亜実ちゃんの家から帰ってきて、二週間が経った。
悪夢を見る頻度は減っていた。おかげでぐっすりとまではいかないものの、以前よりは眠れるようになってきた。食欲も、まだ完全とはいえないけれど戻ってきている。
二の腕の傷も薄くなっていた。夜ひとりで部屋にいると、どうしても激しい衝動に駆られるときがある。だけどなんとか堪えられた。公園でお互いの傷痕を見せ合った日、朔が言ってくれたからだ。
──この傷の何倍も、何十倍も、もしかしたら何百倍も、心が傷ついてるんだよね。
──心の傷は見えないから、目に見える傷くらいちゃんと見せてほしい。
そして、亜実ちゃんが手を添えてくれたからだ。温かい手の感触を思い出すと、まるで亜実ちゃんの手が今でも傷痕を包み込んでくれているような心地がした。
学校にはまだ行けていない。
文化祭も出られなかった。
お母さんとも、まだちゃんと話せていない。
ただでさえ近いとはいえなかったお母さんとの距離が、たったの二か月で信じられないほど空いてしまっていた。今までお母さんとどう接していたのかすらよく思い出せない。十七年間も一緒に暮らしてきたのに、おかしな話だ。
だけど、うまく言葉にできないけれど、なにかが変わったような気がしていた。得体の知れない怪物を見ているようだと思っていた顔つきは──私も願望も混ざっているかもしれないけれど──心配してくれている顔なのだと思えるようになった。もちろんスマホを勝手に見られることもない。もしかすると、亜実ちゃんがお母さんになにか言ってくれたのかもしれない。
目に見える変化は、私の部屋から制服がなくなったことだ。
普段は壁にかけてあったのに、亜実ちゃんの家から帰ってくるとなくなっていた。クローゼットの中にもない。ただずっと着ていないからしまっただけなのか、あるいは私の目に入らないようにしてくれたのか。
訊くことはできなかった。学校へ行くと決めたわけじゃないのに、期待させてしまうかもしれない。下手をすればまた衝突してしまうかもしれない。もう少し時間がほしい。自分の中で整理ができたら、ちゃんとお母さんと話し合いたい。深くなってしまった溝を、少しずつ埋めていきたい。
お母さんは、待っていてくれるだろうか。
ベッドに沈めていた体を起こし、スマホを手に取る。
メッセージの履歴の先頭は亜実ちゃんだ。居候生活を終えてから、亜実ちゃんはよくメッセージを送ってくれるようになった。といっても『部屋掃除した』とか『洗濯機が壊れた』とか『〆切やばい助けて』とか、わりとどうでもいい内容ばかりだ。私がスタンプを返すと、それ以上は返ってこない。
たったそれだけでも、私を気にかけてくれていると思うだけで安心できた。
決して前みたいな日常を取り戻せたわけじゃない。
すべてがほんの少しずつで、まだまだ時間がかかりそうだ。
それでも、止まっていた時間がほんの少しずつ動き出しているような気がした。
ほんの少しずつ、息ができるようになっていた。
お風呂に入るため着替えを持ってドアを開けると、
「いった!」
ゴン、という鈍い音と悲鳴が同時に聞こえた。驚きながら半分しか開かなかったドアから廊下を覗くと、しゃがみ込んでいる恵茉が両手で頭を抱えていた。
「あ、ごめん」
「急に開けないでよ! それか先に声かけてよ!」
「え……? ご、ごめん」
涙目で理不尽な文句を言う恵茉の足下には、ご飯が乗ったトレーがある。あの日からずっと部屋にこもっていた私に、お母さんはこうしてご飯を運んで部屋の前に置いてくれていた。ずっとおかゆや麺類だったのに、なぜか今日はハンバーグだ。
そんなに勢いをつけて開けたつもりはないけれど、恵茉はまだ頭をさすりながら立ち上がった。
「亜実ちゃんから、お姉ちゃんの食欲戻ってきたみたいだって聞いたんだって。それにしても急にハンバーグはやりすぎだと思うけど。しかもでかすぎだし。いくらなんでも張りきりすぎ」
「ほんとだね。それに私、べつにハンバーグが好きってわけでもないのに」
「それも言った。でもなんか、子供の頃ハンバーグ大好きだったからって。いつの話してんだか」
そういえば、幼稚園くらいの頃はハンバーグが大好きだった。
恵茉の言う通りいつの話をしているのだという気持ちと、覚えていてくれたという嬉しさが同時に湧いた。
「あのさ。私のこと気にしなくていいから。お姉ちゃんが……したことも、学校行ってないことも、もしやめたとしても、私にダメージないっていうか」
目を泳がせながら言葉を濁してくれた姿を見て、恵茉の学校でも私のことが噂になっているのだと察した。
自分やお母さんのことで頭がいっぱいだったけれど、恵茉だって巻き添えを食っていたのだ。
「受験生なのに、迷惑かけてごめんね」
「だから、気にしなくていいって言ってるの。学校でなにか言われるとかもないし、言われても余裕で跳ね返せるし、それくらいでメンタルやられないし。ていうかそっこー先生にチクって終わらせるし。あとお母さんの期待とかプレッシャーとか全部私に降ってきても余裕で応えられるし。とにかく、全部余裕なの。伊達に長年優等生やってないから。だから、その、」
あまりにも不器用なフォローに、つい笑ってしまった。
「恵茉ってほんとお母さん似だよね」
「なに急に」
「ううん、なんでもない。ありがとう、恵茉。ご飯、せっかく運んでくれたのに悪いんだけど……今日はリビングで食べようかな」
「え? 私もう食べちゃったよ」
「え?」
「な、なんでもない!」
くるりと体を反転させた恵茉は、なぜか慌てて自室に走り込んでいった。
リビングにお母さんはいなかった。電気がついているから、寝たわけではなくお風呂にでも入っているのだろう。久しぶりにダイニングの椅子に座って、少し冷めてしまったハンバーグをひと口食べる。大きすぎるうえチーズがたっぷり入ったハンバーグは、今の私の胃袋には重すぎる。だけど、不器用なお母さんの愛情が詰まっていた。
なんとか半分ほど食べたとき、背後から物音がした。
振り向くと、お母さんは目をまんまるに見開いていた。
「ちょっと大きすぎだよ」
緊張をごまかすため冗談めかして言うと、お母さんはぎこちなく頬を上げた。
「ハンバーグ作るの久しぶりだったから、つい材料買いすぎちゃって」
「でも、おいしかった。すごく。ありがとう」
「よかった。亜実の料理、味濃いでしょ。高校生くらいのときによく作ってくれたけど、全部しょっぱいか辛かった」
そんなことはなかったけれど、心の中で亜実ちゃんに謝りながら「そうだね」と返した。お母さんの中では、私も亜実ちゃんもまだ子供のままなのかもしれない。
「食べきれなかったら残してね」
「うん、ごめん、ちょっと食べきれないかも。でも残りは明日食べるから、冷蔵庫に入れといていい?」
「無理して食べなくていいんだよ。恵茉も残してたし」
「食べたいの。……お母さんが作ってくれたご飯を、ちゃんと、全部食べたいの」
「……うん。わかった」
目を逸らして呟いたお母さんの声は震えていた。
速足でキッチンから保存容器を持ってきて、私が残したハンバーグを手際よく入れていく。その姿を眺めながら、亜実ちゃんならお皿のまま冷蔵庫に入れるんだろうなあ、と思った。
──休学扱いになってるはずだよ。
亜実ちゃんから聞いた話を、私はお母さんに確認していない。
怖いからだ。
──無理に復学させたいわけじゃなくて〝学校に戻る〟っていう選択肢を残したかったんだよ。
たとえそう思ってくれているのだとしても、本心では復学させたいだろう。娘が高校を中退するなんて嫌に決まっている。だけど私は、まだ復学する決意ができていない。かといって中退すると決めたわけでもない。自分でもどうしたらいいのかわからなくて、なかなか答えが出なかった。あやふやな状態で話して、今度こそ幻滅されるのが怖かった。
だけど、怖いのは私だけじゃなかったのかもしれない。
──茉優がお姉ちゃんとの接し方がわからないのと同じくらい、お姉ちゃんも茉優との接し方がわからないんだよ。
お母さんも悩んでいた。
──お姉ちゃんなりに茉優のことを理解したかったの。
お母さんは、私を見捨てたわけじゃなかった。
──知りたいなら茉優に直接訊けばいいんだけどね。
私だって、お母さんになにも言えていない。
「ねえ、お母さん。教えてほしいの」
「ん?」
「心と体と、どっちを傷つける方が悪いの?」
弾かれたように振り向いたお母さんは、戸惑いをあらわにした。
私が訊くべき相手は、亜実ちゃんではなくお母さんだった。だけど家に帰ってきてからも訊けなかった。親として正論を口にするだろうと思っていたからだ。
そう、答えはわかっていた。だけどお母さんに真正面から正論をぶつけられて、素直に受け入れる自信がなかった。また反発してしまいそうだった。
思えば私は、ずっと心のどこかで言い訳をしていたのだ。
確かに私がしたことは許されないかもしれない。だけど私はいじめられていたのだと。どちらを取っても最悪な選択肢しか浮かばなくなってしまうくらい、心を傷つけられたのだと。いじめを楽しんでいた怜南たちより、ただほんの一瞬カッターを向けただけの私の方が悪いのかと。たったそれだけで、私がされてきたことは、怜南たちの罪は、帳消しになってしまうのかと。
だけど、今なら。
お母さんの気持ちを知ることができた今なら、不器用な愛情を確かに感じることができた今なら、お母さんの言葉を真正面から受け止められる。自分の非を、過ちを、真摯に受け止められる。いや、そうしなければいけない。
お母さんは、真っ直ぐに私を見つめて口を開いた。
「どっちも、悪い」
お母さんの目を、じっと見つめ返した。
「心を傷つけるのは、もちろんいけないことだよ。でも、だからって人にカッターを向けていい理由にはならないの」
「……うん」
「どんな理由があろうと、人に刃物を向けるなんて、絶対にしてはいけないことなの。もう二度とそんなことしないで」
「……はい」
お母さんの顔がふいに緩んだ。笑顔でも怒っているわけでも悲しそうでもない、あるいはすべてが混ざったような、初めて見た表情だった。
お母さんは亜実ちゃんからどこまで聞いているのだろう。
自分の口からすべて話すべきか少し悩んで、やめた。このタイミングで言ったらこの期に及んで言い訳しているみたいだし、娘がいじめられていたことも自殺しようとしたことも、絶対に聞きたくないだろう。これ以上お母さんを傷つけたくない。
代わりに、たった今決めたことを口にする。
「私の制服って……どこにあるの?」
今言える限界の言葉を絞り出した。
「お母さんの寝室のクローゼットだけど……学校、行くの?」
行く、とはっきり言えなくて、小さく頷いた。
お母さんの手が動き、私に向けてゆっくりと伸びてくる。
ためらうように、それでも私の手をぎゅっと握った。
驚いてお母さんを見れば、目に涙を浮かべていた。
「無理しなくて、いいんだよ」
「……え?」
「もう、頑張らなくていいの」
緊張が一気にほぐれた瞬間、急速に嗚咽が込み上げた。
ああ、そうか。そうだったんだ。
私はずっと、お母さんにそう言ってほしかったんだ。
「お母さん、あのね」
「ん?」
「……ごめんなさい」
──茉優のことは諦められなかったの。茉優を愛してるからだよ。
どうせ聞いてくれないと諦めていた。
だけど同じくらい、どうしても諦められなかった。
お母さんと向かい合って、お互いの目を見て話したかった。
お母さんのことが、大好きだった。
「迷惑ばっかりかけてごめんなさい。いい子になれなくてごめんなさい。普通になれなくてごめんなさい」
「……茉優?」
「お母さんが望む娘になれなくて……ごめんなさい」
私の中で、私が叫んでいた。
幼い私が、小学生の私が、中学生の私が、今の私が、叫んでいた。
「私、頑張るから。だから、お願い」
お母さん、気づいて。話を聞いて。私を見て。
何度も何度も、声がかれても、叫び続けていた。
「私のこと、嫌いにならないで」
叫びの中に、お母さんの震えている声が紛れた。
「嫌いになんてなるわけないでしょう」
しゃくり上げる私の頬を、両手で包む。
「そんなこと言わせてごめんね……」
頬から手が離れ、今度は体ごとぬくもりに包み込まれた。
「気づいてあげられなくて、ごめんね……」
お母さんに抱きしめられた記憶はほとんどないのに、懐かしさを感じた。
確かにお母さんのぬくもりだと思った。
溶けきった氷が、涙と一緒に流れていった。
*
翌日の夜、私は自室でスマホと睨めっこしていた。
学校へ行くことを亜実ちゃんに伝えると、しばらく既読スルーされたのちに『がんばれ』というスタンプが返ってきた。きっとなんて返すべきか悩んでくれたのだろう。
『がんばる』とスタンプを返して、次にトーク一覧の二番目にあるメッセージを開いた。
右上の受話器マークをタップする。
「──は、はい!? もしもし!? 茉優!?」
プル、くらいで電話に出た朔はなぜかものすごく慌てていた。私まで驚いてしまう。
「急にごめんね。今大丈夫だった?」
「全然大丈夫! まじで! いつでも! 絶対大丈夫!」
「そ、そっか。ならよかった」
「ど、どうしたの? なんかあった?」
なぜこんなに慌てふためいているのか。もしかしたら忙しかったのかもしれない。
また改めようかと悩んだけれど、朔のことだから、たとえ忙しくても忙しくないと嘘をついてくれるだろう。
それに、勢いに任せなければ言えそうにない。今を逃せば、決意が揺らいでしまいそうだった。だから今は、素直に朔の優しさに甘えることにした。
「あのね、私……明日、学校に行こうと思って」
前みたいに、負けたくないと意地になっているわけじゃない。今の学校に通い続けると決めたわけでもなんでもない。全部がわからないままだ。
ただ一歩踏み出さなければ、ずっと答えが出ないと思った。
なにより、私にはやらなければいけないことがある。
会わなければいけない人がいる。
「……大丈夫?」
「どうなるか、わかんないけど。とりあえず、行くだけ行ってみようと思って」
大丈夫だよ、と言いかけて、やめた。
だって私は、全然大丈夫じゃないのだから。
「実は……余計なことまで思い出させたくなくて言わなかったんだけど。秋休みが明けたくらいから、担任がクラス全員に話聞いて回ってるんだよ。その……いじめがあったんじゃないか、って。ホームルームでも、何回もいじめについて話してる」
「え……なにそれ。なんで……?」
「たぶんだけど、クラスの誰かが担任に言ったんだと思う」
まさかそんなことになっていると思わなかった。
でも、どうしてだろう。あの日からもう二か月近く経っている。言い方は悪いけれど、どうして今さら急に変化が起きたんだろう。
しばらく考えて、はっとした。
「もしかして、朔の顔の怪我と関係ある? たしか秋休みの最終日だったよね?」
「へっ?」
電話越しでも朔があわあわしていることがわかる。
やっぱりそうだったんだ。
「ありがとう、朔」
「いや、俺はなにも……担任に言ったのも俺じゃないし……」
「でも、朔がきっかけを作ってくれたんだよね」
朔は答えなかったけれど、もう一度「ありがとう」を伝えた。
感謝してもしきれないくらい、何度も私を救ってくれる朔に、精いっぱいの気持ちを込めて。
「あのさ、よかったら一緒に学校行かない?」
「ううん、ひとりで行けるよ」
「え、いや、でも……」
「私と一緒にいたら、きっと朔にも嫌な思いさせちゃうと思うから。もう巻き込みたくないの」
「いや、でも……違う、行こう! 俺が茉優と一緒に行きたいんだ!」
なにが違うのかはわからないけれど、正直ほっとしていた。
申し訳ないという気持ちはある。だけどそれ以上に、心強い。
「うん、わかった。ありがとう。朔はやっぱり優しいね」
「え、いや、優しいとかじゃなくて……」
「え?」
「あ、いや、うん。なんでもない……」
なにやらもごもごしている朔と待ち合わせの時間を決めて、電話を切った。
ベッドに寝転がり、天井を見上げる。
心が落ち着いている今思い返しても、あの日聞いた怜南の主張に納得できるかと訊かれたら、正直できなかった。何度考えても、そこに怜南がいないという気持ちは変わらない。
だけど、もう一度だけ怜南と話したかった。
──結婚してるのに子供のこと考えないの?
自分は普通じゃないと言われて傷ついたのに、私は無自覚に価値観を押しつけていた。
怜南たちに対してもそういうことがあったのかもしれない。恋をするのが当たり前だという価値観を押しつけられている気になっていたけれど、私も価値観を押しつけてしまったり、無神経な発言をしてしまっていたのかもしれない。実際に、怜南はあの日、無自覚なところが質が悪いと言っていた。
どちらにしろ、ちゃんと話さなければずっとわからないのだ。
いや、話す前にちゃんと言わなければいけない。
──どんな理由があろうと、人に刃物を向けるなんて、絶対にしてはいけないことなの。
どっちが悪いかじゃない。
私が過ちを犯したことは紛れもない事実なのだ。
私が一番謝らなければいけないのは、怜南だ。
朔と駅で待ち合わせをする予定だったのに、結局ドタキャンしてしまった。私がやっと家を出られたのはお昼前だったのだ。
昨日は一睡もできなかったし、どうしてもベッドから起き上がれなかった。言い訳ができないくらい、強がることなんてできないくらい、恐怖に支配されていた。
なかなか部屋から出てこない私を心配して、お母さんが様子を見にきてくれた。一昨日と同じように、無理しなくていいと言ってくれた。私は、どうしても今日行かなきゃいけないと答えた。
道中、何度も何度も引き返したくなった。
学校が近づくにつれて、動悸が激しくなっていった。
そのたびに、朔がくれた言葉を、亜実ちゃんの笑顔を、お母さんのぬくもりを思い出して、まるで枷でもついているみたいに重い足を必死に前へ動かした。
やっとの思いで正門にたどり着いたとき、
「朔?」
昇降口から走ってきたのは朔だった。
目の前まで来た朔は、膝に手をついて肩を上下させている。
「なんで私が来たことわかったの? 連絡してないのに」
「茉優は絶対に来る気がしたから、ずっと窓の外見てた。教室で待ってようかと思ったんだけど、なんか落ち着かなくて。あと……どうしても、茉優と一緒に教室に入りたいなって思ったから」
顔を上げた朔の額やこめかみには汗が滲んでいた。教室からずっと走ってきてくれたのだろう。
「ありがとう、朔」
「うん。……行こう、茉優」
ぎこちなく微笑み合って、足を踏み出した。
無言のまま昇降口を抜け、廊下を歩き、階段を上る。教室を前にした瞬間、さっきとは比べものにならないほど、まるで警鐘みたいに動悸が激しくなっていった。
震える手を、教室のドアに添える。
ただ歩いただけなのに、尋常じゃないほど息が上がっていた。
「茉優、大丈夫だから。ゆっくり息吐いて」
朔は私が過呼吸を起こしてしまった日のように、優しい声音で言った。
頷いて、ゆっくり、深く、息を吐く。
朔と顔を見合わせて、固唾を呑んで、ドアを開けた。
まず視界に映ったのは、まるで死人でも見たようなクラスメイトたちの顔。その中にはもちろん怜南たちの視線も混じっている。ややあって、喧騒に包まれていた昼休みの教室が静まり返る。私が幽霊になったあの日みたいだった。
ぎゅっと握りしめた手のひらは、汗でぐっしょりと濡れていた。
前だけを見据えて、半歩ずつ足を交互に出していく。
「もうとっくにやめたと思ってた。つーかどの面下げて学校来てんだよ」
「普通来れなくね? まじで神経疑うんだけど」
ミカちゃんとナナミちゃんが、口元に冷笑を浮かべた。ふたりの間にいる怜南は、どこかばつが悪そうな顔をしていた。
三人の視線を浴びた私は、反射的に体が強張った。それを察したかのように、朔が私の背中に手を添えた。大丈夫だよ、とまた言ってくれた気がした。
怯んでいる場合じゃない。
私は、やらなければいけないことがある。
「怜南」
足を動かすことはできなかった。一歩でも動いたらバランスを崩して倒れてしまいそうなほど震えていた。だから、目だけを怜南に向けた。
「カッターを向けたりして……ごめん」
怜南はばつが悪そうな顔をしたまま、横目で私を見ていた。
「本当に……ごめんなさい」
怜南に向けて、深く頭を下げる。だけど怜南からの返事はなく、私の頭上に降ってきたのはミカちゃんの乾いた笑いだった。
「うん、てか、あのさ。謝って済む問題じゃなくない? 殺人未遂だよ? まじでやばいからね。うちらのこと散々馬鹿にしてたくせに、ちょっとこっちが怒ったくらいで殺そうとするとかありえないから。頭おかしいって」
馬鹿にしていた、の部分が引っかかって頭を上げた。ミカちゃんとナナミちゃんは眉根を寄せて私を睨みつけている。
「馬鹿にしてたって……どういうこと?」
「とぼけんなよ。うちらが彼氏のことで悩んでるとき、くだらないみたいな顔して見てたじゃん」
「適当に相槌打つだけで、自分はそんなの興味ありませんって顔してさあ。馬鹿にされてること、うちらが気づいてなかったとでも思ってんの?」
予想だにしていなかった言葉に、唖然とすることしかできない。
まさかそんな風に受け取られていると思わなかった。
「馬鹿にしてなんかない。ただ……私は彼氏いないし、みんなの気持ちがわからなくて、話に入れなかっただけだよ」
「は? してたじゃん。あたしが彼氏と別れて落ち込んでたときだって、インスタ見ない方がいいとかミカちゃんならまたすぐに彼氏できるよーとかへらへらしながら言ってさ。あたしがチャラいって言いたかったんでしょ?」
「誤解させる言い方しちゃったならごめん。だけど私は、ミカちゃんに元気になってほしくて……」
「そういうとこも腹立つんだよ! なにいい子ぶってんの? 三宅みたいな陰キャに声かけたり、うちらがちょっと愚痴っただけで悪口はやめなよーとか偉そうに言ってきたりさあ! 善人ぶってんじゃねえよ!」
「おまえらまだそんなこと言ってんのかよ!?」
朔が声を張り上げた。
「茉優はおまえらみたいに外見とかノリとかががちょっと違うだけで分類したりしねえんだよ!」
「あんたこないだからなんなの!? いちいち喧嘩売ってくんじゃねえよ!」
「まさかあんたらつき合ってんの? 自分にあんな大怪我させた奴とつき合える? 普通に引くんだけど」
こないだ、と聞いて、顔の怪我はやはり私が原因だったのだと確信した。
私がいないところでも、朔は私を庇ってくれていたのだ。
「つーか茉優さ、言い訳すんなよ! 自覚ないわけないよね? あんただってうちらの顔切れてたり変な顔してる写真ばっかインスタに載せたりしてたじゃん。散々いい子ぶっといて裏で陰湿なことするとかまじで人間性疑うんだけど」
インスタ、という単語が引っかかり、頭の片隅にあった記憶が甦った。
──昨日のインスタってわざと?
質問の意図を知った瞬間、ふつふつと怒りが湧いた。
「そんな……ことで?」
口を衝いて出た台詞は、この状況で最悪だった。
それでも訂正はしなかった。
いよいよ顔を真っ赤に染め上げたふたりが、目を吊り上げて立ち上がり、私との距離を詰めた。
「はあ!? そんなことってなんだよ! そういう態度がむかつくっつってんだよ! なんでわかんないの!?」
「わかんないよ! 急にハブかれて無視されて、わかるわけない!」
──普通、友達が怒ってたら理由訊くよね? なんでなにもしないの?
──普通に友達と彼氏は違うじゃん。
──普通それくらい言われなくてもわかるでしょ!?
知るかそんなの。
〝普通〟ってなに?
理解も納得もできない言動に、自分の心を殺してでも友達を見捨ててでも黙って賛同するのが正解だというのか。むかついた相手を無視し続けることが、集団で嫌がらせを繰り返すことが普通だというのか。
「私も嫌な思いさせちゃったのかもしれない。傷つけちゃったのかもしれない。だけど……だったら最初からそう言えばよかったんだよ! 私にむかついたなら、そのときに言えばよかった! そしたら謝ったし、直す努力だってした! それでもだめなら離れた! それで終わりでよかったじゃん!」
私に非がなかったわけじゃない。たとえ無自覚だったとしても、すべてが無効になるわけじゃない。だったら、もう一度謝るべきかもしれない。そうすればほんの少しは状況が改善されるのかもしれない。
わかっているのに、できなかった。そうしたくなかった。
「私は、あそこまでされるようなこと……死ねとまで言われるようなことしてない!」
教室は静まり返っていた。
正面に立っているミカちゃんとナナミちゃんは、目を見開いて、さっきの私のように唖然としている。
静寂を破ったのは、予鈴と同時に教室に戻ってきた宗像くんの、ちょっと場違いな声だった。
「え、なにこの空気。茉優いるし。なんか知んねえけどやばくね?」
誰ひとり返事をせず、宗像くんはあっけらかんとしながら教室を見渡す。
「てかなんで怜南泣いてんの?」
全員の視線が怜南に向く。
ずっと俯いたままの怜南の顔は見えない。だけど、小刻みに肩が震えている。洟をすする音がかすかに聞こえる。顔を覆っている髪の隙間から、雫が落ちるのが見えた。
ミカちゃんとナナミちゃんが怜南に寄り添い、肩を抱いた。
「そりゃ泣きたくもなるって。なんでうちらが悪者みたいになってんの? 今聞いてたよね? 喧嘩売ってきたのは茉優なの。うちらはずっと馬鹿にされてた挙げ句、怜南なんて殺されかけたんだよ。百パーセント被害者だよね?」
クラスメイトからの返事はない。
恐る恐る首を巡らせれば、クラスメイトの冷たい視線が私たち──いや、私の勘違いでなければ彼女たちに向いていた。今にも破裂しそうなくらい空気が張り詰めているのを肌で感じた。
ミカちゃんとナナミちゃんが、教室を見渡して舌打ちをした。
「まじで意味わかんないんだけど。つーかさあ、担任に変なこと吹き込んだの誰? 担任しつこいんだけど。さっさと勘違いでしたーって撤回してくれなきゃまじでキレそう。いい加減名乗り出ろって。陰でこそこそ動いてんじゃねえよ。卑怯なんだよ」
「おまえらのせいでうちらが疑われてんだよ。ふざけんなよ! 被害者はこっちだっつってんのに! なにも知らないくせにでしゃばってんじゃねえよ!」
──担任がクラス全員に話聞いて回ってるんだよ。……いじめがあったんじゃないか、って。ホームルームでも、何回もいじめについて話してる。
──クラスの誰かが担任に言ったんだと思う。
朔の話を思い出し、もう一度首を巡らせた。
ただ私たちをじっと見ている人、目が合った途端に逸らす人、俯いている人。
私に微笑みかけてくれる人も、声を発してくれる人もいない。
だけどこの中に、なにかを変えようとしてくれた人が、確かにいるんだ。
「私だよ」
その声はか細く、そしてひどく震えていた。
みんな目を配って声の主を探す。
誰かが見つけるより先に、さっきよりも強い声が響いた。
「先生に言ったのは、私だよ」
教室の隅にみんなの視線が集中する。
三宅さんは涙を流しながら、真っ直ぐに私を見ていた。
いつも俯いている彼女とこうして目が合うのは初めてだった。
「私、ずっと気づいてた。稲田さんたちが楠木さんのことハブいてるのも、楠木さんの机や鞄に悪戯してるのも。なにか盗んでるところも……一回だけ、見かけちゃった。でも、私、怖くて。自分が標的になるのが、どうしても、怖くて……なにもできなかった」
教室にいる全員が、三宅さんを見ていた。
「風早くんの言ってた通りだよ。……私も、いじめの加害者だった。みんなだってそうでしょ? 楠木さんがいじめられてたこと、みんなだって気づいてたでしょ? 怖いから、関わりたくないから、面倒だから傍観してただけでしょ?」
次第に、誰かのすすり泣く声が聞こえてきた。
三宅さんの近くに立っている女の子がふたり、涙を流していた。
彼女たちを、必死にクラスメイトに訴えかける三宅さんを、そして泣き続ける怜南を見て、私も涙がこぼれた。
「でも、もう嫌だよこんなの。自分のクラスでいじめがあるなんて嫌だ。見て見ぬふりばっかりしてる自分も、もう嫌だ。やめようよこんなの」
全員が黙りこくっている状況は変わらないのに、張り詰めていた空気が緩んでいくのを感じた。
三宅さんは涙を拭い、再び私に体を向けた。
「楠木さんは覚えてないかもしれないけど、一年生のとき、一回だけ話しかけてくれたことあったよね。なんの漫画読んでるの、って。あのとき、びっくりしちゃって、そっけない態度取っちゃったけど……私、本当は嬉しかった。すごく、嬉しかった」
答えられずにいる私に、三宅さんは深々と頭を下げた。
「本当に……ごめんなさい」
止まらない涙の理由は、自分でもよくわからなかった。
ミカちゃんとナナミちゃんの言葉に傷ついたのか、あるいは怒っているのか、みんな気づいていたのに傍観されていたことがショックだったのか、三宅さんの気持ちが嬉しかったのか。
なにもわからないまま、涙を流し続けた。
「おまえらなに騒いで……楠木!? おまえ学校来るなら連絡──な、なんだこの空気」
静寂を破ったのは、今度は担任だった。さっきの宗像くんみたいに、ぽかんとしながら教室を見渡す。
ふいに時計を見れば、昼休みは残り一分だった。
今日はもう、教室にいられる自信がない。すべてを吐き出したせいで、なんの気力も残っていなかった。
お母さんに連絡して迎えにきてもらおうか悩んでいると、
「行こう、茉優」
朔が私に向けて手を伸ばした。
手のひらには、未だくっきりと傷痕が残っていた。
私を救ってくれたその手に、私がつけた傷が。
手を重ねる。朔はにっと微笑んで、地面を蹴った。
手を繋いだまま、無我夢中で走り続けた。
おそらく目的地はない。ただただ走った。
学校と私の家の中間くらいにある川沿いで足を止めた朔が、両膝に手をついて肩で息をする。もちろん私もだ。
「今どんな気持ち?」
朔が言った。
様々な感情が渦巻いたままだけれど、一番強く浮かんでいる気持ちを口にする。
「……怖い。すごく」
「はは、一緒だ。俺も怖い」
「でも、大丈夫。私は、ひとりじゃないから」
お母さんは私を見捨てたわけじゃなかった。
亜実ちゃんは笑って私を受け入れてくれた。
敦志さんは怜南たちが店に来たとき私を匿ってくれた。
朔は私を信じてそばにいてくれた。
担任は私のために動いてくれた。
三宅さんは、一度しか話したことがない私のために立ち上がってくれた。
この世界は、私が思っていたよりずっと優しかった。
「今日はこのままサボっちゃおうか」
「なにするの?」
「んー。ただ話をする」
「話って?」
「今までのこととか、今の気持ちとか、これからのこととか、思いつく限り」
これから──か。
まだ震えている足を動かして、河原に座った。
朔も隣に座り、川を見つめる。
「学校は……正直、まだわからない」
「うん」
「怜南とは結局話せなかったし、ミカちゃんとナナミちゃんにはあんな風に言い返したりして、結局喧嘩になっちゃったし……せっかく謝ったのに、全部台なしにしちゃった。明日からのこと考えたらすごく怖いから、正直、あんまり考えたくなくて。……だけど、明日も行ってみる」
また夜は眠れないかもしれない。朝になっても、またベッドから起き上がれないかもしれない。
だけど、どれだけ時間がかかっても、また自分の足で歩きたい。
今日踏み出した小さな小さな一歩を、無駄にしたくない。
「無理してない?」
「すんっごいしてる」
冗談めかして笑うと、朔は眉を下げた。
「だけど、もうちょっとだけ頑張りたいなっていう気持ちも嘘じゃないの」
「そっか」
「三宅さんにも、ありがとうって言いそびれちゃったし」
「うん」
「それに、朔がいるし」
「へっ?」
なぜか朔の顔が真っ赤に染まる。
「ああ、いや、うん、俺は絶対に味方だから。安心して、うん」
「ありがとう。どうしても無理だったら……逃げてもいいんだよね」
朔は真っ赤な顔のまま、柔らかく微笑んだ。
その笑顔は、やっぱり敦志さんとそっくりだった。
「あ、そういえば」
余裕がなくて忘れていたけれど、朔に会ったら言おうと思っていたことを思い出した。
「あのね、なんかで見たんだけど、一緒にいると似てくるっていうでしょ? それってちゃんと理由があるんだって」
「え? なに?」
「一緒にいると、細かい仕草だったり雰囲気だったり、あと笑い方とか表情の作り方とかが似てくるの。朔と敦志さんはそれだけ一緒に過ごして、一緒に笑ってきたんだよ。そんなの、間違いなく家族だよ」
きょとんとしていた朔は、おかしそうに、そして嬉しそうに笑った。
「茉優は、やっぱり俺のヒーローだよ」
そんなことないのに。朔に救われたのは私の方だ。
だけど、朔の気持ちが素直に嬉しかった。
「あと、メッセージの返事してもいい?」
連絡先を交換した日に朔が送ってくれていたメッセージへの返事が未だにできていなかった。
ふぇ、と不思議な声を漏らした朔の顔がさらに、噴火でもするんじゃないかと心配になってしまうほど赤くなる。
『いつかまた、茉優が思いっきり笑った顔が見たいです』
朔から来ていたメッセージは、その一行だけだ。恥ずかしがるような内容ではないのに。
「正直ね、まだ全然、気持ちが整理できてなくて。笑い方が思い出せないっていうか、笑ってるつもりでも、自分の顔が引きつってるの、なんとなくわかるんだ。だから、まだまだうまく笑えないかもしれないけど。でもね、私──」
朔が言っていた、小学生の頃みたいな笑顔を取り戻すにはまだまだ時間がかかるかもしれない。
けれど、
「朔がいてくれて、よかった」
今できる精いっぱいの笑顔を朔に向けた。



