朔の言葉を聞きながら、私は涙を流すことしかできなかった。
朔の痛みが、想いが、絶望が、希望が、真っ直ぐに伝わってきた。
──辛いときは、辛いって、助けてって叫んでいいんだよ。
誰にも言えなかった。伸ばした手を振りほどかれることが怖かった。声を受け取ってもらえないことが怖かった。これ以上、傷つきたくなかった。
──俺らが思ってるより、世界はちょっとだけ優しいよ。
もしかすると、ほんの少し前なら、綺麗事だと思っていたかもしれない。
だけど今の私は、きっと、なんとなくわかっていた。
私が身を置いている環境が、目にしてきたものが、世界のすべてではないのだと。
「ごめん、暗くなってきちゃったね。もう帰ろ──」
腰を浮かせた朔の腕をとっさに掴んだ。
朔は腰を下ろして、ただ私の言葉を待ってくれていた。
──あのとき、本当は。
さっき答えられなかったのは、朔の言葉に迷いがなかったからだ。
朔は、私を信じてくれている。
嬉しかった。安堵していた。ただし、それ以上に罪悪感が芽生えていた。
朔が口にした推測は、正解であり不正解でもある。
だから、私の告白は朔を裏切ってしまうかもしれない。
それでも、辛い過去を、胸中を、包み隠さず打ち明けてくれた朔に、私に向けて一生懸命に言葉を紡いでくれた朔に、もう黙っていることなどできなかった。
そして、頑なに誰にも言わなかった〝あの日〟のことを口にした。
*
幽霊になった日から、グループトークのメンバーから外されはしなかったものの、私は完全スルーされるようになった。私が写っていない写真と、遊んだ内容のおさらいみたいな文が五月雨式に送られてくる。だから私は、自らグループトークを退出した。
インスタを開けば楽しそうに遊んでいる三人の姿がアップされていた。もはや公開範囲指定は気にしていないようだった。だから私は、インスタのアカウントを削除した。
次第に学校では、私がいなくなった途端に『キモイ』『死ね』などとくすくす笑いながら囁かれるようになった。おそらくわざと聞こえるように、だけど私が言い返せばごまかせる程度に言っているのだろう。だから私は、授業以外の時間を教室の外で過ごした。
私物を机に置きっぱなしにすれば、いつの間にかなくなっている。だから私は、教室から離れるときは必ずロッカーにすべて入れて鍵をかけるようにした。それくらいしなければ、自分の物を守れなかった。だけどそれが気に食わなかったのか、机と椅子が蹴り飛ばされたように倒れていた日があった。
私はこれほどまでに疎まれていたのだ。
少しずつ、少しずつ、心が壊れていくのを感じていた。
夏休みは一度も外出しなかった。友達を失ったのだから当たり前だ。いくつか入っていた予定は当然白紙になり、自室にこもって登校日に怯えながら過ごす夏休みは恐ろしく長かった。
──そして、あの日。
学年集会が始まる直前、怜南たちがいないことに気づいた。三人が授業をサボるのは珍しくない。いつもなら気に留めなかったし、むしろほっとするところでもあった。
だけどロッカーの鍵をかけ忘れた気がして、慌てて教室に戻った。すると不安が的中していた。
確認するまでもなくわかったのは、怜南たちが私のロッカーを漁っていたからだった。
彼女たちの手元を見れば、私の教科書やノートにマジックで落書きをしていた。見るまでもなく、どういうことを書かれているか見当がついた。わざわざ確認する勇気なんて、あるはずがなかった。
「ナナミ、赤ペンなくなったって言ってなかった? もらっちゃえば?」
私の鞄を漁っていたミカちゃんが、ペンケースから取り出した赤ペンをナナミちゃんに向けた。するとナナミちゃんは、ラッキーと笑いながらなんの躊躇もなく受け取ってポケットに入れた。
わかっていた。私物がなくなるたびに、誰がそうしているのか。
それでも実際に目の当たりにしたとき、頭が真っ白に、そして目の前が真っ暗になった。
眩暈がして、体がふらついた。ドアを掴んで持ち堪えると、ガタンと音がした。
三人が弾かれたように振り返り、棒立ちしている私に気づく。
怜南はわずかに動揺を見せて、私から顔を背けた。
ミカちゃんとナナミちゃんは、言い訳をするでも謝るでもなく唇の端を上げた。
「先生にチクる? 意味ないと思うけど。うちらは問い詰められても絶対に口割らないし、誰もあんたのことなんか信じないって」
「警察に指紋でも調べてもらう?」
「つーかいつまで学校来てんだよ。さっさとやめろって」
「てかもう死んじゃえばー?」
ふたりの表情は、教室でたわいもない話をしているときと同じ、一点の曇りもない笑顔だった。
ミカちゃんが二歩進み、佇むことしかできない私の前にペンケースを落とした。
「おまえが死んだって誰も悲しまねえよ。さっさと死ね」
真っ向からこれだけ容赦ない悪意と敵意を浴びせられても、私の中にはまだかすかに希望が残っていた。怜南は私から目を逸らしたまま、ふたりに便乗することなく黙っていたからだ。
「怜南とふたりで話したいんだけど」
どんな状況になろうと、私は性懲りもなく怜南を信じていた。
怜南はミカちゃんとナナミちゃんに合わせて仕方がなく、嫌々いじめに加担しているだけ。たとえ嫌われてしまったのだとしても、ちゃんと話し合えばわかり合える。きっと前みたいに戻れる。
だって私たちは、親友だったのだから。
そんなあまりにも滑稽な願望を、最後まで捨てきれなかった。
「悪いんだけど、ミカとナナミは出ていってくれる?」
怜南が言うと、ふたりはなぜか楽しそうに出ていった。
怜南とこうして向かい合うのはいつ以来だろう。
「なに? ふたりっきりならあたしが謝るとでも思ってんの?」
「教えてほしいの。なんでこんなことするの? 私のなにが、〝なんか違う〟の?」
「……やっぱり聞いてたんだ」
怜南は分が悪そうに眉をひそめた。
「だから、そういうところがもう違うんだって」
答えられずにいると、怜南はこれみよがしにため息をついた。
「ていうか、茉優も茉優だよ。なに被害者みたいな顔してんの? 先に喧嘩売ったの茉優だよね?」
「なに言ってるの? 私は喧嘩なんか売ってない」
「無自覚なとこがなおさら質悪いんだって。茉優が空気読めないこと言うたびにあたしまでひやひやしてたの。どんだけ神経使ってたかわかる? 適当に合わせとけばいいのにさあ。あたしだって話についていけないときくらいあったけど、それでも無理して合わせてたんだよ。……じゃなきゃムネに振られちゃうかもしれないから」
「なんで急に宗像くんが出てくるの?」
「ムネとつき合い始めたとき、ミカとナナミと仲よくしてほしいって言われたの。彼氏にお願いされたらそうするしかないでしょ? あの三人って中学から一緒ですっごい仲いいの。だから嫌われるわけにいかないの。ミカとナナミに嫌われたら、ムネに振られちゃうかもしれないじゃん。……もしかしたら、どっちかとつき合っちゃうかもしれないし」
「でも、そういうの嫌いだって言ってたじゃん。無理に全部合わせる必要ないって……」
「だからさあ!」
叫び声と鋭い視線に臆して、思わず体が後退した。
淡々と話していた怜南の目が真っ赤に染まる。
「友達と彼氏は違うんだってば! ムネだけには嫌われたくないの! だから無理してでもミカとナナミに合わせなきゃいけないの! なんでわかんないの!?」
全然わからなかった。なにより、質問の答えになっていない気がした。
私が知りたいのは、なぜ怜南が私のことを嫌いになったのか、だ。
怜南が言う理由の中に怜南はいない。
だからこそ、私の中にあるかすかな希望はまだ完全に消え去っていなかった。
最後の望みをかけて、それを口にする。
「怜南は……みんなに合わせてただけ、ってこと? 私のことが嫌いになったわけじゃ──」
「嫌いだよ!」
──ないんだよね。
最後まで言えなかった台詞が、粉々に砕けて落ちていった。
「いい加減にしてよ! あたしが今どんだけ気遣って言ってあげてるかわかんない!? なんで一から十まで全部言わなきゃわかんないの!? 普通それくらいわかるでしょ!? そういうところが違うんだって言ってるの!」
「……わかんないよ。だって」
「あたし聞いてたの!」
真っ赤に染まっている怜南の目に、涙が滲(にじ)んだ。
「ミカとナナミが言ってたこと、聞いてたの。ムネが最初は茉優狙いだったって、未だに茉優がタイプだって言ってるって、全部聞いてたの! お洒落でもない地味なあんたを! そんなの許せるわけないでしょ!?」
怜南の頬に、涙が落ちた。
「ムネが最初は茉優狙いだったことくらいわかってたよ! ミカとナナミがあたしのこと見下してるのもわかってた! でも頑張って、頑張って頑張ってやっとつき合えて、ムネに好きになってほしくて、ミカとナナミに嫌われないように神経尖らせて、こんなに努力してるのに! あんたがあたしのこと庇ったとき、あたしがどんだけ惨めだったかわかる!?」
泣き叫ぶ怜南に、一緒に笑い合っていた頃の面影は微塵もなかった。
まるで知らない人みたいだった。
「わかんないなら何回でも言ってあげる! 嫌いなの! あんたなんか大っ嫌い!」
私は馬鹿なのだろうか。これは現実逃避でしかないのだろうか。
どれだけ怜南の言葉を聞いても、なにひとつ理解できないのだから。
こんなにも嫌われてしまった理由が、どうしてもわからないのだから。
「あんたなんか死ねばいい!」
かすかな希望が絶望に吸い込まれたとき、ただでさえ不安定だった私の世界がぐにゃりと歪んで壊れた。
ふいに視線を落とせば、私のペンケースから落ちたのだろうカッターが目に入った。
気づいたらそれを握りしめていた。
立ち上がると、怜南の顔が青ざめた。
悲鳴を漏らしてあとずさる怜南をぼんやりと眺めながら、私は刃先を向けた。
*
なぜそうしたのか、そのときは自分でもわからなかった。
だけど、今ならわかる。はっきりとその言葉が浮かんでいる。
「なんで私が死ななきゃいけないのって──あんたが死ねばいいじゃんって、思った」
殺されそうになったという怜南の主張は正しかった。だって私は、カッターを握ったあの瞬間、たとえほんの一瞬でも、明確な殺意を抱いてしまったのだ。
刃先を怜南に向けたまま、勢いをつけて突進すればいい。
そうしなければ、この地獄から解放されない。
あの瞬間の私にとって、警察に捕まることよりも、そっちの方がずっと怖かった。
復讐はなにも生み出さないなんて綺麗事だ。
だって私は、あの瞬間──怜南を殺そうと思った瞬間、ほんの少しだけ、楽になった。
「だけど……できなかった」
動かなければなにも終わらない。
壊れてしまった世界を、ずっと彷徨わなければいけなくなる。
頭ではわかっているのに、体が動いてくれなかった。
体中を駆け巡ってしまったのだ。
怜南と過ごした日々が。私に向けてくれていた、怜南の笑顔が。
──茉優はそういうのないからつき合いやすいっていうか。一緒にいて楽しいし。
──それ、茉優は悪くなくない?
──そんなことで怒る方がおかしいよ。しかも仲間増やしていじめるなんて、あたし嫌いだなーそういうの。
──あたしは茉優のこと大好きだけどな。
──一緒にいてこんなに楽なのも楽しいって思えるのも初めてだから。
──あたしは茉優とならずっと友達でいられそうな気がする。
怜南がくれた、到底忘れることのできない、言葉たちが。
「だから」
──あのとき、本当は。
「殺せないなら、自分が死ねばいいんだって、思った」
──自分を刺そうとしたんじゃないの?
朔の言う通りだった。私はあの瞬間、振りかざした両腕を自分のお腹めがけて下ろそうとしたのだ。
脳裏で再生されていた怜南との思い出が途切れた瞬間、怜南に言われた『死ね』が、そしてずっと聞き流していた、何度も囁かれた『死ね』が、頭の中でこだました。その言葉だけに支配され、世界中の人に嫌われてしまった気がした。生きる資格さえも剥奪されてしまったような錯覚を覚えた。
この世界のすべてが、怖くなった。
──おまえが死んだって誰も悲しまねえよ。
そうかもしれない。
学校にも家にも私の居場所なんかない。
お母さんには恵茉がいる。むしろ私がいなくなれば、大きな悩みの種がなくなって清々するかもしれない。これからはお父さんと恵茉と三人で平穏な日々を過ごせるだろう。
私さえいなくなれば──。
朔への感謝は庇ってくれたことだけじゃない。
朔が来なければ、私はもうこの世にいなかったかもしれないのだ。
「どうしても、わからないの。なんでこうなっちゃったのか」
キモイ、死ね。幽霊になった日から、何度もそう囁かれた。
ひと言でも言い返していれば、あんなことをせずに済んだのかもしれない。仲間を作って味方につけてやり返していれば、表面上は笑っていられたのかもしれない。
だけど、そんなこと絶対にしたくなかった。感情のままに人を傷つける人間になんて、平気で『死ね』という言葉を口にする人間になんて、絶対になりたくなかった。その一線を越えた瞬間、本当に負けだと思った。自分が完全に壊れてしまうと思った。
だから、ずっと自分に言い聞かせていた。負けるもんか。なにを言われても、なにをされても、絶対に負けない。いじめなんかに屈してたまるか。絶対に乗り越えるんだ、と。
だけど、私は。
ひとりで耐え続けられるほど強くなかった。もう無理かもしれないと感じたとき、すでに誰かを信じて助けを求める気力や勇気がなくなってしまっていた。
「私は……ただ、普通に過ごしたかった」
一緒に授業を受けて、机の下に隠したスマホで『この先生の授業つまんないよねー』なんてメッセージを送り合って。休み時間になれば誰かの席に集まって、話して、笑って、昼休みは一緒にご飯を食べて、笑って。今日は放課後どうする?なんて、結局カラオケくらいしか浮かばないのにああだこうだ相談して。
家に帰れば、たわいもないメッセージや写真を送り合って、また次の日に会ったら、おはよう、昨日楽しかったね、と笑って、また同じような一日が始まっていく。
ただそれだけでよかったのに。
そんな〝普通〟が、どうしてこんなにも難しいんだろう。
どうして私は、みんなと同じようにできないんだろう。
「話してくれてありがとう」
いつの間にか、膝の上で拳を握りしめていた。
震えている拳に、朔の手が重なった。
朔は、私に負けないくらい泣いていた。
私の拳に添えていた手を離し、両手で私をぎゅっと抱きしめた。
「茉優が生きていてくれて、よかった」
*
帰る頃には、すっかり暗くなってしまっていた。玄関には亜実ちゃんの靴がある。家を出る前に一応連絡をしておいたけれど、心配しているかもしれない。
洗面所に寄って鏡を見れば、我ながらとんでもなく不細工だった。目も顔も真っ赤で、まぶたはぼってりと腫れている。涙は拭いたのに、頬にも顎にも痕がくっきりと残っていた。ごまかせる気はしないけれど、一応軽く顔を洗った。
朔と一緒に、泣いた。
吐き出した言葉や涙と共に、氷の塊がまた少しずつ解けていった。
──茉優が生きていてくれて、よかった。
朔が一生懸命に紡いでくれたたくさんの言葉は、形を成して私の中に芽吹いている。きっと一生忘れることはないだろう。
私は、二度も朔に救われた。
顔を拭いて洗面所を出る。廊下を歩き進めてリビングのドアに手をかけたとき、
「──ごめんね、延長してもらっちゃって。……うん、ありがとう。うん、たまは実家でのんびりしてて。こっちは大丈夫だから」
海に行った日と同じような、私と話すときよりずっと落ち着いた声が聞こえた。
話の内容からして、電話の相手は旦那さんだろうか。
あれ? 実家?
考えている間に、電話を切った亜実ちゃんがリビングから出てきて鉢合わせてしまった。私の姿を見て「わっ」と声を上げる。私も亜実ちゃんの声に驚いてびくっと跳ねてしまった。
こんがらがっている頭のせいで言葉が出てこない。
だって、私が今こうして居候させてもらっているのは……。
「嘘ついててごめん。茉優が来てる間だけ、旦那には実家に帰ってもらってたの」
私が聞いていたことを察したらしい亜実ちゃんは、降参したように小さく息を吐いた。
「え……でもお母さんは、旦那さんが出張でいないから遊びにおいでって言ってるって……」
「そういうことにしてもらったの。だってそうでも言わなきゃ遠慮するでしょ? べつに気にしなくていいからね。会社だって実家からの方が近いし」
亜実ちゃんは嘘をついていたのか。もしかしたら今日の用事というのも、旦那さんと会っていたのかもしれない。
この家に来てからの亜実ちゃんの言動が思い出されたとき、いろいろと合点が行って体の力が抜けた。
「亜実ちゃん、やっぱり全部知ってたんだね。私が起こした事件のことも、……いじめられてたことも」
仕事のキリがいいというのも嘘だ。テーブルの上で開かれているパソコンの画面には、執筆途中の小説らしきものが表示されている。もしかすると、いつも眠そうにしていたのは私が寝静まった深夜に仕事をしていたからなのかもしれない。
十七歳の少年が殺人未遂で逮捕されたというニュースを消したのは、『いじめ』『刺殺』という単語を私の耳に入れないようにしてくれたのだ。
『Aではない君と』を読ませてくれなかったのだって同じ理由だ。壮絶ないじめを受けていた少年が、同級生を刺殺してしまう話なのだから。
自分勝手に感じていた亜実ちゃんの言動には、意味があったんだ。
亜実ちゃんも朔と同じように、優しい嘘をついてくれていたんだ。
きっと、私の心を守るために。
「事件のことは……お姉ちゃんから聞いてる。黙っててごめん。いじめのことは、ただそうなのかなって思っただけ。でもわたしが知りたいのは、茉優の身になにがあったのか、茉優がなにを思ってるのか、なの」
亜実ちゃんの姿を目に映しながら、耳には朔の声が響いていた。
──世界が真っ黒に見えてた。誰も信じられなくて、なにもかもが怖くて、孤独に押しつぶされそうだった。
「亜実ちゃんはなんで……遊びにおいでって言ってくれたの? あの日のこと知ってたなら、なんで私なんかのこと受け入れてくれたの?」
──手を差し伸べてくれる人がいることも、なにがあっても守ってくれて、信じてくれる人がいることも知った。
「どこでもいいから、とにかく逃げ出したかったんでしょ?」
──辛いときは、辛いって、助けてって叫んでいいんだよ。人を信じるって簡単じゃないし怖いけどさ。
ほんとだね、朔。
信じるのって難しいね。すごくすごく、怖いね。
だけど私は、お母さんに亜実ちゃんの家へ行くことを提案されたときに心のどこかで思ったのかもしれない。亜実ちゃんにならいつか話せるかもしれないと。
いつも笑って私を受け入れてくれた、亜実ちゃんになら。
「……けて」
──俺らが思ってるより、世界はちょっとだけ優しいよ。
信じても、いいのかな。
私にも手を差し伸べてくれる人がいるって、信じてくれる人がいるって、信じてもいいのかな。
こんな真っ暗な世界の中にも、ちょっとくらいは光があるって、信じてもいいのかな。
「助けて、亜実ちゃん……」
亜実ちゃんは私の肩を抱いてソファーに座らせ、片方の手で私の手を握り、もう片方の手で背中をさすってくれた。
朔に話したことを亜実ちゃんにも話し、そして朔に言えなかった言葉を亜実ちゃんに向けて吐き出した。
氷の塊は、まだ完全に解けきっていない。
「学校で友達にハブかれてるなんて、親友に嫌われちゃったかもしれないなんて、いじめられてるなんて、どうしても……お母さんに言えなかった」
恥ずかしい、というプライドみたいなものはある。だけどそれ以上に、話そうとするたびによぎってしまうのだ。小三の頃の記憶が。
怪我をさせてしまったのは本当に偶然だった。それでもお母さんは私の話を聞いてくれなかった。あのときと同じことを言われるのが怖かった。怖い、と口に出すことは、もっと怖かった。
だけど一度だけ言おうとしたことがある。
夏休み中、ずっと家にいる私を見てお母さんが声をかけてくれたとき。
──最近全然遊びに行かないじゃない。友達と喧嘩でもしたの?
まさか訊かれると思っていなかった私は驚いて、すぐに返せなかった。だけど、気にかけてくれたことが嬉しかった。心配してくれたのだと、今度こそ私の話に耳を傾けてくれるのだと思った。
どう答えるべきか、どう言えば伝わるか考えを巡らせていると、お母さんは呆れたように息を吐いた。
──また茉優がなにかしたんじゃないの?
お母さんの姿が、じわじわと闇に包まれていった。
私は、そうかも、としか返せなかった。
「あの日、お母さん、何度も何度も頭を下げてた。怜南に、怜南の親に、先生たちに、何度も何度も。……私、とんでもないことをしたんだって、やっと気づいて。学校にいるときも、家に帰ってからも、お母さん、一度も私を見てくれなかった。だからお母さんに、朔にも、ちゃんと謝らなきゃって思って……」
──お母さん。
背中に呼びかけると、お母さんは緩慢な動作で振り向いた。
「だけど……お母さん、私を見てくれなかった。まるで私の存在が見えてないみたいに、虚ろな目で、泣いてた」
──育て方を間違えたお母さんが悪いんだよね。
そう呟いて再び私に背中を向けたお母さんは、リビングのドアを開いて私の視界から消えた。
パタン、とドアが閉まった瞬間、お母さんの明確な拒絶を感じた。
あの日のお母さんの顔を忘れられない。
私の話なんて聞くつもりすらない、非難するだけの目を。
まるで得体の知れない怪物を見るかのような、怯えた目を。
そして勝手にスマホを見ようとされたとき、もう私と話すつもりはないのだと思い知らされた。
「あんな事件起こして、お母さんに失望されるのは、見放されるのは当たり前だって、頭ではちゃんとわかってるの。だけど──」
どうしても思ってしまうのだ。
たとえ、世界中の人に私の話を聞いてもらえなかったとしても。
たとえ、最終的に咎められるとしても。
たったひとりにだけは──。
「お母さんにだけは……なにがあったのって、訊いてほしかった。私の話を、聞いてほしかった」
私の肩を抱いている亜実ちゃんの手に、ぎゅっと力がこもった。
顔を上げて、目を合わせて、誰にも言えなかった問いを吐き出す。
「ねえ、亜実ちゃん」
『Aではない君と』のある一文を読んだとき、どうしようもなく共鳴して涙が止まらなくなった。
〝心とからだと、どっちを殺したほうが悪いの?〟
物語の中の少年と私の苦しみなんて比べものにならない。
だけど私も、あの日からずっと考えていた。
「心と体と、どっちを傷つける方が悪いの?」
亜実ちゃんは悲しげに顔を曇らせて、私の目を見つめていた。
そして私の問いに答えず、
「茉優は、優しいね」
ありえない言葉を言った。
「なに……言ってるの? たとえ一瞬でも、本気で怜南を刺そうとしたんだよ。普通じゃないって何度も言われてきた。私、やっぱりおかしいんだよ」
「だけど思いとどまった。人を傷つけるより、自分を傷つける方を選んだんでしょ?」
私の両頬に手を添えて、親指で涙を拭う。少し迷うような素振りを見せながら、ゆっくりと私の二の腕に触れた。ずっと服で隠していた、傷だらけのそこに。
亜実ちゃんは二の腕の傷痕のことも知っていたのか。
「辛かったね。頑張ったね、茉優。……だけど、お願い。もう自分を傷つけようとしないで。お願いだから、生きて」
何度も襲われて何度も必死に抑えてきた衝動を、涙と叫びに変えて亜実ちゃんに吐き出した。亜実ちゃんはそれを受け止めるように、激しく上下する私の肩を抱き寄せた。
「茉優が生きていてくれることが、わたしが生きる理由のひとつになるの」



