なんか、いつも、気づいたらひとりだった。
中学校に入ってすぐ、シノという女の子と出会った。席が隣だったことがきっかけで話すようになり、自然と仲よくなっていった。
「ねえ、どこ行ってたの?」
休み時間にトイレへ行って教室へ戻ると、シノが顔をしかめて駆け寄ってきた。
「トイレ行ってた」
「なんでひとりで行っちゃうの? あたしも誘ってよ」
仲が深まるにつれて、こういうことを言われるようになっていた。
シノはすごく甘えん坊で、休み時間も昼休みも教室移動も常に私と行動したがる。対して私は、行きたいと思ったタイミングで近くにシノがいなければ、ひとりでふらりと行ってしまうのだ。
茉優はマイペースすぎるんだよ、とよく言われていたけれど、どうしてシノが怒るのかいまいちわからなかった。今だってただトイレに行くだけなのだから、わざわざ友達を誘うまでもない。
返答に困っていると、シノは「あとさあ」と続けた。
「あの子たちとなに話してたの? すごい楽しそうだったけど」
私と一緒にトイレから戻ってきた女の子たちを、シノが目線で示す。
「五時間目の英語で小テストやるみたいだって話してただけだよ」
「ふーん……そうなんだ。でも、あんまりあの子たちと喋ったりしない方がいいと思う」
「……なんで?」
「けっこうみんなに嫌われてるんだよ。あたしも嫌いだな。だってうるさくない? 休み時間のたびにぎゃあぎゃあ騒いでさあ。男の話ばっかりしてるし、モテ自慢かよって感じ。馬鹿っぽいし普通に引くって」
シノが誰かの悪口を言うのは初めてではない。
正直に言えば、こういうところは得意ではなかった。
誰かを嫌ったり悪口を言うこと自体を咎めたいわけじゃない。引っかかっているのは、頻度が多すぎることと標的が無差別すぎることだ。
なぜただ同じ教室にいるだけで特に関わりのない相手がそんなに気になるのかがわからなかった。べつに彼女たちが私たちになにかしてきたわけでも言ってきたわけでもないのに。
確かに彼女たちは明るくて目立つタイプだから、いつも教室の中心にいる。彼氏ができたとか別れたとか話しているのを耳にしたこともある。だけど、それがなんだというのだ。
「そうなんだ。でも私はうるさいって思ったことないし、嫌いじゃないから喋るよ。それに私たちだって騒いじゃうときもあるだろうし」
チャイムが鳴り、話は強制終了となった。
口をつぐんで自席へ戻ったシノがどんな顔をしていたのか、私は覚えていない。
二年になるとクラスが離れたけれど、私たちの仲は変わらなかった。廊下で会えばもちろん話をするし、シノが新しいクラスに馴染めないと言うから、休み時間はお互いの教室を行き来して、昼休みも一緒に過ごした。
進級して二か月が経った頃、シノは急にクラスの女の子たちと仲よくなったようだった。うるさくてけっこうみんなに嫌われていてモテ自慢かよってくらい男の話ばっかりして馬鹿っぽくて普通に引く、と散々揶揄していた子たちと。
なぜあれほど嫌っていた相手と急に仲よくなったのか不思議に思いながら過ごしているうちに、いつしかシノは前ほど私のところに来なくなった。とはいえ来るときは来るし、それほど気にしていなかった。
むしろほっとしている自分もいた。休み時間のすべてと言ってもいいほどシノと過ごしていた私は、いまいちクラスの女の子たちと打ち解けるタイミングを掴めずにいたからだ。それに仲よくなったならあの子たちの悪口も言わなくなるだろう。
──なんて思っていた私は、たぶん能天気だった。
休み時間を教室で過ごす時間が増え、やっとクラスの女の子たちに馴染めてきたと安心していた矢先、ある日突然シノに無視をされるようになった。話しかけてもそっけない態度、という段階を飛ばして、完全なる無視を。
なにか気に障ることをしてしまったのかもしれないと考えてみても、思い当たる節がない。なぜならほんの二日前に遊んで、いつも通りたくさん話してたくさん笑って、また月曜日ね、と笑顔で別れたからだ。
シノの態度に我慢できず、一度だけ、ついカッとなって肩を掴んだことがある。
だけど、
「触んじゃねえよ」
睨みつけられた挙げ句思いきり舌打ちをされてしまった。
さすがに深く傷ついた私は、以降、シノに声をかけることができなくなった。
シノが学年の女の子たちに私のことを吹聴したのか、次第に同じクラスの子にも無視されるようになり、私はあっという間にひとりになった。ただ廊下を歩いているだけで『男好き』『裏切り者』などと言われるようになった。楽しかったはずの学校生活は地獄と化した。
ここまでされるなら、私がなにかしてしまったに違いない。だけどいくら考えてみても、シノが怒っている理由も『男好き』や『裏切り』にも心当たりがなく、ただただ混乱することしかできなかった。
学校は休まなかった。いじめなんかに負けたくなかった。
それに、休むとなるとお母さんに理由を言わなければいけない。
学年中の女の子に無視されているなんて、言えるわけがなかった。
こんなのずっと続くわけじゃないと自分に言い聞かせ、意志に反して竦んでしまう足を毎日学校へ運んだ。
シノに呼び出されたのは、耐え続けて一か月が過ぎた頃だった。
空き教室に入ったとき、中にシノしかいなかったことだけはほっとした。ついに大勢に囲まれて暴力を振るわれるのではないかという不安も少なからずあったからだ。
もしかして、謝ってくれるのだろうか。
私を呼び出したのは、仲直りをするつもりなのだろうか。
そんなささやかな期待は呆気なく打ち砕かれる。
私に気づいて振り向いたシノは、冷淡な目をしていた。
「なんであたしが怒ってるかわかってる?」
なに言ってるんだろう、と思った。
無視されていただけなのに、わかるわけがない。
「普通、友達が怒ってたら理由訊くよね? なんでなにも言わないの?」
声かけたのに無視したのはそっちじゃん──。
反射的に言い返しそうになったのをぐっと堪えた。火に油を注ぎたくない。下手をすれば、今度こそ無視なんかじゃ済まなくなってしまう。
「……なんで怒ってたの?」
「だからさあ。茉優はそういうところがだめなんだって。ちゃんと自分で考えてよ。じゃなきゃ意味ないでしょ。まあ今回は言うけど」
今言うなら最初から言ってほしかった。
この一か月間はなんだったんだろう。
「ずっと思ってたんだけど。茉優ってあたしのこと軽く見てるよね?」
「……どういう意味?」
「適当にあしらってるっていうか。一年の頃もあたしのこと放置して勝手にどっか行ったり、自分が興味ない話は流したりさあ。あたしのことほんとに友達だと思ってるのかなって、ずっと疑問だったんだよね。あたしのことなんかどうでもいいんだろうなって。今回のことではっきりした」
後半はこっちの台詞だし、今回のこと、がなにを指しているのかわからない。
黙っている私にシノはため息をついて続ける。
「先月、茉優のクラスみんなで遊んだでしょ?」
「遊んだけど……」
「メンバー誰だった?」
シノが喋れば喋るほど混乱が増していく。
その話と無視となにが関係あるのかまったくわからない。
遠回しな物言いに苛立ちを覚えながら、促されるままに名前を出していく。
ある男の子の名前を出したところで、
「うん、いたよね」
シノが食い気味に言った。
「いたけど……」
「あたしが一年の頃からあいつのこと好きだって知ってるよね?」
ずっと話を聞いていたから当然知っている。それでも私は、シノが怒っている理由にたどり着けなかった。正確に言えば、そんなことでここまで怒る意味がわからなかった。
べつに私が個人的に彼を誘ったわけでも、ふたりきりで会ったわけでもない。ただのクラス会だった。誘われて行った先に彼がいたというだけの話だ。
「なんか、茉優たちがいちゃいちゃしてたって聞いたんだけど。もしかして茉優もあいつのこと好きで、あたしのこと裏切ろうとしてたんじゃないの?」
「そんなわけないじゃん! それに、少しは話したかもしれないけど……いちゃいちゃなんかしてないよ!」
「だったらなんで行ったの? 普通、友達の好きな人がいたら行かないよね? それか、あたしのこと誘ってくれてもよかったんじゃない? 茉優のクラスなら何人か友達いるし、べつにあたしが行っても大丈夫だったと思うけど」
面食らった私は言葉に詰まってしまった。
友達の好きな人がいるならクラス会を欠席するべきという理屈も、自分を呼べという主張も、私には理解できない。確かにシノがいても変ではないかもしれないけれど、決して自然ではない。クラスのメンバーで遊ぶときに他のクラスの子は呼ばない。なにより、そんなことでいちいち怒られていたらきりがない。
シノは私を見据えていた。たぶん私の返答を──謝罪の言葉を──待っているのだろう。だけど私は、シノと目を合わせたまま立ち竦むことしかできずにいた。
たったそれだけのことで部外者を巻き込んで一か月も無視されていたのかと思うと、怒りを通り越してなんとも言えない気持ちになってしまったのだ。はっきり言えば、くだらないとさえ思った。気に入らないことがあるなら、私に言えばよかっただけの話なのに。
同時にショックも受けていた。
クラスの誰かが、シノに嘘を吹き込んだ。シノはそれを鵜呑みにした。私を信じてくれなかった。あんなに、ずっと一緒にいたのに。
今がなんのための時間なのかよくわからなかったけれど、私は今日大切な友達を失うのだということだけはわかった。
いや、もうとっくに失っていた。
「私のことが許せないんだよね。わかった。今まで一緒にいてくれてありがとう」
我ながら、あまりにも乾いた台詞だった。
もうどうでもよかった。一刻も早くこの無意味としか思えない状況から立ち去りたかった。
だけどシノは、くしゃっと顔を歪ませて噴き出した。
「なにそれ。カップルの別れ話じゃないんだから。仲直りしようって言ってるんだよ。喧嘩しても仲直りするのが友達でしょ? ていうか、どうでもよかったらわざわざ話し合いするために呼び出したりしないって。友達だからこうやってはっきり言ったんだよ」
あれは喧嘩と呼べるのだろうか。
そしてこれは話し合いと言えるのだろうか。
「ねえ、さっきの質問ちゃんと答えてよ」
「さっきの、って……」
「あたしのこと、ほんとに友達だと思ってる?」
問いたいのはこっちだ。
友達だと思ってくれていたのか。
私のことなんかどうでもよかったんじゃないのか。
私たちは、本当に友達だったのか。
「……思ってたよ」
シノが納得したのかわからないけれどひとまず満足したのか、一か月間にわたる絶交は解除された。
表向きは普通に接していたと思う。とはいえ元通りの関係に戻れるはずもない。少なくとも私の中でわだかまりが残ったままだった。高校が離れてからは、瞬く間に音信不通になった。
物語ならあれは序章だったのかもしれないと、今になって思う。
*
それほどの悪夢ではなかったものの、気分は最悪だった。
重い体を起こし、昨日とさほど変わらない格好に着替えてリビングへ向かう。
好きに過ごしていいと言われているから、とりあえずテレビをつける。芸能人のスキャンダルやらグルメ情報やらをぼんやりと観ながら過ごし、亜実ちゃんが起きてきたのは十一時になる頃だった。
「おはよう~」
全然早くないけど、と言いかけて、昨日と同じになると思ったからやめた。
亜実ちゃんは今日もソファーにダイブしてうつらうつらしている。叱る代わりにため息をついた。
亜実ちゃんとお母さんは、本当に血が繋がっているのか疑問に思うほど正反対だ。
お母さんは娘の私から見ても完璧主義だと思う。例えば、休日だろうと平日と同じ時間に起きて、私や恵茉やお父さんが起きる頃には身支度を済ませて朝ご飯も用意されている。お昼まで寝過ごして着替えもせずにソファーで二度寝しようとするなんてことは絶対にない。
逆に言えば、イレギュラーにはとことん弱い。
「早く着替えて顔洗って歯みがいてきなよ」
「あんたけっこう口うるさいよね」
「亜実ちゃんがだらしなさすぎるの。ついでに厚げ……いいから早く」
「厚化粧って言いかけたな」
私に軽くチョップをして、めんどくさいなあとぶつぶつ文句を言いながら亜実ちゃんは洗面所に向かった。
亜実ちゃんの後ろ姿を見送りながら、ふと思い出す。
親や親戚に、私の性格は亜実ちゃん譲りだとよく言われた。自分じゃよくわからないけれど、もしかすると周囲がそう感じたのは、私があまりにもお母さんに似ていないからではないだろうか。
恵茉は誰の目から見てもお母さん似だ。頭も要領もよく、しっかり者で人望が厚い。小学生の頃は当然のように学級委員長を務め、中学では一年の頃から生徒会に入っている。学校生活において課せられる〝みんなで仲よく〟がとても上手で、お母さんを安心させてあげられる。
だからこそお母さんは恵茉を溺愛し、イレギュラーを起こしてばかりの私を敬遠するのだろう。
小学校三年生の夏、クラスの男の子と喧嘩になったことがある。女の子にちょっかいを出しているところを止めに入ると、彼と口論になった。言い合いの末に彼が掴みかかってきて、驚いた私はとっさに彼の手を振り払い、するとバランスを崩した彼は机に突っ込んで額に怪我を負ってしまった。
かすり傷だったから親を呼び出されるまではいかなかったけれど、連絡は当然行った。家に帰ると、神妙な面持ちのお母さんが待ち構えていた。
怒られることを察知した私は、恐る恐るソファーに座った。怪我をさせてしまったことを謝り、だけどわざとじゃないのだと経緯を説明した私に、お母さんは眉根を寄せて言った。
言い訳するんじゃない、どうして恵茉みたいにみんなと仲よくできないの?と。
今思えば、当時すでにお母さんは私に辟易していたのだろう。友達と喧嘩になったのは初めてじゃなかったのだ。そのたびにお母さんは相手の親に頭を下げる羽目になっていたのだから、嫌気が差すのも無理はない。
だけどまだ幼かった私は、お母さんが私の話を聞いてくれないことがただただショックだった。せり上がってくる涙を堪えながら、忙しなく動き続けるお母さんの口を見ていた。
のちに知ったことだけれど、私が怪我をさせてしまった彼とからかわれていた彼女は密かに両想いだったそうだ。密かにといってもお互い〝好き〟という言葉を伝えていなかっただけで、クラス公認の仲だった。
どうやら私は、彼女からすれば好きな人とのじゃれ合いを邪魔しただけだったらしい。そしてなぜか、私が実は彼のことが好きで、彼女に嫉妬してふたりの仲を裂こうとした、という根も葉もない噂が立った。
彼女が彼を好きだなんて知らなかった、なにも聞いていなかったと弁解した私に返ってきたのは、雰囲気でなんとなくわかるじゃん、という言葉だった。
〈速報です〉
テレビから聞こえた声に、はっと我に返る。
画面を見れば、淡々と原稿を読み上げていた女性キャスターが前のめりになって報じていた。
〈十七歳の少年が、殺人未遂の疑いで逮捕されました。調べによると──〉
どくん、と心臓が大きく跳ねる。
緊迫した空気が画面越しに伝わり、指先が震える。
見たくもないのに目が離せない。
〈加害者の少年は被害者の少年にいじめを受けていたと供述しており──しかし学校側はいじめについて把握していなかったと──〉
ふいに女性キャスターの声が途切れ、動画配信サービスのホーム画面に切り替わった。
驚いて振り向けば、いつの間にか戻ってきたらしい亜実ちゃんが平然とした顔でリモコンを操作していた。
「え……なんで勝手に変えるの」
「ニュース観たかったの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「最近はまってたドラマ、あと数話で終わるんだもん。気になってしょうがないから。茉優も一緒に観ようよ」
なんて勝手な人だ。観ていようが観ていなかろうが、チャンネルを変えるならひと言断るのが礼儀だろう。いくら部屋の主だからって。
「べつにいいけど……」
いい加減文句を言ってやろうと思ったのに、亜実ちゃんが「やったー」と嬉しそうに笑うからほだされてしまった。
亜実ちゃんはもともと底抜けに明るかったけれど、それにしてもやけにはしゃいでいる気がする。こんなに子供みたいな人だっただろうか。昔はまだそれなりにお姉ちゃん感があったのに。
ソファーに並んで座り、ネット配信のドラマを観る。知らない俳優ばかりだし途中からだと内容もわからないし、正直あまり面白くない。
「本読んでもいい?」
「つまんなかった?」
「うん。昭和の人には面白いの?」
「わたし平成生まれだけどね。まあ好きなの読みな」
立ち上がって私が使っている部屋に向かい、本棚を漁る。普段読書はほとんどしないけれど、テレビは亜実ちゃんが占領しているわけだし、漫画は旦那さんのものらしいから勝手に読むのは気が引けるし、スマホは触れない。今の私にとって暇つぶしになりそうなものが本しかないのだ。
意外と几帳面なところもあるらしく、作家名ごとに、しかもあいうえお順に並べられていた。
左上から順に見ても、かろうじてわかるのは東野圭吾と湊かなえくらいだ。小説を読んだことはないけれど、ドラマや映画は何度か観たことがある。一番多いのは〝薬丸岳〟という人の本だった。
「亜実ちゃんってこの人が好きなの? やくまる……がく?」
「うん、一番好き」
「そうなんだ」
ずらりと並んでいる背表紙をひと通り見て、なんとなく気になった『Aではない君と』というタイトルの本を手にリビングへ戻った。
「なんでそれ……ちょっと待ってて」
好きなの読みなって言ったくせに、亜実ちゃんは私の手から本を取り上げて立ち上がる。本棚に向かうと、またすぐに戻ってきた。
「こっちにしな。お子ちゃまなんだから」
「お子ちゃまじゃないし」
渡されたのは、ザ・恋愛小説という感じのキラキラした表紙の本だ。
渋々受け取って、渋々開く。中身もザ・恋愛小説という感じのそれを流し読みしながら横目で亜実ちゃんを見れば、ドラマの続きが気になってしょうがないと言ったくせにスマホをいじっていた。
「ドラマ観ないの?」
「観てるよ?」
「ずっとスマホいじってるじゃん」
「スマホいじりながら観てるの。まあいいや。お腹空いたし敦志んとこ行こ」
たったの一話でドラマを消した亜実ちゃんは、立ち上がって伸びをした。
どこまでマイペースなんだこの人。
「そんなにご飯作りたくないの? 私簡単なものなら作れるけど」
「違うよ。敦志が来いって」
「嘘だ。めんどくさいだけでしょ」
「嘘じゃないっつの。ていうか、いいんだよなにもしなくて。掃除も助かったけどさ。たまにはなにも考えずにのんびりしてればいいんだよ」
亜実ちゃんはたまにじゃなく、いつものんびりしている気がする。
「亜実ちゃんって普段はご飯作ってるの?」
「平日は毎日作ってるよ。朝は作らないけど。わたし朝食は食べないし、そもそも起きれないし」
「でも、旦那さんは食べるんじゃないの?」
「旦那は独身時代からコンビニでパン買ってて、結婚してからもなんとなくそのままの流れでって感じ」
「そんなんで子供できたらどうするの」
「あはは。考えたこともなかった」
「結婚してるのに子供のこと考えないの? 亜実ちゃんってちょっと──」
変わってるよね、と言いかけたとき、『結婚』と『子供』というキーワードが脳内で膨らみ、ふいに昔の記憶が甦った。
「結婚するつもりないって言ってたよね」
「え?」
「私が、イトコがほしいから早く結婚して子供産んでって言ったとき。覚えてる?」
「ああ……うん、覚えてるよ」
確か亜実ちゃんが転勤する少し前、私が小学四年生くらいの頃だった。同い年のイトコがいる友達がいて、すごく仲がよさそうで羨ましくて、亜実ちゃんにねだったのだ。亜実ちゃんは当時まだ二十歳くらいだったけれど、小学生からすれば十分に大人だし、女の人は大人になるとみんな結婚して子供を産むのだと思い込んでいた。
だけど亜実ちゃんの返事は、『わたし結婚するつもりないからなあ』だった。
そういえばあのとき、亜実ちゃんは珍しく困った顔をしていた。
「したね、結婚」
「そうだねえ」
「したくなったの?」
「まあねえ」
干してあった服に着替えながら、どこかおぼろげに答える。
亜実ちゃんがこんな曖昧に受け答えするのは珍しい。
「なんで結婚するつもりなかったの?」
「まあ、若かったし」
「……そうなの?」
若いときの方が結婚に憧れるような気がするけれど。
やっぱり、亜実ちゃんは変わっている。
亜実ちゃんの寝坊やらドラマやら準備やらで、〈喫茶かぜはや〉に着く頃には十四時を過ぎていた。ランチタイムは終わっているのに、亜実ちゃんは図々しくもランチを注文する。敦志さんは慣れているのか、困った顔ひとつ見せずに「かしこまりました」と言った。まさか亜実ちゃんはいつもこんな迷惑行為をしているのだろうか。
「茉優は? 今日はお腹空いてる?」
亜実ちゃんに問われ、んん、とあやふやに返す。
今日のランチはローストビーフ丼らしい。なかなか重めだ。
「またパスタとかリゾットとかにする?」
「ううん。……私もローストビーフ丼にしようかな」
正直に言えば食べきれる自信は全然ない。だけど昨日のパスタが本当においしかったから、ローストビーフ丼も食べてみたくなったのだ。食べたい、という欲求を抱いたのは久しぶりだった。
「そっか。食べきれなかったらわたしが食べるから、無理しなくていいよ」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、ローストビーフ丼ふたつ」
敦志さんはもう一度かしこまりましたと言って一旦去り、すぐにランチセットがふたつ運ばれてきた。
箸を進める。ローストビーフもソースもやっぱりおいしくて、予想以上に食べることができた。だけど完食はできず、亜実ちゃんは宣言通り、私が残した分も平らげてくれた。
「茉優ちゃん、ケーキ食べられそう?」
空になった食器を下げに来た敦志さんが言った。
これだけご飯がおいしいなら、きっとケーキも絶品だろう。食べてみたいけれど、もうお腹がいっぱいだし残してばかりも申し訳ない。
「小さめに切って出そうか。もちろん無理しなくていいけど、うまいからよかったら食べてみてよ」
「あ……じゃあ、お願いします」
お言葉に甘えると、敦志さんは嬉しそうに微笑んだ。
しばらくして運ばれてきたのは、ガトーショコラとラテアートが施されたカフェラテがふたつ。亜実ちゃんのは複雑そうな薔薇の模様なのに対し、私のは無難なハート。
形を崩すのがもったいなくて、唇を尖らせてちびちびと飲む。
「おいしい!」
カフェラテを置き、続けてガトーショコラもひと口食べてみる。
「ケーキもおいしいです! すんっごく!」
急に大興奮した私を見て、亜実ちゃんと敦志さんが目をまるくした。ふたりとの温度差に恥ずかしくなって身を縮める。
「すみません、なんか大声出しちゃって……。でもほんとにおいしいです。敦志さんってケーキも上手なんですね」
「ケーキ作ったのは俺じゃないよ」
「え? でも……」
きょろきょろと店内を見渡してみても、やっぱり敦志さん以外に誰も見当たらない。
「おい朔、隠れてないで出てこい」
敦志さんが言うと、カウンターから朔がひょっこりと顔を出した。頭を掻きながら立ち上がり、なぜか目を泳がせている。
昨日の敦志さんと亜実ちゃんの会話を思い出し、今さら合点が行った。
「もしかして朔が作ったの?」
「まあ、あの、うん……」
「ちなみにラテアートもね」
敦志さんが補足すると、朔は顔を真っ赤にして敦志さんを睨んだ。
なにをそんなに恥ずかしがっているのかわからない。
「すんっごくおいしかったよ! 今まで食べた中で一番おいしかった!」
「あ、えっと、ありがとう、よかった」
「あれ、でも……」
朔は怪我をしているはずなのに。
見れば、朔の右手から包帯がなくなっていた。軽く握っているから手のひらは見えないけれど、もうほとんど治っているというのは本当だったのかもしれない。
大きな罪悪感が少し薄れ、ほっと胸を撫で下ろした。
なぜかまた敦志さんにおつかいを頼まれて、朔と並んでマンションとは逆方向に歩いていく。昨日と同じように、つき合わせてごめん、気にしないで、ごめん、ほんとに大丈夫だよ、のやり取りを繰り返した。
何度も謝るから、つい噴き出してしまった。
「ほんとにいいってば」
「あ……はは。俺しつこいな」
朔が笑うと、昨日からずっとまとわりついていた気まずい空気が和らいだ。
くすくすと笑いながらふいに目が合って、どちらからともなく足を止めた。
すると朔がぐるんと体を反転させて再び歩き出したから、私もあとを追った。
昨日は謝ることで頭がいっぱいだったけれど、改めて考えれば、今の状況が不思議でしょうがない。
「なんか、不思議だね」
「へっ? なにが?」
「朔とこうして話してるの」
クラスメイトなのにほとんど話したことがないのは、学校での朔が無表情で無口だからだ。いつもひとりでいるし、笑うところも誰かと親しく喋るところも見たことがない。
正直ちょっととっつきにくそうな印象を持っていたけれど、全然そんなことなかった。むしろ雰囲気や声色が柔らかくて話しやすい。
「ほほ、ほんとだよね。……ごめん、なんか俺、ちょっと緊張してる」
「実は私も、ちょっと緊張してる。ねえ、隣歩いてもいい?」
「ふぇっ? あ、ああ、うん、どうぞ」
なぜか朔がうろたえるから、私もつられて「失礼します」と謎の返しをしてしまった。
歩くスピードをちょっとだけ速めて、昨日からずっと故意に空けていたふたり分のスペースを詰めた。
「そういえば俺、亜実さんに姪がいること知らなかったよ。しかも、ま、茉優だったなんて、すげえ偶然だよね」
「私もびっくりした。敦志さんって朔の……」
お父さんなのかお兄さんなのか、はたまた親戚なのかわからない。どれを口にするべきか悩んでしまう。口ごもった私の迷いを察してくれたのか、朔が「父さんだよ」と言った。
亜実ちゃんよりちょっと歳上くらいに見えたけれど、もっと上なのかもしれない。
「そうなんだ。かっこいいね、敦志さん。優しいし」
「でしょ」
こっちを向いた朔は、嬉しそうに笑った。
お父さんのことを褒められてこんなに素直に笑えるなんて、よっぽど仲がいいのだろう。ふたりのやり取りを見ていても微笑ましい。
私は今、お父さんとお母さんのことを誰かに褒めてもらえたとしても、きっとこんな風に笑えない。今思い浮かぶふたりの姿は、泣いているお母さんと困った顔で私に背中を向けるお父さんだ。
「……いいな」
つい本音がこぼれてしまい、慌てて口に手を当てた。
「ごめん、なんて言った? 聞こえなかった」
「ううん、なんでもない。かっこいいお父さんで羨ましいなって」
「そっか。ありがと」
今度は照れくさそうに笑って、また前を向いた。
ごく自然に微笑む朔を見れば見るほど、不思議に思う気持ちが増すばかりだ。
どうして朔は、学校では笑わず、誰とも接せずに過ごしているんだろう。
「あと、ケーキとラテアート褒めてくれてありがとう。すっげえ嬉しかった」
「私こそありがとう。敦志さんが作ったと思ってたから、びっくりしちゃった」
「あっちゃんがさ、けっこう厳しくて、お客さんに出せるレベルじゃないって言うんだよ。だからまだ亜実さんと旦那さんと、あっちゃんの友達にしか食べてもらったことなくて。だから茉優が食べてくれたとき、実はすっげえ緊張してた。今までで一番おいしかったって言ってくれたときなんか、ちょっと泣きそうだったし」
「そうだったんだ。朔って器用なんだね。私ケーキ作ったことないし、ラテアートなんてもっとできないよ」
「昔からケーキ作りはけっこう得意でさ。調理実習とか張りきっちゃって。まあ男のくせにキモイって言われてたけどね」
「そんなわけないじゃん。私趣味も特技もなんにもないから羨ましい。それに、ほんとにほんとにおいしかったよ」
「ありがと。ほんと嬉しい。自信ついた」
心からケーキ作りが好きなのだろう。朔は無邪気に笑いながら、その目はしっかりと未来に向けられているように見えた。
それはつまり、大事な手を傷つけてしまったことになる。
ごめん、と言いかけて止めた。謝ってばかりだと、今度は朔に罪悪感を抱かせてしまうかもしれないし、せっかく和やかにしてくれた空気を壊してしまう。
代わりの言葉はすぐに見つかった。
もうひとつ、朔に言わなければいけないことがある。
「あのね、朔」
「ん?」
「あのとき、庇ってくれてありがとう」
振り向いた朔は、眉を下げた。
一度俯いて、顔を上げて、穏やかに微笑んだ。
「うん、ごめんよりずっといい」
何度謝罪をしても足りないけれど、それ以上に、何度感謝を伝えても足りない。
朔がいなければ、私は停学処分じゃ済まなかったのだから。



