君がいたから、壊れた世界が輝いた



◇◇◇

 世界なんて変わらないと思っていた。
 真っ黒でひどく淀んだ薄汚い世界が、ずっと続いていくと思っていた。

 母さんの話によると、俺は幼い頃から人見知りがすさまじかったらしい。
 朔は公園に行ってもお母さんから離れないし、お友達が一緒に遊ぼうって言ってくれてもお母さんの後ろに隠れるし、大変だったんだから──などと困ったように言いながら、だけどどこか楽しそうに微笑むのだ。
 覚えていないし思い出したくもないが、たぶん母さんは話を盛っていない。聞かされていた当時は幼さゆえの男のプライドを持ち合わせていたから、そんなわけないよ!などと必死に反論していたが、今となってはまあそうだろうなと納得できてしまう。
 人と関わることは今でも、いや、今の方があの頃と比べものにならないほど苦手だからだ。
 幼い頃、俺の世界は母さんがすべてだった。
 父さんはほとんど家にいなかったし、きょうだいもいないし、近所に同じくらいの子供もいない。母さんは就職を機に地元を離れ、詳しい事情はわからないが家族や友達とも疎遠らしかった。そうした環境で育った俺は、子供だろうが大人だろうが関係なく、母さん以外の人間との接し方がわからなかったのだ。
 だけど、寂しくはなかった。母さんは底抜けに明るくてパワフルでお喋りで、俺たちはいつも笑っていた。たまに怒ると怖いが、俺が謝ると必ず抱きしめてくれた。
 俺が三歳のときに母さんは父さんと離婚して復職し、俺は保育園に通うようになった。行きたくないと毎日大泣きしていたらしいが、俺を預けられるような知り合いがいなかったため、他に選択肢がなかったのだとのちに聞いた。
 友達を作ることも先生に心を開くこともできず、ただただ母さんの迎えを待ち焦がれていた。教室の窓から外を眺め、正門に人影が現れるたびに飛び上がり、母さんじゃないことに落胆する。それを繰り返すうちに、俺以外の子供がひとりふたりと減っていく。閉園時間が過ぎても母さんは現れず、俺はいつも先生以外に誰もいなくなった教室で夜を迎えていた。
 ──朔、遅くなっちゃってごめんね!
 母さんが走ってくるたびに、遅いよもう、などと文句を言いつつ半べそを掻いて母さんに抱き着くのだ。ごめんね、と言いながら、母さんも俺をぎゅっと抱きしめてくれた。
 ──今日はなに食べたい?
 ──ハンバーグ!
 ──またー? 一昨日もハンバーグだったよ?
 ──だっておいしいもん!
 笑い合いながら、手を繋いで家路についた。
 寂しくて、だけど優しくて、温かい日々。
 そんな毎日がずっと続くと思っていた。
 わけがわからず暗闇に放り出される日が来るなんて、あの頃の俺は想像もできなかった。



「ほんと亜実さんと仲いいよね」
 誰もいなくなった店内でテーブルを拭きながら言うと、あっちゃんは洗い終えた食器を拭きながら「ああ」と気の抜けた返事をした。つい三十分前まできりっとしていた表情も、数秒放っておいたら寝落ちしそうなくらいぼけっとしている。閉店したからってオフになりすぎだ。
 俺たちが店に戻ったあとも亜実さんは帰ろうとせず、そのまま夜ご飯も食べて帰っていった。
「平日の昼間によくひとりで来るからな。俺も暇な時間帯だし、よく話すんだよ」
 女性のひとりランチにこの店はもってこいだろう。十一時から十四時までランチタイムだが、賑わうのは十三時頃までで、以降は静かになる。俺自身、日々の喧騒を忘れられる、ゆったりと時が流れていくようなその時間帯が一番好きだった。
 食器を拭き終えたあっちゃんは、エプロンを外して冷蔵庫から缶ビールを取り出した。グラスに注がず缶のまま口をつける。ごくごくと喉に流し込むと、死んだ魚のようだった目が生き返っていた。
「おまえは? 茉優ちゃんと仲いいの?」
「へっ? なななんで?」
「なんでって、クラスメイトなんだろ?」
「そう、だけど。べつに。あんまり話したことない」
 我ながらそっけない返事だった。まあクラスメイトだから普通に話すけど、くらい言った方がよかったかもしれない。
「へー……そっか」
 へー、のあとの間が怖い。
 俺が口ごもっていると、
「おまえ、クスノキさんって言ってたよな」
 あっちゃんが天井を見上げながら呟いた。
「ああ、うん、そう。楠木茉優」
「あー……なるほど」
 なにに納得したのかわからないが、あっちゃんは無言でビールを呷る。それもそれで怖い。
 するとあっちゃんは俺を見て、今度はにやりと笑った。
「可愛い子だったな」
「そ……そう?」
「モテるだろ」
「さあ。知らない」
「俺があと十歳くらい若かったら狙ってたかも」
「は!? なに言ってんの!?」
 血相を変えた俺に、あっちゃんはいよいよ大笑いした。まんまとしてやられたのだと気づき、体温が急上昇して爆発しそうだ。
 完全に手遅れだとは思うが、これ以上ボロが出る前にさっさと片づけを済ませて、住居スペースになっている二階へと階段を駆け上がった。


 自室のベッドに寝転がって目をつむると、つい数時間前まで目の前にいた茉優の姿がまぶたの裏に浮かんだ。
 緊張しすぎてなにがなんだかわからなかった。変なことを言っていなかっただろうか。ちゃんと会話が成立していただろうか。笑顔をキープしなければと必死だったが、それはそれでへらへらして気持ち悪い奴だと思われなかっただろうか。
 自分でも引くくらい挙動不審になってしまったのは、俺が密かに抱いている茉優への気持ちのせいもある。だけどそれ以上に、茉優に会ったのがあの日以来だったからだ。
 ──可愛い子だったな。
 危うく全力で同意するところだったが、できなかった。茉優の可愛さはあんなもんじゃない。
 茉優を見たとき、思わず息を呑んだ。
 最後に会ってからたったの一か月で、ずいぶんと痩せて、顔色も悪く生気を感じられなかった。俺の記憶に大切に保管している──漫画なら一ページで完結する程度の時間だったが──初めて話した日の弾けるような笑顔とは似ても似つかない。
 否応なしに、頭の中の場面があの日に切り替わる。
 すべての感情が抜け落ちてしまったかのように、完全なる無表情で呆然と立ち尽くす、まるで人形みたいな姿──。
「朔ー、おまえ寝たの?」
 ノックの音とあっちゃんの声にびっくりして飛び起きた。
「起きてる。起きてます」
「なにきょどってんだよ。晩飯できたけど」
「食べる食べる。すぐ行く」
 ベッドから降りてリビングに向かった。


 ──はじめまして。風早くん、だよね。今日から同じクラスだね。よろしくね。
 一年半前の入学式の日、後ろの席だった茉優は俺にそう言った。
 あの楠木さんだ、とひと目見てすぐにわかった。だけど茉優が初めて会ったように話しかけてくるから、俺のことを覚えていないのだろうと察した。だから俺も初対面のふりをして、よろしく、とだけ返した。
 あの日の茉優は、間違いなく俺の記憶にある茉優だった。
 だからこそ、何度でも考える。いつからだったのだろう、と。
 茉優はいつから、あの笑顔を失っていたのだろう。なぜ俺は気づけなかったのだろう。ずっと、茉優を見ていたのに。
 今の茉優の目には、この世界がどう見えているのだろう。
 昔の俺と同じように、真っ黒に映っているのだろうか。
 俺が孤独から脱却できたのは、間違いなくあっちゃんのおかげだった。
 茉優にも、手を差し伸べてくれる〝誰か〟はいるのだろうか。
 ──風早くん……なんで……?
 あの虚ろな目が脳裏に焼きついて離れない。
 包帯の下に眠っている手のひらの傷痕が、じくじくと痛んだ。