_____20XX年5月24日午前9時半。

 長谷川から時刻を指定され、屋上に呼び出された俺。
 長谷川はまだ来ていない。
 珍しい。

 海には『長谷川と急に話さなきゃならないから、授業は適当にごまかして』って頼んでおいた。
 生徒にこんなことをさせるうちの担任はやはり少し変わっていると思う。

 螺旋階段をリズムよく上がってくる足音が聞こえた。その足音とともに、嗅ぎなれたにおいが漂ってくる。


 「先生、歩きたばこ」


 紙たばこを口にくわえたまま、現れた長谷川。
 俺を見つけるなり、口角を上げる。


 「おうおう、失礼失礼」


 そう言うと、長谷川はいつもの水入りの缶にたばこを沈め、フェンスに腰かけた。


 「いやー、久しぶりのリープ発動は体にくるものがあるよなー」


 そう言って、長谷川はポケットからあの時と同じ缶コーヒーを2つ取り出し、片方を俺に投げてくる。
 反射的に受け止める俺。
 長谷川は満足そうに笑ってプルタブを開けた。


 「先生、30分前になんで俺呼んだわけ」


 そういって、缶コーヒーのプルタブを開ける。


 「ん、ちょっとな。お前に戻る前に伝えとかなきゃいけない話があったから」


 そういって、長谷川は青空を仰ぎ、視線を俺に合わせる。


 「結論から言う」


 長谷川の目はいつになく真剣で、目をそらすことなんてできなかった。


 「俺は_____お前と一緒には未来に行けない」

 「……は……?」


 長谷川の言わんとしていることが分からない。


 「ちょ、先生。どういう」


 思わず笑いが出てくる。
 いつもの先生のおふざけであればいい。
 俺をからかっているのであれば、そんなウソはやめてほしい。


 「お前に理解できるように話す。そのためには、少しこのスキルができた経緯から話さないとな」


 長谷川はそういって、手に持っていたコーヒーを1口飲んで、ゆっくりと話し出した______。





 *




 ____このスキルができたのは、俺がまだ教師になって1年も経っていない時だったと思う。


 『陸、聞いて!やっと、やっとできたの!』


 仕事が終わって帰宅途中のところでかかってきた電話。
 彼女、長澤香里奈(ながさわ かりな)の明るい声が俺の鼓膜を揺らした。
 思わず笑みがこぼれる。


 「お疲れ。頑張ってたもんな」

 『うん、陸に一番に報告したくて……。ってごめんなさい。私、何も考えずに衝動的に電話してしまって。今大丈夫だった?』

 「大丈夫。ちょうど仕事終わって帰ってたところ。ナイスタイミング」

 『うふふ、ならよかった。ゴメンね、最近研究優先して全然会えなくって』

「まあ、5歳も上の研究者さんだし、俺とは格が違うからな」

『何よそれ、陸のくせに生意気ー』

そんな彼女は、友人の紹介で知り合った。付き合ってもう3年になる。

 「いいよ。わかってるから。大丈夫」

 『うん、ありがと。じゃあ、また来週の土日、陸の家お邪魔するね』

 「ああ、わかった」


 嵐のような彼女の声が途切れ、俺だけの時間がまた進む。
 友人からの紹介で3年ほど前から付き合い始めた香里奈は、俺よりも5つ年上の研究員。俺には難しすぎてよくわからないけど、タイムリープについての研究をしているということを聞いている。
 どうやらそれが彼女曰く、「できた」らしい。
 それがどれくらいにすごいことなのか、俺には皆目見当はつかないが、彼女のことだ。
 また、来週にでも、楽しそうに話してくれるのだろう_____。


 ___だが、俺の目の前に現れた香里奈は、俺の知らない香里奈であるような気がした。
 いつも仕事柄彼女は淡々とはしているんだけれど、その淡々とさが今日は強調されているような気がして。
 いつもの突拍子のない感じが少ない。
 最初は仕事モードが抜けないだけなのかと、そう思った。
 だけど、その理由は、夜になってわかる。
 香里奈は週末俺の家に来て、泊まって翌日の夕方に帰るというのがお決まりだった。

 俺たちは並んで布団に入った。
いつものように、彼女の細い肩に腕を回そうとした瞬間だった。


 「ゔっ……!」


 香里奈が小さく呻き、急に身を縮めた。
 

 「香里奈……!?」


 俺は起き上がり、パニックになりそうになるのを必死で抑えて、なんとか声を絞り出し彼女の様子をうかがう。
 彼女はぎゅっと目をつむり眉間にしわを寄せ、何かに耐えているようだった。
 俺の心拍数が徐々に上がり、頭が真っ白になる。


 「どうした、どこが痛い?」


 そう声をかけた瞬間、彼女の表情は和らぎ、香里奈はゆっくりと目を開けた。
 目を開けるも、香里奈はしばらく焦点が合わないようで、ぼんやりと目線を揺らす。

 そして、俺のことを認識したのか、ゆっくりと体を起こした。


 「……ごめん、陸。心配かけたね」


 そう吐き出した香里奈の声は、いつになく落ち着いていて、どこか悲しげだった。


 「____ああ、体大丈夫なのか?」

 「あ、うん。平気」


 そういって、香里奈は左手で茶のかかった自分の長い髪をかき上げた。
 その時に一瞬見えた。


 「香里奈……タトゥーしてたっけ?」


 薄明かりでも見えた。
 香里奈の左手首にはっきりと刻印された数字。俺にはその刻印された数字が、妙に冷たく見えた。
 香里奈は慌てたように、自分の左手首を右手で覆う。


 「……見た?」

 「うん、見えた」


 頭を抱えたようにしてため息をつく彼女。
 俺にはこの状況自体が意味不明であった。


 「……陸。今から話すことは誰にも言わないで」


 そういった、香里奈の声はいつになく真剣で、俺はゆっくりと頷いた。


 「私、タイムリープの研究していたって言っていたでしょ?」

 「うん」

 「そして成功したって言ったでしょ?」

 「うん」

 「もともとタイムリープは、環境問題やら自然災害対策の根本解決や防衛が目的で開発が始まったわけなんだけど。いざ、タイムリープができるってなった途端に、これまで資金を調達してくれていた資産家が、自分たちのおかげで研究は成功したんだから、まずは自分たちがタイムリープをするべきだって言い始めたの」

 「その資本家はタイムリープして何を……?」

 「『これまでの負債を帳消しにして、未来予測で自分たちだけ勝ち組に』って」

 「うわ……」

 「ゲスでしょ」

 「それで、香里奈怒ったの?」

 「そりゃあね。『ふざけるな、私たちは誰かの欲を満たすために研究したんじゃない!』って言ってやった」


 付き合ったころから香里奈はそうだ。
 正義感が強くて、周りの空気には流されない。
 自分の芯をしっかりと持った人だった。


 「そしたら?」

 「即刻クビ」

 「は!?」


 あまりにもさらりとした告白に、声が漏れる。


 「ごめんごめん。でも後悔はしてないの」


 だけど香里奈は、自分がクビになったことなどははあまり気にしていないようで、表情は変わらない。


 「それで、ぐれてタトゥーを?」

 「違う違う、そんなぐれてないって。しかもこれはタトゥーじゃない。私が研究していた____タイムリープのスキルそのもの」

 「___は!?」


 俺の反応が面白いのか、香里奈は楽しそうに俺の目の前で笑っている。
 いつもそう。
 彼女の行動は、いつも俺の斜め上を行く。


 「私ね、盗んできちゃったの。タイムリープ」


 普通であれば言えない重要事項をこうもさらりといってしまわれると、言葉も出てこない。
 これは何罪なのだろうか。
 ただ、ニュースで報道されていないのを見るに、ばれていないのだろうか。
 彼女のしたことは。


 「大丈夫……なのか?」

 「いや、大丈夫じゃなかったね」

 「え?」

 「何回か捕まったのよ、私」

 「は?」

 「だけど、捕まるたびにリープして逃げてやったわ」


 そう、俺に対して「やってやった」と言わんばかりの笑顔を向けられてもどう返せばいいかわからない俺。
 突拍子もない人だとは思っていたが、俺の思っていた以上なのかもしれない。


 「あ、大丈夫。安心して。もう私が捕まることはないから」

 「……というと?」

 「リープをして、私が第1被験者としてこのリープの実用性を示すという未来になるように過去を調整してきたの。そして、このリープを私利私欲に使おうとしていた資産家たちに関しては、闇暴いて突き付けてやったらすぐに逃げていった」

 「闇って……」

 「ちょっと調べたらすぐに出てきた。賭博関係とか裏金とか、税金納めていなかったりとかね」


 改めて思う。
 香里奈は敵に回したくないと。
 彼氏ながらに思う。


 「それで、被験者ならクビになっていないんじゃ」

 「ああ、研究者としてはクビ。資産家に言ったあの言葉の帳消しはする必要性感じなくて、クビの結末は変えられなかったの。ただ、上司の恩情で被験者っていうポジションを勝ち取ることには成功したわけ」

 「……なるほどね。んで、被験者としてどうなの?もう何回かリープしてるんでしょ?」

 「あはは、そうなの。それでこの数字が、リープの残りの回数」


 香里奈はそういって、話してくれた。
 辛かったとか
 怖かったとか
 そういう話は一切出てこなくて。

 まるで、楽しい話をするかのように、これまでのリープの中で起こったことや副作用の話、リープ後の世界の話をする。
 そして、今日は自分はリープ後の世界から戻ってきたばかりだから、最初会った違和感は正解なんだと、彼女は嬉しそうに話した。

 ____だから勘違いをしていた。


 「私は、このリープを開発した本来の目的のために、動くよ。一緒に研究した人たちともそういう約束だからね」


 そう言って笑った彼女を、俺は『彼女だから大丈夫』と高をくくった。
 いつも俺の斜め上を行く彼女を、俺は『強い人』だと思っていた。

 だから____彼女がどんどん壊れていくことなんて想像していなかった。
 あれは____関東で珍しく雪が降った日だったと思う。


 「____陸」


 突然、アパートのチャイムが鳴り、部屋の扉を開けた先にたたずんでいた彼女は、俺の知らない彼女であった。
 雪が降るほど寒いというのに、素足のままサンダルを履き、髪はどれくらいとかしていないのかわからないが、猫毛の彼女の髪はところどころ絡まっていて、よれたスウェットでそこにいた。


 「……香里奈?」


 念のため確認と思い、彼女の名を呼んだ。
 俺に呼ばれ、ゆっくりと目線を上げた彼女の目は、俺の知っている彼女の目だった。

 俺は彼女をそっと抱き寄せ、ひとまず中に入れる。
 生徒の受験対策でここ最近入れが忙しく彼女と会えていなかった。
 約1か月振りに抱きしめた彼女の身体は、ひどく痩せていた。

 俺は彼女をそのまま抱きかかえ、布団に寝かせる。
 そしてその間お風呂にお湯をためておく。
 お湯がたまったところで、香里奈を抱きかかえて脱衣所へ行く。


 「ごめん、香里奈。脱がすよ」


 念のため断ってから、俺は彼女の身につけているものを1枚1枚とっていく。
 香里奈は何も抵抗せず、俺に身をゆだねる。
 そしてそのままお風呂に入れ、温まった体を冷やさぬよう素早く新しい衣服に着替えさせる。
 香里奈が、着替え一式を自分の家に置いておいてくれてよかった。

 そしてそのまま、香里奈を布団に座らせ、髪をとかしながら彼女の髪を乾かす。
 絡まった髪を傷つけないように、ほどいていく。
 そん時だったと思う。


 「____っ……!」


 最初は気のせいだと思った。
 だけど、気になり途中ではあったが、髪を乾かすのをやめ、ドライヤーのスイッチを切る。
 そして、香里奈に向き合うように、俺は床に座る。


 「香里奈……?」


 そう言って、彼女の髪をかき分け、覗き込んだ彼女の目からは、涙が次から次へと零れ落ちてきていた。


 「……ごめんなさい、ごめんなさい」


 そう消え入りそうな声で言いながら、止まらない彼女の涙。
 何にそこまで謝っているのかわからない。
 だけど、そこを今問うのは野暮だと思った。
 俺は、そっと抱きしめ背中をさする。


 「大丈夫。大丈夫だから」


 そういって、彼女が落ち着くまで待つ。
 彼女はそのまま子供のように泣き続け、気づけば俺の肩で眠っていた。
 髪は若干湿ったままだったが、彼女の安眠を妨げる気にはなれず、そのまま彼女を横にして布団をかぶせる。

 彼女に何があったのかはわからない。
 だが、おそらくタイムリープが関係しているのだろう。

 そういえば……。

 俺は、彼女の左手のほうの布団をゆっくりとめくり手首を確認する。


 「____っ!」


 手首の刻印がタイムリープ残りの回数。
 前回、会った時の残りの回数は「081」だった。

 今の表示されている数字は____「049」。

 彼女はあれから32回も戻っている。
 俺と会っていなかった期間が約1か月ほどであるから、あれからほぼ毎日だと思う。

 リープの副作用は、とんでもない吐き気と頭痛に襲われるという。
 それをほぼ毎日続けると、いくら丈夫で元気な体でもがたが着て当然。

 彼女の少し湿った髪をなでる。
 どうか、この一瞬だけは彼女が安らかでありますように。
 どんな壮絶な過去に言っているのかはわからないけれど、今だけは安心して彼女がいられますように。
 ____そう願わずにはいられなかった、


 朝、カーテンから漏れた朝日で目を覚ます。
 ゆっくりとベット体を起こす。
 そして、昨日のことを思い出してあたりを見渡す。


 「香里奈?」


 彼女がいない。
 昨日一緒に寝たはず。
 俺が眠りについたとき、確かに彼女は隣にいた。

 俺は、それほど広くない自分の部屋を探すも、ふろにもトイレにも彼女はいない。
 電話でも掛けようとスマートフォンを持ち上げたとき、表示されるメッセージに目が留まる。


 『昨日はごめんなさい。少し疲れて甘えてしまったみたい。エネルギーはチャージできたからまた少しがんばれそう。ありがとう。』


 少し疲れた……?
 あれは少し疲れたどころの話ではない。

 俺は、いてもたってもいられず、彼女に電話をかける。
 今日が土曜日で仕事がなくてよかった。
 突拍子のない彼女だが、他者へ気配りは怠らない彼女。
 俺の家に突撃するときも、必ず俺が翌日休みの日を狙ってやってきた。
 電話も、たまに衝動的にかけてくることはあるが、それでも必ず定時は回った時間にかけてくる。
 そんな彼女があんなボロボロになって俺に助けを求めにやってきた。
 彼女の身に何かが起こっていることは明白だった。

 しかし、彼女電話はつながらず、音信不通のまままた1か月半の月日が流れた_____。

 最後の日は突然だった。
 眠っていたところに鳴り響く着信音。
 俺は珍しく頭痛のする体を起こし、若干寝ぼけた状態で電話をとる。


 『もしもし、陸?』


 その声が誰か識別するまでに少し時間を要した。


 「___香里奈?」


 恐る恐る、彼女の名前を呼ぶ。


 『ごめんごめん、朝早くに。そして、ずっと電話出られなくて。ちょっと立て込んでてね』


 そういった彼女の声は元気で。
 自分の知っている香里奈だった。


 「いいよ、忙しかったんだろ?今日はどうした?」

 『あのさ、久しぶりにデートいかない?』

 「デート?」

 『うん、そういえば陸が社会人になって、ちゃんとデートなんてしてこなかったなと思って』

 「ああ、そういえば」


 確かにお互い、研究やら社会人になってから日々に忙殺されていて、いつも家で過ごすことが多かった。
 たまには、いいかもしれない。


 『私さ、行きたいところあるんだよね』

 「ああ、いいけど。どこ?」

 『それはね______』

 「____っ!……え、なんで?」


 彼女の口に出した場所に思わずそう返す俺。
 電話口から、彼女が笑っている声が聞こえた。


 『え、いいじゃない。今だから行ける場所ってどこかなーって思った時に出てきたの』

 「……まあ、多分大丈夫だと思う」

 『え、やった!じゃあ、すぐに来てよね。屋上に集合ね____』


 そう言って、切れた電話。
 彼女の指定してきたデート先は_____俺の勤務先である学校だった。
 俺は、寝ぼけた体を奮い立たせ、素早く準備を始めた。

 桜が芽吹くか芽吹かないかのこの季節。
 学校は春休み中且つ、日曜日は基本どこの部活動も活動はしない。
 先生方も、働き方改革だとかで出勤は基本していない。

 仕事は嫌いではないが、休みの日に勤務先に行くのはあまり足が進まない。

 しかし、まあ香里奈が言うなら仕方がない。
 香里奈がいる学校はまた違った世界に見えるんだろうか。
 そんなことを思いながら、俺は古びた螺旋階段を上っていく。
 以前香里奈に、一服はどこでしているのと聞かれ、屋上であることを伝えるとともにその行き方についても伝えた。
 だから知っていたのだろう。
 だからか、ここを指定してきた。


 「おお、待っていました」


 螺旋階段を上がった先に見えた彼女はいつもの彼女だった。猫毛の髪を揺らし、まるで太陽のように笑う彼女。


 「待たせたね」


 彼女につられて俺も笑う。


 「では、先生。今日校舎見学お願いします」

 「ああ、そういうこと?」

 「うん。私そういうつもりで来た。ほら、高校生らしくお弁当もね。買ってきました」

 「手作りじゃないんかい。サボったね」

 「いいえ、サボっていません。時間をお金で解決しただけです」


 彼女はそういって、俺の腕をとってくる。
 その一つ一つの仕草が可愛らしかった。

 俺らはそのまま腕を組んで、屋上から下の階まで学校内を探検していく。香里奈はずっと楽しげで、俺がいつもどこにいて、どんな授業をしているのか聞いてくる。
 そしてお昼時には、ガラガラの食堂でコンビニで買ったであろう弁当と、ぬるいビールが香里奈のカバンから出てくる。ぬるいビールをまずいと言いながら俺らは飲んで食べた。

 穏やかな時間だと思った。この先も、こんな時間がずっと、ずっと続けばいいと思った。


 「____陸、そこに座って」


 俺持っているクラスに入った時、教卓に立ち、俺に対して席に座れという。俺は言われるがまま、適当に一番前の席に座った。


 「先生、今日の授業は何ですか」


 俺は目の前に立つ彼女にそう問う。


 「うふふ。では、今日は少し難しいお話をします」


 そう言って彼女は穏やかに笑って、白いチョークを手に取り黒板に文字を走らせた。
 そこに書かれたのは____。

 ”今日は何月何日でしょうか”。

 嫌な予感がした。
 俺は急いで、自分のスマートフォン手に取る。
 俺の認識では今日は3月31日の日曜日____のはずだったが。


 「3月、24日……」


 ちょうど1週間ずれている。


 「正解」


 香里奈は、何の驚きもなく、明るい表情のままそう答えた。


 「なんで」


 俺だけが今ここに置いて行かれている。


 「ごめん、陸。なんの断りもなく巻き込んで」


 香里奈がチョークを置いて、教卓のところから俺をまっすぐに見てくる。


 「俺も、リープした……?」

 「そういうこと」

 「いつ」

 「昨日ねている時に、私があなたの家に行って、リープしたの」

 「2人一緒に行けるのか……?」

 「うん、過去に戻るとき、その人の体に触れていればね。理論上は行けるはずだったから試したら、本当に行けちゃった」

 「……なんで」

 「……あなたと。陸と、最後に話したかったから」

 「は?」


 香里奈は、戸惑う俺をよそに、自分の左袖部分をめくって手首裏を俺に見せてきた。


 「ゼロ……?」


 思わず口に出る。
 いつも数字が並んでいたそこに、0以外の数はなかった。
 彼女は____100回のリープを使い切った。


 「そう、ゼロ」


 彼女は、俺の声とは真逆に、いつもの彼女のテンションでそう続けた。


 「ゼロになったらどうなる?スキルがなくなるだけ?」


 俺の問いに彼女は首を横に振る。


 「どうなる?」


 そう、彼女に問う俺の声は震えていた。


 「____消えるの。私」


 何の躊躇もなくそういった彼女の顔はどこかすがすがしくて、すっきりしていた。
 やはり、俺だけが置いて行かれている。


 「は、ふざけんなよ」


 こみ上げてきたものは……怒りだった。
 いてもたってもいられずに、俺は乱暴に席を立ち、教室を出た。
 このままだと間違いなく言葉の暴力で彼女を傷つけると思った。

 気が付けば、今日の集合場所だった屋上にあがってきていた。
 ポケットから煙草を出し、慣れた手つきでタバコに火をともそうとするも、ちょうどライターのオイルが切れており、火が付かない。

 俺はそのまま大きく息をつき、その場にしゃがみこんだ。


 「情けな……」


 寛容な男でありたかった。
 きっと彼女のことだ。
 表情では何ともないふりしていても、中身はどうだかわからない。
 「消える」なんて言葉を他人に告白するのなんて___平気なわけがない。受け止める側の俺が逃げたら、彼女はどうなる。

 ノーセットの髪をかき上げ、スイッチを入れ替えようとしたその時だった。


 「あ、いたいたー。ほら、ライター」


 立ち上がろうとしたその時。
 塔屋の扉が開き、香里奈がライターと言いながらチャッカマンをもってこちらにやってくる。

 思わぬ登場の仕方に、笑うがこみ上げる。


 「どこかの猫型ロボットかよ。なんでそんな都合よく持ってるわけ」

 「ちょっとー。人が親切に持ってきてあげたのにー。まあ、似たような力持てますからね。ほら、私がつけてあげるから貸して」


 香里奈はチャッカマン片手に俺のほうに近づいてきてそのまま目の前でしゃがみこむ。
 煙草なんてもう、どうでもよかった。


 「え、ちょ。うわっ!」


 しゃがみこんだ香里奈の首にそのまま俺は腕を回し、自分のほうに香里奈を引きを寄せる。
 細くて小さな香里奈の身体は、あっという間に俺の身体に包み込まれる。


 「……陸?」


 気づけば、涙があふれた。
 失いたくない。
 彼女をこのままこの腕の中に閉じ込めてしまいたい。


 「えー、ちょっと。泣かないで」


 俺の中で、香里奈がそっと、俺の涙を細くて白い指で拭う。

 いつの間にか、空は茜色になっていて。
 香里奈の顔が夕日で赤く染まっていた。


 「香里奈の話、聞かせて」

 「私の話?」

 「さっきは逃げてごめん。次はちゃんと聞くから」


 俺はそういって、香里奈を抱きしめる力を緩め、香里奈を開放する。
 彼女は、するりと俺の中から出て俺の正面に座り込んだ。


 「うん、ありがとう」


 そういった彼女に目には、涙一つ浮かんでいなくて。
 もう何かの覚悟が決まったかのような、そんな目をしていた。


 「私ね、この半年くらいかな。リープをしてそもそもの研究の目的の1つであった災害支援活動をずっと行ってきた。被災する前の国地域に行って未然に防ぐことができる防災を可能な限り行って、発災後は命が零れ落ちていきそうな順から効率よく救援活動の指揮を執るような活動をしてきた」


 そう言って語りだした彼女は、遠い過去を懐かしむような表情をする。


 「当然、最初はうまく行かなかった。24時間っていう限られた中で、怪しまれないようにしながら何かを守っていくなんて。だけど、研究員に実験はつきものだから、最初うまく行かないくらいではへこたれなかったの。次、エラー修正すればいいやくらいだったの。切り替えは容易にできた」


 国家機密レベルの研究を任される彼女は、優秀だった。
 だけど俺は知っている。
 その優秀者は、天性のものだけではなく彼女の努力あってこそだってこと。失敗したってへこたれずに何度も何度も挑戦し続けていたのを俺は知っている。


 「だけど、リープの回数には制限があって、救える命と救えない命があった。私はどうしてもみんな救いたくて、だけど絡まった糸みたいに、こっちをほどくと、新たなほつれが出てきて、ほどく過程で新たなほつれが生まれてさ。どんどんね絡み合って……そして、こぼれていくのを何度も見てきた」


 冷たい風が、頬をかすめる。
 彼女の瞳がまっすぐと俺を離さない。


 「リープしていく中で感じた。ああ、私はこんなにも無力なんだって。そして、なんて私は残酷なことをしているんだろうって。そう思ったの。だってね、私が選ばなかった命は……確実に消えるんだから」


 あの時の、香里奈の言葉の意味を今知る。
 あの時。
 俺の部屋で泣いた彼女の「ごめんなさい」は俺に対してではない。
 救えなかった命に対しての謝罪。


 「……私は神様じゃない」


 そう言って、彼女は大粒の涙を地面に落とす。
 俺は震える彼女の手にそっと、自分の手を重ねた。


 「みんなは救えない」


 彼女の涙が堰を切ったようにあふれてくる。
 そんな中でも彼女は俺から目をそらさない。


 「どこかで思ってたの。このタイムリープというスキルは、この地球に住まう全員が幸せになれるもので、それはスキルを使うもの次第なんだって。どんな命も、救えるか救えないかは戻る人次第なんだって。そんなことはないのに、私はそんなことを思っていたの。……バカだね……」


 彼女はそういって、俺から目をそらし、茜色に染まった空を仰ぎながら涙をぬぐった。


 「そんなことをしている間に、あっという間にリープの制限が近づいてきて、気が付けば残り1回になっていた。被験者になった時の約束は、残り1回になったら、研究室に返すこと。残り1回になった時にそのスキルを使った人間は、この世から消えて、どこの世界からも存在が消えてしまうという副作用を一端に担うから。だから、私の役目はもう終わったの」

 「え。……じゃあなんで」

 「研究室に戻った時に、私が追い出したあの資産家がいて私たちに交渉してきた。スキルの上限が来ると、再度開発が必要になる。となると、また莫大な資産が必要になる。だから、資産を貸す代わりにそのスキルの一部回数を自分たちが使わせてもらうというものだったの」

 「……それで?」

 「絶対に私はいやだった」

 「うん」

 「だけど、研究室としてはそれをよしとしたらしくって、私にスキルをまず返すように要求してきた。再開発と言っても、私の残り1回のスキルの上に再度組み立てていくものだから」


 彼女が一瞬、強く口を結ぶのが分かる。
 それは、彼女が言葉を選んでいる時にする仕草だった。


 「それで。香里奈はどうしたの?」

 「……逃げたの。研究室から」

 「それで、俺のところに来たの……?」


 俺の問いに、彼女はゆっくりと頷く。


 「あなたに……会いたかったの」


 そう言って、彼女はまた涙を流す。
 たまらず彼女をまた抱きしめた。
 彼女の背中が震えている。
 落ち着かせるように、俺は彼女の背中をさすった。


 「陸に会ったら……揺らいだの」


 俺の腕の中で、彼女がそう零すのが聞こえた。
 俺は構わずそのまま彼女の背中をさする。


 「最初は私一人リープしてそのまま消えようと……そう思った」

 「……うん」

 「だけど、陸の顔を見て離れたくなくなった。それで思ったの。私がこのままこの世界からいなくなるとするのなら、私は何を悔やむんだろうって」


 また零れる。
 彼女の目から、涙が頬を伝った。


 「あなたに、陸に。お別れを言わなきゃ。ちゃんと私の気持ちを伝えて別れないと。そうしないと私きっと、後悔するって思ったの」


 気づけば、俺の目からも温かな雫が頬を伝うのが分かった。
 冬と、春の境目の穏やかだけど冷たい風が俺らの濡れた頬を示す。


 「生き続けるってとっても尊いことだけど、それ以上に私は、この内に秘めた気持ちをちゃんとあなたに届けて、お別れをしようと思った。……ごめんね、最後まで自分勝手で。だからね、一緒に連れてきちゃった」


 そう言って笑った彼女。
 笑った時に零れた涙を俺はぬぐい、そのまま彼女をまた腕の中に閉じ込めた。


 「……いいよ。香里奈らしい」


 俺がそういうと、彼女は俺の腕の中で笑うのが分かった。

 俺らはそのまま、屋上で夕日が沈むのを見てから、2人で俺のアパートに向かった。
 途中、いつものスーパーで夕飯の食材を買い込んで、少し寄り道をしながら家に向かう。
 家について、一緒に夕飯を作って食べる。
 そして、順番にシャワーを浴びて、リビングでさっき買っていたお酒を飲み、テレビを見ながら他愛のない話をする。
 タイムリープしていることなんか忘れて。
 ただただ、どこにでもいるカップルのように俺らは過ごした。


 「ねね、陸」


 2人布団に入って、眠気が来るのを待っていた時、俺の腕の中にいた香里奈がそう口を開く。


 「ん?」

 「私さ、幸せ者だね」

 「何、急に」

 「一生懸命になれるような仕事が私にはあって、理解してくれる彼氏がいて、ここまで生きることができた丈夫な体が私にはあって。幸せだなって、今思ったから言ってみた」

 「うん」

 「ねえ、陸」

 「何?」


 月明かりがその瞬間カーテンの隙間から入って、ちょうど腕の中にいた彼女を照らした。


 「愛してるよ、ずっと」


 そう言って笑う彼女の目には、もう涙は浮かんでいなかった。
 ただただ、まっすぐと俺を見つめる、いつもの彼女がそこにはいた。


 「うん、俺も愛してる」


 そう言って、彼女を引き寄せ、そっと口づけをする。
 華奢その体は、今にも壊れそうで、壊さないように、壊さないようにそっと抱きしめた_____。

 気づけば彼女は、俺の腕の中で心地よさそうに寝息を立て眠っていた。
 彼女を起こさないようにしてそっとベットから出る。
 そして、ベランダに出て、煙草に火をつけた。
 帰り道のスーパーによった時に、香里奈が「ちょっと、ライター買わなくていいの?」と商品棚から持ってきたもの。
 そんな香里奈と、過ごす時間も____あと数時間。

 こみ上げてくる感情をごまかすように、煙草を肺いっぱいに吸い込む。
 そして、吐かれた煙は夜の空気に溶け込んで、あっという間に消えていく。
 まるで、最初からなかったかのように。

 遠くの空が薄く青づく。
 もう夜明けが近いのだろう。


 「_____陸?」


 ベランダの戸が開くのと同時に、彼女の寝起きの声が俺の耳をくすぐる。
 俺は、吸っていた煙草を灰皿に押し付け、煙を消した。


 「えー、ちょっと吸いすぎ。この短時間で何本吸ったの」


 香里奈は灰皿を見て顔をしかめる。


 「んー、半箱くらい?」

 「ちょっとー、大事にしなよその丈夫な体」

 「ごめんごめん、ちょっと考え事してたら。以後気を付ける」


 俺はそういいながら、香里奈の肩をそっと抱きよせ、自分の隣に誘導する。


 「朝、だね」


 香里奈が隣で、そう零すように言った。


 「うん」


 朝が始まる。
 それは____俺らの残された時間はもう数分しかないことを意味していた。


 「リープできる時間は24時間なんだっけ?」


 じっと、朝日を大事そうに見つめる香里奈に、俺はそう問う。


 「うん。私があなたを連れてリープしたのは朝の4時。今が、3時40分過ぎだから……あと20分あるか、ないかってところかな」


 まるで他人事のようにそう淡々と述べる彼女。
 猫毛の彼女の髪が、彼女の表情を見え隠れさせる。
 垣間見えた彼女の表情は凛としていて、もう覚悟を決めた一人の女性が俺の隣にいた。


 「そうだ。1つ大事なことを伝え漏らすところだった」


 そして、彼女は思い出したようにそういって、先ほど朝日に向けていた目線を俺のほうに向けてくる。


 「このスキルの最後の1回を使うと、使用者が消えるという副作用ともう1つ。大きな作用があるの」

 「大きな作用……?」

 「最後の1回を誰かと一緒にタイムリープをすると、一緒にタイムリープした人がこのスキル継承する。しかも____数はリセットされる」


 その瞬間風が強くふき、彼女の髪を大きくかき乱した。
 だけど彼女は構わず、話を続ける。


 「だから___陸、あなたにこのスキルを託す。だけど、使い方はあなたが決めて」

 「え、だってこれって……」


 国家機密レベルの機密事項なんじゃ……。
 且つ、資産家が莫大な富をかけでも欲しかった力なんじゃ。
 そんなものを、こんなごく一般人に任せる彼女はどうかしている。


 「陸だから、託すの」


 そんな俺の戸惑をよそに、彼女はそういって無邪気に笑った。
 まるで、そこに咲いていた花を綺麗だったからと俺に渡してくるようなそんなテンションで彼女は話す。


 「未来に行ったときにあなたが、そのスキルを使うのもよし。使わないもよし。まさか、あのクソ資産家たちは私があなたにスキル譲渡しているとは思わないだろうから、追っかけは来ないとは思う」

 「でも、このスキルは、もともと環境保全とか、災害支援で使われるのが目的なんじゃ……?」


 俺のその言葉に、彼女は風でなびく髪をかき分け、優しく笑った。


 「____そんなの、おこがましかったの」

 「え……?」

 「私たちが今ここで生きていること自体が”偶然”であって、そんな”偶然”を人間一人の力で”必然”に変えようとすること自体がおこがましかったの」


 彼女の横顔が上ってきた朝日に照らされる。
 もう、別れの時間が迫ってきている。


 「私はその”偶然”を受け入れたの」


 左手でベランダの手すりをつかんでいた彼女の手がやや小刻みに震えていたのが分かった。
 この結論にたどり着くまでに、いろんな葛藤があったのだろう。


 「陸は……人の生きた証って何だと思う?」

 「生きた証、か」

 「うん、そう。私はね、”言葉”だと思った。その人が、その人の周りにかけた言葉が生きた証だと思ったの」


 彼女の左手が強く手すりをつかむのが分かった。


 「陸、あなたは言葉で人を育てる仕事をしてる。だから、あなたにこの力を託そうとも思った。あなたなら上手に使うだろうと思ったし、使わないという選択も選べる人だと思ったから」

 「それは過大評価」


 俺の言葉に彼女は首を横に数回振る。
 そして「そんなことない」と、彼女は優しく笑う。

 朝日が完全に上った。
 そこで気づく。
 彼女に影がないことに。
 そして、朝日の光が強すぎて気づかなかったが、彼女の身体がだんだんと薄くなってきていることに気が付く。


 「___もう、お別れみたい」


 彼女も自身の異変に気が付いたのだろう。
 自身の両手を朝日に透かす。
 そして俺のほうを見て____笑った。


 「陸」


 そう言って俺の名前を呼んだ彼女。
 その表情は無邪気で、今からデートにでも行くようだった。


 「ありがとう。すっごく、すっごく私幸せだったの、あなたと一緒にいて」


 そう言いながら、彼女は笑いながら涙をこぼす。
 俺の右手がそんな彼女の涙をぬぐおうとするが、もう俺の手は彼女の身体をかすめる。
 もう___彼女の身体はこの世から離れようとしている。


 「そんな……っ!」


 こぶしを強く握り、こみあがってくる感情に耐える。
 こうでもして耐えないと、どうにかなりそうだった。


 「私、陸には誰よりも幸せになってほしいの。だから、もしね、私以外に好きな人ができたら、どうかその人と幸せになって。これだけは言わなきゃ、後悔しすぎてどうにかなりそうだった。____よかった言えて」


 彼女の手足の部分が光の粒のようになって、空に溶けていく。
 今言わないと後悔する。
 そう思った時に脳裏に浮かんだ言葉は1つだった。


 「香里奈」

 「ん?」


 俺の声に反応して香里奈は、俺と目線を合わせる。


 「すっごく、愛してる」


 俺の言葉に、彼女は涙を流し、笑って、そして____俺も突然のめまいが襲ってきてその場に倒れた_____。

 身体が地面をとらえる。
 さっきまでベランダにいたはずの俺は、ベットで布団にくるまれていた。
 俺は、先まではなかった寝起き独特のだるさを振り切り、ベランダのほうのカーテンを開ける。


 「……香里奈」


 そこには誰もいなくて。
 まぶしい朝日が俺を照らすだけだった。

 時刻を確認しようと、俺はスマートフォンを手に取る。
 スマートフォンには”4月1日4:01”の日時が表示されていて、未来に戻ってきたことを示している。

 そして、1件の通知に俺の目は奪われる。
 俺はやや震える手で、その通知をタップした。


 長谷川 陸 様

 伝えたいことは直接、言葉であなたに伝えたはずだから。
 ここには、あなたに譲渡したスキルについての詳細をPDFで送付します。

 使い方はあなたに一任します。
 どうか、あなたの未来が幸せでありますように。

 長澤 香里奈


 あまりにも淡泊すぎる最後のあいさつに、笑いが零れる。
 彼女らしいといえば彼女らしい。

 PDFを開くと、そこにはこまごまとした文字で、使う際の注意事項やら譲渡の仕方やら詳しく書かれてあった。
 あまりの情報量に一度データを閉じる。

 そして、そっと自分手首の裏を確認すると、彼女と同じ。
 はっきりと”100”の数字がタトゥーのように刻印されていた。

 不思議と、もう涙は出なかった。

 そっと、自分の部屋のベランダにでる。
 感覚的にはさっきまでいた彼女の最後の場所を確認する。
 当たり前だけど、彼女はもうそこにはいない。
 跡形もない。

 俺は、ポケットから煙草とそしてライターを取り出す。
 ライターを見て思わず笑みがこぼれる。

 それは彼女が俺に最後に選んで、持ってきたライターだった。
 彼女が選んだ、俺には可愛らしすぎるピンク色のライター。
 そのライターで、そっと煙草に火をつけ、ベランダに吐き出す。


 「まあ、待っててよ。俺はゆっくりそっちに行くから」


 吐いた煙は、春を知らせる風に乗って、あっという間に俺の前から消えていった______。





 *




 「_____つまり、先生はその先生の彼女みたいに、この世界から消えるってこと?」


 屋上に吹く、風が若葉の香りを運んでくる。
 爽やかな香りとは裏はらに、俺の思考はどんどん曇っていった。


 「まあ、そういうこと」


 あと、数分で消えるというのに、長谷川はまるでそう他人事のようにそう言い放つ。


 「立花」


 長谷川はそういって俺に視線をまっすぐに合わせてくる。
 もうそこには、いつものふざけた長谷川はいなかった。


 「あと数分で、お前は、その力を後100回使えることになる。お前がどう使おうが、消える俺からすれば知ったこっちゃないが、その力は呪いであって奇跡だってことを忘れるんじゃない」

 「……どういうこと」

 「100回なんて、あっという間に来る。後悔は少ないに越したことはないが、後悔は今から派生して生まれることであって、過去に戻って修正を繰り返すより、今を一生懸命にいきたほう断然コスパはいい」

 「コスパって……」

 「まあ、聞け。つまり何を言いたいかっていうと、そのスキルは万能ではないし、むやみやたらに使うなよってこと」


 長谷川はそういって、自分の腕時計を確認する。
 時間を、見ているのだろう。
 その姿はとてもこれから消える人とは思えなくて。
 まるで電車でも待つように、「あと、5分くらいかな」なんて漏らす。


 「先生」

 「ん?」


 どうやら、長谷川はコーヒーはすでに飲み終えたようで、煙草をポケットから取り出す。
 そして、長谷川には似合わないピンク色のライターでタバコに火をともした。


 「なんで、俺にこの力使わせてくれたの?」


 長谷川は、俺を一瞥してから虚空に煙を吐きだし、空を仰ぐ。


 「んー、勘、かな」


 そう言ってから、長谷川は俺を見て笑った。


 「勘って……」

 「沈みこんだお前を見て、こっから引き上げるためには、このスキルを使うしかないと思った。それだけだよ」


 そう長谷川が言った矢先、長谷川の身体が徐々に透けていくのが分かった。
 長谷川は「おお」なんて笑いながら煙草をのんきに吸っている。
 慌てて俺は長谷川に近づき、触れようとするも____自分の手が長谷川の身体を通り過ぎる。


 「おいおい、未成年が煙草を吸っている大人に近づくんじゃない」


 そう眉間にしわを寄せながらも、煙草を吸い続ける不良教師。


 「たばこのにおいも、触れないんだからしないし」


 俺がそういうと、長谷川は目を見開き、「こりゃあいい」なんて、無邪気に笑いながら俺に煙草の煙を吹きかけるも、無臭だった。
 きっと、煙草ごと長谷川は消えるんだろう。


 「立花」

 「何」


 長谷川の前で立ち尽くすしかない俺に、長谷川の声が降ってくる。


 「今をちゃんと生きろ。んで、思ったことは恥ずかしくてもちゃんと言え。想いを相手に伝わるように言葉にできる奴は強い。それがお前の生きた証になる」


 顔を上げると、もう長谷川の手足の部分は光の粒となって、5月の風にあおられてあっという間に消えていっていた。


 「先生」

 「ん?」


 風が、先生をさらっていく。


 「先生って、先生だったんだね、ちゃんと」


 俺の言葉に、長谷川はいつものように笑って、そして____空気に溶けていった。

 そのあと、いつものめまいが俺を襲い、俺はそのまま地面に倒れこんだ______。