◇◇◇
茉優は泣き疲れて眠った。頬に残っている涙の痕を指先で拭う。
──辛かったね。頑張ったね。
なんて陳腐な台詞だ。仮にも小説家が聞いて呆れる。
同時に、わたしは大人としても失格なのだろうな、と思う。
友達に明確な殺意を抱いてカッターを向けたという茉優に、言うべき台詞はわかっていた。大人として、仮にも保護者代わりの身として、言わなければいけなかった。
人に刃物を向けるなんて、殺そうとするなんて、絶対にしてはいけない。もう二度とそんなことしないで、と。
わかっていたのに、ちゃんと言ってあげられなかった。
計り知れないほどの傷をひとりで抱え続け、この小さな体ですべてを背負い込み、まるでこの世の終わりかのように泣き叫ぶ少女に、なぜそんなことが言えるというのだろう。
──心と体と、どっちを傷つける方が悪いの?
その問いには、もっと答えられなかった。
思ってしまったのだ。
そうすることで茉優の心がほんの少しでも楽になるのなら、茉優が生きていてくれるのなら、ちょっと体を傷つけるくらいよかったのではないか、と。茉優の心が壊れてしまうくらいなら、そっちの方がましだ、と。
大人としてどころか、人として間違っている。絶対に口にしてはいけない台詞だ。
だけど、紛れもないわたしの本心だった。
茉優がいなくなってしまったら、わたしはどれほど嘆き後悔するだろう。どれほどの涙を流し、どれほど生きる気力を失うだろう。
わたしにとって茉優は、言葉に表すことができないほど大切で、愛おしくて、かけがえのない存在だ。
どうか、この想いが茉優に伝わってくれたらいい。
あなたを心から愛している人間は、必ずいるのだと。
茉優が家に帰ると言ったのは翌朝だった。
わたしや夫に気を遣わなくていいと言ったが、茉優は首を横に振り続けた。
姉に連絡すると、夕方に迎えに来ることになった。〈喫茶かぜはや〉には行かず、家でのんびり過ごす。茉優がそうしたいと言ったからだ。
わたしも同じ気持ちだったが、朔に会わなくていいの?と訊いてみたら、へ? なんで?と言われてしまった。朔の気持ちなどわたしは秒で察したが、どうやら茉優はまるで気づいていないらしい。
恋ではなくとも、茉優にとっても朔は特別な存在になりつつあるのではないだろうか。朔と話すようになってから茉優の表情が少しずつ柔らかくなり、本来の明るさを取り戻してきているのは明らかだ。とはいえ、朔にとっては長期戦になるだろう。気の毒に思いながら、敦志に経過報告をしてもらおうと密かに決める。
簡単に昼食を済ませ、コーヒーを淹れてソファーに座る。ここに来たばかりの頃の茉優はほとんど食べられなかったが、少しずつ食欲を取り戻してきたようだ。
映画でも流そうとリモコンを手にしたとき、茉優が唐突に言った。
「学校、どうしようかな」
驚いて、つい「行くの?」と口走ってしまった。
昨日の様子を見る限り、もう行けないだろうと思っていたのに。
「行くかは……正直まだわからないけど。ずっとこのままってわけにもいかないし、ちゃんと考えなきゃ。でもまあ、もう一か月半くらい行ってないから留年してると思うけど。単位落としちゃった教科あるだろうし」
「それは大丈夫だと思う。休学扱いになってるはずだよ」
「え……なにそれ、なんで?」
「そんなのひとつしかないでしょ」
姉と茉優の担任は、茉優の今後について何度も相談を重ねていた。ふたりの意見は『茉優が学校に戻れるようにしたい』で一致していた。その甲斐あって、茉優は停学が明けた翌週からずっと休学扱いになっている。すでに単位を落としてしまった教科もあるが、担任が無理を通してくれた。
姉からの電話は、茉優の様子を話すだけではなく、経過報告も兼ねていた。
黙って聞いていた茉優は、戸惑いをあらわにした。
「でも……お母さんはもう、私のこと見放したんじゃないの? 私が亜実ちゃんの家に行くって言ったときだって、ほっとした顔してたんだよ。厄介払いしたかったんじゃないの?」
「違うよ。茉優がうちに来るって決まったときに言ってた。今の自分はなにをしても茉優を追い詰めちゃってるって。このままだと茉優のことを壊しちゃいそうで怖い、って」
茉優の反応を見る限り、これも知らなかったのだろう。
ちょっと呆れて、ふう、と息を吐いた。
休学の件もそうだが、姉は大事なことを茉優に言わなさすぎる。
「茉優がお姉ちゃんとの接し方がわからないのと同じくらい、お姉ちゃんも茉優との接し方がわからないんだよ。だから昔からわたしに茉優の話ばっかりしてくるの。茉優は亜実に似てるからって」
「私の愚痴言ってたんじゃなかったの……?」
「違うよ。お姉ちゃんなりに茉優のことを理解したかったの。私は母親なんだから、ちゃんと子供のことを全部わかってあげなきゃいけないんだってよく言ってた。べつにそんなことないと思うし、知りたいなら茉優に直接訊けばいいんだけどね。まあ、不器用な人だから」
黙って俯いた茉優の手を、ぎゅっと握る。
「大人なんて、全然完璧じゃないよ。壁にぶち当たれば悩んで迷って立ち止まって、そのたびに適当な理由で取り繕って、諦めることと逃げることばっかりうまくなっていくの。だけど、お姉ちゃんは諦めなかったんだよ。茉優のことは諦められなかったの。茉優を愛してるからだよ」
それくらい、本当は茉優だってわかっているはずだ。ただ心が追いつかないのだろう。わたしも昔はそうだった。
わたしと母は、どうも折り合いが悪かった。
ひと言でまとめてしまえば、とにかく性格が正反対なのだ。母は姉と同じく真面目一筋で生きてきた人間で、わたしは我が強く奔放だった。衝突したことも一度や二度ではなかった。
母を嫌っていたわけではない。嫌われていると思っていたわけでもない。だからこそわかり合えないことが寂しくて、母の思うような娘になれないことが苦しかった。わたしが高校を中退するときも、母はわたしのことが理解できないと言って泣いていた。
そう、虚勢を張って自ら人間関係を壊したわたしは、結局耐えきれずに中退したのだ。
その後、母と面と向かって衝突することはなくなった。といっても、決していい方向に傾いたわけではない。喧嘩すらしないほど距離が空いただけだ。今思えば〝普通〟からはみ出してしまった我が子を受け入れるのは容易ではなかったのだろう。
母はわたしになにも言わなくなったし、わたしもそれとなく母を避けるようになった。当然家にもいづらくなり、アルバイトをしながらお金を貯めて、高校中退の私を社員として雇ってくれる会社を見つけるとすぐに家を出た。
わたしと母は、お互いを諦めたのだ。
だからこそ、思う。
姉と茉優には、お互いを諦めてほしくない、と。
「大人は完璧じゃないって、さっきも言ったけど。でも、偉そうに聞こえるかもしれないけど、経験っていう武器だけはある。だから、今後のことを一緒に考えたり、選択肢を増やすことくらいはできると思うんだよ」
わたしの言葉は、茉優にどう聞こえているだろう。
説教くさく聞こえていないだろうか。偉そうだと思われていないだろうか。大人のエゴだと思われていないだろうか。茉優の心の傷を突いてはいないだろうか。
少し不安になりながら、わたしは続けた。
「学校だって、無理に復学させたいわけじゃなくて〝学校に戻る〟っていう選択肢を残したかったんだよ。学校じゃなきゃ学べないことってやっぱりあるし、学校を卒業してないとどうしても将来の選択肢が狭まるし……それだけで生きづらさを感じる瞬間があるから。だけど、綺麗事かもしれないけど、自分の心を殺してまでやらなきゃいけないことなんてきっとないってわたしは思う。お姉ちゃんだって同じ気持ちじゃないかな」
それは過去の自分にも向けた台詞だったのかもしれない。
わたし自身、誰かにそう言ってほしかったのだ。
当時のわたしの世界は恐ろしく狭かった。家と学校しかなく、けれどそのどちらにも居場所を見出せず、どうしようもなく苦しかった。
頼れる大人が近くにいなかった。いたのかもしれないが、わたしは誰に頼ればいいのかわからなかった。大人といえば親か教師しかおらず、そのどちらにも胸中を打ち明けられず、ただひたすら、ひとりで抱え込むことしかできなかった。
そんな、夜の海で溺れているみたいにもがき苦しんでいたあの頃のわたしにも、たったひとつだけ光があった。
──亜実ちゃん、亜実ちゃん。
姉の家に遊びにいくたびに、茉優はにこにこ笑って何度もわたしの名前を呼んでくれた。わたしが『茉優大好きだよ』と言えば、『茉優も亜実ちゃん大好き』と目いっぱい笑うのだ。
「わたしは茉優のお母さんでもお姉ちゃんでもないし、わたしにはわたしの生活があるから、ずっとそばにいてあげることはできない。きっと救ってあげることもできないし、心を軽くしてあげられるような言葉も浮かばない。だけど逃げ場くらいにはなれると思うし、なりたいと思ってる」
──環境を変えてみるのもいいんじゃないかと思って。
茉優をどこかに逃がしてあげたかった。当時のわたし自身、とにかく逃げ出したくて、だけど逃げ場がなかったからだ。
辛いとき、大切な存在だからこそ頼れないときがある。親子という一番近い存在だからこそ、どうにもうまく嚙み合わず、わかり合えないときがある。だから、中途半端な位置にいるわたしが逃げ場になってあげられたらいいと思った。
窺うように茉優を見つめる。すると茉優は、ゆっくり顔を上げた。
「ありがとう、亜実ちゃん」
柔らかく微笑んだ茉優に、ほっと胸を撫で下ろした。わたしの想いをうまく伝えられた自信はないが、茉優はしっかりと受け止めてくれたのだろう。
共に過ごした日々の中でわかったことがある。
姉やわたしが思っているより、そして当時のわたしよりもずっと、茉優は強い。
きっと自分の足で立ち上がり、自分で道を切り拓けるだろう。
どれだけ時間がかかっても、きっと。
あと十分ほどで着くと姉から連絡が来たため、マンションのエントランスで待つことにした。
茉優は緊張しているのか落ち着かないようだ。
わたしはわたしで、素直に寂しさを感じていた。
茉優がこの家にいたのはたった一週間だが、かけがえのない日々だった。少しはしゃぎすぎてしまったかもしれない。どれだけ茉優に呆れられても、茉優と過ごす日々が嬉しかったのだ。
もうすぐこの場を去る茉優の横顔を見ながら、ふと思い出す。
幼い頃の茉優を。そして、医師に告げられた日のことを。
「わたしね、子供できないの」
唐突に言ったわたしに、茉優は弾かれたように振り向いた。目をまんまるに見開いて、口をぽかんと開けている。
それほどショッキングなカミングアウトだっただろうか……?
「いや、急にごめん。なんていうか、こういう風に過ごすなんてわたしにとっては奇跡みたいなもんだし、すごい楽しかったから、ありがとうって言いたくて」
「ごめん!」
我に返った茉優は、前のめりに言った。
「ごめん。私ひどいこと言った」
「えっ? なに?」
「結婚してるのに子供のこと考えないなんて変だって」
そういえば、そんなことを言われたような気がしなくもない。
「いいよべつに。気にしてないし」
「でも……ごめんなさい」
しゅんとする茉優を見て、頬が緩んだ。
ちょっと鈍感すぎるところもあるが、自分の非を潔く認める素直さを持っている。
「うん。もういいよ」
マンションの前に一台の車が停まる。
茉優は大きく深呼吸をして、床に置いていた荷物を持って立ち上がった。
わたしも立ち上がり、わたしよりも少しだけ低い、けれど記憶よりずっと大きくなった茉優の頭に手を乗せた。
「子供のこと、旦那さんも知ってるんだよね」
「うん。結婚する前に全部話した」
「そうだったんだ。ほんとに、世界一素敵な旦那様だね」
「でしょ」
視界の端で、車から姉が降りたのが見えた。久しぶりに見る娘の姿を心配そうに窺っている。
姉には申し訳ないが、もう少しだけ茉優と話していたい。
「今思えば、茉優にはわたしが経験できなかったはずの幸せをたくさんもらった。高校のときも、わたしがなんとか耐えられたのは茉優がいたからなんだよ。どんなに辛いことがあっても、茉優の笑顔にたくさん救われてきたの。だからわたしは、なにがあっても絶対に味方だからね」
子供ができない体だと知ったのは二十歳の頃だった。それほど動揺しなかったと思う。
若さゆえにぴんと来なかったのかもしれないが、その後も深く悩むことはなかった。
「私も、たくさんたくさん、亜実ちゃんに救われたよ。ありがとう」
「そっか。役に立てたならよかった」
「辛くなったら……また来てもいい?」
「当たり前でしょ。いつでもおいで」
目に涙を浮かべた茉優は、それをこぼすことなく、強く頷いた。
今になって思う。
悩まずにいられたのは、間違いなく、茉優という存在がいたからだと。
そして、すべてを知ったうえで受け入れてくれた夫も。
「愛してるよ、茉優。これからも、ずっと」
穏やかに微笑んだ茉優に微笑み返し、手を振った。
わかっている。
心の傷が癒えたわけではない。こんな簡単に癒えるはずがない。もしかしたらこの先もずっと記憶の奥底に張りついて、それが時折姿を見せて苦しむことがあるかもしれない。
だけど、どうか。
苦しんだあとは、また笑ってくれたらいい。
「頑張れ、茉優」
去っていく小さな背中を見送りながら、茉優には言えなかった──あえて言わなかった言葉を呟いた。
頑張れ。頑張れ、茉優。
なにがあっても、茉優ならきっと大丈夫だよ。
茉優は、ひとりじゃないから。



