免許取っても、後ろに乗るわよ」
「やっぱりやだ。どうせ自分で運転したくなるだろうし」
すねる薫は少し子供っぽかった。
「ねえ、薫はいつ免許取ったの?」
「免許が取れる年になってすぐ。休みのときにすることなかったし、ぶらぶら適当に走ってた」
「素敵じゃない。どんなところに行ったのか教えてよ」
それから、お互いが行ったことがある場所や、行ってみたい場所について話した。
外国はやっぱりハードルが高いってことで話は落ち着いた。
そんなこんなしてるうちにあっという間に海に着いた。
まだ夏になっていないので、見えるのは釣り人ぐらいだ。
けれど、じめっとした暑さがあるので海から漂う潮風が心地よかった。
「海に来たのは久しぶりだわ。ずっと小さいころに家族できたきり」
「俺はよく来てる。あてもなく走っても、日本の端っこは海だし」
「海はいいよね。嫌なことも全部忘れちゃう」
二人で柵にもたれかかってしばらく海を眺めた。
「飲み物買ってくる」
「ありがと。なんでもいいよ」
一人になった冬子は考えた。
このまま薫の恋人になってもいいのではないかと。
薫といると、海斗とはまた違った心地よさがあった。
顔が好みだからか?
バイクに乗るなんて、初めての体験をくれたからか?
それとも、冬子に優しくしてくれるからか?
それだけじゃなく、深い愛情を感じるからだと思う。
これが、運命病の人に愛されるということなのか。
なら私は、そのあふれるくらい与えられる愛情を返しきることができるのだろうか。
「冬子」
後ろからぎゅっとだきしめられた。
飲み物を買いに行った薫だった。
「俺と付き合ってほしい」
耳元でそっとささやいた。
頭のてっぺんまで熱が上がってくる感覚があった。
息が当たった耳がくすぐったい。
「…うん」
そうつぶやくのが精いっぱいだった。
薫がまた耳元に口を寄せてきて言った。
「ねえ、キスしてもいい?」
キスくらいこれまで何度もしたことがあった。
けど、薫とするのはすごく恥ずかしかった。
冬子が答えられずにいると、薫の唇がそっと頬に触れた。
耳の先まで真っ赤になった。
「口にはまた今度」
薫がくすくすと笑った。
冬子はさっきまでこどもっぽいと思っていた薫が、急に大人びて見えた。
昨日のことを思い出しながら、ぼけっと教室の席についていた。
行きと違って帰りはほとんどなにもしゃべらなかった。
なんとなく、気恥ずかしかったからだ。
薫も何も言わなかった。
そのまま家まで送ってもらって解散した。
何も約束してないけど、今日も迎えにくるのだろうか。
電話してみるか?けど、仕事中かもしれないし。
そんなことをもやもやと考えていた。
男のことで悩むなんて、これまでの冬子には考えられなかった。
「ねえねえ、鈴井さん。昨日校門の前にいた男の人って鈴井さんの彼氏?」
ずっと考え事をしていたから、声をかけられるまで冬子は、クラスメイトの女子たちに囲まれていることに気づかなかった。
周りを見渡すと、囲んでる女子以外の人たちも、興味津々という顔で冬子を見ていた。
昨日、薫はかなり目立っていたのだから、この中の誰かが、昨日冬子と話しているのをみていたのだろう。
「…そう、だけど」
この人たちはなぜそんなことを聞いてくるのか。
薫のあの調子だと、ばれるのは時間の問題だろうけど。
「やっぱりそうなんだ。ちらりと顔が見えたんだけど、すごくかっこいいね」
「でもちょっとチャラくない?性格はどうなの?」
「年上だよね。何歳?どうやって知りあったの?」
女子たちは口ぐちに好き勝手を言い始めた。
そして、勝手に薫のことを品定めしてくる。
お前たちは何様なんだ。
冬子はこうした人の話題で勝手に盛り上がるのが嫌いだった。
「ねえ、うざいんだけど」
昨日出来事で冬子の頭はどっぷりと浸っていた分、それを邪魔されていらだちは募っていた。
自分が思ってたよりも低い声が出た。
「人の男にケチつけてんじゃないよ」
自分のことを言われるのはどうでもいいけど、薫のことは許せなかった。
薫は私の彼氏になったのだから、私だけのものだ。
「ああ、ごめん。うるさくしちゃって。昨日の人にちょっと興味があっただけだから」
大抵の女子はこういうと、申し訳なさそうにそそくさと去っていく。
引き際をわかっているなら、冬子もそれ以上何も言うつもりはない。
けど一部の女子は、
「調子乗ってんなよ、ブス」
教室のどこからか、声が聞こえてくる。
こうなると冬子への嫌がらせが開始する。
「ねえ、靴はどうしたの?」
「…なくした」
学校のスリッパを拝借して外に出てきた冬子に薫は目を丸くした。
「別に靴なんて、靴下が汚れなければなんでもいいわよ」
これまで、ものがなくなったことなんて何度もある。
「そんなわけないだろ」
「別にいいって…ちょっと薫、どこ行くのよ」
薫は冬子の静止も聞かず、ずかずかと校舎の中に入っていった。
放課後とはいえ、まだ人はけっこう残っている。
「ねえ、どうするつもり?先生に見つかったらまずいって」
「平気だって。冬子、靴がなくなった心当たりは?」
さあ、朝にはあったはずの下駄箱から、急に足が生えたようになくなってたので。
「知らないわ。捨てられたのかもね」
薫は大げさに驚いたような顔をした。
うすうす私がいじめられっ子だってことに気づいていたのだろう。
初めて会った時も怪我してたし。
「よしよししてやろうか?」
「バカにしてるでしょ」
肘で薫をこずく。
薫と会ったら、昨日見たいに気恥ずかしい雰囲気になるのかとも思ったけど、なんとなく打ち解けた感じになってよかった。
ドキドキするのも嫌いじゃないが、バカやってるのも好きなのだ。
靴を探す当てもないので、適当に校舎のなかをさまよう。
「高校ってこんな感じなんだ。中学とそんなに変わんないな」
「やってることは一緒だからね」
薫はもの珍しそうにきょろきょろしてる。
中卒だと言っていたから、高校は初めてなのだろう。
「あっ、あれ先生じゃない?あのスーツを着た人」
薫は2階の窓からのぞいた先にいる教師を指さして言った。
教師はこちらに気づいたのか、こちらを振り向き、一瞬視線が合った気がした。
そうだよと言いながら、冬子は薫の腕を引っ張る。
「見つかったらややこしいからこっちきて」
冬子は近くにあった教室に薫を引きずり込んだ。
幸い、教室には誰もいなかった。
「あの先生、かなり堅物だから、絶対見つからないようにしてよね」
「了解~」
薫は軽い口調で言う。
「なんでちょっと楽しそうなのよ」。
薫はくすくす笑う。
「楽しいじゃん。かくれんぼみたいで」
「人の気も知らないで」
冬子は顔を真っ赤にしながら頬を膨らませてそっぽを向いた。
「さっきは危なかったな。あの先生、けっこう切れ者っぽいし」
「誰のせいよ」
冬子は目を三角にした。
薫は少し真面目な顔になる。
「冬子の学校がどんなところか見ておきたかった。前に会った時は怪我してたし、今日は靴なくしたとか言うし。俺は同じように学校に通って冬子のこと守ってあげられるわけじゃないからさ」
「…別に、心配されるようなことじゃないわ」
いじめは小学生のころから多少はあった。
そのたびに、いじめっこと戦ってきたし、殴り合いのけんかも何度もした。
靴を隠されることくらいどうってことない。
「冬子が強いことは知ってる。けど、そういうところが心配なんだ」
薫は冬子の頭をぽんぽんなでた。
冬子は少し泣きそうになった。
海斗ですら、そんな優しい言葉はかけてくれなかった
「ありがとね、元気でた。先生もどっか行っただろうし、そろそろ行こうか」
冬子は立ち上がった。
「残念、もう少し、二人っきりの教室にいたかったのに」
薫が続いて立ち上がった。
冬子の額にそっとキスを落としてドアを開ける。
「ん?」
そこには数人の女子生徒が立っていた。
「あっ」
後から続いた冬子がその生徒たちの顔を見て固まった。
冬子が目をつけられている上級生たちだ。
そのうちの一人が薫を指さしていう。
「鈴井さあ、いつも男に飢えてるからってさあ、こんな部外者を学校の中につれてくるなんてやばいんじゃない?」
「ちょっと調子乗りすぎだって」
「こいつ、昨日校舎の前で待ってたやつよね。援交でもしてんでしょ、いくらもらってんの?」
冬子のクラスメイトのような好奇心で聞いているわけじゃない、完全な悪意だ。
本当は冬子はすぐに言い返したかった。
何かを言い返したら、喜ばせるだけだと知っていた。
薫の顔を見ると、薫の表情が消えていた。
ただじっと、彼女たちを見ていた。
「ちょっと聞いてんのかよ、無視してんじゃねえよ」
ひとりがそんなことを言った時、薫の中の何かが切れたような音がした。
「なあ、あんたら、好き勝手言ってるけど、冬子のなんなわけ?」
先輩も負けずと強気に出る。
「ああ?あんたに関係ないだろおっさん。つーか不法侵入で警察よんでもいいんだけど」
薫はおっさんっていうほどの年ではないが、女子高生には年上はみんなおっさんに見える気持ちはわかる。
薫の顔を見ると、かなりイライラしているようだ。
「俺はこいつの兄だけど、あぁ?なんか文句あんのか?」
薫は彼女たちに近づきながらしれっと嘘ついた。
ていうか、どう見てもチンピラだった。
「校長に用があったんだけど、なに、わざわざチクってほしいわけ?私たちは、後輩をいじめて楽しんでますって」
「あなたが、こいつの兄だなんて、そんなはずないわ」
彼女たちは、薫が冬子の彼女であることを知ってここへ来たのだろう。
それなのに、薫に兄と名乗られて戸惑っていた。
けれど、兄でない証拠もない。
「今度こいつに何かやったら、わかってるだろうな。お前ら全員の顔は覚えたからな」
薫みたいなチャラい男に、思いっきりにらまれて詰められたらかなり怖い。
しかも、女子の一人が思いっきり顔をゆがめてるから何かと思ったら、薫が厚底のブーツで思いっきり足を踏んでいた。
そういえば、ずっと靴脱いでなかった。
薫の脅しが聞いたのか、女子たちはなにも言わずに去っていった。
「…ありがと」
薫のおかげで助かった。
「いやな奴らだったな。ああいうやつはしつこいから、関わらないに限るぞ」
「でも今回は負かせてすっきりしたって。いつもやられっぱなしだったからさ」
上級生ということもあり、冬子は何かと歯がゆい思いをすることが多かった。
彼女たちはやることもかなり陰湿だった。
「意外と女子にも容赦ないのね」
「冬子以外に優しくする必要ないし。それもあんなカスみたいなやつらに」
「あはは、あいつらは確かにカスだ。言えてる」
冬子は久しぶりに心の底から笑った。
外を見ると、夕日がまぶしかった。もうすぐ暗くなりそうだ。
「結局靴はみつからなかったな」
「別に探してなかったじゃない。いいよ、もうあきらめたし」
校舎の中を探検して、教室に隠れていただけだ。
見つかるわけがない。
「もう帰ろうか。疲れた。薫も十分楽しんだでしょ」
「まあな。あの頃は、本当は高校行きたかったし。別に今の選択に後悔があるわけじゃないけどさ」
薫は少し悲しそうな顔をした。
「ずっと働いてたおかげで、結構蓄えはあるんだ。だから、働かなくても数年は冬子を養っていけるくらいの金はある。今はそれでよかったと思ってる」
働いたことのない冬子には、それがどのくらいの額になるのかはわからなかった。
「なら、それは薫が好きなことをするために使いなよ」
「俺がしたいことは、冬子のためにすることだけだ」
どうして真顔でそんなことが言えるのだろう。
「私の使いたいお金は、自分で稼ぐわ」
「俺はお前の望むことは全部かなえてあげたい。それ以外に金の使い道はない」
頑固そうだ。
この会話は平行に終わりそうだった。
お互いのことを思うからこそ分かり合えないことも多いのだろう。
今後もこんなことは何度もありそうだ。
そんな話をしてると、下駄箱に着いた。
といっても、履き替える靴もないけど。
外履きようにと拝借したスリッパで帰るしかないか。
「案外、ひょっこりと戻ってたりして」
薫が言う。
「まさかあ。そう簡単に見つかれば苦労しないって」
冬子の下駄箱に葉っぱと土で汚れた靴が入っていた。
誰が冬子の靴を下駄箱へ戻してくれたんだろう。
次の日、冬子は教師の授業を聞き流しながらそんなことを考えていた。
「ねえ、どう思う?薫」
「さあ、冬子の友達が探して入れてくれたんじゃ?」
「あのね、私、これまで友達ができたことがないのがある意味自慢なのよ」
なんの自慢だ、言ってて悲しくなる。
「友達じゃなくても、おせっかいなやつってどこにでもいるもんだし、少し話したら冬子がいいやつだってわかるからな。何か恩を感じて助けてくれたのかもしれないし」
本当にそんなことをしてくれる人がいるのだろうか。
冬子は教室を見まわしてみる。
みんな、冬子を膝にのせて一緒に授業を受けている薫に興味深々だった。
薫のことを無視しているのは、何事もないように授業を進めている教師だけだった。
「ねえ薫、いつ私から離れてくれるのよ」
「少なくとも今日一日は無理っぽい」
冬子は今日何度目かわからないため息をついた。
朝から薫はこの調子だった。
薫の様子がおかしいと気づいたのは、いつも通りバイクで学校まで送ってくれた時のことだ。
いつもは校門で見送って、仕事へ向かうのだが、今日はなぜか教室までついてきた。
過保護がすぎるのはいつものことだが、さすがにいきすぎだ。
そう何回も校内への不法侵入を見逃すわけにはいかない。
「ちょっと、薫。さすがにここまで見送りに来ないでいいから」
そう言っても、少しも冬子から離れようとはしなかった。
冬子の言葉も無視し、なぜか手をつないで教室に入り、挙句授業まで受け始めたのだった。
「ほんと、どうしちゃったのよ薫。病気?」
ずっと冬子を膝の上に乗せたまま、後ろから手を回して、顔をうずめている。
「病気といえば病気かもな。なんか、今日は冬子がいないとダメみたいだ。いつもはここまでじゃないんだけど」
そう言っている間にも、ほかのクラスメイトはどんどん教室に入ってくるし、あと5
分もすればチャイムがなって教師もやってくる。
クラスメイトたちは、ひそひそ話ながら、遠巻きに冬子と薫を遠巻きに見ていた。
「ちょっと、もう先生来るんですけど。このままじゃ授業うけれないんですけど」
「問題ない。教師には話をつけてある。冬子は気にせず授業を受けてくれ」
「いつのまに…ていうか、このまま授業受けるとか無理すぎるんですが」
そうこうしてるうちに授業が始まるチャイムがなった。
遠巻きに見ていたクラスメイト達も、仕方なしに冬子の周りの席にもつきはじめた。
けれど、視線は薫に釘付けだ。
しかし、なにか言ってくる者はいなかった。
あとは頼れるのは教師だけだ。
どうにか薫を、せめて教室の外へ連れ出してほしい。
冬子の願いは聞き届けられず、入ってきた教師は何事もないように授業を始めた。
「なんで先生はなにも言わないのよ」
「だから教師とはもう話をつけてあるっていっただろ」
「なんて言ったらこうなるのよ」
冬子と俺を引きはがしたら、学校をめちゃくちゃにしてやるとでも言ったのか?
「そんな脅すようなことは言ってないって」
そう薫は否定するが、教室の前に立つ教師を見ていると、明らかに薫と冬子に目を合わせないようにしているのがわかる。
その表情は、心なしかおびえているようにも見えるが。
「この間の女子生徒のことについて、校長にクレームを入れたときに、俺のことについても話したんだよ。俺は運命病だから、学校に迷惑かけるかもしれないって」
「それで、校長がはいわかりましたって言ったわけ?」
信じられない。
運命病について、世間はそこまで寛容ではないと思っていた。
「世間についてはそうかもしれないけど、学校では別なんだ。昔、運命病の人に厳しくしたら手が付けられなくなった事件があって、下手に刺激しないようにって国から学校にお達しが出たらしいよ。とくに、その相手が未成年の場合、なにかあったら大変だしね。悪用されるから、周知はされてないけど」
そのお達しのせいで、運命病の人は手が付けられないほど恐ろしいやつだって認識にな
っているのではないだろうか。
「それで薫はどうしちゃったわけ?」
そもそも、薫が教室に入ってこなければこんなことにはなっていないわけで。
「なんか、運命病って不定期に発作がでてくるらしい。俺もこの間調べて知ったんだけど」
「発作?」
兄が運命病であったが、冬子はそんな症状聞いたことがなかった。
「なんか、めっちゃ冬子から離れたくなくなる。いつもそうだけど、普段は自制心が効いてるっていうか、今日はほんとそれが無理なかんじ」
なんか日本語も怪しくなってないか?
「ああ、発作ってそういう感じの…」
そういえば、兄も、相手と一緒に一日中部屋に引きこもって出てこない日があった。
何をしていたのかは知らないが、薫と同じような状況になっていたのなら、学校どころで
はないだろう。
「こんなんじゃ授業に集中できないわ。こうなるってわかってたら学校に来てなかったのに」
「なるべく冬子の邪魔はしないようにするからさ」
薫は申し訳なさそうに言う。
「取り合えずこの授業が終わったら帰ろうか」
なんてこそこそ話してると、
「えー、鈴井さんたち帰っちゃうの?もっといなよ」
突然、後ろの席の女子が会話に入ってきた。
「なんでよ」
冬子がにらむ。
「だって、ねえ、薫さんすごくかっこいいじゃん。こんな間近で見れる機会なんてそうそうないし、せっかくだから最後までいてよ」
上目遣いに懇願するクラスメイトに冬子は冷たく言った。
「そういわれたら、余計帰りたくなったわ」
「そんなあ…」
よく見たら、周りの女子たちもうっとりした目で薫を見ていた。
誰も、教師の授業など聞いてない。
冬子はそんなねっとりした視線に寒気がした。
冬子は一限だけ授業を受けて、学校を早退した。
こんな状態の薫と外で過ごすのは嫌だったので、とりあえず冬子の家に薫を連れて帰った。
薫の家も考えたが、いくら恋人同士でも一人暮らしの男の家に行くのはためらった。
両親は仕事で家を空けることが多いし、誰もいないと踏んだのだ。
しかし、思惑は外れ、一番上の兄の直がいた。
「あれ、直にい、今日店は?」
「お前、いい加減うちの店の定休日を覚えろ。今日は休みだ」
兄の直はカフェを経営してるのだが、店に泊まり込むことも多く、ほとんど家に帰ってくることはない。
冬子も会うのは1か月ぶりだった。
「冬子その男は誰だよ。平日の真昼間に男を連れ込むのは由貴だけにしてくれ」
「この人は由貴にいと同じだよ」
薫は冬子にべったりとくっついたまま、直をじっと見ていた。
冬子の言葉に、直はすぐに理解したらしい。
「ああ…。うちはややこしいのばっかりだな」
「私は関係ないでしょ」
「家に連れてきて関係ないはないだろ」
直は薫を見て言う。
「まあ、構いはしないがごゆっくり」
直はそう言い残して、階段を上がって自室に入っていった。
とりあえず直にいは自室に行ったので、リビングでくつろぐことにした。
テレビもあるし、時間つぶしにもなるだろう。
「ちょっと重いんだけど。少し離れてよ」
「無理」
相変わらず、薫は磁石のように冬子にぴったりとくっついていた。
ふにっ。
冬子の胸に薫の手が触れる感触がした。
「ちょっと、どこ触ってんのよ」
「不可抗力だって。こうやって、抱きついてるんだから」
「なら離れてよ」
何度言っても薫が冬子から離れることはなかった。
冬子の力では薫の手を動かすことはできない。
「何もしないって約束でうちにあげたの忘れたの?」
「…覚えてます」
冬子がまじでキレたのを感じて薫は落ち込んだ。
とそこで、リビングのドアから直がそっと覗いているのに気が付いて、冬子はびびった。
心臓に悪い。
「ちょっと直にい、なんでそんなとこで覗いてんのよ」
「お前らうるさい。あと、こんなとこでおっぱじめたらまじで追い出すからな。ここはホテルじゃないんだよ」
「誰がやるか」
少なくとも、家族がいるうちはそんなこと絶対しない。
「ちなみに由貴も、この家でやろうとしたから俺が追い出した」
正直兄のそんなことは聞きたくなかった。
それとお前、と直は薫を見る。
「理性を完全になくしたらただの獣だぞ。人間でないやつに大事な妹はやれんからな」
そう言い残して、直は再び去っていった。
「釘さされた。冬子は愛されてるな」
「なーに言ってんのよ」
冬子は膝の上に移動した薫の頭をよしよしと撫でた。
薫は冬子のふとももをすりすりと頬ずりした。
「あっ、これはいいんだ」
薫の行動に止めようとしない冬子に、意外そうに言った。
「だって猫みたいだし」
「じゃあ、今日はこれで甘えよう」
それからたっぷり2時間冬子は膝枕をさせられた。
さすがに足がしびれた。
膝枕で寝続けるのもしんどいはずだが、薫はそんな素振りはみせない。
「あの…薫さん…そろそろどいてくれないかな。トイレに行きたいし」
「えぇ…」
すごく嫌な顔をされた。
「もう、限界だから…お願いします」
本気で懇願した。もれそうだ。
仕方ないなあと薫がようやく頭をのけたので、立ち上がろうとしたけど、足がしびれて歩けなかった。
当然だ。
「くそっ、それなら這っていくしかない」
「こういう時は俺を頼れって」
薫は王子さながらにひょいっと冬子をお姫様抱っこした。
急に体が浮いたので、どきどきよりも恐怖のほうが勝った。
「ひえっ。ちょっ、一回下ろして」
「暴れるな、落ちるから」
そうこうしてるうちにすぐにトイレについた。
「…おろしてよ」
「冬子がトイレに行ったら、俺から離れるだろ」
「それくらい我慢してよ」
それからもひと悶着あって、ようやく冬子はトイレに行けた。
トイレの途中もドアをたたいてうるさかった。
いい加減にしてほしい。
トイレのドアを開けた冬子はかなりの不機嫌だった。
こんなしょうもないことで喧嘩したくなかったけど、それからの時間、二人の空気はぎくしゃくしていた。
それでも薫は、冬子から一ミリも離れることはなかった。
愛が重すぎる…。
薫と同じ病の兄にも、薫と同じ発作はあったのだろうか。
直が言うことを信じればあったのだろう。
そのせいで家を出ていく羽目になったのだろうし。
それでも、由貴が恋人と別れたという話は聞いたことがない。
このような状態の由貴を恋人は受け入れているのだろう。
ものすごい深い懐がないとできないことだと思う。
由貴が何度か連れてきた由貴の恋人。
とてもやさしそうな人だった。
私はあの人みたいになれるだろうか。
怒ったが、薫のことを嫌いになったわけではない。
「ねえ、この発作ってどれくらいの頻度で起こるの?」
「知らない。調べた限りだとひとそれぞれらしい」
運命病のことについては、まだわからないことだらけなのだ。
「今日は朝から調子がおかしいと思ってたけど、冬子に会って。俺、どうかしちまったな。
冬子の兄貴には理性までなくしちゃダメだって言ってたけど、それがいつまでもつか」
薫はすごく苦しそうだった。
この表情、兄もときどき見せていた。
そんな薫に冬子は黙って、膝枕をして頭をなでた。
運命病なんて言っても、ただ、愛されて幸せだなんて思ってた。
決して裏切ることがない相手。
冬子は薫が浮気をする心配なんてみじんもなかった。
けれど、その重すぎる愛に押しつぶされてしまう時がくるのかもしれない。
由貴の恋人はこの葛藤をどう乗り越えたのだろうか。
…一度、ゆっくりと話しをしてみたいな。
そんなことを思った。
けれど、それが叶うことはなかった。
それから数か月後、冬子は薫の運転するバイクの後ろにまたがっていた。
とは言っても、学校に向かっているのではない。
学校は休学していた。
今年中に戻らないと退学処分になるだろう。
けれど、冬子たちは、目的を果たすまで戻るつもりはない。
「当てはあるんだっけ」
「ない。けど、日本のどこかに運命病について研究してる機関があるらしいから、まずは情報収集だな」
由貴とその恋人が自殺未遂をしたと聞いたのは数週間前。
今由貴は精神病院に、恋人は重症で今も眠り続けている。
冬子は直からは由貴に会いに行くなと言われている。
毎日発作のような症状があらわれて、恋人に会いたいと叫びまくっているらしい。
自殺をしようとした原因は不明だ。
「俺も同じようになるのかな、冬子の兄貴みたいに」
薫は先日、発作の恐ろしさを実際に体験した。
一瞬たりとも冬子と離れたくないという欲望に支配され、自分が自分でないように感じた。
少しでも引き剥がれるくらいなら、殺してでも一緒にいたい。
薫にそのような気持ちが芽生えた。
冬子の兄貴の自殺の原因はわからないが、薫と同じことを考えたのではないかと推測している。
「さあ。運命病についてはわからないことも多いみたいだし。最近でこそ世間で認知されてきたけど、比較的新しい病気らしいし」
不安なのは冬子も一緒だった。
由貴は元に戻るのか、由貴の恋人は目を覚ますのか。
薫と冬子は今の関係を続けていくことができるのか。
いくら考えても、その答えはわからない。
「まずは俺と同じ病気のやつをみつけるところからだな。なにか、発作について対処法を知ってるかもしれないし、研究機関についての情報を得られるかもしれないし」
当てもなく出てきたのだから、そうするより仕方がない。
「どうやって見つけるつもり?」
運命病は見た目でわかるものでもない。
「俺の予想だと、運命病の奴同士でどこかでコミュニティができてると思うぜ。人間ってのは群れたがるもんだし、自分の苦しみを誰かにわかってもらいたいって考えるもんだ」
なら、そのコミュニティにさえ入ってしまえば、情報が手にはいるかもしれない。
考えなしでバイクで飛び出したから、これからどうなるだろうと思っていたが、ほんの少し希望が見えてきた。
「このまま当てもなくさまよう生活になるかもって思ってた」
「俺はそれでもいいけどな。冬子と一緒にいられるなら」
「さすがにずっとバイクでの旅は嫌よ」
「なら、全部終わったら、家を買えばいい。立派なのじゃなくても、冬子とふたりで暮らしていけるくらいの」
そして、いずれは子供も。
思ったけど、口に出すのはやめた。
不安が多い中で言うのはためらわれたし、なんとなく恥ずかしかった。
「家買うのはいいね。できれば海の見える場所で」
薫がふっと笑った。
「冬子は海がすきだな。ほら、見えてきた」
漂う風に、潮のにおいがまじっていた。
もうすぐ新しい街に着く。
冬子は薫の背中に回している手の力を強めた。
その相手が、一目見ただけでわかったらどうだろう。
これまで付き合っていた恋人のことも忘れ、ただ運命の相手にぞっこんになったとしたら。
しかも、相手のほうは自分が運命の相手だと気づかなければ。
それはもう呪いではないだろうか。
この世界にはそんな一目惚れの体質が数十万人に一人いると言われている。
無事相手と恋を成就できたらどれだけ幸せだろうが、もしその恋が実らなかったら…
この日、冬子は最悪の気分だった。
冬子は上級生の女子たちから目をつけられていた。
派手な髪にまあまあ目鼻の整った顔が許せないんだと。
それはいつものことだ。
小学生のころから、一部の女子と、とくに上級生とは折り合いが悪かった。
問題は、現在冬子が付き合っている男だ。
そいつは、冬子が女子たちに囲まれているのを横目に、何もしないでそのまま去っていったのだ。
別にかっこよく守ってほしいとかそういうことを求めていたわけではないけど、まさか見て見ぬふりをされるとは。
いじめっこ達には、冬子の彼氏が去っていく背中をみて、大笑いしていた。
そこからは、冬子のことを殴る、蹴るとやりたい放題だった。
冬子には抵抗する気力もなかった。
ようやく解放されて、今は家へ帰宅途中。
雨の中、口の中に血の味を感じながら冬子は思う。
隣のクラスだし、たまに顔をあわすことがあるかもしれないが、もう話すことはないだろう。
付き合って3か月くらいか。
特別好きなわけではなかったが、決して嫌いではなかった。
ただ、友達もいない冬子にとって、告白されたときはすごく嬉しかったし、学校で唯一だ寄れる存在だったのも事実だった。
その分、いざという時に助けてくれなかった失望は大きかった。
そんなどうしようもない元カレのことをもやもや考えていた時、背後から視線を感じた。
またあの男だ。
帰り道でじっと、冬子を見ている男がいた。
ここ何日も毎日だ。
細身の長身に長い黒髪を後ろでまとめている。
黒いレザーのジャケットに、やぶれたジーズン。
耳にはシルバーのピアス。
サングラスをかけているときもあれば、そうでないときもある。
顔は悪くない。冬子の好みだ。
雨なので今日は黒い傘をさしていた。
ストーカーか?
いや、そう思うのは自意識過剰かもしれない。
などと考えて元カレ以外に相談はしていなかった。
今まではあんな男でも一緒にいたのでそこまで心配もしていなかったが、今日からはひとりだ。
あんな男でもいるだけでも存在価値はあったのだと気づいた。
冬子は急に不安になって、足を速める。
思った通りストーカー男はついてきた。
今日は一人だからなめられているのか。
放課後に上級生に絡まれたせいで、もう遅い時間だし、この辺りは歩いている人は少ない。
いっそ走るか。
駅まで行けば人通りも増えるだろう。
そう考えて冬子は走り出すも、ふいに、持ってる傘が後ろから引っ張られた。
後ろを振り向くと、ストーカー男が冬子の傘をつかんでいた。
冬子は傘を手放して逃げようとするも、腕を大きな手につかまれた。
「はなしてよ」
そう言って手を離す不審者はいないだろうと思いながらも、冬子は叫んだ。
男は腕をつかんだまま、何も言わずじっと冬子を見ていた。
二人の間に無言の時間が過ぎる。
冬子は男の行動が謎だった。
襲ってくるわけでもないし、いったい冬子になんの用だろう。
「いたっ」
力強く握られていた腕にじんじんと痛みが出てきた。
「…悪い」
男は手を離した。
握られたところが少し赤くなってひりひりした。
こんなにあっさりと離してくれるとは思ってもいなかったので冬子は驚いた。
男の目的がますますわからない。
「あなた何の用なの?」
傘を差しなおして冬子は言う。
頭から肩までびっしょり濡れていた。
「それより、あの男とはどうなった?いつも一緒に歩いていた」
男は開口一番そんなことを聞いてきた。
冬子の元カレのことか。
「あの男って海斗のこと?もう別れたわ」
正確には冬子が勝手にそう思っているだけなのだが、復縁するつもりがない以上おなじことだ。
「そうか」
男は明らかにうれしそうな顔をした。
「あいつがどうしたのよ」
冬子をより付け狙いやすくなったってことか?
そこまで考えて、しまったと思った。
今日はたまたま別々に帰っていると言えばよかった。
正直者の自分が恨めしい。
「いや、あの男はどうもしないよ。もう用はなくなった」
目の前の男は冬子に手を回し、身体ひきつけた。
「これで遠慮なく俺のものにできる」
バシンッ。
男が言い終わるや否や、大きな音が響いた。
冬子が男の頬に思いっきりビンタをしたのだ。
男の頬が、冬子の腕よりも赤く腫れあがる。
それでも、男は笑顔を浮かべたままだったので冬子はドン引きした。
二人はファミレスに場所を移した。
冬子は本当はいち早く家に帰って着替えをしたかったが、目の前の男が許してくれそうになかった。
幸い、上着を脱いで髪をタオルで拭けば問題はなさそうだった。
寒かったのでホットコーヒーを注文する。
男は冷たいココアを頼んだ。
「俺は薫」
男は名乗った。
見た目と違ってかわいらしい名前だった。
「そう、私は冬子よ」
「冬子、さっそくだけど、運命病って知ってるか?」
知っている。
ただ、いきなり男がその病気のことを口に出してくるとは思わなかった。
名前こそ有名な病気だが、患者の数も少なく、詳しく知っている人はほとんどいない。
別名、一目惚れ現象。
ただの一目惚れじゃなく、顔を見た瞬間、まるで運命の相手のように、すべてをなげうってでもその相手を好きになってしまう現象だ。
冬子は兄の一人がその病にかかっていたためどんなものかはわかるが、兄も多くは語らないため詳しくは知らない。
持って生まれた性質で、どの相手の惚れてしまうのかは顔を合わすまではわからない。
それに、同性に惚れてしまう可能性もある。
「知ってるわ。あなた、まさか、私に惚れてるなんて言うんじゃないでしょうね」
「そう。で、相手はお前」
冬子は頭を抱えたくなった。
運命病は病にかかった本人も大変だけど、惚れられた相手も大変なのだ。
「俺も自分が運命病にかかっていることは知ってたけど、本当にその相手に出会うことになるとは思ってなかった。でも、冬子を見かけたときに運命の相手だって気づいて、どうしたものかずっと考えてた。男連れてたしさ」
それで、数か月ものあいだ、私のことを見張っていたのか。
「で、どうしたいわけ?」
「付き合ってほしい」
「断るわ」
見知らぬ男に突然告白されて喜ぶのはナンパ待ちの女くらいだろう。
「なんで?」
「運命病なんて迷信だっていう人もいるけど、私は信じるわ。身内にその病にかかっているのがいるからね。でも、あなたがそうだっていう証拠はないじゃない」
それに、と冬子は続ける。
「あなたが運命病だったとして、私があなたに惚れるとは限らないしね」
薫は自分をみる。
「そりゃそうか」
少し間があく。
「ちなみに、冬子の男のタイプは?」
「あなたのことは嫌いじゃないわ」
薫は少し笑った。
なら、十分勝機はあるなどと考えているのか。
女に苦労したことはなさそうだし。
「前の男は?なんで付き合ったの?」
「告白されたから」
「俺だって今、告白してるじゃん」
そうだけどさ。
「海斗のことは、一応同学年で、どんな人かなんとなく知ってたし。少なくとも、あなたみたいに全く素性の知らない人ではなかったわ」
「なら、俺のことを知ってもらったらいいわけだ」
薫に諦めるつもりはないらしい。
これであきらめるなら、病気などとは呼ばれてない。
薫が本当に運命病なら、惚れられたら負け。
「じゃあ、お互いのことを話そうよ。俺も、冬子のこといろいろ知りたいし」
薫は自分のことを語りだした。
21歳、中卒。
小さなバイクショップで働いているらしい。
ボロアパートで一人暮らし。両親は小さい時に離婚して今は絶縁状態。
なかなか壮絶な人生だ。
「俺は気楽で気に入ってるけどな」
優しい両親と兄弟に囲まれ、普通の生活を送っている冬子には想像もつかなかった。
「家族とか兄弟とかがいる生活は俺には想像できないな。彼女はいたことはあるけど、どの子も長続きしなかったし」
「なんで?」
「冷たいってさ。でも、冬子には冷たくできる自信はないから」
その笑顔が逆に怖い。
「雨も上がったし、もう帰るよ」
冬子は窓の外をみて、席を立った。
頼んだコーヒーはとっくに空になっていた。
「送っていくよ」
冬子は断った。
どうしてもという薫に連絡先は渡した。
「さて、どうしようかな」
冬子はいずれは薫と付き合うことになるだろう思っていた。
病気でなければ、薫が冬子に惚れる理由がわからない。
わかっていながら、冬子は悩んでいるふりをした。
翌日、冬子は元カレの海斗に詰められていた。。
私はいつも誰かともめているなと冬子はため息をついた。
「昨日誰と一緒にいたんだよ」
昨日ファミレスで薫と一緒にいたところを誰かが見ていて、彼に告げ口したらしい。
どうせ、昨日ちょっかいをかけてきた女たちの誰かだろう。
「海斗に関係ないでしょ、私たちもう別れたし」
「俺は別れたつもりはないって」
昨日のことなど忘れたように、海斗は冬子に詰め寄ってくる。
「じゃあ、なんで昨日私を見捨てたわけ?あれで、完全に冷めたんだけど」
「だって、お前がなんかやらかしたんだろ。そうじゃなきゃ、あんなに上級生に囲まれないだろ」
なんで、勝手に私がやらかしたことになってるんだ。
昨日の女子たちは、前々から、髪の色が派手だとか、男にこびているとか適当ないちゃもんを付けてくる上級生たちだ。
普段顔を合わせないように気を付けているが、たまたま廊下で見つかって校舎裏までひぱって来られたのだ。
「海斗、あの上級生の女子たちが怖いなら、もう私に関わんないほうがいいよ。私と付き合ってるってだけで、いつ、海斗に矛先がいくかわかんないからね」
海斗の表情が固まって、一歩後ろにさがった。
「さすがに、男に喧嘩売ったりしないだろ」
昨日逃げたくせに、どこからそんな自信がくるんだ。
「そんなわけないじゃん。昨日海斗がこそこそ逃げていくの、あいつら、ばっちり見てたからね。年下の、自分たちより弱いってわかったら、男だろうと容赦しないよ」
昨日の女子たちのことを思い出してびびっているのだろう。
所詮、その程度の男だ。
「じゃあね、もう私と関わんないほうがいいよ」
「冬子、昨日の男と付き合うのか?」
「かもね」
それだけ言って、冬子は海斗に背を向ける。
海斗ももう何も言ってこなかった。
海斗に告白されたときはうれしくて舞い上がったりしたが、今となってはどこがよかったのかさっぱりわからない。
同じ状況なら、薫はどうするだろう。
冬子のことを守ってくれるだろうか。
「でも、喧嘩は弱そうだな。がりがりだし」
一緒にやられてしまうかもしれない。
けど、ひとり置いて行かれるよりはずっとましだ。
痛みには慣れっこだし、後で、痛かったねなんて言って笑ってやったらいい。
「冬子がいじめられたら?そんなやつ、工具で頭をかち割ってやるよ」
バイクに乗りながら、さらりと怖いことを言われた。
冬子は薫が豹変して、振り落とされたらと不安になり、薫の腰に回す手の力を強める。
喧嘩に弱いなんてありえなかった。
薫に喧嘩を挑む人がいれば、容赦なくそのあたりの道具を使って叩きのめすのだろう。
「仕事柄工具はいつも身に着けてるしな」
怒らせないようにしないと…。
数時間前。
学校が終わると、なぜか校門の前に立って冬子を待っていた。
サングラスをかけて、立っているとまあ目立つ。
校門を通っていく生徒全員がじろじろ見て、噂をしながら速足で去っていく。
怪しすぎて誰も関わりたくないのだ。
本人は全く気にしてない様子だが。
遠くからでも薫の姿を見つけた冬子は、知らんふりをしたかったので裏門から出ようかなどと考えたが、余計に連絡が来るだろうと思ってやめた。
昨日から薫に鬼電されているのだ。
全部無視してるが。
「何やってるのよ。あんた、目立ってんのよ」
「あっ、冬子やっと出て来た。迎えに来た。これからデートしよう」
薫がサングラスを上げて、冬子に笑顔を向ける。
薫の顔を見た女子たちはかっこいいなどとつぶやくのが聞こえた。
正直、気分は悪くない。
「デートって、どこに行くのよ」
「冬子の行きたいとこ。店に戻ればバイクあるし、どこでも行ける」
「店に戻ればって…仕事はどうしたのよ」
「暇だし、抜け出したって文句はいわれないって。仕事より冬子のほうが大事だし」
社会人としてあるまじき発言だ。
「…クビになるわよ」
学歴もなく、貯金もなさそうなのに大丈夫か?
世渡りはうまそうな気はするけど。
冬子よりもよっぽど。
「行きたいとこって言われても急には…、あっ、海行きたい。せっかくバイクあるなら」
「海って、ここ内陸だからけっこう遠いよ」
「なによ、行けないの?」
「いや、遠いところのほうが長い時間冬子といられると思って」
いちいち嬉しいことを言ってくれる。
二人は薫の職場のバイクショップに戻り、店長の目を盗んで薫のバイクを持ち出した。
いかにも地元の店って感じの、こじんまりした店だった。
店長は奥にいるらしい。
冬子は薫にヘルメットをかぶせてもらい、後ろにまたがった。
バイクに乗るのは初めてだ。
振り落とされないか不安だったけど、ゆっくり走ってくれたおかげで、周りの景色を楽しむ余裕もでてきた。
「バイクって便利でいいわね。私も免許取ろうかしら」
風の音で声が通りづらいので、自然と声が大きくなる。
「えぇ」
前から不満そうな声が聞こえてくる。
「なによ」
「だって、冬子を後ろに乗せれないし」
薫のすねた顔が想像できておかしかった。
「別に私が免許取っても、後ろに乗るわよ」
「やっぱりやだ。どうせ自分で運転したくなるだろうし」
すねる薫は少し子供っぽかった。
「ねえ、薫はいつ免許取ったの?」
「免許が取れる年になってすぐ。休みのときにすることなかったし、ぶらぶら適当に走ってた」
「素敵じゃない。どんなところに行ったのか教えてよ」
それから、お互いが行ったことがある場所や、行ってみたい場所について話した。
外国はやっぱりハードルが高いってことで話は落ち着いた。
そんなこんなしてるうちにあっという間に海に着いた。
まだ夏になっていないので、見えるのは釣り人ぐらいだ。
けれど、じめっとした暑さがあるので海から漂う潮風が心地よかった。
「海に来たのは久しぶりだわ。ずっと小さいころに家族できたきり」
「俺はよく来てる。あてもなく走っても、日本の端っこは海だし」
「海はいいよね。嫌なことも全部忘れちゃう」
二人で柵にもたれかかってしばらく海を眺めた。
「飲み物買ってくる」
「ありがと。なんでもいいよ」
一人になった冬子は考えた。
このまま薫の恋人になってもいいのではないかと。
薫といると、海斗とはまた違った心地よさがあった。
顔が好みだからか?
バイクに乗るなんて、初めての体験をくれたからか?
それとも、冬子に優しくしてくれるからか?
それだけじゃなく、深い愛情を感じるからだと思う。
これが、運命病の人に愛されるということなのか。
なら私は、そのあふれるくらい与えられる愛情を返しきることができるのだろうか。
「冬子」
後ろからぎゅっとだきしめられた。
飲み物を買いに行った薫だった。
「俺と付き合ってほしい」
耳元でそっとささやいた。
頭のてっぺんまで熱が上がってくる感覚があった。
息が当たった耳がくすぐったい。
「…うん」
そうつぶやくのが精いっぱいだった。
薫がまた耳元に口を寄せてきて言った。
「ねえ、キスしてもいい?」
キスくらいこれまで何度もしたことがあった。
けど、薫とするのはすごく恥ずかしかった。
冬子が答えられずにいると、薫の唇がそっと頬に触れた。
耳の先まで真っ赤になった。
「口にはまた今度」
薫がくすくすと笑った。
冬子はさっきまでこどもっぽいと思っていた薫が、急に大人びて見えた。
昨日のことを思い出しながら、ぼけっと教室の席についていた。
行きと違って帰りはほとんどなにもしゃべらなかった。
なんとなく、気恥ずかしかったからだ。
薫も何も言わなかった。
そのまま家まで送ってもらって解散した。
何も約束してないけど、今日も迎えにくるのだろうか。
電話してみるか?けど、仕事中かもしれないし。
そんなことをもやもやと考えていた。
男のことで悩むなんて、これまでの冬子には考えられなかった。
「ねえねえ、鈴井さん。昨日校門の前にいた男の人って鈴井さんの彼氏?」
ずっと考え事をしていたから、声をかけられるまで冬子は、クラスメイトの女子たちに囲まれていることに気づかなかった。
周りを見渡すと、囲んでる女子以外の人たちも、興味津々という顔で冬子を見ていた。
昨日、薫はかなり目立っていたのだから、この中の誰かが、昨日冬子と話しているのをみていたのだろう。
「…そう、だけど」
この人たちはなぜそんなことを聞いてくるのか。
薫のあの調子だと、ばれるのは時間の問題だろうけど。
「やっぱりそうなんだ。ちらりと顔が見えたんだけど、すごくかっこいいね」
「でもちょっとチャラくない?性格はどうなの?」
「年上だよね。何歳?どうやって知りあったの?」
女子たちは口ぐちに好き勝手を言い始めた。
そして、勝手に薫のことを品定めしてくる。
お前たちは何様なんだ。
冬子はこうした人の話題で勝手に盛り上がるのが嫌いだった。
「ねえ、うざいんだけど」
昨日出来事で冬子の頭はどっぷりと浸っていた分、それを邪魔されていらだちは募っていた。
自分が思ってたよりも低い声が出た。
「人の男にケチつけてんじゃないよ」
自分のことを言われるのはどうでもいいけど、薫のことは許せなかった。
薫は私の彼氏になったのだから、私だけのものだ。
「ああ、ごめん。うるさくしちゃって。昨日の人にちょっと興味があっただけだから」
大抵の女子はこういうと、申し訳なさそうにそそくさと去っていく。
引き際をわかっているなら、冬子もそれ以上何も言うつもりはない。
けど一部の女子は、
「調子乗ってんなよ、ブス」
教室のどこからか、声が聞こえてくる。
こうなると冬子への嫌がらせが開始する。
「ねえ、靴はどうしたの?」
「…なくした」
学校のスリッパを拝借して外に出てきた冬子に薫は目を丸くした。
「別に靴なんて、靴下が汚れなければなんでもいいわよ」
これまで、ものがなくなったことなんて何度もある。
「そんなわけないだろ」
「別にいいって…ちょっと薫、どこ行くのよ」
薫は冬子の静止も聞かず、ずかずかと校舎の中に入っていった。
放課後とはいえ、まだ人はけっこう残っている。
「ねえ、どうするつもり?先生に見つかったらまずいって」
「平気だって。冬子、靴がなくなった心当たりは?」
さあ、朝にはあったはずの下駄箱から、急に足が生えたようになくなってたので。
「知らないわ。捨てられたのかもね」
薫は大げさに驚いたような顔をした。
うすうす私がいじめられっ子だってことに気づいていたのだろう。
初めて会った時も怪我してたし。
「よしよししてやろうか?」
「バカにしてるでしょ」
肘で薫をこずく。
薫と会ったら、昨日見たいに気恥ずかしい雰囲気になるのかとも思ったけど、なんとなく打ち解けた感じになってよかった。
ドキドキするのも嫌いじゃないが、バカやってるのも好きなのだ。
靴を探す当てもないので、適当に校舎のなかをさまよう。
「高校ってこんな感じなんだ。中学とそんなに変わんないな」
「やってることは一緒だからね」
薫はもの珍しそうにきょろきょろしてる。
中卒だと言っていたから、高校は初めてなのだろう。
「あっ、あれ先生じゃない?あのスーツを着た人」
薫は2階の窓からのぞいた先にいる教師を指さして言った。
教師はこちらに気づいたのか、こちらを振り向き、一瞬視線が合った気がした。
そうだよと言いながら、冬子は薫の腕を引っ張る。
「見つかったらややこしいからこっちきて」
冬子は近くにあった教室に薫を引きずり込んだ。
幸い、教室には誰もいなかった。
「あの先生、かなり堅物だから、絶対見つからないようにしてよね」
「了解~」
薫は軽い口調で言う。
「なんでちょっと楽しそうなのよ」。
薫はくすくす笑う。
「楽しいじゃん。かくれんぼみたいで」
「人の気も知らないで」
冬子は顔を真っ赤にしながら頬を膨らませてそっぽを向いた。
「さっきは危なかったな。あの先生、けっこう切れ者っぽいし」
「誰のせいよ」
冬子は目を三角にした。
薫は少し真面目な顔になる。
「冬子の学校がどんなところか見ておきたかった。前に会った時は怪我してたし、今日は靴なくしたとか言うし。俺は同じように学校に通って冬子のこと守ってあげられるわけじゃないからさ」
「…別に、心配されるようなことじゃないわ」
いじめは小学生のころから多少はあった。
そのたびに、いじめっこと戦ってきたし、殴り合いのけんかも何度もした。
靴を隠されることくらいどうってことない。
「冬子が強いことは知ってる。けど、そういうところが心配なんだ」
薫は冬子の頭をぽんぽんなでた。
冬子は少し泣きそうになった。
海斗ですら、そんな優しい言葉はかけてくれなかった
「ありがとね、元気でた。先生もどっか行っただろうし、そろそろ行こうか」
冬子は立ち上がった。
「残念、もう少し、二人っきりの教室にいたかったのに」
薫が続いて立ち上がった。
冬子の額にそっとキスを落としてドアを開ける。
「ん?」
そこには数人の女子生徒が立っていた。
「あっ」
後から続いた冬子がその生徒たちの顔を見て固まった。
冬子が目をつけられている上級生たちだ。
そのうちの一人が薫を指さしていう。
「鈴井さあ、いつも男に飢えてるからってさあ、こんな部外者を学校の中につれてくるなんてやばいんじゃない?」
「ちょっと調子乗りすぎだって」
「こいつ、昨日校舎の前で待ってたやつよね。援交でもしてんでしょ、いくらもらってんの?」
冬子のクラスメイトのような好奇心で聞いているわけじゃない、完全な悪意だ。
本当は冬子はすぐに言い返したかった。
何かを言い返したら、喜ばせるだけだと知っていた。
薫の顔を見ると、薫の表情が消えていた。
ただじっと、彼女たちを見ていた。
「ちょっと聞いてんのかよ、無視してんじゃねえよ」
ひとりがそんなことを言った時、薫の中の何かが切れたような音がした。
「なあ、あんたら、好き勝手言ってるけど、冬子のなんなわけ?」
先輩も負けずと強気に出る。
「ああ?あんたに関係ないだろおっさん。つーか不法侵入で警察よんでもいいんだけど」
薫はおっさんっていうほどの年ではないが、女子高生には年上はみんなおっさんに見える気持ちはわかる。
薫の顔を見ると、かなりイライラしているようだ。
「俺はこいつの兄だけど、あぁ?なんか文句あんのか?」
薫は彼女たちに近づきながらしれっと嘘ついた。
ていうか、どう見てもチンピラだった。
「校長に用があったんだけど、なに、わざわざチクってほしいわけ?私たちは、後輩をいじめて楽しんでますって」
「あなたが、こいつの兄だなんて、そんなはずないわ」
彼女たちは、薫が冬子の彼女であることを知ってここへ来たのだろう。
それなのに、薫に兄と名乗られて戸惑っていた。
けれど、兄でない証拠もない。
「今度こいつに何かやったら、わかってるだろうな。お前ら全員の顔は覚えたからな」
薫みたいなチャラい男に、思いっきりにらまれて詰められたらかなり怖い。
しかも、女子の一人が思いっきり顔をゆがめてるから何かと思ったら、薫が厚底のブーツで思いっきり足を踏んでいた。
そういえば、ずっと靴脱いでなかった。
薫の脅しが聞いたのか、女子たちはなにも言わずに去っていった。
「…ありがと」
薫のおかげで助かった。
「いやな奴らだったな。ああいうやつはしつこいから、関わらないに限るぞ」
「でも今回は負かせてすっきりしたって。いつもやられっぱなしだったからさ」
上級生ということもあり、冬子は何かと歯がゆい思いをすることが多かった。
彼女たちはやることもかなり陰湿だった。
「意外と女子にも容赦ないのね」
「冬子以外に優しくする必要ないし。それもあんなカスみたいなやつらに」
「あはは、あいつらは確かにカスだ。言えてる」
冬子は久しぶりに心の底から笑った。
外を見ると、夕日がまぶしかった。もうすぐ暗くなりそうだ。
「結局靴はみつからなかったな」
「別に探してなかったじゃない。いいよ、もうあきらめたし」
校舎の中を探検して、教室に隠れていただけだ。
見つかるわけがない。
「もう帰ろうか。疲れた。薫も十分楽しんだでしょ」
「まあな。あの頃は、本当は高校行きたかったし。別に今の選択に後悔があるわけじゃないけどさ」
薫は少し悲しそうな顔をした。
「ずっと働いてたおかげで、結構蓄えはあるんだ。だから、働かなくても数年は冬子を養っていけるくらいの金はある。今はそれでよかったと思ってる」
働いたことのない冬子には、それがどのくらいの額になるのかはわからなかった。
「なら、それは薫が好きなことをするために使いなよ」
「俺がしたいことは、冬子のためにすることだけだ」
どうして真顔でそんなことが言えるのだろう。
「私の使いたいお金は、自分で稼ぐわ」
「俺はお前の望むことは全部かなえてあげたい。それ以外に金の使い道はない」
頑固そうだ。
この会話は平行に終わりそうだった。
お互いのことを思うからこそ分かり合えないことも多いのだろう。
今後もこんなことは何度もありそうだ。
そんな話をしてると、下駄箱に着いた。
といっても、履き替える靴もないけど。
外履きようにと拝借したスリッパで帰るしかないか。
「案外、ひょっこりと戻ってたりして」
薫が言う。
「まさかあ。そう簡単に見つかれば苦労しないって」
冬子の下駄箱に葉っぱと土で汚れた靴が入っていた。
誰が冬子の靴を下駄箱へ戻してくれたんだろう。
次の日、冬子は教師の授業を聞き流しながらそんなことを考えていた。
「ねえ、どう思う?薫」
「さあ、冬子の友達が探して入れてくれたんじゃ?」
「あのね、私、これまで友達ができたことがないのがある意味自慢なのよ」
なんの自慢だ、言ってて悲しくなる。
「友達じゃなくても、おせっかいなやつってどこにでもいるもんだし、少し話したら冬子がいいやつだってわかるからな。何か恩を感じて助けてくれたのかもしれないし」
本当にそんなことをしてくれる人がいるのだろうか。
冬子は教室を見まわしてみる。
みんな、冬子を膝にのせて一緒に授業を受けている薫に興味深々だった。
薫のことを無視しているのは、何事もないように授業を進めている教師だけだった。
「ねえ薫、いつ私から離れてくれるのよ」
「少なくとも今日一日は無理っぽい」
冬子は今日何度目かわからないため息をついた。
朝から薫はこの調子だった。
薫の様子がおかしいと気づいたのは、いつも通りバイクで学校まで送ってくれた時のことだ。
いつもは校門で見送って、仕事へ向かうのだが、今日はなぜか教室までついてきた。
過保護がすぎるのはいつものことだが、さすがにいきすぎだ。
そう何回も校内への不法侵入を見逃すわけにはいかない。
「ちょっと、薫。さすがにここまで見送りに来ないでいいから」
そう言っても、少しも冬子から離れようとはしなかった。
冬子の言葉も無視し、なぜか手をつないで教室に入り、挙句授業まで受け始めたのだった。
「ほんと、どうしちゃったのよ薫。病気?」
ずっと冬子を膝の上に乗せたまま、後ろから手を回して、顔をうずめている。
「病気といえば病気かもな。なんか、今日は冬子がいないとダメみたいだ。いつもはここまでじゃないんだけど」
そう言っている間にも、ほかのクラスメイトはどんどん教室に入ってくるし、あと5
分もすればチャイムがなって教師もやってくる。
クラスメイトたちは、ひそひそ話ながら、遠巻きに冬子と薫を遠巻きに見ていた。
「ちょっと、もう先生来るんですけど。このままじゃ授業うけれないんですけど」
「問題ない。教師には話をつけてある。冬子は気にせず授業を受けてくれ」
「いつのまに…ていうか、このまま授業受けるとか無理すぎるんですが」
そうこうしてるうちに授業が始まるチャイムがなった。
遠巻きに見ていたクラスメイト達も、仕方なしに冬子の周りの席にもつきはじめた。
けれど、視線は薫に釘付けだ。
しかし、なにか言ってくる者はいなかった。
あとは頼れるのは教師だけだ。
どうにか薫を、せめて教室の外へ連れ出してほしい。
冬子の願いは聞き届けられず、入ってきた教師は何事もないように授業を始めた。
「なんで先生はなにも言わないのよ」
「だから教師とはもう話をつけてあるっていっただろ」
「なんて言ったらこうなるのよ」
冬子と俺を引きはがしたら、学校をめちゃくちゃにしてやるとでも言ったのか?
「そんな脅すようなことは言ってないって」
そう薫は否定するが、教室の前に立つ教師を見ていると、明らかに薫と冬子に目を合わせないようにしているのがわかる。
その表情は、心なしかおびえているようにも見えるが。
「この間の女子生徒のことについて、校長にクレームを入れたときに、俺のことについても話したんだよ。俺は運命病だから、学校に迷惑かけるかもしれないって」
「それで、校長がはいわかりましたって言ったわけ?」
信じられない。
運命病について、世間はそこまで寛容ではないと思っていた。
「世間についてはそうかもしれないけど、学校では別なんだ。昔、運命病の人に厳しくしたら手が付けられなくなった事件があって、下手に刺激しないようにって国から学校にお達しが出たらしいよ。とくに、その相手が未成年の場合、なにかあったら大変だしね。悪用されるから、周知はされてないけど」
そのお達しのせいで、運命病の人は手が付けられないほど恐ろしいやつだって認識にな
っているのではないだろうか。
「それで薫はどうしちゃったわけ?」
そもそも、薫が教室に入ってこなければこんなことにはなっていないわけで。
「なんか、運命病って不定期に発作がでてくるらしい。俺もこの間調べて知ったんだけど」
「発作?」
兄が運命病であったが、冬子はそんな症状聞いたことがなかった。
「なんか、めっちゃ冬子から離れたくなくなる。いつもそうだけど、普段は自制心が効いてるっていうか、今日はほんとそれが無理なかんじ」
なんか日本語も怪しくなってないか?
「ああ、発作ってそういう感じの…」
そういえば、兄も、相手と一緒に一日中部屋に引きこもって出てこない日があった。
何をしていたのかは知らないが、薫と同じような状況になっていたのなら、学校どころで
はないだろう。
「こんなんじゃ授業に集中できないわ。こうなるってわかってたら学校に来てなかったのに」
「なるべく冬子の邪魔はしないようにするからさ」
薫は申し訳なさそうに言う。
「取り合えずこの授業が終わったら帰ろうか」
なんてこそこそ話してると、
「えー、鈴井さんたち帰っちゃうの?もっといなよ」
突然、後ろの席の女子が会話に入ってきた。
「なんでよ」
冬子がにらむ。
「だって、ねえ、薫さんすごくかっこいいじゃん。こんな間近で見れる機会なんてそうそうないし、せっかくだから最後までいてよ」
上目遣いに懇願するクラスメイトに冬子は冷たく言った。
「そういわれたら、余計帰りたくなったわ」
「そんなあ…」
よく見たら、周りの女子たちもうっとりした目で薫を見ていた。
誰も、教師の授業など聞いてない。
冬子はそんなねっとりした視線に寒気がした。
冬子は一限だけ授業を受けて、学校を早退した。
こんな状態の薫と外で過ごすのは嫌だったので、とりあえず冬子の家に薫を連れて帰った。
薫の家も考えたが、いくら恋人同士でも一人暮らしの男の家に行くのはためらった。
両親は仕事で家を空けることが多いし、誰もいないと踏んだのだ。
しかし、思惑は外れ、一番上の兄の直がいた。
「あれ、直にい、今日店は?」
「お前、いい加減うちの店の定休日を覚えろ。今日は休みだ」
兄の直はカフェを経営してるのだが、店に泊まり込むことも多く、ほとんど家に帰ってくることはない。
冬子も会うのは1か月ぶりだった。
「冬子その男は誰だよ。平日の真昼間に男を連れ込むのは由貴だけにしてくれ」
「この人は由貴にいと同じだよ」
薫は冬子にべったりとくっついたまま、直をじっと見ていた。
冬子の言葉に、直はすぐに理解したらしい。
「ああ…。うちはややこしいのばっかりだな」
「私は関係ないでしょ」
「家に連れてきて関係ないはないだろ」
直は薫を見て言う。
「まあ、構いはしないがごゆっくり」
直はそう言い残して、階段を上がって自室に入っていった。
とりあえず直にいは自室に行ったので、リビングでくつろぐことにした。
テレビもあるし、時間つぶしにもなるだろう。
「ちょっと重いんだけど。少し離れてよ」
「無理」
相変わらず、薫は磁石のように冬子にぴったりとくっついていた。
ふにっ。
冬子の胸に薫の手が触れる感触がした。
「ちょっと、どこ触ってんのよ」
「不可抗力だって。こうやって、抱きついてるんだから」
「なら離れてよ」
何度言っても薫が冬子から離れることはなかった。
冬子の力では薫の手を動かすことはできない。
「何もしないって約束でうちにあげたの忘れたの?」
「…覚えてます」
冬子がまじでキレたのを感じて薫は落ち込んだ。
とそこで、リビングのドアから直がそっと覗いているのに気が付いて、冬子はびびった。
心臓に悪い。
「ちょっと直にい、なんでそんなとこで覗いてんのよ」
「お前らうるさい。あと、こんなとこでおっぱじめたらまじで追い出すからな。ここはホテルじゃないんだよ」
「誰がやるか」
少なくとも、家族がいるうちはそんなこと絶対しない。
「ちなみに由貴も、この家でやろうとしたから俺が追い出した」
正直兄のそんなことは聞きたくなかった。
それとお前、と直は薫を見る。
「理性を完全になくしたらただの獣だぞ。人間でないやつに大事な妹はやれんからな」
そう言い残して、直は再び去っていった。
「釘さされた。冬子は愛されてるな」
「なーに言ってんのよ」
冬子は膝の上に移動した薫の頭をよしよしと撫でた。
薫は冬子のふとももをすりすりと頬ずりした。
「あっ、これはいいんだ」
薫の行動に止めようとしない冬子に、意外そうに言った。
「だって猫みたいだし」
「じゃあ、今日はこれで甘えよう」
それからたっぷり2時間冬子は膝枕をさせられた。
さすがに足がしびれた。
膝枕で寝続けるのもしんどいはずだが、薫はそんな素振りはみせない。
「あの…薫さん…そろそろどいてくれないかな。トイレに行きたいし」
「えぇ…」
すごく嫌な顔をされた。
「もう、限界だから…お願いします」
本気で懇願した。もれそうだ。
仕方ないなあと薫がようやく頭をのけたので、立ち上がろうとしたけど、足がしびれて歩けなかった。
当然だ。
「くそっ、それなら這っていくしかない」
「こういう時は俺を頼れって」
薫は王子さながらにひょいっと冬子をお姫様抱っこした。
急に体が浮いたので、どきどきよりも恐怖のほうが勝った。
「ひえっ。ちょっ、一回下ろして」
「暴れるな、落ちるから」
そうこうしてるうちにすぐにトイレについた。
「…おろしてよ」
「冬子がトイレに行ったら、俺から離れるだろ」
「それくらい我慢してよ」
それからもひと悶着あって、ようやく冬子はトイレに行けた。
トイレの途中もドアをたたいてうるさかった。
いい加減にしてほしい。
トイレのドアを開けた冬子はかなりの不機嫌だった。
こんなしょうもないことで喧嘩したくなかったけど、それからの時間、二人の空気はぎくしゃくしていた。
それでも薫は、冬子から一ミリも離れることはなかった。
愛が重すぎる…。
薫と同じ病の兄にも、薫と同じ発作はあったのだろうか。
直が言うことを信じればあったのだろう。
そのせいで家を出ていく羽目になったのだろうし。
それでも、由貴が恋人と別れたという話は聞いたことがない。
このような状態の由貴を恋人は受け入れているのだろう。
ものすごい深い懐がないとできないことだと思う。
由貴が何度か連れてきた由貴の恋人。
とてもやさしそうな人だった。
私はあの人みたいになれるだろうか。
怒ったが、薫のことを嫌いになったわけではない。
「ねえ、この発作ってどれくらいの頻度で起こるの?」
「知らない。調べた限りだとひとそれぞれらしい」
運命病のことについては、まだわからないことだらけなのだ。
「今日は朝から調子がおかしいと思ってたけど、冬子に会って。俺、どうかしちまったな。
冬子の兄貴には理性までなくしちゃダメだって言ってたけど、それがいつまでもつか」
薫はすごく苦しそうだった。
この表情、兄もときどき見せていた。
そんな薫に冬子は黙って、膝枕をして頭をなでた。
運命病なんて言っても、ただ、愛されて幸せだなんて思ってた。
決して裏切ることがない相手。
冬子は薫が浮気をする心配なんてみじんもなかった。
けれど、その重すぎる愛に押しつぶされてしまう時がくるのかもしれない。
由貴の恋人はこの葛藤をどう乗り越えたのだろうか。
…一度、ゆっくりと話しをしてみたいな。
そんなことを思った。
けれど、それが叶うことはなかった。
それから数か月後、冬子は薫の運転するバイクの後ろにまたがっていた。
とは言っても、学校に向かっているのではない。
学校は休学していた。
今年中に戻らないと退学処分になるだろう。
けれど、冬子たちは、目的を果たすまで戻るつもりはない。
「当てはあるんだっけ」
「ない。けど、日本のどこかに運命病について研究してる機関があるらしいから、まずは情報収集だな」
由貴とその恋人が自殺未遂をしたと聞いたのは数週間前。
今由貴は精神病院に、恋人は重症で今も眠り続けている。
冬子は直からは由貴に会いに行くなと言われている。
毎日発作のような症状があらわれて、恋人に会いたいと叫びまくっているらしい。
自殺をしようとした原因は不明だ。
「俺も同じようになるのかな、冬子の兄貴みたいに」
薫は先日、発作の恐ろしさを実際に体験した。
一瞬たりとも冬子と離れたくないという欲望に支配され、自分が自分でないように感じた。
少しでも引き剥がれるくらいなら、殺してでも一緒にいたい。
薫にそのような気持ちが芽生えた。
冬子の兄貴の自殺の原因はわからないが、薫と同じことを考えたのではないかと推測している。
「さあ。運命病についてはわからないことも多いみたいだし。最近でこそ世間で認知されてきたけど、比較的新しい病気らしいし」
不安なのは冬子も一緒だった。
由貴は元に戻るのか、由貴の恋人は目を覚ますのか。
薫と冬子は今の関係を続けていくことができるのか。
いくら考えても、その答えはわからない。
「まずは俺と同じ病気のやつをみつけるところからだな。なにか、発作について対処法を知ってるかもしれないし、研究機関についての情報を得られるかもしれないし」
当てもなく出てきたのだから、そうするより仕方がない。
「どうやって見つけるつもり?」
運命病は見た目でわかるものでもない。
「俺の予想だと、運命病の奴同士でどこかでコミュニティができてると思うぜ。人間ってのは群れたがるもんだし、自分の苦しみを誰かにわかってもらいたいって考えるもんだ」
なら、そのコミュニティにさえ入ってしまえば、情報が手にはいるかもしれない。
考えなしでバイクで飛び出したから、これからどうなるだろうと思っていたが、ほんの少し希望が見えてきた。
「このまま当てもなくさまよう生活になるかもって思ってた」
「俺はそれでもいいけどな。冬子と一緒にいられるなら」
「さすがにずっとバイクでの旅は嫌よ」
「なら、全部終わったら、家を買えばいい。立派なのじゃなくても、冬子とふたりで暮らしていけるくらいの」
そして、いずれは子供も。
思ったけど、口に出すのはやめた。
不安が多い中で言うのはためらわれたし、なんとなく恥ずかしかった。
「家買うのはいいね。できれば海の見える場所で」
薫がふっと笑った。
「冬子は海がすきだな。ほら、見えてきた」
漂う風に、潮のにおいがまじっていた。
もうすぐ新しい街に着く。
冬子は薫の背中に回している手の力を強めた。