農村地帯に通る、踏み慣らされた道を、ふたりの男女が並んで歩く。
すべての民が市で行われる祭りで不在の農村は、もとの雰囲気も相まって、長らく放置された廃村のようだった。夜になれば、井戸や家々の隙間から、幽鬼が姿を現しそうだ。
永遠と錯覚するような畑の景色が途切れ、それと同時に、人々の賑やかな声が鼓膜をじわじわと刺激する。
その声は、市に入ると、より一層大きくなって、呉羽の耳に届いた。
昨日まで、物憂げだった市は、まるで別世界のような変化を遂げていた。
平常通り、道の両側に軒を連ねる露店は、美しく装飾され、賑わう声と相まって華やかに、そして輝いて見えた。その道を、いつも通り行商人が通り、多くの祭りに来た人々がひっきりなしに行き交う。数日前よりも、人の数は格段に多い。市の中央には、円状の広場があり、そこでは雅楽が催されている。
菓子の甘い香り、雅楽から生み出される華やかさ。どれをとっても、いつもの『永夜の民』からは考えられないものだった。
「わああ! すごい! すごいよセキ」呉羽はセキの服の袖を強く引き、中央の広場の方を指さす。「こんなに素敵な音楽を聴いたの初めて! あの女の人たちの舞も、とっても素敵!」
呉羽が指さした先では、見物客に囲まれた四人の舞姫たちが、広場の中心で淑やかに舞っていた。
「もっと近くで見よう! ほら、早く早く!」
「わっ」
呉羽はセキの手を強く引き、人混みの中を器用にすり抜けていく。中央の広場にたどり着いたふたりは、見物客の間をすり抜け、一番前まで来た。
そこでやっと、お目当ての舞姫たちをはっきりと見ることができた。
舞姫たちは、白地の下り藤染めの裳とやや赤みを帯びた紫色に向蝶柄の唐衣を見にまとい、頭には宝髻を乗せ、日陰の鬘を下げている。手には金銀の鳳凰の絵の入った衵扇を持っている。四人の舞姫が舞うさまは、婉然としていて、この世のものとは思えぬ美しさを湛えていた。
「わあ……!」呉羽の口から、感嘆のため息がこぼれた。「本当に素敵。華やかで、とっても綺麗」
「ふむ、確かに華やかな舞ですねえ」セキもしみじみといった風に言う。「あれはおそらく、『月の女神』に捧げる舞ですね。舞姫たちは、巫女か何かでしょう」
「へえ、セキは物知りなのねー」
舞に夢中だった呉羽は、セキの説明に生返事をした。「でも、なんで舞を『月の女神』に捧げるの?」
「それは、『永夜の民』を永遠にしたのは、『月の女神』だからですね」
呉羽は驚く。「そ、そうなの?」
「はい、知りませんか?」とセキは問うてくるが、本当に知らなかった。博士の持つ書物の中に、『月の女神』のことが書かれたものはなかったからだ。
「えーっと、聞いたことあるような、無いような……」と曖昧にごまかすと、セキは語りだした。
「そのむかし、とある高貴な身分の姫君が、『月の女神』の憩いの場と言い伝えられる泉で、舞を——いま、舞姫たちが舞っている舞ですね——を舞いました。すると、舞っている姫君の身体を、薄花色の光が覆い、その光が消えたころには、その姫君は永遠に——つまり、『永夜の民』となっていたのです」
黙って話を聞き続ける呉羽に、セキは話を続ける。
「その後、姫君のように永遠の命を望んだ者たちは、彼女の舞によって、『永夜の民』となりました。確か、百人程度でしたかね。まあ、私も生まれていなかったので、詳しいことはわかりませんが」
「うーん、百人程度って、少なくない? 永遠になれるなら、もっとたくさんの人が『永夜の民』になりたがると思うけど……」
「ええ。ですが、すべての人が、同じだと思うのは間違っていますよ」
どこか諭すように、セキは言う。
「永遠になるということは、大切な人たちが死んでいくのを、ずっと見続けなければなりません。いつか死んだら会える、なんて希望も、永夜になってしまっては、潰えてしまいますから」
セキの声音が、ひどく悲しいものに変わる。呉羽は思わず、「ご、ごめんなさい」と謝ってしまった。
「いえ、謝ることではありませんよ。長くなりましたが、つまりは〝自分たちを永遠の存在にしてくれた『月の女神』に、感謝と崇拝の意味を込めて、舞をささげる〟というわけです」
呉羽は「なるほど」とつぶやいた後、手を打って、「だから、『永夜の民』にとって、『月の女神』は大切な存在なのね」と言った。
「……まあ、あの時もっと多くの人が『永夜の民』になっていたら、この地に『永夜の民』が降り立つことはなかったでしょうしね」
ふたりははぐれないように手をつなぎ、見物客の波をを抜け、先にある店の方へと歩いて行く。その時、
「おい、あそこに『有夜の民』もどきがいるぞ」
「やだ、なんで祭りの日にまであいつを見ないといけないの。汚らわしい」
「早くここからいなくなれ、『有夜の民』もどきが」
『永夜の民』から向けられる、蔑むような声。——お祭りの日にまで……。
いや、『月の女神』への服従を示す、大切な祭りに日だからか。呉羽は黙って歩き続ける。彼らも、呉羽を追いかけてまで罵声を浴びせてくることはない。
もうすぐ広場を抜けるという時、セキが不意に立ち止まり、呉羽の身体がつんのめりになる。
「セキ?」呉羽は振り返り、セキの顔を見る。「どうしたの?」
「……あれは、呉羽さんに向けての悪口ですよね。どうして、あんなことを言われているのですか?」
呉羽は、少しの間黙り込み、
「わたしが、いつもお菓子を宣伝しながら売っているから、それが『有夜の民』みたいに見えるって……」
と正直に答えた。
「そうなんですか」と、セキは答えた。
「ふむ……なら、なぜお菓子を売ろうと思うのですか? 売れば売るほど、肩身が狭くなっていくのに。私はそこまで気にしませんが、あなたはそうではないでしょう? なぜ、そんなに必死に?」
「……」呉羽はうつむき、黙り込む。呉羽がお菓子を売り続けるのは、いつか『永夜の民』と『有夜の民』が、分かり合えると信じているからに他ならない。しかし、そのまま言ってしまえば、自身が『有夜の民』と自白しているようなものだ。
長考した末、考えついた答えは、「わからない」だった。
「理由なんて忘れたよ。きっかけが何だったのかも」
「……そうですか。まあ、よくあることですもんね」
セキはそう答えて、再び歩き出す。それにつられて、呉羽も黙って歩き出す。
無言だったが、セキの隣で歩くのは、いい気分だった。
中央の広場から『月下大社』への道を歩いていると、聞いたことのある声が聞こえてきた。
「んん? お前さんは、この前会った椿餅の……」
黒髪を高く結い上げた男性。いつぞやの行商人の男性だった。今日は、売り物は持っていない。純粋に祭りの見物人としてやってきたらしい。
「あら、いつぞやの行商人のおじさん。偶然ね」
「ああ、そうだな」
「覚えていたの?」
「あんなに必死に宣伝をするやつなんて、久方ぶりだったからな。印象に残っただけだ。すぐに忘れるさ」
蚊帳の外に追いやられていたセキが、呉羽に「誰ですか?」と耳打ちする。
「前に会った人だよ。知り合いってほどでもないけど」と、呉羽は答えた。それは知って知らずか、行商人はふたりを品定めするように見ている。
居心地が悪くなって、呉羽は、
「おじさんはこれからどうするの? わたしたちはさっき、舞を見てきたところだけど」
と、再び会話を切り出した。
「それなら、俺もさっき見たさ。これから『月下大社』で、巫女王様——『月の女神』のお声を、唯一聞ける、ただひとりのお人——その訓示があるからな。それを聞くんだ。四年前も聞いただろう?」
「そ、そういえばあったわね、そんなものも」
呉羽は、曖昧にごまかす。巫女王は、行商人の言うとおり、『月の女神』の声を唯一聞くことができる存在で、言うならば、『月の女神』信仰の、最高者である存在だ。
「巫女王の声と姿を拝めるのは祭りの日だけだからな。じゃあ、俺はこれで」
そう言い残して、行商人はその場を後にした。
「じゃあ、わたしたちも行こうか、セキ」
そう言ってセキの腕を引くが、彼は黙ったままうつむき、微動だにしない。
「セキ、どうかしたの?」
呉羽が声をかけると、顔を上げ、「大丈夫ですよ、呉羽さん」と答えた。
「さて、私たちもその巫女王の訓示とやらを聞きに行きましょう」
セキは呉羽の手を引き、『月下大社』へと歩きだす。
呉羽の手を握る力は強い。それとは裏腹に、その背中は少し寂し気だった。
『月下大社』の、決して広いとは言えない境内の中に、都に住むすべての民が集まっている。それゆえ、ひどい混雑であり、ひとり転んだだけで、すべての人が道連れになって転んでしまいそうだ。
「わかってたけど、すごい人だね」
「ええ、はぐれないようにしましょう」
呉羽の手を強く握っていたセキは、どこか不安そうに彼女に注意する。「言っておきますが、探し出せる自信はありませんよ。自分で言うのもあれですが、私は自分勝手なので」
「それなら問題ないよ。わたしも、普段から自分勝手だから!」
呉羽は胸をたたいて答えた。
不意に、人々がざわめきだし、視線を一点に向ける。釣られてふたりも、皆の視線の先に目を向ける。
皆の目線の先にあるのは、本殿である。本殿から扉までには段があり、扉の左右の回廊に巫女が数人ずつ並び、段の左右には神主が同じように並んでいる。扉の先は、曇っていてよく見えないが、きっと、あの中に巫女王がいる。
呉羽は、つばを飲んだ。——あそこに、巫女王様が……。
ふと、セキの表情が気になって、彼の方を見る。複雑そうな、それでいて異質なまなざしを、巫女王に向けていた。怒りも、悲しみも、憎しみも、辛さも、寂しささえも、燃え尽きたようなまなざし。『永夜の民』らしい、生気のないまなざしなのに、明らかに他の『永夜の民』とは違う、異質さがあった。
「セキ、どうしたの——」
「——静まれ!」
呉羽の言葉に被せるように、とろみのある女性の声が轟く。慌てて本殿に視線を戻すと、先ほどまで、すべてを拒むように閉まっていた扉が開き、その奥で御簾が揺れている。その隙間から、遠目でもわかるほど、白く細い手が伸びていた。その手は、ゆっくりと御簾をどかすと、持ち主の姿を露わにした。
布帛を被っており、その顔を見えないが、すらりとした体形の女性であった。夜をそのまま切り取ったような十二単を身に着け、垂髪の髪は、新月の夜さえもかすむような漆黒であった。
——綺麗、でも……。
なぜか、胸中が落ち着かなくなる。他の『永夜の民』とは、一線を画す存在だからだろうか。
「最近、わが都では、ツキモノの被害が絶えぬ。それはすべて、この世に蔓延る『有夜の民』のせいに他ならない!」
鼓動が、どくりと、いやな音を立てた。
「しかし! 『月の女神』は、我ら『永夜の民』を、必ずしや護ってくれるであろう! 我らに永遠の〝祝福〟をお与えになった『月の女神』のため、今日は存分に楽しんでくれ!」
巫女王の言葉に、観客たちは歓声を上げた。
そんな中、呉羽とセキは歓声を上げずに、巫女王をじっと見つめていた。呉羽は、未だに胸中を渦巻く感情が分からず、当惑していた。
セキは、変わらず、巫女王に対して、複雑そうなまなざしを向けていた。感情で例えれば、軽蔑、だろうか。
ただひとつ、わかることといえば、その視線が、巫女王に対する、嫌悪に近い何かだという事だけだった。
すべての民が市で行われる祭りで不在の農村は、もとの雰囲気も相まって、長らく放置された廃村のようだった。夜になれば、井戸や家々の隙間から、幽鬼が姿を現しそうだ。
永遠と錯覚するような畑の景色が途切れ、それと同時に、人々の賑やかな声が鼓膜をじわじわと刺激する。
その声は、市に入ると、より一層大きくなって、呉羽の耳に届いた。
昨日まで、物憂げだった市は、まるで別世界のような変化を遂げていた。
平常通り、道の両側に軒を連ねる露店は、美しく装飾され、賑わう声と相まって華やかに、そして輝いて見えた。その道を、いつも通り行商人が通り、多くの祭りに来た人々がひっきりなしに行き交う。数日前よりも、人の数は格段に多い。市の中央には、円状の広場があり、そこでは雅楽が催されている。
菓子の甘い香り、雅楽から生み出される華やかさ。どれをとっても、いつもの『永夜の民』からは考えられないものだった。
「わああ! すごい! すごいよセキ」呉羽はセキの服の袖を強く引き、中央の広場の方を指さす。「こんなに素敵な音楽を聴いたの初めて! あの女の人たちの舞も、とっても素敵!」
呉羽が指さした先では、見物客に囲まれた四人の舞姫たちが、広場の中心で淑やかに舞っていた。
「もっと近くで見よう! ほら、早く早く!」
「わっ」
呉羽はセキの手を強く引き、人混みの中を器用にすり抜けていく。中央の広場にたどり着いたふたりは、見物客の間をすり抜け、一番前まで来た。
そこでやっと、お目当ての舞姫たちをはっきりと見ることができた。
舞姫たちは、白地の下り藤染めの裳とやや赤みを帯びた紫色に向蝶柄の唐衣を見にまとい、頭には宝髻を乗せ、日陰の鬘を下げている。手には金銀の鳳凰の絵の入った衵扇を持っている。四人の舞姫が舞うさまは、婉然としていて、この世のものとは思えぬ美しさを湛えていた。
「わあ……!」呉羽の口から、感嘆のため息がこぼれた。「本当に素敵。華やかで、とっても綺麗」
「ふむ、確かに華やかな舞ですねえ」セキもしみじみといった風に言う。「あれはおそらく、『月の女神』に捧げる舞ですね。舞姫たちは、巫女か何かでしょう」
「へえ、セキは物知りなのねー」
舞に夢中だった呉羽は、セキの説明に生返事をした。「でも、なんで舞を『月の女神』に捧げるの?」
「それは、『永夜の民』を永遠にしたのは、『月の女神』だからですね」
呉羽は驚く。「そ、そうなの?」
「はい、知りませんか?」とセキは問うてくるが、本当に知らなかった。博士の持つ書物の中に、『月の女神』のことが書かれたものはなかったからだ。
「えーっと、聞いたことあるような、無いような……」と曖昧にごまかすと、セキは語りだした。
「そのむかし、とある高貴な身分の姫君が、『月の女神』の憩いの場と言い伝えられる泉で、舞を——いま、舞姫たちが舞っている舞ですね——を舞いました。すると、舞っている姫君の身体を、薄花色の光が覆い、その光が消えたころには、その姫君は永遠に——つまり、『永夜の民』となっていたのです」
黙って話を聞き続ける呉羽に、セキは話を続ける。
「その後、姫君のように永遠の命を望んだ者たちは、彼女の舞によって、『永夜の民』となりました。確か、百人程度でしたかね。まあ、私も生まれていなかったので、詳しいことはわかりませんが」
「うーん、百人程度って、少なくない? 永遠になれるなら、もっとたくさんの人が『永夜の民』になりたがると思うけど……」
「ええ。ですが、すべての人が、同じだと思うのは間違っていますよ」
どこか諭すように、セキは言う。
「永遠になるということは、大切な人たちが死んでいくのを、ずっと見続けなければなりません。いつか死んだら会える、なんて希望も、永夜になってしまっては、潰えてしまいますから」
セキの声音が、ひどく悲しいものに変わる。呉羽は思わず、「ご、ごめんなさい」と謝ってしまった。
「いえ、謝ることではありませんよ。長くなりましたが、つまりは〝自分たちを永遠の存在にしてくれた『月の女神』に、感謝と崇拝の意味を込めて、舞をささげる〟というわけです」
呉羽は「なるほど」とつぶやいた後、手を打って、「だから、『永夜の民』にとって、『月の女神』は大切な存在なのね」と言った。
「……まあ、あの時もっと多くの人が『永夜の民』になっていたら、この地に『永夜の民』が降り立つことはなかったでしょうしね」
ふたりははぐれないように手をつなぎ、見物客の波をを抜け、先にある店の方へと歩いて行く。その時、
「おい、あそこに『有夜の民』もどきがいるぞ」
「やだ、なんで祭りの日にまであいつを見ないといけないの。汚らわしい」
「早くここからいなくなれ、『有夜の民』もどきが」
『永夜の民』から向けられる、蔑むような声。——お祭りの日にまで……。
いや、『月の女神』への服従を示す、大切な祭りに日だからか。呉羽は黙って歩き続ける。彼らも、呉羽を追いかけてまで罵声を浴びせてくることはない。
もうすぐ広場を抜けるという時、セキが不意に立ち止まり、呉羽の身体がつんのめりになる。
「セキ?」呉羽は振り返り、セキの顔を見る。「どうしたの?」
「……あれは、呉羽さんに向けての悪口ですよね。どうして、あんなことを言われているのですか?」
呉羽は、少しの間黙り込み、
「わたしが、いつもお菓子を宣伝しながら売っているから、それが『有夜の民』みたいに見えるって……」
と正直に答えた。
「そうなんですか」と、セキは答えた。
「ふむ……なら、なぜお菓子を売ろうと思うのですか? 売れば売るほど、肩身が狭くなっていくのに。私はそこまで気にしませんが、あなたはそうではないでしょう? なぜ、そんなに必死に?」
「……」呉羽はうつむき、黙り込む。呉羽がお菓子を売り続けるのは、いつか『永夜の民』と『有夜の民』が、分かり合えると信じているからに他ならない。しかし、そのまま言ってしまえば、自身が『有夜の民』と自白しているようなものだ。
長考した末、考えついた答えは、「わからない」だった。
「理由なんて忘れたよ。きっかけが何だったのかも」
「……そうですか。まあ、よくあることですもんね」
セキはそう答えて、再び歩き出す。それにつられて、呉羽も黙って歩き出す。
無言だったが、セキの隣で歩くのは、いい気分だった。
中央の広場から『月下大社』への道を歩いていると、聞いたことのある声が聞こえてきた。
「んん? お前さんは、この前会った椿餅の……」
黒髪を高く結い上げた男性。いつぞやの行商人の男性だった。今日は、売り物は持っていない。純粋に祭りの見物人としてやってきたらしい。
「あら、いつぞやの行商人のおじさん。偶然ね」
「ああ、そうだな」
「覚えていたの?」
「あんなに必死に宣伝をするやつなんて、久方ぶりだったからな。印象に残っただけだ。すぐに忘れるさ」
蚊帳の外に追いやられていたセキが、呉羽に「誰ですか?」と耳打ちする。
「前に会った人だよ。知り合いってほどでもないけど」と、呉羽は答えた。それは知って知らずか、行商人はふたりを品定めするように見ている。
居心地が悪くなって、呉羽は、
「おじさんはこれからどうするの? わたしたちはさっき、舞を見てきたところだけど」
と、再び会話を切り出した。
「それなら、俺もさっき見たさ。これから『月下大社』で、巫女王様——『月の女神』のお声を、唯一聞ける、ただひとりのお人——その訓示があるからな。それを聞くんだ。四年前も聞いただろう?」
「そ、そういえばあったわね、そんなものも」
呉羽は、曖昧にごまかす。巫女王は、行商人の言うとおり、『月の女神』の声を唯一聞くことができる存在で、言うならば、『月の女神』信仰の、最高者である存在だ。
「巫女王の声と姿を拝めるのは祭りの日だけだからな。じゃあ、俺はこれで」
そう言い残して、行商人はその場を後にした。
「じゃあ、わたしたちも行こうか、セキ」
そう言ってセキの腕を引くが、彼は黙ったままうつむき、微動だにしない。
「セキ、どうかしたの?」
呉羽が声をかけると、顔を上げ、「大丈夫ですよ、呉羽さん」と答えた。
「さて、私たちもその巫女王の訓示とやらを聞きに行きましょう」
セキは呉羽の手を引き、『月下大社』へと歩きだす。
呉羽の手を握る力は強い。それとは裏腹に、その背中は少し寂し気だった。
『月下大社』の、決して広いとは言えない境内の中に、都に住むすべての民が集まっている。それゆえ、ひどい混雑であり、ひとり転んだだけで、すべての人が道連れになって転んでしまいそうだ。
「わかってたけど、すごい人だね」
「ええ、はぐれないようにしましょう」
呉羽の手を強く握っていたセキは、どこか不安そうに彼女に注意する。「言っておきますが、探し出せる自信はありませんよ。自分で言うのもあれですが、私は自分勝手なので」
「それなら問題ないよ。わたしも、普段から自分勝手だから!」
呉羽は胸をたたいて答えた。
不意に、人々がざわめきだし、視線を一点に向ける。釣られてふたりも、皆の視線の先に目を向ける。
皆の目線の先にあるのは、本殿である。本殿から扉までには段があり、扉の左右の回廊に巫女が数人ずつ並び、段の左右には神主が同じように並んでいる。扉の先は、曇っていてよく見えないが、きっと、あの中に巫女王がいる。
呉羽は、つばを飲んだ。——あそこに、巫女王様が……。
ふと、セキの表情が気になって、彼の方を見る。複雑そうな、それでいて異質なまなざしを、巫女王に向けていた。怒りも、悲しみも、憎しみも、辛さも、寂しささえも、燃え尽きたようなまなざし。『永夜の民』らしい、生気のないまなざしなのに、明らかに他の『永夜の民』とは違う、異質さがあった。
「セキ、どうしたの——」
「——静まれ!」
呉羽の言葉に被せるように、とろみのある女性の声が轟く。慌てて本殿に視線を戻すと、先ほどまで、すべてを拒むように閉まっていた扉が開き、その奥で御簾が揺れている。その隙間から、遠目でもわかるほど、白く細い手が伸びていた。その手は、ゆっくりと御簾をどかすと、持ち主の姿を露わにした。
布帛を被っており、その顔を見えないが、すらりとした体形の女性であった。夜をそのまま切り取ったような十二単を身に着け、垂髪の髪は、新月の夜さえもかすむような漆黒であった。
——綺麗、でも……。
なぜか、胸中が落ち着かなくなる。他の『永夜の民』とは、一線を画す存在だからだろうか。
「最近、わが都では、ツキモノの被害が絶えぬ。それはすべて、この世に蔓延る『有夜の民』のせいに他ならない!」
鼓動が、どくりと、いやな音を立てた。
「しかし! 『月の女神』は、我ら『永夜の民』を、必ずしや護ってくれるであろう! 我らに永遠の〝祝福〟をお与えになった『月の女神』のため、今日は存分に楽しんでくれ!」
巫女王の言葉に、観客たちは歓声を上げた。
そんな中、呉羽とセキは歓声を上げずに、巫女王をじっと見つめていた。呉羽は、未だに胸中を渦巻く感情が分からず、当惑していた。
セキは、変わらず、巫女王に対して、複雑そうなまなざしを向けていた。感情で例えれば、軽蔑、だろうか。
ただひとつ、わかることといえば、その視線が、巫女王に対する、嫌悪に近い何かだという事だけだった。