◇◇◇
昔から、学校は大嫌いだった。
件の授業参観の前も、あとも、ずっと。
俺みたいな人種にとって、学校という場は監獄みたいなものだ。みんな仲よくしましょう、などと綺麗事を押しつけられ、誰かが定めた〝普通〟の基準を守るためのルールに則ってみんな同じように行動することを強制され、それができないと輪に入れるように協力するだとかお節介という名の無理強いをされ、拒否すると〝なぜできないのか〟と問いただされ、終いには個性がなんちゃらとか言うわりに発達障害だのなんだのを疑われ、疑いが晴れたら晴れたで異常者のレッテルを貼られる。
一番嫌いなのは、ふいに訪れる『それではふたりひと組になってください』だ。あんなの拷問でしかない。教科書を読むのも体育のパス練習もなにもかも、わざわざふたりひと組になる必要性がどこにあるというのだ。
だから〝みんな仲よく協力し合って同じような行動をしましょう〟の圧がもっとも発揮されるイベントが大嫌いだった。
秋休みが終わり後期が始まっても、茉優は登校しなかった。
文化祭まで二週間を切り、五、六時間目は準備時間に当てられている。茉優だけがいない教室で、クラスメイトたちはまるで茉優の存在を忘れているかのように、わいわいがやがやと準備を進めていた。
「ネームプレートって三十二個でいいんだよね?」
六時間目が終わる頃に稲田が言った。
うちのクラスはカフェをやるから、全員ネームプレートをつけることになっている。
「三十二個で大丈夫だよー」
「じゃあ完成! 疲れたあー」
プレートにマジックでクラス全員の名前を書いただけなのに(カラーペンで変な落書きもしてあるが)、稲田はわざとらしく伸びをしてふらふらと床に倒れ込んだ。つるんでいる女子ふたりが「怜南、大丈夫ー?」「お疲れー」などと声をかける。
普段ならまったく興味がない心底どうでもいい光景だが、今日ばかりは流せなかった。
「三十三個だろ」
看板にペンキを塗りながら言うと、俺の背中に稲田たちの視線が向いたのがわかった。
「は? なんで? ちゃんと担任のも書いたよ」
「だったら余計おかしいだろ。うちのクラスの人数は三十二人だよ。机三十二個あるだろ」
背中越しに、今度は鼻を鳴らす音が聞こえた。
「茉優が文化祭なんか来るわけないじゃん。あんな事件起こして、普通もう学校来れないって。てかもうやめたんじゃないの? 担任が片づけ忘れてるだけでしょ? そもそも退学になんなかったのがおかしいんだよ」
自分を被害者だと信じて疑わない稲田に苛立って後ろを向いた。稲田と視線が交わり、静かな睨み合いが続く。すると稲田が立ち上がり、女子ふたりと宗像が稲田を囲んだ。
八つの目に見下ろされながら、俺は稲田だけを睨み続けた。
「茉優がおまえになにしたんだよ。おまえら友達だったんだろ」
「意味わかんないんだけど。あたしが刺されそうになったとこ、あんただって見たよね?」
「俺はその前の話をしてんだよ」
「だから、意味わかんないんだけど」
「集団でいじめ倒さなきゃ気が済まねえくらいのことを、茉優にされたのかって訊いてんだよ」
稲田の顔がわずかに強張った。次第にじわじわと紅潮していく。
「そもそも、ほんとに茉優のことが嫌いで、憎たらしくていじめてたのかよ。ちげえだろ」
誰とも接することなく教室の隅で傍観していたからこそわかる。
生徒たちは笑顔の裏で悪意を育て、似たような疼きを持っている仲間を集め、ターゲットを定めた瞬間に放出させる。相手は誰でもいいのだ。友達でも友達じゃなくても、自分以外の人間なら誰でも。
平気で人を傷つける奴も、それをなんとも思わない奴も、どこの世界にも一定数いる。
──おまえもしかして親に捨てられたの?
あいつらもそうだった。街中で偶然会った俺に『風早じゃね? やっべ、久しぶりじゃん』などと言いながら平然と笑うのだ。
世界なんてそんなものだと思っていた。ずっと変わらないと思っていた。
だけど俺は知っているはずだった。
──いい加減にしなよ。
たったひとりのたったひと言で、どれだけ救われるのかを。
「はあ!? あたしらいじめなんかしてないから!」
「おまえなんなの? 急にべらべら喋り出したと思ったら勝手なことばっか言いやがって。人の彼女に変な言いがかりつけないでくれる?」
「そうだよ! つーかなにも知らないくせにでしゃばってくんじゃねえよ!」
黙っている稲田を擁護するように、いよいよ女子ふたりと宗像が加勢する。
はっきり言って、めちゃくちゃ怖い。今すぐに逃げ出したい。
足に力を込めて、思わず後退しそうになった体を支えた。
「つーかさあ」
ミカと呼ばれている女子が一歩前に出た。
「いじめてなんかないけど、先に喧嘩売ってきたの茉優だから。ずっとうちらのこと馬鹿にしてたの。黙ってあげてたら調子に乗って、うちらの顔切れてたり変な顔してる写真ばっかりインスタに載せてさあ。そのくせ自分だけは映りがいいの選んで。茉優は遠回しにそういうことする子なの」
あまりにも理解不能な言い分に、二の句が継げなかった。
茉優が故意にそんなことをするとは思えない。
それに遠回しなことをするくらいなら、はっきりと言うだろう。
そんなのこいつらだって──稲田だってわかっているはずだ。
茉優と離れて過ごしていた俺がわかることを、誰よりも茉優の近くにいた稲田がわからないはずがない。
ただ、自分たちを正当化するために茉優を悪者に仕立て上げているだけだ。
「……んだよ」
「は? なに? 聞こえないんだけど」
──勝手に妄想していじめみたいなことして、くだらないよあんたたち。
俺を見下ろしたままずっと黙っている稲田を見据えた。
「くだらねえんだよ、おまえら」
教室が静寂に包まれる。
稲田の顔がさらに紅潮し、唇がわなわなと震え出す。
だけど、なぜか言い返してはこなかった。
「はあ!? まじでなんなの? 怜南は刺されそうになったの! 百パーセント被害者なの! あんただって大怪我させられて、怜南と同じ被害者じゃん! なんで茉優のこと庇ってんの!?」
「稲田も俺も、ほんとに被害者なのかよ。──ほんとに、茉優だけが加害者なのかよ」
ずっと稲田に向けていた目線をずらし、教室を見渡す。
「おまえらもだよ」
野次馬根性丸出しで、煽るように歪な笑みを浮かべている奴。我関せずとばかりに平然としている奴。飛び火から逃れるため顔を背けている奴。教室の隅で縮こまっている奴。なにか言いたげに俺たちをじっと見ている奴。
反応は様々だが、全員に共通していることがたったひとつだけある。
見て見ぬふりをしている、ということだ。
「自分は関係ないみたいな顔してんじゃねえよ。こいつらずっと前から変だっただろ。ほんとに気づいてなかったのかよ。おまえも、おまえも、おまえも──俺も」
稲田にカッターを向けた茉優。
茉優にカッターを向けられた稲田。
怪我を負った俺。
あの瞬間だけを切り取れば、茉優は加害者で俺たちは被害者なのだろう。
だけど、きっと、茉優は。
その選択肢がよぎってしまうくらい、追い詰められていた。
「俺らだって、いじめの加害者だろ」
宗像たちの怒気をはらんだ視線が、容赦なく俺に突き刺さった。
「よう問題児」
車に乗ると、あっちゃんは開口一番にそう言った。
あのあと、昨日俺が追い返したことも根に持っていたらしい女子ふたりがブチギレて、しかも宗像にぶん殴られ、頭に血が昇ってしまった俺もそれなりにやり返し、なかなかの大惨事になったのだった。
当然だが親呼び出しになり、生徒指導室で事情聴取を受けて親同士が謝罪し合い、親が退散したあと改めて厳重注意を受けて今に至る。
「……ごめん」
「いいよ。男なら殴り合いの一回や二回あるだろ」
べつにそんなことはないと思う。
俺がシートベルトを締めると、車が発進した。あっちゃんは音楽を聴きながら鼻歌を口ずさんでいる。暴力沙汰を起こして呼び出されたというのに、説教のひとつも浴びせてこない。
「なんで怒んないの?」
「なんでって、べつに怒る理由がないから」
「そんなわけないじゃん。俺、人に暴力ふるったんだよ?」
「そんな傷だらけの顔で言われてもな」
悔しいが言い返せなかった。
俺は人生で一度たりとも喧嘩をしたことがないから見事に完敗したのだ。額にも頬にも唇の端にもガーゼや絆創膏が貼られている俺に対し、宗像の顔にはかすり傷しかない。おかげで停学処分は免れたし、宗像の親にもめちゃくちゃ謝られた。
「でも……殴ったのは事実だよ。しかも、最初に喧嘩売ったのは俺だし」
「そこらへんはどうでもいいよ。ただ、大した理由もなしにおまえが人に喧嘩を売るとも殴るとも思えない」
あっちゃんは平然と前を向いて運転していたが、俺は危うく泣いてしまいそうだった。自分から売った喧嘩で完敗した挙げ句に泣くのはさすがにかっこ悪すぎるから必死に堪える。
「でも……ごめん、ほんとに」
「ああ」
「あと、言いそびれてたけど……昨日勝手にあいつら追い返そうとしたりして、ごめん」
「いいよべつに。たかがJK三人逃したところで痛くも痒くもない」
「でも、口コミとかに悪口書かれるかも。あいつらそれくらいしそう」
「店よりも息子を守るのは当然だろ。どうせ趣味でやってる店だし、つぶれたらつぶれたまでだよ」
息子だと言いきってくれたことが嬉しかった。だけど後半は間違いなく嘘だ。
あっちゃんが単なる趣味で店を営んでいるわけではないことくらい、俺はとっくにわかっている。
「あっちゃんは全部知ってるんだよね。その……茉優のこと」
「そりゃあな。おまえが治療してる間に担任からひと通り説明受けたし、そのあとクスノキさんの両親にも直接謝られたし。顔までは知らなかったけど、店で茉優ちゃんに会ったとき、おまえ『クスノキさん』って言ってたろ。それでわかった」
あの日のことをあっちゃんと話すのは初めてだった。
「そうじゃなくても気づいてたけどな。店で顔合わせたときふたりとも明らかに動揺してたし、茉優ちゃんはやけにおまえの右手を気にしてた。たぶんおまえの怪我に深く関わってる子だろうなってことくらいはわかる」
「あいつらが関わってることも知ってたの?」
「それは知らなかったけど、昨日のおまえの様子見てなんとなくな。尋常じゃないくらい顔真っ青にしてたし、いくら急に現れたからってただの知り合い相手にあそこまで動揺するわけないだろ」
「そっか。……とにかく、ごめん」
「べつにいいっつってんだろ」
「店……途中で抜けさせちゃってごめん」
「今日はずいぶん素直だな。ちょうどランチタイム終わったときでよかったよ。まあ明日からしっかり手伝って挽回してもらわないとな」
「するよ。これからはちゃんと接客もするし、すっげえうまいケーキ作って新規のお客さん掴みまくって、バイト雇わなきゃやってけないくらい超人気店にする」
「接客は顔の傷が治ってからにしろよ。まあ楽しみにしてる」
余裕の笑みを見せたあっちゃんは、また鼻歌を口ずさんだ。
プレートを〈CLOSE〉から〈OPEN〉にして、鍵を開けて店内に入る。俺はすぐ二階に上がり、着替えを済ませて厨房に向かう。
あっちゃんはエプロンをして、コーヒーを淹れていた。いつもなら俺にも淹れてと言うところだが、さすがに今日は気が引けるので、ゴム手袋をしてシンクに残っている食器を洗うことにした。
食器を洗い終えてゴム手袋を外すと、俺の分もコーヒーを淹れてくれたあっちゃんは、片方にミルクを入れて「ん」と俺に差し出した。それを受け取り、カウンターの椅子に座った。
「ちなみに、担任に説明受けたときからおまえがクスノキさんのこと好きなのもわかってた」
危うくコーヒーを口から噴射するところだった。
「へっ? な、なん、な……?」
「普通、いくらクラスメイトだからってカッター振りかざしてる相手に飛びかかれないだろ。ただでさえ人と関わろうとしないおまえがそこまでするのは、よっぽど特別な存在以外に考えられなかった」
死ぬほど恥ずかしいが、弁解の余地がなさすぎる名推理に、もはや照れ隠しは通用しない。
コーヒーを飲み干したあっちゃんは、ディナーの準備でもするか、と立ち上がった。俺も急いで飲もうとすると「まだゆっくりしとけ怪我人」と言われたので、お言葉に甘えて浮かせようとした腰を下ろした。
カップの中で、黒の液体がゆらゆらと揺れる。
照明の光が反射して、そこに傷だらけの俺の顔が映った。
「あっちゃん、さっき言ってくれたじゃん。大した理由もなしにおまえが人に喧嘩を売るとも殴るとも思えない、って」
「ああ」
「俺もそう思うんだ。茉優は……大した理由もなしに人を傷つけようとする子じゃない、って」
「俺もそう思うよ」
「え? なんで?」
「おまえが好きになった子なら、いい子に決まってる」
あっちゃんはふいにこういうことを言うから困る。
俺はそんなに涙腺が強くないのに。
「俺、同じクラスなのに、今までなにがあったのかよく知らないんだ。……ずっと前から茉優の様子が変なのは気づいてたけど、詳しいことはなにも知らない。茉優が店に来るようになってからだって、ふたりで話す時間ができたのになにも訊けないままだし」
「簡単に言葉にできるような痛みなら、あんなことにならなかったと思うよ。おまえもわかってるから、訊けないんじゃなくて訊かないんだろ?」
あっちゃんは俺の方を向いていなかった。忙しなく手を動かしながら、下ごしらえを進めていく。
俺もあっちゃんから目を離し、今にも雨が降り出しそうな曇天を窓越しに見上げた。
「俺かっこ悪いよね。あのときも今日も、ただ怪我しただけで、なにも守れなかった。今だってどうしていいか全然わかんない」
「なに言ってんだよ。自分の体を犠牲にしてまで好きな子を守ったんだから、その傷は勲章だろ。めちゃくちゃかっこいい、自慢の息子だよ」
鼻の奥がつんと痛んだ。危うくこぼれそうになった涙を、残り少なくなったコーヒーと一緒に飲み込んだ。
空になったカップを持って立ち上がったとき、エプロンのポケットに入れているスマホが鳴った。
「──は!? あ……あっちゃん、ごめん! ちょっと出ていい!?」
「いってらっしゃい。あんまり遅くなるなよ。あと帰りはちゃんと家まで送ってあげろよ」
にやにやしているあっちゃんに外したエプロンと包帯を投げつけて店を出た。
『昨日の公園にいるんだけど、出てこられる?』
茉優から届いたメッセージを読んで興奮してしまった俺は、店を出てからひたすら走り続けて公園に駆け込んだ。昨日と同じベンチに座っていた茉優は、俺を見て驚いた顔をした。
そういえば返信もせずに慌てて来てしまった──と思ったが、
「朔、その顔……どうしたの?」
はっとして顔に手を当てた。
手の包帯に気を取られて、新たな怪我にまで気が回らなかった。
「いや、これは、その、ちょっと転んじゃって」
どこまでも嘘が下手な自分に絶望しつつ、めちゃくちゃ訝っている茉優に「ほんと大丈夫だから」と笑って頭を掻いた。
「それより、待たせちゃってごめん」
「全然待ってないよ? そんなに急がなくてよかったのに」
「いや、その、今日あんまり天気よくないし、寒いかなと思って」
「全然寒くないよ……?」
「あー、あ、あはは、確かに」
当たり前だ。いくら曇っていても気温は二十度以上ある。うまい言い訳が浮かばない俺は笑ってごまかすことしかできなかった。
見れば、茉優の手には缶ジュースが二本握られていた。俺の視線に気づいたのか、にこっと微笑んで一本を俺に投げる。飛んできたそれを受け取ると、手のひらに鈍痛が走った。
右の手首を掴み、じんじんと波打つ痛みを堪える。
歪めてしまった顔を上げると、茉優は仰天していた。
「怪我ほとんど治ってるって……嘘だったんだ」
せっかく包帯を外してきたのに、まるで意味がなかった。もう一度笑ってごまかしたいところだが、さすがに言い訳のしようがない。
白状することにして、茉優の隣に腰かけた。
「治ってきてるのは嘘じゃないよ。ほんと、普段は平気なんだ。けど……強い衝撃を受けると、まだちょっと痛くて。でもほんと大丈夫だから。それよりどうしたの? なんかあった?」
「傷を見せてほしいの」
ぎょっとしている俺に、茉優は語気を強めて続けた。
「朔がいつもちょっと手を握ってるのは、私に傷痕を見せないためだよね」
「それは……」
「朔は私のせいじゃないって言ってくれたけど、それは絶対に違うよ。その傷は、間違いなく私がつけたの。もし本当に怪我が治ってきてるとしても、傷痕がなくなったとしても、私のしたことが帳消しになるわけじゃない。だから……自分がつけてしまった傷をこの目でちゃんと見て、ちゃんと焼きつけなきゃいけないって、向き合わなきゃいけないって、思ったの」
真っ直ぐ俺を見つめる茉優に、そんなことない、とはもう言えなかった。
ずっと、この傷は茉優のせいじゃないと思っていた。決して嘘じゃない。だけど、茉優を庇ってなどいないと言えば嘘になる。
茉優が責任を感じないように傷を隠して、大した傷じゃないと、治りかけていると嘘をつくのが、本当に茉優のためになるのだろうか。
観念して、茉優といるときはずっと内側に向けていた手のひらを裏返して、まだくっきりと残っている傷痕を上に向けた。
俺の右手を、茉優が両手でそっと包む。
言葉通り、焼きつけるようにじっと傷痕を見つめた。
「実は、けっこう傷が深くて。三針縫った」
「……そうだったんだ」
「正直、めちゃくちゃビビったよ。こんな怪我したのも縫ったのも初めてで。縫ってるときなんか目開けらんなくて、しかも手震えちゃって看護士さんに押さえつけられたし、そしたらもっと怖くなって気絶しそうだったし」
「……うん」
謝ってほしくなくて、極めて軽快に面白おかしく話した。
茉優もわかっているのか、ただ傷痕を見つめるだけで、ごめんとは言わなかった。
「嘘、だったんだね。左利きだって。ずっと変だと思ってた。なんで左利きなのに右手を怪我したんだろうって。とっさのときって、どうしても利き手が出ちゃうんじゃないかなって。さっきジュース投げたときも、右手出してたよ」
「え、あ、いや、えっと」
「あと、ケーキ作りやラテアートが単なる趣味だって言ってたのも嘘だよね。私がケーキおいしかったって言ったとき、自信ついたって言ってた。本格的に料理の道を目指すつもりだったんじゃない? いつか敦志さんにちゃんと恩返ししたいって言ってたの、お店を継ぐことだったんじゃない?」
二度と嘘はつかないと心に誓いつつ、すべて白状しようと決めて、誰にも言ったことのない夢を口にする。
「俺、昨日も言ったけど、言葉じゃ伝えきれないくらい、心の底からあっちゃんに感謝してるんだ。あと……憧れてる」
あっちゃんは俺にとって、夜を静かに照らす月みたいだった。
いつも、包み込むような優しさで俺を守ってくれた。
少しずつでも恩返しをしていきたいと考えたとき、自分になにができるのか、なにがしたいのかを考えた。一番に浮かんだのは、あっちゃんが店に立っている姿だった。
「店に来たお客さんたちがさ、みんな笑顔で帰っていくんだよ。べつに俺やあっちゃんが楽しませるようなことしたわけでもなんでもなくて、ただあっちゃんが作った料理を食べて、あっちゃんが淹れたコーヒーを飲んだだけなのに。それってすごいことだよなって思うんだ」
店を手伝っているからこそわかる。決して簡単なことじゃない。閉店後のまるで別人みたいな気の抜けようは、それだけ営業中に気を張っているからだ。
俺にも手助けができないだろうか?
ただ手伝うだけではなく、手助けが。
だから、まだまだ料理やコーヒーの味は追いつけなくとも、ラテアートを練習して、もともと得意だったケーキ作りも練習した。もっともっと上達して、あっちゃんの負担を軽くしたい。そして、あっちゃんが許してくれるなら、いつか店を継ぎたい。あっちゃんが守ってきた店を、俺を救ってくれたあの場所を、今度は俺が守りたい。
それが俺の夢だった。
「でも、まだあっちゃんには言えてないんだ。本当の息子じゃない俺が継いでいいのかとか、あっちゃんはそんなこと望んでないんじゃないかとか、いろいろ考えちゃって……どうしても、言い出せなくて」
茉優はいつの間にか顔を上げていた。
至近距離で目が合っていることと真面目に語りすぎたことに気恥ずかしくなりながら、だけど顔を逸らさなかった。茶化したい衝動に駆られたが、俺の話を真剣に聞いてくれている茉優に失礼だ。
「だから……昨日ケーキ作ったの、実は怪我してから初めてだったんだ。あっちゃんに無理言って作らせてもらった。どうしても茉優に食べてほしくて。……笑って、ほしくて」
たったの一か月で驚くほど瘦せ細ってしまった茉優を、少なめに作ったランチさえ食べきれない茉優を見て、居ても立ってもいられなかった。茉優がつい食べてしまうくらい、おいしいケーキを作りたかった。
「ありがとう。ほんとにほんとにおいしかったよ。よかったらまた作ってくれる? もちろん、怪我がちゃんと治ってから」
「当たり前じゃん。絶対また作るよ」
「楽しみにしてるね。でも……そんなに大事な手を傷つけてまで、私のこと守ってくれたんだ。もしかして、顔の怪我も私のせい?」
「へっ? なんで?」
「だって朔は、私のために嘘ついてくれるから」
微笑む茉優に、微笑み返すことはできなかった。
確かに俺は、茉優と再会してから嘘をついてばかりだ。茉優に重荷を背負わせないためだと自分に言い聞かせて。
だけど本当は、茉優のためなんかじゃない。
──謝らなきゃいけないのは、私の方だから。
あのとき、すぐに返事ができなかった。
胸の内を晒す勇気がなかった。
「俺……茉優に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「え?」
「茉優が稲田たちと、その……変な空気になってたこと、気づいてた。でも、俺、なにもできなくて……なにかしようと、しなくて。……ずっと、見て見ぬふりしてた。本当に……ごめん」
あの日、事情を訊かれたとき教室に忘れ物を取りに行ったと嘘をついたのは、いじめに勘づいていたことを言えなかったからだ。勘づいていながらなにもできなかった自分が情けなくて、それが茉優の耳に入ることが怖かっただけだ。
「謝らなくていいよ。私だって、逆の立場だったらなにもできなかったかもしれないし。それに、私が朔に怪我をさせたことは紛れもない事実だから。おあいこなんてとても言えないけど、朔が謝ることはないよ」
「そんなわけないよ。実際、茉優は俺のこと庇ってくれたし」
「私が小学生のときに朔を庇えたのは、無知だったからだと思う。怖いもの知らずっていうか。ひとりぼっちの寂しさとか、孤独の怖さとか、なにも知らなかったから。今同じことができるかって訊かれたらわからないし、正直……全然、自信がない」
風が吹いて、茉優の前髪がふわりと揺れた。
目にかぶさった前髪を指先で払う。
「もしかして、気づいてたから、私を助けるために教室に戻ってきてくれたの?」
茉優の瞳に迷いはなかった。
小さく頷いて、あの日のことを口にした。
*
──あの日。
学年集会が始まる直前、茉優は慌てた様子で体育館を出ていった。忘れ物でもしたのかと思っていたが、体育館には稲田たちもいない。しばらく様子を見ても一向に戻ってこない。なんとなく胸騒ぎがして、忘れ物をしたと先生に言って列を抜けた。
胸騒ぎが加速したのは、教室に戻る途中で稲田とつるんでいるふたりとすれ違ったときだった。
──ねえ、見た? さっきの茉優の顔。泣きそうだったよね。
──今頃怜南がとどめ刺してるかもねー。
──茉優死んじゃったりして。
──そんなわけないじゃん。まあべつにどうでもいいけど。
全速力で走り、階段を駆け上がる。
走っている間、ずっと見て見ぬふりをしていた光景が走馬灯のように流れていた。
茉優の曇った顔や居心地が悪そうな薄い笑み、夏休み前から明らかにハブかれていた、茉優の姿。
教室がある二階にたどり着くと、言い争うような声が聞こえてきた。
そして、
──あんたなんか死ねばいい!
叫び声が響いたのと俺が教室を覗いたのは同時だった。
そこにはカッターを握りしめて、虚ろな目で立ち尽くしている茉優がいた。稲田は青ざめたままじりじりとあとずさっている。なにが起きているのか、瞬時に理解などできなかった。
唖然としているうちに、茉優が両手をゆっくりと頭上に掲げた。
茉優の腕が動いた瞬間、とっさに手を伸ばした。
*
「だから……利き手のこととかは嘘だけど。それはごめん。でもあの日のことに関しては、俺は本当のことを言っただけだよ。止めるにしても茉優の腕を掴めばよかったんだし、刃を掴んだのは完全に俺のドジだった」
ひとつだけ言い訳をすると、どこを掴むべきか考える余裕や時間など微塵もなかったのだ。
「でも、茉優も嘘ついてるよね?」
「私? なんで?
「あとから聞いたんだ。刺されそうになったって稲田が言ったとき、茉優は否定しなかった、って」
「だって本当のことだから。見てたでしょ。ついカッとなっちゃって」
言い淀むことなく自嘲気味に笑んだ茉優に、嘘だと確信した。まるで万が一訊かれたときのために準備していたような台詞に聞こえたからだ。
「俺は、そうは思えない」
俺が茉優を庇ったのは、どうにか茉優の処分を軽くしたかったからだけじゃない。
真実は茉優しか知らない。他人を納得させられるだけの根拠などなにもない。
だけど、ただ、俺は。
「俺は、茉優が人を傷つけようとする子じゃないって信じてるから」
俺が知っている茉優を、今目の前にいる茉優を、信じたい。
「なんで……そこまで、信じてくれるの?」
茉優が好きだからだよ、と反射的に出かけた言葉を呑み込み、代わりにちょっと情けない答えを口にする。
「茉優は、俺のヒーローだから」
──いい加減にしなよ。
──お父さん、かっこいいね!
俺と正反対の茉優は、眩しかった。憧れていた。
ずっと真っ暗だった世界に射した、一筋の光だった。
「私は……全然、ヒーローなんかじゃないよ。だって……逃げてばっかりだもん」
声を絞り出すように言うと、上着を脱いでTシャツの袖をまくった。
「どうしたの、これ」
そこには皮膚を爪でえぐったような痕と、青紫色の痣があった。
俺が見たのを確認してすぐに隠す。
「停学処分が明けてから、ほんとは、学校に行こうとしたの。でも、どうしても、ベッドから起き上がれなくて……なんとか起きて制服を着ようとした途端に、その……吐いちゃって。それから外に出るのが怖くて、ずっと部屋に引きこもってた」
茉優がこぼしていくひとつひとつの言葉にしっかりと耳を傾ける。
「たまにね、夜にひとりでいると、感情がぐちゃぐちゃに混ざって爆発したみたいに、なんていうか……激しい衝動、みたいなのに襲われるときがあって。それを抑えるために、腕に爪を立てたり殴ったりして、なんとか堪えてた。こんなの自傷行為だって、こんなことしちゃだめだって、頭ではわかってるの。……だけど、どうしても止められなかった。そうしないと、今度こそなにかを破壊して、誰かを傷つけちゃいそうだった」
話し終えると、茉優は二の腕をぎゅっと握った。
「ちゃんと見てもいい?」
「え? 見ない方がいいよ」
「茉優だってさっき俺の傷見たじゃん」
茉優は痛いところを突かれたとばかりに唇をぎゅっと結んで俯いた。
「だって……グロイし」
「そんなわけないじゃん。だってそれは、きっと、茉優の心の傷なんだよね」
顔に覆いかぶさっている前髪の奥で、茉優の長いまつげが揺れた。
「この傷の何倍も、何十倍も、もしかしたら何百倍も、心が傷ついてるんだよね。心の傷は見えないから、目に見える傷くらいちゃんと見せてほしい」
しばしの沈黙ののち、茉優は俯いたままためらうようにゆっくりと袖をまくった。
改めて視界に映った傷痕は、痛々しいなんてもんじゃなかった。
茉優の中にある痛みが、苦しみが、悲しみが、恐怖が、そこにあった。
どうしようもなくショックを受けながら、どこかほっとしていた。
俺が信じてきたものは、やはり間違いではなかったのだと。
「俺さ。茉優の辛いこととか、聞きたいよ」
俺が静かに見守ってくれるあっちゃんに対して安心できるのは、言えば聞いてくれるし訊けば話してくれるとわかっているからかもしれない。
稲田に喧嘩を売ったとき、殴りかかってきた宗像にやり返すとき、怒りで興奮していたが頭が真っ白になったり我を忘れたりするほどではなかった。やばいな、これ確実に親呼び出しだな、下手したら停学だな、と考える程度には冷静だった。
それでも俺が感情のままに動くことができたのは、あっちゃんなら俺を信じてくれるという気持ちが根底にあったからかもしれない。
俺だって茉優のことを知りたいと思う。話してくれるならいくらでも聞きたいと思う。だけど茉優は、俺がそう思っていることなど知らないのだ。
だったら俺は、ちゃんと伝えなければいけない。
伝えたいことがあるのに、照れている場合じゃない。
連絡してほしいだとか笑顔を見たいだとか遠回しな言葉じゃなく、正直な気持ちを濁すことなく、真っ直ぐに。
「無理に話してほしいってわけじゃないよ。ただ、ひとりで抱え込まないでほしいんだ。俺は絶対に、どんな話でも聞くから。もちろん、俺じゃなくてもいいよ。なんていうか……そう思ってる奴がいるってことを忘れないでほしいんだ」
茉優は口を結んで俺をじっと見ていた。
「昨日、言ってたよね。人は人からの悪意や敵意を浴びたら、それを相手に跳ね返したり他の誰かにぶつけて発散するか、優しさに変換するか、どっちかなんじゃないかって。俺はもうひとつあると思う。……全部ひとりで抱え込んで、自分を傷つける人」
わずかに大きく開かれた茉優の瞳が揺れた。
「ずっと訊きたかったんだ。──本当に稲田のこと刺そうとしたの?」
茉優は両手の拳を握りしめた。
「あのとき、本当は──」
ずっと抱いていた推測を口にすると、茉優は目を見張った。
ふたりの間を彷徨うのは、交わっている視線と、秋風が葉を揺らす音だけだった。
目に涙を浮かべた茉優は、口を堅く閉ざしていた。
答えない茉優を見て、思う。俺も同じだな、と。
茉優の本心を聞きたいのに、俺自身が強がって言い訳をして茶化してごまかしながら、本心を隠してばかりだった。
「昨日、小学生の頃の話したとき、人の弱みにつけ込むような奴らにエネルギー使いたくなかったって言ったじゃん。……違うんだ。本当は……ただ、怖かった」
授業参観の日になにも言い返さなかったのは──言い返せなかったのは、過去を閉じ込めてきつく締めていた蓋がふいに開いてしまったからだった。
今でも鮮明に思い出す。
母さんと過ごした、少しだけ寂しくも幸せだった幼少期。母さんが父さんと再婚してからの、平凡で穏やかな三年半。最後に見た父さんと母さんの笑顔。わけがわからないまま連れていかれた安置室で、白い布をかけられて横たわっている姿。葬儀場に飾られた遺影、棺で眠っている白い顔、線香の匂い、泣き叫んだ火葬場、煙突から空に舞い上がる煙、骨と灰だけになった父さんと母さん。
すべての記憶が俺を支配し、何度でも絶望へと突き落とす。
「昨日も言ったけど、授業参観の日からいじめられるようになって。でも、あの頃はあっちゃんにすら心を開けなくて……迷惑かけたら今度こそ施設に入れられるかもしれないって、また急にひとりぼっちになっちゃうんじゃないかって、怖かった」
だから、ただひたすら耐えるしかなくて、それ以外に選択肢がなくて、誰になにを言われてもなにをされても黙って耐え続けた。だけど着実に、確実に、心を削られていった。
「でも一回だけ、限界で耐えられなくて、あっちゃんの前で泣いちゃったことがあって。そのときに言ってくれたんだ。嫌なら学校行かなくていいぞって。おまえが生きててくれたらいいんだって、それだけで十分だって、抱きしめて、笑ってくれた」
大げさではなく、心から思う。
俺が今こうして生きていられるのは、あっちゃんのおかげだと。
転校してからも似たようなことはあったが、どうしても辛いときは、あっちゃんがくれた言葉を、血の繋りさえない俺をずっと守ってくれていることを思い出していた。そして、茉優の笑顔も。
「俺、父さんと母さんが死んでからあっちゃんに引き取られるまで、世界が真っ黒に見えてた。誰も信じられなくて、なにもかもが怖くて、孤独に押しつぶされそうだった。……何回も、思ったよ。あの日、母さんと一緒に父さんを迎えに行けばよかったって。……俺も一緒に、死んじゃいたかったって」
茉優の頬に、ぽたぽたと涙がこぼれた。
それでも俺は話し続けた。
「だから……気持ちわかるよ、とか、簡単に言っちゃいけないけどさ。いじめられる辛さとか、孤独の寂しさとか、ちょっとくらいならわかるつもりだよ。今でも人と接するのは怖いし、学校だって大嫌いだよ。毎日ずっとひとりでいるのだって、もう慣れてるから平気っちゃ平気だけど、正直、楽しそうにしてる奴ら見てると羨ましいって思うこともある。……たまに、世界中でひとりぼっちになっちゃったみたいに感じるときも、あったりするし」
どれだけ記憶に蓋をしても、ふとした瞬間に溢れ出し、容赦なく蝕んでくる。
どれだけ忘れたくても忘れられない記憶が、いつもそこにある。
暗闇に放り投げられたような感覚に襲われ、絶望し、目に見えるすべてが恐怖の対象になる。
「でも俺、あっちゃんと暮らし初めてからいろんなこと思い出したんだ。母さんと父さんにちゃんと愛されてたし、ひとりなんかじゃなかったって。すげえ幸せだったって。ふたりとも……死んじゃったけど、それでも、手を差し伸べてくれる人がいることも、なにがあっても守ってくれて、信じてくれる人がいることも知った。あと……逃げたっていいんだってことも、あっちゃんが教えてくれた」
心から思う。生きていてよかったと。
絶望は永遠に続かない。
生きてさえいれば、絶対に、なにかが変わるはずなのだと。
「辛いときは、辛いって、助けてって叫んでいいんだよ。人を信じるって、簡単じゃないし怖いけどさ」
俺の拙い言葉で茉優を救えるなんて思っていない。
心の傷を和らげられるなんて、軽くできるなんて思っていない。
ただ、茉優に伝えたい言葉があった。
今の俺だから伝えられることが、きっとあるはずだった。
「俺らが思ってるより、世界はちょっとだけ優しいよ」



