高校に入学したとき、同じクラスに知り合いはひとりもいなかった。同じ高校に進学した友達は何人かいたけれど、全員クラスが離れてしまったのだ。
だから、隣の席だった伶南が話しかけてくれたときはほっとしたし嬉しかった。
「はじめまして。あたし、稲田怜南」
「あ、はじめまして。楠木茉優です」
「どこの中学?」
「西中だよ」
「うちのクラスにいないよね。あたしも仲よかった子たちとクラス離れちゃってさあ。よかったら友達になろうよ!」
波長が合うというのはこういうことなのだと思った。
怜南は可愛くて明るくてお喋りで、毎日お腹を抱えて笑ってしまうくらい楽しい日々を過ごしていた。
まるで昔からずっと一緒にいたみたいに怜南といることに違和感がなくて、みんなにも同じ中学出身だと思われるほどだった。親友と呼べる存在になるまで時間はかからなかった。
「あたし、こんな風に女の子の親友ができると思わなかった」
出会って二か月が過ぎた初夏の放課後、カラオケでひと通り好きな曲を歌ったあとにふと訪れた静寂の中で、怜南がぽつりと呟いた。
「なんていうか、女同士のべたべたした友情?みたいなの、すごい苦手で。ずっと一緒に行動したり、べつに用事があるわけでもないのに毎日連絡取り合ったり、全然好みじゃないのにお揃いのもの持ったり、全部めんどくさいんだよね。でも、茉優はそういうのないからつき合いやすいっていうか。一緒にいて楽しいし」
「私だよ。あんまり、女の子とうまくつき合えなくて」
「そうなの? なんか意外。茉優可愛いし明るいし、友達多そうなのに」
少し悩んで、今まで誰にも打ち明けられなかった中学時代の話をした。
すると怜南は、怪訝そうな顔で首をひねった。
「それ、茉優は悪くなくない?」
「んー……そのときは正直すごいむかついたけど、今思えば、確かに私も無神経だったかもって……。トイレも教室移動も、ひと声かけるとかシノが戻ってくるまでちょっと待つとか、それくらいはするべきだったんだよ。クラス会のことだって、先に言っとけばあんなことにならなかったのかなって思うんだ。隠してたみたいに思われちゃったのかも」
「そんなことで怒る方がおかしいよ。しかも仲間増やしていじめるとかまじでありえない。一軍女子と仲よくなって調子に乗っちゃったんじゃない? あたし嫌いだなーそういうの。それに、友達だからって無理に全部合わせる必要ないじゃん。ほんと女ってめんどくさいよね」
共感してくれたことが、私の味方をしてくれたことが嬉しくて、心にかかっていたストッパーが外れた私は濁流のような勢いで一気に悩みを吐き出した。
孤立してしまったのはあのときが初めてではないこと。妹ばかり可愛がるお母さんのこと。なぜ自分が人とうまく関われないのかわからないこと。──どこにも居場所がないような気がして、寂しかったこと。
「あたしは茉優のこと大好きだけどな」
「え?」
「ほんと、一緒にいてこんなに楽なのも楽しいって思えるのも茉優が初めてだから。あたしは茉優とならずっと友達でいられそうな気がする。単に友達とも親とも相性悪かっただけじゃない? そんな気にすることないよ」
言葉を紡ぐことができない私を見て、怜南は満面の笑みを見せた。
「よし、歌おう! めちゃめちゃ盛り上がる曲!」
曲を入れた怜南は、テーブルに置いていたマイクを二本持って立ち上がり、片方を私に向けた。
込み上げた涙を堪えながら受け取り、私たちは声がかれるまで馬鹿みたいに歌ってはしゃぎ続けた。
「茉優! あたし彼氏できた!」
怜南に報告を受けたのは、夏休みが明けた日のことだった。
「ええ!? おめでとう! 宗像くんだよね?」
声のトーンを下げて確認すると、怜南は大きく何度も頷いた。
宗像くんは、怜南が前々から気になると言っていた同じクラスの男の子だ。明るくて外見が派手だから学年全体で見てもかなり目立っている。怜南いわくめちゃめちゃモテるらしい。
さらに彼は、同じクラスのミカちゃんとナナミちゃんという、これまた派手で可愛い女の子たちと仲がいい。
だから怜南は自信がないと弱音を吐いていたけれど、いつからか宗像くんがよく話しかけてくれるようになって距離が縮まり、連絡を取ったりたまに遊ぶようになっていた。
「実は一昨日ふたりで遊んで、つき合ってほしいって言われちゃいましたー! ほんとはすぐ報告したかったんだけど、茉優には絶対に直接言いたいなと思って!」
「そっかあ。本当におめでとう。初彼だよね?」
「うん! 実は、告られるまですっごい不安だったんだあ。……ムネは茉優が好きなのかなって思ってたから。茉優可愛いし」
「なに言ってるの? そんなわけないじゃん」
「自覚ないところが罪なんだよ茉優は。あーでもよかった! ほんっと嬉しい! 幸せ!」
可愛いなあと思う。同時に、ほんのりと寂しさも覚えた。毎日のように私と一緒にいてくれたけれど、これからはそうもいかないだろう。ちょっとだけ複雑な心地になりながらも、幸せそうに笑っている怜南を見ていると嬉しさの方が断然勝った。
予想通り、怜南は昼休みや放課後を宗像くんと過ごすことが増えた。宗像くんと予定が合わない日や休み時間は私といてくれたけれど、今までみたいにたわいもない話で笑い合うことはほぼなくなり、宗像くんの話が大半を占めるようになった。
もちろん聞いてあげたい。だけど、なかなかついていけないというのが本音でもあった。
私は恋愛経験がゼロだ。彼氏どころか好きな人ができたことすら一度もない。だからどんどん怜南の話についていけなくなっていった。怜南も怜南で、恋バナにまるで乗ってこない私に戸惑っているようだった。
夏休みが明けて一か月が過ぎたある日、登校すると怜南の目が真っ赤だった。
「怜南、目赤いよ。どうしたの?」
「昨日ムネから急にメッセージ返ってこなくなって。ずっと待ってたら朝方になっちゃってた。寝不足で死んじゃいそうだよー」
怜南が恋バナにまるで乗ってこない私に戸惑っているように、私も宗像くんとつき合い始めてからの怜南に戸惑っていた。
――ずっと一緒に行動したり、べつに用事があるわけでもないのに毎日連絡取り合ったり、全然好みじゃないのにお揃いのもの持ったり、全部めんどくさいんだよね。
そう言っていたはずの怜南は、宗像くんと見事に〝めんどくさいこと〟をコンプリートしていた。
「そういうの、苦手だって言ってなかったっけ?」
「そういうのって?」
「毎日連絡取り合ったりするの、とか」
「え……友達とは、って話でしょ。普通に友達と彼氏は違うじゃん」
どう違うのか、私にはわからなかった。
怜南は項垂れるように机に突っ伏した。
「ムネってほんとモテるから、毎日不安なの。メッセージ返ってこないだけで、もしかしたら他の女の子と遊んでるんじゃないかーとか、他に好きな子できちゃうんじゃないかーとか。あたしとムネって全然釣り合ってないんだもん」
「大丈夫だよ。怜南は可愛いし、彼女なんだから、自信持っていいと思う」
「自信なんか持てないよ」
「でも……そんなの疲れない?」
ただ、怜南を励ましたかった。
彼女になってもなお、むしろ片想いのとき以上に弱音ばかり吐いている怜南が心配だった。
「……恋愛ってそういうもんじゃん」
くぐもった声で呟いた怜南に、どういうもんなの、なんて返せるはずがなかった。
重い沈黙に居心地の悪さを感じていると、怜南がぱっと顔を上げた。怒らせてしまったかと思っていた私は、怜南が笑っていたことに心底ほっとした。
「ねえ、茉優も彼氏作れば? 毎日楽しいよ。あたし早く茉優と恋バナしたいなー。好きな人とかいないの?」
「あ……うん、べつに。私そういうのよくわからなくて」
「ええーもったいない。茉優可愛いんだから、その気になれば彼氏なんかすぐできるのに。クラスの男子も、けっこう茉優のこと可愛いって言ってるよ?」
「嘘だあ。そんなの言われたことないもん」
「ほんとだって。ねえ、茉優ってメイク薄いよね。髪もいつも下ろしてるし。もっとメイクしたり髪型変えたりしてみれば?」
「でも私あんまり器用じゃないし……」
「んー例えば、ササキとかウエダとかは? あと……あ、ムネにいい感じの男の子いないか訊いてみよっか。他校にも友達いっぱいいるし、頼めば集めてくれるかも」
私を置いて話が加速していく。
好きな人も彼氏も、ほしいなんてひと言も言っていないのに。
「好きな人って無理に作るもんじゃないよね? そもそも恋愛ってあんまり興味ないかも。ほんと、私はそういうのいいから」
「……そっか」
今思えば、私はたぶん気づいていた。
こんな返しをするたび、怜南の顔が曇っていることに。
それに気づかないふりをしてフォローのひとつも口にしなかったのは、本心だったからだ。
なにより、
──友達だからって無理に全部合わせる必要ないじゃん。
怜南ならわかってくれると、信じていた。
怜南は宗像くんとつき合い始めてからミカちゃんやナナミちゃんと仲よくなり、それに比例してどんどん外見が派手になっていった。黒かった髪を明るく染めて、薄かったメイクが濃くなり、シャツのボタンを開けて胸元を露出し、スカートは下着が見えそうなほど短い。入学したての頃の面影はどこにもなかった。
怜南を介して私も彼女たちと話すようになり、秋が深まる頃には四人グループになった。話題はもっぱら彼氏のノロケと愚痴。怜南は存分に恋バナができて嬉しいのだろう、いつも楽しそうに笑っていた。
怜南がなぜ彼女たちといるようになったのか、今ならわかる。
恋バナに乗ってこない私といるのがつまらなくなったのだと。
ミカちゃんとナナミちゃんは相当モテるらしく、ごく短期間で彼氏ができたり別れたりを繰り返していた。ただでさえ恋バナが得意ではない私がついていけるはずもなく、疎外感を抱きながら毎日を過ごしていた。
冬が訪れようとしていたある日、ミカちゃんが他校の彼氏に振られて落ち込んでいた。みんな輪になって彼女を囲み、それぞれ慰めの言葉を口にしていく。
するとミカちゃんは、違うの、と呟いた。
「振られたことももちろんきついんだけど……もう新しい彼女できたっぽいんだよね」
ミカちゃんに同調するように悲しそうな顔をしていた怜南とナナミちゃんが、途端に目を吊り上げた。
「なにそれ。誰かに聞いたの?」
「ううん。インスタ見たら、女の子との写真載せてたから」
「は? なにそれ、ひどくない? ありえないんだけど」
「浮気か二股してたってこと? クズじゃん」
つい一分前まで優しい言葉を発していたふたりの口から、今度は元彼を罵倒する言葉が次々に飛び交う。
「ねえ、最低だよね。茉優もそう思うでしょ?」
ずっと黙っていた私に、怜南が言った。
慰めも怒りもしなかったのは、そもそもなぜ落ち込んでいるのかわからなかったからだ。
「つき合ったとき、お互い遊びだって言ってなかったっけ?」
元彼とのことは、馴れ初めからすべて知っている。彼氏がほしかったときに彼女がほしいイケメンと知り合い、軽いノリでつき合ったはずだった。いつの間にそんなに好きになっていたのだろう。
「最初は遊びのつもりだったけど……一緒にいるうちに、本気で好きになっちゃったの」
「そうだったんだ。でも、インスタのフォローは外した方がいいんじゃない?」
「フォローはもう外してるけど……」
「そうなの? じゃあなんで見るの?」
「なんでって……気になるからに決まってるじゃん」
「もう見ない方がいいよ。嫌な思いするだけだし。それに、ミカちゃんならまたすぐに彼氏できるよ」
瞬時に空気が変わったのを肌で感じた。
三人の視線がゆっくりと私に向く。今の今まで元彼に向けられていた怒りが、今度は私に向けられたのだと察した。
畏縮している私にナナミちゃんが言った。
「茉優にはわかんないかもしんないけど、そんな簡単なことじゃないんだよ。ていうか、なんで元彼の味方してんの? ミカは遊ばれたの。最低だよ。それに、普通友達が傷ついてたら慰めてあげるでしょ? なんで責めるようなこと言うの?」
──普通、友達が怒ってたら理由訊くよね?
かつてシノに言われた台詞が脳内に響く。
当時と今では状況が全然違うのに、二種類の〝普通はこうする〟が重なった。むしろ初めて言われたときよりもショックだった。べつの人に同じことを二度言われると、やはり自分が間違っていたのだと思い知らされる。
「……ごめん」
元彼の肩を持ったつもりはない。ただ励ましたかった。
だけど三人の鋭い視線を浴びた私は、そう小さくこぼすことしかできなかった。
私は普通じゃないのだろうか。普通ってなんなんだろう。
*
ふあ~あ、と大きなあくびをしながら、昼頃に亜実ちゃんが起きてきた。居候生活が始まってから、毎日同じような時間に同じような光景を見ている。もはや小言を言う気も失せた。
亜実ちゃんはずっと眠そうだ。そういえばロングスリーパーだとか言って、昔からよく寝る人だったっけ。
私が幼い頃も、なんか眠くなってきた~とか遊んでいる最中に突然言い出して、私はまだ遊びたかったのに、茉優も一緒に寝ようよ~とか言って無理やり布団に引きずり込まれた記憶がある。
最終的には、亜実ちゃんの腕の中で私もぐっすり眠ってしまっていたけれど。
「今日どうする? たまには出かけちゃう?」
「敦志さんのとこ? 毎日行ってるじゃん」
「違うって。観光スポットでも行ってデートしようっつってんの」
「なんにもないのに?」
「車で行けばそれなりにあるから」
亜実ちゃんいわく、山に囲まれているこの市にも一応観光スポットがあるらしい。私はインドア派でもアウトドア派でもないけれど、さすがにずっと家の中にいるのは暇だし出かけたい気持ちはある。
だけど……。
「さて、どこ行きたい?」
「そんなの訊かれてもわかんないよ」
「スマホでちょっと調べてみればいいじゃん」
「持ってきてないってば」
「わたしのでいいから」
亜実ちゃんのスマホを渡されて、適当に単語を入力して検索をかける。
すると、
「いや、やっぱ海でも行こっか」
亜実ちゃんはまるで名案を思いついたみたいに笑った。
「海? なんで? なんかあるの?」
「べつになんにもないけど。ぼーっと海でも眺めたい気分だなと思って」
観光スポット行こうって言ったの誰だ。
よくわからないけれど、亜実ちゃんらしいといえば亜実ちゃんらしい。騒がしい亜実ちゃんがぼーっと海を眺める姿はいまいちしっくりこないにしろ、話の流れをぶった切ってころっと意見を変えるところが。
突っ込みどころが満載なのに、今日は素直に頷いた。
「なんか話してよ。楽しい話か怖い話がいい」
車で五分ほど走った頃、亜実ちゃんが唐突に言った。なんだその無茶ぶり。
これからぼーっと海でも眺めようとしている人の発言じゃない気がする。
「楽しい話ならわかるけど、なんで怖い話?」
「夏といえばホラーじゃん」
「もう秋だけどね。ええー……じゃあ、亜実ちゃんっていつもあんな時間まで寝てるの?」
「休みの日はね」
「着替えもしないでソファーでだらだらしてご飯も作らないでだらだらして、旦那さん怒らないの?」
「好きなだけわたしの悪口言っていいなんて言ったっけ?」
けっこうな憎まれ口を叩いても、亜実ちゃんは怒るどころか笑っている。
昔は生意気だとよく怒られた気がするけれど、ずいぶんまるくなったみたいだ。
一応変わったところもあるらしい。
「うちの旦那様はそんな器の小さい男じゃありません。優しくて心が広い世界一素敵な旦那様です」
「ずいぶん仲がよろしいことで」
亜実ちゃんは「うふふ」とわざとらしく声に出し、去年の結婚式と同じくらい幸せそうに微笑んだ。
私の記憶が正しければ、亜実ちゃんは恋多き女だった。彼氏がころころ変わって、たまに彼氏の話をされても、もはやどの彼氏かわからないくらい。だからこそ結婚するつもりがないと言われたのが印象に残ったのだ。
もしかしたら亜実ちゃんは、熱しやすく冷めやすいタイプなのかもしれない。
「亜実ちゃんが旦那さんのことが大好きだったからだ」
「なにが?」
「結婚する気になったの。この人と一生一緒にいたいって思うくらい好きになっちゃったんでしょ?」
「うん……まあ、それもなくはないけど。大好きっていうか、愛してる」
ちょっとからかうつもりだったのに、亜実ちゃんは恥ずかしげもなく堂々と言いきった。
まさかはっきりと、しかも上乗せして返ってくるとは。
友達なら微笑ましいその台詞も、相手が血縁者だと無性に恥ずかしい。
「よく私の前でそういうこと言えるね……」
「なんで? べつに誰の前でも言えるけど。ちなみに旦那にも言うよ」
「恥ずかしくないの?」
「わたし、その恥ずかしいってのがよくわかんないんだけど。なにが恥ずかしいの? 伝えなきゃ伝わらないじゃん」
なんともさっぱりしている。
「茉優は彼氏にそういうこと言わないの?」
「私は……わかんない。彼氏いたことないし……好きな人すらできたことないから」
──茉優も早く恋した方がいいよ。
中学の頃から、何度そう言われてきたかわからない。どうしたら恋ができるのかわからなかったけれど、みんな当たり前に経験していることなのだから、私もいつか自然と恋をするのだろうと楽観的に考えていた。だけど、どうしても、ドキドキするだとかキュンとするだとか会いたいだとか、みんなが言うその感覚がわからないのだ。
ただでさえそうだったのに、今となっては恋愛に対してちょっとした恐怖すら芽生えていた。
恋愛は、簡単に人を変えてしまう。
「おかしいよね。十七にもなって、まだ恋したことないんだよ。みんな当たり前みたいに誰かを好きになるのに。……だから友達といても話に入れなくて、なんかどんどん、取り残されていくような気がして……でも、どうしたらいいかわからなかった」
半分ほど開けている窓から、爽やかな風に乗って潮の香りがふわりと流れ込んだ。
ドライブをするのは初めてじゃないのに、家族で出かけるときと全然違う。今まで感じたことのない、なんとなく不思議な心地だった。普段は口に出せないようなことが言えてしまう。
「おかしくないし、どうもしなくていいんだよ。べつに恋愛がすべてじゃないんだから」
「説得力ないよ? 亜実ちゃん彼氏ころころ変わってたじゃん」
「その言い方は語弊があるけど。彼氏がいてもみんなの話になんか入れなかったよ。四六時中連絡取り合ってたいとか毎日会いたいとかずっと一緒にいたいとか、わたしにはよくわかんなかった。嫉妬されるのも嫌いだったな。わたしはしないし、したいとも思わない。恋愛に限ったことじゃないけど」
亜実ちゃんはハンドルを握ったまま前を向いていた。
いつものおちゃらけた表情でも話し方でもなく、真剣な表情で落ち着いた声音だった。
「信用されてない気がして悲しいとか、そういうこと?」
「どうなんだろ。自分でもわかんないけど。いくら恋人でも夫婦でも、相手を縛る権利なんかなくない?って感じかな」
「旦那さんでも嫌なの?」
「嫌だね。そういう人だったら結婚してない。わがままなんだよ、わたし」
「わがままじゃ……ないと思う」
亜実ちゃんは私を横目で見て、「ありがと」と微笑んだ。
本心であり、さっき亜実ちゃんが『おかしくない』と言ってくれたことへのお礼であり、自分のためでもある言葉だった。
断言はできないものの、私はたぶん亜実ちゃん派な気がするし、そうでありたいと思う。それはつまり、いつか恋ができたとしてもみんなが言う〝普通〟にはなれないのだろう、という寂寥感があることも否めない。
だけど、それ以上にほっとしていた。
恋愛をしても変わらない人もいるんだ。
「そういう人もいるんだね」
「いろんな人がいるよ」
私の話を否定せずに諭してくれた亜実ちゃんを見て、ふと思い出した。
小三の夏にクラスの男の子に怪我をさせてしまったとき、お母さんに叱られている最中に仕事帰りの亜実ちゃんが現れた。お母さんから事情を聞いた亜実ちゃんは、怒るどころか笑ったのだ。
──男の子と喧嘩して勝ったの? かっこいいじゃん、茉優!
亜実ちゃんはぽかんとしている私の頭をくしゃくしゃと撫でた。その後亜実ちゃんまでお説教を食らう羽目になってしまったけれど、私は嬉しかった。忙しなく動くお母さんの口を見ながら堪えていた涙は、どこかへ行ってしまった。
あのときだけじゃない。私がお母さんに叱られるたび、亜実ちゃんはお母さんを宥めてくれた。
まあまあ、そんな怒んなくてもいいじゃん、なんて笑いながら。
「もう着くよ」
亜実ちゃんが言うと同時に車が減速する。
駐車場に車を停めて、途中のコンビニで買った飲み物を手に車を降りた。季節外れの海にはサーフボードを持っている人が何人かいるだけ。寂しいほどに静かすぎる海は、今の私にはありがたかった。
亜実ちゃんは本当に眺めたかっただけなのか、海に近づくことなく階段に腰かけて、缶コーヒーのプルタブをぷしゅっと開けた。
「そういえば、さっきの話どういう意味? 恋愛に限ったことじゃないって」
「え? なんだっけ?」
「嫉妬とかの話」
「ああ。友達同士でも似たようなのない? 例えばわたしに親友がいるとするじゃん。他の子と仲よくしてたら機嫌損ねられたり、誰が一番仲いいかでマウント取り合ったり」
記憶の奥底で、不明瞭だったなにかが形を成していく。
考えてみれば、シノが誰かの悪口を言うときは決まった流れがあった。
──なに話してたの? すごい楽しそうだったけど。
私がシノ以外の子と話したあと、シノは必ずそう訊いてきた。そして、必ずその子の悪口を言った。あれはいわゆる嫉妬だったのだろうか。
だとしたら、今ならなんとなく気持ちがわかる。怜南が宗像くんと付き合い始めたとき、宗像くんの話ばかりするようになったとき、ミカちゃんやナナミちゃんと仲よくなったとき、私は確かに寂しかった。
私は、怜南のことが大好きだった。
「ねえ、亜実ちゃん。もし、信じてた親友に……」
裏切られたら、と言いかけて、なにか違うような気がした私はべつの言葉を探した。
「その……傷つくこと言われたり、ひどいことされたりしたら、どうする?」
缶コーヒーを口に運ぼうとしていた亜実ちゃんの手が止まる。
やや間を置いて再び手を動かした亜実ちゃんは、ひと口飲んでから言った。
「どうするって?」
「えっと……仲直りするとかしないとか……許すとか、許さないとか」
「なにを言われたのか、なにをされたのか、度合いによるけど。それは、絶対に許せないようなこと?」
否応なしに、あの日の記憶がじわじわと甦る。
「……わからない」
思い出したいわけがなかった。だけど同じくらい、答えを求めていた。
胸の内を口にすればするほど、心の奥底に沈んでいる大きな氷の塊が溶けていくような心地になる。
氷が溶けきれば、いずれ答えが見つかるような気がした。
「許せないって思ったら許さない」
「でも……親友なのに」
「一回親友になったら一生そうでなきゃいけないなんてことはないよ」
もしかしたら、中学生のときの私もそう思っていたのかもしれない。
だから、友達を簡単に手放した。
シノの言い分が理解できなくて、納得できなくて、わかり合えないと判断して、諦めて、自分の気持ちをひとつも言わずに、楽しかった思い出もすべてあっさりと捨てた。私は向き合うことをせずに逃げてしまったのだ。
だけど、あのときの選択は正しかったのだろうか?
きっと、正しくはなかった。だからこそ、怜南とどんなに話が合わなくなっても、どれだけ疎外感を抱いても、怜南のそばにいた。もう逃げたくなかったし、怜南を信じたかったし、なにより怜南を失いたくなかった。
──あの日まで、ずっとそう思っていた。
「わたしね、高校のとき友達いなかったの」
「亜美ちゃんが? 嘘でしょ?」
「わたしの性格で女子社会に溶け込めると思う? この超適当で協調性の欠片もないわたしが」
決して明るい話題じゃないのに、亜実ちゃんはなんてことなさそうに笑いながら膝を伸ばした。
「でも……たくさんいたじゃん。うろ覚えだけど、亜実ちゃんの友達に遊んでもらったこととかあったよね?」
「正確に言えば、最初の方はいたんだけどね。まあころころ変わってたのは彼氏だけじゃなかったってことだよ」
意外だった。亜実ちゃんはいつも楽しそうにしていた記憶しかないのに。
「わたしはそもそもグループとか得意じゃなかったし、トイレも教室移動もなんでずっと同じ人と一緒にいなきゃだめなのかわかんなかった。急に仲よくなったり悪くなったり、そういうのも面倒だったし。だから自分の好きなように行動してたら、気づけば誰もいなくなってた」
自嘲気味に笑うと、手に持っていた缶コーヒーを傾けて飲み干した。
空になったそれを両手で包むように持ち、ふうっと息をこぼす。
「嫉妬とかの話もそうだけど、べつにそういうのを否定するわけじゃないよ。ただわたしにはわからなかった。学校みたいな閉鎖空間の中だと、わたしみたいなのはちょっとした異常者じゃん。嫌がらせされたこともあったし、むかついて喧嘩になったこともあったりして、まあまあ苦い青春時代だったわけ。だから……あんまり好きじゃなかったな、学校」
今まで聞いたことのない、想像さえしていなかった亜実ちゃんの苦い過去。
今の自分とリンクして、苦しくて、少しでも気を緩めたら泣いてしまいそうだった。
「亜実ちゃんは……許さなかったの?」
「そうだね。しばらくしてから謝られたけど、わたしは許せないって言った」
「……絶対に許せないようなことだったんだ」
「嫌がらせ自体は大したことなかったけど、わたしの場合は、嫌がらせされたことが許せないっていうより、そういうことする人たちと一緒にいたくないって思っちゃったんだよね。また面倒なことに巻き込まれるくらいなら、ひとりでいた方がましかもって」
相槌さえ忘れてしまうほど、亜実ちゃんの横顔に見入っていた。
「正解だったとは思ってないよ。もちろんわたしにも悪いところはあったし、お互い謝って喧嘩両成敗にするのが一番いいのもわかってた。だけど、不正解だったとしても、わたしは謝るのも許すのも嫌だったし、無理に一緒にいたら自分のこと嫌いになっちゃいそうだったから。今でも後悔してない」
こっちを向いた亜実ちゃんは、歯を見せてにっと悪戯っぽく笑った。
その笑顔に翳りはなく、後悔していないのが嘘じゃないのだとわかる。
「なんか前置き長くなっちゃったけど。許すか許さないかなんて自分で決めていいんだよ。正しくなくても、いつか後悔するとしても、今の自分の心を守る判断をしていいの」
ずっと亜実ちゃんに向けていた視線を海へ向けた。
たったの数日ですっかり秋らしくなった爽やかな青い空。
太陽の光が海面に反射して、キラキラと輝いていた。
「亜実ちゃんは強いね。なんか、かっこいい」
「あの頃はべつに強くなかったし、全然かっこよくもないよ。強がってたけど、今思えば怖かった。わたしの高校生活終わったなーと思ったし、喧嘩になったときだって、もしかしたら膝がくがくだったかも」
亜実ちゃんは冗談めかして笑う。私は笑えなかった。
今の私には、その状況があまりにもリアルに想像できてしまう。
「亜実ちゃんは、強いよ。私は……全然、そういう風に、笑えない」
これからもずっとこのままだったらどうしよう。
そう考えると、怖くてどうしようもなくなる。
「わたしが強くなれたのは、自分の力じゃないんだよ」
「どういうこと?」
「不思議なことに、こんなわたしでも丸ごと受け入れてくれる人がいたんだよね。なにがあっても信じてくれて、信じさせてくれるの。そういう人がたったひとりいるってだけで、びっくりするくらい強くなれるんだよ」
ああ、そうか。なんとなくわかった気がする。
亜実ちゃんが全然変わっていない理由も、変わった理由も。
「それが旦那さんだったんだね」
亜実ちゃんは、とびきりの笑顔を見せた。
私はまた笑える日が来るのだろうか。
私もいつか、そういう人に出会えるのだろうか。
もう一度、誰かを信じられる日が来るのだろうか。



