屯所の敷地は、真昼間とは思えないほど静かで、閑散としていた。そもそも、帝都で暮らす『永夜の民』は、数えるほどしかいない。ゆえに、敷地は昼夜問わず閑散としているらしい。
隊員は、セキを含めて二十人程度しかおらず、そのうち四人が非番。なので、万年人手不足に頭を抱えているらしい。その証拠に、入り口には門があるだけで、警備員もいない。『永夜の民』は老いることも死ぬこともないので、多少の無茶ができるのが救いだった。いや、必須条件が『永夜の民』だから人手不足なわけなので、まったくもって救いではないのだが。
「セキは隊長やけんな、建物の二階にある、ひろーい執務室におるはずやで。さ、早く会いに行っといで」と、リョクは言った。
「え、ひとりで?」
「あかんの?」リョクは、ぽかんとしている。「やって、せっかくの非番に、上司の顔見たくないやん。階段上ってすぐのところにあるけん、すぐにわかるやろ。ドアプレートも掛かっとるし」
「ええ……」何がなんでも投げやりすぎやしないかと、呉羽は思う。こういうところが、『永夜の民』らしいとすら思える。
これ以上話しても無駄だろうし、腹も立ってきたので、だんだんと音を立て階段をのぼり、リョクと別れた。後ろから、「待っとるけんなあ」と聞こえてきたが、無視してやった。
リョクの言うとおり、執務室は、階段を上って正面にあった。金色の板——ドアプレートにも、『隊長・執務室』と書かれている。
扉をノックすると、「誰ですか?」と返ってくる。無論、セキの声だ。
「セキ、わたしだよ。入ってもいい?」
「……呉羽さん?」
扉の奥で、物音が聞こえて、扉が開けられる。セキはどこか嬉しそうな顔をして、呉羽を迎えた。
「来てくれたんですね、嬉しいです。さあ、どうぞ中へ」
執務室は、リョクの説明通り、広くて日当たりがいい。両側の壁には年季の入った書架が隙間なく設置され、同様に書物が詰められていた。書架の真ん中は、棚のようになっており、物を収納できる仕組みになっているらしい。その他には、大きくて横に長い机と椅子が一台ずつだけある、殺風景な部屋だった。だが、呉羽にとっては、あまり問題ではなかった。
「わああ! 書物がいっぱいある、すごい!」
永夜の都にいたころから、書物を読み、写本を作り続けていた呉羽にとっては、ここは魔性の空間であった。見たことない本の数々。きっとこれらには、呉羽が知らないことが山ほど書かれているのだろう。そう思うだけで、好奇心がとめどなく溢れてくる。溢れてくる胸の高鳴りに、身体が抑えきれず、左右にある書架を、走りながら往復する。
「ねえ、ここにある本、いくつか借りてもいい? 写したら返すから」
「構いませんよ、どうぞご自由に」
「本当!? やった! さーて、どれから借りようかなあ」
呉羽は上機嫌で、気になる題名のものをいくつか抜き取る。ふと、近くの棚が開いているのに気づく。奥の方に何かある。——なんだろう。
そっと棚を開けると、赤い紐が結ばれた、古ぼけた長方形の箱が入っていた。埃は被っていない。呉羽は好奇心に負け、紐をほどく。そして、そっと箱を開ける。入っていたのは、一本の扇だった。相当古そうだが、まだまだ使えそうだ。呉羽そっと取り出し、箱を床に置いた。ゆっくりと、扇を広げる。
「わ、あ……」
そこに描かれていたのは、美しい星空であった。金砂銀砂で創られた天の川は、光を当てると命が宿ったようにきらめく。まるで、夜をそのまま切り取ったような、美しい扇。だが、何か胸騒ぎがする。
——これ、どこかで……。
見たことがある。どこだったか、思い出せない。
「それがどうかしましたか?」
後ろから声をかけられ、呉羽は体をびくりと震わせる。セキが、口許にわずかな笑みを張り付けて、呉羽を見つめている。思わず、つばを飲んだ。
「え、っとね。この棚の中にあって、綺麗だなあって……」
「そうですか」セキは淡々と言う。「よければ差し上げますよ」
「え、いいの? だって、大切なものなんじゃ……」
呉羽の問いに、「構いません」と、セキは即答する。
「いまは、それよりも大事なものがありますから」
「大事なもの?」
呉羽は首をかしげる。セキは、笑みを返すだけで、何も言ってこない。
「……ありがとう。一生大事にするね」
「……はい、そうしてください」
そう言ったセキの表情が、愁いを帯びたのを、呉羽は見逃さなかった。「セキ、大丈夫?」
「はい、私は大丈夫ですよ」
先ほどの愁いなどなかったように、セキは抑揚なく言う。
「……そう」
それ以上何も言い返せずに、呉羽はうつむく。
手中の扇は、その美しさゆえか、呉羽の胸を貫き、息苦しさを催した。
♢
この泉は、『永夜の民』の始祖である姫君が、舞を舞ったとされる泉に似ている。
泉のほとりにひとり、博士は佇んでいる。
おかしなものだ。悠久の時の中、記憶のほとんどが消え失せる中、あの一時の記憶だけは、いまなお残っているのだから。
——巫女王は、何をしているんだ。
呉羽がいなくなった日。博士は、驚きとともに、安堵感を覚えた。ツキモノは、未だ増え続けている。農村地帯などは特に顕著で、ツキモノの数が、民の数を超えようとしていた。皆、ツキモノになることを恐れ、『月下大社』へと赴き、『月の女神』の加護を受けようとしている。不思議なことに、この泉や、屋敷の方にツキモノが現れたことは、二千年間、ただの一度もなかった。そもそも、『永夜の民』は、この辺に近づきたがらない。だからこそ、博士はあの屋敷で暮らしている。自分の使命を、全うするためだ。
その時、正面から、一羽の烏が飛んでくる。
「……慈鳥」腕を前に掲げると、慈鳥はそこに着地した。遠く離れた帝都から飛んできたとは思えないほど、ぴんぴんしている。大した烏である。
「久しいな、慈鳥。元気にしているか?」
慈鳥は何も答えず、ただじっとこちらを覗き込むだけ。——無駄な話は結構、という事か。
「……ツキモノの数が増え続けている。このままでは、都にいる『永夜の民』は、皆ツキモノになってしまう。無論、私も」
慈鳥が、控えめに鳴く。続けろ、という事だ。
「——巫女王が、ツキモノになりかけているんだ」
ふたりの間に、強い風が吹き込む。ただの烏と、人の会話だというのに、やけに重々しい。
「巫女王がツキモノになってしまえば、彼女が『永夜の民』にした者や、その子孫は皆ツキモノになってしまう。そうなってしまうのも、時間の問題だろうな」
ツキモノになる。それは、『永夜の民』がもつ神力が消失し、代わりに、忘れ去られていた感情を思い出すことだ。いまの『永夜の民』の永遠は、巫女王のもつ神力のおこぼれでしかない。そんな巫女王がツキモノになり、神力が消失すればどうなるのか。わからぬ者はいないだろう。
巫女王がツキモノになった暁には、すべての『永夜の民』が、ツキモノになってしまうだろう。
——ただひとり、例外を除いて……だが。
「慈鳥、頼みがある」博士は、腕に止まる慈鳥に頼む。「ないとは思うが、呉羽を都に入れるのはやめてくれ。そして——」
ひと拍おいて、
「あの子に、〝思い出させない〟でくれ。真実を知れば、あいつが何をするのか分かったもんじゃない」
と、言った。慈鳥が、博士を見つめ続けている。侠気を宿した瞳だと思った。
「……不思議か? 感情を失くした『永夜の民』のくせに、捨て子ごときに情を抱いて」
その瞬間、博士の瞳に、星屑のような光があふれ、まるで蛹が羽化し、中の蝶が羽を広げるように、表情が顔いっぱいに広がる。
そして、文字通り、微笑んだ。
「——愛しているんだ、あの娘を。我が子のように」
隊員は、セキを含めて二十人程度しかおらず、そのうち四人が非番。なので、万年人手不足に頭を抱えているらしい。その証拠に、入り口には門があるだけで、警備員もいない。『永夜の民』は老いることも死ぬこともないので、多少の無茶ができるのが救いだった。いや、必須条件が『永夜の民』だから人手不足なわけなので、まったくもって救いではないのだが。
「セキは隊長やけんな、建物の二階にある、ひろーい執務室におるはずやで。さ、早く会いに行っといで」と、リョクは言った。
「え、ひとりで?」
「あかんの?」リョクは、ぽかんとしている。「やって、せっかくの非番に、上司の顔見たくないやん。階段上ってすぐのところにあるけん、すぐにわかるやろ。ドアプレートも掛かっとるし」
「ええ……」何がなんでも投げやりすぎやしないかと、呉羽は思う。こういうところが、『永夜の民』らしいとすら思える。
これ以上話しても無駄だろうし、腹も立ってきたので、だんだんと音を立て階段をのぼり、リョクと別れた。後ろから、「待っとるけんなあ」と聞こえてきたが、無視してやった。
リョクの言うとおり、執務室は、階段を上って正面にあった。金色の板——ドアプレートにも、『隊長・執務室』と書かれている。
扉をノックすると、「誰ですか?」と返ってくる。無論、セキの声だ。
「セキ、わたしだよ。入ってもいい?」
「……呉羽さん?」
扉の奥で、物音が聞こえて、扉が開けられる。セキはどこか嬉しそうな顔をして、呉羽を迎えた。
「来てくれたんですね、嬉しいです。さあ、どうぞ中へ」
執務室は、リョクの説明通り、広くて日当たりがいい。両側の壁には年季の入った書架が隙間なく設置され、同様に書物が詰められていた。書架の真ん中は、棚のようになっており、物を収納できる仕組みになっているらしい。その他には、大きくて横に長い机と椅子が一台ずつだけある、殺風景な部屋だった。だが、呉羽にとっては、あまり問題ではなかった。
「わああ! 書物がいっぱいある、すごい!」
永夜の都にいたころから、書物を読み、写本を作り続けていた呉羽にとっては、ここは魔性の空間であった。見たことない本の数々。きっとこれらには、呉羽が知らないことが山ほど書かれているのだろう。そう思うだけで、好奇心がとめどなく溢れてくる。溢れてくる胸の高鳴りに、身体が抑えきれず、左右にある書架を、走りながら往復する。
「ねえ、ここにある本、いくつか借りてもいい? 写したら返すから」
「構いませんよ、どうぞご自由に」
「本当!? やった! さーて、どれから借りようかなあ」
呉羽は上機嫌で、気になる題名のものをいくつか抜き取る。ふと、近くの棚が開いているのに気づく。奥の方に何かある。——なんだろう。
そっと棚を開けると、赤い紐が結ばれた、古ぼけた長方形の箱が入っていた。埃は被っていない。呉羽は好奇心に負け、紐をほどく。そして、そっと箱を開ける。入っていたのは、一本の扇だった。相当古そうだが、まだまだ使えそうだ。呉羽そっと取り出し、箱を床に置いた。ゆっくりと、扇を広げる。
「わ、あ……」
そこに描かれていたのは、美しい星空であった。金砂銀砂で創られた天の川は、光を当てると命が宿ったようにきらめく。まるで、夜をそのまま切り取ったような、美しい扇。だが、何か胸騒ぎがする。
——これ、どこかで……。
見たことがある。どこだったか、思い出せない。
「それがどうかしましたか?」
後ろから声をかけられ、呉羽は体をびくりと震わせる。セキが、口許にわずかな笑みを張り付けて、呉羽を見つめている。思わず、つばを飲んだ。
「え、っとね。この棚の中にあって、綺麗だなあって……」
「そうですか」セキは淡々と言う。「よければ差し上げますよ」
「え、いいの? だって、大切なものなんじゃ……」
呉羽の問いに、「構いません」と、セキは即答する。
「いまは、それよりも大事なものがありますから」
「大事なもの?」
呉羽は首をかしげる。セキは、笑みを返すだけで、何も言ってこない。
「……ありがとう。一生大事にするね」
「……はい、そうしてください」
そう言ったセキの表情が、愁いを帯びたのを、呉羽は見逃さなかった。「セキ、大丈夫?」
「はい、私は大丈夫ですよ」
先ほどの愁いなどなかったように、セキは抑揚なく言う。
「……そう」
それ以上何も言い返せずに、呉羽はうつむく。
手中の扇は、その美しさゆえか、呉羽の胸を貫き、息苦しさを催した。
♢
この泉は、『永夜の民』の始祖である姫君が、舞を舞ったとされる泉に似ている。
泉のほとりにひとり、博士は佇んでいる。
おかしなものだ。悠久の時の中、記憶のほとんどが消え失せる中、あの一時の記憶だけは、いまなお残っているのだから。
——巫女王は、何をしているんだ。
呉羽がいなくなった日。博士は、驚きとともに、安堵感を覚えた。ツキモノは、未だ増え続けている。農村地帯などは特に顕著で、ツキモノの数が、民の数を超えようとしていた。皆、ツキモノになることを恐れ、『月下大社』へと赴き、『月の女神』の加護を受けようとしている。不思議なことに、この泉や、屋敷の方にツキモノが現れたことは、二千年間、ただの一度もなかった。そもそも、『永夜の民』は、この辺に近づきたがらない。だからこそ、博士はあの屋敷で暮らしている。自分の使命を、全うするためだ。
その時、正面から、一羽の烏が飛んでくる。
「……慈鳥」腕を前に掲げると、慈鳥はそこに着地した。遠く離れた帝都から飛んできたとは思えないほど、ぴんぴんしている。大した烏である。
「久しいな、慈鳥。元気にしているか?」
慈鳥は何も答えず、ただじっとこちらを覗き込むだけ。——無駄な話は結構、という事か。
「……ツキモノの数が増え続けている。このままでは、都にいる『永夜の民』は、皆ツキモノになってしまう。無論、私も」
慈鳥が、控えめに鳴く。続けろ、という事だ。
「——巫女王が、ツキモノになりかけているんだ」
ふたりの間に、強い風が吹き込む。ただの烏と、人の会話だというのに、やけに重々しい。
「巫女王がツキモノになってしまえば、彼女が『永夜の民』にした者や、その子孫は皆ツキモノになってしまう。そうなってしまうのも、時間の問題だろうな」
ツキモノになる。それは、『永夜の民』がもつ神力が消失し、代わりに、忘れ去られていた感情を思い出すことだ。いまの『永夜の民』の永遠は、巫女王のもつ神力のおこぼれでしかない。そんな巫女王がツキモノになり、神力が消失すればどうなるのか。わからぬ者はいないだろう。
巫女王がツキモノになった暁には、すべての『永夜の民』が、ツキモノになってしまうだろう。
——ただひとり、例外を除いて……だが。
「慈鳥、頼みがある」博士は、腕に止まる慈鳥に頼む。「ないとは思うが、呉羽を都に入れるのはやめてくれ。そして——」
ひと拍おいて、
「あの子に、〝思い出させない〟でくれ。真実を知れば、あいつが何をするのか分かったもんじゃない」
と、言った。慈鳥が、博士を見つめ続けている。侠気を宿した瞳だと思った。
「……不思議か? 感情を失くした『永夜の民』のくせに、捨て子ごときに情を抱いて」
その瞬間、博士の瞳に、星屑のような光があふれ、まるで蛹が羽化し、中の蝶が羽を広げるように、表情が顔いっぱいに広がる。
そして、文字通り、微笑んだ。
「——愛しているんだ、あの娘を。我が子のように」