右手が、彼女の腕をギリギリのところで掴む。しかし天満の片足もまた最上段を離れ、中空に投げ出されていた。咄嗟に空いている左手で、石段の中央に立つ手すりを掴む。直後、二人の体はそれに引っ張られて勢いよく階段上に叩きつけられた。

「ぐっ……!」

 全身のあちこちを強かに打ちつけ、たまらず呻き声が漏れる。しかし下へ転げ落ちるようなことはなかったため、大事には至らなかった。
 痛む箇所を押さえながら上体を起こし、段差に腰掛けると、天満は改めて声をかけた。

「大丈夫ですか、弥生さん」

 数段下で同じように腰掛けた弥生は、半ば放心状態で宙を見つめていた。

「……い、今。誰かが後ろから、私を突き飛ばしましたよね?」

 わなわなと震える両手で、彼女は自分自身をそっと抱きしめた。やはり今回も、彼女は己のとった行動を覚えていないようだった。

「いいえ。誰もあなたを突き飛ばしてなどいません。あなたはご自分でここまで歩いてきて、一人で飛び降りようとしていましたよ」

「そんなはずないです! 私、そんなことしません」

「なら、周りにいる皆さんに聞いてみますか? きっと誰もが、私と同じことを言うと思いますよ」

 弥生はハッとして辺りを見渡した。
 先ほどの一部始終を目撃していた周囲の参拝客たちは、何か異様なものでも見るような目を弥生に向けている。それらの視線すべてが自分を非難しているような気がして、弥生は青ざめた。

「……なんで、誰も信じてくれんのですか」

 彼女の瞳から、ぽろりと一粒の涙が落ちる。

「東雲さん。さっき言うてくれたやないですか。私のこと、信じてくれるって」

「ええ。あなたを殺そうとした犯人がいる。それは信じていますよ」

「なら、なんで……」

 絶望の色を浮かべる彼女の目が、恨めしげに天満を見上げる。
 そろそろ潮時だな、と思った。これ以上長引かせては、彼女の心が壊れてしまう。
 天満はまだ痛む腰を上げると、ゆっくりと彼女のもとへと歩み寄り、再び腰を下ろして互いの目線を合わせた。

「弥生さん。ここから先は、少しスピリチュアルな話をします。……あなたは、『呪詛(じゅそ)』というものを信じますか?」

「じゅそ?」

 聞き馴染みのない言葉に、弥生は眉を顰める。

「呪いのことです。人が人を呪い、殺そうとすること。物理的ではない霊的な力によって、人を死に追いやること。あなたが今置かれている状況が、その呪詛のせいだと言えば、あなたは信じてくれますか?」

 案の定、この突拍子もない話に弥生は困惑しているようだった。だが、今まで彼女の身に起こった出来事もまた現実離れしていたためか、彼女は一概にそれを否定できないでいる。

「私が、呪われている……? それ、本気で言っとるんですか」

「ええ、もちろんです。それに、それだけではありません」

 天満は羽織の袂をごそごそと漁り、中から小ぶりな手鏡を取り出すと、それを弥生の方へ向けた。小さな丸い鏡の中に、彼女の不安げな顔が映し出される。

「あなたは呪われている。そして、あなたを呪っている犯人というのもまた、あなた自身なのです」