予想通りなかなか寝つけなかったけれど、かろうじて二度寝ができたようだ。次に目が覚めたとき、視界は至ってクリアだった。カーテンの隙間から太陽の光が漏れていて、夜はぼんやりとしか見えなかったデスクも本棚もはっきりと見える。
 私に与えられたこの部屋は、リビングに隣接している洋室。普段は亜実ちゃんが仕事部屋として使っているらしい。

 起き上がり、居候の身だから礼儀として布団を畳む。キャリーバッグを開けて、悩む間もなく適当に取り出した服に着替えた。お洒落をする必要がないから、お気に入りの服なんて一着たりとも持ってきていない。入っているのはTシャツが数枚とジーンズが数本だけ。
 ハンガーにかけていた薄手のパーカーを羽織ってから、引き戸を開けてリビングを覗く。もう九時を過ぎているのに、亜実ちゃんの姿は見当たらなかった。

「亜実ちゃん?」

 一応呼んでみても、もちろん返事はない。今日に限ったことではないから、またかと半ば呆れながら洗面所に向かった。
 鏡に映った自分の姿を見て、乾いた笑いがこぼれた。
 あの日からまだ一か月くらいしか経っていないのに、ずいぶん痩せた。伸ばしっぱなしの髪はまるで艶がなくぼさぼさで、癖のある毛先が肩に当たってあちらこちらに飛び跳ねている。外に出ていないから、夏が終わったばかりだというのに肌も真っ白だし、顔に至ってはもはや青白い。
 本当に、幽霊みたいだ。

 メイクをすれば多少はましになるだろうけれど、とてもそんな気分になれないし、そもそも道具を持ってきていない。一か月前から部屋の隅に放置したままだ。
 鏡から目を逸らし、洗顔と歯みがきを済ませる。目にかぶさっている前髪を指先で軽く左右に払い、髪をヘアゴムでひとつにまとめてリビングに戻った。
 大きなL字型のソファーに座ってテレビを観ていると、大きなあくびをしながら亜実ちゃんが起きてきたのは二時間後だった。目は開いていないし足下はふらついているし服はよれよれだし髪は寝癖だらけでメドゥーサみたいだ。

「おはよう~」
「全然早くないけど」

 呆れながら言うと、亜実ちゃんは大きな口を開けて「あはは」と豪快に笑った。次いでソファーの空いているスペースにダイブし、二度寝しそうな勢いで気持ちよさそうに目を閉じた。

「え、亜実ちゃん? もしかしてまだ寝る気?」
「起きるよ、起きる。大丈夫。……ちょっと横になるだけ」
「いやそれ絶対寝るじゃん」
「だって眠い~~~」
「もう、だらしないなあ。さっさと顔洗って歯みがいて着替えてきなよ」

 亜実ちゃんの両腕を引っ張って起き上がらせると、また大きな口で「あはは」と笑った。姪に叱られてなにがそんなに楽しいのか全然わからない。亜実ちゃんが洗面所で厚化粧(と言ったら怒られそうだから言わないけれど)をしている間に、軽く部屋を片づけることにした。

 亜実ちゃんは、叔母といっても私のお母さんと歳が離れていてまだ二十八歳。二年前に結婚し、旦那さんとふたりでこのマンションに住んでいる。職業は小説家。以前は会社勤めをしながらたまに本を出すくらいだったものの、結婚を機に会社を退職し、今は小説一本でやっているようだった。
 亜実ちゃんが遊びに来ないかと言った理由は、旦那さんが出張でしばらく帰ってこないからだそうだ。さらに亜実ちゃんの仕事もひと区切りついたばかりで暇らしく、そこに私の秋休みが偶然重なり、こうして居候生活をすることになったのだった。

 はっきりと覚えているわけではないものの、幼い頃は亜実ちゃんにかなりなついていたと思う。
 私の家はお母さんと亜実ちゃんの実家から自転車で十五分程度の距離だから、亜実ちゃんはしょっちゅう私の家に来ていた。お母さんは二歳下の妹である恵茉(えま)につきっきりで、思うように甘えられなかった私は、たくさん遊んでくれる亜実ちゃんにべったりだった。叔母にしてはそれほど年齢差がないこともあり、お姉ちゃんみたいな存在だった。

「あれ、掃除してくれたの? ありがとー茉優」

 身支度を終えた亜実ちゃんは、寝起きの姿とはまるで別人になっていた。
 目元を強調するメイクも、フェミニンすぎないふんわりとしたワンピースも、S字カールのミディアムヘアもよく似合っている。もともとの童顔も相まって、姪の私から見てもアラサーには見えない。

「だって汚いんだもん。ちょっとくらい片づけたら?」
「旦那がいないときくらい全力で怠けさせてよ」
「怠けすぎだよ、もう」

 亜実ちゃんは家事全般が苦手らしく、来たときは部屋が散らかっていたし洗濯物も溜まっていた。料理は嫌いではないらしいけれど、面倒だとか言ってまともに作ったのは一日目だけ。他はだいたいデリバリーで済ませている。

 おぼろげだった幼い頃の記憶がたった三日間で鮮明になりつつあるのは、亜実ちゃんがあまりにも変わっていないからだろう。自由でだらしなくて、マイペースすぎてちょっと掴みどころがなくて、だけど甘え上手で、なんとなく憎めない。これじゃお姉ちゃんというより妹みたいだ。
 呆れてばかりだけど、おかげで赤の他人みたいだった空白の数年間が嘘のように、今こうして接することができている。亜実ちゃんのペースに乗せられているだけとも言えるけれど。

「もうこんな時間じゃん。茉優、ご飯どうする? お腹空いてるよね?」
「そんなに空いてないから大丈夫だよ」
「だめだよ食べなきゃ。たまには食べに行く? 茉優がいいならだけど」

 外食なんてしばらくしていないし、正直あまり気分が乗らない。最近はめっきり人混みが苦手になってしまい、騒がしい空間にいると気分が悪くなるのだ。
 だけど私の都合で断るのも気が引けるから、いいよと頷いた。