連れてこられたのは〈喫茶かぜはや〉という喫茶店だった。
その名前に、心臓がどくんと跳ねる。次いで脳裏に浮かんだ光景を払うように頭を振った。
ドアを開けると、カランカランと小気味いい鈴の音に迎えられた。
店内はコーヒーの香りが漂う昔ながらの喫茶店といった感じだ。カウンター席に脚長の椅子が六脚、四人用のテーブル席が八つと、それほど広くない。ところどころに置かれている観葉植物と静かに流れている洋楽のおかげか、落ち着いた雰囲気だ。
時刻は十三時を過ぎている。平日ということもあり、お客さんは二組だけだった。ゆったりとランチを楽しむ仲睦まじい雰囲気の老夫婦と、昼休憩中らしいサラリーマン。
空いていたことにほっとした。
「やっほー敦志」
入ってすぐに、亜実ちゃんがカウンターに立っていた背の高い男の人に声をかけた。振り向いた彼は「いらっしゃい」と柔らかく微笑んで、私に気づくと眉を上げた。
「この子は?」
「姪っ子。茉優っていうの。しばらくうちに泊まることになったから連れてきた」
「はじめまして。ゆっくりしていってね」
敦志さんは、すごく整った顔立ちをしていた。優しそうな二重の大きな目に、筋が通った高い鼻。クラスにいたら女子の熱視線をかっさらっていただろう。亜実ちゃんよりちょっと歳上くらいだろうか。
亜実ちゃんがいつも座っているという、窓側のテーブル席に向かい合う形で座った。
ひとまず私はアイスカフェオレを、亜実ちゃんはアイスコーヒーを注文する。
「お腹空いてないんだっけ?」
「うん……あんまり」
無意識に胃の辺りをさすった。
正確に言えば、お腹は空いている。だけど食べられる気がしない。最後にまともにご飯を食べたのがいつだったかも覚えていない。
「茉優は痩せすぎ。ちゃんとご飯食べな。麺とかリゾットとか、食べやすいのにしたら? 敦志にちょっと少なめに作ってもらお」
「でも、今日のランチはハンバーグって書いてあるけど」
「いいでしょべつに。わたし常連だし」
「い、いいの? じゃあ……パスタにしようかな」
「おっけー」
亜実ちゃんが敦志さんを呼び、ふたり分の注文をする。今日のランチはハンバーグですけど、という敦志さんのささやかなツッコミを無視して「パスタ少なめでよろしく」と強引にねじ伏せた。
若干引きつった笑みで「かしこまりました」と言った敦志さんを気の毒に思うけれど、残してしまう方が申し訳ないから、今回ばかりは亜実ちゃんの強引さに感謝する。
「ねえ敦志、ケーキとラテアートってまだ無理そう?」
「悪い、もうちょいかかると思う」
「そっか。まだ怪我治ってないんだ」
「縫ったくらいだからな」
ふたりの会話を聞きながら、敦志さんの顔に向けていた視線を下ろす。半袖のシャツから伸びている腕から手にかけて、包帯はない。ケーキは敦志さん以外の誰かが作っているのだろうかと思ったけれど、店内を見渡してみても他に従業員はいなかった。
話し終えた敦志さんがカウンターの奥に戻っていく。
亜実ちゃんは、なぜか私を見ながらにこにこしていた。
「ねえ、亜実ちゃんって……」
「ん? なに?」
──どこまで知ってるの?
浮かんだ質問は、喉の奥に引っかかって出てこなかった。
「えっと……敦志さんと友達なの?」
「友達っていうか、しょっちゅう来てるから、自然とね」
ちょっとよくわからないけれど、社交的な亜実ちゃんらしい。
騒がしい亜実ちゃんにはああいう落ち着いた雰囲気の人が合うのかもしれない。旦那さんも確かそういうタイプだったし。
「そっか」
わざわざ確認するまでもないか。
再会してからの亜実ちゃんは至って普通だし、やっぱり私を誘ったのは、単に一週間もひとりで過ごすのが寂しかっただけなのかもしれない。
だって、知っているなら多少は言動に現れるはずだ。
腫れ物に触るように接したり、あるいは──まるで得体の知れない怪物でも見ているかのように、怯えた目をしたり。
私の、お母さんみたいに。