帝都は、帝の住まう宮殿を中心に、華やかで豪奢な都会の風景が広がっている。社会の中心が、権力者の住まう場所である点は、『永夜の民』が住む都と大差ないように思える。
時の帝は、刹那女王という、約一千年ぶりの女帝で、まだ成人して間もない方だ。しかし、高い政治手腕を持つ、敏腕な帝だ。そのうえ人を思いやる気持ちもある、人としてもよくできた女性であった。
女性の帝など、少し前までは考えられなかったというのが嘘のように、人々は彼女に心酔していた。一千年もたてば、人間の気持ちも変わるものなのだろうか。
——この数十年で、人間は本当に様変わりした。
セキはつくづく思う。西欧諸国が開国を迫ったかと思えば、次の瞬間には、暦が変わり、建物が変わり、さらには衣食や文化まで、すべてが早変わりした。街にはガス灯が数多く設置され、道には路面電車や、自動車が通る。少し前まで、牛車で移動していたのが嘘のようだ。人間の変化の速さには、永遠についていけないのだろうと、セキは感じていた。
——まあ、追いつく気なんて、さらさらありませんが。
だが、こうも長い間生きていると、急速な政変なんかにもいずれ適応できるようになるのだ。無論、その〝急速〟というのも、『永夜の民』である、セキの感覚だが。
——ですが、呉羽さんは違います。
彼女は『有夜の民』だ。急激に変わった世界に、困惑することは目に見えている。そうなったとき、なんとかするのが自分の役目でもある。
——彼女には、絶対に幸せになってほしい。
そう思う。それも、自分の隣で。我ながら、傲慢な考えである。
だが、そんなセキの懸念は、すべて杞憂に終わることになる。
♢
「わああ! すごい! すごいよセキ!」
呉羽は瞳を輝かせながら、落ち着きのない様子であたりを見渡す。そんな呉羽を、人々は奇異の目で見ている。
「呉羽さん、落ち着いてください」
こんな時でも落ち着いているセキの声も、いまの呉羽には届かない。
「見て! あの女の人が来ている装束、とっても華やかで素敵! あ! あの男の人の帽子、とっても格好いいわ!」
呉羽はたまらず走り出し、近くの甘味処へと走る。しかし、店内外を仕切る窓に、透明な何かがあって、入ることができない。
「セキ、何か見えない壁みたいなのがあるよ。これは何?」
「ああ、玻璃ですよ。最近はガラスと言いますが」
セキが説明する。
「へえ! ここの人たちは、玻璃——ガラスを窓にはめてるんだね。うん、確かにそっちの方がおしゃれだね」
くすりと笑って、呉羽は言う。セキも、つられてわずかに微笑んだ。
「ねえ、まずはどこに行くの? ここ? この建物?」
「いえ、まずは服の調達ですかね」
呉羽は、そこで初めて、自身が寝間着姿であることを思い出した。ようやく我に返った呉羽は、顔を真っ赤にして、両手で覆い隠した。
セキに連れられ、やってきたのは『ききょう』と書かれた看板を掲げた仕立て屋だった。呉羽の住んでいた屋敷ほどではないが、帝都の中ではそれなりに大きな建物で、まとう雰囲気からして、老舗という言葉が似合う。そんな佇まいだ。
店に入ると、嗅ぎなれない爽やかな植物の香りが、呉羽を優しく抱き込む。衣桁には、見たことないほど華やかな装飾がなされた着物がかけられ、奥の棚には、華やかさを抑えた色合いの反物が重ねられていて、呉羽の心が躍る。
「わかってるからね、セキ。ちゃんと静かにするから」
セキに言われるよりも先に言うと、
「……まだ何も言っていませんが」
と呆れたような声音で返される。
「んん? なんや、セキやん」
急に声をかけられ、呉羽は咄嗟にセキの背後に身を隠した。
声をかけてきたのは、うら若い女性だった。すらりと背が高く、右胸には、緑色の飾りがついている。後頭部で束ねられた腰まで伸びる髪は、動くたびにゆるやかに揺れる。完成されたばかりの彫刻のような美しい顔立ちは、声を聞かなければ、男性と間違えてしまうほど中性的な美しさを湛えている。涼しげな目もとに、生気が感じられない瞳。——『永夜の民』……?
だが、先ほどの声音と言い、表情と言い、『永夜の民』らしくないと思った。
「あんた、仕事ですとかなんやゆうて、一週間帰ってこんかったやん。どこ行ってたん?」
女性は、セキに詰め寄ってくる。
「あなたには理解できないほど、難解なこと、ですかね」と、セキが曖昧に返すと、女性は深くため息をついた。呆れてものも言えないような様子だった。
「いつまでもうちを子ども扱いすんなや。うちももう三百歳のいい大人なんやけん」
「さ、三百……」
やはり、この女性も『永夜の民』のようだ。都の外にも、『永夜の民』が普通に暮らしているとは驚きだった。
「時にセキ、さっきから後ろに隠れとるんは誰や?」
急に矛先が向いて、呉羽はびくりと身体を震わせる。
——もしまた、自分が『有夜の民』と言われたら……。
寿命を持つ者が大半を占める帝都で暮らしている『永夜の民』である以上、いらぬ心配だとわかってはいる。だが、ついこの前の迫害の恐怖が、呉羽の中に深く根を張っており、身体が震えてしまう。
「呉羽さん」肩越しに、セキは呉羽の顔を覗き込む。「大丈夫です。彼女は……リョクは、あいつらのように、あなたを虐げるようなことはしませんから」
リョク。それがこの女性の名前らしい。なるほどたしかに、彼女にはリョクという名が似合う。呉羽は、おそるおそるセキの背中から離れ、リョクの前に立つ。目の前に立ってみて、改めて彼女の背の高さに驚く。おそらく、男性のセキよりも頭ひとつ分ほど大きい。都には、リョクほど背の高い女性はいなかったので、呉羽はたじろいだ。
「ちょっと! なんでこの時期にそんな薄着なんよ! しかも裸足やし! セキ、あんたには女子に対してすべき配慮ってもんがないんか!」
呉羽を見るなり、リョクは血相を変えて声を荒らげる。あまりの声の大きさに、呉羽は頭が痛くなった。いまはちょうどお昼時で、店内に客が少ないのが幸いだった。
「……だから、着物を見繕いに来たのですが」
「頼んだその日に出来上がる訳ないやん! なんで長生きやのにそういうことには無知なんよ!」
リョクの言い分はもっともだが、早急にこの言い争いをやめさせた方がよいと、呉羽は感じていた。事実、店主らしき女性が困惑した様子でこちらを見ている。背中を覆い隠すほど長い髪が美しい、二十歳前後の娘だ。右目にガラスがはめられた飾りをつけており、その奥にある瞳には、呉羽が見たことないほどの色が溢れていた。
——この人は、わたしと同じ……。
おそらく、寿命を持つ人間だ。初めて間近で見る人間に、呉羽の心は温かい何かで満たされていく。ここではもう、『有夜の民』だからと蔑まれることはないのだ。
「……まあええわ。今日引き取る予定やった着物を貸したるけん、それを着せたらええわ」
そんなことを考えていると、ようやく落ち着いたのか、リョクはそうつぶやいた。
「宿舎になら、あんたのサイズに合ったものもあるやろうし、それでええな」
「さいず……?」
呉羽の言葉に、リョクは訝しむように見つめてくる。呉羽は、思わず後退する。
「……セキ、話はあとで聞かせてもらうで」と言い残し、リョクは店主を伴って店の奥へ入っていった。
残されたふたりは、その場に立ち尽くしていた。
ただ一言、セキが、
「はあ、何年たっても、彼女は変わりませんねえ……」
とつぶやいた。
リョクが荷物を受け取った後、呉羽たちは足早にリョクの住む宿舎へと向かった。貸してもらった着物は、菊の花があしらわれた落ち着いた色合いのものだったが、やはり、小柄な呉羽には少し大きかったのだ。
ほどなくして、呉羽たちがたどり着いたのは、宮殿の近くに設置された、大きな建物だった。宮殿の近くと言っても、ここは自然豊かな場所で、緑が生い茂っている。建物は、この辺りに多くある洋館と同じ造りで、これまでずっと都で生きてきた呉羽には、目が飛び出るほどの華やかさを纏っていた。
「わああ! とっても綺麗な建物ね! 都では見たことないわ」
「まあ、そうでしょうね」と、セキは答える。「宿舎は、この裏手にありますよ」
「あんたが言わんでもええやろ。あんたは住んでないんやけん」
唇を尖らせながら、リョクはため息をつく。彼女は、呉羽と同様、子どもっぽい性分らしい。
「ちなみに、この建物が、うちらが働いとる対怪異小隊の本部な。ここに所属しとるもんは、大体があっちの宿舎で暮らしとる。といっても、あんまり人はおらんけどな」
「へえ」
呉羽は相槌を打つが、建物に気を取られており、大して聞いていなさそうである。
「……人の話を聞いとらんところ、セキにそっくりやな」
悪意がないだけましやけどな。そう吐き捨てて、リョクはセキを睨みつける。
セキは、あっけらかんとしていて、リョクの嫌味に何も感じていないように見える。——いや、『永夜の民』なのだから、普通なのだが。
リョクが、『永夜の民』らしくないので、混乱してしまいそうだ。
「着いたで」と言って、リョクは立ち止まる。
目の前の宿舎は、先ほどの洋館とは違い、木造建築だった。屋根は薄花色、壁は白く塗られ、しゃれた雰囲気を醸し出す、美しい建物だった。
「わああ……!」
「あんた、さっきからそればっかりやな」
リョクの指摘に、呉羽は苦笑した。
宿舎は二階建てで、一階が隊員の部屋として使われているらしい。セキとは宿舎の前でいったん別れ、リョクの部屋へと向かう。リョクの部屋は、隅の方にあった。室内は呉羽の局の二倍ほどの大きさがあり、小綺麗に片付いていた。ガラスの窓からは日が差し込み、明るい雰囲気があった。
「ちょっと待っとき。いま、使っとらん単衣とか引っ張り出すけん」
リョクに促され、呉羽は寝台に腰かけた。感じたことないほど柔らかい布団に、呉羽は疲労感も相まって眠ってしまいそうだ。
「……」呉羽はそのまま横になる。そうすると、否応なしに、まぶたが重くなってくる。
——寝ちゃいけないのに……。
そう思っても、まぶたはどんどん重くなる。やがて、抵抗する力もなくなって、呉羽はまぶたを閉じた。
目を覚ますと、呉羽の身体には、上着がかけられていた。リョクが着ていたものだ。気を遣って、かけてくれたのだろう。部屋には誰もいない。日が傾いているのか、部屋は少し薄暗い。——どのくらい寝ていたんだろう。
呉羽は上着を手に、部屋を出た。廊下にも誰もおらず、呉羽は胃のあたりが冷たくなった。
「りょ、リョク……?」
呉羽はそのまま外に出る。その瞬間、冷たい風が、呉羽の身体に吹きつけた。その風に身震いしながら、呉羽はリョクを探す。
「リョクーっ! どこにいるのー……」
不意に、背後から、がさがさと物音がした。はっとして、そちらを振り返る。
「だ、誰……? リョク? それとも——」
言い切るよりも先に、それは姿を現した。どろどろとした、汚泥のような靄。
「——ツキモノ」
ツキモノは、じわじわと呉羽に距離を詰めてくる。だが、前と違って、呉羽に恐怖心はなかった。
——これは、悲しい存在だから。
人として生きることも、死ぬことさえも許されない。『永夜の民』の成れの果て。
「……あなたは、誰だったの?」
呉羽は、ツキモノに触れる。もちろん、実体がないので、霧に手を突っ込むような感覚だが。やはり、ツキモノは温かい。実体がないのに、そう感じる。
そしてまた、呉羽の意識は遠のいていく。
♢
『ねえ、もし永遠になれるのなら、君は、永遠を選ぶ?』
そんなことを、隣で横になっていた青年は問う。彼の青い目は、赤く腫れていた。泣いていたのかもしれない。
その問いの返事に、困ってしまった。そんな資格がないと思ったからだ。
『わたしは、罪を犯したから』
かろうじて、それだけ言えた。
『私は、何年先でも、何十年先でも……いえ、何億年先でも、何十億年も、あなたと一緒にいたいです』
青年は言う。『このまま、この時が永遠になればいいのに』とも言った。
『それは無理だよ。だって、みんないつか死ぬもの。わたしも、あなたも』
そう答えると、青年は悲しそうな顔をして『そう、なんですかね』とつぶやいた。
その顔が、あまりにも辛そうだったので、胸が苦しくなった。
その後も、ふたりで寝ころんだまま、空を見続けた。
♢
「危ない!」
その声で、呉羽は我に返った。リョクの声だった。リョクは剣を抜き、ツキモノに襲い掛かる。
「だ、だめ! 切らないで!」
呉羽の必死の訴えに、リョクの動きがぴたりと止まる。その隙に、ツキモノは素早い動きで逃げて行った。
安堵する呉羽を、リョクは、
「あんた、一体何者や……?」
とつぶやき、信じられないものを見るような目で見た。
「ツキモノに触れても、何にもならんなんて……」
その目には、これまで向けられ続けてきた蔑んだ色はなく、果てしなく純粋な、困惑があるのみだった。
永夜の都に住む『永夜の民』は、寿命のあるものを、例外なく『有夜の民』と呼ぶが、実際は少し違う。
『有夜の民』は、寿命を持つ『月の民』を指す言葉であって、もともとこの星に住んでいた人間を指す言葉ではない。
ただ、いかんせん『永夜の民』が地上に降りてから、二千年以上たっている。そのうえ、この地上世界は、よく流刑地として使われるため、はるか昔から、『月の民』もこの地に降りてくるので、誰に『月の民』の血が混じっているのかなど、もうだれにも分からない。なら、『有夜の民』を忌み嫌う彼らとしては、寿命ある者すべてを、『有夜の民』と、ひと括りにしてもよいのかもしれない。
リョクは、呉羽の着替えを手伝いながら説明した。南天が施された、落ち着いた色合いの単衣は、植物の色が少なくなるこの時期によく合った華やかさを抑えた色合いだ。それに、紫色の袴を合わせた。そして、最近はやっているという編み上げのブーツをはかせてもらった。
「やっぱり、編み上げブーツはハイカラって感じがしてええなあ。着物も似合っとったけど、袴も似合うわ。素材がええけんかな」
ソファに腰かけている呉羽に、リョクは言った。
「ハイカラ……?」
聞いたことがない言葉である。というか、ここに来てから、聞いたことがない言葉ばかりである。
「西洋風でおしゃれってことや。最近はハイカラなもんがいっぱいやけん、明日セキと見に行ってき」
「うん! 楽しみにしておくね」
そういえば、セキはどこに行ったんだろう。あの時別れてから、彼を一度も見ていない。そんな考えを察したのか、リョクは、
「あいつなら、呼び出しを受けて、帝に会いにいっとるで」
「帝って……」
言わずもがな、この帝国を治めている人物だ。そんな大物に会いに行っているのか。
「セキはこの隊の隊長やけんな。それに」
リョクは、呉羽の隣に座る。
「セキは長い間、それこそ、人間が何度生まれ変わっても足りひんぐらい、この国を守り続けてきとるけんな。帝にもずっと仕え続けとる」
だから、必然的に頼られてまうんやな。どこか、皮肉交じりに、リョクは言った。
「……リョク?」
「そんなわけで、セキは遅くなると思うけん、うちがあんたをセキの家まで送る約束をしとるんや。行こっ!」
「う、うん」
呉羽は、若干の引っ掛かりを感じつつ、立ち上がり、リョクについて行く。編み上げブーツのせいか、少し視線が高い。
——セキに会いたい。
なぜか、無性にそう思って、呉羽の心は落ち着かないままだった。
セキの住む屋敷は、華族たちの屋敷が並ぶ地域ではなく、自然の多い、竹林の中にあった。人生二度目の自動車に乗り、四半時ほど走った場所で、閑静な農村地帯のすぐそばだった。
運転をしていた青年は、帽子を深く被っており、顔はよく見えなかった。あまりにも深く被っているので、本当に前が見えているのか、いささか疑問に思った。
目的地に着くと、辺りとは一線を画す雰囲気を醸し出す木造の屋敷に、呉羽は圧倒される。
敷地に対して、屋敷は広くないが、どこか懐かしさを感じる、趣のある家屋だった。二階建てで、よく手入れが行き届いている。それでも、どこか物憂げに見えてしまうのは、広い庭に、池だけがぽつんとあるからか。それとも、屋敷の主人が、感情を失った『永夜の民』だからだろうか。
その屋敷に圧倒されていると、竹林から一羽の烏が飛んでくる。他の個体よりも、小柄な烏。慈鳥だった。
「慈鳥」
驚いた。呉羽の近くによく現れるとは思っていたが、まさか、俗世である帝都にまでついてくるとは。
「また会えて嬉しいよ。よくついて来れたね」
呉羽は、慈鳥の頭を指で優しく撫でる。
「ほーう。烏に名前をつけとるんか」
リョクが、物珍しそうにつぶやく。
「やっぱり、烏は苦手なの?」
帝都で暮らしているとはいえ、リョクも『永夜の民』。もしかしたら、死の象徵である烏を、好いていないかもしれない。
だが、「いや? そんなことはないで」とリョクは一蹴した。
「珍しいやん。鳥に名前付けてるの」
飼ってるわけやないやろ。その問いに、呉羽はうなずいた。慈鳥は、あくまで友達だ。「慈鳥は、わたしの友達なの」
「友達か。ええやん、それ」
リョクはからりと笑ってみせる。本当に、『永夜の民』とは思えないほど、彼女は表情が大げさだ。
「おい」
そう話していると、急に声をかけられる。声をかけてきたのは、運転手の青年だ。粗暴そうな声だった。
「いつまで立ち話をしてんだ。するなら中に入れ。俺が叱られる」
「あんたなあ‥‥‥」リョクは呆れたようにつぶやき、青年を睨みつける。青年の表情は、帽子で隠れていてよく見えない。どうしようかと思っていると、
「あらら? 帰ってきたー?」
柔らかな少女の声が、ふたりの間に割って入った。
声の持ち主は、玄関から戸を少しだけ開け、こちらを覗き込んでいる。
「え?」
呉羽は、ぽかんとした。声の持ち主は、声音からも想像できる通り、幼い少女だった。色素の薄い髪をおさげにして、無地の着物を着て、たすきと前掛けをしていた。おそらく、この屋敷の使用人だろう。だが、特筆すべき点は、そこではない。
少女の頭には、匙のようにぴんと伸びた白い耳が生えていた。兎の耳だった。
——もしかして、あれって‥‥‥。
「もー、また喧嘩してるの? いい加減にしてよねー。あたしたち玉兎が、『永夜の民』に勝てるわけないんだから」
玉兎。月の都の民族の一派である彼らは、兎の耳と尾を持っている。数も多いため、よく『月の民』に仕えていたという。
呉羽も、文献でその名を見聞きいてはいたが、実際に見たのは初めてだった。玉兎を好んで使役していた『有夜の民』と同じことをしたくないと、『永夜の民』が、彼らを目の敵にしていたからだ。
「あらら? ところでそちらのお嬢さんは?」
ふたりに悪態をついていた少女は、呉羽の方を見て、とてとてと近づいてくる。その愛くるしい見た目に、思わず見とれてしまう。
「ああ、この子が今日から世話になるっちゅう子や。セキから聞いとるやろ?」
「まあ!」少女は大げさに口許を手で覆う。「噂には聞いていましたが、こんなに可愛らしい人だなんて」
可愛らしい、と言われ、呉羽はまんざらでもなさそうに微笑む。
「ささ、中にお入りください。夕食の準備が整っていますよ」
少女は、言葉遣いこそ丁寧だが、声色や声量から、感情がくみ取りやすい。子どもっぽい性格なのかもしれない。
「ほな、うちは宿舎に戻るわ。明日、昼前に迎えに来るけん、腹空かせときなね」
リョクがからりと言うと、運転手の青年が、「歩いて帰れよ」と横槍を入れる。
「わかっとるわ。相変わらず性格悪いなあ」と言いながら、リョクは後ろ手に手を振りながら、来た道を戻っていった。
「帝都まで遠いけど、大丈夫かな……」
呉羽がつぶやくと、青年は「大丈夫だろ。『永夜の民』だし」と吐き捨てる。
「黒曜、そんなこと言わないの。性格が合わないだけでしょう」
黒曜と呼ばれた青年は、むっつりと押し黙る。
どうやら、青年は黒曜という名らしい。たしかに、彼は黒い装束を身にまとっている。
「あ、すみません。名乗っていませんでしたね」
少女は、こちらを向き直す。「あたしは雲母と申します。こちらは黒曜、あたしと同じ玉兎で、運転手をしてます」
「雲母ちゃん、それから、黒曜さん。これからよろしくね」
雲母は嬉しそうに歯を見せて笑い、黒曜はふんっ、と鼻で笑うだけだった。
——春ちゃんと、博士みたい。
意外な共通点を見出した呉羽は、これからの生活に、胸を膨らませるのだった。
♢
宮殿の奥にある、六畳ほどの畳敷きの部屋。そこは、対怪異小隊の隊長であるセキと帝が会うためだけの、封鎖された空間であった。窓はひとつもなく、明かりも最低限。何か恐ろしい化け物がひっそりと暮らしているような雰囲気を醸し出す空間。壁には、月と、そこから降り立つツキモノと、髪の長いひとりの女性が描かれていた。
刹那女王は、西洋のドレスではなく、十二単姿で、その絵を背にして腰かけた。女王の服装は、帝がセキに会う時の伝統のようなもので、暗黙の了解ではあったが、帝の一族は、粛々と守り続けていた。なんとも義理堅いことだと、セキはいつも感心していた。
「よく来てくれたな、セキ。急に呼び立ててすまなかった」
「本当ですよ。あなた、私がこの宮殿が嫌いなの知っていますよね」
セキがためらいなく言うと、刹那女王は噴き出す。
「はは、お主は変わらぬのう。態度も、それから姿も」
それをいうなら、彼女も変わらない。変わったのは、姿ぐらいのものだ。
「お主は、わらわが男児ではないからと、臣下たちから蔑まれても、わらわを見捨てなかった」
「男か女かで、蔑むなんておかしいですから」
「そして、わらわを唯一叱ってくれる、対等に話せる、兄のような存在じゃ」
まあ、いずれわらわも、兄とは呼べない姿になってしまうだろうが。刹那女王は、寂しげに瞳を揺らす。
「……私は、慣れていますよ。共に過ごした者たちが、次々に年を取って死んでゆく。よくあることじゃあないですか」
あっけらかんと言うと、刹那女王は、ため息交じりに、「それは、本来慣れてはいけないものだ」と言った。
「まあ、永遠を生きられるお前には、要らぬものなのかも知らぬが」
しばらく黙り込んだ後、「話がそれてしまったな」と刹那女王は仕切り直す。
「先日、宮殿にもツキモノが侵入してきた」
刹那女王の声色が、明らかに変わる。統治者としての、威厳ある声であった。
「それだけではない。報告によると、一般人らへの被害も増えていると聞く。被害にあった者の数は、これまでとは段違いだ」
ツキモノは、街に現れては人を襲う。なぜそんなことをするのかは、よくわかっていない。生への執着か、『有夜の民』への敵愾心か。結局のところは分からない。ツキモノになったことがないからだ
「何か、心当たりはないのか。このままでは、民の命が危うい」
セキは沈黙を貫き、刹那女王をただ見つめる。
「わらわは、民を守る責務がある。彼らが幸せに暮らせる国を守らねばならぬ。だが、わらわには、ツキモノと戦う力はおろか、近づくことさえままならぬ」
「……」
「頼む。何かあるなら教えてくれ」
刹那女王は、額を床にこすりつける。帝が、たかが軍の一部隊の隊長であるセキに、である。
——それほど、いまのこの国は、ツキモノの危険にさらされている。
そして、この国を、民を、守りたいと思っているのだ。本当に、よくできた女王だ。
「……はあ、あなたは本当に馬鹿真面目ですねえ」
セキが呆れたように言えば、「それがわらわの取り柄だろう?」と、優美に微笑む。
「……あるとすれば、巫女王でしょう」
刹那女王は、訝しむようにセキの顔を覗き込む。「巫女王。たしか、永夜の都を支配し、『月の女神』信仰の最高権力者、だったか?」
「はい、そうです」
「なぜだ。なぜ、そう思うのだ」
「それは——」
セキの言葉に、刹那女王は、目を大きく見開いた。
帝への報告を終えたセキは、宮殿の庭園を横断していた。庭園の横断は、帝の許しがあれば可能だが、わざわざ実行する人間はいない。そんなことをすれば、他の華族らの顰蹙を買いかねないからだ。
しかし、そんなものには微塵も興味がないセキは、気にすることなく、悠々自適に庭園を横断していた。
「おい、また来ていたのか。あの化け物」
遠くから、そんな声が聞こえてきた。
「ああ。なんでも、陛下から呼び出しがあったそうだ」
「こう何度も来られると、気分が悪くてかなわないな」
「しかも、何をしても死なない化け物だなんて……! そんなものに媚びへつらわなければならない陛下の、なんと哀れなことか……」
「おい、誰かに聞かれたらまずいだろう」
——ばっちり聞こえてますけどねえ。
セキは、いつも思う。いまの声は、おそらく華族だろう。あんなに醜く『永夜の民』の悪口をいう人間など、華族ぐらいだ。実際に手を汚していないからと、自身は何も悪いと思っていない、傲慢な人間。
——まあ、なんとも思いませんけどね。
こんなの、呉羽が受けていた迫害に比べれば、無いも同然だ。
そのまま庭園を抜け、屯所へと歩を進める。だいぶ日が傾いている。そろそろ日没だ。
——呉羽さんは、雲母や黒曜と仲良くやれているでしょうか。
雲母は社交的だが、黒曜は、あまり人と打ち解ける性分ではない。だが、呉羽のことだ、すぐにふたりとも打ち解けるだろう。
そんなことを考えていると、背後から何者かに殴られ、押し倒される。とっさのことに受け身が取れず、そのまま倒れこむ。見上げると、そこにはふたりの男が立っていた。細身の男と、ふくよかな男性だ。逆光のせいで顔はよく見えないが、明らかな殺意を感じた。
「……なんでしょうか」セキが尋ねると、男のひとりが、セキの腹を思い切り蹴り上げる。つぶれた蛙のような声を上げ、セキは壁にたたきつけられる。痛みはない。だが、苦しい。
「『なんでしょうか』じゃない! お前たちが仕事をしなかったせいで、母ちゃんは一生歩けない体になっちまったんだ! お前たちがもっと必死に戦ってたら、こんなことにはならなかったんだ!」
「おらの同僚だって、大怪我したんだぞ! お前のせいだ」
セキへの暴力と迫害は、徐々に勢いを増してゆく。お門違いにもほどがある。セキはいつもそう思う。このふたりの知人を傷つけたのは、セキではない。ツキモノだ。だが、人間は弱い生き物だ。だからこそ、手が出せる『永夜の民』を、ツキモノによる被害を防げなかった『永夜の民』に、怒りを向けるのだ。『永夜の民』は、死ぬことはない。だからこそ、人々は気がすむまで痛めつけることをいとわないのだ。
こういった経験は、初めてではない。過去千年以上、続いてきたことだった。痛みはない、だが、その代わりに、遠い昔の記憶が、溢れて止まらなくなる。
『有夜の民』からも、『永夜の民』からも嫌われ、差別され続けた、あの日常が。こうなってしまったら、セキはもう、嵐が過ぎ去るのを待つほかない。当然のもののように、受け入れるしかない。
警察もあてにはならない。皆、相手が『永夜の民』だと分かれば、知らぬふりをするのだ。
それからしばらくして、ようやく満足したのか、男たちは手を止めた。
「ふん、次は覚悟しておけよ、化け物!」
「そうだそうだ! お前なんて消えちまえ、呪われた化け物!」
捨て台詞を吐き、彼らはその場を去る。セキは、動くことができず、その場で倒れこんだまま。かなり激しく殴られてたので、骨ぐらいは折れているかもしれない。
——これでは、今日は帰れそうにありませんね。
ここまでひどいと、傷もなかなか治らない。少なくとも、一晩はかかるだろう。
セキは気を奮い立たせ、なんとか立ち上がると、屯所まで、身体を引きずるようにして歩いた。
傷は、もうすでに治りかけていた。
お昼前、雲母に身支度を整えてもらう。
行燈袴を穿くことは決めていたが、単衣をどれにするかで、雲母は頭を悩ませていた。
「呉羽ちゃんには、きっと淡い色が似合いますよね。昨日の南天柄の単衣も素敵だったけど」
かれこれ四半時以上これなので、呉羽はいい加減飽きてきた。時間も迫ってきているのに、これでは間に合わない。
「この薄桃色の単衣がいいんじゃない? 可愛いよ」
しびれを切らして呉羽が言うと、雲母は手を打った。
「それがいいですね! じゃあ、それに合わせて袴はこの赤いのにしましょう」
そう言って雲母が取り出したのは、深紅色の行燈袴だった。
「素敵な色だね」
「呉羽ちゃんが着れば、もっと素敵に見えるはずですよ。ささ、早く着替えてしまいましょう。足袋も出しますね」
ささっと足袋を取り出し、それを呉羽に履かせる。単衣に腕を通させ、袴を穿かせれば完成だ。髪は、最近はやっているという半上げにしてもらって、レースのついたリボンをつけてもらった。
「はい。これで完成です」
鏡台の前には、昨日見たハイカラな女学生さながらの少女が立っていた。
「わああ……! 素敵! とっても素敵だよ。ありがとう、雲母ちゃん」
「喜んでもらえてうれしいです。もうすぐ、リョク様が迎えに来ますからね」
しばらくして、リョクが訪ねてきた。
昨日の軍服とは違い、深緑の無地の着物に、茶色い帯を締めた姿でやってきた。すらりとした体形と、涼やかなその容姿も相まって、昨日以上に美しさが増しているように思えた。
「おお、似合っとるやん。ほな行こか」
「うん!」
溌溂と返事をすると、リョクもつられて少し微笑んだ。
帝都までの道中、呉羽は、
「……昨日、結局セキは帰ってこなかったの」
と漏らした。
「帰ってくると思って遅くまで起きてたんだけど、全然帰ってこなくって……結局寝落ちしちゃったの」
リョクは、何も答えなかった。少しばつの悪そうな顔をして、うつむいていた。
「セキは昨日、屯所——昨日行ったとこやな——に泊まり込んどったで。帰ってくるん、結構遅かったけん」
「そっかあ……」呉羽は、宙を仰ぐ。「なら、しょうがないね」
「帰る前に、一回屯所に寄ってみる? 喜ぶかどうかは知らんけど」
屯所は、軍の駐在所の事らしい。対怪異小隊の場合は、そこが本拠地らしいが。
「軍の屯所なんて、わたしが行っていいの?」
「隊員のうちが許可しとるし、ええやろ」
からりと笑うリョクを、運転していた黒曜が少しだけ視線を向け、睨みつける。今日も彼は、帽子を深くかぶっている。どうやら、耳を隠すためらしい。
「そんなことよりや! 今日は目いっぱい楽しもな。これまで辛かった分、ぱーっと楽しんだらええわ」
自動車を走らせ、最初にやってきたのは喫茶店というところだ。リョクいわく、茶屋のようなものだと言われたが、永夜の都にもなかったものなので、結局よくわからなかった。
店内は客で賑わっており、談笑する声がそこらかしこから聞こえてくる。
ふたりは店の隅で、窓際の席に通された。リョクはソーダ水を、呉羽はシベリアと煎茶を注文し、ほどなくして、それらが運ばれてきた。
シベリアは、羊羹をカステラという和菓子に挟み込んだ菓子だ。しっとりとした生地に、舌触りが良い羊羹が違和感なく合わさって、絶品である。
「ほんま、美味しそうに食べるなあ。うちまで幸せになってまうわ」
ソーダ水を飲みながら、リョクは満足そうな笑みを浮かべる。ソーダ水は本来夏の飲み物のようだが、リョクは年中飲んでいるらしい。
「……」口に残ったシベリアの余韻を、しっかりと憶える。甘く、しっとりとした舌触り。甘さは、カステラも羊羹も控えめで、重くない。だからこそ、何個でも食べられそうな気がする。
「呉羽ちゃん?」
「これ、作れないかな」
「え?」
リョクが、きょとんとした表情で見つめてくる。「どういうことや?」
「あ、ごめんね」呉羽は匙を置き、リョクに向き直る。「このシベリアを、わたしも作れないかなと思ったの」
「ほう?」
リョクは身を乗り出し、呉羽に迫る。思わず、「ち、近いよ!」と口走る。指摘されたリョクは、「ああ、ごめんなあ」と言いながら、席に座り直した。あまり反省しているようには見えない。
「あんた、菓子作りの趣味があるんやな」
「うん。都でも、市に行って、お菓子をよく売ってたんだよ」
その言葉に、リョクは目を見張る。
「……それ、大丈夫やったん?」
心配されている。すぐにそう感じられる声音だった。
「……」
「うちは、永夜の都に行ったことがないけん、何も言えんけど、そんなことして、他の『永夜の民』は、何も言わんかったん?」
呉羽は、しばしの沈黙ののち、「ううん、蔑まれたし、いやな思いも、いっぱいしたよ」と告白した。
「陰口は当たり前、石を投げられたことだってあるもん。ほら」
呉羽は袖をまくって、腕を見せる。そこには、最近できたのであろう傷が、白い肌に痛々しく残っていた。
リョクは、眉をひそめる。
「それでも、いつか分かり合えるんだって、信じてたの。『永夜の民』も、『有夜の民』も……みんな一緒に」
でも、だめだったの。呉羽は続ける。
「わたしに石を投げて、暴言を吐いて……もう耐えられなくて、消えたくなった時、助けてくれたのが、セキだったの」
「セキが……?」
リョクは、驚いたような顔をしている。
「セキが、わたしに手を差し出してくれて、〝ともだち〟だって、言ってくれて……それが、すごくうれしかったの。わたしを、『有夜の民』であるわたしを、ともだちだって思ってくれる人がいるんだって……」
言葉にすると、あの時の感情があふれだし、目頭が熱くなる。あの時の感情を、きっと一生忘れることはない。そう断言できるほど、あの時の言葉は、呉羽の心を救ったのだ。
「……まさか、セキがそんなことをするなんてなあ」
リョクは、ソーダ水をストローでかき混ぜながら、しみじみとした様子でつぶやく。「うちのなかのあいつは、自分以外の生き物に興味がない、ある意味猟奇的な奴やと思っててんけど」
「え?」
今度は、呉羽がぽかんとする。人としての常識を疑う点はいくつもあったが、猟奇的だとか、そういったことを見受けられなかった。
「やっぱり、セキにとってあんたは、とくべつな存在なんやな。あいつの笑った顔、人生で一度も見たことなかったわ」
そう語るリョクの表情は柔らかい。次いで、「話してくれたんやし、うちもちょっと話そっかな」と言った。
「話すって、リョクのこと?」
「そうや。……不思議に思たやろ? 『永夜の民』のくせに、感情が豊かやけん」
それは、確かにその通りだ。呉羽の中の『永夜の民』は、いつだって、氷のように冷たい顔と、うつろな瞳をしている。だが、リョクはどうだ。瞳こそうつろだが、その表情は、『有夜の民』と大差ないではないか。
「うちな、母親は『永夜の民』やったんやけど、父親は——『有夜の民』やったんや」
呉羽は、息を呑んだ。
「父親言うても、顔は知らんで? あの人、口を割らんかったし」
「……お母さんは、どうなったの?」
「ツキモノになったわ。ほんで、いまもどっかで彷徨っとる」
あっけらかんと答えるが、顔は全く笑っていない。
「それでも、隊のみんなは何にも言わへん。うちを、ひとりの人として見てくれとる」
やから好きやねん、あそこが。リョクの言葉からは、その真意が読み取れる。
——わたしにとっての博士が、リョクにとっては隊のみんななんだ。
そう思うと、リョクにとって、隊員たちがどれだけ大切な存在なのかが分かる。
「……湿っぽい空気にして、ごめんなあ。そや、これが終わったら屯所に行って、帰りに菓子のことが載っとる本でも買うたらええわ」
「それはいい考えだね。いまから楽しみだなあ」
「できたらうちにも食べさせてな。辛口評価したるけん」
冗談っぽく言うリョクは、たしかに『永夜の民』とは思えない。だが、どんな彼女であろうと、呉羽の対応や気持ちが変わることはない。
——ここでは、『永夜の民』も『有夜の民』も、一緒に暮らしていけるんだ。
それが無性に嬉しくて、呉羽はいますぐにでも走り出したい気分だった。
屯所の敷地は、真昼間とは思えないほど静かで、閑散としていた。そもそも、帝都で暮らす『永夜の民』は、数えるほどしかいない。ゆえに、敷地は昼夜問わず閑散としているらしい。
隊員は、セキを含めて二十人程度しかおらず、そのうち四人が非番。なので、万年人手不足に頭を抱えているらしい。その証拠に、入り口には門があるだけで、警備員もいない。『永夜の民』は老いることも死ぬこともないので、多少の無茶ができるのが救いだった。いや、必須条件が『永夜の民』だから人手不足なわけなので、まったくもって救いではないのだが。
「セキは隊長やけんな、建物の二階にある、ひろーい執務室におるはずやで。さ、早く会いに行っといで」と、リョクは言った。
「え、ひとりで?」
「あかんの?」リョクは、ぽかんとしている。「やって、せっかくの非番に、上司の顔見たくないやん。階段上ってすぐのところにあるけん、すぐにわかるやろ。ドアプレートも掛かっとるし」
「ええ……」何がなんでも投げやりすぎやしないかと、呉羽は思う。こういうところが、『永夜の民』らしいとすら思える。
これ以上話しても無駄だろうし、腹も立ってきたので、だんだんと音を立て階段をのぼり、リョクと別れた。後ろから、「待っとるけんなあ」と聞こえてきたが、無視してやった。
リョクの言うとおり、執務室は、階段を上って正面にあった。金色の板——ドアプレートにも、『隊長・執務室』と書かれている。
扉をノックすると、「誰ですか?」と返ってくる。無論、セキの声だ。
「セキ、わたしだよ。入ってもいい?」
「……呉羽さん?」
扉の奥で、物音が聞こえて、扉が開けられる。セキはどこか嬉しそうな顔をして、呉羽を迎えた。
「来てくれたんですね、嬉しいです。さあ、どうぞ中へ」
執務室は、リョクの説明通り、広くて日当たりがいい。両側の壁には年季の入った書架が隙間なく設置され、同様に書物が詰められていた。書架の真ん中は、棚のようになっており、物を収納できる仕組みになっているらしい。その他には、大きくて横に長い机と椅子が一台ずつだけある、殺風景な部屋だった。だが、呉羽にとっては、あまり問題ではなかった。
「わああ! 書物がいっぱいある、すごい!」
永夜の都にいたころから、書物を読み、写本を作り続けていた呉羽にとっては、ここは魔性の空間であった。見たことない本の数々。きっとこれらには、呉羽が知らないことが山ほど書かれているのだろう。そう思うだけで、好奇心がとめどなく溢れてくる。溢れてくる胸の高鳴りに、身体が抑えきれず、左右にある書架を、走りながら往復する。
「ねえ、ここにある本、いくつか借りてもいい? 写したら返すから」
「構いませんよ、どうぞご自由に」
「本当!? やった! さーて、どれから借りようかなあ」
呉羽は上機嫌で、気になる題名のものをいくつか抜き取る。ふと、近くの棚が開いているのに気づく。奥の方に何かある。——なんだろう。
そっと棚を開けると、赤い紐が結ばれた、古ぼけた長方形の箱が入っていた。埃は被っていない。呉羽は好奇心に負け、紐をほどく。そして、そっと箱を開ける。入っていたのは、一本の扇だった。相当古そうだが、まだまだ使えそうだ。呉羽そっと取り出し、箱を床に置いた。ゆっくりと、扇を広げる。
「わ、あ……」
そこに描かれていたのは、美しい星空であった。金砂銀砂で創られた天の川は、光を当てると命が宿ったようにきらめく。まるで、夜をそのまま切り取ったような、美しい扇。だが、何か胸騒ぎがする。
——これ、どこかで……。
見たことがある。どこだったか、思い出せない。
「それがどうかしましたか?」
後ろから声をかけられ、呉羽は体をびくりと震わせる。セキが、口許にわずかな笑みを張り付けて、呉羽を見つめている。思わず、つばを飲んだ。
「え、っとね。この棚の中にあって、綺麗だなあって……」
「そうですか」セキは淡々と言う。「よければ差し上げますよ」
「え、いいの? だって、大切なものなんじゃ……」
呉羽の問いに、「構いません」と、セキは即答する。
「いまは、それよりも大事なものがありますから」
「大事なもの?」
呉羽は首をかしげる。セキは、笑みを返すだけで、何も言ってこない。
「……ありがとう。一生大事にするね」
「……はい、そうしてください」
そう言ったセキの表情が、愁いを帯びたのを、呉羽は見逃さなかった。「セキ、大丈夫?」
「はい、私は大丈夫ですよ」
先ほどの愁いなどなかったように、セキは抑揚なく言う。
「……そう」
それ以上何も言い返せずに、呉羽はうつむく。
手中の扇は、その美しさゆえか、呉羽の胸を貫き、息苦しさを催した。
♢
この泉は、『永夜の民』の始祖である姫君が、舞を舞ったとされる泉に似ている。
泉のほとりにひとり、博士は佇んでいる。
おかしなものだ。悠久の時の中、記憶のほとんどが消え失せる中、あの一時の記憶だけは、いまなお残っているのだから。
——巫女王は、何をしているんだ。
呉羽がいなくなった日。博士は、驚きとともに、安堵感を覚えた。ツキモノは、未だ増え続けている。農村地帯などは特に顕著で、ツキモノの数が、民の数を超えようとしていた。皆、ツキモノになることを恐れ、『月下大社』へと赴き、『月の女神』の加護を受けようとしている。不思議なことに、この泉や、屋敷の方にツキモノが現れたことは、二千年間、ただの一度もなかった。そもそも、『永夜の民』は、この辺に近づきたがらない。だからこそ、博士はあの屋敷で暮らしている。自分の使命を、全うするためだ。
その時、正面から、一羽の烏が飛んでくる。
「……慈鳥」腕を前に掲げると、慈鳥はそこに着地した。遠く離れた帝都から飛んできたとは思えないほど、ぴんぴんしている。大した烏である。
「久しいな、慈鳥。元気にしているか?」
慈鳥は何も答えず、ただじっとこちらを覗き込むだけ。——無駄な話は結構、という事か。
「……ツキモノの数が増え続けている。このままでは、都にいる『永夜の民』は、皆ツキモノになってしまう。無論、私も」
慈鳥が、控えめに鳴く。続けろ、という事だ。
「——巫女王が、ツキモノになりかけているんだ」
ふたりの間に、強い風が吹き込む。ただの烏と、人の会話だというのに、やけに重々しい。
「巫女王がツキモノになってしまえば、彼女が『永夜の民』にした者や、その子孫は皆ツキモノになってしまう。そうなってしまうのも、時間の問題だろうな」
ツキモノになる。それは、『永夜の民』がもつ神力が消失し、代わりに、忘れ去られていた感情を思い出すことだ。いまの『永夜の民』の永遠は、巫女王のもつ神力のおこぼれでしかない。そんな巫女王がツキモノになり、神力が消失すればどうなるのか。わからぬ者はいないだろう。
巫女王がツキモノになった暁には、すべての『永夜の民』が、ツキモノになってしまうだろう。
——ただひとり、例外を除いて……だが。
「慈鳥、頼みがある」博士は、腕に止まる慈鳥に頼む。「ないとは思うが、呉羽を都に入れるのはやめてくれ。そして——」
ひと拍おいて、
「あの子に、〝思い出させない〟でくれ。真実を知れば、あいつが何をするのか分かったもんじゃない」
と、言った。慈鳥が、博士を見つめ続けている。侠気を宿した瞳だと思った。
「……不思議か? 感情を失くした『永夜の民』のくせに、捨て子ごときに情を抱いて」
その瞬間、博士の瞳に、星屑のような光があふれ、まるで蛹が羽化し、中の蝶が羽を広げるように、表情が顔いっぱいに広がる。
そして、文字通り、微笑んだ。
「——愛しているんだ、あの娘を。我が子のように」
その日の夜、夕餉の片づけが一段落したころに、セキは帰ってきた。
「おかえりなさい。もうご飯食べ終わっちゃったよ」
玄関まで迎えに行くと、
「私は食事を必要としませんから、安心してください」
淡々とそう言った。
「まったく、食べないと元気が出ないでしょ。いくら死なないからって、食べないのは身体に悪いよ」
「はい、そうですね」
分かってなさそうだ。呉羽は唇を尖らせる。博士は、文句を言いつつも食べてくれていたので、全く食事を摂ろううとしないセキには、不満が募る。
——明日こそは食べてもらわないと。
もしかしたら、おいしさに目覚めて、自分から進んで食べてくれるようになるかもしれない——なんて、『永夜の民』である彼には、通用しない理論である。だが、呉羽は意地でも食事を摂ってもらう気満々なのだった。
その日の夜、呉羽は昼間に貰った扇を眺めていた。呉羽に与えられた部屋は、文机と衣桁、押し入れの中に布団があるだけの、簡素な部屋——他も、大体そんな部屋ばかりだ——だったが、景色がよく、延々と続く竹林の先に、帝都の明かりがよく見えた。その障子戸からわずかに漏れる光に、扇の装飾を当てる。金砂銀砂が、星屑のように輝いている。その美しい意匠を見るたびに、奇妙な懐かしさが胸を貫き、息が詰まる。
——やっぱり、見たことがある。
だが、頭に霞がかかったようで、思い出せない。だが、この懐かしさは、気のせいではない。まるで、胸中をかき混ぜられるように、気分が悪い。
そんなことを思っていると、セキが部屋に入ってきた。声ぐらいかけてほしいのだが、何度言っても何度かに一回はそのことを忘れるそうで、もう諦めていると、雲母が言っていた。
「呉羽さん、気分はどうですか?」
「……あんまり良くないかも」
誤魔化そうかとも思ったが、自分の嘘が壊滅的に下手なのは自覚しているので、正直に話した。セキは、目をしばたたく。
「何か、気にいらないことでもありましたか?」
「ううん、ただ……」手中の中にある扇に目線を移す。「これを見てると、なんだか不思議な気分になるの。その、うまく説明できないんだけど」
「そうですか」とつぶやき、セキは障子戸を開ける。冷たい風が、室内に流れ込む。今晩は一段と冷える。呉羽はそばに畳んでおいた羽織に袖を通した。
「月が、綺麗ですねえ……」
「うん、綺麗」
月だけは、永夜の都でも、帝都でも変わらない。それ以外は、すべてが違う。
「帝都はどうですか」
セキの問いに、
「とっても素敵だよ。綺麗なものも、おいしいものも、便利なものも、たくさんあるもん」
と答えた。帝都の発展ぶりは、呉羽が思う何倍もすさまじいものだった。この発展を見れば、永夜の都が、いかに俗世から切り離されているかが分かるというもの。
「『永夜の民』は、悠久の時を生きます。そんな彼らには、文明の発展などという言葉は似合いませんよ」
セキは、皮肉っぽく言う。「月にいたころから、ずっとそうでした」
「……ねえ、月ってどんなところだったの? 永夜の都みたいなところなの?」
「そうですねえ……いまはどうかわかりませんが、概ね呉羽さんの考え通りでしたね。ただ、『有夜の民』の発展の速さに、『永夜の民』は全く対応してませんでしたね。彼らは、地上の人間と大差ありませんから」
「そうなの?」
「ええ、月に住んでいるだけで、普通の人間と変わりません」
なるほど、と思う。
「じゃあ、わたしもみんなと同じ、人間なんだね」
「そうですね。認識的にも、『有夜の民』は普通の人間ですよ。特別なことは何もありませんね」
呉羽は、そこで思う。「ねえ、じゃあ『永夜の民』は?」
「え?」
「『永夜の民』は、やっぱり、人間じゃないの?」
その問いに、セキはしばしの間沈黙する。そして、「ええ、そうですね」と答えた。
「私たち『永夜の民』は、妖と呼ばれ、いまもむかしも揶揄されています。当然です。どれだけ痛めつけても、心の臓を撃ち抜いても、首を刎ねられても、死なず、最後にはツキモノという化け物になってしまう。こんな存在を、妖と呼ばずして何と呼ぶのか……」
気丈に振る舞ってはいるものの、セキが無理をしていることはすぐにわかった。きっと、悠久の時の中で、つらい経験を何度もしてきたのだろう。本人は、忘れているかもしれないが。
「……セキは、化け物じゃないよ」
セキの手を取り、呉羽はそう言った。その手には、わずかなぬくもりがあった。
「ツキモノだって、化け物じゃない。あれは悲しい人だから」
セキは、すべてを諦めきったようにうつむく。
「少なくとも、あなた以外には化け物ですよ、ツキモノは」
「信じられないな。でもたしか、ツキモノを祓うって言ってたもんね」
やっぱり、みんなにとっては危ないから? 呉羽は問う。
「そうですね。都に住んでいる『永夜の民』は知らないようでしたが、ツキモノは人を襲うんです。怪我人も多く出ています」
呉羽は息を呑んだ。
「あなたは本当に不思議な人です。ツキモノに襲われず、そして、私の凍りきった心も溶かしてくれる」
呉羽の手を強く握り返し、ずいっと顔を近づけてくる。思わず、呉羽はたじろぐ。
「呉羽さんは……」握っていた手の力を緩め、セキは視線を障子戸の向こうに移す。「もし、私たちと同じ永遠になれるとしたら、あなたも永遠を望みますか?」
「……」その問いに、呉羽は答えない。ただ、セキの方をじっと見て、微笑むだけ。たったそれだけだったのに、セキには呉羽の思いが伝わったようだ。
「これからも、私とずっとずっと‥‥‥一緒にいてくださいね」
にこやかに笑うセキの姿を見て、呉羽は胸が痺れたようになる。
それと同時に、いてもたってもいられなくなるような胸騒ぎがした。
夜も更け、静まり返った屋敷の台所で、呉羽はひとり、カステラに生地を作っていた。餅菓子は何度も作ったことがあるが、カステラのような菓子を作ったことはなかったので、とても新鮮な気分だった。リョクの話によると、カステラは、西洋の菓子が母体になってできたものらしいので、呉羽が見たことがなかったのも納得だ。
卵、上白糖、蜂蜜、みりん、すべて初めて使うものばかり。帰りに買った本で作り方を何度も確認しながら、ひとつひとつ丁寧に工程を重ねていく。最初は感じていた緊張と不安は、作っていくうちに薄れていき、代わりにむくむくと好奇心が生まれてくる。このとろみのある生地が、果たしてあんな風に柔らかくなるのか。なるとしたら、どうやって柔らかくなるのか。気になってしょうがない。
夢中になって調理を続けていると、背後から物音が聞こえ、振り返る。そこには、夜着の雲母と黒曜が扉の外から覗いていた。
「入っておいで」と促すと、顔を見合わせた後、戸をそっと開け、呉羽に駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、邪魔するつもりはなかったんです」
「雲母にたたき起こされてきてみれば、台所に明かりがついてたから、消し忘れかと思って来た」
「ううん、気にしないで。こちらこそ、起こしちゃってごめんね」
「い、いえ、そんな!」と、雲母は慌てて頭を下げる。「邪魔したのはあたしたちの方です! すぐにお暇しますので」
「待て、そんなに慌てるんじゃあない」
黒曜は、窘めるように言う。「好意で入れてもらったのに、その言い方はよくないだろう。せめて何をしてるのかぐらい訊けばどうだ?」
ひと息で言い切って、黒曜は呉羽に向き直り、「それで、こんなに遅くまで何をしてるんだ?」と尋ねる。
「ちょ、ちょっと、黒曜! そんな風に聞く方が失礼でしょう」
「知らん。それに、もう十分失礼なことはしただろう。今更だ」
雲母を適当に言いくるめ、黒曜は、「で、なんなんだ?」と再度訊く。
「昼間に、喫茶店で食べたシベリアを作ってるの。できるようになったら、都にいたときみたいに街で売ろうと思って」
ふたりは驚いた様子で呉羽を見る。何だろうと思い、呉羽は声をかける。「ね、ねえ、わたし、何か変なこと言っちゃった?」
「ええっ!? そ、そんなことありませんよ、ただ……」
「そんなことをして、なんになるんだ」雲母の言葉に被せるように、黒曜が言い放った。声が低いのも相まって、気圧されそうになる。
「黒曜……!」
「雲母は黙っておけ」
黒曜の静止の声に、雲母は唇を引き結ぶ。
「……お前は何も知らないようだから、教えてやる。帝都は——いや、人間の世界ってのは、お前が思ってるほど甘い世界じゃあない。『永夜の民』にはない欲望と、醜い感情で溢れたやつらだ。そんな奴に菓子を売ったとして、何もいいことなんてない。売っている奴らは、生活のためにやってるんだ、お前みたいなお遊びじゃない」
「……」
「この世界で、お前が虐げられることは、たぶん、ない。だが、『永夜の民』は——」
「もうやめてっ!」
もう耐えられないといったふうに、雲母が声を上げた。
「黒曜はいつもそう、心配してるなら、もっと言い方を考えてよ! そんなことを言ったって、相手を傷つけるだけなんだよ! そんなことしてたから、黒曜は捨てられたんでしょう! この馬鹿!」
言いたいだけ言って、雲母は台所から飛び出した。
「待って!」呉羽はそれを追いかける。後ろで黒曜の声が聞こえたが、いまの呉羽には答える余裕なんてなかった。
夜の竹林は、本当に真っ暗で、何も見えない。星まで届きそうなほど高く、そのうえ葉までつけている竹は、月の姿を巧妙に隠し、光を遮っている。だが、竹林暮らしの呉羽にとっては、大した障害にはならなかった。今日ほど竹林育ちであることを感謝したことはない。竹林内に、道らしき道はない。竹と竹の間を何とか走って追いかける。
しばらく走って、呉羽はやっと開けた場所に出た。さして広くはないが、人ひとりなら広々とした場所だ。そこでは、今まで竹の葉によってさえぎられていた月光も入ってくる。
その場所に、雲母はうずくまっていた。呉羽が来たことに気づくと、雲母はこちらに顔を向けた。
「雲母ちゃん、迎えに来たよ。いっしょに帰ろう」
むっつりと黙り込んだまま、雲母は口を聞こうとしない。そんな雲母の隣に腰を下ろし、呉羽は空を眺める。丁度、月がきれいに見える場所だった。
「見て、月がきれいに見えるよ」
雲母は、黙って月を見つめる。その瞳には、郷里への哀愁の念が含まれているような気がした。
「……わたしね、さっきも言ったけど、永夜の都にいたころも、お菓子を作って、売りに行ってたんだ。誰も買ってくれなかったけど」
「……誰も買ってくれないなら、なんで売ってたの?」
やっと雲母が口を開いた。泣きじゃくったのか、少し鼻声で、機嫌が悪そうだった。
「だって、いつか分かり合えると思ってたもん。だから、誰に何と言われようと、わたしには関係なかった。誰に何と言われようとも、わたしはお菓子を作り続けるよ」
雲母は、呉羽の顔を見つめる。そして、すぐに視線をさらした。
「わたしね、都に友達がいたの。春ちゃんっていうんだけど……」
「友達って、『永夜の民』でしょう? ほんとに友達だったの?」
流石に失礼ではないかとも思ったが、セキの態度や都にいた他の『永夜の民』を見る限り、ごく自然な感情だと思い直した。
「友達だよ。春ちゃんは、わたしにとって、妹みたいな子だった」
呉羽は、正直気がかりだった。あの日、『永夜の民』に惨いほどの迫害を受けているところを見られ、『有夜の民』であることもばれた。そんな自分を見て、春がどう思ったのか。もう一度だけあって、話がしたかった。もう、叶わない願いだろうが。
「雲母ちゃんはね、春ちゃんに似てるの。だから、いろいろ思い出しちゃうんだ」
「……そう」
「で、その子が大好きだったお話があるんだけど、聞いてくれる? もしかしたら知ってるかもしれないけど」
「……はあ、別にいいけど」
言質は取れた呉羽は、書物を音読するように語り始める。
「——むかし、むかし、まだ月にいくつかの國があったころのお話。あるところに、孤独な姫君がいた。姫君は、今上帝の娘という、高貴な姫君だったが、わがままな性格のせいで、みんなから嫌われていた——」
♢
——むかし、むかし、まだ月にいくつかの國があったころのお話。あるところに、孤独な姫君がいた。
姫君は、今上帝の娘という、高貴な姫君だったが、わがままな性格のせいで、みんなから嫌われていた。
いつも同い年の従者の少年を連れ、まるで帝のように振る舞っていたのだ。
姫君のわがままは止まることを知らなかった。
ある時は、贅沢のために、民から財産を搾りとった。
ある時は、気にいらない臣下の首を刎ねた。
ある時は、罪人に殺し合いをさせた。
ある時は、隣国を手中に収めるために、戦争を起こし、多くの民を虐殺した。
帝は、娘の可愛らしさに目がくらみ、姫君の傍若無人な行いを止めなかった。
臣下は誰も姫君を止められなかった。止めれば、自身が首を刎ねられることになるからだ
民はいつ自分が殺されるのかもわからない恐怖と、いつ飢え死ぬかわからぬ恐怖とで、怯えて生きていた。
そんな人々を救うため、ひとりの青年が立ち上がる。青年は、姫君が手中に収めようとした国の王子だった。
王子は自国の兵士や民、さらには姫君の国の民衆や臣下たちをも抱き込んで、革命を起こしたのだ。
帝は、もはやこれまでかと、宮殿に火をつけ、自ら果てた。
姫君は捕まり、皆の前での公開処刑が決まった。
処刑当日、多くの民衆が罵詈雑言を飛ばす中、姫君は笑っていた。
そして、その首が落とされ、その首を旗の先端に突き刺した王子は、その旗を掲げ、
「この女が、この国を滅ぼしたのだ!」
そう民衆に向かって叫んだ。
この革命の一連の流れを、『悪星の変』という。
〝悪〟は、皆が姫君を悪と呼んでいたことから、〝星〟は、処刑された姫君の名からつけられたものだという。
この後、月はこの王子によって統一され、平和な世が訪れたという。
♢
一通り語り終えると、雲母は、深く息を吐き、唇を尖らせた。
「その春っていう子、このお話のどこが好きだったの? 全然いいお話じゃないよ」
「月に、そんないいお話なんてなかったと思うよ」
この話も、博士の部屋からくすねて読んだ本の中に入っていたものだ。
「……自業自得の話だね」
雲母は、月に視線を移す。呉羽は雲母の顔を見つめたまま、「そうだよね」と言って、月へと視線を移す。ふたりは、しばらく無言のまま、月を眺めた。
「そろそろ帰ろう。寒いよ」
「……黒曜に合わせる顔がない」
「そんなこと——」
ないと言おうとした時、背後から足音が聞こえてきて、反射的に振り返る。竹の緑の中に、よく目立つ赤と黒が見える。
「セキ、黒曜さん……」
「黒曜……」
セキと、黒曜だった。セキは相変わらず無表情だが、黒曜はばつの悪そうな顔をしている。
「ふたりとも、やっぱりここにいましたね」と、セキは黒曜に言う。当の本人は視線をすっとそらす。「私を同行させた意味、ありましたか?」
——そういうわけじゃないだろうに。
セキは、やはりどこか足りていないと、呉羽は思う。
「まあ、呉羽さんが見つかったので、私は先に戻りますね」
「え、でも……」
この状態のふたりを置いていくのか。
「大丈夫ですよ、私を信じてください」
セキが、優しく呉羽の手を取る。そして、否応なく手を引き、もと来た道を引き返した。
屋敷に戻った呉羽は、また台所に引っ込んで、菓子作りを再開したが、あのふたりのことを考えると気が気ではなく、集中できなかった。
しかし、翌日、多少ぎくしゃくはしていたものの、ふたりは喧嘩前と同じように仲良く仕事をしていた。
「玉兎は、番同士の意識が強いので、喧嘩してもすぐに仲直りしますよ。むしろあそこに私たちがいたら邪魔になっていましたよ」
というセキの言葉で、呉羽は納得すると同時に、あのふたり夫婦であることを知って、驚きを隠せなかったのだった。
菓子作りの特訓の甲斐あって、呉羽の菓子作りの腕は確実に上がっていた。
辛口評価をすると意気込んでいたリョクは、宣言通り駄目なところは駄目と指摘し、逆に、良いところはとことん褒めてくれた。その対応は、呉羽の向上心に火をつけ、その才覚を開花させた。
「ああ、慈鳥」
夜、カステラの焼き上がりを待っていると、窓枠に慈鳥が止まった。
「お、やっほーやで、慈鳥」とリョクが軽快に挨拶をする。しかし、慈鳥は無視して、呉羽のそばから離れない。毎回これなのだから、流石に気の毒だ。
「冷たい烏やで、慈鳥」
「はあ、リョク、お前もいい加減諦めろ。間違いなく嫌われているぞ」と、黒曜は横槍を入れる。
「やっぱり、『永夜の民』なのがあかんのかなあ……」
慈鳥は『永夜の民』によく虐められていたので、嫌われていても無理はないと、リョクは言う。
「さあ、どうなんだろうね」
呉羽も、その辺はよくわからない。リョクの言う通りなのか、はたまた単純な好みの問題か。
「……なあ、ずっと思ってたけどよ、その〝慈鳥〟って名前やめろよ」
慈鳥は、実は烏の別称だ。つまり、烏を慈鳥と呼ぶのは、烏に向かって、烏と呼んでいるのと大差ないのである。
「別にいいじゃん。だって、慈鳥も嫌がってないんだもん」
そう言う問題じゃないと言いたげな顔をしながら、黒曜は立ち上がり、「セキを迎えに行く」と台所を出て行った。
「素直じゃないやつやな」戸を見ながら、リョクはつぶやく。「うちも完成品味見したら帰るわ。もう遅いし」
「うん。今回のはうまくできる気がするよ」
今度こそ、おいしいに決まっている。売りに行くのが楽しみで楽しみで仕方がない。
「なあ、もしできたら、セキにも渡してくれんか? まあ、言わんでも渡すやろうけど」
リョクは、一瞬、愁いを帯びた表情を見せる。
「呉羽ちゃんなら、セキを変えられる。変えてくれると信じとるけん」
「……どういうこと?」
わけがわからず、呉羽は聞き返す。セキを変えるとは、一体どういうことだ。
「『永夜の民』ゆうても、感情のある人間と交流しとったら、多少の感情はあるはずなんや。他のみんなもそうや。やけど、セキにはそれがないんや、無かったんや、全く」
やけどな、とリョクは話を続ける。
「あんたとおる時だけは違うんや。普通の人間になったみたいに、幸せそうに見えるんや」
リョクは頭を下げ、呉羽に乞う。
「救ってほしいんや、セキを。永遠の夜の中から」
「……」縋りつくように訴えるリョクに、呉羽ゆっくりと近づき、その頭を撫でる。彼女の悲しみを払うように、慈しむように。
「大丈夫、約束するよ、絶対に。でもね、わたしは、セキだけじゃなくて、リョクも、みんなも救いたい」
はっとしたように、リョクは顔を上げる。
「みんなを幸せにしたいの。みんなを愛したいの、だから、セキだけなんて、言わないで」
その瞬間、リョクの瞳から、堰を切ったように涙があふれ、零れ落ちる。リョクの三百年分の涙は、止むことなく、彼女の頬と膝を濡らし続けた。
翌朝、切ったシベリアを並べ、思わず笑みがこぼれる。これから、このシベリアを売りに行くのだ。
——待ってて、すごくおいしいんだから。
呉羽は、シベリアと満面の笑みを引っさげて、屋敷を飛び出した。
その日は快晴だった。モダンな煉瓦造りの建物が並び、文明開化を謳歌する人々を守るようにそびえる。
そんな街の隅で、ひとりの少女が澄んだ声で宣伝をしていた。
「シベリアですよーっ! おいしいおいしいシベリアはどうですかーっ! 出来立てほやほやですよ!」
少女の声に惹かれ、道行く人々は、物珍しそうに、視線を向ける。
故郷では、見向きもされないどころか、蔑んで目で見られ、陰口をたたかれていたのに、ここにはそんな人いない。皆、自分を差別しないのだ。それだけで、嬉しくて嬉しくて仕方がない。
「さあさあ皆さん! 出来立てが食べられるのはいまだけですよーっ! いかがですかーっ!」
少女は声を張り上げ、人々に呼びかける。その感覚は、まるで、自分もこの社会の一員として認められたような、そんな感覚だった。
時計の針が空高く蒼穹を指し示す頃、
「もし、もし、お嬢さん。そのお菓子、わたしにひとつ、買わせてくれませんか?」
女性の声に、呉羽はそちらを振り返る。声をかけてきたのは二十歳前後の女性で、背中を覆い隠すほど長い髪に、右目にガラスがはめられた飾り。
「あれ? もしかしてあなた……」
途端に、女性はぱっと表情を明るくする。
「覚えてくれていましたか? この前、わたしのお店に来ていましたよね、覚えていますか?」
帝都に来た最初の日、リョクと出会った仕立て屋にいた人だ。もちろん覚えている。帝都に来て初めて、人間だと認識した人なのだから。呉羽は「もちろん」と答えた。
「わたしのことも、覚えててくれてうれしいよ。ありがとう」
「いえ、とっても可愛らしい方だったので、覚えていただけです。それに——」
女性は少し言い淀んで、
「『永夜の民』と一緒にいる人は珍しいので、つい」
「……」
女性の言葉に、呉羽は内心動揺する。
——そういうものなの……?
たしかに、『永夜の民』は人との絆や関わりを重視しない。いまの言葉も、そういう意味なのだろうか。
「……それよりも、そのシベリアはいくらなの?」
沈んだ空気を振り払うように女性が尋ねる。金額を教えると、女性は巾着から代金を取り出し、呉羽に握らせる。
「はい、どうぞ」と、呉羽はシベリアを手渡した。お礼を言って受け取ると、女性はそれを齧る。
味わうように何度も咀嚼した後、女性は微笑んで、
「とってもおいしいわ」
そう言った。
その瞬間、女性の言葉で、呉羽の心は溢れ、目頭がかっと熱くなる。こぼれそうな涙をこらえ、呉羽は笑顔で「ありがとう!」と答えた。
女性は目をしばたたかせた後、彼女によく似合う、ふっと微笑むような表情を見せた。
女性は、華世という名で、三百年近く続く、仕立て屋、『ききょう』の十二代目の店主だと言った。
華世の好意で、仕立て屋に上がらせてもらった呉羽は、奥の部屋に通された。煎茶を出してもらい、それと一緒に、シベリアをいただく。食べながら、「本当は売り物だけど、まあいいよね」と言うと、華世はくすりと笑った。
「あ、そうだわ」
何かを思い出したように、華世は後ろの棚を漁る。——なんだろう。
「これを見て」と、華世は呉羽の横に、一枚の単衣を広げた。桜色と、空色が境界線でうまく溶け合った、美しい色合いのもので、四季草花の柄がとっても華やかだ。
「わああ! とっても可愛いね。これ、華世ちゃんが仕立てたものなの?」
「ええ、もちろん」
自信満々に答える。実際、それほど出来が良かった。
「これがどうかしたの?」
「これ、呉羽ちゃんに似合うと思って仕立てたの。よかったら貰ってくれない?」
「そんな……! こんな素敵なもの、受け取れないよ」
「あら、そう?」
「当たり前でしょ!」
こんな人だったのか、この華世という人物は。あの常識がない言動は、『永夜の民』特有と言うわけではなかったのか? 呉羽は困惑する。
「まあ、冗談は置いておいて。それなら、呉羽ちゃんにお願いがあるんだけど、聞いてもらってもいい?」
♢
「みなさーん! 美味しいシベリアはいかがですかーっ!」
澄んだ呉羽の声が、仕立て屋『ききょう』周辺に響く。ここは、これまでの場所よりも人通りが多い。
「何だいお嬢ちゃん。菓子売りかい?」
店の前を通った中年の男性が、呉羽に声をかけた。背広姿が映える長身の男性だった。
「はい! 店主さんのご厚意で、売らせてもらって、ます!」
「ほう、そうかね。売っているのはシベリアかい? 妻の好物だ。どれ、味見してみよう。いくらだい?」
「わあ! ありがとうございます」
代金を受け取り、シベリアをひと切れ差し出す。
「おお、うまいじゃないか! 文句なしだ」
男性の賛辞に、呉羽は花が綻ぶような笑みを浮かべる。「本当ですか! ありがとう、ございます!」
「妻の分も買って帰りたい。あとふたつ買わせてもらうよ」
「はーい」
こみあげてくる笑みを堪えながら、準備をする。
「時に、君の来ている着物は美しいね。もしかして、この仕立て屋のものかい?」
「は、はい、そうなんです! 店主さんの仕立てる着物は、どんな着物よりも素敵だし、ずっと着ることができますよ」
「ほう」
「だから、今度はぜひ、奥さんと一緒に来てくださいね」
呉羽がそう伝えると、男性はにやりと笑う。
「なるほど、それが目的か。これはやられてしまったな」
「え、い、いやあ……そ、そんなことありませんよ! わたしはただ、すごいんだぞーってことを伝えたかっただけで……」
あいかわらず下手な誤魔化し方だと、自分を卑下したくなった。男性はその様子を見て、面白そうに笑い声をあげた。
「君の望み通り、今度は妻と一緒に来よう。ありがとう」
呉羽からシベリアを受け取り、男性はその場を後にした。
華世が提示した条件は、店の客寄せをしてもらうというものだった。
呉羽には、華世が仕立てた着物を着てもらい、店の目の前で、菓子を売ってもらう。そうすれば、自然と客の目が、仕立て屋にも向く。
「呉羽ちゃんは美人だし、良く通る声をしてるから、自然と人の目を惹きつけるの。だからお願いね」
そう語った華世は、呉羽に最低限の敬語と、立ち振舞いを叩き込んだ。もともと容量がいい呉羽は、たった一日でこれらを習得した。まれに言葉遣いに迷うこともあるが、誤差の範囲内だと言っていた。
——意味をはき違えているような気がするけれど……。
とやかく問い詰めたら拗らせそうなので、あえて口にしたりはしないが。
始めてから一週間がたつ頃には、呉羽に声をかけてくれるような人も増え、客足も増えだした。いまとなっては、みんなに愛される看板娘だ。
「呉羽ちゃんのおかげで、仕事がたくさん入って嬉しいわ。その分忙しくなるけれど」
「わたしも、そろそろ作れるお菓子を増やさないと」
ここでは、多くの人が呉羽を認めてくれる。もともとこの店の常連だったという人も、呉羽の作った菓子を買ってくれるようになったし、毎日新顔の客もやってくる。そして、客はみんな、呉羽に笑顔を向けてくれる。「おいしい」「また買いに来る」と。
どれも、永夜の都ではありえなかった光景だ。
「呉羽ちゃんは、みんなに愛されているわ」優し気な声色で、華世は言う。「常連さんも、みんな呉羽ちゃんを慕っているのよ」
「そうなの? 嬉しいなあ……」
自分なんて、死んでしまった方がいいと、あの時は思った。でも、それは間違いだったのだ。ここなら、たくさんの人が、呉羽を受け入れてくれる。愛してくれるのだ。
その多幸感に酔いしれながら、宙を仰ぐ。その時、
「おうおう、やっとるなあ、呉羽ちゃん」と、陽気に声をかけてきたのは、リョクである。見回りついでに寄ったのだという。
「うん! 大盛況だよ!」
満面の笑みで答えると、リョクは目を細めて、「そりゃよかったわ」と笑う。ふたりきりが良いと思ったのか、華世は店に戻った。
「それより、とんでもない量やなあ……」
とんでもない量。呉羽は、横に置いていたシベリアに目をやる。今日は、昨日の倍ほどの量を準備していた。
「しかしこの量は……本気で売らなあかんのちゃうか?」
「ううん、大丈夫だよ! 昨日だって、お昼ごろには全部売れたんだから!」
「おお、ほんまに大盛況やんけ」リョクは、しみじみといった様子で言う。「呉羽ちゃん、愛されてるんやなあ」
「えへへ、さっき華世ちゃんにも言われたの」
上機嫌で話していると、店から出てきた夫人が、明らかに嫌そうな顔をして、こちらをねめつけてきた。
「やだ、なんで『永夜の民』がいるのよ」
明らかな侮蔑を含んだその言葉に、リョクの顔から、表情が剥がれ落ちる。呉羽は、意味が分からず困惑する。その夫人は、よく呉羽に声をかけてくれる、気さくな女性だったからだ。
「……」リョクは、黙ったまま、夫人を見つめ続ける。その瞳は、呉羽が都で見てきた『永夜の民』と全く同じ、冷え切った瞳だった。
「ただでさえ不気味だというのに、まさかこんなところにも現れるだなんて……。気分が悪いわ」
夫人の表情が、人を蔑む醜悪な表情に変わってゆく。この光景、呉羽には見覚えがある。永夜の都で、『永夜の民』に蔑まれた時だ。あの時の人々は、心底呉羽を蔑み、虐げた。それと、まったく同じだ。
——なんで、なんで……。
そんな思いが、呉羽の胸中を渦巻く。
「……はあ、人に助けられとる身分で、よう言うなあ、華族サマ」
「ふん、自分たちの責務も全うできず、毎日のようにツキモノによる被害を出しているというのに、よく言えましたわね」
耐えきれなくなって、呉羽は視線をそらす。そこで、気づいた。周りにいた人々も、皆リョクに視線を向けていたこと。そして、そのまなざしには、夫人と同じ、侮蔑と軽蔑が含まれていることに。それに気づいた呉羽は、戦慄した。いままで大切だと、愛したいと思っていたすべての人々が、醜悪で、とてつもなく卑劣なものに思えたから。
夫人は、扇で口許を覆い、リョクを睨みつけ、
「永遠を生きる化け物。とっととこの帝都からいなくなりなさい」
と吐き捨てた。呉羽は、苦しくて苦しくて仕方がなかった。夫人の発する言葉全てが、都にいたころの迫害を思い出すものばかりだからだ。
「……そうか、ならいい。消えてやるわ」
リョクは立ち上がり、「ごめんなあ、呉羽ちゃん」と謝罪し、その場から立ち去った。
「ああ、呉羽さん。お可哀想に、あのような下賤な『永夜の民』に無理やり会話に付き合わされていただなんて……」
夫人の声は、いまの呉羽には届かない。ただ、彼女の香水の強い香りに、強烈な吐き気を催した。
その日の店じまいの準備中、華世が話を切り出した。
「……ねえ、呉羽ちゃん。ひとつ訊きたいことがあるんだけど」
どくりと、鼓動が嫌な音を立てる。「な、何?」
「今日、呉羽ちゃんのところに来てたのって、『永夜の民』よね。彼女だけじゃない。初めてこの店に来た時に、一緒にいた彼もよ」
セキのことだ。呉羽はうなずく。
「最初にこの店に一緒に来てた人は、『永夜の民』だったわよね? 呉羽ちゃんと彼は、どんな関係なの?」
「どういうって……」
セキと呉羽は〝ともだち〟だ。それ以上でも、以下でもない。だが、うまく言葉にできない。
「……。……た、助けてもらったの。だから、いっしょに」
やっとのことで、それだけ絞りだした。それについて華世は大して言及はせず、「そう」とだけ答えた。
——なんで、答えられなかったんだろう。
その答えが見つかる訳もなく、呉羽はうつむいた。
その光景を、見ている人物がいるとも知らずに。
♢
その日の夜、セキのために残しておいたシベリアを手に、彼の部屋へと向かう。
セキにも食べさせたかったのだが、ここ数日、彼も忙しかったようで、ゆっくりと会える時間がなかったのだ。
——セキ、喜んでくれるといいな。
どんな顔をするだろうか。喜ぶだろうか、それとも驚くだろうか。いや、食事には興味がないと、文句を言うかもしれない。だが、そうは言いつつも、呉羽が作ったものならと、最後には食べてくれそうである。
期待で高鳴る鼓動を抑えつつ、呉羽はセキの部屋の前まで来て、声をかける。
「セキ、いる? 入っていい?」
「……呉羽さんですか。少し待っていてください」
ほどなくして、戸が開けられ、セキが顔を出す。どこか、やつれているように見えた。
「……大丈夫? 疲れてない?」
「はい。大丈夫です」
本人はそう言うが、大丈夫ではなさそうである。心配になって、呉羽は「そうは見えないよ。やつれて見える」と食い下がった。
「私は『永夜の民』です。疲れることはありませんよ」
セキの眉間に、しわが寄る。だが、いまのセキの状態を、気のせいだと片づけられるほど、呉羽は鈍感ではない。
「なんで、辛いならそう言えばいいのに。なんで言ってくれないの? わたしたちは〝ともだち〟なのに……」
その瞬間、セキの顔が歪んで、泣き出しそうな顔になる。その顔に、呉羽は息を呑んだ。そんな表情を、『永夜の民』である彼が作れるとは、到底思えなかったからだ。
「……じゃあ、あの時は何で、私を〝ともだち〟だって、言ってくれなかったんですか……っ!」
「え、あ……」
あの時。きっと、昼間の華世との会話だ。
——見られてたの……?
総身が冷える思いがした。
「……私は、もう必要ありませんか?」
セキの瞳が、哀しげに揺れる。呉羽は、胸が槍でえぐられるような苦しさを覚えた。
「あなたは、私とは違います。ここでなら、あなたはその優しい声と笑顔で、誰からも愛されます。でも、私は、私は……!」
「セキ……」
「私は、あなたが幸せならそれでいいんです。ねえ、呉羽さん」
いまにも泣きだしそうな顔をしながら、セキは呉羽の瞳を見る。どろりとした、汚泥のような光を宿した目だった。
「あなたは、幸せですか……?」
「……わたしは」
——幸せなわけがない。
先ほどまでの多幸感が、砂城のように崩れていく。セキがこんなにも苦しそうなのに、幸せなわけがないだろう。なぜそんなことも分からないのだ。
「……なんで、なんでそんなこと言うの?」
崩れ去った多幸感の代わりに、辛くて悲しい、複雑な感情が、呉羽の心に根を張る。
「やっぱり何にもわかってないじゃない! 出会ってからいままで、何にもよ! わたしはみんなに幸せになってほしいって思っているのに、セキがそんなので、わたしが本当に幸せだと、本気で思ってるの?」
その複雑な感情が、呉羽の熱を、目頭に集める。それを見て、セキがはっとした顔をする。
「あっ……、違います。私は、私は……」
「もういい。わかってくれるまで、セキにはお菓子を食べさせないから! ちゃんと自分の頭で考えて!」
言いたいだけ言って、呉羽は部屋の前から走り去る。
「あ、いやだ! 呉羽さん……!」後ろからセキが呼び止めてきたが、呉羽が振り返ることはついになかった。
♢
深夜、久方ぶりの睡眠は、その身を蝕む闇によって終わりを告げた。
布団から芋虫のように這いずり出て、力を振り絞って立ち上がる。『永夜の民』であるセキは、普通よりも夜目が利く。それと、今日は月がよく見えるので、明かりはいらなかった。
何とか姿見の前までたどり着いたセキは、帯を解き、夜着を脱ぐ。彼の、白皙で、細くしなやかな身体が露わになる。
しかし、その白い肌は、黒い靄に侵食されていた。左胸を中心に、左腕から腹までもが、もはや人としての原形を留めていなかった。無事なところも、いつ使い物にならなくなることか。考えるだけで恐ろしい。
——なりかけているのだ。ツキモノに。
当たり前だ。セキとてもう、二千年以上の時を生きているのだ。『有夜の民』だったころの限界なんて、とうのむかしに越えていたのだ。こうなってしまっては、いつツキモノになってもおかしくない。
——私でこれとは、なら、あいつはもっと……。
「うっ、ああ……!」そうする間にも、靄はセキの身体を蝕み続ける。それと同時に、かつては感じていた感情も、蘇る。
何がきっかけだったか。——ああ、そうだ。
「呉羽さんと、〝再会〟して……彼女を、助けて……」
あの瞬間、セキの中に、新しい何かが生まれた——いや違う。セキの中で眠っていたものが、蝶のように羽化したのだ。それと同時に、物憂げで、色褪せたこの世界も、鮮やかな色を持ったのだ。——それなのに。
「私は、呉羽さんを怒らせてしまった。嫌われたかも、しれない……」
その間も、セキの身体は、靄に犯されてゆく。その浸食は、耐え難い悲しみと苦しみが伴う。
——この苦しみは、私への……僕への罰ですね。
そう思えば、この感情に正当性がつくような気がして、いくらか気分が楽になった。
「……『生きていて、ごめんなさい』」
我が身を蝕む永遠の〝呪い〟を、セキはただ、じっと見つめることしかできなかった。
翌日、鬱々とした気分のまま、無理やり笑顔を作って、菓子作りに専念する。しかし、やはり思ったような笑顔は作れず、朝一番に会った黒曜にすら心配され、挙句の果てに休むように言われる始末。
セキと言い争いをした後、悔しさと苦しさで涙があふれ、一晩中泣きじゃくった。そのせいで、ほとんど眠れなかった。最悪の気分だった。こんな気分になったのは、『月下祭』の前日に、博士と言い争いをしてしまった時以来である。
——博士は、どうしてるんだろう。
いきなりいなくなった不良娘に憤りを感じているのか。それとも、どこをほっつき歩いているのかと、呆れて待っているのか……。果たしてどちらだろう。いまとなっては、知る由もない。
昨晩、『……私は、もう必要ありませんか?』と言った時の、セキのあの表情が忘れられない。きっと、セキは不安なのだ。呉羽が多くの人から愛され、自分のもとから離れていくのが。
——そんなこと、絶対にありえない。
呉羽は、心の底から、本心でそう言える。あの時、助けてもらえた瞬間から、ずっと一緒にいると決めているというのに。信じてもらえていないのか。そう考えると、寂しさが込み上げてくる。
「はあ、こんなんじゃだめだな」
呉羽は両頬をたたいて喝を入れ、出来上がった菓子を並べていった。
その時、戸がすっと開き、雲母と黒曜が入ってきた。
「呉羽ちゃん、大丈夫? 昨日はずっと泣いてたみたいだけど……」
「えっと……」なんと言い返せばいいのか、呉羽はたじろぐ。すると、見兼ねた黒曜が「リョクから聞いてんだよ、誤魔化すんじゃないぞ」と釘を刺してきた。そう言われてしまえば、もう何も言い返せない。
「呉羽ちゃんには言えなかったんだけど、もうこの際だから、言った方がいいかなって」
「……帝都での、『永夜の民』のこと?」
呉羽の問いに、黒曜がうなずき肯定する。
「『永夜の民』は、知っている通り、死ぬことはない。心の臓を引きずり出されても、四肢が切断されても、もちろん、首を刎ねられてもだ。それは、ツキモノだって同じだ」
呉羽は、脳裏に残る、黒い靄を思い出す。
「帝都にいる『永夜の民』は、ツキモノを祓う。だがそれは、この世から消してるんじゃない、あくまで追い払っているだけなんだ」
死なないから、それしかないんだ。黒曜の瞳が、どんどん暗くなっていく。
「だから、『永夜の民』の存在も、結局はその場しのぎにしかならないんだよ。追い払っているだけだから」
その話を聞いて、呉羽は、ツキモノが消されていないと知って、不謹慎と分かりつつも、ひどく安心した。
呉羽にとってツキモノは、悲しい存在なのだ。人としての形を失った、悲しい生き物。
——でも、それは救いではない。
「ツキモノは、人を襲う。なぜかは分からない。そんなやつらから人々を守るために存在している『永夜の民』が、ただ追い返しているだけ。そんな状況だ、『永夜の民』を、役立たずと言うやからも出てくる。そのうえどんな手を使っても殺すことができない存在……人間どもが、忌み嫌う理由もわからなくはない」
「みんなは、ツキモノが死なないことを知らないんじゃないの? それを知ったらきっと——」
「そんな単純じゃないに決まっているだろう。人々に甚大な被害を出しているツキモノの正体が、『永夜の民』だと知られても見ろ。いままで以上に迫害がひどくなることが目に見えてるだろうが」
呉羽は、呆然とした。あまりにひどすぎる。『永夜の民』は、毎日のようにツキモノと戦っているというのに、そんなのはあんまりではないか。『永夜の民』も、生きている時が違うだけで、みんなと何も変わらないのに。
「……不思議だね。永夜の都では、『有夜の民』だって、わたしは蔑まれたのに、こっちでは『永夜の民』が蔑まれてる」
「生き物ってのは、古今東西変わらないもんなんだよ。たとえそれが、永遠を生きる人ならざるものであってもな」
呉羽は、返す言葉が見つからず、黙り込む。黒曜も、言いたいことを言いきったのか、そのまま黙り込んだ。
「……セキは、あたしたちの恩人だよ」
長い沈黙を破ったのは、雲母だった。その声は、どこか震えていた。
「月の都で、つかえていた主人に毎日のように打擲されて、地上に捨てられたあたしたちを、拾ってくれたのはセキだった。あの人は、あたしたちにとっては、いくら感謝しても感謝しきれないぐらい、素敵な人なの……!」
「雲母ちゃん……」
「だからお願いします。セキを救ってほしいんです。彼はずっと、ずっと苦しみ続けてるんです。それを救えるのは、呉羽ちゃんしかいないんだよ」
藁にもすがるような声音の雲母の横で、黒曜も頭を下げ、「俺からも頼む」と頼み込んだ。
いつだったか、リョクにも同じことを言われた。セキを救ってほしいと。
呉羽の答えは、あの時と同じだ。
「大丈夫、約束するよ、絶対に。でもね、わたしは、セキだけじゃなくて、みんなも救いたい」
ふたりは、驚いたような、いや困惑したような表情をする。
「みんなを幸せにしたいの。みんなを愛したいの、だから、セキだけなんて、言わないで」
その言葉に、ふたりは顔を見合わせ、顔を紙のように崩して泣き始めた。
そんなふたりの頭を、呉羽は絶えずに撫で続けた。このふたりが、少しでも早く、笑顔になれるように。
♢
重い体を引きずるように歩きながら、セキは見回りをする。
気分が悪い。それが、この身を蝕む靄のせいだということは明確だ。こんな状態でツキモノなんかに出られたら、たまったもんじゃない。だが、だからといって、対処に応じなければ、人間たちに文句を言われることも、また明確なのだ。
あれから、呉羽とは顔を合わせていない。否、合わせないよう、彼女のことを避けていた。ただでさえ昨日のことでぎくしゃくしているというのに、こんな状態で顔を合わせたら、また要らぬ心配をかけてしまう。
——私は、呉羽さんに嫌われたのでしょうか。
嫌われたって、文句を言えないようなことをしてしまった自覚はある。怖かったのだ。帝都に来て、誰からも愛されるようになった呉羽が、いつか自分のもとから離れていくのではないかと。周りの人々のように、彼女もまた、自分を拒絶するのではないかと。そう考えただけで、生きるのをやめたくなるほど苦しいのだ。だから、あんなことを言ってしまった。
「私は、何も変わってませんね」
喧噪の中に消えるひとりごとに、セキはまた、重たい息を吐く。
その時、遠くから悲鳴が轟いた。
今日も、呉羽の菓子は、飛ぶように売れていく。新顔の客に挨拶と、店の宣伝をする。その奥では、華世がひっきりなしに動いている。
「今日もありがとう。明日もまた来るよ」
「呉羽さん、これからも頑張ってくださいね」
そんな言葉が、呉羽を励まし、活力へと変えてゆく。多くの人から愛されるのは、こんなにも幸せなのか。
——やっぱり、都を出てよかった。
だが、呉羽の心の隅には、セキへの心配が陣取っている。今日は日が昇らぬうちから仕事へ出てしまって、顔を合わせられなかった。会っても、気まずくなるだけ、そう考えればいいのかもしれないが、あいにく呉羽には、そんな楽観的な考え方はできなかった。
——帰ったら仲直りしよう、もちろんお菓子も持って行って……。
そんなことを考えていた時だった。
近くで、女性の悲鳴が轟く。あたりにいた人々は騒然としている。
——何かあったの……?
そう思っていると、ひとりの男性がこちらに走ってきた。
「ツキモノだあ! ツキモノが来たぞお! 早く逃げろ!」
男性の咆哮に、人々は一斉に逃げ出した。呉羽は、とっさのことで動くことができず、固まったまま。
「呉羽ちゃん、店の奥に避難しよう! ——呉羽ちゃん?」
「い、行かなきゃ……」華世の声は、いまの呉羽には届かない。自身の中にある使命感に身を委ね、呉羽はそのまま走り出した。後ろから華世の声が聞こえたが、振り返る暇はない。人の波に逆らって、呉羽はツキモノのもとへと走る。正確な場所なんてわからない。だが、この方角であることは分かるのだ。
何とか波を抜けると、呉羽はようやく、その姿を拝むことができた。
そのツキモノは、いままで見たことないほど、黒く、濃い。それが空を覆っているので、まるでこの世界全てが、真っ黒に染まったような錯覚に陥った。
「……ツキモノさん」呉羽は、ツキモノに語りかける。「どうして、人を傷つけるの? だめだよ」
ツキモノは、陽炎のようにぐにゃりと歪み、渦を巻くように動く。それを見ていた人々は、悲鳴にも似た声を上げた。
「だめだ! 逃げろ!」
「呉羽さん、逃げてください!」
呉羽を止める声。しかし、いまの呉羽に、そんなものは関係ないのだ。
いまこのツキモノを救えるのは、他でもない、呉羽だけなのだ。
ゆっくりと、呉羽はその腕を、ツキモノに伸ばす。原型がないそれは、呉羽の腕を優しく受け止める。
また、意識は遠のいていく。
♢
『どうせ、僕なんて、あなたの引き立て役でしょう?』
青年が、そんなことを言った。そんなことを言われて、驚きを隠せなかった。
『……どういうこと?』
しぼりだすように、それだけ訊いた。
『あなたは、僕なんかといなくても、誰かに愛してもらえるでしょう? なのに、こんな僕にまで優しくしてくれるだなんて……そんなの、僕を引き立て役だと思っているからに違いないって……』
『……違うよ』
その言葉を無視して、青年は、いまにも泣きだしそうな顔をして、
『でも、それでもいいんです。引き立て役でも、何でもいい。僕はずっと、あなたと一緒に居たいんです』
と、卑屈な言葉を吐く。
そしてまた、繰り返すのだ、『……生きていて、ごめんなさい』と。
そんな彼を、優しく腕の中に抱く。青年は、驚いたように固まる。
『わたし、あなたのことが大切だよ』
『あなたは、この世界で、誰よりも素敵な人だよ』
その言葉に、青年は堰を切ったように泣き始めた。
いままで流せなかった涙を、ここで流しきるように。
これまでの辛かった想いを、吐き出すように。
♢
我に返った呉羽は、ゆっくりと腕をツキモノから引き抜いた。
「ツキモノさん……あなたも、愛されたかったの?」
ツキモノが、何かを訴えるように、ぐにゃりと歪む。悲しんでいるように見えた。
呉羽は、先ほどまでツキモノに包まれていた手を、今度は伸ばす。あるかもわからない、ツキモノの顔に向かって。
「わたし、あなたのことも愛したいの。あなたも、わたしと同じ、孤独な人だから」
その瞬間、ツキモノが、濁った声を発する。いや、声ではなく、ただの音だ。だが、呉羽にとっては間違いなく声だった。
「……呉羽さん?」
その声に、呉羽の鼓動が早鐘を打ち始める。ねっとりとしていて、いやに耳に残る声。そして、呉羽の心の隅を陣取っていた人。
「セキ……」
あたりの人々が、再びざわつき始める。
ふたりは、しばらく見つめ合ったまま、ひと言も発さなかった。このひと時ですら、呉羽にとっては幸せだった。
しかし、そんなふたりの時間を打ち消すように、ツキモノが大きくうねる。
「く、呉羽さん、逃げてください……!」
セキの言葉もむなしく、呉羽の身体は、そのうねりによって跳ね飛ばされ、人混みのすぐ近くにたたきつけられる。
「呉羽さん!」
セキの、悲鳴にも似た声が響く。いますぐセキに駆け寄って、大丈夫だと伝えたいが、打ちつけたところが痛くて、起き上がることができない。着物も、砂ぼこりで汚れている。
「お、おい。何だあれは……!」
ふと、群衆のひとりが、ツキモノの方を指さした。指さす先では、ツキモノの身体が、砂のように消えかけていた。その動きも、どんどん鈍くなってゆき、最後にはほとんど動かなくなった。
完全に消えるその瞬間、呉羽の耳に、わずかに、
「……ありがとう」
という声が届いた。あれは、ツキモノの声、なのだろうか。あのツキモノは、救われたのか。
——どういたしまして。
そう、心の中でつぶやいた。
しかし、次の瞬間には、立錐の余地もないほどの人が、セキを取り囲んだ。呉羽の身を案じ駆け寄る人々の数よりも、そちらの方が圧倒的多い。
「お前! 『永夜の民』のくせに、なんで何もしなかったんだよ!」
「そうよ! おかげで呉羽さんが傷ついたのよ! もし大怪我をしてたらどうするつもりだったの!」
「そうだそうだ! この化け物! こんな役立たず、帝都からいなくなっちまえ!」
群衆のセキへの迫害は、徐々に苛烈さを増し、次第に石を投げるものまで現れた。セキは、黙ってそれを受け入れている。
「ああ……セキ、セキ……!」
その時、遅れて華世が、呉羽のもとへ駆け寄ってきた。呉羽を取り巻いていた人々は、華世がやってきたのを知ると、彼女が呉羽に近づけるよう、さっと距離をとる。
「呉羽ちゃん! 大丈夫? 大きな怪我とかしてない?」
「うん。あ、着物、汚しちゃった」
「そんなの、なんとでもなるからいいの。とにかく、呉羽ちゃんが無事でよかった……!」
安堵のため息をこぼす華世の横で、呉羽はセキの方を見つめる。
——助け、ないと。でも……。
呉羽の脳裏に、都での迫害の記憶がよぎる。あの時も、呉羽は石を投げられ、罵詈雑言を吐かれた。あの時の恐怖は、相当なものだった。もしいま、あの中に入ったら……。
そんなことを考えて、なかなか動けなかった。
その間も、セキへの迫害は苛烈を極め、しまいには背後から殴られ、その場に倒れた。
「……あ、ああ」かすれた声が、口からもれた。
——動いて、動いてよ……!
そう思っても、呉羽の身体は、その場に根を張ったように固まり、動かすことができない。
「……なんだよ、これ……!」
群衆のひとりが、震えた声で言う。よく見ると、セキの服が捲れ、脇腹が見えている。
その体は、靄となり、原形を留めていなかった。
その光景を見た群衆は、皆そろって、恐れ戦く。
その靄は、間違いなく、先ほどまで暴れていた、ツキモノのそれだった。
「おいおい、嘘だろ……」ひとりの男が、狼狽した様子で言う。「つまり、あのツキモノと『永夜の民』は、仲間、なのか?」
それは、ツキモノの正体が『永夜の民』だと、皆の前でさらされた瞬間だった。
「おい! どういうことなんだよ! じゃあ、いままでのは全部、茶番だったっていうのか!? お前らのせいで、いったいどれだけの人が不幸になったと思ってるんだ!」
「そうよ! わたしの夫を返してよ!」
「おらの仕事仲間もだ! 全員お前が殺したようなもんじゃないか!」
人々のつもりに積もった怒りが、尋常ではなかった迫害を、さらに加速させてゆく。セキは、先ほどまでの、すべてを受け入れるような顔ではなく、もう、この世のすべてに絶望したような顔をしていた。
呉羽もまた、絶望に近い何かを感じていた。
——セキが、ツキモノに……?
いつからだ。わからない。呉羽と出会う前から? 腹の底から気分が悪くて、何も考えられない。不安と、苦しみが綯い交ぜになって、胸中を渦巻いている。
不意に、セキの口元が動いているのに気づいた。そして、わずかに、いやかすかに、セキの声が聞こえてきた。
「……『生きていて、ごめんなさい』」
「……」呉羽は、周りの静止を振り切り、ゆっくりと立ち上がり、群衆の方へと近づく。人と人の合間をうまくすり抜けて、着実にセキの方へと近づく。
——いまのセキは、むかしのわたしと同じ。
人々からの迫害に耐え切れず、生きるのをやめたくなるほど絶望している。そんなセキに、いまの呉羽ができること。
それはもう、ひとつしかない。
呉羽がセキの前に立つと、いつかと同じように、怒号も罵詈雑言もぴたりと止む。
その場にしゃがみ込み、呉羽は、セキの青い瞳を見つめる。その瞳には、優しくて、でも、いまにも泣き出しそうな顔をした少女が映っている。
「あ、ああ……く、れは……さん」
セキは、信じられないといったような顔をして、こちらを見ている。
「セキ、昨日はごめんね。心にもないこと言っちゃって」
いま一番言いたかったことだった。セキは、わずかに首を横に振る。
「……ねえ、生きていてごめんなさいなんて、言わないでよ。考えないでよ」
そして、呉羽は、手を差し出した。あの時、セキがそうしてくれたように。セキが、涙を必死にこらえているのが分かる。いまはもう、それすら愛おしい。
——わたしはもう、セキが愛おしくてたまらない。
かける言葉は、もう決まっている。堪えきれなかった感情が、幾筋もの涙となって、呉羽の頬を伝う。
「だって、わたしたちは、〝ともだち〟なんだから」
その瞬間、セキの努力もむなしく、堪えていた涙が堰を切ったようにあふれ、彼の輪郭を描いて崩れ落ちた。
人々は、涙を流すセキを見て、ひどく困惑している。
「お、おい、『永夜の民』が泣いてるぞ……!」
「『永夜の民』に、感情なんてないんじゃ……」
「だ、騙されるな! きっと俺たちを欺こうとしてるに違いない!」
様々な憶測が飛び交う中、呉羽はセキの顔を見つめ続ける。絶望に染まり切った顔に、ぽっと灯がともったような、そんな表情だと思った。
「呉羽さん、なんで、私は、あなたにひどいことを……」
「……されたっけ? 覚えてないんだけど」
とぼけて見せると、セキは一瞬きょとんとして、すぐに微笑んだ。
「ああ、私の勘違いだったみたいです。ごめんなさい、呉羽さん」
「ううん、別にいいよ」
あまり意味のない会話をして、呉羽は、
「ねえ、とりあえず逃げた方がいいと思うんだけど、どう思う?」
と、セキに問うた。それに、セキは考えるようなしぐさをして、「はい、そうしましょう」と答え、呉羽の手を取った。
その瞬間、呉羽は、群衆めがけて走り出す。その勢いを利用して、セキは立ち上がり、ともに走り出す。
「お、おい! ちょっと待てよ!」
後ろから呼び止められるような声が聞こえたが、聞こえていないふりをした。いまはただ、セキの手のぬくもりを、感じていたかった。
「ねえ、これからどこに行きますか?」
「ん-、やっぱり、わたしたちの屋敷じゃない? 聞かなきゃいけないことが山ほどあるもの」
「おやおや、これは、帰ってからが怖いですねえ……」
くすくすと笑うセキは、なにやら楽し気だ。まったく怖そうではない。
「もうっ! 帰ったら覚悟しておいてよね! すぐにお説教してやるんだから!」
呉羽の澄んだ声と、セキのねっとりとした声が交互に響く。その声を辺りに溶かしながら、ふたりは屋敷まで走り続けた。
屋敷に帰ってすぐ、何があったのかと、雲母と黒曜に絶叫された。
それはそうだ。なにせ、いまの呉羽は土ぼこりにまみれ、セキも打擲されたせいで、ぼろ布のようになっているのだから。早急に風呂を沸かしてもらい、身体を洗い流した後、ようやく落ち着いたふたりは、呉羽の部屋で、障子戸の先に見える、手色の景色を眺めていた。
「……やっぱり、たまには都の自然が恋しくなるな。山がね、線を引いたみたいに綺麗に見えるんだよ」
「へえ、それはいいですねえ」
そんな世間話を交えた後、呉羽は、「わたしね、思ったの」と、セキに話を切り出した。
「はい、なんでしょう」
「わたしね、最低だったなって」
セキが、息を呑む気配がした。気にせず話を続ける。
「セキがみんなにひどいことをされてる時、すぐに助けられなかった。怖かったの。あの時——都にいたときのことを思い出して」
あの時の迫害は、それに匹敵する、いや、それ以上にひどいものだった。セキはずっと、あのような迫害を受け続けていたのだ。それも、呉羽よりもずっと、長い時間、悠久とも思えるような時の中で。
——それなのに、わたしはすぐに救えなかった。
「セキは……あんな辛い思いをずっとしていても、わたしを助けてくれたのに、わたしは、わたしは……」
「呉羽さん……」セキの手が、呉羽の手を優しく包み込む。「そんなに自分を責めちゃだめですよ。あなたは何も悪くないんですから。それに、私だって、同じでしたから」
「え……?」
「私だって、あの時、あなたを助けるのが、怖かった。これまでこの帝都で、幾度も傷つけられてきましたから。体には何も残らずとも、心にはいつまででも残るんです」
それは、呉羽だって同じだ。蔑まれてきた時の記憶は消えない。呉羽はこくりとうなずく。
「でも、助けずにはいられなかったんです。言ったでしょう? 私は、呉羽さんに呪われていると」
「わたしに……」
呪われている。初めていわれたときは、ぴんとこなかったこの言葉。だが——
「……そうだ。わたし、セキにもお菓子を食べてほしくて、とっておいた分があるの。食べてくれる?」
「はい、もちろんですよ」
呉羽は台所まで走り、セキのためにとっておいたシベリアを持って、部屋へと戻る。
「くふふ、知っていましたが、やはり呉羽さんの作った菓子は美しいですね」
菓子を受け取ったセキは、まじまじと見つめながら言う。それが気恥しくて、「た、食べないなら片づけちゃうよ!」と語尾を強くして言った。
「おっと、それは困りますね。では、盗られる前にいただきましょうかね」
匙でそっと切り分けると、それをゆっくりと口に運んだ。味わうように咀嚼した後、文字通り、満面の笑みを受けべて、
「……とっても、おいしいです」
そう言った。
——ああ、やっぱり。
誰に言われるよりも、セキに言われるのが、一番うれしい。
初めて呉羽の菓子を食べたのは、博士だった。しかし、味が分からないと、突っぱねられてしまった。それから数年がたって、春と出会って、彼女にも食べさせた。
まるで、この世の幸福をすべて感じたと思わせるほど喜んで、「おいしい」「ありがとう」と言ってくれた。あの時は、本当に嬉しくて、その後も菓子を作り続ける原動力になった。
だが、今回は、そのどれとも違う。
おいしい。そう言われた瞬間、その言葉で、呉羽の心は溢れたのだ。これまで感じたことがないほど胸が高鳴り、苦しいほどだった。でも、もっとそれを感じていたい。そんな感情。
いまなら、セキの放った、〝呪われている〟の意味も、なんとなく分かるような気がする。
——わたしも、セキに呪われている。
いまはもう、呉羽もセキと、同じ気持ちだから。
その時、下から、戸を激しくたたく音が響く。
「セキ! おるんやろ、一大事や! はよ開けえや!」
リョクの声だ。だだっという足音が聞こえ、次いで扉が開く音がする。おそらく、雲母だろう。
「な、なんですか! そんなに慌てて……」
「話はええけん、はようセキと呉羽ちゃんに会わせてくれや!」
ただ事ではない。ふたりは顔を見合わせ、急いで廊下に出て、階段を駆け下りる。
玄関には、困惑した様子の雲母と、あとから駆けつけてきたのであろう黒曜。顔を青くして、息を切らすリョク。そして、その後ろにもうひとつ、小さな影が。
「ふたりとも……」
息を切らしながら、リョクはふたりを交互に見る。そして、リョクは呉羽の双眸を見つめて、
「呉羽ちゃん、あんたに、会わせたい子がおんねんけど」
そう言うと、後ろにいた小さな影が、ゆっくりと姿を現した。
「……え」
それは、紛れもなく、永夜の都にいるはずの、春だった。普段から汚れていた頬や髪はいつのも増して汚れ、傷こそないが、着ていた藍染めの小袖は穴だらけになっている。
春は、呉羽の姿を見た瞬間、その瞳から、大粒の涙を流し始めた。そして、
「……助けて。とともかかも、他のみんなも、ツキモノになっちゃった……!」