ある日、私は幽霊になった。
朝の教室。いつもとなんら変わりない風景。ただひとつだけいつもと違ったのは、おはよう、と言った私に返ってきたのが静寂だったということだけ。
聞こえていなかったのだろうか。そうだよね、特別大きな声を出したわけでもないし、この騒がしい教室で私の声が掻き消されてしまうのは仕方がない。
なんて思えるはずがなかった。私は悟ってしまったのだ。ほんの三日前まで笑い合っていたはずの──かろうじて、だったけれど──彼女たちに完全に嫌われたのだと。
静寂に続くのは彼女たちの冷ややかな視線。心臓がきゅっと萎み、一瞬、呼吸が止まる。佇むことしかできない私を見て、彼女たちの口元が卑しく歪んだのを私は見逃さなかった。
そんなの見たくなかった。気づきたくなかった。いっそのこと見逃してしまいたかった。
一種の現実逃避だったのかもしれない。私は上げた口角を下げることなく、視線を床に落とすこともなく、教室の中心にある自席へ向かった。
休み時間になれば自然とみんなに囲まれるこの席が好きだった。けれど今は、まるでハイエナの群れに迷い込んでしまった小動物のように、恐怖に身を震わせて縮こまることしかできなかった。
悪口が鼓膜に突き刺さることも、物が飛んでくることもない。
そう、私は幽霊になったのだ。
*
弾かれたように飛び起きた。
どくどくと音を立てている胸に手を当てて、深呼吸を繰り返しながら恐る恐る周囲に目を配る。
視界は暗く、聴覚は静けさを拾うのみだった。今の今まで目に映っていた場所ではない。四角い空間であることは変わりないけれど、教室よりもずっと狭かった。周囲には誰もいないし、もちろん誰の声も聞こえてこない。
そこでやっと、夢だったのだと気づいた。
サイドテーブルに置いてあるデジタル時計のわずかな明かりが、ぼんやりと室内を照らす。六畳ほどの空間にデスクと本棚だけが置かれている、殺風景と言ってもいいくらいシンプルな部屋。
息が整うにつれて落ち着きを取り戻し、ここがどこなのか、そしてなぜここにいるのかを徐々に思い出す。
ここは三日前から居候している、叔母さん──お母さんの妹である亜実ちゃんの家。私の高校は二学期制だから、九月の終わりから十月の始まりにかけて一週間ほどの秋休みがある。その期間だけ泊まらせてもらうことになっていた。
──亜実がね、うちに遊びに来ないかって。どうする?
一週間前お母さんにそう言われたとき、私は迷わず頷いた。
お母さんは、ほっとした顔をしていた。
デジタル時計を確認すると、時刻は三時になるところだった。またこんな時間に目覚めてしまった。しかも、すっかり眠気が吹き飛んでいる。またあの夢を見るかもしれないという恐怖も相まって、二度寝はできそうにない。
Tシャツは汗でびっしょりと濡れていた。布が肌にまとわりつく不快感が、まるで私を再び悪夢に引きずり込もうとしているみたいだった。一刻も早くその感覚から解放されたくて、着替えるため間接照明をつけてキャリーバッグを漁った。
「茉優? 起きてるの?」
控えめな音を立ててドアがゆっくりと開き、亜実ちゃんが顔を覗かせた。
時計と亜実ちゃんの顔を交互に見て、まさか昼の三時かと一瞬混乱する。だけどそれにしては室内が暗すぎるし、間違いなく深夜の三時だ。
「うん、ちょっと、暑くて目が覚めちゃって」
言ってすぐに、嘘っぽかったかなと焦りが湧いた。日中はまだ夏の名残があるものの、十月ともなれば夜はそこそこ冷える。少なくとも寝汗を掻くような気温ではない。
慌てて「亜実ちゃんは?」とつけ足した。
「喉渇いたから水飲みにリビング来たら、部屋の電気ついてたから」
亜実ちゃんはそう言って、ドアを開けっぱなしにしたまま部屋から出ていった。一分と経たずに戻ってくると、両手に水が入ったグラスを持っていた。
ん、と片方を私に差し出す。喉が渇いている自覚はなかったのに、手渡された水を一気に飲み干した。渇きは満たされたけれど、すでに冴えていた頭が余計に覚醒してしまった気がする。
「ありがとう」
「どういたしまして。……ねえ、茉優」
「なに?」
亜実ちゃんは薄く唇を開いた。
だけど言葉を発さず、やがて微笑んだ。
「暑かったらエアコンつけていいからね」
「あ、うん、わかった」
「じゃあ、おやすみ」
どうやら嘘だとばれなかったようだ。
亜実ちゃんは空いたグラスを私の手から抜き取って、部屋から出ていった。
予想通りなかなか寝つけなかったけれど、かろうじて二度寝ができたようだ。次に目が覚めたとき、視界は至ってクリアだった。カーテンの隙間から太陽の光が漏れていて、夜はぼんやりとしか見えなかったデスクも本棚もはっきりと見える。
私に与えられたこの部屋は、リビングに隣接している洋室。普段は亜実ちゃんが仕事部屋として使っているらしい。
起き上がり、居候の身だから礼儀として布団を畳む。キャリーバッグを開けて、悩む間もなく適当に取り出した服に着替えた。お洒落をする必要がないから、お気に入りの服なんて一着たりとも持ってきていない。入っているのはTシャツが数枚とジーンズが数本だけ。
ハンガーにかけていた薄手のパーカーを羽織ってから、引き戸を開けてリビングを覗く。もう九時を過ぎているのに、亜実ちゃんの姿は見当たらなかった。
「亜実ちゃん?」
一応呼んでみても、もちろん返事はない。今日に限ったことではないから、またかと半ば呆れながら洗面所に向かった。
鏡に映った自分の姿を見て、乾いた笑いがこぼれた。
あの日からまだ一か月くらいしか経っていないのに、ずいぶん痩せた。伸ばしっぱなしの髪はまるで艶がなくぼさぼさで、癖のある毛先が肩に当たってあちらこちらに飛び跳ねている。外に出ていないから、夏が終わったばかりだというのに肌も真っ白だし、顔に至ってはもはや青白い。
本当に、幽霊みたいだ。
メイクをすれば多少はましになるだろうけれど、とてもそんな気分になれないし、そもそも道具を持ってきていない。一か月前から部屋の隅に放置したままだ。
鏡から目を逸らし、洗顔と歯みがきを済ませる。目にかぶさっている前髪を指先で軽く左右に払い、髪をヘアゴムでひとつにまとめてリビングに戻った。
大きなL字型のソファーに座ってテレビを観ていると、大きなあくびをしながら亜実ちゃんが起きてきたのは二時間後だった。目は開いていないし足下はふらついているし服はよれよれだし髪は寝癖だらけでメドゥーサみたいだ。
「おはよう~」
「全然早くないけど」
呆れながら言うと、亜実ちゃんは大きな口を開けて「あはは」と豪快に笑った。次いでソファーの空いているスペースにダイブし、二度寝しそうな勢いで気持ちよさそうに目を閉じた。
「え、亜実ちゃん? もしかしてまだ寝る気?」
「起きるよ、起きる。大丈夫。……ちょっと横になるだけ」
「いやそれ絶対寝るじゃん」
「だって眠い~~~」
「もう、だらしないなあ。さっさと顔洗って歯みがいて着替えてきなよ」
亜実ちゃんの両腕を引っ張って起き上がらせると、また大きな口で「あはは」と笑った。姪に叱られてなにがそんなに楽しいのか全然わからない。亜実ちゃんが洗面所で厚化粧(と言ったら怒られそうだから言わないけれど)をしている間に、軽く部屋を片づけることにした。
亜実ちゃんは、叔母といっても私のお母さんと歳が離れていてまだ二十八歳。二年前に結婚し、旦那さんとふたりでこのマンションに住んでいる。職業は小説家。以前は会社勤めをしながらたまに本を出すくらいだったものの、結婚を機に会社を退職し、今は小説一本でやっているようだった。
亜実ちゃんが遊びに来ないかと言った理由は、旦那さんが出張でしばらく帰ってこないからだそうだ。さらに亜実ちゃんの仕事もひと区切りついたばかりで暇らしく、そこに私の秋休みが偶然重なり、こうして居候生活をすることになったのだった。
はっきりと覚えているわけではないものの、幼い頃は亜実ちゃんにかなりなついていたと思う。
私の家はお母さんと亜実ちゃんの実家から自転車で十五分程度の距離だから、亜実ちゃんはしょっちゅう私の家に来ていた。お母さんは二歳下の妹である恵茉につきっきりで、思うように甘えられなかった私は、たくさん遊んでくれる亜実ちゃんにべったりだった。叔母にしてはそれほど年齢差がないこともあり、お姉ちゃんみたいな存在だった。
「あれ、掃除してくれたの? ありがとー茉優」
身支度を終えた亜実ちゃんは、寝起きの姿とはまるで別人になっていた。
目元を強調するメイクも、フェミニンすぎないふんわりとしたワンピースも、S字カールのミディアムヘアもよく似合っている。もともとの童顔も相まって、姪の私から見てもアラサーには見えない。
「だって汚いんだもん。ちょっとくらい片づけたら?」
「旦那がいないときくらい全力で怠けさせてよ」
「怠けすぎだよ、もう」
亜実ちゃんは家事全般が苦手らしく、来たときは部屋が散らかっていたし洗濯物も溜まっていた。料理は嫌いではないらしいけれど、面倒だとか言ってまともに作ったのは一日目だけ。他はだいたいデリバリーで済ませている。
おぼろげだった幼い頃の記憶がたった三日間で鮮明になりつつあるのは、亜実ちゃんがあまりにも変わっていないからだろう。自由でだらしなくて、マイペースすぎてちょっと掴みどころがなくて、だけど甘え上手で、なんとなく憎めない。これじゃお姉ちゃんというより妹みたいだ。
呆れてばかりだけど、おかげで赤の他人みたいだった空白の数年間が嘘のように、今こうして接することができている。亜実ちゃんのペースに乗せられているだけとも言えるけれど。
「もうこんな時間じゃん。茉優、ご飯どうする? お腹空いてるよね?」
「そんなに空いてないから大丈夫だよ」
「だめだよ食べなきゃ。たまには食べに行く? 茉優がいいならだけど」
外食なんてしばらくしていないし、正直あまり気分が乗らない。最近はめっきり人混みが苦手になってしまい、騒がしい空間にいると気分が悪くなるのだ。
だけど私の都合で断るのも気が引けるから、いいよと頷いた。
亜実ちゃんの行きつけらしい喫茶店へ行くことになり、徒歩十分程度だと言うから歩いて向かう。
空は雲ひとつない晴天だ。秋とは思えないほど照りつける太陽が、肌にじりじりと熱を送る。日焼け防止ではなかったにしろ、上着を羽織ってきたのは結果的に正解だった。
この町に対する感想は、車がなければどこにも行けなそうだな、だった。
視界に映るのは川や田んぼくらいのもので、すでに五分ほど歩いているのにコンビニすら見当たらない。聞けば、電車やバスの本数は私の地元の半分くらいしかないらしい。
風景に見どころがなさすぎるせいか、無意識に上を向く。
どれだけ暑くても、一応は秋なのだなと思う。風がずいぶんと爽やかになり、真夏のような息苦しさはない。それが季節のせいなのかは、わからないけれど。
叔母の家といっても、べつに離れた地域というわけじゃない。私の家から車で四十分、快速電車だとたった二駅で十分程度の隣市だ。
本当はもっと遠くへ行ってしまいたかった。
だけど高校生の私にそんな当てがあるはずもなかった。
ふと横目で亜実ちゃんを見れば、楽しそうに鼻歌を口ずさんでいた。
「そういえば、旦那さんっていつ帰ってくるの?」
「さあ。一週間くらいって言ってたけど、どうだろ。延長するかも」
「そうなんだ。忙しいんだね」
「まあね」
──亜実がね、うちに遊びに来ないかって。どうする?
亜実ちゃんはなぜそんなことを言ったのだろう。
今はこんな調子だけれど、亜実ちゃんの家に着く直前までけっこう緊張していたし、たとえ短期間でもうまくやっていけるのかと不安も大きかった。いくら幼い頃にべったりだったといっても、私が小学校高学年のときに亜実ちゃんが仕事で地方に転勤になってからはほとんど疎遠だったのだ。
数年後に戻ってきたけれど、その頃には私も思春期に突入していて、昔みたいに無邪気に話しかけられるほど子供じゃなくなっていた。だからたまに親戚の集まりなどで顔を合わせても、まともに話すらしていなかった。
お母さんに提案されたときは深く考えずに頷いてしまったけれど、いくら暇を持て余していたからといって、長いこと疎遠だった姪を誘ったりするだろうか。
旦那さんの長期不在が寂しくて、ただひとりでいたくなかったのか。
あるいは──あの日のことをお母さんが亜実ちゃんに話したのだろうか。
後者だとしても、私を誘う理由にはならない気がする。むしろ知っているなら敬遠したくなるのが普通だろう。
疑問に思いながらも、訊くことはしなかった。
口にしたくないし、思い出したくもない。
いっそのこと、すべて忘れられたらいいのに。
連れてこられたのは〈喫茶かぜはや〉という喫茶店だった。
その名前に、心臓がどくんと跳ねる。次いで脳裏に浮かんだ光景を払うように頭を振った。
ドアを開けると、カランカランと小気味いい鈴の音に迎えられた。
店内はコーヒーの香りが漂う昔ながらの喫茶店といった感じだ。カウンター席に脚長の椅子が六脚、四人用のテーブル席が八つと、それほど広くない。ところどころに置かれている観葉植物と静かに流れている洋楽のおかげか、落ち着いた雰囲気だ。
時刻は十三時を過ぎている。平日ということもあり、お客さんは二組だけだった。ゆったりとランチを楽しむ仲睦まじい雰囲気の老夫婦と、昼休憩中らしいサラリーマン。
空いていたことにほっとした。
「やっほー敦志」
入ってすぐに、亜実ちゃんがカウンターに立っていた背の高い男の人に声をかけた。振り向いた彼は「いらっしゃい」と柔らかく微笑んで、私に気づくと眉を上げた。
「この子は?」
「姪っ子。茉優っていうの。しばらくうちに泊まることになったから連れてきた」
「はじめまして。ゆっくりしていってね」
敦志さんは、すごく整った顔立ちをしていた。優しそうな二重の大きな目に、筋が通った高い鼻。クラスにいたら女子の熱視線をかっさらっていただろう。亜実ちゃんよりちょっと歳上くらいだろうか。
亜実ちゃんがいつも座っているという、窓側のテーブル席に向かい合う形で座った。
ひとまず私はアイスカフェオレを、亜実ちゃんはアイスコーヒーを注文する。
「お腹空いてないんだっけ?」
「うん……あんまり」
無意識に胃の辺りをさすった。
正確に言えば、お腹は空いている。だけど食べられる気がしない。最後にまともにご飯を食べたのがいつだったかも覚えていない。
「茉優は痩せすぎ。ちゃんとご飯食べな。麺とかリゾットとか、食べやすいのにしたら? 敦志にちょっと少なめに作ってもらお」
「でも、今日のランチはハンバーグって書いてあるけど」
「いいでしょべつに。わたし常連だし」
「い、いいの? じゃあ……パスタにしようかな」
「おっけー」
亜実ちゃんが敦志さんを呼び、ふたり分の注文をする。今日のランチはハンバーグですけど、という敦志さんのささやかなツッコミを無視して「パスタ少なめでよろしく」と強引にねじ伏せた。
若干引きつった笑みで「かしこまりました」と言った敦志さんを気の毒に思うけれど、残してしまう方が申し訳ないから、今回ばかりは亜実ちゃんの強引さに感謝する。
「ねえ敦志、ケーキとラテアートってまだ無理そう?」
「悪い、もうちょいかかると思う」
「そっか。まだ怪我治ってないんだ」
「縫ったくらいだからな」
ふたりの会話を聞きながら、敦志さんの顔に向けていた視線を下ろす。半袖のシャツから伸びている腕から手にかけて、包帯はない。ケーキは敦志さん以外の誰かが作っているのだろうかと思ったけれど、店内を見渡してみても他に従業員はいなかった。
話し終えた敦志さんがカウンターの奥に戻っていく。
亜実ちゃんは、なぜか私を見ながらにこにこしていた。
「ねえ、亜実ちゃんって……」
「ん? なに?」
──どこまで知ってるの?
浮かんだ質問は、喉の奥に引っかかって出てこなかった。
「えっと……敦志さんと友達なの?」
「友達っていうか、しょっちゅう来てるから、自然とね」
ちょっとよくわからないけれど、社交的な亜実ちゃんらしい。
騒がしい亜実ちゃんにはああいう落ち着いた雰囲気の人が合うのかもしれない。旦那さんも確かそういうタイプだったし。
「そっか」
わざわざ確認するまでもないか。
再会してからの亜実ちゃんは至って普通だし、やっぱり私を誘ったのは、単に一週間もひとりで過ごすのが寂しかっただけなのかもしれない。
だって、知っているなら多少は言動に現れるはずだ。
腫れ物に触るように接したり、あるいは──まるで得体の知れない怪物でも見ているかのように、怯えた目をしたり。
私の、お母さんみたいに。
運ばれてきたパスタを食べてみると、めちゃめちゃおいしかった。サラダもスープも絶品だ。半分くらいしか食べられなかったけれど、久しぶりに満腹感を得ることができた。
亜実ちゃんは自分が注文したハンバーグセットも私が残したパスタもぺろりと平らげて、敦志さんがサービスしてくれたアイスコーヒーのおかわりをちびちび飲みながらずっと喋っている。私はただ相槌を打っているだけなのに、ずいぶんと楽しそうだ。
亜実ちゃんって悩みとかあるんだろうか。そういえば、人生楽しんだもん勝ちだよ、とよく言っていたし、亜実ちゃんの記憶をたぐり寄せても豪快に笑っている顔しか浮かばない。
悩んだり迷ったりしない人なんてきっといない。
だけど、うじうじしたり心を閉ざしたりはしないのだろう。今の私みたいに。
カランカランと鈴の音が鳴って、はっと我に返る。
「おかえり。早かったな」
「ただいま。みんな遊んでるだけで文化祭の準備どころじゃ──え?」
思わず上半身を翻して出入口を見たのは、聞き覚えのある声だったからだ。
彼の声が止んだのと目が合ったのは同時だった。
店の看板を見たときの五倍くらい大きく心臓が跳ねた。
「楠木さん?」
いつも平静を保っている彼の目が見開かれる。
ただし、私も同じ表情をしているだろう。
「風早くん……」
当惑しながらも、真っ先に彼の右手を見た。
手首から指のつけ根にかけて包帯が巻かれている。
「茉優、朔と知り合いなの?」
「あ……うん。同じ高校……っていうか、クラスメイトで……」
クラスメイト。それは、私が一番会いたくない相手だ。
ただし彼だけは例外だった。
ある意味、誰よりも顔を合わせにくい人ではある。だけど同時に、一番会わなければいけない人でもある。
私も風早くんも、お互いを見たまま硬直することしかできずにいた。視界の両端で、亜実ちゃんと敦志さんが困惑しながら私たちを見ていた。
「あ」
気まずい空気を断ち切ったのは敦志さんだった。
「朔、帰ってきたばっかで悪いんだけど、買い物行ってこいよ」
「は?」
「よかったら茉優ちゃんも一緒に」
「は!? いや、いいから! 俺ひとりで行くから! お客さんパシるとかどういう神経してんの!?」
「べつにいいだろ。亜実の姪っ子だし」
「その理屈成り立つ!?」
「大丈夫です! 私も行きます。ドリンクサービスしてくれたお礼に」
意を決して立ち上がると、敦志さんは絶句している風早くんに「ほらね」と満足げに微笑んだ。
ふたり分くらいのスペースを空けて、無言のまま風早くんの後ろを歩いた。
河川敷に目をやっている風早くんの黒い髪が、風に吹かれてさらさらと揺れている。細身なせいかちょっと小柄に見えていたけれど、思っていたより背が高いかもしれない。
風早くんの後ろ姿を眺めながら、口を開いて、閉じて、を繰り返していた。
おつかいについてきたのは、風早くんに言わなければいけないことがあるからだ。なのに言葉が出てこない。無音が気まずさに拍車をかける。
せめて当たり障りない会話で間を繋ぐことができればいいのに、話題がなにひとつ浮かばない。あの日のことで頭がいっぱいなのもあるけれど、それ以前に風早くんとはほとんど話したことがないのだ。
だからあの日、突然現れた風早くんに心底驚いた。
あまりの気まずさに目のやり場に困った私は、なんとなく空を見上げた。
亜実ちゃんと〈喫茶かぜはや〉に向かっていたときよりずいぶん涼しくなったと思っていたら、空が青から橙に移り変わろうとしていた。橙に染まれば、今度はあっという間に濃紺に呑まれるのだろう。
想像したとき、心臓がざわついた。
──また、夜が来る。
気温も景色も、この時間帯が一番好きだった。なのにそれすらも恐怖の対象になってしまったのだと実感させられる。ほとんど無意識に、パーカーで隠れている二の腕に手を添えた。
「あ、あの、ごめんね、つき合わせちゃって」
急に話しかけられて、とっさに二の腕から手を離した。パーカーを着ているのだから見えるわけがないのに、風早くんが前を向いていたことに安堵する。
「ううん、大丈夫」
「楠木さんはお客さんなのに、パシるとかありえなくない?」
笑っていることが声音でわかる。
どうして私に笑いかけてくれるんだろう。
「ほんとに大丈夫だよ」
「いや、でも、まじでごめ──」
「もう謝らないで」
思わず語気を強めてしまった私に、風早くんは驚いた顔で振り向いた。ふたりの足が止まり、自然と向かい合う。視線が交わったことに怯んでしまった私は、地面の方を向いた。
風早くんはただ、敦志さんがおつかいに私を同行させたことを謝っているだけ。わかっているのに、あの日のこととはまるで関係ないのに、風早くんに謝られると罪悪感が膨れ上がってしまう。
「あ……ごめん、俺ちょっとしつこかったよね」
「ごめん、違うの。そうじゃなくて……」
風早くんに言わなければいけないことがある。
ずっと言えずじまいだった言葉を伝えなければいけない。
もっと早く行動に移さなければいけなかった。だけど機会がなかったし、連絡先も知らないし、なによりどうしても気力が湧かなかった。
「謝らなきゃいけないのは、私の方だから」
「楠木さんに謝られるようなことなんかないよ」
「あるよ」
地面に落としていた視線を上げると、包帯が巻かれている右手が目に入った。
私は包帯の中にある傷の深さや経過を一切知らない。だけど、軽傷じゃないことだけは明白だ。あの日見た真っ赤な血と風早くんのうめき声を鮮明に覚えている。
緊張で汗ばんでいる手をぎゅっと握りしめる。
顔を上げて、しっかりと風早くんを見据えた。
「怪我させちゃって……ごめんなさい」
語尾が震えた。
風早くんの怪我は、私のせいだった。
間接的でも比喩でもない。
間違いなく、紛れもなく、他の誰でもない私が傷をつけた。
「俺……は」
罵られる覚悟を決めて、体に力を込める。
けれど風早くんはためらうように唇を動かすだけで、続きを言わない。
一旦唇を閉じると、口角を上げた。
「なんで謝るの? 楠木さんのせいじゃないよ」
「そんなわけない。私のせいだよ」
「俺が勝手に手出しただけだから、気にしなくていいよ。怪我だって大したことなかったし、もうほとんど治ってるし。包帯なんか巻いて大げさだよな。それに俺、左利きだから問題ないよ」
大げさ、なんだろうか。
本当に大丈夫なんだろうか。傷ってどれくらいで完治するんだろう。
「……ほんとに?」
「ほんとほんと」
風早くんはのんきに笑いながら、痛くないとアピールするように右手を振った。
「そっか。なら……」
よかった、と言いかけたとき、敦志さんと亜実ちゃんの会話を思い出した。
「嘘、だよね」
「へっ?」
「風早くんが帰ってくる前に、亜実ちゃんと敦志さんが話してたの。怪我が治ってないからケーキとラテアートはまだ無理だって。敦志さん、縫った、って言ってた。それって風早くんのことだよね?」
目を見張った風早くんは、私から顔を逸らした。
やっぱりそうなんだ……。
「本当に……ごめんなさい」
「いいって。ケーキ作りもラテアートも単なる趣味だし、ほんとに大した怪我じゃないから」
「でも、縫ったんだよね?」
「一か月も前の話でしょ。もう大丈夫だよ」
「だって……じゃあなんでまだ包帯巻いてるの?」
「それは、その、あれだよ。傷痕はまだ残ってるから、あっちゃんが隠しとけって」
一か月経っても傷痕が残るほどの怪我が、いや、そもそも縫うほどの怪我が大したことないはずがない。あっさり信じようとしたのは、できれば軽傷であってほしいと願っていたからだと気づいた。自分の罪悪感を減らすために。
もう一度謝ろうと空気を吸い込んだとき、
「てか、朔でいいよ」
唐突に言われ、吸い込んだ息が唇の間からひゅっと抜けた。
「ほ、ほら、カゼハヤクンって長いし言いづらくない? 語呂が悪いっていうか」
なんだか急にロボットみたいな動きになったし、やけにどもっている。
風早くんがあまりにも不自然に笑うから、反射的に言葉を呑んでしまった。
無理にでも話を戻してもう一度しっかり謝るべきか、和ませてくれたこの空気を守るべきか。
「そんなことないよ。爽やかでかっこいいと思う」
少し悩んで、後者を選んだ。
私があの日のことを思い出したくないように、風早くんも話したくないのかもしれない。
「そ、そっか。けど、ほら、朔の方が短いし言いやすくない?」
「うん、わかった。じゃあ朔って呼ぶね。だったら私も茉優でいいよ」
「わかった。じゃあ、ま、ま、まま茉優、ね」
名前呼びを提案してくれたのは風早くん改め朔なのに、ちゃんと呼べるのだろうか。
「じゃ、じゃあ、よかったら連絡先とか交換しない?」
朔がポケットからスマホを取り出して私に向けた。
差し出されたスマホを見ながら、頭の中で言い訳を考える。
「あの……ごめん。スマホ、家に忘れてきちゃって」
「そ、そうなんだ。じゃあしょうがないか。よし、うん、暗くなってきちゃったし、早く店に帰ろう」
朔はスマホをポケットに収納し、すぐさま私に背中を向けて、繋ぎ目が錆ついたロボットみたいな動きで歩き出した。
少し痛んだ胸に手を当てて、動悸を落ち着かせるため深呼吸をして、朔のあとを追った。



