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身体の浮遊感が収まり、硬い物体が背中を捉える。
ぼんやりと聞こえていた音が徐々に輪郭を帯び、現実が戻ってくる。
「____立花!」
聞き慣れた声が耳を打つ。反射的に身体を起こし、目を開けると、そこには見覚えのある顔。
「っげ、おに……!」
「誰が鬼だ!俺の授業で堂々と昼寝とは、大した度胸だな」
鬼ちゃんは腕を組み、口角を片方上げて俺を睨む。苦笑いしか出てこない。
「あとで職員室に来い。運んでもらいたいものがあるからな」
そう言い残して教卓へ去っていく鬼ちゃん。その背中を見送りながら、俺は胸を撫で下ろす。
秋を知らせる風が教室の窓から入り込む。
その風に誘われるように視線を窓際へ向ける。
そこに___いた。
「___玲」
零すように名前を呼ぶ。
彼女は前を向いていたが、俺の声に気づき、ゆっくりとこちらを振り返る。
「何?」
真顔で、俺にしか聞こえない声の大きさで返してくる。
何も変わっていない。あの時のまま。俺の目の前にこうしている。
長谷川の言葉が脳裏をよぎる。
『____その力は呪いであって奇跡だってことを忘れるんじゃない』
奇跡を俺は今、目の前で見ている。体感している。だからこそ、怖くなる。この力の重さを痛感する。
玲が何かを察したのか、鬼ちゃんに向かって申し出る。
「先生、立花さん体調悪そうなんで、保健室に連れて行ってもいいですか?」
「ああ、体調不良なら仕方ない。鈴木、頼めるか。」
鬼ちゃんは軽々と了承し、玲はすぐに席を立つ。
「行くよ」と耳打ちされ、俺は言われるがまま席を立ち、彼女の後を追う。
教室を出て少し歩く。
鬼ちゃんの視線が届かないところまで来ると、俺は玲を追い越し、その手を取って駆け出した。
「え、ちょっと!」
玲は驚きながらも、俺に引かれるままついてくる。
慣れた足取りで保健室ではなく屋上へと駆け上がる。
屋上に着くと、玲は「ちょっとちょっと」と手を揺らす。
「玲、だよね?」
そう口に出した声は震えていた。
対する玲は、首を傾げてこちらを見てくる。
「え、何いってんの?本当に大丈夫?」
俺は繋いでいた手を強く引き寄せて、彼女を抱きしめた。
「真琴?」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥で熱いものが弾ける。
「好きだよ_____玲」
彼女の身体が小さく固まるのを感じながら、俺はそのまま抱きしめる。
「え、どうしたの急に」
戸惑いながらも、彼女の身体から力が抜けていく。
心臓の音がうるさい。でも、それは確かに今俺がここで生きている証だった。
「今、伝えたいなと思って」
耳元でそう零すと、玲は肩を震わせて笑いながら「何それ」と返す。
俺はそっと腕の力を緩め、彼女を開放する。
玲は少し戸惑ったように瞳を揺らしながら、やがて俺のほうをまっすぐ見てくる。
「体調、大丈夫なの?」
「うん、何ともない。」
どうやら玲は本当に俺が体調不良だと思っていたらしい。
「最近突然倒れることは減ったけど。本当に大丈夫なの?」
秋の風が俺たちの髪をかき乱す。
校舎の木々が色づいた葉をさらっていく。季節がまた移ろいでいく。
「もう、大丈夫」
俺は自分の左手首を包み込み、そうはっきりと告げる。
きっともう、俺は戻らない。
玲が屋上を出ようとした矢先、立ち止まりスマートフォンを操作する。
すると、俺のポケットに入れていたスマートフォンが振動し、メッセージを受信したことを知らせる。
『私も好きだよ、真琴』
玲が顔をスマートフォンで隠しながらこちらを見ている。
「玲」
「何」
「直接言えよ」
「やだよ」
「なんで」
「だって、恥ずかしいんだもん」
そう言って、逃げるように走り出す玲。
授業終了のベルが鳴り響く。
風に乗って、屋上のフェンスがギコギコと音を立てる。
長谷川が煙草を吸うときによく鳴らしていた音だった。
『今をちゃんと生きろ。んで、思ったことは恥ずかしくてもちゃんと言え。想いを相手に伝わるように言葉にできる奴は強い。それがお前の生きた証になる』
わかったよ先生。
わかってるよ先生。
もう、俺は進んでいくと決めたから___だからもう、戻らないよ。
俺は、玲の小さなその背中を追いかけた。
足の速さだけなら俺のほうが早いはずなのに、角をうまく使われるからなかなか追いつけない。
玲はそのまま教室へ逃げ込み、海と紫穂がなんだなんだと俺たちをはやし立てる。
教室から漏れる笑い声。
きっとどこかであの不良教師も見ているんだろう。
_____愛しい彼女と一緒に、煙草でも吸いながら______。



