君がいたから、壊れた世界が輝いた



◇◇◇

「亜実が今から来るって」
「ほんと仲いいね」
「あ、違った。茉優ちゃん来るって」
「……るせ」
「いいねえ、青春って」
 にやにやと笑うあっちゃんに、小声で「うるせえよ」と返した。お客さんの前では爽やかなイケメンマスターを気取っているが、俺の前ではこうして子供っぽいことを言ったりしたりするし、同年代とあまり変わらない。
 いらないことに勘づいたらしいあっちゃんは、最近ずっとこの調子である。
 無駄におつかいに行かせるのもあっちゃんのお節介だ。とはいえ文句は言わない。なぜならそのアシストがなければ、茉優とふたりで話すことなどできないのだ。我ながら情けない。
 ランチタイムが終わったばかりの店内は、俺とあっちゃんだけだった。今日は市内の観光スポットでイベントがあるらしく、日曜にしては客足が少ない。あっちゃんが淹れてくれたコーヒーを飲み干して、亜実さんの定位置となっている一番奥の窓側のテーブルを念入りに、これでもかというほど念入りに拭く。
 茉優と亜実さんはすぐに来て、いつも通りランチセットとケーキセットを注文した。オムライスをふたつ運び、カウンターから茉優が食べている姿をちらちら見る。
 我ながらちょっと気持ち悪いが、どうしても心配だった。初めて店に来た日、茉優は少なめに作ったパスタを半分以上残したとあっちゃんに聞いたからだ。
 だけど今日は普通サイズのオムライスを半分以上食べて、小さめに切ったレアチーズケーキも完食してくれた。
 多少食欲が戻ったからといって、茉優の心が回復したわけじゃないだろう。それでも嬉しかった。顔色も少しずつよくなっているし、笑顔も自然になってきている。
 ほっと息をついて、楽しそうに話している茉優と亜実さんの姿を眺めた。


 その後も来店はなく、俺とあっちゃんも二杯目のコーヒーを淹れて、しばらく四人で談笑していた。
 三十分ほど経った頃、カランカラン、と鈴の音が店内に響いた。
「こんにちはー。入ってもいいですか?」
「どうぞ。いらっしゃい」
 あっちゃんが言うと、三人の女子がぞろぞろと店内に入ってきた。いらっしゃいませ、と準備した言葉を出すよりもわずかに早く、先頭に立っている女子を視界に捉えて絶句した。
 稲田怜南だ。茉優と一番仲がよかった女子で──。
 とっさにトイレの方を見た。不幸中の幸いか茉優はトイレに行ったばかりだが、戻ってきたら鉢合わせてしまう。トイレは出入口から離れた奥まったところに位置しているため、ここからじゃ茉優が出てきてもすぐにはわからない。
 確か稲田たちの地元はこの辺りじゃないはずだが、海沿いのこの街は観光地としてそこそこ人気があるし、なにより今日はイベントがある。高校生が訪れるのは不思議じゃない。
 とはいえ、なぜよりによってこの三人が、よりによってこの店にたどり着いてしまったのか。
「え、待って! 超イケメン!」
 稲田の後ろにいた女子が、あっちゃんを指さして悲鳴と言ってもいいくらい甲高い声を上げた。他のふたりも「ほんとだ!」「やっば!」などと騒ぎ出し、キャーキャーと盛り上がる。
「あれ?……風早じゃない?」
 こっちを向いた稲田が、あっちゃんの後ろで硬直している俺を指さした。
「エプロンしてるじゃん。ここでバイトしてるの?」
「いや……」
「え、じゃあなに?」
「そういえば、お店の名前『かぜはや』だったよね。もしかして親戚?」
「きょうだいとか?」
「それはないでしょ。全然似てないし」
 矢継ぎ早に考察を続ける稲田たちに、あっちゃんが「親子だよ」と答えた。
 目をひん剥いた三人は俺を見て、と思ったらまたあっちゃんを見て、俺を見て、を何度か繰り返し、「親子……?」「全然似てないけど……」と懐疑心をあらわにしながら呟いた。
 飽きるほど言われてきた台詞だった。
 触れられたくない部分を無遠慮に突かれるのは不愉快であり胸が痛まないと言えば嘘になるが、今はそんなことどうでもいい。
 この店には、茉優がいる。
 あの日見た光景が脳裏をよぎる。まるで人形のように、すべての感情が抜け落ちてしまったかのように、完全なる無表情で呆然と立ち尽くしている茉優の姿。そして、恐怖に満ちた顔であとずさる稲田の姿。
 俺は茉優と稲田の間になにが起きたのかを知らない。だけど、会わせてはいけないということだけは間違いなかった。茉優が稲田と対面して冷静でいられるとは思えないし、稲田だって茉優を許していないだろう。取り巻きのふたりは稲田を擁護するために、茉優を追い詰めるような言葉を投げるかもしれない。
 かといって、なんて言えばいいのか、どうしたらいいのかわからない。ここはあっちゃんの店であり、稲田たちは客だ。
 思考を巡らせているうちに、稲田たちが歩き出した。
 焦燥に駆られる。あっちゃんはいつも通り、お好きな席にどうぞ、と言うだろう。稲田たちが席につけば注文を聞いて、調理に取りかかる。そうこうしているうちに、茉優が戻ってきてしまう。
 ──あんたなんか死ねばいい!
 もしもあの日と同じことが起きたら──。
 拳を握って、固唾を呑んだ。
 あっちゃん、ごめん!
「悪いんだけど、今日は帰って」
 俺の言葉に足を止めた三人は目を点にした。
「え? なんで?」
「なんでも。とにかく今日は帰ってほしい」
 うまい言い訳が思いつくほど今の俺は冷静じゃなかった。
 三人はあからさまに顔をしかめた。
 とにかく帰ってくれ、ともう一度言おうとしたとき、
「せっかく来てくれたのに申し訳ないんだけど、今日はもう店閉めるんだ。ごめんね」
 俺を含めた全員が一斉にあっちゃんを見て「へ?」と声を揃えた。
「え……さっきどうぞーとか言ってましたよね?」
「あはは、ごめんごめん。このあと用事あるの忘れてて。朔、覚えててくれてありがとな」
 後ろを向いたあっちゃんは、呆気に取られている俺に微笑みかける。
「はいはい、出てった出てった」
 あっちゃんが両手で払う仕草をすると、稲田たちは不服そうな顔で外に出ていった。ガラスドアの向こうで看板を凝視している。そこには思いっきり〈営業時間11時~20時〉と書いてあるのだ。そしてドア越しに俺を睨みつけて「ありえないんだけど」「むかつく」などと捨て台詞を吐きながら去っていった。
 稲田たちが店から遠ざかったことを確認すると、あっちゃんはドアを開けて、〈OPEN〉になっているプレートを裏返して〈CLOSE〉にした。
 たとえ店内にお客さんがいなくても、今まで一度も営業を中断したことはない。
 俺の異変を察して追い出してくれたのだ。
「あっちゃん……」
 ありがとう、と俺が言うよりやや早く、
「茉優が戻ってこない」
 トイレの方を見て亜実さんが呟いた。
 いくら出入口から離れている奥まった位置でも、それほど広くないこの店では稲田たちの声が聞こえていただろう。もういなくなったこともわかっているはずだ。なのに茉優は姿を見せない。
 胸騒ぎがしてトイレへ向かう。
「茉優?」
 声をかけても、ノックをしても反応がない。開けるよ、と断ってからドアを開けると、茉優は手洗い場に座り込んでいた。両手で首を押さえ、肩を激しく上下させている。
「茉優!」
 とっさに叫び、茉優の隣にしゃがんで背中をさする。
 後ろからあっちゃんと亜実さんも駆けつけた。亜実さんは慌てて茉優の隣にしゃがんで肩を抱いた。
「茉優、大丈夫!?」
 俺と亜実さんが声をかけても茉優は答えられるはずもなく、荒い呼吸を繰り返しながらかぶりを振る。
「敦志、ごめん、救急車……」
「過呼吸だよ」
 あっちゃんが言うと、亜実さんは茉優の肩に添えた手に力を込めた。
 俺を見上げた茉優の顔は真っ青で、見ていられないほど苦痛に歪んでいた。
 苦しい、助けて、と悲痛な叫びが伝わってくる。
 首を押さえている茉優の手に、そっと自分の手を重ねた。
「大丈夫だよ、茉優。ゆっくり息吐いて」
 背中をさすりながら、なるべくゆったりとした口調で声をかける。
 茉優はぼろぼろと涙を流しながら、小刻みにかぶりを振る。
「茉優、大丈夫だから。ちょっとずつ、ゆっくり息吐いて」
 何度も同じように声をかけた。
 次第に茉優の呼吸が少しずつ落ち着き、俺たちは安堵の息をついた。
 だけど、今にも壊れそうなほど震えている茉優に、大丈夫か、なんて言葉は、誰もかけられなかった。


 茉優をいつもの席に座らせて、亜実さんは向かいではなく隣に座った。あっちゃんはグラスに水を注いでテーブルに置き、厨房へ戻っていく。茉優のそばにいるか逡巡したが、今は亜実さんに任せた方がいいと判断してあっちゃんのあとに続いた。
 日が傾き始める頃には、茉優は落ち着きを取り戻していた。それを見計らった亜実さんが茉優に「帰ろっか」と声をかける。小さく頷いた茉優の肩を抱き、席を立った。
「じゃあ、わたしたち帰るね。……なんか、いろいろごめん」
「いいよ。気をつけてな。茉優ちゃんも、よかったらまたいつでもおいで」
 茉優は薄く微笑んだ。
 ふたりが俺たちに背中を向けて歩き出す。亜実さんに肩を抱かれて歩く茉優の後ろ姿が、あの日の光景と重なった。担任をはじめ数人の教師たちに囲まれて歩いていく、茉優の姿。
 俺は無意識に、あの日動かせなかった手を伸ばしていた。
 茉優に届かなかった手は、空気を掴んだだけだった。
 俺は、このままで、いいのだろうか。
 なにもできない、嘘つきな自分のままで。
 あの日、忘れ物を取りに行ったなんて嘘だった。
 茉優の異変に気づけなかったなんて嘘だった。
 茉優の様子がおかしいことくらい気づいていた。いつからかはっきりとは覚えていないが、稲田たちと一緒にいるときの茉優が浮かない顔をしていたことも、夏休み前から茉優が孤立していたことも。だって俺は、ずっと茉優を見ていた。入学式の日に再会してから、ずっと。
 だからあの日、胸騒ぎがして教室に戻ったのだ。
 俺は、茉優の異変を察してからも声をかけることができなかった。話しかけるのが恥ずかしくて、なにを言えばいいのかわからなくて、下手に接して嫌われるのが嫌で、拒絶されることが怖くて。だから、自分の情けなさを〝気づいていない〟に変換してしまった。
 俺はまた、あの日のように茉優の後ろ姿を見送ることしかできないのだろうか。
 茉優がまた現れる日をただ待っているだけでいいのだろうか。
「ちょっと待って」
 ドアハンドルに手をかけた亜実さんの動きが止まる。
 ふたり同時に振り向いて、不思議そうに俺を見た。
「茉優、ちょっと、話さない?……ほんと、ちょっとだけでいいから」
 茉優は俺を見たまま立ち尽くしている。亜実さんは戸惑いながら、心配そうな面持ちで茉優を見た。
 いくら体が多少落ち着いたとしても、どう考えても今は誘うタイミングじゃない。今日は帰ってゆっくり休んだ方がいい。そんなこと、ちゃんとわかっている。
 だけど、どうしても、今、茉優と話したかった。
 なにが恥ずかしいだ。なにが、わからない、嫌われたくない、怖いだ。
 そんなのクソ食らえだろ。
 ──すぐ帰ってくるから。いってきます。
 目の前にいる人が──大切な人が、ある日突然いなくなる。当たり前だと思っていた日常が、なんの前触れもなしに、いとも簡単に壊れる。俺はそれを痛いほど知っているのに。
 またあんな思いをするくらいなら──茉優がいなくなるくらいなら、自分が傷つくことくらい屁でもないだろ。
「いや……話そう。俺、茉優と話したい。今、話したいんだ」
 俺を不思議そうに見ていた茉優は、小さく頷いた。


 近所の公園のベンチに並んで座った。
 俺たち以外に誰もいない公園には、風の音だけが静かに聞こえていた。
「ごめん、なんか無理に誘っちゃって」
「ううん、大丈夫だよ。それより、さっきはありがとう。……過呼吸なんて初めてなったから、びっくりしちゃった」
 思いのほか落ち着いた茉優の声音に安堵する。
「朔ってすごいね。対処法知ってるなんて」
「昔、俺もなったことあったから。あっちゃんがああしてくれたの思い出して真似しただけ」
「そうだったんだ。……敦志さん、優しいよね」
 茉優は呟いて、視線を地面に落とした。
 俺は、夕日に照らされた茉優の横顔を見ていた。
「考えてみたら、敦志さんは全部知ってるんだよね。あの日うちの親に連絡がいったってことは、敦志さんもそうだっただろうし。先生から説明受けてるはずだもん」
「うん。たぶん知ってると思う」
 あの日俺はすぐに病院へ連れていかれて、付き添ってくれた担任があっちゃんに連絡し、すぐに駆けつけてくれた。あっちゃんが来たとき俺は別室で治療中だったから、ふたりがなにを話したのか知らないが、説明を受けたはずだ。
 だけどあっちゃんは怪我の心配をするだけでなにも言わなかったし、なにも訊いてこなかった。この怪我はただのドジだと訴える俺に、わかったとだけ言ってくれた。
 あっちゃんはいつもそうだ。
 無理に聞き出そうとしたことなんか一度もない。
「朔に怪我させたのが私だってこと知ってたのに、優しく接してくれてたんだよね。さっきだって、たぶんだけど、私のためにお店閉めてくれたんだよね。すっごく申し訳ないけど……正直、すっごく助かった。さすが朔のお父さんだね」
「本当の父さんじゃないけどね」
「え?」
「叔父なんだ。といっても、血の繋がりはないけど」
 顔を上げた茉優は目を見張った。
 生い立ちを誰かに話すのは初めてだ。こんな話を聞かせていいのかわからないし、うまく説明できるかもわからない。
 だけど、茉優に話したかった。
「本当の父さんのことは、ほとんど覚えてないんだ。俺が三歳の頃に離婚して、俺は母さんに引き取られた。それから一度も会ってない」
 たまにふと思い出す幼少期の記憶にも、母さんが遺してくれた数少ない写真にも、父さんの気配はまったくない。
 母さんの口からも、父さんの話を聞いたことはなかった。たぶんあまりいい人ではなかったのだろうと今は思う。
 だから、俺にとっての〝父さん〟は。
「それからしばらく母さんとふたりで暮らしてたけど、俺が小学校に上がる前に再婚したんだ。その人の弟があっちゃんだった」
 最初に父さんを紹介されたとき、母さんは会社の同僚だと言った。なぜ会社の人を俺に紹介するのか疑問に思いつつ、三人で母さんの作ったご飯を食べた。その後も定期的に三人でご飯を食べて、たまに出かけるようになった。
 人見知りがすさまじい俺を母さんは心配していたが、自分でも信じられないほど父さんになついた。恋人とまではわからなかったが、母さんにとって特別な相手なのだろうと子供ながらに感じ取っていたし、父さんといるときの母さんが幸せそうだったからだ。俺自身、父さんの優しくて穏やかな人柄に、無意識のうちに惹かれたのかもしれない。
 ──朔くんのお父さんになりたいんだ。
 そう言われたときも、俺は迷わず頷いた。父さんと家族になれることが素直に嬉しかった。なぜか号泣している母さんを見て、俺と父さんは一緒に大笑いした。そして母さんは再婚し、俺たちは父さんが住んでいたマンションに引っ越した。
 母さんが作ったご飯を三人で食べて、休日は家でのんびりゲームをしたり映画を観たり、たまに動物園や遊園地に出かける。運動会や学芸会では、父さんも母さんも張りきって写真を撮りまくる。頑張ったね、すごかったよ、かっこよかったよ、と毎回言ってくれたが、運動会のリレーはビリだし学芸会の劇は木の役だったし、微塵も活躍していないのだから、まったくもってすごくもかっこよくもない。だけどふたりがあまりにも嬉しそうに笑うから、なんだか俺まで嬉しくなってしまった。
 父さんと一緒に風呂に入れば、お湯がぬるくなるまで散々はしゃいだ挙げ句、脱衣所をびしょびしょに濡らして母さんに怒られる。おとなしく説教を受け入れているふりをしながら、俯いている俺と父さんは顔を見合わせてにっと笑う。それすら母さんにばれてさらなる雷を落とされ、だけど最終的には母さんまで笑い出し、三人で腹がよじれるくらい笑い転げてしまうのだ。
 きっと、端から見ればごく普通の家庭だっただろう。
 だけど俺にとっては、信じられないほど穏やかで優しくて、幸せな日々だった。
「でも、父さんと母さんは、俺が小三の秋に……事故で死んじゃって」
 いつもとなんら変わりない、ただ雨が降っていただけの日だった。
 夕方から雨足が強くなり、出がけに傘を持っていかなかった父さんを母さんが駅まで迎えにいくと言った。一緒に来るかと訊かれたが、ゲームの続きをしたかった俺は留守番してると答えた。
 それが最後の会話になるなんて、夢にも思わずに。
 ──じゃあ、いい子で待っててね。すぐ帰ってくるから。いってきます。
 いつものように微笑んで、いつもと同じ台詞を残して出かけた母さんは、二度と帰ってこなかった。居眠り運転の大型トラックが歩道に突っ込み、父さんと母さんは即死だったそうだ。
「それで、一旦父さんの親戚に引き取られたんだけど……その、ちょっと、いろいろあって、一年くらい親戚の家を転々としてて」
 いくら親戚でも、ほんの数回しか会ったことがない大人たちは、俺にとって他人でしかなかった。それは向こうも同じだったのだろう。さらに愛想の欠片もなく喋りもせずまるでなつかない俺に、大人たちはただただ困惑するばかりだった。
 今なら、血縁関係すらない子供を引き取り育てるのは容易ではなかっただろうと思えるが、当時はそんな事情を理解できるはずもなかった。
 どこを見渡しても真っ黒で、薄汚くて、なにもかもが怖かった。
 大人なんか、誰ひとり信用できなかった。
 そして困り果てた大人たちの口から、『施設』という言葉が出るようになった頃。
「これからどうなるんだろうって、正直すげえ不安になってたときに、あっちゃんが急に言ってくれたんだ。俺んとこ来るか、って」
 あっちゃんは、唯一頻繁に会っていた親戚だった。父さんと仲がよくてしょっちゅう家に遊びに来ていたし、親戚の家を転々としていたときも、何度も会いに来てくれた。
 だからといって、俺を引き取る理由になるとは到底思えない。当時あっちゃんはまだ二十五歳だったのだ。
 だけど俺は、差し出されたその手を迷わず握った。
 ──朔くんのお父さんになりたいんだ。
 あっちゃんの手が、表情が、声音が、父さんにそっくりだったからだ。


 話し終えると、視界から母さんと父さんの笑顔がふっと消えた代わりに地面が映った。
 母さんと父さんとあっちゃんの手の感触が消えてしまいそうな気がして、いつの間にか握っていた拳に力を込めた。
「話してくれてありがとう。朔が優しい理由、わかった気がする。お母さんとお父さんと敦志さんに、たくさんたくさん愛されてきたからなんだね」
 視線を上げると、茉優は淡く微笑んでいた。
「その……正直びっくりしちゃったけど。お父さんとお母さんのこともそうだし、まさか敦志さんと血が繋がってないなんて思わなかったから。若いなあとは思ってたけど、そっくりなんだもん」
「いや似てないでしょ。実際、似てないって散々言われてきたし」
「そっくりだよ。なんていうか、雰囲気なのかな? あと笑った顔とか声のトーンとか。うまく言えないんだけど。とにかく、親子か兄弟にしか見えないよ」
 おそらく茉優は本心をなにげなく言っているのだろうが、俺は胸の奥がじんわりと温まるような心地になっていた。
 やはり俺を救ってくれた日の茉優と、なにひとつ変わっていない。
 そして忘れている。
 本当の親子じゃないことは茉優も知っているはずなのだ。
「初めて話した日のこと覚えてる? 小学五年の、授業参観の日」
「え? 小学五年って……」
「俺ら小学校も同じだったんだよ。あっちゃんに引き取られたタイミングで転入して、五年のときに同じクラスになったんだ。つっても俺はすぐに転校したから、同じクラスだったのは数か月だけだし、まともに話したことすらなかったけど」
 茉優はクラスの中心にいるタイプで、俺はいわゆる陰キャだった。忘れられているのも仕方がない。
 それでも、たった一度だけ世界が交わったような瞬間がある。ほんの二、三分程度だったが、その一瞬の出来事が、俺にとっては忘れることのできない、大切な記憶だ。


 あっちゃんと暮らし始めて半年くらいが経った、小五の春。
 俺はあっちゃんに授業参観があると言えなかった。来てほしいのかほしくないのか自分でもよくわからなかったし、あっちゃんは当時会社員だったから平日に仕事を抜けるなんて無理だろうと思っていた。それに、観にくるのはほとんど母親だ。あっちゃんだって、ひとりだけ男だったら気まずいだろうと子供ながらに気を遣ったような気もする。
 なのに参観日当日、なぜかあっちゃんがいた。
 今思えば単にプリントを見て知っていたのだろうが、隠しているつもりだった俺は目玉が飛び出そうなほど驚いたことを覚えている。授業後にあっちゃんと話したときも、申し訳なくて、どこか気まずくて、だけど嬉しかった。
「さっき来てたの、風早の兄ちゃん?」
 昼休みにそう言ってきたのは、ガキ大将タイプの男子だった。
 鼓動が速まり、こめかみと背中に冷や汗が伝う。
 俯くことしかできずにいると、またひとりふたりと人数が増えていき、俺はあっという間に囲まれた。
「父さん……だけど」
 机に向けて呟く。
「え、全然似てなくね?」
「ほんとに父ちゃん?」
「つーか母ちゃんは?」
「おまえもしかして親に捨てられたの?」
 俺が否定しないのを肯定と捉えたのか、どっと笑いが巻き起こった。
「どうりで全然似てないと思った」
「こいつにあんなかっこいい父ちゃんなんかいるわけねえよな」
「こんな暗い子供だったら、そりゃ捨てたくもなるだろ」
 クラスメイトたちはそいつに便乗して俺をからかった。普段から喋りも笑いもせずにずっとひとりでいた俺は、幼さゆえの残酷な悪意を向けるには格好の餌食だったのだろう。
 両親は事故死なのだから、捨てられたわけじゃない。
 だけど、きっぱりと否定することはできなかった。
 俺が血縁関係のない父さん側の親戚に引き取られたのは、母さん側の親戚も、そして実の父親も、俺の引き取りを拒否したからだ。
 頭上から次々と降りかかってくる悪意に、俺は俯いたまま無反応を貫いていた。じわじわと込み上げてくる嗚咽も、体の奥底からせり上がってくる叫びも、すべてを吐き出しそうになったとき。
「いい加減にしなよ」
 興奮しきったクラスメイトたちの声で塗れた教室の中でも、その声はひときわよく通った。
 驚いて、頑なに下げていた顔を上げる。教室の中心で友達に囲まれていた茉優は、座ったまま真っ直ぐにこっちを見ていた。
「だって、こいつ親に捨てられたんだよ」
「なんで決めつけるの? あんたらが勝手に騒いだだけで、風早くんそんなことひと言も言ってないじゃん」
「けど、ほんとの父ちゃんじゃないのは絶対そうだって。全然似てねえし」
「だったらなんなの?」
 あれだけ騒々しかった教室が瞬時に静まる。
 誰も言い返せずに口をつぐんで目を泳がせた。
 俺は、茉優から目を離せなかった。
「それに、そっくりだったじゃん」
「はあ? どこが?」
「なんか、雰囲気かな? さっき話してたときも、笑った顔そっくりだったもん」
「おまえ目おかしいんじゃねえの?」
「私はそう思ったって言ってるの。ていうか、風早くんの話聞こうともしないで勝手に妄想していじめみたいなことして、くだらないよあんたたち」
 そう吐き捨てた茉優は俺の方を向いて、
「お父さん、かっこいいね!」
 弾けるような笑顔を見せた。
 それだけだった。たったそれだけで、喉までせり上がっていた嗚咽も叫びもどこかへ流れていった。
 茉優とはそのあと関わることはなかったが、俺は茉優がくれた言葉と笑顔を決して忘れなかった。


 茉優は目をまんまるにしていた。
 やはり覚えていないのだろう。
「というわけで、実は入学式のとき、はじめましてじゃなかったんだよ。でもまあ──」
「覚えてる」
 表情を変えないまま茉優が言った。
「覚えてるよ。ごめん、名前は忘れちゃってたけど……。あのあとすぐに転校しちゃったから」
 今度は俺が目をまるくする番だった。
 ずっと、忘れられていると思っていたのに。
 それはそれでよかった。茉優にとっては取るに足らない、きっと記憶にも残らないほど些細な出来事で、つまり俺を庇ったり救ったりするために考えて言ったわけではなく、場の空気に流されずただ本心を口にしただけ。そう思っていたからだ。
 だからこそ、素直に嬉しかった。
 だけど、覚えてくれていたことはもっと嬉しかった。
「その年の秋に、あっちゃんに店開きたいんだけどって言われて転校したんだ。中途半端な時期だったし、卒業まで待つかせめて年度末まで待つかって訊かれたけど、今すぐに引っ越したいって言った」
 あっちゃんに引っ越しと転校を提案されたとき、俺はただただほっとした。
「……逃げたんだ、俺。もうあの学校にいたくなかった。授業参観のあとから陰でからかわれるようになって、すげえ……嫌で。あっちゃんには言ってなかったけど、たぶん気づいてたんだと思う」
「そうだったんだ……。敦志さんは、朔を守るために居場所を作ってくれたんだね」
「うん。あっちゃんはなにも言わないけど、俺もそうだと思ってる。だから感謝してもしきれないし、いつかちゃんと恩返ししたいとも思ってるよ」
 店を開くと言ったとき、サラリーマンは飽きただの性に合わないだのと冗談めかして言っていたが、おそらく嘘だ。
 両親と過ごし、ある日突然失い、学校ではいじめられた。あっちゃんはあの場所から俺を逃がしてくれたのではないだろうか。そして、できる限り俺のそばにいられるようにしてくれたのではないだろうか。
「朔はすごいね。人からの悪意とか敵意とか、マイナスなものを全部吸収して、優しさに変換しちゃったんだね」
「べつに優しさで言い返さなかったわけじゃないよ。俺はただ、人の弱みにつけ込むような奴らにエネルギー使いたくなかっただけで」
「小学生のときじゃなくて、今の朔のことだよ。だってあのとき……私のこと庇ってくれたでしょ?」
 茉優は橙に染まった空を見上げた。
「私ね、思うんだ。人って、人からの悪意や敵意を浴びたら、それを相手に跳ね返したり他の誰かにぶつけて発散するか、優しさに変換するか、どっちかなんじゃないかって。朔は後者を選んだんだよ。私は……前者を選んじゃった」
 あの日の光景が脳裏をかすめる。
 カッターを頭上に掲げた、茉優の姿が。
「庇ったわけじゃないよ。俺はほんとのことを言っただけ」
 茉優は答えなかった。だから俺も、それ以上話すことはしなかった。
 手に傷を負ったときはあまりの痛さに危うく泣きそうだったが、後悔していない。止めに入らなければ取り返しのつかないことになっていたのは間違いないはずだった。手の痛みなどとは比べものにならない、とてつもない後悔を背負うことになっていただろう。
 最悪の場合、こうして茉優と話せることは二度となかったかもしれない。
 もっともそれは、俺の勘が当たっていればの話だが。


 夕日がゆっくりと西に沈んでいく。外灯にぽつぽつと明かりが灯っていく。
 どちらからともなくベンチから立ち上がった。
「茉優はいつ家に帰るの?」
「とりあえず秋休みの間だけお世話になる予定だったから、ほんとは今日帰らなきゃいけなかったんだけど……」
 茉優は口を結んで俯いた。
 心に負った傷は、簡単には癒えない。俺自身、それをよく知っている。
 どう声をかけるべきか悩んでいると、茉優はぱっと顔を上げて笑った。
「まあ、そのうち帰るよ。ここもなんか居心地よくなってきたし、亜実ちゃんも旦那さんが出張で寂しそうだし──」
「笑わなくていいよ」
 下手くそに笑う茉優を見て、その言葉が口を衝いて出た。
 ぎこちなく上がっていた茉優の口角が下がる。
「もう、無理して笑わなくていいんだよ」
 ──いい加減にしなよ。
 茉優は俺を助けてくれたのに、俺は茉優の異変を見て見ぬふりをした。
 稲田たちといるとき、茉優はずっと薄く微笑んでいたから、べつに大丈夫だろうと軽く考えていた。
 あんなの、茉優の本当の笑顔じゃないことを知っていたのに。
 俺は、茉優の本当の笑顔を知っているのに。
 ──お父さん、かっこいいね!
 一点の曇りもない、周囲を明るく照らすような、茉優の笑顔を。
「ほんとに楽しくて、ほんとに嬉しいときに笑えばいいんだ。俺は……茉優の本当の笑顔だけを見たい」
 俺はヒーローじゃないから、茉優みたいにかっこよく場を収めることはできない。だけど、声をかけることくらいできたはずだった。話を聞くことくらい、そばにいることくらい、簡単にできたはずだった。
 俺はもう、逃げたくない。
 もう二度と、茉優をひとりにしたくない。
「あのさ、やっぱり連絡先教えてほしい。とりあえずIDだけでも教えといてよ」
 顔が真っ赤になっている自覚はあった。幸いずいぶんと薄暗くなっているし、茉優にはばれないだろう。
 秋休みが明けても茉優は登校しないかもしれない。きっと実家に帰れば店に来る頻度もぐっと減る。もう来ない可能性だって十分にある。俺はSNSをやっていないし、連絡先を訊いておかなければ茉優との接点がなくなってしまうかもしれない。
「すぐに連絡してってわけじゃなくて。ちょっと誰かと話したいなーとか、ちょっと愚痴聞いてほしいなーとか、……きついこと思い出しちゃったとき、とか。なんでもいいから、俺絶対に聞くから、連絡してくれたら嬉しい。俺もするし」
 茉優は迷うように瞳を揺らして俯いた。
 上昇していた血液が、さーっと引いていく。
「あ、でも、嫌だったら──」
「本当は」茉優はポケットからスマホを取り出した。
「持ってきてるの。でも……電源すら入れてなくて」
 黒い画面に、茉優の沈んだ顔が映った。
 なぜ茉優がそうしているのか、俺にはわからない。
 気にならないと言えば嘘になる。スマホの電源を入れていない理由も、今まで茉優の身になにが起きていたのかも、あの日の全貌も。
 だけど、こればかりは無理に聞き出すわけにいかない。
 口に出すことで楽になることもあれば、余計に辛くなることもある。
「交換しよう。私でよければ」
 なにも訊けないままIDを交換し、店に戻った。
 夜、自室に入ってすぐに茉優とのトーク画面を開いた。とりあえずスタンプだけ送ろうと思ったが、味気ないし返信が来なかったら嫌なので、悩みに悩んだ末ひと言だけ打って送信した。

 いつか、茉優に届いてくれますように。