君がいたから、壊れた世界が輝いた



◇◇◇

「大丈夫。落ち着いてるよ」
 表向きは──という言葉は呑み込んだ。
 それからしばらく話して電話を切り、ひとつため息をついた。
 茉優がこの家に来てから、姉とはほぼ毎日電話で話している。茉優の様子が心配で気が気じゃないのだろう。母親なのだから当然だと思うが、一日や二日でそう変化が起こるはずもない。
 姉にはなるべく夜遅い時間に電話をするよう頼んでいる。必ず事前にひと言メッセージを入れてほしい、とも。
 わたしが姉と毎日連絡を取っていることを茉優が知ったら、あまりいい気はしないだろう。裏でこそこそ繋がっているだとか悪い方向に捉えられたら、余計に茉優の心を乱してしまうかもしれない。保身といってもいい。わたしにまで心を閉ざされてしまったら、もう手の施しようがない。
 こんなことを言っても理解してもらえないだろう。私は母親なんだから、が姉の口癖だ。だから姉と話すときはかなり神経を遣うので少し疲れる。
 下手なことを言って、あの日のようにパニックを起こされたら困るからだ。


「──茉優が、クラスの子を刺そうとしたの」
 姉から電話が来たのは約一か月前、九月の始まりの深夜だった。
「は……? 嘘でしょ?」
「こんな嘘ついてどうするの!?」
 電話越しでも、狼狽している姉を想像するのは容易だった。
「どういうこと? なにがあったの?」
 姉は泣いており、しばらく要領を得ない言葉を嗚咽と共に漏らしていた。ひとまずいつも通り慰め役に徹し、二時間弱にわたる長電話を切ってから、情報量が多すぎてやや混乱している頭を整理していく。
 クラスの子、というのは、茉優が親しくしていた女子生徒だそうだ。
 彼女いわく、学年集会をサボるため教室に残っていたところ、なぜか茉優が来て鉢合わせた。そして『最近茉優とあんまりうまくいってなかったからちゃんと話し合おうと思ったのに、話してるうちにちょっと喧嘩になっちゃって、そしたら茉優が急にキレて、カッターで刺されそうになった』と涙ながらに主張している。
 未遂で済んだのは、忘れ物を取りに教室へ戻った同じクラスの男子生徒がたまたまその場に遭遇したからだ。彼は『カッターを持っていることに驚いて、危ないと思いとっさに手を出してしまった』と説明している。ただし掴んだ場所が刃の部分だったため、三針縫うほどの大怪我を負った。
 茉優は固く口を閉ざしており、教師がどれだけ問いただしても、カッターを向けた理由はおろか教室に戻った理由すら語ろうとしない。
 退学処分、あるいは傷害罪になるかもしれないと最悪の事態をも覚悟したが、相手の女子生徒が怪我を負っていないこと、そして唯一現場を見た第三者である男子生徒が『ただカッターを持っていただけで、刺そうとなんかしていなかった』『この怪我は自分がドジを踏んだだけ』と主張していることにより、停学処分で済んだ。
 整理を終え、ふう、と息をついて天を仰いだ。
 どれだけ考えても、どうしても腑に落ちなかった。
 目を閉じて茉優のことを考えれば、一番に思い浮かぶのは屈託のない笑顔だ。叔母の欲目もあるかもしれないが、根本的には明るく優しい子だと思っている。姉がこんな質の悪い嘘をつくはずがないと頭ではわかっていても、とても信じられなかった。
 二度目に電話が来たのは、二週間ほど前の深夜のことだ。
 姉は前回同様に嗚咽を漏らしながら、その後のことをわたしに説明した。
 茉優が口を閉ざしたままなこと。停学期間が明けても登校せず、それどころか心までも閉ざして部屋からほとんど出てこないこと。そしてついさっき、茉優が部屋を出ていたときに私物を確認していたところ、戻ってきた茉優と口論になり姉の心も折れてしまったこと。
 ひと通り話を聞いたとき、思ってもみなかった台詞が口を衝いて出た。
「しばらく、うちで預かろうか」
「預かる、って……どうして?」
「環境を変えてみるのもいいんじゃないかと思って。もちろん、茉優がいいならだけど」
 姉の話を聞いている限り、ただ待っていれば時間が解決するとは思えない。うちに来たからといって状況を好転させる自信もないが。
 ただ──自分が学生だった頃を思い出してしまったのだ。
 そして姉は茉優に、わたしは夫に相談し、お互いの承諾を経て今に至る。



 買い物から帰ると、茉優がソファーで眠っていた。夜はあまり眠れていないのだから、日中眠くなるのは当然だろう。
 すやすやと寝息を立てている茉優を見ていたら、ふいにあくびがこぼれた。わたしも眠気が限界に近づいている。少し横になろうかと思ったとき、茉優が寝返りを打った。その拍子にTシャツの袖から二の腕が覗いた瞬間、思わず息を呑んだ。
 日中はまだ暑いというのに、茉優はずっと薄手のパーカーを羽織っている。気になっていたが訊くことはしなかった。なんとなく察していたからだ。
 その推測が、たった今確信に変わった。
 ──茉優が、クラスの子を刺そうとしたの。
 何度でも考える。
 本当にそうだったのだろうか、と。
 学年集会の最中だったため、現場にいたのは当事者だけ。しかも未遂で終わっている。だからといって許されることではないが、客観的に見れば、刺そうとしたことが事実か否かは誰にもわからないのだ。
 カッターを握っていた、茉優本人にしか。
 どちらにしろ、わたしが知りたいのはただひとつ。
 茉優の身になにが起きたのか、だ。
 茉優がこの家に来てから過ごした数日間で、この子を信じたいという思いがより強くなっている。これもまた叔母の欲目かもしれないが、茉優がちょっと口論になったくらいで友達を刺そうとするとは思えないのだ。
 そんな願望の域を出なかった気持ちをあと押ししてくれたのは朔の様子だった。
 つい昨日わかったことだが、例の男子生徒とは朔だった。
 姉にあの日の話を聞いた直後から、朔が右手に包帯を巻いていることは気になっていた。とはいえ偶然がすぎるし、まさかな、と思っていたが〈喫茶かぜはや〉で顔を合わせたふたりの様子を見て確信した。ふたりがおつかいへ行った隙に敦志に確認すると、やはりそうだった。
 朔は怪我を負ってからしばらくコップを持つことさえできなかった。ケーキなど作れるはずもない。
 それほどの大怪我をさせられたというのに、朔の態度はとても茉優を恨んでいるように見えない。むしろ好意さえ感じる。
 だからこそ、思う。
 もしも、刺そうとしたのが事実だとしたら。
 そうせざるを得ないほどのなにかが茉優の身に起きていたのかもしれない、と。
 考えてすぐに、ひとつの可能性にたどり着いていた。
「おかえり」
 薄く目を開けた茉優が呟いて、わたしははっと我に返る。
 ただいま、と返すよりも先に、茉優は再び目を閉じた。
 ほとんど寝言みたいなものだろう。なんだか幼い頃の茉優を思い出してしまい、ふ、と笑いがこぼれた。
 ──しばらく、うちで預かろうか。
 たかが一週間やそこらで状況が好転するわけでも、なにかが解決するわけでも、茉優の傷が癒えるわけでもない。わかってはいたが、たとえ束の間でも現実から目を背けられる時間を与えてあげたかった。
 寝室からタオルケットを持ってきて茉優にかけ、布越しにそっと茉優の肩を撫でた。
 この子の心の傷は、いったいどれほど深く刻まれているのだろう。